江戸時代になって誕生した、山陰街道 (丹波街道) は、 古代の山陰道と異り、
京都から丹波を通過し、周防国に至る道になった。
石見国には、温泉津宿 ・ 郷田宿 ・ 浜田宿 ・ 三郷宿 ・ 益田宿 ・ 津和野宿があった。
出雲国の 今市宿を出て、出雲大社を御参りした後、
山陰道は、出雲阿国の墓の先で、左折する。
この一帯は大社町杵築西で、狭い道沿いに、背の低い町屋がひしめいている。
杵築南は、古くから門前町として発達してきた町である。
国道431号沿いで、古くからの旅館が今も営業している。
国道を南下すると、神戸川に架かる境橋を渡り、大島交叉点に出る。
国道9号に入り、西に進む。
神西沖町交叉点を過ぎると、道は南に向き、南下する。
日本海側に沿って南下を続け、多伎町に入る。
道は日本海に沿って、南西に進み、田儀を過ぎると、山側に入る。
この先、左手にある三瓶山は、国引きの神話の綱を結び付けた杭があった、という話が残る。
三瓶山の麓を抜けると、旧石見国の大田市になる。
「 大田は、延喜式には石見国最初の駅と記され、古くから水陸の要地であった。
石見銀山の繁栄と共に、山陰道、雲州・備後街道の追分として、更に海運の湊として、
市場町として栄えた。
石見銀山の入口である。 」
大田市駅前交叉点で、国道9号と別れ、左折して、JR大田市駅前に出る。
大田市内を抜け、県道46号で、石見銀山がある大森に向う。
「
石見銀山は、 北斗妙見大菩薩の託宣により、 銀を発見したと伝えられる。
大永六年(1526)、 博多の商人 ・ 神谷寿貞が、領主大内義興の支援のもと、
銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出し、
掘り出した銀の鉱石を、大田市の鞆ヶ浦や沖泊に運び、 博多湊などで売買された。
享禄三年(1530)、 当地域の領主 ・ 小笠原長隆が銀山を奪ったが、
三年後、大内氏が奪回に成功。
大内氏は、要害山の山頂に山吹城を構えて、 銀山守護の拠点とした。
銀山の権益をめぐり、戦いが起き、
天文六年(1537)、 出雲の尼子経久が石見に侵攻し、 銀山を奪った。
二年後に大内氏が奪還したものの、 その二年後に、尼子氏が石見小笠原氏を使って、
再び銀山を占領。
大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
大内義隆の死後、 毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、
最終的には毛利氏が勝利を収め、 石見銀山を完全に手中に収め、
山吹城に、吉川元春の家臣 ・ 森脇市郎左衛門を配置した。
天正十二年(1584)、毛利氏が、 豊臣秀吉に服属することになると、
銀山は、毛 ・ 豊両者の共同管理になった。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、 石見の江の川以東を中心とする地域を
天領(幕府直轄領)とし、
翌慶長六年(1601)、 初代銀山奉行として、 大久保長安を任命し、
銀山開発の費用や資材(燃料など)を賄うため、
周辺の郷村には、直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。
産出した灰吹銀は、大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出していたが、
冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、
大久保長安は、 大森から尾道まで、中国山地を越え、瀬戸内海へ至る、
陸路の街道 (銀山街道) を整備し、
尾道から京都伏見の銀座へ輸送するように変更した。
長安の後任の竹村丹後守は、 大森に奉行所を置き、 山吹城などの城は廃城になった。
石見銀山の経営は大森集落で行われ、 代官を始め、それを司る役人が勤務していた。
銀山の最盛期は江戸初期までで、その後が銅山として続いたが、 明治以降に廃山になった。
奉行所が置かれた大森地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、
また、石見銀山とともに、 世界遺産に登録されている。
石見銀山トンネルを抜けると、世界遺産センターがある。
世界遺産センターでは、石見銀山の採掘法や歴史などを知ることが出来る。
「
要害山は、石見銀山公園の奥にあり、最初は露天掘りで勧められていたが、
その後は岩盤に穴をあけて堀り進む方法になった。
坑道は 間歩 と呼ばれ、 最終的には七百を越える数といい、
世界遺産センターに展示されている鉱山町のパロラマは当時の姿をとらえている。
天文二年(1533)、 神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き、
海外渡来の銀精錬法の灰吹法を導入した結果、
効率的に銀が得られるようになり、 この方法は全国の鉱山に伝えられた。
灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀および徳川幕府による慶長丁銀は
基本通貨として広く 国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金) で、流通したばかりでなく、
明やポルトガル、オランダなどとの交易で、 銀が輸出された。
今は堀口跡の間歩が残っているだけである。」
世界遺産センターから県道46号を少し戻り、県道31号に入り、その先を左に入ると、
大田市大森町である。
徳川家康は、 関ヶ原の戦いに勝利後、 石見銀山の周囲を天領にし、 大森に代官所を置いた。
明治に入り代官所は廃止されたが、跡地に明治三十五年(1902)、邇摩郡役所の建物が建てられた。
現在は石見銀山資料館になっている。
正門の長屋門は、 文化十二年(1815)に建てられたもので、 当時の姿をとどめている。
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| 鉱山町レプリカ | 銀貨のレプリカ | 代官所跡(石見銀山資料館) |
大森集落を歩く。
熊谷家は、
幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め、 勘定を行う掛屋として任命された家柄である。
重要文化財に指定されている主屋は、 寛政十二年(1800)の大火後の享和元年(1801)の建築で、
幕府巡見使や町役人としての用向き、御用達などの商用や日常生活にあてられた。
三宅家の建物は、代官所の銀山方役所に勤務する銀山付地役人・田辺氏の居宅であった。
「 寛政十二年(1800)の大火以降の建築と思われるが、 通りに面して門、塀や露地門を構えて前庭を配置し、 大手口の上手に 式台を設けるなど 武家屋敷の形態を保っている。 」
柳原家は代官所の同心を勤めた武家である。
「
主屋入口および土間が左手にあり、 中央に式台付玄関が配置され、 座敷に続いている。
田の字型四間形式の間取りで、 一部二階が設けられている。
この二階は表から見ることが出来ない造りで、 大森の武家住宅に共通する形式である。
主屋の裏には 漆喰塗籠の土蔵が一棟ある。 」
江戸時代、 石見銀山付御料百五十余村は、支配上、六組に分けられていた。
十八世紀の中頃には大森には六軒の郷宿が設けられ、
公用で出かける村役人等の指定宿として、
また 代官所から村方への法令伝達等の御用を請け負っていた。
金森家は 文化七年(1810)まで 波積組の郷宿を務めていた泉屋の遺宅である。
建物は外壁が漆喰で塗込め、 軒瓦には家紋を入れるなど堂々たる風格を備えている。
灰吹法は鉛を昇華させるため、 鉱山労働者は早死で、 三十歳まで生きると御祝いされたといい、 亡くなった人を供養するため、 大森には多くの寺院が建てられたという。
その一つが羅漢寺で、 多くの羅漢像が岩肌に彫られている。
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| 熊谷家住宅 | 三宅家住宅 | 羅漢寺 |
龍源寺間歩の前を通ると、 温泉津 ・ 沖泊(おきとまり)へ抜ける街道が残る。
途中の降路坂は、ごろごろした峠道で、中国自然歩道に指定されている。
「
室町時代に石見銀山で発掘が本格化すると、 その搬出港である温泉津は繁栄を始める。
石見銀山を手にいれた毛利元就は、温泉津を直轄領にし、
毛利水軍御三家の一つ ・ 内藤内蔵丞を奉行に任命し、
元亀元年(1590)に温泉津港口に鶴の丸城を築かせた。
関ヶ原役後、毛利が石見から撤退すると、 、内藤家はそのまま温泉津に土着し、
代々年寄りや庄屋を務め、その間、廻船問屋 ・ 酒造業 ・ 郵便局等の経営にも携わった
。
中国の明国の古地図に、 有奴市(うぬつ) と記された、温泉津(ゆのつ)港は、 沖泊と共に
石見銀の積み出しや石見銀山で必要な物資の供給基地として、
銀山で働く人々の暮らしを支え、 多い時には三十軒もの廻船問屋が軒を連ねたという。
日本海に面した沖泊は海の底が深く、
湾の入り口の櫛島が季節風を防ぐため、大量の銀を積み出すには最適な港で、
今も船を係留するための鼻ぐり岩が数多く見られ、 往時を偲ばせている。 」
内藤家住宅は、 石見銀山にまつわる重要な建築物であり、
温泉津大火(1747の)後建てられた当地に残る最も古い住宅史跡である。
町の中央に、医王山温光寺薬師堂がある。
この辺りは、往古から、温泉が地表に流れ出ていたといい、
伊藤家初代重佐が民の病苦を救うため、 温泉場を開発し、薬師堂を建てた。
「
石見銀山の採掘者らは酷使した身体を癒すために訪れるようになったので、
毛利元就は、 重佐を湯主に任じた。
石見銀山の採掘者らが温泉津の町を築く一方、温泉が採掘者達を癒していたのである。
江戸時代に入り、天領になると、代官が温泉を大事に保護し、
北前船の就航により、東北や九州の人々も入湯した。
広島に原爆が投下され、被爆者がこの温泉で湯治したと聞いた。 」
温泉津は背後の岩を大きく切り出して、家や寺院が建てられているところである。
銀の積出港だった温泉津地区の町並みは港町、
温泉町として平成十六年(2004)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
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| 内藤家住宅 | 温泉津港 | 元湯 |
旅した日 平成二十八年(2016)十月二十七日〜二十八日