『 山陰道(1) 米子 〜 松江 』

(  松 江 宿  )


かうんたぁ。




飛鳥時代に誕生した山陰道は、 飛鳥と山陰道諸国の国府を結ぶ官道であり、 七道の中で、 小路 とされた。 
江戸時代になって誕生した山陰街道 (丹波街道) は、 古代の山陰道と異り、 京都から丹波を通過し、 周防国に至る道になった。 
現在の国道9号は、 ほぼ古代の山陰道を継承しているが、 異なる点が幾つかある。 
国道9号は、益田から先は 萩を経由するルートではなく、 山口線に沿って、津和野 ・ 山口を経由するルートとなっている。 
これは江戸時代の街道に由来する。 



◎ 松江宿

橋を渡ると、右側に 「安国寺」 の石碑がある。
そのまま進むと、大門交叉点で、国道9号に合流する。
国道を進み、竹矢バス停で右折すると、左側に安国寺がある。 

「 安国寺は、足利尊氏 ・ 直義が、 暦応元年(1338)から、十年かけて全国に設けた寺院の一つである。 」

竹矢交叉点の手前から、八幡町になる。
竹矢交叉点の先の右手に 的場池があり、左手には 武内神社 (平浜八幡宮) がある。

「 武内神社は平浜八幡宮といい、 八幡の地名はこれによるものと思われる。
神社は 武内宿禰を祀る神社で、  鎌倉時代に、京都岩清水八幡宮から分霊された神社である。 」

ここからかなり離れているが、 神魂神社 (かもすじんじゃ) と、八重垣神社に行った。
  大庭の竹矢交叉点を左折し、県道247号を進み、中竹矢交叉点を越えると、 右側に出雲国分寺跡がある。
県道247号を西に進むと、 出雲国山代郡遺跡群正倉跡があり、 その南方に八雲立つ風土記の丘がある。
また、その東に意宇川が蛇行していて、 東手に雲国庁跡がある。
ここは、意宇(おう)平野 の一角で、 意宇平野は古代から栄えていた所で、 古代では出雲国の中心地だった。 
県下最大の規模を持つ山代二子塚はじめ代表的な古墳はこの付近に集中している。

意宇平野この一角に、 神魂神社 (かもすじんじゃ) がある。 
急な石段を上りきると現れるのは、神魂神社の拝殿である。 
神魂神社は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)を主祭神、 伊弉諾尊(イザサキノミコト) を副祭神とする神社である。
近くの熊野大社、八重垣神社、六所神社などとともに、意宇六社の一つに数えられ、 大庭 (おおば) の大宮さん と親しまれている。

神社の由来
「 当社は、出雲国造の大祖 ・ 天穂日命(あめのほひのみこと) が、この地に天降られ、 出雲の守護神として創建以来、 天穂日命の子孫が、 出雲国造として二十五代まで奉仕され、 大社移住後も、神火相続式、古伝新嘗祭奉仕のため、参向されている。 」 。

出雲国造家とゆかりが深く、古くは国造家の私斎場的性格だったためかとも思われる。 
本殿は、 室町時代初期正平元年(1346) の建立の 大社造の建物である。

「  その大きさは三間四方、高さ四丈あり、出雲大社本殿とは規模を異にするが、 床が高く、木太く、とくに前面と後方の中央にある、宇豆柱(うずばしら) と呼ばれる柱が、 壁から著しく張り出していることは、大社造の古式に則っているとされ、 最古の大社造として、昭和二十七年三月、 国宝に指定されている。  
本殿内陣は狩野山楽、土佐光起の筆と伝えられる極彩色の壁画九面にて囲まれ、 天床は九つの瑞雲が五色に彩られている。 
一見 白木造りのようだが、往古は彩色されていたといわれ、 屋根裏あたりにかすかに痕跡を留める。」

巨大な自然石を積み上げた石段といい、 古代出雲の神々の里らしいたたずまいを見せる神社で、 霊気が漂う気がした。
拝殿の右手に社務所、 その先には多くの末社が小さな社を並べている。 

「  本殿の左手には、二つの大きな社がある。
右側のは 貴布祢(きふね)神社 と、稲荷神社が一緒に祀られている。 
この社殿は、桃山時代の建築様式を伝える二間社流れづくりで、 国の重要文化財に指定されている。 
流れづくりそのものも出雲地方では珍しいが、 一般的な流れづくりは前側の柱間が一間か三間の奇数であるのに対し、 この社殿は、二社を同時に収容するためか、二間に仕切っている。 」

古い鉄釜は、 出雲国造の祖神である天穂日命が高天原から降臨された時、 乗って来られたと伝えられ、 十二月十三日に 御釜神事 (おかましんじ) が行われる。 
古代このあたりが鉄の産地であったことを示す遺物の一つである。 

「  松江に住み、日本に帰化した小泉八雲は、 明治二十四年四月五日に、 西田千太郎と訪れて、 杵築の国造へ火鑽を授ける習慣、 天穂日命が臨降時に使用したという鉄の大釜、 伊弉諾尊、伊弉冉尊の神鳥 とされる セキレイの伝承 について記している。 」

神魂神社鳥居と標柱
  拝殿と本殿   貴布祢神社・稲荷神社の社殿
神魂神社鳥居と常夜燈 (手前)神魂神社拝殿 (奥)本殿 貴布祢神社・稲荷神社の社殿

この後、 松江市佐草町に鎮座する、 八重垣神社 (やえがきじんじゃ) に訪れた。
八重垣神社は意宇六社の一つで、縁結びの神社として有名である。 
大鳥居の道の反対には、大きな夫婦椿蓮理玉椿があり、 鳥居をくぐると 立派な随神門がある。  
「八重垣神社由来」と書かれた大きな説明板が建っている。

説明板「八重垣神社由来」
「 八重垣神社は 八岐大蛇退治ゆかりの神社です。 
縁結びで名高いこの神社の鏡の池は、 稲田姫が飲料水を得、 また 、姿を写されたところと云われています。 
「 早く出雲八重垣に、縁を結が 願いたい 」 という歌は。 出雲において最も古い民謡で、 御祭神も八岐大蛇を退治し、 高天原第一の英雄 ・ 素戔鳴尊と、 国の乙女の花とうたわれた ・ 稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。 
素戔鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際、 斐の川上から 七里を離れた佐久佐女の森 (奥の院) が安全な場所であるとしてえらび、 大杉を中心に八重垣を造って、 姫をお隠しなさいました。 
そして 大蛇を退治して、 「 八重立つ 出雲八重垣妻込みに 八重垣渡る その八重垣を 」 という喜びの歌い、 両親の許しを得て、「 いざさらば いざさらば 連れて帰らむ 佐草の郷に 」 という、 出雲神楽にもある通り この佐草の地に宮造りをして、御夫婦の宮居とされ、 縁結びの道をひらき、 掠奪結婚から正式結婚の範を示し、 出雲の縁結びの大神として、又 家庭和合、 子孫繁栄、 安産災難除、 和歌の祖神として、 古来、 朝廷、 国司、 藩主の崇敬が厚く、 御神徳高い神国出雲の古社であり、名社であります。 」

「 八重立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣渡る その八重垣を 」 と刻まれた石碑は、 本殿の左手の境内にある。 
本殿は江戸中期、 拝殿は昭和三十九年(1964)に再建されたものである。 
本殿にあった国重要文化財指定の板壁画 ・ 板絵著色神像は宝物殿に納められている。 

「 小泉八雲は、 明治二十四年四月五日、西田千太郎と行楽と取材を兼ね、 人力車で松江郊外の神社めぐりを行い、 八重垣神社を訪れ、とくに 鏡の池には興味を示した。 
また、八重垣神社のお札類をイギリスオックスフォード大學の博物館に贈っている。 」

神社の出口から宮橋を渡ると、夫婦杉がある。
ここは 「奥の院」 といわれる、小さな佐久佐女の森である。 

「  この森は 佐久佐女 (さくさめ) の森 といい、小さいながら老杉などが生い茂り、 地表にあらわになった木々の根が異様である。
八重垣神社にまだ社殿がない古代に、 人々が巨石や老木に神々が宿ると、信仰した磐座(いわくら)、 神籬(ひもろぎ) の跡 と思われるところである。 」

鏡の池は、 稲田姫が化粧の時の鏡がわりに使ったと、いう伝承がある。
また、大蛇退治の時、稲田姫が身を隠されたという故事に由来する、 五月三日の 身隠(みかくし)神事 もここで行われる。 

拝殿と本殿   八重垣歌碑   鏡の池
八重垣神社拝殿と本殿 八重垣歌碑 鏡の池




◎ 松江城

山陰道は、竹矢交叉点を北西に進むと、手間交叉点に出る。

追分の道標には、「右 馬潟港」、「左 武内神社」 とある。
さらに進むと、大橋川に出る。
右手前方に、大きな中海大橋がある。
中海と宍道湖を結ぶ大橋川に架かる橋である。

大橋川の南岸を西に進むと、右側の旧道に矢田の渡しがある。
矢田の渡しは、風土記の時代から今日まで続いている。 

更に西に進むと、JR山陰線松江駅前に出る。
江戸時代には、大橋川の北側に、松江城や武家屋敷、そして、城下町があった。
川の南部は寺院と商人が住む町家になっていた。
大橋川に架かる松江大橋を渡り、北側の松江城下に進む。

「 この地は、 室町時代には、出雲守護を代々継承した京極家の守護所が置かれていた。
戦国時代に入ると、京極家の分家の尼子家が月山富田城を本拠にし、  松江はその支配下におかれた。 
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で、尼子氏は敗戦し、 堀尾吉晴の子 ・ 忠氏が、 出雲 ・ 隠岐両国二十四万石を拝領し、月山富田城に入城。
入城した月山富田城は、 周囲を高い 山に取り囲まれ、 大砲などを使う近代戦には不向きであり、 また、 侍や商人を住まわせるには広大な広大な城下町を形成しなければならない。
堀尾吉晴は、 港がある松江の亀田山の末次城跡に城を築くことにした。
慶長十二年(1607)から慶長十六年(1611)の足かけ五年をかけて、 松江城及び城下町の建設を行った。 
寛永十一年(1634)、 京極忠高が、 出雲・隠岐両国二十六万石で入封し、 三の丸を造営し、城下は近世都市として 整備された。 
江戸時代中期以降は 親藩松平家 (松江藩) の城下町として盛えた。
中でも有名な藩主が、 「松平不昧公」 の異名を持つ、 松平治郷である。
明治時代になると、松江は島根県の県庁所在地となった。
小泉八雲が訪れたのもこの時代である。 」

松江城の北側、塩見縄手 と呼ばれるところには、 今でも、 武家屋敷が残っている。
この武家屋敷群の西端に、小泉八雲の居宅が残されている。
松江城は、宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれた、輪郭連郭複合式平山城である。 
千鳥城 とも云われ、 出雲藩十八万六千石の本拠であった。

「  松江城は、亀田山の山頂に建てられた、 東西三百六十米、南北五百六十米の城である。
標高二十八米余の地点に本丸を築き、 周囲を荒神櫓を始め、六ヶ所の櫓と、それをつなぐ細長い多門をめぐらせた。
城を囲む内掘りの堀川は巾二十米〜三十米で、 宍道湖とつながる薄い塩水(汽水域)で、 外堀は城の南に流れる京橋川を利用している。 」

大手門駐車場から県庁のあたりが三の丸で、 藩主の御殿などがあったという。 
駐車場から城山公園に入ったところは、 松江城の 「馬溜」 と呼ばれる一辺四十六米程の正方形の平地で、 入口は桝形になっていて、大手木戸門があった。 

「  奥の石垣の上の左右の櫓は、 中櫓と太鼓櫓で、八十七米の塀で結ばれている。 
これは二の丸の南側の櫓で、 明治維新後、破却されたが、 平成十三年(2001)に復元された。 
馬溜の右側、石垣が残っているところは大手門があったところである。
高さは三・八米、 巾は十五米の二階建の楼門で、 屋根にはしゃちほこが載った壮大な門である。 」

その先は「二の丸下の段」で、 今は空地になっている。
江戸時代には米蔵がたくさんあった。 
北には屋敷地、 南は幕末には 御破損方・寺社修理方があった。  

馬溜、背後に太鼓櫓が見える
  大手門跡   二の丸下の段
松江城馬溜、背後に太鼓櫓 松江城大手門跡 松江城二の丸下の段

二の丸に上る石段の右側に、石垣がある。
上ってくる敵兵を鉄砲で攻撃するための火点 (鉄砲櫓) があった所である。 
石段はここで切れ、 右側にまた、 石段が続く構造で、一気に上れなくしている。 

先に進むと 「三の門跡」 に出て、 その先は二の丸跡である。 

「  二の丸は本丸南側の一段低い平地で、 江戸時代には中央に御書院があり、 松平家二代藩主綱隆の時までは藩主の居宅となっていた。 
御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、 南には御月見櫓があり、 その他、御広間・御式台・御作事小屋・番所・井戸があった。 」

「二ノ門跡」 の標木を過ぎると、左側に鳥居があり、 その先に、 明治三十二年に東照宮を移築した松江神社、 その奥に、明治三十六年に建てられた興雲閣が見える。 
三の門と二の門間は短く、二十米しかない。 
石段を上がると左側に巨石がはめ込まれた石垣と、正面は南多聞による枡形になり、 右折すると正面に頑丈な一の門があり、 右側も多聞と、 敵兵はここで三方から攻撃を受けるということになる。 
この本丸一ノ門と南多聞の一部は、 昭和三十五年(1960)に復元されたものである。 

一の門をくぐると、ここから先が本丸である。 

「  本丸は標高二十八米余にあり、 北東部の一部土塀を除けば、 周囲は 祈祷櫓(荒神櫓)・武具櫓・弓櫓・坤(ひつじさる)櫓・鉄砲櫓・ 乾の角櫓 という六つの櫓と、それを結ぶ細長い多聞 が、めぐらされていたという。 」

天守閣は、二重櫓の上に、 二重(三階建て) の 望楼型櫓 を乗せた型になっていて、 五層六階、下見板張り、白漆喰、千鳥破風付きで、千鳥城ともいわれた。 

「 南側に、 地下一階を持つ平屋の入母屋造附櫓があるので、 これが防御の役割を果たしていた。 
侵入すると上部の狭間から入口に向って鉄砲や矢が撃ちこまれるようになっていた。 
二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、 二重目の南北面に、入母屋破風の出窓をつけている。 
三階には華頂窓、 外壁は初重と二重目は黒塗の下見板張り、 三重目と四重目と附櫓は上部を漆喰塗、 その下を黒塗下見板張りとし、 壁の大部分は白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれた、 実戦本位で安定感のあるもので、 南北の出窓部分の壁だけが漆喰塗である。 
屋根はすべて本瓦葺き、 木彫り青銅張りの鯱は高さ二米余あり、 日本に現存する木造のものでは最大である。
入口から向かって左が、雄の鯱で、 鱗があらく、右が雌である。 
石垣は、「牛蒡積み」 といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。 
窓は、突上窓と火灯窓があり、 二階に一階屋根を貫くかたちで開口した石落しが八箇所あり、 狭間は六十もある。 」

一般的な天守閣は上から下まで一本の通し柱で支えられているが、 松江城は現代の家のように二つの階にまたがる通し柱で造られている。

「 建物の中央部には地階と一階、二階と三階、四階と五階をつなぐ通し柱があり、 側柱など外側部分には一階と二階、三階と四階をつなぐ通し柱がある。 
最上階には廻縁高欄があり、 雨戸を取り付けているが、 望楼からは松江市内を眺望することができた。 」

松江神社と興雲閣      一の門      鉄砲櫓跡
松江神社と興雲閣 松江城一の門と櫓松江城天守閣

松江城の南部に、島根県庁と旧県立島根博物館がある。
京橋川に架かる幸橋を渡ると、中茶町・東茶町があり、その隣に京店がある。

「 京店商店街は、京橋川と大橋川に囲まれた地区である。
江戸時代、京の都より輿入れした城主の奥方のために、 京都に似せた町造りをしたといわれる。 
京橋川沿いに旧家が多く残っている。 」


旅した日   平成二十八年(2016)十月二十六日



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