赤坂宿の京方(西)の入口の兜塚をすぎるとこの地で産出する石灰を運ぶ貨物線の廃線を横断。
線路脇には今も朽ちた踏切番小屋が残している。
その先は大垣市昼飯町。 街道の両側には石灰関連の工場が連なって
いる。 赤坂宿の北方にある金生山(きんしょうざん)は赤坂山とも呼ばれ、
大理石を産する山であるが、採掘を続けた結果、山容が変貌し、真ん中がぽこっと
凹んだような形になってしまっている。
河合石灰工業を過ぎたところで左に入った突き当たりにニッ塚古墳があり、
その先を右折する大きな昼飯大塚古墳がある。
長さ百五十メートルの前方後円墳で岐阜県最大の古墳で国の史跡に指定され
ている。 昼飯から青墓、垂井にかけては古墳が多く残っているが、古代この地に
豪族が多くいたことの証拠である。
先に進むと右側に昼飯善光寺とも呼ばれる浄土宗花岡山阿弥陀院如来寺がある。
* 「 本尊は長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻したものである
ところから「善光寺式阿弥陀三尊仏」と呼ばれるもの。
善光寺の分身仏としては日本最初なので、特に「一体分身の如来」といわれる。
鎌倉時代の作と伝えられ、中央の阿弥陀如来が四十九・五センチ、
脇侍の観音菩薩、勢至菩薩は三十三・五センチである。
本田(多)善光(よしみつ)は難波の堀江の海から三尊仏を拾い上げると、
これを背負い故郷の信州に向いました。 その際、善光寺如来を信濃の善光寺へ
運ぶ一行が青墓と赤坂の中程にある花岡山で昼飯(ひるいい)をとったことが
地名の由来である。 最初は「ひるめし」といっていたが、周りから下品だと馬鹿
にされたので、「ひるいい」に替えたが、いいずらいので、「ひるい」になった
という。 」
昼飯町交叉点を越え、東海道本線垂井線のガード(昼飯架道橋)をくぐると
青墓(あおはか)の集落に入る。
昼飯には古い建物は残っていないが、こちらには少しだが残っている。
先に進むと左側に「史跡の里」の標柱があり、
すぐ先を右に入ると粉糠山(こぬかやま)古墳がある。
* 「 長さ百メートルの前方後 円墳で東海地方最大である。 粉糠山は青墓宿の遊女達が化粧に使った 粉糠(こぬか)が積もり、山になったという伝説に由来している。 この地は古墳が多いところから大墓(おおはか)と呼ばれ、 これが青墓(あおはか)に転化し地名となったとされる。 」
街道を進むと右側に浄土真宗本願寺派國府山延長寺があり、山門は青野城表門を 移築したものである。
* 「 春日局と稲葉正成の子正次(まさつぐ)は五千石の所領を 与えられ青野村に居を構え、天和元年(1681)子の正休(まさやす)は若年寄に 就任し、青野藩一万二千石の大名となり青野城を築城した。 」
道の右側に「國宝観世音菩薩 圓興寺」の寺標がある。 圓興寺は北に 約千七百メートルに位置し、延暦九年(790)創建の天台宗の古刹である。
* 「 本尊の木造聖観音菩薩立像(国重要文化財)は最澄作と 伝えられる。 天正二年(1574)織田信長の焼討にあった際、本尊が勝手に動き、 石の上に難を逃れたといい、このことから石上観音と呼ばれている。 」
圓興寺の寺標から右に入ると正面に白髭(しらひげ)神社がある。
毎年十月末第二日曜日の祭礼に大太鼓踊りが奉納される。 伝承によると農民の
雨乞い祈願や豊作踊りといわれ、大垣市の重要無形民俗文化財である。
歯科医院の先の左側に小さな「照手姫水汲井戸」の標石があり、横の細道を 行くと右側に「史蹟照手姫水汲井戸」の大きな石標と説明板があり、その一角に 照手姫水汲井戸がある。
* 説明板「伝承地 照手姫の水汲み井戸」
「 昔、武蔵・相模の郡代(横山将監)の娘で照手姫という絶世の美人がいました。
この姫と相思相愛の(常陸国司の)小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ
毒殺されてしまいました。
照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪の旅の末、青墓の大炊長者のところまで
売られて来ました。 長者はその美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通
しました。 怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと
無理な仕事を言いつけました。 毒酒の倒れた(判官)正清は、霊泉につかり生き返
り、照手姫が忘れられず、照手姫を探し出して妻にむかえました。 この井戸の
跡は照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。
大垣市教育委員会 」
街道に戻ると、すぐ先の右側に「よし竹円願寺」の標柱が建っている。
ここは円願寺廃寺跡で、小篠竹の塚といわれるところである。
* 「小篠竹(こざさだけ)伝説」
「 牛若丸(後の源義経)が京都の鞍馬山で修業を終え、金売吉次を供にし、
奥州平泉に落ちていく途中、この場所にあった円願寺(円興寺の
末寺、源氏一族の菩提所)で休み、父 義朝と兄朝長の霊を供養し、あわせて源氏
の再興を祈りました。
江州から杖にしてきた葦(よし)を地面に突き挿し、「 さしおくも 形見となれや
後の世に 源氏栄えば よし竹となれ 」と詠み、東国へ旅立ちました。
願い通り、葦(よし)からは竹の葉が茂り、ぐんぐん成長したが、幹や根は葦(よし)のまま
だった。 めずらしいこの竹を「よし竹」と呼び、圓願寺を芦竹庵(よしたけあん)
と呼ぶようになりました。 」
敷地跡内には五輪塔が並んでいる。 小篠竹(こしのだけ)の塚と呼ばれ、 照手姫の墓と伝わっている。 愚管抄の作者の天台座主、慈鎮 (慈円)が 「 一夜見し 人の情にたちかえる 心に残る 青墓の里 」 という 歌を詠んでいるところである。
* 「 江戸時代に発刊された「木曽路名所図絵」には
「 青墓にむかし照手姫という
遊女あり。 この墓あるとぞ。 照手姫は東海道藤沢にも出せり。 その頃両人あり
し候や。 詳(つまびらか)ならず。」 という記載があり、東海道藤沢宿にも
照手姫がいた と記されている。 また、中山道柏原宿の照手姫笠地蔵にもほぼ
同じ伝えが残っている他、岐阜県内には同じような話がほかにもある。
こうした話が各地に残るのは、鎌倉時代に入り京都と関東との交流が盛んになり、
宿駅が発展したこと。 また、貧富の差が拡大し、地方で売られた娘が人買いなど
の手により東海道沿線に連れてこられた結果ではないだろうか? 哀れな境遇の
女性に対する同情の気持ちから、上のような話が生まれたのだろう。 」
集落のはずれ、大谷川の手前に「青墓宿」と標示された木柱がぽつんと立っていて、 標柱の脇に「円興寺 朝長公の墓」と書かれている。
* 「 ここは中山道が開設される前の東山道時代に 青墓宿駅として栄えた所で、遊び女が大勢いたといわれる。 円興寺は平治の乱(1159)で敗れた源義朝が東国に逃れる途中、この地で自刃した 源朝長の墓があるところである。 源義朝はここで次男朝長を失い、尾張国 (知多半島の)野間まで落ちのびたが、そこで殺された。 」
大谷川を越えると青墓から青野に入る。 この辺りは青野ケ原と呼ばれて
いるが、美濃の名はここ青野ケ原、加納の各務野、揖斐川上流の大野の三野を
みのといい、これが美濃に転化したものである。
それはともかく、中山道は県道216号を斜めに横断して向いの県道228号に入り、
ミニストップの左側を進む。
少し行くと左側に浄土真宗大谷派双六山智教寺がある。
* 「 文明七年(1475)蓮如上人の弟子 覚玄による開基で、覚玄道場と呼ばれました。 その後宝永二年(1705) 伝教大師作の阿弥陀如来像を本尊とし、寺号を智教寺と改めた。
集落の中ほどの右側に「薬師如来御寶前」「 国分寺道」と刻まれた、
道標を兼ねた常夜燈がある。
中山道は直進であるが、寄り道。 ここで右折し、北に向かうと左側に
浄土宗本願寺派法雲山教覚寺があり、
教覚寺の並びに「稲葉石見守正休公」の石碑が立っている。
* 「 教覚寺はこの地を領した稲葉氏の庇護を受けた寺で、
山門脇に「寺子屋跡」の立札があり、幕末になると庫裏が寺子屋になりました。
鐘楼の石垣にはフズリナという化石が一杯付着しているが、これは今から約二億
五千万年前、赤坂の金生山がまだ海底であった時に繁茂した貝の一種である。
鐘楼石垣はこの金生山から切り出された石が使用されている。
稲葉正休(まさやす)は美濃青野藩、当初五千石、その後加増されて一万二千石の
大名となりこの地に青野城を築城しました。
貞享元年(1684)治水事業から外された恨みから、江戸城中で大老堀田正俊を刺殺
し、四十五歳の正休は居合わせた老中大久後忠朝(ただとも)等に斬殺され、
稲葉家は改易になりました。 」
更に進むと正面が国史跡である美濃国分寺跡である。 天平十三年(741) 聖武天皇の詔勅によって全国六十八ケ所に建てられた国分寺の一つで、 発掘されたところは埋め戻され、広大な史跡公園になっている。
* 説明板「美濃国分寺」
「 天平十三年(741)、聖武天皇は諸国に「金光明四天王
護国之寺」と「法華滅罪之寺」の造営の詔勅を下した。 詔勅では国分僧寺、
国分尼寺という言葉は使われていないが、国ごとに設置されたので、国分寺と
通称されている。 美濃国分寺もその一つで、 昭和四十三年から継続的な発掘
調査が行われ、全体像があきらかになってきた。 寺域は東西二百三十一
メートル、
南北二百三メートル強で、中心伽藍の配置は塔を回廊内に建てる古式の様式を持ち、
建物基壇も「ぜん積み」という特異な形である。
仁和三年(887)の火災ですべて灰塵に帰したが、その後、再建され、何度かの修理が
行われた様子がある。 」
広い敷地には基壇(きだん)や礎石(そせき)が点在し、そこには建物の想像図
が掲示されている。
近くにある歴史民俗資料館では出土した瓦
や土器などのほか、付近の古墳から出土した埋蔵物や民俗資料を展示されて
いる。
国分寺跡の山側には高野山真言宗金銀山瑠璃光院国分寺がある。
美濃国分寺は兵火や雷で焼失しましたが、焼け残った欅一本造りの薬師如来座像
をこの寺の本尊(国重要文化財)にしている。
街道にに戻り、南西に向って進むと右側に地蔵堂があり、その先に大正
五年(1916)十月の建立のひと際大きな大神宮常夜燈がある。 その前に
「史跡中山道一里塚跡」の石碑が立っているが、
これは日本橋から百十一番目の青野ヶ原一里塚跡である。
大垣市から不破郡に入ると右手に駒引稲荷神社があり、参道口に地蔵堂が
ある。
駒引(こまびき)交差点の右側には「この道は中山道」の標識があり、
「熊坂長範物見の松800m」と記されている。
* 「 盗賊の頭、熊坂長範が綾戸古墳上の松に身を隠し、 旅人を襲ったといいます。 」
すぐ先右側の祠内に地蔵墫立像と坐像の二体が安置されていて、その左側に
「平尾御坊道」の標石がある。
道標を右折して六百メートルくらい歩くと 道の左側の少し奥まったところに
江戸時代から平尾御坊といわれる願証寺がある。
* 説明板「願証寺建物」垂井町指定有形文化財(建物)
「 願証寺は本願寺八代法主蓮如の六男、蓮淳により永正年中(1504〜20)に伊勢
長島に一宇を創建、開基したのがはじまりと伝えられ、天正ニ年(1574)の長島
合戦により、堂宇はことごとく焼失してした。 その頃、蓮淳の孫、證栄は
平尾に移り、真徳寺を再興、開基した。 寛保三年(1743)に御坊の許可があり、
安永ニ年(1773)、九世真高の時、願證寺と改号した。 その頃よりこの願證寺は
平尾御坊として親しまれてきた。 」
願証寺は大きな伽藍と広い庭がある寺で、
本堂は宝暦十年(1760)六月に再建したもの。 山門は寛保三年(1743)、鐘楼は
明暦元年(1655)に建立したもので、いずれも二百五十年以上経過している
立派な建物である。 寺裏には蓮如上人御廟と納骨堂がある。
寺近くの民家の門前に「美濃国国分尼寺跡」と刻まれた石碑がある。
* 説明板「美濃国国分尼寺跡推定地」
「 天正十三年(741)聖武天皇の発願により国分僧寺、尼寺が全国に建立され、
美濃国にも国分僧寺、尼寺が建立された。 国分僧寺は大垣市青墓に尼寺は
ここ平尾に設置された。 国分尼寺、正しくは法華滅罪之寺と称し、鎮護国家の
ため建立された。 この付近から白鳳期(天平時代)の瓦が多く出土しており、
土塁や礎石の一部は現存しているが、寺領規模や寺院建物様式はまだ発見出来
ていない。 垂井町教育委員会 」
街道に戻る。 駒引集落に入ると民家が増え、そして自動車の数も増えて
きた。
工場を左に見て、左になだらかに曲がるカーブを歩く。 追分交差点を越し、
左側のマックスバリューを過ぎると、右側に明治五年(1872)
創建のこの地の鎮守、喜久一九稲荷神社がある。
右側に鉄柱で屋根が支えられている地蔵堂があり、堂脇には馬頭観音堂が
ある。 馬頭観音は垂井宿の入口で、悪霊の侵入や相川の渡しの安全を見守って
いるのであろう。
中山道は大きく左にカーブし突当りのT字路を右折する。
この角に「←中山道 美濃路→」の木の道標と自然石の追分道標と説明板が
立っていて奥には「お休処追分庵」という店がある。
* 説明板 「垂井追分道標」
「 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう
宿場でした。 追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標
が建てられた。 道標は高さ1.2m、幅40cm、表に「是より 右東海道
大垣みち 左木曽海道たに ぐみみち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主
奥山氏末平」と刻まれている。 この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋
奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さで
ある。 また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。
平成二十一年一月 垂井町教育委員会 」
(注) 美濃路は幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣、墨俣、起、萩原、
稲葉、清洲、名古屋を経て東海道の宮宿に、あるいは大垣で川船を利用して熱田
で東海道に合流することができた。 松尾芭蕉も「奥の細道」で大垣みちを歩いて
大垣まで行き、そこで筆をおいている。
その先には相川の支流が流れる小さな川(梅谷川)があり、そこに架かる追分橋 を渡ると相川橋北交差点がある。 その先には相川が流れている。
* 「 相川は関ケ原宿北部の伊吹山南麓の明神の森に源を発し、 杭瀬川に合流する。 江戸時代、宿場の北を流れる相川は川幅六十間(108m)の 暴れ川で、大洪水の度に流れが変わったので、橋はかけられなかった。 」
相川橋を渡っていると左側に「相川の人足渡場跡」の説明板がある。
* 説明板「相川の人足渡場跡」
「 相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。
そのため、江戸初期には人足渡しによる渡川が主でした。 川越人足は垂井宿の
百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていた。 一方、
通常は姫宮や朝鮮通信使などの大通行のときには木橋がかけられました。
垂井町 」
(注) 相川は大井川のように人足渡しで、享保八年(1723)の人足渡賃は一人に
つきちち(胸)切水時四十五文、腰切水時ニ十四文、ひざ上切時十六文でした。
橋を渡りきると左側に大きな垂井宿案内板とその前に「中山道垂井宿」の石碑 があり、左側には「東の見付」の説明板が立っている。
* 説明板「東の見付」
「 垂井宿は中山道の起点、江戸日本橋から約四四○キロメートル、五八番目の
宿になります。 見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列
を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。 ここ東の見付から約七六六
メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に
至ります。 垂井町 」
垂井宿は東海道宮宿に至る脇往還の美濃路との追分を控え、西美濃の交通の
要衝として栄え、宿場は相川橋南の東の見付から前川東の西の見付までの
七町(約766m)で、天保十四年(1843)の中山道宿村内大概帳によると、家数315軒、
宿内人口1179人(男598人、女581人)、本陣1、脇本陣1、問屋場3、旅籠27軒で
ある。 宿場の江戸方の入口は東町で、垂井宿は他の宿場と同様町内の二ヶ所で
折れて枡形をつくっていた。
最初の枡形は現在は三叉路になっていて、左に行くとJR東海道本線の垂水駅が
ある。
右折すると古い面影をかなり残している街並で、街道沿いの家には
旧業種と旧屋号を記した木札が掲げられている。
一本目の路地を左に入り、三叉路を右に進むと「美濃紙の発祥の地」といわれ、
垂井の泉の清水を利用して紙を漉いた といわれる「紙屋塚」があり、
紙屋の守護神紙屋明神が祀られている。
* 説明板「紙屋塚」
「 古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出
させた。 国においては戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。 ここの紙屋
も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。
又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割を
はたしてものと考えられる。 一説には美濃紙の発祥地とも言われている。
垂井町教育委員会 」
中山道はその先、左に湾曲していて、二つ目の枡形である。 右に少し入っていくと愛宕神社と山倉がある。
* 「 宝暦五年(1755)の大火を始め、度々大火がおきたため、 寛政年間(1789〜1800)ごろ、火防の神といわれた京都愛宕神社を懇請し、西、中 、東町内に祀ったものである。 山倉には八重垣神社の例大祭に使われる曳山が 収納されていて、五月二日〜四日、曳山の舞台ではこの上で子供歌舞伎が演じら れる。 」
枡形の正面に旅籠亀丸屋があり、当時の姿を残して今も営業している(0584-22-0209)。 美濃路で営業中の旅籠は細久手宿の大黒屋と二軒なので、貴重な存在である。
* 説明板 「 旅籠 亀丸屋」
「 亀丸屋西村家は垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿
を残して営業している貴重な旅館である。 安永六年(1777)に建てられた間口
五間、奥行六間半の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、
文明講の指定旅館であった。 当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る
珍しい造りである。 垂井町 」
(注) 垂井宿の旅籠の数は時期により変動するが、天和四年(1684)に十六軒
だったのが、寛政十二年(1800)には四十五軒と三倍に増加している。
垂井宿は宿場だけでなく
商業も盛んであったようで、当時の様子を「木曽路名所図会」では「 駅中東西六
七町ばかり相対して巷をなす。 其余散在す。 此辺都会の地として商人多し。
宿中に南宮の大鳥居あり。 」 と紹介している。
亀丸屋のすぐ左側にある格子戸の建物がかって問屋だった金岩家である。
* 説明板「垂井宿の問屋」
「 間口は5.5m、奥行は7.5mの金岩家は代々弥一右衛門といい、垂井宿
の問屋、庄屋などの要職を勤めていた。 問屋には年寄、帳付、馬指、人足指など
がいて、荷物の運送を取りしきり、相川の人足渡の手配もしていた。 当時の
荷物は必ず問屋場で卸し、常備の25人25疋の人馬で送っていた。 大通行が
幕末になると荷物が多くなり、助郷の人馬を借りて運送した。 垂井町 」
(注) 問屋場(とんやば)は寛政年間この宿に三軒あった。 平常時は常備の人馬
で対応したが、人馬が不足した時には助郷の制度により近隣の助郷村から人馬
を調達した。 しかし、幕末になると物資の移動が激しくなってきて、助郷の
制度でも対応できなくなった。 幕府は人馬による宿駅制度を維持するため、
五街道での荷車の使用を禁止していたが、五街道の先陣を切って小型の大八車
の使用を許可した。 このことから見ても、中山道と美濃路の追分であった
垂井宿は商品や特産物の流通が活発であったことが分かる。
その先の英松堂菓子店の手前左側、安田歯科が本陣跡、「中山道垂井宿本陣跡」
の石碑があり、菓子屋との間に説明板が立っている。
* 説明板「垂井宿本陣跡」
「 本陣は宿場ごとに置かれた大名や公家などの重要人物の休泊
施設です。 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の
記録によると建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える壮大なもの
でした。 垂井宿の本陣職を務めた栗田家は酒造業も営んでいた。 本陣の建物
は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の
校舎に利用されました。 垂井町教育委員会 」
本陣跡すぐの左側、県道257号を跨いている大鳥居(石鳥居)は美濃一宮の 南宮大社のもので、両脇に常夜燈が建っている。 鳥居脇には道標「南宮社 江八町」があり、 南宮神社までは約九百百メートルである。
* 「 大鳥居は寛永十九年(1642)、将軍徳川家光が 南宮大社の社殿を再建した際、石屋権兵衛が約四百両を使い建立した明神型の 石鳥居で、鳥居の横幅(内側)は454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周りは 227cmある大きなものである。 鳥居の扁額「正一位中山金山彦大神」は延暦寺 天台座主青蓮院尊純親王の揮毫によるもの。 」
毎月五と九の付く日に南宮神社鳥居付近で六斎市が立ち、近郷から
集まった人々で大いに賑わいました。
大鳥居をくぐって南へ向かうと約百二十メートルに臥竜山玉泉禅寺」「奥山僧坊
大権現」の石柱が建つ寺がある。
山門前の右側に垂井の地名由来となった
「垂井の泉」があり、岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。
* 「 木曾名所図会の「垂井清水」には「 垂井宿 玉泉寺という禅刹の前にあり、清冷にして味わい甘く寒暑に増減なし。 ゆききの 人渇をしのぐに足れり 」 と記されている。 清水は古代より枯れることを知らず、中山道を旅する人々の咽を潤し、地元の 人々の生活に利用されてきた。 現代の旅人にとってもこの水は一服の清涼剤 である。 」
清水は、樹齢約八百年の大ケヤキの根元から、今もコンコンと湧きでている。
* 説明板「垂井の泉と大ケヤキ」
「 この泉は、県指定の天然記念物である。 大ケヤキの根元から湧き出し、
「垂井」の地名の起こりとされる。
「続日本紀」天平十二年(740)十二月条に
見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられて
おり、古くからの由緒がある。 近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけで
なく、歌枕としても知られ、はやく藤原_隆経は
「 昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける
(詞花集) 」 と詠んでいる。
のちには芭蕉も「 葱白く 洗ひあげたる 寒さかな 」
という一句を残している。
この大ケヤキは樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル、
このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。 」
隣の專精寺は関ヶ原合戦に西軍に参加した平塚為広の垂井城があったところ
である。
せっかくなので、南宮大社まで足を伸ばすことにした。
南に向かって進み、国道を横切って行くと大鳥居が現れた。 コンクリート製と
思うが、新幹線の車窓から見えるやつである。
東海一のスケールを誇り、
新幹線の車窓から間近に眺められる鳥居として有名である。
さらに進むと南宮山の山裾に春日局が復興したといわれる、南宮大社の社殿が
現れた。 玉泉寺から八百メートル程の距離だったろうか?
* 「 南宮大社は南宮山の麓に鎮座、神武天皇即位の年に この地に祀り、東山道の要路を鎮めたもの。 その後、第十代崇神天皇 (すじんてん)の時代に南宮山山上へ遷座し、国府の南、あるいは古宮の南で あったため、南宮という。 延喜式には名神大社で、美濃国一の宮として 祀られてきた。 主祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で、全国の鉱山、金属業の総本宮 として、今も深い崇敬を集めている。 」
関ケ原の合戦の際、ここに布陣した 西軍毛利方の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に焼き払われたが、 寛永十九年(1642)、春日の局の願いにより徳川三代将軍家光より再建された。
* 「 春日局はここで家光病気平癒の祈祷や家綱誕生の 祈祷を行っている。 当初、二十一年毎に式年遷宮が行われていたが、応永 年間からは五十一年毎。 最近では昭和四十七年に行われた。 」
社叢の中に朱塗りの回廊、楼門があり、社殿も立派なもので、十五棟が国の 重要文化財に指定されている。 」
* 「 垂井は日本武尊が来て、伊吹の神と戦ったところで、 南宮大社は鉱山の神を祀るが、その経緯は不明である。 神話では金山彦大神は 天津神から生まれたことになっているが、もともとは南宮大社の南にある南宮山 (標高419m)をご神体にした自然物 に根ざした神だったと思う。 美濃国南西部の住民が祀る山の神(国津神)だった ものが金属の精錬などに携わった伊福部氏などと結び付き、天津神になったので はないだろうか。 」
寺の西方には三重の塔が美しいといわれる真禅院がある。
* 「 真禅院は西美濃三十三霊場の第十七番札所で、行基が創建し、
南宮大社別当寺となったと寺伝に伝えられている古刹である。 境内には県下最古
の梵鐘、国指定重要文化財の本地堂や三重の塔、北条政子の寄進と伝わる鉄塔が
あり、春は桜、秋は紅葉の名所である。 南宮神社同様、関ケ原合戦の兵火により
炎上したが、家光が再建した。 明治初年の神仏分離令によって、南宮大社の一角
から現在地に移されたものである。 」
街道まで戻り、西に向かう。 鳥居の先に金岩脇本陣があったが、建物は残って いない。
* 説明板「脇本陣跡」
「 脇本陣は宿場が開設した当時はなく、天保ニ年(1831)ごろに
なって設置されたようで、金岩家が幕末まで運営した。 建坪百三十五坪の建物に
玄関・門構があるものだったが、明治維新で宿場制度がなくなり、金岩家は大阪に
移り、取り壊されたが、一部のものが本龍寺に移築された。 」
少し行くと右手に元旅籠の長浜屋の建物がある。 戸は閉まっていたが垂井宿 お休み処になっている。
* 「 天保弐年(1831)十三代将軍徳川家定に嫁ぐ皇女和宮の一行、 総数3200名が垂井宿に宿泊したおり、御輿担ぎ23名が泊まった」 という記録 が残っているという。 旅籠長浜屋は鉄道の開通により旅人が減少したため廃業し、 酒屋となり、平成十年ごろまでは営業していた。 」
その先の左側に江戸時代油屋を営んでいた屋敷がある。 油屋宇吉家の跡 である。
* 説明板「垂井宿の商家」
「 この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の
油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。 明治以後、
小林家が部屋を改造し亀屋と稱して旅人宿を営んだ。 土蔵造りに格子を入れ、
軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物
である。 垂井町 」
向いに浄土真宗大谷派東光山本龍寺があり、門前に「明治天皇垂井御小休所」の 石碑が建っている。 明治十一年十月二十二日、明治天皇が北陸東海両道御巡幸の時、この寺で 御小休された。
* 「 本龍寺は移築された金岩脇本陣の門と玄関を本堂横に持ち、
大鼓楼も残っている。
門前には代々高札役の藤井家が管理していた、横幅約五メートル、高さ
約四メートル、奥行約一・五メートルの高札場があったとされ、
高札には「親兄弟を大切にすること。 キリシタンは禁止。 人馬賃表」など六枚の
制札を掲げられ、広報板的な役割を果たしていた。 」
山門と書院の玄関は金岩脇本陣から移築したものである。
本堂の裏には芭蕉木像を納めた時雨庵があり、本堂の脇に作り木塚という
句碑が建っている。
* 説明板「作り木塚と芭蕉翁木像」 垂井町指定史跡(昭和32年6月
15日指定)
「 俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号、規外)と交友が深く、元禄四年(1691)
冬当時にて冬籠りをした。 この間、次の句を詠んでいる。
木嵐に 手をあてて 見む 一重壁 (規外)
四日五日の 時雨 霜月 (翁)
作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 (翁)
いささらは 雪見にころぶ 処まで (翁)
芭蕉は奥の細道を終えた二年後の元禄四年(1691)の十月、寺の第八世住職、
規外を訪ね、冬籠りをした。 作り木塚は芭蕉没後のかなり経った文化六年(1809)
に住職の里外と白寿が芭蕉が詠んだ句 「 作り木の 庭をいさめる 時雨かな 」
に対して塚をつくり、句碑を建立したことに由来する。
安政二年(1855)、化月坊は住職世外と時雨庵を建て、句会を開き句碑を建立して
いる。 時雨庵の中に美濃派十五世国井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も大切に
保管されている。
平成二十一年一月 垂井町教育委員会 」
本龍寺前から大きく右に曲がり、赤いレトロなポストを過ぎると左側の 小高い丘の上に「垂井宿」の石碑がある。 ここが垂井宿西見付跡である。
* 「 大名行列を迎えたり、非常事態の時にはここを閉鎖 したところで、道脇に安藤広重 の版画のプレートが置かれていて、雨が降る中山道の松並木の中から 現れた参勤の大名行列を出迎える宿役人の様子が描かれている。 」
西見付跡には火防の神愛宕神社が祀られていて、宿内に入り込む悪霊を見張って
いた。
垂井宿のはずれの右奥に素盞嗚尊と稲田姫命を祭神とする八重垣神社があり、 その他にも、後光巖天皇行在所や日目上人法華塚がある。
* 「 八重垣神社は南北朝の争乱で土岐氏に守られて当地に 来られた後光厳天王が南都追討を発願し成就したので、山城の祇園社を勧請し、 牛頭天王社と称したのが創建の謂われとある神社である。 」
愛宕神社の玉垣前に「八尺地蔵尊道」の道標があり、「従是一丁」と刻まれて いる。
* 「八尺地蔵尊のいわれ」
「 ある目の見えぬ母が、夢告げに従って八尺掘ると三体の地蔵が出土しました。
そこに八尺四方の堂を建て地蔵を祀ると目が見えるようになったといいます。 」
ここから先は濃尾平野に別れを告げ、両側に山々の迫る道を行く。
垂井宿の西の見付付近には古い家が残っている。 前川橋をわたると三叉路を
左に曲る。 この分岐点には小さな地蔵座像が祠の中に安置されている。
左手に天保十年(1839)建立の松島稲荷神社がある。
垂井宿から一キロ程歩くと東海道本線の出屋敷踏切を横断し、
国道21号の日守(ひもり)交差点を横断歩道橋で渡り、斜めの旧道に入る。
この先中山道は旧道が残っている。
日守川を渡ると左側に建物があり、「日守のお茶所跡」の説明板が立って
いる。
* 説明板「日守の茶所」
「 江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地
(常盤御前墓所)に秋風庵を建てた。 それを明治になって、一里塚の隣りに移し、
中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。 また、
大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物
である。 垂井町 」
茶所の隣には江戸から百十二番目の垂井一里塚の南塚がほぼ完全に残っている。 説明板には一里塚と浅野幸長陣跡が併記されている。
* 「 垂井一里塚 史跡(昭和5年10月3日)指定 」の説明部分
「 徳川家康は街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道び一里塚の設置を命じた。
これにより江戸日本橋を基点として一里(約四キロ)毎に五間(約九メートル)四方、
高さ一丈(約三メートル)、頂には榎を植栽した塚が街道を挟んで二基づつ築かれた。
塚は南側だけがほぼ完全に残っている。 旅人にとっては人夫や馬を借りる里程
を知り、駄賃を決める目安となり、その木陰は格好の休所となった。 国の史跡
に指定された一里塚は中山道では東京都板橋区志村の一里塚と二ヶ処であり、交通
史上の重要な遺跡である。 」
「 浅野幸長陣跡 関ヶ原の戦い」の説明部分
「 浅井幸長(ゆきなが)は五奉行の一人であった浅野長政の長男で、甲斐府中十六万石
の城主であった。 関ヶ原の戦いでは豊臣秀吉の恩顧でありながら、石田三成と
確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め岐阜城を攻略、本戦ではこの
あたりに陣を構え、南宮山に籠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。 戦後、紀伊国
和歌山三十七万六千石を与えられた。
平成十八年十一月 関ヶ原町教育委員会 」
一里塚跡から数分の日守西交差点で再び国道と交差する。 関ケ原バイパスの
新設により、この先の旧道が一部消滅している。
バイパスを横断し、国道の右側の旧道を進むと左側に大看板「ここは中山道
垂井宿」があり、
次いで「これより中山道 関ヶ原宿野上 関ヶ原町」
の標柱がある。 ここは垂井町と関ケ原町野上の境である。
その先の関ケ原バイパスを跨道橋で横断すると旧道が再び復活する。
両側が田圃で右に東海道線を見ながら行く道である。
すぐに両側が民家になったが車の数が少なくのんびり歩くことができた。
微妙にうねる街道を八百メートル程行くと三叉路の右側に「県社伊富岐神社」
の石柱と大きな伊富岐(いぶき)神社の鳥居と二基の常夜灯が建っている。
伊富岐神社はここから北西約一キロの所に鎮座している。 伊富岐神社へ 立ち寄る。 JRの線路を越え、さらに県道を越えると、伊吹の集落だが、民家はしんと 静まりかえり、人影がない。 そのまま北上すると石製道標と東海自然歩道の 木柱が四辻にあり、石製道標の左側に「菩提道」の文字。 右側は汚れていて はっきりしないが「左関ヶ原 右岩手道」と刻まれているようである。 菩提道は北方にある菩提山へ行く道。 東海自然歩道の木柱には 「 直進は 伊富岐神社、左折は関が原古戦場跡 」 とある。
* 「 菩提道とは北方にある菩提山に通じる道のことで、
このあたり
は東海自然歩道としてハイキングコースになっている。 菩提山は竹中重元がここに
砦を構える岩手弾正を追い出し、菩提山城を築いたといわれるところで、その子
の竹中半兵衛が城主になったのは16歳のときといわれる。 美濃斎藤氏に仕え
ていたのを中国に三国志に倣って、秀吉が3回訪問し軍神として迎えたという
逸話は吉川英治の太閤記にある。 半兵衛が病でなくなった後、弟の久作は
本能寺の変による領内で起きた表佐の一揆で殺され、その後、廃城になったが、
当時の濠や石垣が残っている。
岩手は菩提山の右側にある集落で、江戸時代に入り、竹中家の嫡流が岩手5千石
を所領する旗本として、この地に屋敷を構え、明治まで領主として統治した。
今でも岩手陣屋跡として残っている。 」
東海自然歩道の道標にしたがって直進すると、こんもりした山の裾に目指す 伊富岐(いぶき)神社があった。
* 由来書には「 伊富岐神社はこの地方の豪族、伊福氏の 祖神を祭った神社で、仁寿弐年(852)、延喜式により不破郡三座の内となり、官社 となった。 南宮大社に対し美濃の二之宮として崇敬されてきた神社である。 」 とあり、 祭神には多多美彦命(通称、夷服岳神・伊吹山の神)、八岐大蛇(伊吹山の荒神が 化けた大蛇神)、天火明命(製鉄の神)、草葺不合尊と幾つかの説があるようで あるが、伊福氏の祖先は尾張氏と同祖というから、天火明命(あめのほあかり)、 正式名称は天照国照彦天火明命であるという説はうなづける。 時代の変遷と ともに伊吹山の神(伊富岐神)に変っていったのではないだろうか? 」
松や杉などの木々の多い薄暗い社域に、寛永
十三年(1636)に造営された社殿が建っている。 脇の大杉はご神木で、建物は
関ヶ原合戦で燃失したが、燃えずに残ったといわれる古木である。 祭神は伊富岐
で、社殿は東南東向きで伊吹山を遙拝する位置にあったが、伊吹山本体は見え
なかった。
中山道の鳥居まで戻り歩き始める。
五百メートル先の右側に復元された野上の
七つ井戸がある。 野上村は間の宿で、中世東山道時代には宿駅だったところ
である。
野上の七つ井戸からの左の細道を北に約150m(二分〜三分)入るとしゃもじ塚
と呼ばれる平安中期の豪族平忠常の墓がある。
* 「 平安時代に房総で反乱を起こした平忠常が捕らえられ、 京に護送される途中、病に伏し、村人が食べ物をしゃもじに乗せて差し出したところ、 しゃもじごと口に入れ、そのまま息絶えたといいます。 」
七つ井戸前を今度は左に入り、国道21号を横断すると野上行宮跡(あんぐう) 案内標識があり、標識に従ってJR東海道新幹線高架をくぐった先に天武天皇 (大海人皇子)野上行宮跡がある。
* 「 古代最大の内乱といわれる壬申の乱(672)に於いて、 大海人(おおあまの)皇子は野上の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地(しょうへち) に行宮を興して本営としました。 乱後に行基が行宮の廃材を利用して南方(なんぽう)六坊を建てたといいます。 」
国道21号まで戻ると、左手の野上交差点の並びに浄土真宗大谷派鶏籠山真念 寺があり、境内には班女(はんじょ)の観音堂がある。 堂内の中央に祀られて いるのが花子の観音像である。
* 「 斑女は今から千年以上も昔、当地が東山道の宿駅として
栄えていたころの話で、野上長者の召使、花子と都の公家吉田少将との悲恋を
題材にしたもので、謡曲にもなっている。 斑女の守り本尊とされる観音像は
室町時代の作といわれる。
斑女伝説 ー 「 平安中期ごろ、都から吉田少将が東国に下る途中、
長者の館に泊まり、花子と深い契りを結んだ。 花子は一子梅若丸を産んだ。
その子が少年になったので、少将の許に送ったが、なんの便りもないので、
花子も東国に下り捜し求めていると、一子は木母寺に葬られていることを
知った。 少将は梅若丸が下ってくる前、すでに都に戻っていたのである。
花子は驚き悲しみ、遂に狂女となり、形見の扇子を
開き舞いながら野上に帰り、ひたすら観音を念じた。 」
街道に戻ると松並木になる。 中山道に唯一残る松並木で、野上の松並木と
いわれるもの。
往時は松、杉、楓の並木が続いていたが、
近年虫害や台風などによって、減少の一途をたどっている。
右側に「山内一豊陣跡」の説明板がある。
* 「 山内一豊は関ケ原の合戦の際、垂井の一里塚と桃配山の 間の中山道沿いに布陣し、南宮山の西軍に備えました。 その後、南宮山の西軍に 東軍攻撃の気配が無い為、使番による家康からの命令を受け、山内隊は柴井の地まで 前進し交戦しました。 戦後、妻の内助の功もあって土佐九万八千石が与えられ ました。 」
松並木が石畳風舗装路になると、東海道本線と国道21号の接近する道の左脇に 広場があり、六部地蔵の祠がある。
* 説明板 「 六部とは六十六部の略で、全国の社寺などを巡礼し、旅を しながら修業している人で、厨子を背負い読経しつつ行脚中の行者が宝暦十一年 (1761)この地で亡くなったので里人が祠を建ててお祀りされたといわれています。 この六部地蔵さんは「六部地蔵虫歯なおして社参り」と詠われるように痛みの ひどい病気をなおすことで名を知られています。 関ヶ原町 」
このあたりから左手の桃配山の麓に幟がひらめいているのが見えるが、ここは 関ヶ原の戦いで家康が最初に陣を敷いたところである。
* 「 壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)はこの山に 布陣し、兵士に桃を配って激励すると、士気が高まり連戦連勝し、ついに大勝を 果たしました。 これにより桃配山と呼ばれるようになりました。 家康はこれにあやかり、ここに最初陣地を設営した。 」
松並木を過ぎると、国道に合流し、一ツ軒交叉点を横断し、斜め右の車止めの
ある歩道に入ると再び松並木になり、その先の右側に三面六臂馬頭観音像が祠内に
安置されている。
旧道はその先で国道21号に合流してしまう。
関ケ原東町交差
点辺りが関ケ原宿の東見付跡で、往時は土居が築かれていた。
ここが関ケ原宿の江戸方(東)の入口である。
* 「 関ケ原は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地 で軍事上の要衝でした。 この為壬申の乱や天下分け目の関ケ原の合戦の舞台 となりました。 関ケ原宿は伊勢街道や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、 問屋場は八軒置かれ、美濃十六宿中加納に次ぐ規模を誇りました。 」
国道を進むと右側に若宮八幡神社が鎮座している。
* 「 当社は関ケ原の合戦によって焼失したが、家康は修復の為に御扶持方三千人分
を正月から六月まで与えました。 」
右側に天文五年(1536)創建の浄土 真宗大谷派幽谷山法忍寺があり、当寺には十九女池(つづらいけ)竜女伝説に 登場する椀が保存されている。 GS ENEOSの敷地裏に與市宮(よいちのみや)があり、 当社には源平時代に関ケ原村の郷士で開拓者として仰がれた関ケ原與市の霊が 祀っている。
* 「 承安四年(1174)上洛した際に與市の馬が泥水を 蹴り上げて牛若丸(後の源義経)の衣を汚したところから争いとなり、 與市は従者数十名と共に殺害された。 これが京都の蹴上の地名由来になって いる。 」
天保十四年(1832)の宿村内大概帳によると、関ヶ原宿の家数269軒、宿内
人口1389人(男685人、女704人)、本陣1、脇本陣1、旅籠は33軒で、
大規模な旅籠が12軒もあった。
東公門交叉点手前の左側に明治三十二年(1899)創業の「宮内庁御用関ヶ原
たまり」の古い看板のある関ヶ原醸造の黒板の建物は雰囲気のある古い建物
である。
東公門交差点辺りに江戸百十三里目の関ケ原の一里塚があったというが、
遺構や標識は無く位置は不明である。
左側の百貨の店と吉田花店の間に関ケ原宿の七つ井戸跡の説明板がある。
* 説明板「 七つ井戸跡」
「 関ケ原宿内には他に東町若宮前、郵便局東、
藤井病院前、歩道橋前、宗徳寺前、愛宕神社参道前の六ケ所にありました。
関ケ原宿は宝暦十年(1760)の大火をはじめ度々火災に見舞われ、
そこで東町、西町間の宿並南側に井戸が掘られ、長い間防火、生活用水に利用
された。 」
(注) 関ヶ原は宝暦十年(1760)の大火の他、何度も火事が発生している。
伊吹おろしの強風に加え、川らしい川がないため、火事が発生すると大火事に
なることが多かった。
領主である旗本の竹中氏は火災対策として道幅を二倍に広げ、
中央部には水路を設け、その両脇には梅、桃、柿などを植えさせて、防火対策を
講じた。 宝暦十三年、宿場が復興すると秋葉神社を迎え、北山に祀り防火
の神とした。 しかし、その後も火災が発生しているので、古いものは
ほとんど残っていない。
国道右側の旅館桝屋(ますや)は平安時代の永長元年(1097)創業の老舗旅館で
あるが、建物は新しくなっている。
関ケ原駅前交差点を右折するとJR東海道本線関ケ原駅。
関が原駅前を左折、右折して、線路を越えると左側に広場があり、入ったところ
に「松平忠吉陣跡」と「井伊直政陣跡」の説明板が立っている。
* 説明板「松平忠吉 井伊直政 陣跡」
「 慶長五年九月十五日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島、藤堂、
京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康
の四男、松平忠吉、後の彦根城主井伊直政が約六千の兵で陣を構えた。
午前八時頃、軍監本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁し
て前進し、宇喜多直家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、
方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し、開戦の火ぶたが切られた。 」
一段下がった所の大木の右側に東首塚がある。
* 説明板 「 東首塚 国史跡(昭和6年3月30日」指定 」
「 この塚は関ヶ原の戦い直後にこの地の領主竹中家が築いたもので、家康によって
実検された西軍の将士の首がここに眠っています。 文部省の史跡指定時に標柱や
石柵が建てられた後、昭和十七年には徳風会によって名古屋から山王権現社本殿と
唐門が移築されて、東西両軍の戦没者慰霊堂になりました。
関ヶ原町 」
左側には首洗い井戸がある。
* 説明板 「首洗い井戸」
「 合戦で討ち取られた西軍の将士の首は家康により首実検され、その後塚をつくり、
ねんごろに葬られました。 首実検に先立ち首装束のため、この井戸水を使って、
首級の血や土などが洗い流されたと伝えられています。 戦国時代の戦場では
首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだった
のです。 関ヶ原町 」
広場にはトイレもある。 また、供養のため、朱塗りの山王権現社本殿と
唐門が移築されている。
東首塚の西門を出て北に向うと陣場野公園の手前右側に「田中吉政陣跡」、
その先の陣場塚公園に「徳川家康最後の陣地床几場」の説明板が立っている。
* 説明板 「田中吉政陣跡」
「 田中隊はここから石田隊に向けて兵を進め、笹尾山の山麓より討って出る。
先手の兵と激突。 本隊が二、三百メートル程引きさがる。 そこに他の
東軍諸隊の兵が食らいつくというように両軍間で激しい白兵戦が展開された
のです。 三成が自分の意思で残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは
合戦六日目のことでした。 関ヶ原町 」
その先の陣場野公園の中の竹垣で囲まれた土塁が家康の床几場だった ところで、高台の石柱には「床几場、徳川家康進旗験首處」と刻まれていて、 説明板が立っている。
* 説明板 「徳川家康最後の陣地 国史跡(昭和6年3月30日)指定」
「 戦いがたけなわになると家康は本営を桃配山から笹尾山の南東1キロの
この地に進出させました。 ここで家康は陣頭指揮に当たるとともに戦いが
終わると部下が取ってきた首を実験しています。 周囲の土塁や中央の高台は
天保十二年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。 」
この他、小西行長陣地跡陣、石田三成陣地跡などが盆地に広く分布しているが、 古戦場めぐりが目的ではないのでここで終了。
東首塚を経由しJRの踏切をまた
渡ると正面に八幡神社、その右側に宗徳寺があり、その間に道があるが、
この道が江戸時代の北国街道(北国脇往還)である。
今はJRの踏切で切断されているが、
かってはつながっていて、北近江から北陸に通じていた。
道を進むと国道21号の歩道橋に出るが、ここが北国街道の追分で、追分茶屋が
あったといわれる。
歩道橋の前の相川家の門の左側には「脇本陣関ヶ原宿」の木札があり、
門の右側には「至道無難禅師誕生地」の石碑と説明板が建っている。
脇本陣は相川家が勤め、建坪は七十九坪でした。
* 説明板 「 至道無難禅師誕生地 関ヶ原宿脇本陣跡 」
「 慶長八年(1603)、本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は
臨済宗妙心寺派の江戸初期の高僧です。 禅師は国師の法を継ぎ、宗派拡大に寄与
され、江戸禅宗界に名声を博しました。 寛文二年(1662)創業の日本橋白木屋元祖
大村彦太郎とは従兄弟の間柄で彦太郎の精神的糧は禅師から得られたと言います。
当家は後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。
関ヶ原町 」
右側の桐山会計事務所辺りが本陣があったところのようである。
本陣の建坪は百五十二坪、門構え玄関付きでしたが、残っているのは八幡神社の
鳥居の近くのスダジイの大木が本陣の庭の一部と伝えられるだけである。
現在の北国街道はその先の西町交差点を通る。 この交差点は国道21号、名神
高速道路から出入りする車や北国街道で長浜方面に向かう車で渋滞、大型トラック
が排気ガスを撒き散らしながら、延々とつながっている。
その角に遍照山円龍寺があり、門前に「明治天皇御膳水」の石碑がある。
又、交差点を渡った右の立派屋敷門の前に「勤皇志士三上藤川誕生地」という
石碑があったが、歴史上どのような活躍をした人か分からない。
東赤坂から歩いていたが、今日はここで終了することにして、関ヶ原駅から帰宅した。
(所要時間)
東赤坂駅→(20分)→赤坂宿→(1時間)→青墓集落→(1時間)→垂井宿→(50分)→垂井の一里塚
→(1時間10分)→関ヶ原宿
垂井宿 岐阜県垂井町垂井 JR東海道本線垂井駅下車。
関ヶ原宿 岐阜県関ヶ原町公門 JR東海道本線関ヶ原駅下車。