関ヶ原駅から醒ヶ井まで歩いたが、この区間は醒ヶ井に行くまで飲食店はもちろん
コンビニもなく、持参したボトルのお茶とチョコレート1枚で飢えをしのぐ羽目
になった。 また、関ヶ原駅周辺も喫茶店が1、2軒あるだけで、食堂は見つから
なかった。
関ヶ原宿から今須宿間は旧道が残っている。
関ヶ原西町交叉点を横断して橋を渡るとすぐの右側に西首塚がある。
東首塚と同様にこの地の領主竹中重門が徳川家康の命により、
戦死者を埋葬した高さ2m、周囲30mの塚である。
大きなケヤキの両側に祠があり、右の祠に十一面千手観音、左の祠に馬頭観音が
祀られている。
* 説明板 「西首塚」
「 関ヶ原合戦戦死者の数千人の首級を葬った塚である。 この上に江戸時代から
十一面観音および馬頭観音のお堂が建てられ、付近の民衆の手によって供養が
されている。 関ヶ原町教育委員会 」
階段を上がって奥をみると、大木の周囲に墓(五輪塔)が多数祀られていて、
胴塚とも呼ばれている。
線香と供花が手向けられていた。
先程寄った東首塚が官製の荘厳な感じがしたのに対し、付近の人々の手で供養されて
きたせいか、庶民的で親しみがもてる感じがした。
三叉路の先の右手奥に明治二十二年(1889)建立の北野社常夜燈がある。
西首塚から五百メートル強進んだ松尾交叉点で、国道と分かれて左斜めの道に
入ると左側の電柱に松尾山(小早川秀秋陣跡)、福島正則陣跡という案内が張りつけら
れている。
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入って二つ目の細道入口に「月見の宮 福島陣址 一丁」の道標が建って いる。 「月の宮」の道標を左折し、次の道を右折すると左側に春日神社が建っていて、 、「月見宮大杉」と「福島正則陣跡」の説明板が立っている。
* 説明板「 月見宮大杉」 町天然記念物(昭和36年8月5日指定)
「 この杉の巨木は関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定
されています。 平安の御世より長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値し
ます。 その記録は幹の年輪に刻まれています。 目通り約5.80m、高さ約
25mと見戸大神宮大杉に次ぐ正に杉の横綱です。 関ヶ原町 」
* 説明板 「 福島正則陣跡 」
「 東軍の先鋒となった福島正則隊(約六千人)はここで南天満山の宇喜多隊と対陣
しています。 一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮
して宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。
首取りで手柄を立てた可児(かに)才蔵が家康の賞賛を受けたとされています。
関ヶ原町 」
春日神社から次の道を右折し、街道に戻ると「美濃不破関の東山道と東城門跡」 の説明板が立っている。
* 説明板 「 美濃不破関のほぼ中央部に東西に東山道が 通り抜けていた。 関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守り固めて いた。 日の出とともに開門、日の入りともに閉門された。 また、奈良の都での 有事や天皇の崩御など、国家的大事件が起きると中央政府からの指令によって固関 (こげん)が行われ、すべての通行が停止された。 関ヶ原町 」 とあった。
不破は近江と美濃の国境という重要な位置に位置し、北に伊吹山、南に鈴鹿山系 の山々が迫っていて、その間はせいぜい数キロという狭い盆地になつている上、 琵琶湖を渡ってくる風が伊吹山にあたり、冬季は雪が深い土地柄である。 この一帯は昭和四十九年〜五十二年に行われた調査で不破関の庁舎があったことが 確認され、奈良時代には掘立柱や瓦葺きの建物が建っていたというところで ある。
街道に「井上神社」の大きな社標が立っているが、井上神社は東海道新幹線のガードを
くぐった右側にあり、大海人皇子(天武天皇)を祀っている。 寄らなかった。
街道を二〜三分進むと右側に 「不破関の庁舎跡 大海人皇子の兜掛石・沓脱石 80m2分」
の道標があり、右に入り民家の狭い道を通り抜け、七十メートルほど行った畠の中
に小さな祠があり、その中に壬申の乱
の時、大海人皇子(後の天武天皇)が兜を掛けたといわれる自然石が祀られている。
* 説明板 「 不破の関庁跡と兜掛石(町県史跡) 」
「 この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その
北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(約108m)四方の関庁が設けられ、内部には
庁舎、官舎、雑舎等が建ち並び、周辺の土塁内には兵舎、食料庫、兵庫、望楼等々
が建っていました。
ここに祀られている石は壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられ、
左に斜めのうしろには同皇子使用の沓脱石があります。 関ヶ原町 」
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街道に戻り、少し進むと左側の建物の門前に「不破関跡」の説明板がある。 不破関は都(飛鳥)を守るため、天武天皇の命により設けられたもので、関が廃止 後は関守として三輪家が守ってきた。 この不破の関を境に関東、関西に分かれる。
* 説明板「不破関跡」町・県史跡
「 東山道の美濃不破関は東海道の伊勢鈴鹿関、越前愛発(あらち)関とともに、
古代律令制下の三関(さんげん)の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたと
されています。 延暦八年(789)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は
多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりに記されてきました。 関ヶ原町 」
三輪家の白壁の塀の裏は関月亭庭園になっていて、芭蕉の句碑と「不破関守跡」 の説明板が立っている。
* 説明板 「不破関守跡 町県指定史跡(昭和44年6月21日 昭和
45年4月7日)
「 木曽路名所図会にも描かれて関藤川より大木戸を登り切った辺りのこの一帯は
関守の屋敷跡です。 関守は延暦八年(789)の関の停止以後に任命されたと考えま
す。 関守官舎は関庁推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する段丘陵の眺望の
良い所にあり、格好の地にあったと言えましょう。 関ヶ原町 」
(ご参考) 不破関は藤古川の左岸の自然の要害の地形を利用して設置され、天皇の崩御や
都でなにか騒動があると固関使(こげんし)が派遣され、東山道を通るものを警戒
していた。 しかし、平安時代の延暦八年(789)、桓武天皇により関は停止され、
鎌倉初期の「東関紀行」には 「 越えはてぬれば不破の関屋なり。 萱屋の
板庇年経にけりと見ゆるにも、後京極摂政殿の荒れにしのちはただ秋の月・・・ 」
と書かれているように、不破の関庁舎は廃屋になってしまう。
しかし、いつの頃かはっきりしないが、関と関守が再び復活する。 東山道を通行
する人や荷物から関銭(せきせん)を徴収するために関所が設けられたのである。
全国で展開された関銭であるが、信長の楽市楽座で象徴されるように自由な
往来を保証する時代に姿を消していった。
江戸時代に入ると不破の関所もすっかり寂(さび)れたようすで、
芭蕉は軒端朽ちたるあばら屋になった関跡を偲んで、
「 秋風や 薮も畠も 不破の関 」
という句を残している。
また、太田南畝の歌碑 「 大友の 王子の王に 点うちて つぶす玉子の ふはふは
の関 」 がある。
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三輪家の前で、道は三叉路になっていて、中山道は左へ下るが
右の道を上ると発掘調査で出土された土器類を収納する不破関資料館がある。
三叉路には「左 旧中仙道」「右 中仙道 大谷吉隆墓十丁」の道標がある。
急な大木戸坂を下ると、左手に戸佐々(こささ)神社があり、不破関を鎮護する松尾
産土大神が祀られている。
左の道を下って行く途中に西城門跡と藤古川の説明板が立っている。
* 説明板 「不破関の西城門と藤古川」
「 不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されて
いました。 川面と段丘上との高度差は約十〜二十米の急な崖になっており、また
この辺り一帯は伊吹と養老、南宮山系に挟まった狭隘な地で自然の要害を巧みに
利用したものでした。 ここには大木戸という地名が残っており、西城門があった
とされています。 関ヶ原町 」
坂を下った藤古川に架かる藤古橋の手前に関の藤川の説明板があり、 橋の中央に藤古川の古い説明板が立っている。
* 説明板 「関の藤川(藤古川)」
「 この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と
呼ばれていました。 壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。 更に
関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上の要害の
地でした。 またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数多くの詩歌
が詠まれたことが世に知られています。 関ヶ原町 」
平安時代以降、藤古川は歌枕になって多くの歌が詠まれている。
「 みのの国 せきの藤河 たえずして 君に仕えん 万代までに
(古今和歌集) はその1つである。
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壬申の乱は天武天皇元年(672)に起きた日本古代最大の皇位継承争いの内乱で ある。 大化改新を成し遂げた天智天皇が崩御すると、天皇の子大友皇子 (おおとものおうじ、後の弘文天皇)に対し、天皇の弟大海人皇子 (おおあまのおうじ、後の天武天皇)が反旗をひるがえし、反乱者である 大海人皇子が勝利を納めました。 この勝利は特に地元美濃出身の兵士等の活躍に よるものといわれている。
* 説明板 「藤古川」
「 この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱(672)では川を挟んで東側が天武天皇
軍、西側には弘文天皇軍が陣し、そこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後
東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では
弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。 関ヶ原町観光協会 」
往時の戦に思いを馳せながら藤古川を藤下橋で渡ると藤下集落に入る。
左側に若宮八幡神社の標石があり、左に入り、三叉路を右に進むと右側に若宮八幡
神社があり、敗れた大友皇子(弘文天皇)を祀っている。
本殿は天文二十二年(2553)に造営修理され、桧皮葺きの桃山様式の極めて貴重な
建造物である。
街道に戻って緩やかな上り坂を進むと三叉路になり、分岐点には箭先地蔵堂と
その手前に「左旧中山道 右中仙道大谷吉隆の墓七丁」の道標がある。
箭先地蔵堂には明治十一年(1878)に坂を開削した時に出土した地蔵尊と弘文天皇稜にあった地蔵尊が安置されて
いる。
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中山道はこの分岐点を右に進む。 箭先地蔵堂の裏に矢尻の池(井)があり、
今もその名残を留めている。
* 説明板 「矢尻の池(井)」
「 関ヶ原から今須宿に向う中山道のうちでも不破関、藤川と続くこの辺りは木曽路
名所図会にも描かれ、歌枕となっていました。 この窪みは壬申の乱(672)のとき、
水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。
長い年月を経た今ではその名残りを僅かに留めているに過ぎない。 」
やがて民家もないところになり、先程分岐した道に合流する。 左側に 「弘文天皇御陵候補地跡150m5分」「自害峯の三本杉150m5分」の道標が 立っている。 道の左テは低地で、下には田畑が広がり、その先に見える山が 自害峯と呼ばれ、弘文天皇御陵候補地とされるところで、目印は三本杉である。
* 「 不破の関から三百メートル程行くと自害峰と呼ばれる丘
がある。 このあたりで、壬申の乱の戦いが始まり、最後は近江の瀬田で、
大海人皇子軍が大友皇子軍を破り、大友皇子は自害したとされる。
大海人軍の将、村国連男依は大津の近くの山前で自害した大友皇子の首を戴き、
不破の野上に凱旋。 天武天皇(大海人皇子)は御首験を行い、大友皇子の首は
この丘陵に葬り奉つた、と伝えられているが、乱に敗け二十五才で
自害された大友皇子の首は首実験の後、地元の人々が貰い受け、この丘に葬り、
そのしるしに杉を植えたとも伝えられる。 明治時代に宮内庁が調査し、
大友皇子に「弘文天皇」の謚名が追号され、ここは弘文天皇御陵候補地になり
ました。 」
自害峯三本杉には立ち寄らず、直進すると国道に出る。 国道の手前に「これより
中山道 関ケ原宿藤下 関ケ原町」の標識がある。 この辺りに藤下村の高札場
があったといわれる。
国道21号を東海自然歩道歩道橋で横断すると、東山道の宿駅でもあった
旧山中村の山中集落である。 旧道口には「これより中山道 関ヶ原宿山中 関ヶ原町
」の標識と東海自然歩道の「←不破関・不破関資料館600m12分 松尾山山頂2.5q60分
エコミュージアム関ヶ原2q 常磐御前の墓700m14分→」が立っている。
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先に進むと北山の縁に貼りついたように家が並んでいた。
右側に「村社若宮八幡神社」の社標があり、社殿はJR東海道本線を越えた
小高いところにに鎮座している。 この神社の祭神は弘文天皇である。
参道口の左側に「宮上大谷吉隆陣跡」の標石があるが、西軍の大谷吉継が
陣をおいたところである。
* 「 大谷吉隆(吉継)は山中村の藤川台に布陣し、東軍藤堂高虎、京極高知と奮戦してい たが、背後で東軍に寝返った小早川秀秋の攻撃を受け、軍は壊滅し、吉継は自害 して果てた。 享年四十二歳。 墓は中山道を横断している小川に沿って奥に上って 行き、煉瓦造りの鉄道橋のトンネルをくぐると、一キロ弱のところにある。 東軍の藤堂家が建てたものである。 」
右側の真宗大谷派教楽寺を過ぎると、右側に「ここは旧中山道 間の宿山中」の標識と 高札場跡の説明板がある。
* 「 山中村は中世東山道の宿駅でした。 江戸時代になると関ケ原宿と今須宿の中間に位置し、立場茶屋が設けられ間の宿 と呼ばれました。 山中村は旗本竹中氏の知行地で、ここに高札場が設置されて いました。 」
その先の左側に小さな川が流れているが、壬申の乱で吉野方(大海人皇子軍)と 近江方(大友皇子軍)との激戦があったといわれる黒血川で、 川のたもとに説明板が立っている。
* 説明板 「黒血川(くろちがわ)」
「 壬申の乱(672)のとき関の藤川の西岸に近江軍、東岸に吉野軍が布陣し対峙して
いました。 「日本書記」によりますと、七月の初め、近江軍(大友軍)の
精鋭が玉倉部(たまくらべ)をつき、吉野軍(大海人皇子軍)がこれを撃退します。
これを機に吉野の大軍は藤川を越えて、近江の国へ進撃を開始します。 この時
の激戦で、この山中川は両軍の血潮で黒々と染めたといいます。 その後、川の名も
黒血川と変り、激戦のようすを今に伝えています。
白波は岸の岩根にかかれども 黒血の橋の名こそかはらね
(室町時代の文学者関白太政大臣 一条兼良)
関ヶ原観光協会 」
黒血川の先の左眼下に鶯(うぐいす)の滝がある。
* 説明板 「鶯の滝」
「 旧中山道の山中村は古くは東山道の山中宿でもあった。 荷を運ぶ馬をひく馬子
や駕籠をかく人夫たちが杖を立てて休む立場もあった。 今須峠をのぼる人や峠を
こしてきた旅人にとって、ここには旅の心を慰める珍しい滝があった。
滝の高さは一丈五尺(約四・五メートル)と記録されており、水量も豊かであった。
何より冷気立ちのぼり、年中、鶯の鳴く、平坦地の滝として、街道の名所のひとつ
となった。
室町時代の文学者で、関白太政大臣でもあった一条兼良は、
次の歌を詠んでいる。
「 夏きては 鳴く音をきかぬ 鶯の 滝のみなみや ながれあふらむ 」
関ヶ原町観光協会 関ヶ原歴史を語る会 」
* 説明板「鶯の滝」
「 中世(鎌倉室町期)の山中村は旅人も泊まる
宿駅として栄えていました。 近世(江戸時代)では関ヶ原宿と今須宿の間の宿
の村として、人足が馬や駕籠を止めて休息する立場や酒屋、餅菓子屋、果物屋、
古手屋などが軒を連ね活気を帯びていましたようです。 ところで、この滝は今須峠
を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所でした。 滝の高さは約5m、
水量は豊で冷気立ち込め、うぐいすが鳴く、平坦地と滝として、街道の名所に
鳴っていました。 関ヶ原町 」
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滝の近くには二つの祠に地蔵尊が祀られている。 一つは黒血川地蔵で、もう
一つは鶯滝地蔵である。 小生が訪れた後新設された交通安全地蔵菩薩もある
ようである。
JR東海道新幹線高架手前の三叉路を右に進み、新幹線のガードをくぐり、
先の三叉路は左に進む。 八十メートル程のところの右側に小さな祠があり、
地蔵尊が祀られている。
ここを右に入ると小公園に、義経の母、二つの祠の墓と芭蕉の句碑があり、
また、トイレもある。
* 説明板 「常盤御前の墓」
「 都一の美女と言われ、十六歳で源義朝の側室となった常盤御前。 義朝が平治の乱
で敗退すると、敵将清盛の威嚇で、常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ仕方なく
清盛の側室となります。 伝説では、東国に走った牛若(義経)の行方を案じ、
乳母の千草と後を追ってきた常盤は土賊に襲われて息を引取ります。
哀れに思った山中の里人がここに葬り塚を築いたと伝えられています。
関ヶ原町 」
塚には二つの宝筐印塔二基と五輪塔がある。
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常盤御前の墓の傍らに句碑が二基ある。
芭蕉句碑は寛政六年(1794)垂井町岩手生まれの美濃派の俳人、化月坊(本名国井義陸)
が文久二年(1862)に建立したもので、
「 義ともの 心耳似多里 秋乃可世 者世越翁 」
( 義朝の 心に似たり 秋の風 芭蕉 )
と刻まれている。
この句は野ざらし紀行にあるものである。
* 「 野ざらし紀行 」
松尾芭蕉の「野ざらし紀行」には 「 大和より山城を経て、近江路に入て美濃に
至る。 今須・山中を過ぎ、いにしへの常磐の塚有。 伊勢の守武が云える
「義朝殿に似たる秋風」とはいずれの所か似たりけん。
我も又、 「 義朝の 心に似たり 秋の風 」
不 破 「 秋風や 藪も畠も 不破の関 」 と、
この部分が記されている。
化月坊の句碑には 「 その幹に 牛もかくれて さくらかな 」
と刻まれている。
化月坊は慶応四年(1868)にこの塚の前に秋風庵を開き、盛大な句会を催したという。
その後、庵は垂井一里塚の隣に移築され、茶所として旅人の休憩所、句会の場となり
活用されました。
街道に戻るとすぐ先で分岐した道に合流する。
この分岐点には「常盤御前の墓 すぐそこ」の道標がある。
その先に左に入る道があり、ここに「山中大師」の道標がある。
大正六年(1917)建立の道標を兼ねた石仏で、「右聖蓮寺道」と刻まれている。
聖蓮寺(しょうれんじ)は親鸞聖人ゆかりの古刹である。
右側に常盤地蔵を祀った祠がある。
* 「 常盤御前の死を哀れに思った村人は無念の悲しみを伝える
常盤地蔵をここに安置しました。 寿永二年(1183) 源義経(牛若丸)は上洛のため
二万余騎の大軍を率いて当地に到着しました。 若宮八幡神社で西海合戦勝利を
祈願し、母の墓及び地蔵前でしばし跪き、草葉の陰から見守る母の冥福を祈ったと
いいます。 」
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人家もなくなり、突然、東海道本線が現れたので、びっくり。
山中踏切踏切を渡ると今須峠(いますとうげ)の入口で、急坂だが鉄道のトンネルを
見ながら上る。
道は舗装され、普通自動車一台が通れるほどの道幅がある。
東海道本線もここは急なので、二つに分かれて線路が
作られている。 JRのトンネルの入口から少し歩くと、道の左側に説明板が
あり、標高175mの今須峠の頂上である。
* 説明板「今須峠(中山道)」
「 此処峠の頂上は山中の常磐御前塚辺りの登り口より約一キロの道程です。
一条兼良はこの峠で「堅城と見えたり。 一夫関に当てば万夫すぎかたき所というべし
」 (藤川の記) と認めたように、この付近きっての険要の地でした。 往時のこの
付近には茶店があり、旅人の疲れを癒すお休み処として賑わっていました。 京の
方向に向って約二百米、一里塚を眺めて峠を下ると、今須の宿に入ります。
関ヶ原町 」
今須峠の辺りは北西側に大きな山がないため、日本海側から湿った季節風が吹き
込み、伊吹山にぶつかると大雪になり、馬も滑るといわれた難所である。
今須峠には五〜六軒の茶屋がありました。
中山道はゆるやかな坂道で蛇行しながら続いている。
やがて眼下に今須の町並みが見えてきた。
突当りの国道21号を右折する。 この分岐点には「これより中山道」の標柱がある。
右側の線路脇には長江氏の祖、鎌倉権五郎景政が祭られている青坂神社
(せいばんじんじゃ)があり、境内に家康の腰掛岩がある。
*
「 景政の子孫の長江秀景が承久の乱後この地に移り住み、
西濃の地域に勢力をもつようになり、室町時代には今須は長江氏一族の領地に
なったのである。
境内にある徳川家康の腰掛岩は、慶長五年(1600)九月十六日、関ヶ原
の戦いで勝利した家康が近江佐和山へ軍を進める途中、ここ今須宿の伊藤家で一休み
した際に使用したというもので、江戸時代本陣となった伊藤家は代々大切にしていたが
、明治三年(1890)の本陣廃止後、当境内に移され、公開保存されることになった
といわれるものである。 」
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国道21号を進むと左側に江戸より百十四里目の今須の一里塚がある。
昭和三十年に国道工事で取り壊されたが、平成二年に本来の位置より東側に復元された
もので、ケヤキが植えられている。
そのまま国道の左側を進み左に入る道が中山道で、
横断歩道を横断すると「これより中山道今須宿」の標柱が
立っている。 今須宿に到着である。
今須宿は、天保十四年(1843)の宿村内大概帳に、家数464軒、宿内人口1784人、
本陣1、脇本陣2、旅籠は13軒とあり、このあたりの宿場では人口が一番多い
宿場町である。
* 「 今須宿は中山道美濃路西端の宿場で、妙応寺の門前町と して発展し、旅籠、茶屋、造り酒屋や商店などが軒を連ね、大いに賑わったという。 また、近江と伊勢との交易ルート上にあり、琵琶湖から美濃への物資流通で賑わい、 問屋場は一時七つもあり、荷車の使用が認められたのは垂井宿と共に街道で最初で ある。 」
雨谷(あまがたに)川を門前橋で渡り、次いで中挟(なかばさみ)川を今須橋で渡る
と銅板葺きの常夜燈が建っている。
今須橋を渡ると、正面に 「中山道今須宿」 左面に「左関ヶ原宿一里」 右面に
「右柏原宿一里」 と書かれた石柱が立っている。
近くに「本陣跡、脇本陣跡」の説明板も立っている。
* 説明板 「 中山道今須宿・本陣跡・脇本陣跡 」
「 当宿は美濃国と近江国との境の宿として栄えた。 二一五坪の本陣が一軒で、
現在の小学校と支所付近一帯に位置していました。 また、脇本陣は美濃十六
の中でも当宿のみ二軒あり、各々現在の小学校駐車場付近辺りにあったのです。
後者河内家の母屋は寛政年間に現在の米原市伊吹町の杉沢地内、妙応寺末寺、
玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えています。
尚、関ヶ原合戦の翌日、佐和山城攻めに際し、家康は本陣伊藤家の庭先で休息した
折、腰掛けたという石は現在、東照宮権現腰掛石として青枝神社境内で保存展示
されています。 関ヶ原町 」
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今須宿は東から門前、仲町、西町の三町で構成され、宿長は十町五十五間(約1.2km)
でした。
今須宿碑向いの大きな駐車場の左側には「曹洞宗青坂山妙応寺」「火滅薪盡道場」
などに石碑がいくつかあり、幸福地蔵が祀られている。
国道そして東海道線のトンネルをくぐると妙応寺があり、山門の脇に説明板が立って
いる。
* 説明板「妙応寺」
「 妙応寺は曹洞宗総持寺の末寺です。 南北朝時代に鎌倉から移って来た長江重景が
母妙応のためにたてられた
ものです。 この寺の墓地には長江氏のものもあります。 また、妙応おばあさんが
使った大きな桝と小さい桝が寺の宝として、今も残っています。 関ヶ原町
」
妙応寺は長江家四代目今須城主重景が正平十五年(1360)母妙応の菩提を弔うために
創建し、菩提寺としたもので、今須の地名は重景の母妙応が年貢の取り立てに大枡を
用い、米の貸付には小枡と、異なる異枡(います)を用いたところを由来としている。
街道に戻る。 左側の改善センターの駐車場に「中山道今須宿本陣跡」の説明板が
立っている。
* 説明板「中山道今須宿 本陣跡」
「 本陣は一つあり、学校の駐車場と改善センターの東隣りにありました。
本陣は身分のたかい人がとまり、(建坪は)二百十五坪ありました。 昔からさいて
いる紅梅がいつまでも今須小中学校の門の前にのこっています。 」
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隣に脇本陣の説明板が立っている。
* 説明板「中山道今須宿 脇本陣跡」
「 今須宿は他の宿とちがって脇本陣が二つありました。 脇本陣があった場所は
農協のあたりと改善センターの辺りにありました。 脇本陣とは本陣にお客さんが
いっぱいになった時の予備の宿のようなもので、身分の高い人がとまりました。 」
二つの説明板は今須小中学校の学童が書いたようで、一生懸命の雰囲気が出て
いた。
街道の右側JAにしみの今須支店辺りが河内脇本陣跡である。
母屋は寛政年間(1789〜1801)に妙応寺末寺の玉泉寺(米原市伊吹町の杉沢地内)に
移築され、当時の面影を今に伝えているという。
すぐ先の右側に美濃路で唯一残る問屋場・木田問屋跡(山崎家)があり、
説明板が立っている。
* 説明板 「問屋場」
「 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなどを行った問屋が当宿では一時七軒もあって
全国的にも珍しいことでした。
美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ
山崎家のみです。 縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や広い庭と吹き抜けなどから、
当時の繁栄振りがうかがえます。 関ヶ原町 」
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山崎家は江戸時代の問屋場なので、荷車が入る広い玄関や吹上、苔むした土間など
が残っている。
問屋場の脇を右手に入ると観音寺がある。 観音寺辺りは地獄谷と呼ばれ、
長江家の屋敷跡といわれている。
郵便局の先、左側の民家の板塀の一角に「金比羅大権現永代常夜灯」と呼ばれる
常夜灯が建っている。
* 説明板「常夜灯」
「 街道が賑わっていた江戸期は文化五年(1808)のことです。
京都の問屋河内屋は大名の荷物を運ぶ途中、ここ今須宿付近で、
それを紛失し、途方に暮れてしまいました。 そこで、金比羅様に願をかけ、
一心に祈りました。 幸いに荷物は出てきて、その礼にと建立したのがこの常夜燈
です。 関ヶ原町 」
右側の小畑商店の脇が愛宕神社の参道口で、明治三十年(1897)建立の山燈籠が
ある。 社殿はJR東海道本線を越えた山中に鎮座している。
仲町から西町に入ると左手に真宗大谷派大渓山真宗寺がある。
大正七年(1918)の火災で焼失しましたが、同十年(1921)に再建されました。
次いで右側に真宗大谷派金剛山法善寺がある。
すぐ先の左側に「村社八幡神社」の標柱と常夜燈と鳥居があり、今須八幡神社の参道口
である。 八幡神社の社殿は名神高速道路を越えた先に鎮座していて、村の鎮守である。
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鳥居の奥は神社への参道になっているが、少し高くしたところに山燈籠が あるが、これは「今須八幡神社遥拝塔」といわれる石塔がある。
* 説明板 「 八幡神社は暦仁元年(1238)、この先の森の中に 勧請鎮座したもので、慶長七年に再造されたとする棟札がある。 遥拝塔は 本殿下の橋が氾濫で度々流されたので、ここに設けられた。 」
十分歩くと今須交差点手前の左側に土道の上り坂があり、車返しの坂と呼ばれる 旧道の痕が残っていて、 「舊蹟車返美濃國不破郡今須むら」の石碑が立って いる。
* 説明板 「車返し坂」
「 南北朝(1336〜92)の昔、酔狂な人もいたものです。 不破の関屋が荒れ果て、
板庇(ひさし)から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ京都から牛車に乗って
やってきました。 その御人は公家の二条良基という人。 ところがこの坂道を
登る途中、屋根を直したと聞いて、引き返してしまったという伝説から、この名で
呼ばれるようになったのです。 関ヶ原町 」
摂政の二条良基は「荒れ果てた不破関屋の板庇から、漏れる月の光が面白い」と
聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやってきた。 ところが不破の関では高貴な方が
来ると聞き、見苦しい所は見せられないと急遽屋根を修理してしまった。
良基はこの坂の途中でこの話を聞いて嘆き、 「 葺きかえて 月こそもらぬ
板庇 とく住みあらせ 不破の関守 」と詠み、車を引き返した。 この
話は価値観の違いと上司へのへつらいという意味で面白い。
坂を上ると広場の奥の中央の祠の中に大きな石仏の車返し地蔵尊が祀られている。
残念ながらこの先の通り抜けは不可で、戻りましょう。
国道21号線を今須交差点にて横断する。 この交差点には「これより中山道今須宿」
の標柱があり、今須宿の京方(西)入口で、今須宿はここで終わる。
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今須交叉点の左側に「寝物語の里0.3km→」「中山道→」の道標が立っている。
国道を横切り、JRの踏み切りを渡ると軽い上り坂になり、少し歩いた右側に芭蕉の
句碑が立っている。 平成になって建てられたもので、芭蕉が野ざらし紀行の帰りに
ここで詠んだ句 「 正月も 美濃と近江や 閏月(うるうづき) 」 が刻まれ
ている。 貞享元年(1684)十二月野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの
帰路二十三日頃、この地寝物語の里今須を過ぐる時に吟じたものである。
そこから百メートルほど行くと一尺五寸(約50cm)の細い溝の中央に「←美濃国」
「近江美濃両国境寝物語」「近江国→」の石柱が建っていて、その下に小さな
「岐阜県」「滋賀県」の石柱がある。 古来この細い溝が美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)
の国境、現在は県境になっている。
* 「 國境の手前の岐阜側には 「旧蹟寝物語美濃国不破郡今須村」、
國境を越すと滋賀県側には「 近江美濃両国寝物語 近江国長久寺村」と刻まれている。
」
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美濃側は両国屋、近江側はかめやという旅籠が並んでいて、中央に「江濃国境」の木柱
が描かれている。 旅籠が寝ながらにして話ができるくらい接近して建てられている
様を広重の絵からも感じとることができる。
国境を越えた近江側の右側の民家脇に「寝物語の里」の碑と説明の石碑がある。
* 説明板「寝物語の由来」
「 近江と美濃の国境はこの碑の東十メートル余りにある細い溝でした。
この溝を挟んで両国の番人や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」
ので、寝物語の名が生まれたと言われています。 また、平治の乱(1159)後、源義朝
を追ってきた常盤御前が「夜更けに隣の宿の話し声から家来の江田行義と気付き、奇遇
を喜んだ所」とも、「源義経を追ってきた静御前が江田源造と巡り合った」所とも
伝えられています。 寝物語は中山道の古蹟として名高く古歌等にもその名が出て
いますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。
ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに
太田道灌
平成四年一月 滋賀県山東町(米原市) 」
江戸時代でも現代でも県境に関してこのようなロマン溢れる話は類はなく、
秀逸に思えた。
近江側に三十メートル進んだ左側の長久寺集落の前に「ここは中山道寝物語の里」の
標示と「ここは長久寺です」の説明板が立っている。
* 説明板 「ここは長久寺です。」
「 江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ
啼よむし 寝もの語りの 契りとも 化月坊(芭蕉十哲各務支考美濃派十五世)
長久寺村
今昔此の辺りに両国山長久寺という寺ありし故今村の名となれり。
近江美濃の境なり
家数二十五軒あり、五軒は美濃の国地、二十軒は近江の国地なり
壁一重を隔て近江美濃両国の者寝ながら物語をすという事
畢竟(ひっきょう)相近きの謂なり、両国の境には僅かに小溝一つを経(へだ)つ
五軒の家は美濃なまりの詞(ことば)を用い専ら金を遣うて銀は通用せず
二十軒は近江詞にて銀を通用す
享保十九年(1734) 近江国輿地志略 」
(ご参考) この國境を挟んで二十五軒の集落があり、美濃側の五軒は美濃訛(なまり)
を話し、使用貨幣は金でした。 それに対して近江側の二十軒は近江訛で話し、貨幣は
銀(関西は銀本位)であったといいます。 広重は今須としてこの國境の景を描いていて、
近江側の茶屋近江屋と美濃側の茶屋両国屋の間に江濃両国境と記された傍示杭を
描いている。
寝物語の里碑の奥に廃寺となった「永正山妙光寺」の石碑と「寺跡」の丸石碑と
鬼瓦があり、広大な境内跡地を残している。
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先程の県境で落合宿から歩いてきた美濃路の旅も終りである。 百キロはないけ
ど、九十キロほどの旅であった。
ここから、いよいよ近江路である。 その先には京都三條!!と江戸時代の人は
はやる気持ちを持ったのではないか? 私も京都が少し近づいたという感じがした。
長久寺の地名は昔この辺りにあった両国山長久寺に由来している。
長久寺集会所先の右手奥に春日神社があり、祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)
で、応永十三年(1406)の創祀である。
集落にはベンガラ塗りの家が多い。 「水利と農村文化探訪マップ」 にベンガラ
の町並の解説があった。
* 「 ベンガラとは木造建築の柱など、木造部分を朱色に塗る 顔料の慣用名である。 西日本全域に分布していますが、滋賀県では湖北地方に多く 見られます。 赤いベンガラで塗った家は柏原から長久寺までが圧倒的に多く、 美濃に入ると特殊の場合を除いて見ることはなくなります。 ちょうど滋賀県と岐阜県の県境にあたるこの場所が境界線となっており、地域の 伝統的な農村集落景観を形成しているといわます。 」
ゆるい上り坂を進み、集落を抜けると右側が山になり、楓(かえで)並木になる。
これは明治に入って植栽されたもので、往時は松並木であったといわれる。
右側に「弘法大師御侘水」の碑があるが、碑のみで痕跡は残っていない。
先に進むと右側に車道に沿って旧道あり、「←江戸後期大和郡山領
柏原宿 寝物語の里 長久寺→」の歴史街道中山道碑の先で車道に合流する。
この合流点に長比城跡登り口標石がある。 元亀元年(1570)織田信長に反旗を
翻した小谷城主浅井長政が信長の近江侵攻に備えて國境を固める為に築城した山城
である。
登り口を横断すると「神明神社 天神宮 秋葉宮 参道」の標柱と鳥居と山燈籠が
立っている。 山燈籠脇に「旧東山道」の石柱と説明板が立っている。
* 「 神明神社は延宝五年(1677)に創建された柏原宿の総社で、 祭神は天照大神である。 鳥居前の灯篭は右は寛政十二年(1800)、 左は享和三年(1803)に建立されたもの。 」
その傍らの案内に旧東山道とあったので、入って行くとJRの線路までの僅かな 部分しか残っていない。
* 「 國境よりここまでの中山道は古道の東山道の上に敷設
されたが、その先は廃道になり、野瀬踏切を渡り柏原宿に入る道が新設された。 」
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神明神社から先は緩い野瀬坂を下る。 街道は左折してJRの野瀬踏切を 渡り、直進し、右に回り込んだ先の右手に白清水(しらしょうず)がある。
* 「 古事記に倭建命(日本武尊)が伊吹山の神に悩まされ、 この泉で正気づいたところから玉の井と呼ばれ、又、照手姫の白粉(おしろい)で 清水が白く濁ったところから白清水とも呼ばれました。 」
踏切を渡って左の道に入るとすぐ柏原宿の石碑が建っていて、その中に柏原宿
分間延絵図が描かれている。 また、鎌倉時代から明治時代の柏原宿の略史が
記された解説板もある。 柏原宿は長さ一・四キロにも及ぶ大きな宿場である。
柏原宿の石碑のすぐ先の右側に照手姫笠懸地蔵を祀る地蔵堂がある。
地蔵堂の中には二体の石仏があるが、右側の背の低い石像が照手姫笠懸地蔵
である。 左の地蔵尊は昭和の代に奉納された安産地蔵である。
* 説明板 「照手姫笠地蔵と蘇生寺」
「 地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を
照手姫笠地蔵と云う。
現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、
神明神社鳥居の東側平地に在った蘇生寺の本尊ということから、「蘇生寺笠地蔵」
ともいう。
中世の仏教説話集「小栗判官照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。
「 昔、常磐国(茨城県)小栗の城主・小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に
逢いながら、飢餓阿弥となり、一命を取り止める。 これを悲しんだ愛妾の照手姫は
夫助重を車に乗せ、狂女のようになり、懸命に車を引っ張って、ここ野瀬まで
辿りついた。 そして、野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見付け、自分の笠を懸けて、
一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。
「 立ちかえり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ 」
勇気をえた姫は喜んで熊野へ行き、療養の甲斐あって、夫は全快したことから、
再び当地を訪れ、お礼に寺を建てて石地蔵を本尊として祀った。
これを蘇生寺という。 近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが、
慶長の兵火で焼失、その後、再興されることはなく、石地蔵のみが残り、
「 照手の笠地蔵」 として親しまれてきた。 この辺りには照手姫に関わる伝承地
として道中の大字長久寺に「狂女谷」が地名として残り、姫の
白粉のため水が白く濁ったという「白清水」などがある。
(以下略) 」
地蔵堂の先の床屋の前に「東目付跡」の表示があり、説明板がある。
* 説明板 「東目付跡」
「 道の両脇に喰い違いの形で土手(土塁)が築かれていた。 見付とは本来城門の
ことで、宿場用語になった。 見付は宿場西口にもあった。 東口の土手は古図に
幅二間半、奥行二間半、土手上面に灌木が描かれている。 宿東西の目付は貴人の
当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。 」
ここから柏原宿である。 柏原宿は中山道六十番目の宿場町で、江戸から約
百十二里、京へは約二十一里のところにあり、宿場の長さは十三丁(1420m)と長く、
伊吹山の南麓に位置し、東町、市場町、今川町、西町の四つの町で構成されていた。
天保十四年(1832)の中山道宿村内大概帳に、家数344軒、宿内人口1468人、
本陣1、脇本陣1、旅籠22軒とあり、中山道六十九宿の中で宿高は四番目で、
宿内人口や家数は東の加納宿、西の高宮宿に次ぐ大きな宿場であった。
旅籠は22軒と少ないように見えるが、隣宿との距離が近いためである。
太田南畝の壬戒紀行にも 「 柏原の駅につく。 駅舎のさまにぎはいし。
・・・・ 」 とその繁盛振りが記されている。
しかし、今回訪れた町の姿はし〜んと静まり返って往年の賑わいはとても想像
できなかった。
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東目付のあたりは東町で、右側には「竜宝院跡」の石柱があり、
奥まったところにお堂が建っている。
嘉吉元年(1441)妙達法印による開基ですが、昭和十年(1935)廃寺となり、残された
二体の地蔵尊は照手姫笠掛地蔵の祠内に移されている。
その先右側に天元二年(979)創建の八幡神社があり、石燈籠の後ろに芭蕉句碑が
ある。
* 「 芭蕉は柏原宿を三回西から東へ歩いている。
三回目は元禄二年(2689)の奥の細道で、敦賀から結びの大垣へ、伊吹山を左手に
見ながら北国脇往還を歩き、大垣の門人高岡斜嶺(しゃれい)宅の句会で、
詠まれた句が句碑に記されている。
「 戸を開けはにし 山有いふきという 花にもよらす雪にもよらす 只これ孤山の
穂あり
基まゝよ 月もたのまし 伊吹山 桃青 」
伊吹山は花や雪や月の借景がなくとも、ただ単に聳え立つ弧山だけで、
立派に眺め賞し得る山容を備えていると賞賛した句である。
言外に句会の主人斜嶺の人柄は伊吹山のようだと詠んだものである。 」
八幡神社前交差点を越すと、先の右手奥に薬師如来を安置する東薬師がある。
街道の右側に旧屋号札「旅籠屋 大和郡山藩坂田郡内取締大工 惣左衛門」
があり、宿内の随所にこの様な旧屋号札が掲げられている。
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八幡神社前交叉点の次が柏原駅入口で、右手にJRの柏原駅がある。
柏原宿は東町、市場町、今川町と西町で構成されている。 東町、中町、西町で
構成されている宿場が多いが、ここは中町がなく、市場町と今川町がそれにあたる
わけである。 市場町が宿場の中心であった。
「蝋燭屋 助三郎」と書かれた木札が張られている家の格子のつくりはなかなかすば
らしい。
左側に「問屋役杉野重左衛門」の木札が掲げられている家があるが、問屋場の跡で
ある。
* 説明文 「問屋場跡」
「 問屋とは街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。 公用の荷物
と幕府のご用状の両隣宿までの運送を継立(駅伝輸送)で行っていた。 宿屋の斡旋
も仕事である。
柏原宿では江戸後期に六軒の問屋があり、東西に三軒づつに分かれ、自宅で十日
交代で勤めた。 中山道の人足、役馬は五十人、五十疋が義務づけられ、下役に
は帳付、馬指、人足指が居た。 村年寄りが問屋役を補佐した。 人足、馬を出し、
問屋業を補佐した助郷村は近隣十六ヶ村、彦根藩村々の離脱から五十一ヶ村かつ
遠方からが多くなり、宿場、助郷村とも苦しんだ。 」
隣りのはびろ会館が東の荷蔵跡で、この蔵は東蔵とも呼ばれた。 会館の前に説明板が がある。
* 説明文 「柏原宿荷蔵跡」
「 宿場業務の重要な公用の荷物引継のための荷蔵(一時保管用)のあった場所、
東西に一棟づつ建っていた。 」
荷蔵は運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が当日中に出来ない場合に荷物
を蔵に保管した。 東蔵はまた大垣藩の年貢米集荷の郷蔵でもありました。
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柏原を詠った歌で、
( 一条兼良 )「 ふく風は まだ来ぬ秋を 柏原 はびろが下の 名には
隠れず 」
( 冷泉為相 ) 『 おいくだる 山の裾のの 柏原 もどつ葉交り
茂るころかは 」
とあるが、この中の はびろ とはなにか?
山東柏原郵便局の隣の民家の壁に「脇本陣・問屋役年寄 南部源左衛門」と 書いた木札が貼られていて、説明板がある。
* 説明文 「脇本陣跡」
「 脇本陣は大名、幕府役人、官家、公家、高僧他貴人が本陣を利用できない時の
公的休泊施設である。 柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様、江戸時代を通じて勤め
ていた。 間口はこの民家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は二百三十八坪、
建坪七十三坪あった。 」
滋賀銀行の隣りに「旅籠屋京丸屋五兵衛」の屋号の木札が掲げられていた。 榊原宿の旅籠はここ市場町と西部の御茶屋御殿辺に集中していたようである。 脇に旅篭屋の説明板がある。
* 説明文「旅篭屋」
「 天保十四年(1843)の記録によると宿内には二十二軒の旅籠と下記の業種が
ありました。
もぐさ屋 九軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)
造り酒屋 三 請負酒屋 十 炭売茶屋 十二
豆腐屋 九 他商人 二十八 大工 十
鍛冶屋 一 諸職人 十三 医師 一軒でした。 」
向いが造り酒屋西川瀬左衛門跡で、年寄りを勤めました。 bbr
隣が問屋場跡で、奥まった家の前には「問屋役年寄吉村逸平」と「映画監督・
吉村公三郎の実家」の木札がある。 当家は映画監督吉村公三郎の実家で、
吉村逸平が問屋役を勤め、宿場役人の年寄りを兼ねました。
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その隣に「東の庄屋 吉村武右衛門」の木札のある家がある。 吉村武右衛門
は吉村公三郎の祖父で、柏原宿最後の庄屋を務めたという。
吉村公三郎の実家から三軒目が本陣跡で、南部辰右衛門が勤め年寄を兼ねました。
* 説明文 「本陣跡」
「 本陣は大名、幕府役人、官家、公家、高僧他貴人が本陣を利用できない時の
公的休泊施設である。 柏原宿は江戸時代を通じ南部家が本陣を務めている。
間口は両隣を合わせた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪百三十八坪あった。
建物は皇女和宮通行に際して、新築されました。 明治になり、柏原小学校の前身の
開文学校がここに創設され、その後建物は明治中期に岐阜県垂井町の南宮
神社の宮司宅に移築されました。 」
建物の右側の板壁に宿泊した人の宿札(関札)が貼られている。 「明治天皇行在所」の石碑と「歴史街道 皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」と 書かれた新しい石碑が立っている。
* 「 皇女和宮は南部本陣にて四日目の夜を過ごしました。 皇女和宮の婚礼道具は厳しい中部山岳地帯を避け、垂井より美濃路に入り、 東海道にて江戸まで搬送されました。 皇女和宮の夫君の徳川十四代将軍家茂は 慶応元年(1865)第二次長州征伐の途上、当本陣に宿泊しました。 翌年大阪城にて病に倒れ死去しました。 享年二十一歳。 明治の世になると明治天皇行在所となりました。 」
市場川手前の右側に文化十二年(1815)建立の秋葉常夜燈がある。 ここが高札場跡で説明板が立っている。
* 説明文 「高札場跡」
「 高札場とは幕府がお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。 高札は江戸中期
以降幕末まで、正徳高札6枚、明和高札1枚、その時の両隣宿迄の運賃添高札1枚、
計8枚が懸っていた。 高札場は道沿いの長さは4.86m、高さは0.91mの石垣を
築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。 なお、宿には出町(小字)
長沢にも小さな高札があった。 」
高札場があったことから札の辻と呼ばれ、市場橋を渡ると左側の橋詰に番所が
あった。
橋を渡ると江戸時代には今川町。 左側にある大きな古い家は艾(もぐさ)屋の
亀屋伊吹堂である。 江戸時代には艾の販売の他、茶屋と旅籠を経営していた。
* 旅といえばてくてく歩くしかなかった江戸時代に、旅の疲れを
とるにはお灸が最高で、艾(もぐさ)はその必需品であった。
伊吹山は古くから薬草の宝庫として知られ、もぐさの原料であるヨモギを産したが、
麓に近い柏原では伊吹山でとれたもぐさを加工し、全国に販売していた。
最盛期には十数軒の伊吹もぐさ屋が亀屋の屋号で軒を連ねていました。
中山道最大の宿場名物になっており、
参勤交代の大名行列もお土産に購入したといわれる。 現在営業するのは伊吹堂亀屋
佐京商店 、この店だけである。 広重の描いた浮世絵、柏原宿にもこの店が
描かれている。 江戸や大坂の大消費地で宣伝をおこなって繁盛させたのがこの店
の六代目松浦七兵衛で 、「 江洲柏原 伊吹山のふもと 亀屋佐京のきりもぐさ 」 と
吉原の遊女に歌わせたというから、現在のコマシャルソングの草分けといえ
よう。 亀屋のシンボル福助人形は働き者の番頭で、店を繁盛させた功労者
という。 」
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安藤広重は木曽海道六十九次之内の柏原としてこの亀屋の商い風景を描き、
右端に福助人形を配している。
亀屋の向いに「造り酒屋 年寄 巌佐九兵衛」の木札の上に「造り酒屋跡」の
説明板が貼られている。
* 「 宿場内に四軒、米一五〇石が割当てられていた。 現在 一軒もない。 この家もその内の一軒である。 」
柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株(さけかぶ)は宿内合せ百五十石が許可されて
いた。 ここは宿場役人の年寄りを勤めた造り酒屋巌佐九兵衛跡跡で、 、
慶長年間(1596〜1615)の酒造りの記録を残しているという。
隣りは造り酒屋山根庄太郎跡である。
隣の旧柏原村役場跡には立派な公衆トイレがある。 柏原歴史館は残念ながら
当日は休館日であった。
* 「 歴史館の建物は大正六年(1917)に松浦久一郎 (伊吹もぐさ亀屋左京商店の分家)により建てられたもので、 仏間、備後の中継ぎの畳、栂の柱など贅沢な造りで、平成十二年(2000)に 国登録有形文化財に指定された。 」
次いで右側の日枝神社は元暦元年(1184)の創建で、山王権現と呼ばれ、本殿は
一間社流造茅葺きである。
向いのJAは近江源氏京極道誉が設置した中世柏原宿箕浦代官
屋敷跡で、明治十一年(1878)に滋賀県下三番目に創立された柏原小学校跡である。
更に行くと左手に柏原福祉交流センターがある。 ここは西の荷蔵跡で、明治に
入り柏原銀行が設立されました。
隣に漆喰の大きな屋敷は艾屋亀屋山根為義跡で、
正面玄関に東部デイサービスセンター
はびろの看板が架かり、塀の中には「柏原銀行跡」と「西荷蔵跡」の
説明板が立っていた。
* 説明文 「西荷蔵跡」
「 運送荷物の東西両隣宿へ継立(駅伝輸送)が当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に
預かった。 この蔵は西荷蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は
宿東部にもあった。 なお、当宿は寺院の数が中山道二番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋
に利用され、柏原宿は大名通行定番の宿泊地となった。 」
* 説明文 「柏原銀行跡」
「 明治34年(1901)江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は同業、旅籠屋、呉服屋で
あった五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。 中世、江戸期を通じ、
大きな宿場として栄えた柏原村はその当時も多くの商店が立ち並び、国鉄沿線の
醒ヶ井、近江長岡と岐阜県隣村今須村地域の中心地であった。 柏原銀行の支店、
出張所は米原、醒ヶ井、近江長岡、野一色、隣村の今須も設置された。
その後、米原、野一色は閉鎖されたが、昭和十八年(1943)、滋賀銀行に合併する迄
の四十二年間、この地方の産業活動を支援してきた功績は大きい。 」
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西荷蔵跡のすぐ先左側に「従是明星山薬師道」と彫られた石の道標と説明板が ある。
* 説明文 「薬師道道標」
「 (弘仁六年(815)に最澄が創立したという明星山明星輪寺(みょうじょうりん
じ)泉明院への道しるべである。 宿内東に
同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも
呼んだ。 太平洋戦争までは眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も
消え、今は往年の面影がない。 この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、
横二面が平仮名、変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。
出町(小字)長沢にも同型の道標がある。 」
ここを左に入ると延暦年間(782〜806)創建の浄土真宗本願寺派弘宣山教誓寺
(きょうせんじ)がある。
街道を進むと右側の黒板塀の旧家が問屋場跡で、山根甚左衛門が勤め、
年寄を兼ねていた。
少しいくと広い交叉点にでるが、左手前角にふれあい会館、その後ろに火の見
櫓が立っている。 交叉点を右に行くのが清滝道である。
* 「 清滝道は 清瀧寺徳源院への一キロほどの道である。 清瀧寺は京極家の墓所で、二十数の印塔と湖北唯一の三重塔がある寺である。 」
交叉点を越えた右角の公園の中に「御茶屋御殿跡」の説明板がある。
* 説明文 「御茶屋御殿跡」
「 江戸時代、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊、休憩の目的で、
街道の各所に設けられた館で、近江では柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿
を合わせて近江三御殿と称されてきた。
天正十六年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息し、以後、中山道
通過の際休泊するのが慣例になっていた。 通過が頻繁になったため、
元和九年(1623)
二代将軍、秀忠が御殿を新築、以後御殿番を置いて守護してきた。 その後徳川幕府の
勢力増大につれて将軍上洛は減少。 元禄二年(1689)の徳川五代将軍綱吉の代に
御茶屋御殿は廃止された。 家康の頃から約百年、殿舎建築から六十五年の歳月が
流れた。 この間記録にあるだけで、併せて十四回使用されている。
元禄四年の記録では総敷地壱町九畝余、その他御守殿跡一畝八歩とある。 勝専寺
の門が御殿の門と伝えられる。 」
次いで左側の黒塀の古い家は加藤家で、柏原宿で一軒現存する
郷宿(ごうやど)跡である。
郷宿とは脇本陣と旅籠の中間で、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用
された。
少し歩くと家並みが無くなる。 王子神社、王子古墳などを案内した看板を過ぎると、
右手にこんもりした山が見えてくる。 中井川を中井川橋で渡る。 橋の袂に
「ホタル・幼虫・カワニナをとらないで」の注意板がある。 数軒の家が建つ
ところの右側に石造りの「金比羅常夜灯」が立っているが、文化十二年(1815)に
建立された古いものである。
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仲井川橋、続いて丸山橋を渡ると右側の山は迫ってきて、左側には田畑が広がる。 左側の柏原仲井町バス停の脇に「柏原一里塚跡」の標石と説明板があり、奥出川の 対岸に江戸より百十五里目の柏原の一里塚が復元されている。
* 説明文 「(復元)柏原一里塚」
「 一里塚は旅人の里程(みちのり)の目安、駕籠や馬の乗り賃の目安、旅人の休息場
として生まれた。 慶長九年(1604)徳川家康の命を受け、秀忠はまず東海道、中山道、
北陸道での一里塚の築造に着手した。 そして奉行には永井弥太衛門進元、本多佐太夫
光重を任命、江戸は町年寄の樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は
代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。 工事現場の総監督はすべて
大久保長安が担当した。 一里塚の規模は五間(9m)四方に盛土して、一本又は数本の
木が植えられた。 おもに榎が選ばれた。 成長が早く、ネガ深く広く張って塚が
崩れにくい利点から採用された。
柏原一里塚は江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見付付近に街道を
挟んで、北塚と南塚があった(両塚とも現存しない) 北塚は街道に沿い北側で、
愛宕神社参道の石段東側(現中井集会所)の場所にあった。 南塚は街道を横切る接近
した二つの川筋のため、やむを得ず東岸の川岸で街道より奥まった所に築かれた
(現在では大幅な河川工事が行われているので、この地点から東寄りの河床の位置に
なる) なお、江戸時代刊行の道中記などを見ると、両塚とも三本の榎が描かれて
いる。 」
右上の山に愛宕神社が祀られているが、柏原宿の京口にあって、悪霊の侵入と 防災の守護でした。 一里塚から四百メートル歩くと「西見付跡」の説明板が 立っている。
* 説明文 「西見付跡」
「 柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。 見付の語源は
城門で、宿場用語になった。 この地点の海抜標高は174m(磨針峠は154.2mで、
ここより低い)彦根城と比較すると天守の上に天守が更に一つ、大垣城では何と
六つ積み上げないとここの高さに届かない。 柏原宿は東見付まで十三町(1.4km)
長い高地の町並が続く。 」
柏原宿の長さは千四百メートルと長く、近江路(柏原〜草津宿)では最長、
中山道全体でも十番目の長さだった。
西見付を過ぎると杉並木になり、「ここは中山道柏原宿」の石標があり、ここで
長かった柏原宿は終わる。
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西見付付近は楓や松並木が続く山裾の静かな道になる。
道の右側に「北畠具行卿墓→」の
看板があったので、寄り道する。
草薮の中のじくじくした細い道を通ると林の中に入り、土の道を登り、短い石段を
上り、また、土の道を登ると入口から四百メートル程で、「北畠具行卿」と刻まれた
大きな石柱と「←清滝寺徳源院1.km ↑北畠具行卿之墓50m」「小川の関跡1.2km
中山道醒井宿4.9km→」の道標がある三叉路にでる。
右の道を登ると広場が現れ、奥に二米余りの砂岩製の宝しょう印塔の形をした
北畠具行の墓がある。
* 説明板 国史跡 「北畠具行(きたばたけともゆき)墓」 昭和五年
十一月十九日指定
「 権中納言北畠具行卿(正応三年(1190)〜元弘二年(1332)は後醍醐天皇の
側近として、同天皇が鎌倉幕府討伐を計画した正中の変(1324)の中心人物で
あった。 しかし、この計画は失敗におわり、具行は幕府に捕らえられ鎌倉に
護送される途中、護送人であった佐々木京極道誉(京極家第五世高氏)の助命嘆願
も及ばず、幕府の厳命により、元弘二年六月十九日当地にてその生涯を閉じた。
(享年四十三歳でした。 )
この宝きょう印塔は砂岩製で、総高二・〇四メートルを計り、斬首の年から
十六年後に建立したという陰刻名(貞和三丁亥十一月二十六日)がある。 現在
墓所を含め三九五六平方メートルが(史跡に)指定されている。
平成三年三月 滋賀県教育委員会 」
明治天皇は近江路行啓で訪れた際、使者を送って御参りをさせ
ている。 天皇家の忠臣であるので、明治天皇には後醍醐天皇の心境だったのかも
知れない。
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中山道に戻り、歩き始めると山側に一列に松が植えられている。
「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹」の木標があり、2012年に植えられ
た若い松である。
その中に柏原宿の分間延絵図と両街道の説明板が立っている。
* 説明板 「古道東山道の道筋」
「 東山道は横河駅があった梓を中山道と同じ道で東に進み、長沢(ながそ)を過ぎ、ここ
北畠具行卿参道入口のある谷間で中山道と分かれ、山越えをする。 徳源院のある
清滝へ降り、右に折れ、成菩薩院裏山の北側を東進する。 JR野瀬踏切に到り、
再び中山道に合流して、県境長久寺に向う。 」
* 説明板 「九里半街道」
「 中山道関ヶ原と番場宿の間は九里半街道と呼ばれた。 木曽、長良、揖斐三川
の水運荷物は牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り、番場宿で船
積みの米原湊道に進む。 牧田から米原湊までの行程は九里半あった。 関ヶ原、
今須、柏原、醒井、番場の五宿はこの積荷で、六、七軒と問屋が多かった。 」
この説明板の先は三叉路で、中山道は右の道を行く。 三百メートル歩くと 鶯ヶ原の説明板が立っている。
* 説明板 「鶯ヶ原」
「 文化二年(1805)刊行の木曽名所図会に「長沢(ながそ)村を過ぎて鶯ヶ原に至り、
柏原の宿に着く」とあり、 また、太田道灌の江戸より京都への旅日記「平安紀行」
(文明十二年(1480))に
「 鶯の原という所にて、 聞まゝにかすみし春そ しのはるゝ
名されなつかし 鶯の原 」
道灌はこの旅で、寝物語の里でも一首詠んでいる。 道標にあり。 」
さらに三百メートル進むと先程分かれた三叉路の道と合流するが、その手前の 右側に「そうじ丁場と並び松」の説明板が立っている。 往時、柏原宿では松並木 のことを並び松と呼んでいた。
* 説明板 「そうじ丁場と並び松」
「 そうじ丁場とは街道掃除の持ち場、受付区域のこと。 貴人の通行に備え、
街道の路面整備、道路敷の除草と松並木の枯草、倒木の処置、補植、柏原宿では
江戸後期二十一ヶ村が夫役として従事した。 丁場の小さい所は伊吹上平等村で
15m大きな所は柏原宿を除き長浜の加田村で498mもあった。
江戸時代の柏原宿では松並木のことを並び松と呼んでいた。
また、東西両隣り(長久寺、梓河内)村境の街道松の本数は明治五年の調査から
逆算、幕末には約四百五十本植えられていた。 」
奥出川を渡り、長沢(ながそ)集落に入ると山合いの村という感じがした。
白山神社は応永十三年(1406)の創建で長沢村の鎮守である。
白山神社の鳥居の脇の小屋に「長沢惣倉」と書いた木札が貼られていた。
鳥居の向かいに享保二年(1717)建立の「従是明星山薬師道」の道標がある。
この道標は柏原宿内にあったものと同じもので、
道標の正面「従是明星山薬師道」、右面「屋久志江乃道」、
左面「やくしへの道」と刻まれている。
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集落を抜けると三叉路で、右の小川(こかわ)坂の土道に入る。 この分岐点には大きな「小川関跡」の石碑があり、説明板が立っている。
* 説明板 「小川の関跡」
「 坂田郡史に稚涼毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設、
現存していない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定。 小川、古川、粉川、
または横川の転訛せし地名としている。 (以下略)
古道の山側には整然と区画された屋敷(館)跡を確認できる。 米原市米原観光
協会 」
ここには「歴史街道 柏原宿枝郷 長沢(ながそ) 左←中山道 右→旧中山道」 の道標がある。 また、「天の野川源流菖蒲池跡」の石碑もある。
* 説明板 「菖蒲池跡」
君がながしき例(ため)に長沢の 池のあやめは今日も引かるる 大納言俊光
「 此の地の芹 名産なり 相伝う 今昔二町(218m)四方の池なりと。 今は多く
田地となりて、漸く二十間(36m)計りの池となれり。 享保十九年(1734)「近江
興地志略」 その後、天保十四年(1843)には「菖蒲池と申し伝へ候旧地ここに有り」
と「中山道宿内大概帳」 江戸後期には消滅したようである。 「近江坂田郡志」では
この地が天野川の水源だったと述べている。 」
右側の道には金網の柵があり、扉を開閉して出入りするようになっていて、
入ってすぐに 「館跡 小黒谷遺跡」とある。 林の中の土道を歩くと「歴史街道
江戸後期旗本西郷氏領 梓河内村(東地先)」の石碑が立っている。
その先は梓河内バス停があり、その傍に道路工事などで集められたと思われる
石仏が並んだお堂が二つある。
ここで先程分かれた舗装道路と合流する。 舗装道路を少し戻ったところの
道脇に「集落跡 番の面遺跡」の小さな石柱と説明板がある。
* 説明板の内容を要約すると、
「 番の面遺跡は昭和30年に後方の小高い丘陵から発掘された遺跡で、縄文時代
中期(約四千年前)の竪穴住宅跡と多数の土器、石器などが発見された。 竪穴住居
は一辺の長さが四メートル前後の方形で、四本の柱の穴と中央に炉の跡と思われる
くぼみ(0.7X0.5m)が一つあった。 土器は文様から関東地方とかかわりを持つもの、
石鏃は中部山岳産の黒曜石製を含んでいて、広い交流圏を持った遺跡と
いえる。 」 とあった。
緩やかな下り坂を進むと右側に地蔵祠があり、多数の地蔵が安置されている。
このあたりは交通の要路で左側の上に名神高速道路、下は国道21号となって
いる。
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国道21号線の脇に出ると左側に自然石道標「左中仙道」と
標石「墓跡 黒谷遺跡」がある。
次いで右側に歴史街道 中山道の 「 ←東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和
郡山領→ 」 の道標が立っている。
信号機に「梓河内」と表示があり、バス停は多くの車が走る国道と中山道
が接近したところにある。
中山道は国道21号とは合流せず、右側に平行して続く道となっている。
右側には川が流れ、川の向こうに並ぶ家並みが梓集落である。 小さな
梓川橋を渡ると旗本西郷氏が領した旧梓河内村に入る。
* 「 梓川は鈴鹿山脈の北端雲仙山に源を発し、醒ケ井の先で天野川に落合い、 琵琶湖に注いでいる。 宝暦五年(1755)刊の木曽路巡覧記に 「 あんさ川あなた こなたとわたり、柏原迄の間に三度渡るなり 」 と著されている。 」
梓川と国道に挟まれた旧道は桜並木そして松並木になり、
のどかな街道となる。 この辺りは東山道横川駅(うまや)跡で、
古代律令時代には三十里に一駅が配されていた。
横川駅は美濃國不破駅と近江國鳥籠(とこ)駅の中間にあたり、
梓関所がありました。
松並木は中山道でこれまで見た松と比べるとかなり大きな木が残っている。
ラブホテルが数軒並んでいる前を過ぎると国道に合流する。
頃合いをみて国道左側の歩道に移る。 国道を五百メートル歩くと道の左側に
「中山道左」と刻まれた大きな石碑が現れるので、
三叉路で左側の道に入る。 これが中山道である。
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うっそうとした林のような場所を通りすぎると民家が増えてくる。
右側に八幡神社があり、境内の御神木の大杉は目通り一丈六尺
(約4.9m)で、樹齢五百余年である。
街道の地蔵祠には小さな地蔵尊が安置され、花が供えられている。
八幡神社前を過ぎ二百メートルも行くと、左に名神高速道路が接近してきた所に
新しい半円形の「中山道一里塚跡」の石碑が立っている。 江戸より百十六里目の
中山道の一色一里塚跡である。 岐蘇路安見絵図には両塚共に、榎が三本づつ
描かれている。
次いで右側に真宗大谷派長尾山等倫寺がある。 道はゆるい下り坂になり、
一里塚跡から五百メートル進むと左側段上に地蔵堂がある。
この辺りは高台で、右手に展望が開けるところがあり、右側に仏心水
の祠があり、説明板が立っている。
* 説明板 「仏心水」
「仏教用語で仏心とは仏のこころ、大慈悲のことをいいます。 中山道、馬頭観音の
近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願して、江戸後期に建立された馬頭観音
に対して、この井戸には旅人の喉を潤すだけでなく、御仏の慈悲のもとで、旅の安全
を祈願したような意味があると考えます。 他に例がないことから非常に貴重な
ものと思われます。 地縁団体 一色区 」
坂を下って行く途中の高速道の壁に「鶯ヶ端」の説明板がある。 ここから は特に西方の眺めが良く、はるか山間には京の空が望めると有名で、旅人はみな 足を止めて休息したといわれる。
* 説明板 「鶯ヶ端跡」
「 平安時代の三十六歌仙の一人、能因法師が 「 旅やどり ゆめ醒井の
かたほとり 初音のたかし 鶯の端 」 という句を詠んでいる。
狩野派の絵師がここで、扇に鶯を描き「生あらば鳴いてみよ」というと、
扇の鶯は飛び立ち、梅の枝に止まり鳴いたといいます。 」
坂を下り切ると醒井東バス停に出る。 此処は醒ヶ井宿の入口で、宿場特有
の枡形があり、道は右へカーブし、すぐに一時停止の交通標識を
左折すると東の枡形である。 左折した左側に「醒ヶ井宿」の石碑と「分間絵図」
があり、醒井宿に到着である。
ここが醒ヶ井宿の江戸方入口で、宿の東西に目付(番所)が設けられ、宿場の
長さは八町二間(876m)で、天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には家数539軒、
宿内人口1843人、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒であった。
* 「 醒ケ井の名は、日本書紀の「 日本武尊(やまとたける
のみこと) 、
伊吹山にて大蛇をふみて、山中の雲霧にあい給ひ、御心地なやましたりしが、
此水をのみて醒めたまひぬとなん 」 に因むものである。
「 川となる すゑまで清し 岩間より 余りていづる さめが
井の水 (夫木集)
とあるように、古来から名水の誉れ高い。 」
歩いていくと宿場には古い家が多く残っている。
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左手の山が迫り出してくるところ
に加茂神社の鳥居があり、かなり急な石段を登っていくと本殿は一間社流造、
拝殿は入母屋造社殿がある。 当初天の川加茂が淵に創建されたところから
加茂神社と称しました。
社殿の上に聳えているのは名神高速道路で、右下を見下ろすと宿場がカーブして
京側に続いているのが一望できる。
* 遷宮記念碑には 「 昭和三十四年の名神高速道路建設に伴い 敷地と建物が道路予定地に組み込まれたため移転のやむなきに至った。 翌年、社殿を解体移転し、現在の場所に復元した。 」 とある。
階段をおり、街道に戻ると左手の加茂神社の前の池には石垣からこんこんと 清水が湧き出ている。 醒井宿三名水の一つである居醒の清水で、 蟹石という石もあり、池の周りを散策できるようになっている。
* 「 日本武尊(やまとたける)が伊吹山の大蛇を退治した際、
蛇の毒によって気を失い、この清水で身体や脚を冷やすと痛みがとれ、
目が醒めたところから居醒(いさめ)の清水と呼ばれ、
これが地名の由来となりました。 「木曾路名所図会」には 「此駅に三水四石
の名所あり、町中に流れありて至て清し、寒暑にも増減なし」 と書かれている。
四石とは鞍掛け石、腰掛け石、影向石と前述の蟹石を指す。
美濃にあった霊泉に棲む巨大蟹を持ち帰る途中、蟹に水を飲ませる為に、
この清水に放したところ石になったといわれる。
鞍掛け石は日本武尊が鞍を掛けて休まれた石。 腰掛け石は武尊が腰を掛けて、
清流で伊吹山の毒気を清められた場所である。 影向石は源海寺の竹林にあったが、
名神高速道路の工事で池の周りに移された。 」
池のまわりに右手を高々とさし挙げた日本武尊像が建っている。
当時、伊吹山を中心とした勢力があり、これに手を焼いた中央勢力が鎮圧した歴史
があり、記紀にある日本武尊の話はそれを美化した話だとすれば、ロマン溢れる
もの好きである。 石仏群のあるところから清い泉が涌いていて、柄杓が置いて
あった。 これを使わせていただき、水を飲んだ。 透明感のあるうまい水だった。
その近くに雨宮芳州の 「 水清き 人の心を さめが井や 底のさざれ
も 玉とみるまで 」 の歌碑がある。
* 「 雨宮芳州は滋賀県高月町の出身の江戸時代の儒学者、 教育者、外交家、二十六才の時、木下順庵の推挙により対馬に渡る。 以来、朝鮮や 中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折衝、応接に貢献。 その善隣友好、 後計対等の外交姿勢は現在も高く評価させている。 八十一才で一万首の歌を よむ決意をした芳州は古今和歌集を千回も復読したという。 この歌もその中に一つである。 」
池の脇には地蔵堂があり、一丈一尺(1.6m)の地蔵菩薩坐像が祀られている。
延命地蔵尊は花崗岩を丸彫りした半伽像(坐像で片膝を立てている)で、
鎌倉時代後半の作と推定
される。 始めは水中に安置されていたので「尻冷やし地蔵」と呼ばれていたが、
慶長十三年(1608)、大垣城主の石川日向守が霊験に感謝し、
佛恩に報いるため、砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立し、安置したという
ものである。
* 説明文 「醒井延命地蔵尊縁起」
「 嵯峨天皇の時代の弘仁八年(817)、百日越える旱魃が続いたことがあった。
田畑が干上がり、農民が難儀したのを心配した嵯峨天皇は伝教大師に命じ、
比叡山根本中堂で護摩を焚き、雨乞いの加持祈祷をさせた。 最澄の夢の中に、
薬師如来が現れ、
「ここより東方数十里行ったところに、清涼な水のいずるところがある。 そこへ
行って雨を求めよ」と告げられた。 伝教大師が水をたずねてこの地にくると、
白髪の老翁が突然現れ「私はこの水の神である。 ここに衆生済度、福寿円満の
地蔵尊の像を刻み安置す
れば雨が降り草木も生き返るだろう」と言って水の中に消えた。 早速、石工を
集めて坐像を刻んで祈念したところ、大雨が三日降り続き緑は戻ったという伝説
が残っている。 それ以来、地元の人々は伝教大師(最澄)が刻んだとされる地蔵
を大事にしてきた。 」
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街道の左側には居醒の清水を源泉とする地蔵川が流れていて、流れには
梅花藻(バイカモ)とハリヨが棲息している。 水が澄んで美しいので、清流しか
育たないと言われるバイカモが夏には梅
に似た小さな白い可憐な花を咲かせる。 また、冷たい湧水を好むハリヨ
という小魚も生息している。 水の中でゆれる白いバイカモの花は優雅なもの
である。
街道の左側に「本陣跡」の標柱があり、地蔵川を渡った奥に日本料理本陣樋口山が
ある。 ここが代々江龍家が勤めた本陣跡で、建坪は百七十八坪で、往時の関札が
玄関に掲げられている。 なお、樋口山では醒井の水で育った虹鱒が賞味
できる。
本陣向いの公文滋賀醒ケ井教室及び駐車場辺りが土屋脇本陣跡であるが、
標識等はありません。
本陣の並びにある米原市醒井宿資料館は江戸時代、問屋場を営んでいた旧川口家
住宅で、十七世紀中期〜後期の建築で木造平屋建てで、建物は修復されたもので
ある。 なお、醒井宿には七軒の問屋場がありました。
街道を進むと右側に二階白壁の軒卯建をあげ白壁虫籠窓の商家がある。
明治三十九年(1906)創業醤油屋喜代治商店で、ヤマキ醤油は居醒の清水仕込み
である。
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右側に大きな山灯籠が玄関先にある御料理多々美家は
旅籠多々美屋跡で、現在の建物は昭和初期の建築である。
一軒置いて路地を右に入ると真宗大谷派無礙光山法善寺がある。 延暦七年(788)
の開基で、元は天台宗でしたが寛永二年(1625)に真宗大谷派改宗しました。
山門は彦根城の城門を移築したものである。
その先の右側に立派な門構えのある江龍宗左衛門家は長期に渡り問屋や庄屋を務めて
いた家で、本陣や脇本陣同等の規模を誇る屋敷でした。 門前には「明治天皇
御駐輦所」の碑が立っている。
江龍家向いの筋に入ると、右側に真宗大谷派清流山源海寺があり、
ここに醒井四名石の最後、影向石(うごうせき)があったが、
埋没してしまったという。 紅梅が美しかったので写真に収めた。
源海寺先の左手に浄土真宗本願寺派宝仙山光顕寺がある。
街道に戻り木彫美術館の先を右に入ると浄土真宗本願派石龍山了徳寺(りょうとくじ)
がある。 元は天台宗寺院であったが文明年間(1469〜86)に浄土真宗に
改宗。 境内に昭和四年に天然記念物に指定された御葉付銀杏(おはつきいちょう)
の木がある。 樹齢約百五十年で、周囲約2.5m、高さ約12m、葉面上に銀杏の実を
付ける珍しいイチョウで、全国に約二十本ほどの存在が知られ、
生きている化石ともいわれる地球上たった一族一種の貴重な植物である。
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街道に戻って進むと地蔵川の小さな橋を渡る。 道が二つに分かれていて、右に行 くと醒ヶ井大橋だが、大橋手前の左手の地蔵川の内に「十王水」と刻まれた石灯籠 があり、灯籠奥からこんこんと清水が涌いている。 これが醒井宿三水の二つ目で ある。
* 「 平安中期の天台宗の高僧浄蔵法師が諸国遍歴の途中、 この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられている。 もとより浄蔵水と称すべきところでしたが、近くに十王堂があったところから 十王水と呼ばれるようになったという。 」
醒井大橋を渡った辺りに江戸時代には高札場があった。
街道は左に進むが、右の居醒橋を渡って進むと右手に旧醒井郵便局がある。
この建物は大正四年(1915)米国のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による
木造二階建ての擬洋風建物で、国の登録文化財に指定されている。
昭和四十八年(1973)まで使用されていたが、現在は醒井宿資料館になっていて、
庄屋と問屋を勤めた江龍宗左衛門家に伝わる古文書等を展示している。
松尾寺の先がJR東海道本線醒ケ井駅である。
地蔵川の小さな橋に戻って進むと左側の奥に醒井宿三名水の三つ目西行水があ
り、岩の間から清水が湧き出している。 岩の上に仁安三年(1163)建立の
五輪塔があり、塔には「一煎一期終即今端的雲脚泡」と刻まれている。
これが泡子塚である。
* 「西行伝説(泡子塚)」
「 西行法師が東遊のときここに立ち寄り、水の畔で休憩して
いたら、茶屋の娘が西行に恋をし、西行が立ち去った後、西行の飲み残したお茶を
飲んだところ、懐妊し男の子を出産した。 関東からの帰途、西行はこの茶屋で
休憩し娘より一部始終を聞いた。 西行は児を熟視して、「 今一滴の泡変じて
これ児になる。 もし我が子ならば元の泡に帰れ 」 と祈り、
「 水上は 清き流れの 醒ケ井は 浮世の垢を すすぎて
やまん 」
と詠ったところ、児はたちまち消えて、元の泡になった。 西行は 「 実の我が子
なり!! 」 と、この場所に石塔を建てた。 」 というものである。
今もこの地名(小字)は児醒井という。
街道を進むと右側に「中山道醒井宿 番場宿へ一里」の道標があり、
ここが醒井宿の京方(西)入口である。
関ヶ原駅からの歩きはここで終了し、醒ヶ井駅より帰宅した。
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(所要時間)
関ヶ原宿→(1時間)→常磐御前の墓→(40分)→今須宿→(1時間)→柏原宿→(1時間)→醒井宿
今須宿 岐阜県関ヶ原町中町 JR東海道本線関ヶ原駅からタクシーで10分。
柏原宿 滋賀県米原市柏原 JR東海道本線柏原駅下車
醒井宿 滋賀県米原市醒井 JR東海道本線醒ヶ井駅下車。