岐阜駅の北口に織田信長の黄金色の銅像がある。 南口から南下し、加納本町に出て、
西に向かうと加納本町八丁目の左側にある秋葉神社の街道沿いに「中山道加納宿
西番所跡」の標柱がある。
ここが加納宿の京方(西)の入口であった。
今日の予定は加納宿の加納本町から河渡宿、美江寺宿。 時間が許せば大垣市の
赤坂宿までいくというものである。
加納本町9交叉点を横断すると南本庄一条通に入る。
三つ目の交叉点の右角に中華料理屋があり、左に入るすぐ
の民家と空地の間に「一里塚跡」の石柱が立っている。 加納の一里塚跡で、
江戸より百六里目である。 この一里塚は大正元年(1912)の暴風で崩壊した。
中山道は東海道本線の高架が見えてくると右からくる道と合流する。 清本町2交叉点
で右折し、東海道線のガードをくぐり、左斜め前方の太い道に入る。 すぐの清本町10
の六差路を直進する。 このあたりは本荘町で、本荘小学校前交叉点を越えて進むと、
道が左にカーブし、その先で左の道が合流、その先突き当たるので左折しして右に
回るというくねくね道である。
鹿島町8西交叉点を横断する。 この交差点の右に金華山が遠望できる。 横断した
右側に天満神社、八幡神社、秋葉神社が並んでいる。
参道口に「木花村ヲ経テ加納ニ到ル」「市橋村ヲ経テ墨俣ニ到ル」
「鏡島(かがしま)村ヲ経テ美江寺ニ至ル」の道標が立っている。
* 「 往時、この辺りは松並木が続き、加納宿と河渡宿の中間に あたり、だらり餅(あんころ餅)と干し大根が名物の多羅野(だらり)立場があり、 「 行こうか合渡へ 帰ろうか加納へ ここが思案の だらり餅 」 と謡われま した。
鏡島(かがしま)は岐阜ちりめんの生産地で、江戸時代には京都へ盛んに出荷して
いた。 すぐ先の鏡島大橋南交叉点で大きな道(県道77号岐阜環状線)を横断して進むと、
道の右手に論田川が並流する。 論田川を追分橋を渡るとT字路に突き当たる。
この三叉路は鏡島追分で、中山道と岐阜道の追分である。 中山道は左折する。
街道を進むと鏡島弘法前
のバス停がある。 中山道は直進するのだが、乙津寺(おっしんじ)と小紅の渡しに
行くためバス停前を右折すると突き当たりに正一位倉稲魂(うかのみたま)稲荷大明神が
ある。 乙津寺の鬼門鎮守の神として鎮座したものである。
右折しお店がある参道を進むと「弘法大師」の大きな石標と乙津寺の楼門が建って
いて、
楼門には宇多天皇より下賜された霊梅場の扁額が掲げられている。
乙津寺の正式名は臨済宗妙心寺派瑞甲山乙津寺といい、「鏡島の弘法さん」と親しまれ、鏡島弘法と呼ばれ、
京都の東寺、川崎大師(平間寺)と共に日本三躰厄除弘法大師の一つである。
* 説明板「乙津寺」
「 開山は奈良時代の天平十年(738)、行基が当時孤島だった乙津島に着船し、草庵を
結び、自作の十一面千手観音像(国重要文化財)を安置したのが始まり。 その後、
弘仁四年(813)、弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命により仏法を広めるため
来山し、秘法を尽くし天に誓い地に伏し祈祷すること三十七日間、宝鏡を龍神に向ける
と忽ち滄海変じて桑田となり、孤島であったこの地を陸続きにしたと伝えられる。
翌年、乙津寺を造営し、この地を鏡島と命名した。 弘法大師は散杖(さんじょう)
の梅を「この地に仏法が栄えればこの杖に枝葉も栄える」と告げられると、散杖の梅
から枝葉が出たことから、梅寺とも呼ばれる。 織田信長、豊臣秀吉そして徳川将軍
家の信仰厚く、寺領五十五石を拝領している。
本尊の十一面千手観音像は九世紀のものとされ、松の一木造で像の高さは一メートル
九センチのもので、頭上に十一の変化面をいただき、四十二の手を持つ。
合掌手を除く、四十手それぞれが二十五界を救うとして「 千手観音 」といわれる。
重要文化財の毘沙門天像毘沙門天像は鎌倉時代初期の作で、像高百六十一センチの
寄木造、彫眼である。 韋駄天立像も鎌倉末期の作で重要文化財の指定を受けるが、
像高七十九センチの寄木造、彫眼で、頭上の兜は取外し可である。
韋駄天は走力にすぐれ、速やかに出現して救済の手を差し伸べたという信仰が
ある。
昭和二十年の空襲で、本堂、大師堂、鐘楼等は全焼したが、仏像類は住職が持ち出し、
長良川に避難して難を免れた。 これらの仏像は右側にある宝物館に保管されて
いる。 」
境内に弘法大師散杖の梅があり、横の弘法大師梅の杖の石碑には弘法大師御自詠歌
「さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ」が刻まれている。
裏に回ると、 一条兼良の妻・東御方の墓があった。
* 説明板 「一条兼良正室・東御方墓」
「 室町時代の終わりごろ、京都を中心に応仁の乱がおきました。 多くの公家たちは
難を避けて地方に落ちのびます。 文明五年(1473)五月、前関白太政大臣で、当代
随一の文化人といわれた一条兼良(いちじょうかねら)も、美濃国守護代・斎藤妙椿
(みょうちん)の招待により、革手(現岐阜市川手)を訪れ長良川で鵜飼をみて鮎を
賞味したり、革手の正法寺で御馳走をふるまわれて大歓待をうけています。
それより先の同年正月に、東御方は斎藤妙椿をたよって美濃に下向し、
鏡島にある乙津寺(鏡島弘法)に庵居しました。 この時、末子の梅津是心院了高尼
も同行しています。 一条兼良は同年五月二十日に奈良へ帰りましたが、東御方
は同行しないで、鏡島にとどまりました。 しかし、同年冬にいたって病を生じ、
十一月十八日に鏡島で死亡しました。 亨年六十九歳でした。 小林寺(正法寺塔頭)
で盛大な葬儀がおこなわれ、おくりなは小林寺殿、法名浄貞、道号を松室と
いいます。
乙津寺ではこの墓(宝きょう印塔・貴人の墓)は東御方のものと伝えられており、
現在まで大切に供養されてきました。 平成十年十月に墓の改修工事が行われ
ました 」
寺の裏は長良川の堤防で、階段に「小紅の渡し」と書かれている。
* 説明板「小紅(おべに)の渡し(わたし)」
「 ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として「小紅の渡し」が
設けられています。 この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路
として、約1Km下流にあった中山道の河渡の渡しとともに栄えていました。
現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。 近代的な橋の施工技術が
発達する以前は各地に渡しがありましたが、現在では小紅の渡しが岐阜市内で
現存する唯一の渡しとなりました。 なお、小紅の名の由来については、
様々な説があり、お紅という名の女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に
顔を映して紅を直した、紅を採る草が生えていた、等の言い伝えがあります。
平成十五年三月 岐阜市教育委員会 」
長良川の堤防を登ると、車道になっていて、車が頻繁に行き来している。 葦の
茂みから飛び立ったひばりがピーチクピーチクと空で騒がしく啼いていた。
葦の茂みを抜けると川べりにでた。 その先に小紅(こべに)の渡しがある。
川下の「河渡の渡し」が中山道の表街道に対して、「小紅の渡し」は梅寺瀬踏開運
地蔵を参詣するため立ち寄る旅人も多く、裏街道となっていたのである。
* 「 舟は常時対岸の河渡宿側に停泊しており加納宿側からは 手を振ると向って来ることになっている。 岐阜市でただひとつ残る現役の渡しで、 対岸の一日市場に無料の渡し船が運行され、今でも縁日には利用者が多いようで ある。 」
街道に戻って進むと、
鏡島小学校前交差点を越した先の右手に鏡島村の鎮守である神明神社があり、
拝殿は寛政六年(1794)の建立である。
隣りには浄土宗西山禅林寺派照鏡山善政院がある。
弘法大師霊場美濃新四國八十八ケ所第四十五番札所で、
境内には南無延命地蔵尊が祠内に安置されている。
街道正面に長良川の土手が見えると、右側に南無地蔵尊を安置する地蔵堂が
あり、河渡の渡しの安全を見守っていました。
街道を直進するとすぐ先で長良川の土手に突当る。 旧道はここまでで、その先は
消滅している。
土手下を右に回ると住宅地の右側に「鏡島湊」の説明板があり、ここが河渡の渡し
場跡である。 長良川には川湊(かわみなと)があったのである。
* 説明板 「鏡島湊」
「 鏡島湊には長良川を利用し、伊勢湾とを結ぶ舟運があり、大いに賑わいました。
享保十四年(1729)の鏡島村差出帳によれば加納藩領村高千四百四十二石余、
家数二百九十七軒、、人数千三百四十五人、馬数七十三疋(湊駄賃馬)、
渡船二艘でした。 そして天保十四年(1843)の鏡島村作間商売小前等書上帳
によれば商家は三十五軒ありました。 河渡の渡しは舟渡でした。
川幅は定水で五十間(約90m)、出水時は百五十間(約270m)になり、
出水七合目(百間約180m)で川止めとなり、渡船の差し止めとなりました。
渡し賃は一人六文、荷が十八文、武士は無賃でした。 」
鏡島湊は河渡宿の対岸に面し、下流から遡上する舟により運ば
れた荷物をここで陸揚し、加納宿(加納町)や岐阜町や上流地域に馬や牛、人力で
運ばれた。 そのせいか、このあたりには一日市場、古市場、東市場、中市場など
市場のついた地名が多かったようである。 渡し場は河渡宿からやや上流にあったが、河川改修により、川の
流れも変わり、どの場所にあったか?特定できていないようである。
鏡島湊跡の先で再びUターンして、長良川の土手道を進む。 右側は長良川、
その先に河渡橋(ごうどはし)がある。
河渡橋東交差点を横断して、河渡橋の左側の歩道で長良川を渡る。 河渡橋は思ったよりも長かった。 橋の中央には標識「これより岐阜北署管内」が あり、東は岐阜中署管轄である。 橋北方に小さく見える三角錘のような 小山は金華山で、その頂には岐阜城が霞んで見えた。
* 「 江戸時代には鏡島と河渡宿の間を舟で渡ったわけであるが、
当時の川幅は九十bで、増水時は二百七十b以上になったというが、歩いてみて
なるほどと納得できた。
明治十四年(1881)、河渡橋が架設され、それにより渡しは終了した。
この時の橋は長さ二百三十三メートル、幅は三.三メートルの木造で、有料橋で
あったという。 」
長良川は大日ケ岳に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいる。 保永堂版 木曾街道六十九次・河渡宿は浮世絵師・渓斎栄泉の手 によるが、宿場の情景を描かず、「岐阻路ノ駅(きそじのえき) 河渡(ごうど) 長柄川鵜飼船(ながらがわうかいぶね) 」という題名で、長良川で古来より 行なわれてきた鵜飼(うかい)を描いている。
* 「 鵜飼は尾張藩の庇護のもとに五月から十月まで、雨天を 除き、月のない暗闇の夜に行われ、漁獲された鮎の大半は尾張藩に上納され、 鮎鮨にして将軍家や諸大名に献上されました。 芭蕉はこの鵜飼を見て 「 おもしろうて やがてかなしき 鵜飼かな 」 と詠んでいる。 」
河渡橋を渡り、フェンスの切れ目から土手上に下りる。
ここにはチェーンが張られ、注意の看板が下がっている。
かなりきつい段差で注意が必要。 土手上の土道を歩くと左手に長良川の景色
が広がる。 しばらく歩くと右側に小さな祠が祀られている。
この辺りが長良川対岸の河渡の渡し場跡である。
小さな祠脇の石段を下り、県道163号を横断し、更に石段を下ると河渡宿の入口で、 大きな「馬頭観世音菩薩」の石柱が建つお堂の前に出る。 河渡の馬頭観音堂で ある。 観音堂の前には、河渡宿のモニュメント(大きな木製の常夜灯)が建っている。
* 説明石 「観音堂縁起」
「 聖徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道六十九次之内
第五十四河渡宿大概帳に本陣水谷治兵衛 問屋久右衛門 八兵衛庄屋水谷徳兵衛とあり、
本陣一軒旅籠屋大四軒中九軒小十一軒あり酒屋茶屋豆腐屋煙草屋など建ち並び
西國諸大名の 江戸幕府への参勤交代時には御転馬役歩行役の命令あり東へ加納
一里半西へ美江寺一里七丁この荷駄の送迎旅人の往来宿泊に賑わいこの荷駄役の
人達が天保十三年に銭百文づゝ寄進し道中と家内安全五穀豊穣祈願し愛染明王を
奉祀す地元では馬頭観音さんと仰ぎ猿尾通稱お幕場に六間四面の堂宇を建立毎年
九月十七日を祭日と定め祖先は盛大に讃仰護侍し来れりその後明治二十四年十月
二十八日午前六時三十七分 濃飛大震災に倒壊同二十九年九月大洪水に本堂流失す
堤外中段渡船場右側に再建昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る同二十二年四月
新堤築造により堤内に奉遷安置同五十六年本川拡幅に伴ふ遷座となる
島川東洋子氏御一家の篤志を受け現聖地三十七、三坪に奉遷新築す 町民の総意と
協力により工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成
昭和五十九甲子年九月吉日 河渡町内中 」
天保十三年(1842)、河渡宿の荷駄役の人達が中山道を通る旅人や牛馬の安全を
祈願して、銭百文ずつ寄進して愛染明王を奉祀した。 地元では馬頭観音と仰ぎ、
渡し場の脇に六間四面の堂宇を建立し、舟を待つ旅人の休憩所としても利用して
いた。 これまでに濃尾地震による崩壊や洪水による流失、昭和の空襲など
で都合四回移転した。 現在の建物は昭和五十九年に地元の篤志家により建築された
ものである、と傍らの碑文にあるので、本来なら愛染堂とすべきだが、
地元では馬頭観音堂と呼んでいるのである。
お堂のなかには美濃十六宿中最大の高さである一メートル七十センチの馬頭観世音
石仏が祀られている。 顔面が三つ、手は六つの像(三面六臂馬頭観音像)で、
なかなかおだやかな顔を
している。 境内の左奥には小さな社があり、覗くと小さな石仏が鎮座していた。
傍らにある石碑から「 南無地蔵菩薩 」であることが分かった。
地元に守られ今日まで残っている仏像に御参りを済ませる。
観音堂向いのいこまい中山道河渡宿大灯台モニュメント前を左折し、
道なりに進み、木製灯籠の「中山道河渡宿碑」が現れたら、その先を右折する。
ここが河渡宿(ごうどしゅく)の江戸方(東)の入口である。
ここには道祖神と思われる小社が祀られている。
河渡宿は長良川右岸堤下から東町、中町、西町の三町で構成されるが、全長は三町
なので、三百三十メートルという短さである。 天保十四年(1843)の中山道宿村
大概帳には、「宿内人口272人、家数64軒、本陣1、脇本陣なし、問屋は2、旅籠は
大4軒、中9軒、小11軒、計24軒」 とあり、 美濃十六宿のなかでは規模の
小さい宿場である。
東の加納宿まで一里半、西の美江寺宿まで一里七丁と短く、特にこれというものがな
かったので、城下町の加納宿か斉藤道三や信長で人気のあった岐阜町にとられてしまい、
ここに泊まる旅人は少なかった。 長良川の氾濫時は混んだというので、川止めに
備えた宿場だったといえよう。
宿の入るとすぐの右側に中山道河渡宿の碑があり、側面に一里塚跡と刻まれている。 河渡の一里塚跡で、江戸より百七里目である。 奥に二つの小さな祠があり、松下神社 が祀られていて、境内に松下代官顕彰碑がある。
* 説明板「松下神社」
「 中山道河渡宿は東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり、土地が低く、
白雨、雪舞の折には泥沼になった。 特に文化十二年六月には未曾有の
洪水にみまわれ、このままでは宿が絶えてしまうのではと、時の代官松下内匠堅徳が
幕府より二千両の助成を得て、宿中を五尺余り(約1.5m)土盛りしてその上に家屋を改築し、
文化十五年に完成させた。 この功績に
対し、村民は松下神社を建立し、碑を刻んで感謝した。 碑は太平洋戦争の戦災で
焼き壊され、今は一部しか残っていない。
平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記 」
「 本陣は水谷治兵衛、問屋は水谷久衛門、庄屋は水谷徳兵衛が務めていた。
皇女和宮は河渡宿水谷本陣にて昼食を摂りました。 」 と
記録にあるが、その場所がどこなのか、分からなかった。
宿並中程の島川美容室の手前を左に入ると右側に河渡宿の鎮守である杵築神社が
あり、社殿が高台にあるので洪水時の避難所でした。
河渡地区も岐阜の空襲時に焼失したといわれるが、古い家が一部残っていた。
また、最近の家でも一段と高く玉石を積んだ家があるのは洪水で被害を受けた先人
の知恵によるものだろう。
数百メートルほど歩いた右側に空き地があって、日本歴史街道の「中山道河渡宿」と書かれた木柱が立って
いた。 このあたりが河渡宿の西の境のようで、往時は枡形になっていたようである。
河渡宿は長さ三町(約330m)の小さな宿なので、「中山道河渡宿」の碑を過ぎると
すぐ終わってしまう。 河渡宿と書かれた木製ミニュチュア灯籠が何基か置いて
あるのがかろうじて宿場だった雰囲気を出しているだけであった。
枡形を過ぎると天王川(旧柚木川)を慶応橋で渡る。 往時は徒歩渡しでした。
慶応橋を渡り、大通りにでると岐阜市から瑞穂市になる。 この先の街道は直線の
一本道で、生津縄手(なまずなわて)で両側は工場団地になっている。 生津(なまず)
の地名は中世にあった生津荘園に由来する。
県道と交差する生津交差点を横断する。 交差点を左に千八百メートルにJR東海道
本線穂積駅がある。 その先の変則交叉点で右にカーブする道を進む。 右側の
生津小学校を過ぎると突き当たりがもりあがっている三叉路で、馬場の追分である。
道前に「中山道 姫街道400年祭in岐阜 馬場石地蔵道祖神」その下に「←美江寺宿
西へ2q」「東へ2q河渡宿→」の木製の道標がある。 夢ロマン姫街道の木標
もあったが、今日は取り払われているだろうか? その右に「中山道 瑞穂市
日本歴史街道 」の道標もある。 中山道は左で、右は墨俣街道
である。
正面の段上には馬場地蔵堂と「神仏敬信」と刻まれた石柱があり、
昭和八年(1933)建立の正面「右 合渡・加納ヲ経テ名古屋ニ至ル」「左 本田・美江寺ヲ
経テ京都ニ至ル」、右面「右 高屋・北方ヲ経テ谷汲山ニ至ル」と刻まれている道標
がある。
小さな祠の中には中央の石仏(地蔵尊?)は着物を着せられていた。
左の石仏は布で覆われ分からないが、頭部が無くなっているような気がした。
この場所はかっては小山だったのが、道路工事で削られて現在の形になったの
だろう。
右側の本田郵便局を過ぎると糸貫川を糸貫橋で渡る。
* 「 糸貫川は木曽川水系の河川で、流末は天王川に落合い、 長良川に注いでいる。 かつては鶴の名所で和歌の歌枕として詠まれました。 」
糸貫川を渡ると左側に本田地蔵堂(ほんでんじぞうどう)の幟 がひらめく小さいが立派なお堂、本田地蔵堂が見えてきた。
* 「 本田地蔵堂に祀られているのは南無延命地蔵尊で、 高さは高さ三尺(90cm)の大きな石仏坐像で、背面に名古屋の石工の名前、台座に 「文化六巳巳歳(文化六年)八月二日 建立」などの文字が刻まれている。 文化六年(1809)に濃洲本巣郡上本田村が建立したもので、 彫りが美しく、優雅な面相をした仏様である。 」
信号交差点を越すと右手に本田仲町の秋葉神社があり、
左側の瑞穂市掲示板脇に中山道町並標柱がある。
旧本田村は東町、仲町、西町で構成され、河渡宿と美江寺宿の中間にあたり、間の宿的
な立場でした。
次いで右側に本田西町の秋葉神社がある。 中川橋を渡ると右側の家の前に「
本田代官所跡」の説明板がある。
* 説明板「本田代官所跡」
「 江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かで
ない。 しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官
に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。 本田代官は後に川崎平衛門定孝
(十一年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。
明和七年(1770) 大垣藩に預けられるまで続いた。 今も「代官跡」「御屋敷跡」
「牢屋敷跡」という地所が残っている。 瑞穂市教育委員会 」
本田西町交差点を越すと用水路脇に高札場跡の説明があり、 「 江戸時代の分間延絵図によるとこの辺りに高札場がありました。 」 と 書かれている。 本田松原交差点は直進すると右側に大エノキが聳えている。 街道の生き証人である。 当時の街道(中山道)には立派な松並木があった。 美江寺の松並木であるが、戦時中 に松根油採取の為、伐採されました。
* 旧巣南町教育委員会が作成した資料によると、
「 河渡宿から美江寺宿まで、立派な松並木があった。 特に五六橋から宿までの
二百五十メートル位は両側に松の大木が茂り合っていた。 昔の旅は駕籠か馬を利用
するか、徒歩なので、夏の炎天下を旅する人々には、松並木の日陰はこの上もない
憩いの場所であっただろう。 これらの松並木は戦時中(昭和十八年〜十九年)
の飛行機用の松根油の採るとか、建築材にするなどの理由で、全て伐り倒られた。 」
このあたりから道の両脇の家がまだらになり田畑が多くなった。
五六川にかかる五六橋を渡ると美江寺五六町交差点。 美江寺宿が江戸日本橋から数えて、
五十六番目の宿場にあたることから、入口の川を「五六川」と名付けたといわれる。
五六川を渡ると瑞穂市本田から瑞穂市美江寺になる。
美江寺宮前町交差点を越すと樽見鉄道の美江寺踏切がある。
* 「
線路は第三セクターで経営されている 樽見鉄道樽見線で、大垣から根尾桜で有名な
根尾村樽見駅まで運行されているが、赤字路線なので将来が懸念される鉄道の1つ
である。
美江寺は歴史的に古い土地柄である。 大化の改新(645)の律令制、条里制
(十四条〜十九条)により、十六条村となったが、その後、美江寺に改称された。
江戸時代の「中山道分間延絵図」には美江寺宿の周りに十五条村、十七条村の名が
見える。 江戸時代に発行された「木曽路名所図会」にも「 美江寺観音は養老年中
伊賀国より当国本巣郡十六条村に移し勅願所を建立ある、これを美江寺という。
土岐持益この寺において薙髪す。 その時、子院二十四ヶ所あり。 永禄年間兵火
に滅び、信長公岐阜今泉村に再興し、本尊ここに安置す。 寺領十石。 この所廃寺
となりただ地名のみ残れり。 」 とあり、一部の違いがあるがおおむね同じ内容
である。 」
踏み切りを渡った右手にあるが無人駅の美江寺駅。 踏切を渡った先の水路脇の右側に「右岐阜加納ニ至ル 左北方谷汲ニ至ル」の 道標が立っている。 道標の目の前の民家に「美江寺宿名所・遺跡図」が 立っている。 ここが美江寺宿の東枡形跡で、美江寺宿の江戸方(東)入口である。
* 「 美江寺は天正十七年(1589)、豊臣秀吉の下知によって問屋場が 設けられ往還の荷物中継ぎの業務を行っていたが、江戸時代になって中山道が整備され、 寛永十四年(1637)四月、伝馬役家、歩行役家各二十五軒を定めて問屋の支配下に置き、 運送業に当たったのが美江寺宿の公式開設である。 」
美江寺は今でもどこかひっそりとした雰囲気の町だが、当時も宿場としては小さな
存在であった。 幕命により整備された美江寺宿は天保十四年(1843)の宿村大概帳による
と、宿場の長さが五町十九間(530m)、家数が136軒、宿内人口582人(男302人
女280人) 本陣は1、脇本陣はなく、旅籠は11軒という小さなさな宿場であった。
美江寺は大雨の降るたびに長良川からの逆水により宿の前後の往還が浸水し宿場と
しての条件は劣悪でした。 明治二十四年(1891)の濃尾大地震で宿場は壊滅した。
道を直進すると美江寺大門裏交叉点である。 右に百二十メートル行くと瑞光寺、
左に入ると中小学校がある。
中小学校は室町後期から戦国時代にかけて、美濃国守護職・土岐氏の武将だった和田氏
の本拠だった美江寺城跡である。
* 説明板「美江寺城址」
「 室町時代に美濃国守護職であった土岐氏の武将和田八郎が応仁文明の頃(1460年頃)、
本巣郡舟本庄十六條に居館を構えたこれが美江寺城の創始である。
その後八郎の子和田佐渡守次いで和田伊代守高成 和田将監高行と代々此処に掾って
土岐氏に従った。 斉藤道三が擡頭して守護土岐頼藝と軍を構えたとき美江寺城主は
和田将監高行であった。 天文十一年(1542)道三の軍勢が美江寺城を襲い、
九月三日夜これを攻略し城は灰燼に帰した。 何時の頃か城址に神明神社と八幡神社が
祀られたが大正三年(1913) 神社を美江神社に遷してここに船木小学校が建てられた。
昭和五十三年六月吉日 巣南町長岡田守謹記 」
瑞光寺は「中山道分間延絵図」にも掲示されているので、歴史の古い寺のようである。 境内には山本友左坊等により建てられた芭蕉の句碑がある。
* 「 旧巣南町教育委員会が作成した資料」 によると
「 瑞光寺は浄土宗西山派の寺院で、美濃派獅子門第九世道統山本友左坊の菩提寺で
ある。 山本友左坊は宝暦七年(1757)この宿の本陣兼問屋場を経営していた山本家
に生まれた人で、美濃派の俳人として名を挙げた。 」
友左坊は近在の俳人二十三名の協力を得て、天保十四年(1843)俳人松尾芭蕉の句碑を
建立した。
「 旅人と 戒名呼ばれん 初時雨 」
三年後の弘化三年(1846)に享年九十才で亡くなっている。 昭和五十二年に、友左坊の
句碑が添碑された。
「 影も匂うかと おもはれつ 梅に月 」
美江寺大門裏交叉点を過ぎた右側に「美江寺一里塚跡」の標柱が立っている。
江戸より百八里目である。 かってこの両脇に美江寺一里塚があったが、大正三年、
美江神社に払い下げられ、同年十三年には隣地の所有者に売却されて消滅した。
その先の右側に瑞「自然居士之墓」の標石がある。
* 「 ここを右奥に進むと五輪塔が並ぶ 自然居士之墓がある。 自然居士(じねんこじ)は和泉國日根郡自然田村で生まれ、 臨済宗南禅寺大明国師(1212〜91)に師事した鎌倉時代後期の奇行遊行の禅僧でした。 」
道の両脇に古い家が残っている。
左側の造り酒屋の布屋は濃尾地震の際宿内で唯一残った商家である。
加納藩は元禄九年(1696)小森文左衛門(屋号布屋)に酒株(酒類営業権)を与えました。
美江寺交差点の右側に美江神社がある。
美江神社は宿場のほぼ中央付近に位置しており、中山道はここで直角に曲がり、
左折する。 江戸時代、鳥居に近くに高札場がありました。 美江神社の境内に復元
された高札場がある。 高札場には正徳元年(1711)から幕末まで続いた高札が
掲げられている。
* 「 美江神社の祭神は熊野三所大権現で、昔は権現様、権現様と 呼ばれ親しまれたという。 天徳四年(960)頃の美濃国神名帳に「正六位上美江明神」と 記されているのがこの神社とされるから、神社の起源は古い。 明治十四年に美江神社と 改称されるとともに町内にあった日吉神社、神明宮、八幡神社、貴船神社を 合祀した。 」
鳥居から中に入ると左側に社殿があり、右手に岐阜県知事が揮毫した「美江寺宿」
の石碑と美江寺宿の由来を記した教育委員会の看板がある。
さらに奥にいくと明治三十五年再建の美江寺観音堂がある。
* 「 この地は木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の氾濫に絶えず
悩まされていた。 養老三年(719)、元正天皇が伊賀國名張郡伊賀寺に安置されていた
十一面観世音菩薩を招聘し、大伽藍を興建し、勅願寺の寺名に「美しき長江のごとく
にあれ」として、美江寺と命名したところ、木曽三川の氾濫が見事に治まりました。
繁栄を誇った美江寺も兵火で焼け、廃寺となり、美江神社の境内の祠に祀られていたが、
天文十八年(1546)、この地を支配した斉藤道三によって十一面観世音菩薩は強奪され、
稲葉山城の鎮護祈願の為岐阜の町に移されてしまった。
現在の観音堂の仏蔵は明治三十六年(1903)夢のお告げにより旧庄屋和田家の蔵にあった
室町時代の観音像を堂を建立して安置したものである。 」
中山道は美江神社前の美江寺交差点を直角に左折する。 今は直進する道があるが 江戸時代には枡形になっていた。 右側の旧庄屋和田家は大きく立派な屋敷である。 道の左側、美江寺中町バス停前の立派な屋敷の入口に「美江寺宿本陣跡」の石柱が 立っている。 本陣跡の表示は駐車場の一角なので、気が付かないと通り過ぎて しまうところである。
* 説明板「美江寺宿本陣跡」
「 天正十七年(1598)豊臣秀吉の外知により美江寺に問屋場が設けられ、
江戸時代の寛永十四年(1637)美江寺宿が開設されました。
それから三十二年後の寛文九年(1669)時の領主加納藩主戸田丹波守光永
より問屋山本金兵衛が本陣職を命じられました。
文久元年(1861)の和宮内親王の江戸下向の途次にはここで小休止
した。 また、慶応四年の東征軍東山道鎮撫隊はこの宿を発進地とした。
明治二十四年の濃尾地震で倒れたため、再建され、門、玄関、部屋などに
若干旧態を止めていたのが、平成三年に新しい建物に建替えられた。 」
対面には問屋が二軒あったようだが、今はあとかたもない。
* 教育委員会資料には 「 寛永十四年(1637)、伝馬役家と歩行役 家各二十五軒を定めて問屋の支配下に置いたのが始めで、中山道の宿場には人足 五十人、伝馬五十疋を常備するのを定則としたが、この宿の開設にあたっては 人足伝馬ともその半分で開始し、常備の人馬で宿の継立業務に応じられない場合は 助郷で対応した。 この宿では常時、馬が不足したため、近隣の十七の村から徴発 してこれに充てたが、農繁期とも重なることが多く、助郷の村との間で紛争が たえなかった。 」とある。 なお、助郷とは不足分を近隣の村から強制的に 調達することである。
本陣の向かいにには「開蒙学校跡」という石碑がある。
開蒙学校は尋常高等小学校の前身である。
街道を進むと西枡形(逆T字路)がある。 ここが美江寺宿の京方(西)の入口である。
左角に自動車にぶつけられたのか、一部欠けた「左大垣墨俣ニ至ル 右大垣赤坂ニ至ル」
という大正十年(1921)建立の道標があり、ここは大垣道の追分で、
墨俣は秀吉の一夜城で知られた地である。往時はこの西枡形に高札場がありました。
右が中山道、直進が大垣道である。
安藤広重が描いた「木曽路六十九次・みえじ宿」の絵には、 実のたわわになっている柿の木と竹林、そして犀川(さいかわ)の水辺の風景が描かれて いる。
* 「 画面右側の椿は満開で、左奥の集落は屋根だけが描かれて
いる。 美江寺は低地なので犀川に面して堤防が高く築いて
洪水に備えたとあり、集落は周囲を堤防で囲っている為である。 これを輪中
(わじゅう)という。
犀川は墨俣城の脇を流れ、長良川に合流するが、
秀吉は犀川の上流から加工した材木を流し、一夜にして墨俣砦を築いたといわれる。
犀川の橋の手前、右側に千手観音堂があり、道の高さに合わせて石垣で組まれた土台の
上に建てられている。 堂内には天保四年(1833)に造立された白い石像の
千手観音菩薩が祀られている。 千手観音は人を救済する力が強い観音で、
千本の手はどのような衆生をも漏らさず救済しようとする観音の慈悲の広さを
表している。 」
川を渡ったところから瑞穂市になる。 中山道は新月橋を渡った先の千躰寺前のT字路を左折する。 千躰寺は寺なのか民家なのか分からない造りで、傍らにお地蔵さんが鎮座していた。
* 説明板 「千躰寺と千躰仏」
「 千躰寺は浄土宗西山派に属し、現在、養老郡の円満寺の末寺である。
千躰寺には高ささ十二センチ〜二十三センチメートルの桧材一木造りの阿弥陀如来立像
千体が八段に並べまつられている。 仏像は千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。
千躰仏は禅僧、自然居士の作で、仏像の姿、形から鎌倉時代後期〜南北朝時代のもの
と伝えられている。 自然居士は和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師
のもとで修行したが、奇行遊行僧のようである。 遊行の途中、自然居士は美江寺の
地にとどまり千躰仏を造立した。
瑞穂市教育委員会 」
柿畑がなおも続いており、中山道はやや南西に向かって歩いていく感じである。
このあたり(田之上新月)から呂久の渡しまでの道の両側には江戸初期に
松並木がつくられ、旅人はその下を行き来していたというが、その後の土地改良で姿を
消してしまっている。
犀川の堤防が左側にぐるっと囲んだ形に造られていて、右側に神明神社がある。
* 「神明神社御由緒」碑
「 祭神 天照大御神 当社は伊勢皇大神宮の御分霊を奉斎し、新月の村の守り神
として昔から篤く尊崇され以前は二月十六日が例祭であった。 境内地は江戸時代
には除地と称する免税地であった。 明治時代に国有地となったが、昭和二十五年
申請により当社に譲与された。 (以下略)
昭和六十一年十月吉日 新月 神明神社 」
犀川を巣南橋で渡るとその先に熊野神社があり、境内のモチの前に「春日局のゆかり 地」の石碑がある。 この地は十七条城(船木城)跡である。
* 「 十七条城は林氏の居城で、徳川家康に仕え、二万石を所領して いました。 林正成(まさなり)は元亀二年(1571)この城で生まれました。 成人すると 大垣曽根城主稲葉重通(しげみち)の養子となり、稲葉正成と改称し、文禄四年(1595) お福(春日局)を娶り、次男正定(まささだ)は尾張徳川家に仕え、旧領十七条千六石を 所領しました。 以来、熊野神社は出世熊野と呼ばれました。 」
街道を進むと右側のJAぎふ巣南の入口に大垣藩傍示石「従是西大垣領」がある。
JAの前をすぎると街道は長護寺川に突き当たり、この先は通行不可なので、。
右に大きくカーブする道を進み、橋を渡って県道156号に出る。
三叉路の対面はグランド、その右側は旧巣南町役場、平成の市町村合併により
瑞穂市支所になっている。
中山道は県道を左折して進む。
赤い橋の長護寺橋を渡ると右側に瑞穂市図書館分館があり、その隣に大月浄水公園 と瑞穂市中山道多目的公園があり、ここには「中山道」の説明板と各宿場の石柱が 立っている。 公園の向かいは巣南中学校。 大月浄水場公園内の石畳風の遊歩道に入ると 遊歩道の延長線上に二本の旧中山道標石があり、この間が旧道である。 車道を横断し、向いの旧道に入る。 右側の電柱に「中山道美濃路」の標識が掲げられ ている。 旧道は左斜めに揖斐川の土手に向って一直線に伸びている。 正面に揖斐川の堤防が見えるまで進む。 途中に 「←中山道」があるが、車用なのでそれを無視して直進する。
* 「 江戸時代の中山道時代には突き当たりの堤防と揖斐川は なかったので、昔はここから真直ぐ鷺田橋下を横切る道であった。 揖斐川は古来、 暴れ川として有名で、当時はもっと西に流れていた。 現在は川が流れていて、 鷺田橋を渡って対岸に行く必要がある。 」
土手に突き当たると土手下の舗装路を左に進み鷺田橋下をくぐり、左折する。 鷺田橋(さぎたばし)の上に出る歩道が現れたら、Uターンし鷺田橋の上に出る。
* 「 揖斐川は岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山(標高1257m)に源を発し、 伊勢湾に注いでいる。 河口では揖斐川、木曽川、長良川の大河が横たわり、東海道の 七里の渡しになっている。 揖斐川はかつては呂久川と呼ばれていた。 呂久川は大正十四年(1925)の河川改修により流れが直線化され、東へ三百メートル 移動し、現在の流路になった。 」
鷺田橋の左側の歩道で揖斐川を渡る。 揖斐川に架かる鷺田橋はかなり長く、
正面には伊吹山が見える。 突当りの呂久歩道橋を下り、土手下の道を進む。
右側に浄土真宗大谷派良縁寺(りょうえんじ)があり、
境内に呂久の渡しを勤めた馬渕善左衛門の墓標がある。
良縁寺の前の三叉路で右の道を進むと右手に白鳥神社がある。
* 「 継体天皇在位(507〜31)頃の創建で、主祭神は日本武尊 (やまとたけるのみこと)と后の弟橘媛(おとたちばなのひめ)である。 この地の産土神で、寛文七年(1667)遷宮の棟札を残しているという。 」
この辺りは神戸(ごうど)町呂久で、集落には古い町並みが一部残っている。
* 「 天正八年(1580)、織田信長の子信忠によって設けられた 呂久(ろく)の渡しがあったところで、慶長年間(1610年頃)には船頭屋敷が十三軒を 数え、中でも船年寄馬渕家には船頭八人、助務七人が置かれていた。 」
中山道は突当りを右折する。 この分岐点には「皇女和宮ゆかりの小簾紅園(おずこう
えん)→」の案内標識がある。
左側に浄土宗浄住山即心院があり、本尊の木造釈迦如来立像は文応元年(1260)の造立で
岐阜県の有形文化財に指定されている。
右側に浄土真宗大谷派鷺休山蓮生寺(れんしょうじ)があある。
本尊は阿弥陀如来で、境内に「秩父宮妃殿下御休憩所跡」の石碑が立っている。
昭和五十一年(1976)十月皇女和宮百年祭に出席した際、当寺が休息所になりました。
蓮生寺の二軒隣に長屋門があり、堂々たる
門構えの旧家は和宮を迎送した船頭頭の馬淵家で、「明治天皇御小休所跡」の碑が
建っている。
長屋門前に「←中山道」の道標がある。 この先は呂久の枡形で、
長屋門前を左折し、突当りを右折する。
たばこ店がある突当りを右折すると左側に観音堂と地蔵堂がある。
呂久の渡しの安全を長らく見守ってきました。
突当りのT字路を左折すると左手一帯が和宮記念公園の小簾紅園(おずこうえん)で、
この分岐点には谷汲山常夜燈がある。
大正十四年に呂久の渡し場が廃止された跡地に昭和四年(1924)皇女和宮の遺徳をしのび
小簾紅園が造園されました。
* 説明板には公園設立の趣旨や和宮降嫁の際の様子を細かく記して
いた。
「 金紋先箱を先頭に警護の武士団や色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が
蜿蜒と続いた。 公武合体のために仁孝天皇の第八皇女和宮が徳川第十四代将軍
家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された時のようすは想像を絶するものだった。
「惜しまじな 君と民との為ならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも」と悲壮な
御決意をされた宮は、文久元年(1861)十月二十日に京都を出発され、同十月二十六日
瑞穂市呂久の呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになられた。 その時、対岸の
馬渕孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじにお目をとめられ、一枝お望みに
なられた。 これを舷に立てされて、玉簾の中からあがずに御覧遊ばされ、
「おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と
御感慨をお詠いになられた。 この渡船を記念して歴史ゆかりの呂久の地に
和宮遺跡を保存したいという気運があがり、昭和の初め当時の郡上郡長、本巣郡南部の
村長等多くの人々が並々ならぬ努力をされたが、昭和四年四月その名もゆかしい
「小簾紅園」が見事に完成し、除幕式が立派に行われた。 その後、毎年春と秋の
二回、宮の遺徳をしのび、例祭が行われている。 昭和五十一年十月には皇女和宮
百年祭が秩父宮妃殿下の御來臨を仰ぎ、岐阜県知事を始め多数の御臨席を得て、
盛大に行われた。
昭和六十年十月 瑞穂市 」
和宮一行は文久元年(1861)十月二十日に京都をでて、
六日後の十月二十六日に赤坂宿を出て加納宿に泊まった。 呂久の渡しの際は、
前述の馬淵家で小休憩され、美江寺宿でも休憩されている。
公園の中央の歌碑には
「 落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ 」
という皇女和宮が詠んだ歌が刻まれている。
呂久川を渡る際、この地の紅葉の美しさを詠んだものであるが、京から江戸に行く
東下りの心境がよく表れている句である。
* 「 公武合体の政略結婚で、将軍家茂の許に嫁ぐため、悲壮の決意 で旅したが、幕府はそれから六年後には倒れてしまった。 正に歴史のいたずらとしかいいようがない。 公園内には挺身救国碑という碑もあった。 公園内は歴史から取り残された 風情で、 しんと静まりかえっていた。 」
小簾紅園の中を通って正門に出ると小さな川が呂久の渡し跡で、 呂久渡船場跡の説明板と「揖斐川呂久渡船場跡」の石碑が立っている。 揖斐川に比べるとほんの小さな小川だが、瑞穂市と安八郡神戸町との境界になっている。
* 説明板「呂久(ろく)渡船場跡」
「 天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である
近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂−呂久−
美江寺−河渡−加納の新路線が栄えた。 これが江戸時代の初期に整備されて五街道
の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。 慶長十五年
(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は十三を数え、中でも船年寄馬渕家には
船頭八人、助務七人が置かれていた。 その頃の川巾は、平水で九○メートル、中水で
一二○メートル、大水では一八○メートルに及んだといわれている。 文久元年
(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、
その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて
「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を
中心とした小廉紅園が建設され昭和四五年(1970)には巣南町指定の史跡となった。
この地呂久の渡船場は大正十四年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成
によりこの地より東へ移り現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることと
なった。 昭和四十五年(1970) 呂久渡船場跡碑建立。
瑞穂市 」
現在の呂久集落は揖斐川の西側にあるが、和宮が渡った時代には東側にあったの
である。 従って、公園のある所は和宮が舟を降りたところということになる。
公園をでてそのまま歩いて行くと右側に「中山道 神戸町 日本歴史街道」
の標柱があり、奥に神明神社が祀られている。
次いで右側の奥に小社が祀られ、平野井川の手前
左側には地蔵堂があり、平野井川の氾濫を見張っている。
地蔵堂水害に備えてでしょうか土台が高くなっている。
揖斐川の支流である平野井川を新橋で渡ると岐阜県安八郡から岐阜県大垣市に入る。 、
突当りの土手下道を右折して川に沿って歩く。
堤防の上に上がったところ(道が左手から来た堤防の道と合わさる三叉路)の傾斜に
「左きそじ 右すのまた宿道」と刻まれた大きな石柱(道標)がある。
* 「 右に行くと大垣を経て墨俣に出る美濃街道である。
美濃街道はその先、東海道熱田宿(宮宿)で東海道と合流するので、大名の参勤交代
でもよく使われたという。 この道筋は紀州徳川家の参勤道であったところから、
紀州街道とも呼ばれました。 」
街道は一旦土手道に合流し、すぐ先の大島バス停の先から斜め右の土手下道に
進む。 土手下道を下り切ると右折し、平野川の柳瀬橋を渡り、
すぐ右折する。 左側に神明神社があり、境内に「中山道一里塚跡」の
標柱が立っている。 柳瀬の一里塚跡で、江戸より百九里目である。
柳瀬橋に戻り、突当りを右に進み、一旦土手上に出る。
この土手道は大垣輪中で、大垣城下一帯を堤で囲み、水害の被害から守って
いる。
土手道を斜めに横断して左の下り坂を進む。 ここには案内標識「この道は中山道
です」がある。 坂下バス停の先の三叉路を右に進む。 ここには中山道道標
「美江寺宿 4.7km 赤坂宿 4.8q」がある。
右側の大垣輪中坂下水防倉庫先の三叉路を右に進む。
赤花町分岐で、ここには中山道道標「美江寺宿 4.9km 赤坂宿 4.6q」がある。
その先を左折する。 分岐点の手前右側に「中仙道三回り半」の道標がある。
* 「 三回り半とはここから三つの曲りとわずかな曲りがある ことを意味している。 分岐点の奥には案内標識「この道は中山道です←↓」が ある。 」
二つ目の曲りの左手に祇園信仰の素盛鳴社(すさのおしゃ)がある。
三回り目の曲りを左に進み、曽根排水路を境橋で渡り、東の川橋を渡ると
三津屋町3交差点に出る。
右折すると、その先の左側に薬師堂があり、弘法大師が爪で彫ったという
弘法大師爪彫薬師如来像が安置されている。
街道に戻ると左側に三津屋村の鎮守である秋葉神社が祀られていて、
境内には稲荷神社も祀られている。 続いて右側に浄土真宗大谷派長徳寺がある。
次の交叉点手前の右側の少し奥まったところにコンクリート製の聖観世音菩薩堂がある。
* 「 祠の中の聖観世音像は道標の役割を果たしていて 「右 ぜんこうじ道 左 谷汲山 ごうど いび近道」 と彫られている。 谷汲山は西国三十三観音霊場の満願 成就の寺で、札止めの観音霊場である。 」
小簾紅園から東赤坂の区間は短いと思っていたが意外に時間がかかる。
くたびれてきているのか、ピッチが思うようにあがらない。
中山道は直進すると両側の田圃の間にS字カーブが見えてきて、最初のカーブ左側の
ブロック塀の前に「七回半」の石の標柱が立っている。 次の大きな十字路を渡って
すぐ「中山道→」の道標に従い右折する。 次はパチンコ店の前で左折、更に
センタ―ラインのある太い道を右折する。 中沢交叉点を左折するが、この角に
「加納薬師如来是より北八丁」の道標がある。
ブロック塀の奥に薬師堂があり、薬師如来像には「左かのふ村 やくし」と刻まれ道標
を兼ねている。
この中山道の道は左側が大垣市、右側は安八郡神戸町で、加納用水も近くになるので、
加納はこのあたりの古い地名なのだろう。
県道230号を進むと右側に書家で昭和の三筆の一人、日比野五鳳記念碑案内標識がある。
近鉄養老線踏切を踏切を渡ると正面が菅野川で、
右手に東赤坂駅がある。 時計を見ると十六時近いので、本日はここで終了する
ことにした。 今日は岐阜市の加納宿から大垣市の東赤坂まで歩いたので、
二十三キロくらいの歩きだった。 東赤坂駅は近鉄養老線(揖斐線)、
来たのは二両編成のワンマンカーで、二駅で終点の大垣駅に着いて
しまった。 来るのを待っていた時間に比べて、あっ!という間だった。
前回終了した東赤坂駅から歩き始める、 踏切を越えた左土手下に菅野神社が鎮座 している。 この神社は奈良の興福寺とゆかりがあるようで、古に新羅から 渡ってきた帰化人と関係があるようなことが書いてあった。
* 「 この神社は奈良時代に百済国王の末裔が祖神を祭神として 奈良興福寺領だったこの地に祀ったのが始まりで、この地十三ケ村の総鎮守として、 五穀豊穣、福徳長寿の尊崇を集める古社である。 」
中山道は菅野橋を渡り、赤坂菅野簡易郵便局先の三叉路を左に入る。 ここには
「中山道↑」の道標が立っている。
旧道に入ると左側に浄土真宗大谷派宝樹山徳蔵寺がある。
六百メートル程先、南方排水路を白山橋で渡ると、左側に白山神社が
あり、神社の由来でかなり昔からあることは分かったが、建物は新しい。
神社のすぐ先の左側民家前に「史跡 中山道一里塚跡」の標柱が立っている。
池尻とも青木の一里塚とも呼ばれ、江戸より百十里目である。
このあたりから赤坂港(あかさかみなと)までには
大理石を加工している会社が多い。 以前は柱状で加工したのかもしれないが、
薄い板状にしてコンクリートの上に貼って全体を大理石と見せかけるプレートを
生産している。 赤坂新町に入ると左側に多賀神社がある。
多賀大社の分神を勧請したもので、本殿は昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で
甚大な被害を受け、翌年再建された。
多賀神社の先で左後からくる国道417号と合流する。 美濃路(大垣道)の追分で
合流点の国道側に「左なかせんどう 右おおがき道」と彫られた道標が立っている。
合流したところに杭瀬川(くいぜがわ)が流れ、そこに架かる赤坂大橋を渡る。
* 「 杭瀬川は岐阜県揖斐郡の池田山周辺に源を発し、菅野川を吸収 し、牧田川に合流する。 天武天皇元年(672)壬申の乱で負傷した大海人皇子 (後の天武天皇)が、この川で傷口を洗うと、たちまちに傷が癒えたところ から苦医瀬(くいせ)川と当初呼ばれました。 本来の旧杭瀬川はこの先約240mに流れを残している。 昭和二十八年(1953)の河川改修で、流路が付け替えられました。 」
交差点を横切ると突然左に高い楼櫓(赤坂湊の灯台モニュメント)が見えてきた。 ここは赤坂港(あかさかみなと)のあったところである。
* 「 現在は公園になっているが、江戸時代には杭瀬川がこちら
に流れており、ここに河港を設けて、赤坂特産の大理石や石灰を積みだす港として
賑わっていた。 杭瀬川は今は小さな流れになったが、1530年まではここが
揖斐川の本流で、当時の水量も多く川幅が広く、水運に盛んに利用されていた。
明治・大正期には石灰産業の発展にともなって、赤坂港には五百隻余の船が往来
していた。 やがて鉄道輸送やトラック輸送に置き換わり使命を終えた。
その跡地が赤坂港跡公園として整備され、川灯台や明治の洋風建築の資料館が
残されている。 」
常夜灯は当時の名残りで、隣接する洋館の赤坂港会館は明治八年(1875)に
中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所を復元したもので、
今は赤坂に関する資料館になっている。 なお、トイレは資料館の裏にある。
赤坂宿は美江寺宿から二里八丁(約9q)で、杭瀬川の舟運や谷汲街道、
伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わった。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
赤坂宿の長さは七町十八間(約730m)、家数は292軒、宿内人口は1129人(男576人、
女553人)、本陣が1、脇本陣1、問屋が3あり、旅籠が17軒と商家が軒を
並べていた。
街道の右側には昔懐かしいたばこの看板と建物。 左には袖壁の付いた古い建物
が並んでいる。 自転車に乗って通りすぎる人や歩行者がレトロな町並みに
なぜか似合う。
鉄道線路があり、脇に「赤坂本町駅跡」の石碑が立つ。
* 「 線路は西濃鉄道のもので、石灰を運ぶための貨物列車が
一日三回通るという程度である。
最盛期には多くの輸送量を誇ったようだが、トラック輸送の時代になり、今では
本数が減ってしまった。 以前は乗客も運んでいて、その先のJR美濃赤坂駅
に乗り入れていた。 石碑は当時の駅を示すものである。 西濃鉄道は古い車両
が多いのとスイッチバックが行われるので、鉄道マニアの間では有名のようで
ある。 」
左側のガソリンスタンドの隣の「史跡 中山道赤坂宿本陣跡」の標柱と 本陣跡の説明板が立っている。 ここは街道開道四百年を記念して、本陣跡を 赤坂本陣公園として整備したものである。
* 説明板「中山道赤坂宿 本陣跡」
「 当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣
であった。 間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝ニ十九歩、建物の坪数は、
およそニ百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。 寛永以降、
馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ
暫く谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。
昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会 」
説明板の後方に和宮をしのぶ顕彰碑がある。
* 「 文久元年(1861)十月二十五日、暮七ツ時(午後四時頃) 皇女和宮は赤坂宿矢橋本陣に到着し、宿泊(五日目)しました。 翌朝五ツ時 (午前八時頃)本陣を出立、彦根藩約一千七百名、大垣藩約一千三百名が警護し、 その隊列は十町(1.1km余り)に及びました。 大垣藩は皇女和宮通行の前後三日間の街道通行禁止、宿泊当日より翌日夕方まで 焚き火、鳴り物を禁じました。 」
本陣公園に所郁太郎(ところいくたろう)像がある。
* 「 所郁太郎はこの先の虚空蔵口バス停の所に「憂国の青年 志士所郁太郎生誕地」碑があるが、 天保九年(1838)赤坂宿の酒造家矢橋亦一(やばしまたいち)の四男として生まれ、 幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養嗣子となり、 初め横山三川に 漢学を習い、次に美濃加納藩医青木養軒に医学、三宅樅台(しょうだい)に 文学歴史を学び、十八歳で京に出て安藤桂州塾で蘭学を学び、さらに大阪の適塾 に入門し、緒方洪庵に西洋医学と洋学を学びました。 この頃より長州藩士との親交を結び、江戸長州藩邸内の医院総督となりました。 文久三年(1863)の政変により三条実美等の七卿落ちに従い長州入り しました。 この時に刺客に襲われ瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨) の刀傷を畳針で五十針も縫合し、一命を取り留めています。 「医は人の病を医し、大医は国の病を治す」の信念で、国事に奔走しました。 遊撃隊参謀として高杉晋作を補佐し、幕府の長州征伐に備えましたが、 慶応元年(1865)三月十二日腸チフスに罹り、吉敷村の陣営で死去しました。 享年二十八歳でした。 日蓮宗妙運山妙法寺の参道口の左側に「史蹟所郁太郎墓」石碑があり、 墓は墓地内にある。 」
街道に面して二階建てを模した旧家が数軒残されている。 お嫁入り普請 の家である。
* 「 皇女和宮の通行に際して、見苦しい家があっては
非礼とのことで、一階建ての家を中二階のある在る家に五十四軒が建て直
された。 これをお嫁入り普請といい、費用は幕府より十年債で借用しましたが、
三年後に幕府は崩壊し、借金は帳消しになりました。 」
この先、右にカーブし、十字路になっているが、このあたりが赤坂宿の中心 だったところである。 右側の赤坂歯科医院の所に赤坂宿の四ツ辻があり、四ツ辻手前の右側に「史跡中山道 赤坂宿」のモニュメントと天和三年(1683)建立の「谷汲山観音夜灯」という道標 を兼ねた常夜灯がある。
* 説明板「赤坂宿」
「 赤坂宿 東 美江寺へニ里八町 西 垂井へ一里十二町 」
「 近世江戸時代五街道の一つである中山道は江戸から京都へ百三十一里の道程に
六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当る。 大名行列や多くの旅人
が往来しまた荷物の輸送で交通は盛んであった。 町の中心にあるこの四ッ辻は
北に谷汲(たにぐみ)巡礼街道と南は伊勢に通じる養老街道の起点である。
東西に連なる街筋には本陣脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて
繁盛していた。
昭和五十九年三月 史跡赤坂宿環境整備員会 大垣市商工会 大垣市
」
右手の北への筋は西国三十三観音霊場の満願寺谷汲山華厳寺への谷汲巡礼街道
で、左の筋は伊勢に通じる養老街道である。
四辻の左角にある大きく、長く左右に続く屋敷は本陣を最後に務めた矢橋家で
ある。 東西南北百メートルの敷地に、天保四年(1833)に建てられた大型町屋で、
国の有形文化財に登録されている。
矢橋家に続く矢橋グループ本社の隣が飯沼家が務めていた脇本陣跡。 脇本陣の飯沼家は問屋と年寄役を兼ね、建坪百二十坪以上の建物であった。 明治維新後一部が解体されて旧赤坂町役場となったが、母屋は榎屋旅館として、 最近まで営業していた。
* 説明板「脇本陣跡」
「 江戸時代、中山道赤坂宿脇本陣は当家一ヶ所であった。
大名や貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され、
屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。 当所は宝暦年間
以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を務め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新
に及びその制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至って
いる。
昭和60年8月 大垣市赤坂商工会観光部会 」
交叉点を左折し、JR美濃赤坂駅に立ち寄った。
* 「 赤坂駅はJR美濃赤坂線の終着駅である。 といっても、赤坂線は大垣駅から赤坂までの五キロを結ぶだけの大変短い路線で、 時間によっては三時間に一本もないというダイヤ編成である。 西濃鉄道の始発駅 でもあり、石灰輸送のための貨物輸送と朝夕の通学・通勤のための鉄道といっても いいすぎでないだろう。 」
駅南西の高さ五十メートルあまりの小高い丘には、関ヶ原合戦の前夜、家康が 陣を構えた「勝山家康本陣跡」がある。
* 「 家康が陣を構えたときは岡山という名前
だったが、合戦に大勝を納めたことから勝山に変えられたといういわれがある。
徳川家康の物見台からは赤坂宿を一望することができる。
近くの安楽寺は聖徳太子が創建したと伝えられる寺で、大垣藩家老で忠臣蔵に出て
くる赤穂城受取人の戸田権左衝門の墓がある。 」
四辻(交叉点)に戻る途中、少し 入ったところに将軍専用の休泊所である「お茶屋屋敷跡」がある。
* 説明板「史跡 お茶屋屋敷跡」
「 ここは慶長九年(1604)徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた
将軍専用の休泊所跡である。 お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、
周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廊を本丸といい厳然とした城廊の構えで
あった。 現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上
重要な遺跡である。 大垣市教育委員会 」
門をくぐると竹林があり、 正面の小高いところに は日本家屋があり、興味を引いたが、 個人住宅で入ることも覗くことも出来ない。 庭にはボタンの木が多く植えられていて、ボタン園として有料公開しているよう だが、 これといって見るべきものはなかった。
* 「 茶屋屋敷は岐阜城から移築した御殿のほか、六十一棟も ある大規模な屋敷であったが、燃えてなくなった。 明治維新後、土地は民間に払い下げられたが、 寛政年間から本陣を務めた矢橋家がこの遺跡を守り、ボタン園として一般に 公開している。 」
四辻まで戻り、西に向かう。 左側にお嫁入り普請探訪館がある。
皇女和宮一行が通るということで、見栄えをよくするため、改造された「姫普請」
といわれるものである。
道の向かいの日蓮宗妙運山妙法寺の入口には「史跡所都太郎墓」と
「史跡戸田三弥墓」の
石柱が立っている。
墓は墓地内にある。
* 「 戸田三弥(さんや、寛鉄)は文政五年(1822)に大垣藩家老の家に生まれました。 幕末維新の際には藩老小原鉄心と共に紛糾する藩論を勤王に統一するのに尽力し、 また、戊辰戦争では大垣藩が東山道先鋒を命じられると軍事総裁として 東北各地を転戦し軍功を上げました、維新後は新政府の要職を歴任しました。 」
右側に子安神社の標柱と「←こくぞうさん」の案内があり、その右側には
「憂国の青年志士 所郁太郎生誕地」の石柱が立っている。 所郁太郎について
は赤坂本丸公園のところで記述済みである。
路地を入ると坂の上りかけに子安神社がある。 皇室と関係が深い神社で、 境内には「女性がこれにまたがると子が授かる」といい伝えられる神功皇后の 鞍掛石がある。
* 説明板「子安神社御由緒」
「 当子安神社は神功皇后、応神天皇の二柱を奉祀し、千八百年の昔より
安産守護の神として遠近よりの崇敬があつく、殊に大垣藩主戸田家のご帰依
浅からず、社殿の寄進を始めその他の供物等絶えず代々城主奥方ご妊娠の折
りには境内の竹を用いてご産刀を作り安産を祷り給ふに霊験顕著なり。
三代将軍家光もこの由を聞き召され戸田家に命じ、代々ご産刀を献ぜしめる。
皇室でも大正十四年十一月以来、皇室御慶事の都度ご産刀を奉献する。
昭和三十五年皇太子妃美智子殿下御懐妊に際し、お守りとご産刀を奉献する。
皇太子妃雅子妃殿下御懐妊に際し平成十三年九月二十六日御安産を祈願し、
当社のご産刀を奉献し目出度くご安産遊ばさる。 (以下略) 」
さらに坂を登ると金生山神社(きんぶやまじんじゃ)がある。 金生山明星輪寺の鎮守として祀られている蔵王明神社で、鍛冶屋など鉄を 司どる神様である。
* 「 金生山神社が別名、
石引神社といわれるのは寛永十年(1633)、大垣藩主・松平越中守が大垣城の普請
の際、石垣の石をここで採取して大垣まで運ばせた」ことに由来する。
この神社までは街道から一キロ弱だが、かなりの坂道である。
<この奥には日本三大虚空蔵の一つといわれる金生山明星輪寺があるが、往復三キロ
強では後の予定にさわるので、引き返すことにした。 眼下には赤坂や大垣方面の
景色が見え、すこし霞んではいたが、充分満足できた。
* 「 金生山明星輪寺は持統天皇の命で創建されたと伝えられる 千三百年余の由緒ある寺で、開基は役の行者小角が朱鳥元年(686)三月、初願して 着手、二年後の七月に落成して、七堂伽藍を始め一山五坊を創立、自ら虚空蔵菩薩 の尊像を石に彫刻して祀ったというもの。 また、平安時代末期の木造地蔵菩薩 半跏像(国宝)を所蔵している。 伊勢の朝虚空蔵、京都嵐山の昼虚空蔵と並んで 宵虚空蔵と呼ばれて、日本三大虚空蔵の一つである。 」
戻る坂の途中には八王子神社ほか、
石山神社や秋葉神社など多くの神社や寺があり、赤坂宿の往時の隆盛を感じた。
街道に戻り、赤坂西町バス停を過ぎると左側に
「史跡赤坂宿 御使者場跡」の石碑があり、
階段を登ったところに、関ヶ原の決戦の前日、杭瀬川の戦にて戦死した東軍の中村
隊の武将、野一色頼母を葬り、鎧兜を埋めたと伝えられる「兜塚」がある。
* 「 御使者場は参勤の大名や公家通行の際、宿役人や名主
が送迎を行った場所で、ここが赤坂宿の京方(西)の入口である。
脇の石段を上ると兜塚がある。
* 石碑「兜 塚」
「 この墳丘は関ケ原決戦の前日の慶長五年(1600)九月十四日、杭瀬川の戦いに
笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将、野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと
伝えられている。 以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員
会 」
赤坂宿はここで終わる。
(所要時間)
加納宿→(1時間30分)→長良川→(20分)→河渡宿→(50分)→本田代官所跡→(40分)→美江寺宿
→(1時間10分)→小簾紅園→(1時間50分)→赤坂宿
河渡宿 岐阜県岐阜市河渡 JR東海道本線穂積駅から徒歩20分。
美江寺宿 岐阜県瑞穂市美江寺 樽見鉄道美江寺駅下車。
赤坂宿 岐阜県大垣市赤坂 JR東海道本線美濃赤坂線美濃赤坂駅下車。