前回、中津川から大井宿を経由して深萱立場で終えた。
今回は深萱立場から御嵩宿に向けて出発。 武並駅からは3km弱の距離だが、歩くと
上りなので30分以上かかるので、駅から深萱へは楽で早いタクシーを使った。
大井宿から大鍬宿までの道は十三峠と称される上り下りの続く道で、その距離は三里半 と長い。
* 「 徳川幕府は中山道開道に際し、大井から御嵩の間に新しい道を開設し
た。 これまでの釜戸を経由する道に対し、距離は短いものの、十三峠と称される
峠また峠の険しい山道である。 十三峠と称するが、十三に余り八つと言われる程の坂の
数である。 東海道に比べ、中山道は防衛能力が低いので、軍事上の要請から通行困難な
道にしたという説もある。 」
十三峠全体図 |
深萱立場はそのほぼ中間に設けられた休息所である。
深萱立場は藤村高札場に始まり、少し西に大名などが利用する立場本陣があった。 その
先の谷間に開けた場所が立場の中心で、数軒の茶屋が並びなかなか賑わっていた。
深萱地区は少し開けていて、車道に沿って小川が流れており、田畑が展開していた。
今日は深萱立場から大鍬宿、細久手宿へて御嵩宿まで歩く。
前回終了の立場茶屋跡の中山道案内板から出発。 立場茶屋からは再び、森の中の山道と
なった。 二キロほどの区間は東海自然歩道と合流したり、別れたりして進むので、中山道
の石柱(道標)に従って歩く。
すぐ先、右への登り道が西坂で、西坂は木が茂った道を上っていくが比較的急な坂である。
坂を上ると左側に「茶屋跡」の標柱があり、坂の上の民家手前の右側に「中山道西坂」の碑
がある。
左側のガレージ手前に小さなチンチン石の標識があるので、左に入ると読経塔の前に
チンチン石があり、置いてある石で叩くとチンチンと金属音が響く。
民家を過ぎると土道になり、左側に中山道の石柱と「馬茶屋跡」の標柱が立っている。
変則七叉路に出たら、更に左の茶屋坂の石畳道を登る。 すぐ石畳が終り土の道になるが、
再び林の中を進むと右側にみつじ坂の標柱がある。
この上り坂がみつじ坂で、平らな場所に出ると右手に三城(みつしろ)峠の標柱がある。 、
三城とは藤、権現、奥の三城が峠から眺められるところに由来している。
峠の右側に「三城峠」の木杭があり 左側には中山道茶屋坂の石碑があり、その
後方に「ばばが茶屋跡」の標柱が立っている。
* 「 三城峠の頂上に婆さんが営む茶屋がありました。 」
峠から下りは茶屋坂。 、相変わらず道は深い森の中である。
石垣が積まれた茶屋坂の急坂を下ると、車道に突き当たるので、左折し車道を進む。
五分程で車道に出た地点は東海自然歩道との分岐点。 左に進むと右側に「中山道」の大きな
石碑が立っていて、是より藤と刻まれている。 ここは恵那市武並町藤と瑞浪市釜戸大久後
の境である。
道標に従って、右折してまた山道を上る。 蛇行している道の先
を道標に従い上りきると、やがて比較的平坦な道に変るが、左側に「大久後の向茶屋跡」の
白い木杭がある。
ここを過ぎると下り坂になり、三叉路は左の草道を行く。 すぐに砂利道になり、観音坂の 上り道を進むと左側に大きな「大久後観音坂」の石柱がある。 階段状になった観音坂を上ると右側に中山道歴史の道観音坂と馬頭様説明板がある。
* 「 大井宿と大湫宿の間の三里半(約十三、五キロ)は、起伏にとんだ 尾根道の連続で、「十三峠におまけが七つ」とも言われ、中山道の中でも難所の一つでした。 ここは「観音坂」と呼ばれ、瑞浪市の東の端、釜戸町大久後地区に位置しています。 坂の途中の大岩の上には、道中の安全を祈念する馬頭観音像が立ち、坂の西には天保二年( 1841)銘の「四霊場巡礼記念碑」が建っています。 さらにその西に連なる権現山の山頂には 刈安神社が祀られ、山麓には往時駕籠などを止めて休息した、大久後・炭焼の二つの立場跡 が残っています。 瑞浪市 」
奥の大岩上に観音坂の馬頭様(馬頭観音像)が安置されていて、旅人の交通安全を見守って
いる小さな穏やかな石仏である。
右側に観音坂の霊場巡礼碑が立っている。 天保二年(1831)建立の奉納 西国 四国 秩父
坂東供養塔である。
反対側には休憩所があり、東海自然歩道を歩くハイカーがおしゃべりを
していた。
下り坂になり、段々になった田が見え、視界がひらけてきた。
坂を下ると 観音坂の手前の三叉路で分かれた道が再び合流。 左折し新道坂を進む。
この分岐点には東海自然歩道道標、歴史の道道標「↑中山道→」がある。
下り坂を進むとすぐ先の左側に「灰くべ餅の出茶屋跡」の標柱が立っている。
この茶屋は灰に直接くべて焼いた餅が名物でした。
坂が多いので、一息入れる旅人を目当てにした茶屋が多かったのか? それにしても、いたるところに木杭があり、一つ一つ説明が
あるのには感心した。 表示がなければ、単なる林道である。
ここから数分歩くと大久後駐車場に「東海自然歩道案内」板が建っている。
この分岐点には東海自然歩道道標「←大湫 3.3km 70分 武並 2.5km 50分→」がある。
ここは大久後の集落、民家は数軒、江戸時代に立場茶屋があった。
大久後集落を抜けると
十分程で権現山への登山口にでる。 途中に「大久後の観音堂と弘法様」の標柱があり、
石段を数段上ると大きな岩の前に三方むき出しの祠があり、祠内に弘法石造座像が安置
され、並びに観音堂と公衆トイレがある。
観音堂を過ぎ短いが急できつい権現坂を上る。 権現坂に続いて鞍骨坂を上る。 坂を上りきった右側に刈安神社への石段がある。
* 「 社殿は権現山の頂上に鎮座しています。 ここは東濃十八砦の 権現山城跡です。 城主が合戦に敗れ自刃すると、明暦三年(1657)里人が城主を刈安権現 と称し創祀しました。 」
そこを下りるとあたりに数軒の民家が建っていたが、江戸時代には炭焼立場茶屋があった ところである。
* 説明板 「炭焼立場跡」
「 立場というのは馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。
小さな広場と湧水池があり、旅人と馬の喉を潤していました。 太田南畝(蜀山人)が
享保二年(1802)に著した壬戌紀行に「俗に炭焼の五郎坂といふ坂を下れば炭焼の立場あり、
左に近く見ゆる山は権現の山なり」という記述があります。 十三峠の中では特に旅人に
親しまれた立場でした。 瑞浪市 」
しばらくは山の裾を歩く。 砂利の轍道を進み、林の中に入ると「吾郎坂」の標柱が ある。 砂利道の吾郎坂を上り、丸太の車止めを過ぎると樫ノ木坂の石畳道になる。 樫(かし)の木坂の石畳の急坂を上ると権現山の一里塚が左右に残っている。
* 説明板 「権現山一里塚」(瑞浪市史跡)
「 江戸へ九十里、京へ四十四里という道標で、樫ノ木坂一里塚とも呼ばれ、石畳とともに
中山道当時の姿を偲ばせてくれます。 この一里塚は慶長八年〜九年(1603〜04)、
十三峠の施設工事とともに築かれたものですが、瑞浪市内の四ヶ所のように完全に残って
いる例はなく貴重です。 」
右塚の手前に「十三峠の内中山道樫ノ木坂」の石碑があり、碑面には太田南畝(なんぽ)
の壬戌紀行(じんじゅつきこう) 「一里塚を過ぎ 樫の木坂を下りて 俗に炭焼の五郎坂と
云うを下れば炭焼の立場あり 左に近く見ゆる山は権現の山なり しばし立場に輿立てて
憩う」 と刻まれている。
その先は巡礼水坂で、道の左側には高いネットが張られていて、人声がする。
こんな山中にゴルフ場があるのである。 中仙道ゴルフ倶楽部の細いカート道(舗装路)を
横断し、ゴルフコースに沿って進むと、右側に 「中山道順礼水」と刻まれた石碑がある。
* 石碑には「 坂を下りゆくに左の方の石より水流れるを巡礼水という。
常にはさのみ水も出ねど八月一日には必ず出するという。 むかし巡礼の者比の日比所にて
なやみ伏しけるが、この水を飲みて命助かりしより 今もかかることありといえり。
大田南畝 壬戌紀行 より 」
ここは御助け清水、巡礼水と呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段
には宝暦七年(1757)の銘がある馬頭観音が祀られている。
石畳の一部残す巡礼水の坂を進み、カート道と車道の二ケ所を横断する。
ゴルフ場沿いの坂道は「びあいと坂」というが、名の由来は茶屋で売っていた「枇杷湯糖」
からである。
びあいと坂を下ると「中山道曽根松坂碑」があり、碑面には太田南畝の
壬戌紀行「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四五町 あやしき石所々にそば立ちて
赤土多し 曽根松の坂という」が刻まれている。
曽根松坂を下ると、少し開けた所に「中山道十三峠阿波屋の茶屋跡」の石碑がある。
おつる婆さんが営んだ茶屋跡である。
その奥に天保十一年(1840)に建立された三十三所観音石窟がある。
* 「 石窟内には道中安全を祈る三十三体の馬頭観音が安置されている。 これらの観音は十三峠を往来する大湫宿の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々から寄進 されたものです。 石窟前の石柱には定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州、越後の 飛脚才領、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出資者として名を連ねています。 」
おつるが茶屋坂の砂利道を下ると左側の清水の上に 「尻冷やしの地蔵尊」という妙な名前の石仏が安置されている。
* 「 宝永八年(1711) 伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時、 この湧き水で助かり、それに感謝して地蔵を建立しました。 以来お助け清水と呼ばれ、 旅人はもちろん、参勤大名も愛飲したといいます。 お地蔵さんの後ろから清水が湧き、まるで尻を冷やしているように見えるところから 尻冷やし地蔵と呼ばれました。 」
傍らに「中山道尻冷やしの地蔵尊」碑があり、碑には太田南畝の壬戌紀行「地蔵坂という坂
を上れば右に大きな杉の木ありて地蔵菩薩たたえ給う」が刻まれている。
林の中の道を歩き続けると、車道にでた。 車道を横切り、向いの旧道に入る。
この横断点には東海自然歩道道標と歴史の道道標がある。
舗装されたしゃれこ坂を上ると砂利道になり、左側に「中山道しゃれこ坂(八町坂)」石碑
がある。
* 「 碑面には太田南畝の壬戌紀行「曲りまがりて登り下り 猶(なお)三四町 も下る坂名を問えばしゃれこ坂という 右の方に 南無観世音菩薩という石を建つ 向こう に遠く見ゆる山はかの横長岳(恵那山)なり」が刻まれている。 」
碑の後には八丁坂の観音碑があり、南無観世音菩薩と刻まれている。
このしゃれこ坂が十三峠最後の上り坂である。 標高は約540mで十三峠の中で最も
高い地点である。 ここからは下りになる。
鬱蒼とした木立の中を進むと、明るく開けた道になり、左手の斜面には茶畑が広がる。
再び木立の中に入るも、スグに開ける。 「中山道十三峠山之神坂」の石碑が立っている。
ここが山之神坂で、結構急である。
往時は右側の段上に里に実りをもたらす山之神の小祠があったという。
少し平になった道の右側に「中山道十三峠童子ケ坂」の石碑がある。
緩やかな童子ケ根坂を下ると宗昌寺(そうしょうじ)の屋根の向こうに大湫(おおくて)宿
が見えた。
急な宗昌寺坂を下った先の右側段上に「寺坂の石仏群」の木杭が
あり、その横に「南無阿弥陀佛」の名号碑が二基、馬頭観音等が三基あり、
少し奥の草むらには金比羅常夜燈がある。
苦しかった十三峠はここで終わり、右側に「中山道十三峠」の石碑が立って
いる。
* 「 碑面には太田南畝の壬戌紀行「これよりいわゆる
十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどり
に入りて昼食を食す 輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさま
ほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば
二十ばかりもあらんと 輿かく者いうはじめてのぼる坂を寺坂といい
次を山神坂という」と刻まれている。 」
大井宿から多くの峠を越えて、やっとの思いで大湫(おおくて)宿に入る。
周りが樹木に囲まれての尾根道を歩いてきた旅人にとって、忽然と現れた家並みにはほっと
安心するものがあったのではないだろうか?
大湫宿は慶長九年(1604)十三峠に新道が開設された際に新設された宿場である。
大湫(久手)の「くて」とは湿地の意味で、谷間の中央に水田が広がる様はその名の印象
と一致する。
左側の大湫宿東駐車場入口に「中山道大湫宿」の石碑が二基建っている。
* 「 手前の石碑は道標になっており、正面には「中山道大湫宿」
「右 京へ四十三里半」
「左 江戸へ九十里半」、右面には「是より東 十三峠 道中安全」、
左面には「西方 細久手宿へ一里半 宿中安全 是より東方 大井宿へ三里半」と
刻まれている。
並びの「中山道大湫宿碑」の碑面には「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余
江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方
大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり
新撰美濃志より 」と刻まれている。 」
大湫地区は今や時代から取り残された辺鄙なところになっているが、江戸時代、 大井宿と御嵩宿の間が三十キロと長かったので、大多数の旅人が この宿場を利用したため、大変繁盛していた。 大湫宿は長さは三町十四間(約350m)という 狭い宿場に天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、宿内家数は66軒、宿内人口は 338人(男170人 女168人、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒とある。 その後の 文久元年(1861)の宿の全戸数が86軒、当時の人口は400人弱だが、旅籠が45軒に増えて いる。
* 「 寛政年間に編纂された「濃川徇行記」によると「この村は左右茅屋にて 町中も狭し。 農業と旅籠又は往還人足かせぎを以って渡世とする。 」とあり、 小さな宿が多くあったようで、この山間の宿場は街道稼業で食べていたようすが分かる。 」
寺坂を下ると左側に臨済宗妙心寺派金城山宗昌寺がある。
* 「 本尊は釈迦如来で美濃瑞浪三十三霊場第五番札所である。 天正年間(1573〜91)に大湫村を開村した保々宗昌が慶長五年(1600)に開基した寺で、 本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣でした。 」
寺坂を下り切り、左折すると大湫の宿並に入る。 江戸方の入口は枡形になっていた。 枡形を直進し、その先を右折すると左側の民家の壁前に「尾州藩大湫白木番所跡」の説明板 が立っている。
* 説明板「白木番所跡」
「 元禄七年(1694)尾州藩川並番所として設置され、奉行以下多くの藩役人、足軽などが常駐
していました。 天明年間(1781〜89)に白木番所に縮小され、以降明治初年まで同心級の
役人五〜六名が詰め、中津川以西八百津までの尾州藩木曽御領林の管理や木曽川流木の
監視、中山道筋の白木改めなどにあたった番所跡である。 」
宿場に入ると左側に旧家が二棟連なっている。 手前が旧旅籠三浦屋跡、二軒目が問屋
丸森跡(森川家)で、共に江戸末期の建築で、国登録有形文化財である。 写真は振り返って
写したものである。
斜め向かいの駐車場入口に大湫宿本陣跡の説明板がある。
* 説明板「大湫宿本陣跡」
「 大湫宿本陣は現小学々庭にあり間口二十二間(約40m)奥ゆき十五間(約27m)、部屋数二十三、
畳数二百十二畳、別棟添屋六という広大な建物だった。
大井宿と御嵩宿間の距離があったので、大名や公郷、高級武士たちの多くがここで泊まった
ので、このような大きなものが必要だったのだろう。
また 此ノ宮 (享保十六年・1731年)
眞ノ宮 (寛保元年・1741年)
五十ノ宮 (寛延二年・1749年)
登美ノ宮 (天保二年・1831年)
有 姫 ( 同 年 )
鋭 姫 (安政五年・1858年)
などの宮姫のほか、皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降家のため、文久元年(1861)
十月二十八日その道中の一夜をすごされたのもこの本陣です。 」
(補足) 大湫の開村に尽力した保々家は慶長九年(1604)に開宿されると本陣を勤め庄屋、問屋
を兼ねました。 代々保々市左衛門を襲名し、明治まで続きました。 」
駐車場奥の本陣石垣の上の奥には皇女和宮(中央)の陶製人形が飾られている。
駐車場脇のスロープを上がると大湫小学校の校庭(廃校)になり、校門左に皇女和宮御歌の
碑が建っている。
十六歳の和宮が道中に京を偲びながら胸中を詠んだもので、
・ 遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
・ 思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは
とある。
駐車場から一軒おいたおもだか屋はかっての旅籠で、今は無料休憩所になっている。 おもだか屋の隣が白山神社で、その入口に大湫宿問屋場跡の説明板が立っている。 今は 空地になっている。
* 説明板「大湫宿問屋場跡」
「 問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所
のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般に
ついての指図や業務を行っていた。 」
白山神社から二軒おいた右側の階段を上った保々家が大湫宿脇本陣跡で、保々家は 庄屋と問屋も兼ねていた。 往時の門が残っている。
* 説明板「大湫宿脇本陣」
「 本陣、脇本陣は大名や公家など身分の高いものの宿舎として建てられたものです。
この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳み数153畳、別棟6という広大な建物でした。
今は壊されて半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして
貴重です。 」
(補足説明) 保々家の建物の規模は当時の半分になったというが、
それでもかなりのものである。 文化元年(1804)の絵図面によると「 敷地は約520坪、
母屋の建坪は約98坪で、座敷の数19、153畳に、別棟6、門構え、玄関(式台つき)
だった。 」 という。 現在は御殿と呼ばれた上段、下段の間や玄関式台などの左半分や
別棟は無くなってしまったというが、それでも大きい。
この付近には古い家が建ち並んでいた。
宿場の中心にある神明神社の大杉は樹齢1300年と推定される巨木で、 宿場時代から「神明神社の御神木」として、大切にされてきた。
* 説明板「大湫神明神社の大杉」 県指定天然記念物
「 この大杉は大湫宿のシンボルで宿時代から神明神社の御神木として大切にされてきま
した。 推定樹齢千二百年、まさに樹木の王様といったところで、蜀山人の旅日記
(壬戌紀行)にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ」と
あります。 」
宿場はずれの手前の小高いところに美濃瑞浪三十三霊場に幟がはためく観音堂がある。
* 「 正式には円通閣妙智庵大湫観音堂という。 本尊は伝教大師の作と 伝えられる観音像で、慶長年間以来、神明神社の境内でまつられていたが、享保六年(1721) にここに観音堂を建立して移転した。 文政七年(1804)の宿場の大火の際、観音堂は被災 したが、本尊などの諸仏は宿人に担ぎ出されて罹災をまねがれることができた。 弘化四年(1847)、観音堂が再建され、そこに納められた。 本尊の観音様は足腰難病の霊佛 として宿内や近隣の人々、そして旅人からの崇敬を集め、中山道道中の諸大名も堂下を 通過する際には合掌していったといわれる。 天床には三尾暁峰の筆による六十枚の花鳥 草木の絵が描かれているが、戸が閉まっているので見ることはできなかった。 」
境内には寛政七年(1795)、芭蕉の百年忌に大湫宿の俳句グループが供養塔として建てた
という句碑がある。
「 花ざかり 山は 日ごろの あさぼらけ 」
この句は当地の作ではなく、奈良県の吉野で詠まれたものである。
観音堂の前のシダレザクラは樹齢300年、樹高15メートルとある桜である。
150前の火災と伊勢湾台風により、二度樹幹が倒れたが、根が残って新たな芽がでたもの
で、この木は三代目となる、と書かれていた。
宿場の最後(京方面からは入口)には高札場があった。 今は復元したものが置かれていた。
宿の出口の高札場には中山道大湫宿碑がある。 三叉路を右へ進む。
左の道はJR中央本線釜戸駅への県道65号で、
中山道は同じく県道65号である。 ここには東海自然歩道道標「←大湫宿 0.3km 5分
30分 1.4km 琵琶峠→」と歴史の道道標「←中山道→」等がある。
すぐ先の左側に瓦葺の小屋があり、その脇に街道に背を向けて
「中山道大湫宿山之神の井戸」の石碑がある。
先に進むと「紅葉洞の石橋跡」の標柱が立っている。
石橋は谷川の水が集まったところにかけたのだろうが、両脇の欄干が残っているだけ
で、橋の部分は残っていない。 嘉永七年(1854)にそれまでの土橋から石橋に架け替えられ
た。 今も小川が暗渠の中を流れている。
道の左側に岩が二個並んでいて、それぞれの岩に「馬頭観世音」と「観世音」と刻まれた
石碑と岩の真ん中に「小坂の馬頭様」の標柱が建っている。
二個並んだ岩の上に祀られている二体の馬頭観音像は明治二年(1869)の建立である。
このあたりは岩山になっている。
少し歩くと右側に小公園といったものがあり、東屋で休憩ができるようになっている。
このあたりを小坂というようで、東屋にあった安藤広重の木曽街道六十九次大久手宿は
このあたりの大岩と坂を上る旅人を大湫宿を背景に描いている。
道はこの先二つに分かれ、左が県道65号、右は短いが大洞小坂旧道で、その三角点に
東屋がある。
大洞小坂旧道に入るとその左側に「中山道 大湫宿大洞・小坂」と刻まれた大きな石碑が
立っている。
* 石碑「中山道 大湫宿大洞・小坂」
「 安藤広重画・木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を画いたものである。 」
道の右側の一番ふくらんだ場所に「大洞の馬頭様」と書かれた標柱が立っていて、その奥に
馬頭観音が祀られている。 石仏には「文政八酉八月」
と刻まれているので、今から二百年ほど前に建てられたものである。
大井宿から御嵩宿の間に馬頭観音が多いのは、
美濃路で一番厳しいところにあったので、倒れた馬やひとが多かったからであろう。
この先で県道65号に合流すると右側におおきな岩が二つせり出している。 その前に「中山道二つ岩」の石碑がある。
* 石碑「中山道 二つ岩」
「 道の左に立てる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石という 高さ二丈(約6m)ばかり
巾は三丈(約9m)に余れり また母衣石というは高さはひとしけれど巾は是に倍せり
いずれもその名の形に似て 石のひましまに松その外の草木生いたり まことに目を驚かす
見ものなり 太田南畝 壬戌紀行より 」
手前の大きな岩は母衣(ほろ)岩、その先にあるのは烏帽子岩と呼ばれ二つが対で、
二つ岩と呼ばれる陰陽石である。
母衣岩が女岩(陰石)で、烏帽子(えぼし)岩が男岩(陽石)である。
この二つ岩は弁慶岩とも呼ばれる。
弁慶が旅の途中、鬼岩から取ってきてお手玉にしながら歩き、ここに置き忘れたという
伝説がある。
二つ岩を過ぎると左側の道下に大湫病院がある。 ここまで1キロ強の距離。
その前を過ぎると歴史の道道標「←中山道→」、
東海自然歩道「←琵琶峠 0.5km 10分 大湫20分 1.2km →」の道標がある。
右側の琵琶峠の石畳に入る。 ここは難所といわれた琵琶峠へ上る山道の入口で、
左側に道標を兼ねた馬頭観音碑二基と「中山道琵琶峠東上り口」の石碑がある。
* 石碑「中山道琵琶峠東上り口」
「 これより坂を下ること十町ばかり 山には大きな石幾つとなく長櫃の如きもの、
俵の如きものの数を知らず 太田南畝「壬戌紀行」より 」
琵琶峠の石畳は昭和四十五年に500m以上にわたる石畳が確認され、その後、石畳や
一里塚などが整備され、江戸時代当時の琵琶峠に復元されました。
峠を越える道は石畳で、峠に向かってぐんぐん伸びていた。
石畳を上り始めると左側に明治二十四年(1891)建立の馬頭観世音文字塔がある。
枯葉が堆積しているので、滑らないように気をつけながら上る。
その先の左側の石段を上ると琵琶峠の文学碑がある。
左が太田南畝の壬戌紀行琵琶嶺碑で、碑面には中山道琵琶峠東上り口の石碑と同じ一節が
刻まれている。 中央が公卿烏丸光栄の中山道琵琶峠碑で、右が岡田文園の琵琶坂碑
である。
上ること十分で琵琶峠に着く。 頂上の峠道幅員は一間(約1.8q)に満たないものである。
* 「 琵琶峠は標高540m、中山道の美濃路では一番高いところに位置して
いる。 琵琶峠の地名は近江の琵琶湖に程近い伊吹山が遥かに望める、峠の山容が楽器の琵琶
の形に似ている。 琵琶修行の法師が峠の松風の音で奥義を極めたなどを由来としている。
木曽名所図会には「御嶽山、白山、伊吹山などの山々が展望できる」とあったが、
展望台の周辺は樹木が多くそのような見晴らしはない。 」
峠の頂上には皇女和宮の歌碑があり、「 住み馴れし 都路出でて けふいくひ
いそぐもつらさ 東路のたび 」 という和宮の不安の心境を詠った歌が刻まれている。
傍らには「琵琶峠頂上の馬頭様」の標柱があり、宝暦十三年(1763)の銘がある馬頭観音が
祀られている。
下りも石畳が続く。 馬籠で歩いた石畳とは違い、この坂は大きな石が並べられていた。
* 説明板「琵琶坂石畳」
「 明治以降、この道は使われなくなり、石は埋もれていたが、
昭和四十五年の発掘調査により、掘り出されたものである。 調査の結果、600m以上の
石畳があったことや峠を開削した時のノミ跡を持つ岩や土留め、側溝なども残されていること
も分かった。 その後、平成九年から十二年にかけて復元工事が行われて、今日の姿になった。
中山道の他の石畳と違って、一つ一つの石が大きいのが特徴である。 」
このあたりは八瀬沢 というが、湿潤な土地で滑りやすかったので石畳にされたようで
ある。
峠を下ると二つのぽっくりとした丸い小山のようなものが見えてくる。 八瀬沢の一里塚で
ある。 残念ながら塚木は残っていない。 両塚は地形の制約によるものか
位置がずれていて、左(南)の塚は大湫町、右(北)の塚は日吉町に属している。
* 説明板「八瀬沢(やせざわ)一里塚」 市県指定史跡
「 江戸へ91里、京都へ43里という道標で「琵琶峠の一里塚」とも呼ばれています。
一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも峠からの
ことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。 」
* 説明板「琵琶峠の石畳と一里塚」
「 大湫(大久手)宿と細久手宿の間は一里半(約6Km)。琵琶峠は、美濃十六宿で一番高い所
にある峠(標高558m)で長さは約1Km、古来より中山道の名所の一つです。
ここには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や
峠頂上の馬頭様(宝暦十三年・1763)東上り口の道標(文化十一年・1814)等の石造物があります。
なお、「八瀬沢一里塚」はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示
す道標です。 瑞浪市 」
杉木立の中の石畳を下ると立派なトイレがあり、先程別れた県道が現れたが 車道を横断し、
下に降りていく。
ここには東海自然歩道道標「←琵琶峠/八瀬沢→」と歴史の道道標「←中山道→」がある。
緩やかな石畳道を下ると少し先で終了し、中山道は草道になり、砂利道に変わる。
左側の集落は八瀬沢立場跡で、江戸時代には茶屋や馬茶屋があったが、古い家は一軒も
なかった。
峠道を下り切ると県道65号(恵那御嵩線)に合流する。 分岐点には東海自然歩道道標
「←琵琶峠 0.6km 20分 北野神社30分 1.8km→」と「中山道琵琶峠西上り口」の
石碑が立っている。
この先細久手宿までは県道を歩く。 緩やかな上り坂を進み、養鶏場を左に見て、
北野バス停の三叉路に、「左中山道」「右細久井近道」の案内があるが、遠回りになるが左の
中山道の県道を進む。
三叉路から二百メートル強、緩い上り坂を進むと頂上付近左側に「国際犬訓練所」があり、
その少し先に「1つ屋茶屋跡」の標柱が立っている。
五分程行くと、瑞浪市コミュニティーバスの天神前バス停と待合所がある。
バス停の横の大杉の根元に享保十三年(1728)造立の地蔵尊が祀られていて、その脇に
「天神辻の地蔵尊」の標柱が立っている。 地蔵尊の脇を右に入ると約850mの所に
慶長十九年(1614)創建の北野天神が鎮座している。 東濃地区の受験生に人気が高いと
いわれる。 天神辻の地名は天神さま(北野神社)に行く辻ということから付けられたの
だろう。
サンエッグファーム瑞浪農場を左手に見て焼坂を上り詰めると右側斜面に馬頭様(三面
六臂馬頭観音像)が祀られている。
天神坂を下ると三叉路で、北野バス停で別れた道が右後から合流する。
緩い下り坂を進むと、右側に弁財天の池がある。 静かなたたづまいを残す池で、 常に水をたたえカキツバタやジュンサイの自生地になっている。
* 享和二年(1802)に太田南畝(蜀山人)が著した壬戌紀行に
「左の方に小さな池あり、杜若(カキツバタ)生ひ茂れり 池の中に弁才天の宮あり」と
著されている。 季節がくればカキツバタや睡蓮の花が咲くのだろうが、
今は静かな水面のみである。
池の中央の出島には弁財天の小さな石祠がある。 石仏の弁財天(八臂の天女立像)は
天文五年(1740)の建立であるが、それを祀る石祠は天保七年(1836)に再建されたもので
ある。
この先県道は赤松の林の中を穏やかに上り、下りする。 途中の左手に「南垣外のハナノキ
自生地(瑞浪市天然記念物)」の石碑がある。 ハナノキは樹高5〜15m程になる
日本の固有種で、三〜四月に赤い花を咲かせる。
次いで左側に「女男松の跡」の標柱があり、後方の大樹の脇に標石がある。
男根、女陰の松で夫婦円満、子授けにご利益ありと名跡でしたが、昭和初期に枯れました。
さっきからエンジン音が聞こえていたが、坂を上り切ると右側に「YZサーキット東コース」
の看板がある。 そういえば、しゃこたんの車に若者が乗ってこの道を走っていたので、
場違いを感じたのだが、サーキットに出入りする車だったのである。
緩い下り坂を進むと奥之田の一里塚の両塚が現存している。 瑞浪一里塚ともいい、
自然の地形をうまく利用して築かれている。
* 古い説明板「奥之田一里塚」
「 江戸へ92里、京都へ42里という中山道の奥之田一里塚です。 一里塚は道の両側に
築かれ、高さ4m、直径12mあります。 この一里塚は、ほぼ、完全にもとの姿をとどめて
います。 」
* 新しい説明板「瑞浪一里塚」
「 中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長九年(1604)から整備が進められ、岐阜県内には
三十一箇所の一里塚が築かれました。 一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されま
した。 一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した四箇所が当時のまま
残っている例は全国的にも稀です。 市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、
琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、経10m程の
大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。 なお、鴨之巣一里塚は地形の
制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。 瑞浪市 」
右側の電波塔、消火栓を過ぎると、右側に「三国見晴し台と馬頭様」の標柱があり、
斜面に元治元年(1864)建立の馬頭観音像が祀られている。 ここは三国見晴し台跡ですが、
今は樹木が生い茂り、眺めは望めません。
旧中山道は三国見晴し台先を左に入り、一本目を右折し草道に入るが、その先で
多治見工業(現社名クリスタルクレイ)の工場敷地に突き当たり、消滅している。
県道をそのまま進み、突当りを左折する。
この分岐点には廃校になった「日吉第二小学校跡」の記念碑と天王様の小さな祠がある。
天王様(祇園信仰)は京都八坂神社の牛頭天王の信仰に始まり、疫病除けの大神である。
なお、細久手宿に入る手前に峠の茶屋があったので、茶屋ヶ根という地名が残る。
茶屋があったのはクリスタルクレイの一角だったと思われる。
なだらかな坂は右にカーブしているがそこを過ぎると南西に向かって家屋は直線に
並んでいる。 道の脇に「東海自然歩道 中山道宿場めぐりのみち案内図」という
大きな案内板が立っている。
先に進むと道の右側の庚申堂の参道入口に「細久手宿高札場跡」の標柱がある。
ここが細久手宿の江戸方(東)の入口である。
細久手宿は標高四百二十メートルの尾根の上にあって、江戸から四十八番目、大湫宿から
一里半、御嵩宿までは三里の距離である。
細久手宿は名前の通り両側に山が迫り、街道の両側に家が並び、道らしい道もない細長い
集落である。 このあたりが東町で、ここから宿場が始まる。
* 「 大湫宿から御嶽宿までは四里三十町(約19km)と長く、その間には 琵琶峠、物見峠が控え人馬共に難渋を極めました。 そこで大湫宿より更に遅く慶長十五年 (1610)に細久手宿が新設された新宿である。 細久手宿は寛政十年(1798)、文化十年(1813)、 安政五年(1858)に大火に見舞われ、今の家並みは安政の大火以後のものである。 」
細久手宿の長さは三町四十五間(約408m)で、
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、家数65軒、宿内人口256人(男134人 女122人)、
本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠24軒であった。
細久手宿は尾張藩に属し、山村氏の知行地であったが、宿高は無高という貧しい宿場であった。
* 「 寛政年間に編纂された「濃川徇行記」によると 「細久手は(宿高)無高 なれば第一往来の助力を以って渡世とす」と記されていて、宿場の総戸数65軒に対する 旅籠24軒という割合から見ても、宿場に対する期待は多かったといえよう。 人口が256人の宿場は田畑もない土地だったため、宿場で生業をたてていたわけだが、 その旅籠も小規模だったので、飯盛り女で客足を止めさせたことは容易に想像できる。 」
庚申堂の参道を上ると高台に庚申堂がある。 細久手のこうしんさまと親しまれました。 庚申堂は寛政の大火で焼失し、享和二年(1802)に宿の鬼門除けとして再建された。 境内には石造物が多数ある。 また、石窟内には役行者像(修験者)が安置されていて、 下駄履像として珍重されている。
* 「 のぼりが翻る庚申堂(こうしんどう)へ上っていくと、正面に石仏群が
あり、左にお堂がある。 庚申堂からは宿場が一望でき、江戸時代には客ひきの声や馬の
いななきなど活況を呈していた宿場の雰囲気が感じとれた。
石仏群はなかなかおもしろかった。 石仏群を丹念に見てまわったが、古いものでは300
年前のものもあったし、石室に入っているのもあった。 涅槃姿の石仏には「享保五年道行
十五名」とあり、文政以降は庶民が講をつくって旅に出たことに比例し、
馬頭観音も増えたことがここに祀られている石仏からも窺うことができた。
役行者(えんのぎょうじゃ)は奈良時代初期に大和葛木山にいた呪術(じゅじゅつ)者で
山岳信仰の修験道の開祖として、崇められている。 」
街道を進むと左側の細久手公民館の敷地内に大きな細久手ちょうちん祭りのレリーフがある。 毎年七月第四土曜日に開催される、津島神社の祭礼である。 公民館には 公衆トイレや駐車場がある。
* 「 江戸時代に造られた巻藁船を模した山車に約100〜130個の赤丸提灯を
飾り、夕方から津島神社まつり保存会が中心となって宿場内を練り歩くお祭りで、
山車の綱を引くと一年間無病息災で過ごせるといわれている。
この祭は明治維新で一時中止された。
津島神社が庚申堂の境内にあり、神仏分離に配慮したもので、
明治八年(1875)、津島神社を日吉愛宕神社に遷座し、祭が再興された。 」
右側に卯建をあげた尾張家指定本陣だった大黒屋(国登録有形文化財)があり、今も旅館とし て営業している(0572-69-2518)
* 「 大黒屋は慶長年間(1596〜1615)の創業で、代々酒井吉右衛門が問屋を 勤め、尾張藩の指定本陣を兼ねました。 細久手宿の本陣、脇本陣が手狭になリ、他領主との 合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋宅を尾州家本陣と定めました。 現在の建物は 安政六年(1859)の建築で、卯達(うだつ)のある外観から玄関門、式台、上段の間が残る内部 に至るまで、当時の雰囲気を色濃く残している。 大井宿から細久手宿まで宿泊施設は 一切ないので、歩く旅人にとって貴重な宿屋である。 」
右側の瑞浪細久手簡易郵便局先の右側に「細久手宿本陣跡」の標石が立っている。
* 「 細久手宿本陣は小栗八郎右衛門が代々勤めました。 規模は間口十三間 (約22m)、奥行四間半(約8m)、建坪五十八坪で、部屋数十四室、畳数百三十四畳、 別棟三棟でしたが、遺構は残されていない。 」
本陣向いの瑞浪市コミュニティーバス仲町バス停裏手の空地が細久手宿脇本陣跡である.
* 「 細久手宿脇本陣は代々小栗八左衛門が勤めました。
規模は間口十間(約18m)、奥行三間半(約6.5m)で、建坪三十五坪、部屋数七室、
畳数五十八畳、別棟一棟でしたが、遺構は残されていない。 」
突当りの三叉路を右に進むと、右側の擁壁上に「南蔵院跡」の解説があり、
「真言宗に属し当主は修験者で不動明王を祀り、加持祈祷を行いました。」とある。
宿場のはずれは南町、右手に日吉愛宕神社がある。
天正年間(1573〜1592)に細久手村を開き、細久手宿の開設に尽力した国枝重円が文禄四年
(1595)に創建した神社で、細久手宿の鎮守である。
日吉愛宕神社の参道口が細久手宿の京方(西)入口である。
これで細久手宿は終わる。
中山道は県道65号をひたすら歩く。 中山道は車が優に一台通れるのだが、左右に林が
迫っていて、少し圧迫感を感じる道である。
日吉愛宕神社から五分程進んだ右側の一段高いところに細久手坂の穴観音がある。
穴観音のすぐ先に小さな祠の津島神社がある。
津島神社のすぐ先の三叉路を右に進むと右側の石垣の前に「旧中山道くし場跡」の石碑が
立っている。 かつてはここに茶屋があり、人足達がたむろし、荷の扱いの順番を
くじで決めたとか、
あるいは一部の旅籠に客が集中しないようにくじで決めた場所といわれている。
緩い坂道を下ると右側の民家手前の斜面に文政七年(1824)建立の馬頭観音像が祀られて
いる。 次いで右側に明治九年(1876)建立の馬頭観音像が祀られている。
急坂を下ると左側からきた車道と合流する。 この分岐点には歴史の道道標「←中山道→」
がある。 平岩橋を渡り、県道356号と交叉する平岩の辻(十字路)を横断する。 この辻
には道標「北 たこうど やをつ道」「西 つばし みたけ道」「南 まつのこ おに岩道」が
あり、長い道標には「土岐頼兼公菩提所 曹洞宗開元院 是ヨリ七○○』と刻まれている。
この辻を右に進むと平岩の地名由来となった平岩が八幡神社にあり、 その先には古刹の
曹洞宗開元院がある。 東海自然歩道の標識もあり、そこにも開元院とあったので、
どのような寺か?、寄り道することにした。
* 「 地名の由来になった平岩は百メートルほど行った左側の八幡神社の
崖面にあった。 平岩は横にすだれ上になった大岩だか、その生い立ちは分からなかった。
開元院までの道のりは約八百メートル。 前述の東海自然歩道を歩いてくると、開元院の
前に出てくるはずである。 この寺は鷹巣山開元院といい、永享十一年(1439)、
土岐頼元が建立した曹洞衆の寺で、敷地も広く建物も大きかった。 」
街道に戻り、平岩辻を直進し、西の坂を上る。 振り返ると、平岩集落が一望で
きた。 途中から左に入る細い山道があり、角に「秋葉坂」の道標が立っている。
この分岐点の右には道標「左仲仙道西の坂 旅人の 上り下りや 西の坂」と
東海自然歩道道標「←鴨之巣一里塚 平岩辻→」がある。
また、分岐点の左側には歴史の道道標「←中山道→」と「瑞浪市内旧仲仙道の影」の石碑
がある。
快適な砂利道の秋葉坂を少し上ると右の石垣の段上に秋葉坂の三尊石窟がある。
* 「 二百年余り前に建てられた穴仏三尊で、三つに分けられた石室(石窟)の中に、 一体づつ安置されている。 右の石室に祀られているのは明和五年(1768)の三面六臀(頭が 三つ腕六本)の馬頭観音立像、中央は明和七年(1770)建立の一面六臀の観音坐像、 左の石室には風化が進んだ石仏が 安置され、石室の右端の石燈籠の棹には天保十一年(1840)の銘がある。 石室のすぐ上に秋葉社が 祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれている。 」
山道を上りきるとゆるやかにアップダウンの続く道(鴨之巣道)に変わり、深い緑に包まれた
林の中を歩いていく。 左側に「鴨之巣道の馬頭文字碑」の標柱があり、その奥の一段高いところ
に馬頭観音文字塔が祀られている。
気持の良い平らな林道を進むと十字路が現われる。
* 「 この十字路は鴨之巣辻といい、日吉辻とも呼ばれました。 左後方からの道は鎌倉街道である。この鴨之巣辻には「鴨之巣辻の道祖神碑」の標柱が あり、その奥に「旧鎌倉街道まで一里余」の道標と鴨之巣辻の道祖神碑(道祖神文字塔)と 歴史の道道標「←中山道→」、東海自然歩道道標がある。 」
道祖神と刻まれた石碑を過ぎ、右側に花の木ゴルフクラブが見えて山道に「切られ洞」 の石碑が立っている。 昔、牛を追ってきた村人が盗賊に切られた所と伝えられる。 ここから五分程行くと左右がずれている珍しい鴨之巣(こうのす)一里塚がある。
* 「 江戸から九十三里、之より京へ四十一里」の道標がある鴨之巣一里塚です。
二つの塚とも残っているが、左右の塚は地形の関係から同じ位置に置くことができず、
北側の塚が東側に十六メートルずらされている。 ここからは鈴鹿、伊吹、北アルプスの
山々が一望できる。 」
ここから下り坂になり、三叉路を右にとると、瑞浪市から御嵩町に変る。
この分岐点には東海自然歩道道標「←御殿場 3.2km 津橋 2.0km↓鬼岩公園・松野湖 2.1q
鴨之巣一里塚 0.1km→」、歴史の道道標「←中山道→」があり、御殿場・津橋方面に進む。
長い下り坂を
十五分程行くと雑木林から竹林に変る。 竹林を過ぎるとものすごい急坂で、
「ふじあげ坂」という名。 上りでなくて良かったと思える急坂を下る。
右側の石窟の中に三面六臂馬頭観音像が安置されている。
S字のカーブを下ると、眼下に津橋(つばし)の集落が見えてきた。
右側の「津橋1q」の道標の脇には立派な石垣があるが、江戸時代酒造業を営んでいた
山内嘉助屋敷跡である。 中山道を通行する諸大名の休憩所として、また、旅をする人々
を泊めたといわれる。
緩やかになった坂道を下ると人家が現れる。 津橋集落で、家数は多い。 盆地になって
いて、これまで歩いてきたところと違い開けた土地である。
三叉路を左に進む。 この分岐点には中山道石柱道標「←至鴨之巣一里塚 至御殿場→」
がある。
左に進む。 この分岐点には東海自然歩道道標「←津橋/鴨之巣一里塚→」とカーブ
ミラーがある。 その先の右側に享和元年(1801)建立の天満宮常夜燈がある。
旧つばせ村はふじあげ坂と先の物見峠に挟まれた盆地で間の宿でした。
次いで逆Y字路があり、京方面からは左に進む。 、
この分岐点には歴史の道道標「←中山道→」と東海自然歩道道標中山道
「←至鴨之巣一里塚 至御殿場→」がある。
その先の津橋交叉点を横断する。 ここを左折すると左側に津橋薬師堂がある。
* 「 境内には宝篋印塔、五輪塔、南無阿弥陀仏名号碑など十一基が 並ぶ他、堂前に宝暦三年(1753)建立の石灯籠があり、山内嘉助が勧進寄進したものと 伝えられている。 」
坂道を下り突当りの県道65号を左折する。 ここには東海自然歩道道標「←津橋
鴨之巣一里塚→」と歴史の道「←中山道中→」がある。 緩い上り坂を進み 、津橋川を
津橋で渡って進むと変則五差路が現れる。 正面右の上り坂に入る。 分岐点には
歴史の道道標「←中山道中→」と東海自然歩道道標がある。
また、坂の入口に中山道道標「←至御殿場 至鴨之巣一里塚→」がある。
細い坂道の諸の木坂(もちのきさか)を上る。
ここから一キロ程の上りがきつかった。 急坂を上ると、右側の薬師堂の参道階段脇
に奉納西国秩父坂東百番供養塔と南無阿弥陀仏名号碑がある。 その先の右側にはあら
ゆる生けるものを供養する三界萬霊塔がある。
登りきった峠は物見峠(諸木峠、標高360m)の頂上で、往時はここに五軒の茶屋があり、
右端(北側)くぼみ(小さな水溜り)が馬の水飲み場だったところで、三ヶ所の水飲み場が
あった。その隣に馬頭観音が立っている。
峠右側に「中山道御殿場」の標石があり、数十段上がったところに御殿場展望台が
ある。
* 「 皇女和宮通行の際、ここに休憩されるための御殿が仮設された
ことから御殿場という名が付いている。 文久元年(1861) 和宮は十月二十八日の早朝
宿泊した太田宿を出立し、御嵩宿にて昼食を摂り、ここで休息した後、大湫宿に宿泊され
た。
街道が賑わったころはまわりを刈り込んで整備され、今より見晴らしが良かったのかも
知れないが、東の方に多少開け、山並みがちらっと見えるだけだった。 」
物見峠から下り坂を進むと左側にLa Provinceというおしゃれなケーキ屋がある。
峠を過ぎると急な下りになる。 その先の変則交叉点を直進する。 この横断点には
東海自然歩道道標「←一呑清水 御殿場→」と歴史の道道標「←中山道→」がある。
下り坂をぐんぐん下りると、左側に唄清水があり、
清水の傍に嘉永七年(1854)建立の千村平右衛門征重(五歩)の句碑が立っている。
* 「 このあたりは、旧謡坂村で、尾張藩千村氏の知行地
でした。 千村平右衛門が「 馬子唄の 響きに波たつ 清水かな 」と唄ったことから「唄清水」
と名付けられた。 旅人はここでのどを潤して精気を取り戻したのであろう。 今は汚れて
しまって、飲むことができないのは残念である。 」
唄清水の向には大正二年(1913)建立の禁裡御所巡拝記念碑がある。
竹林の中の舗装路を三百メートル下りると突当りの広い車道に合流、ここを左折する。 ここには左から
歴史の道道標「←中山道↑」、東海自然歩道道標「←一呑清水 御殿場→」がある。
左側に一呑(ひとのみ)の清水がある。 屋根付きの東屋の下の水の中に二体の石仏が立っていて、名水の泉の
名札と柄杓が置かれているが、「この水は飲まないでください」とある。
* 「 江戸時代末期、皇女和宮降嫁の際、野点に使われた清水で、後に和宮が江戸から京へ上る際、 多治見の永保寺で休息した時、この清水を取り寄せ点茶をしたというお気に入り清水でした。 中山道を往来する 旅人の喉を潤したこの清水は岐阜県名水50選に選ばれている。 」
一呑清水前を進まず、車道側を進む。 先に進むと左側に背の低い石窟があり、
天保十六年(1840)建立の六臂馬頭観音像が安置されている。
二百メートル程下ると右側の山裾に「中山道十本木立場」の標石と説明板がある。
* 「 宝暦五年(1756)刊の岐蘇路安見絵図にも記載されている。 十本木立場はもともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩したところから次第に茶屋などが設けられ、 旅人の休憩所に発展したそうです。 一方で、古老の話では参勤交代の諸大名が通行する際は、ここに警護の 武士が駐屯し、一般の通行人に対して注意を払われたそうです。 」
十本の松の木があったことから名付けられた十本木は一里塚の周囲に形成された立場
である。 三叉路の十本木立場標柱の前を車道は右に行くが、中山道は真っ直ぐの細い道に入って行く。
ここには歴史の道道標「←中山道↓」や東海自然歩道道標がある。
中山道を進むと東海自然歩道道標「←一呑清水 耳神社→」と歴史の道道標「←中山道→」がある。
この先の左側に地蔵の清水があり、清水の傍らに地蔵尊が祀られている。 二、三百メートル進むと右側の
一軒家の前に謡坂十本木一里塚が復元されている。
* 説明文 「一里塚(謡坂十本木一里塚)
「 慶長九年二月、徳川幕府は東海道、中山道、北陸道に
江戸日本橋を基点として、道の両側に五間四方(約16m)の塚を築造させました。 これが
一里塚です。 一里塚は一般的に一里毎に榎(えのき)、十里毎に松を植えて里程を知らせ
る重要なものでした。 現在の御嵩町内にその当時四ヶ所あった一里塚は幕藩体制
の崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年、この塚は二円五十銭で払い下げら
れ、その後取り壊されました。 この一里塚は昭和四十八年、地元の有志の
手でかっての場所近くに復元されたものです。 」
一里塚のすぐ先の右側に「十本木の洗い場」の標柱と白く濁った池がある。
* 「 十本木立場には茶屋や木賃宿があったが、この池は当時の共同洗い場で ある。 安藤広重の木曽海道六十二次の御嵩宿の浮世絵の画はこの場所がモデルと いわれる。 確かに広重の絵に洗い場で米を研ぐ老婆の姿が描かれている。 」
十本木の洗い場の隣に十本木立場茶屋に見立てた古い建物が建っている。
十本木立場から下り坂を進むと三叉路があり、左の謡坂石畳に入る。
ここには東海自然歩道道標「←耳神社/一呑清水→」、歴史の道道標「←中山道→」、
そして「謡坂石畳」の石碑がある。
* 説明板 「謡坂石畳」
「 謡坂の地名の由来は
このあたりの上り坂がとても急なため、旅の人々が自ら唄を歌い苦しさを忘れ、紛らわ
せたことから「うたうさか」と呼ばれていたが、次第に転じて「うとうさか=謡坂」
になったのだともいわれています。 険しさが続く山道、道の上におおうような
たくさんの木々、足元に生える草花など、謡坂の風景は今も中山道の風情を色濃く
残しています。 この謡坂石畳は平成九年(1997)から十二年(2000)にかけて歴史の道
整備活用推進事業として修復整備したものです。 御嵩町 」
坂は急で、予想した以上に長い道である。 敷石の間に枯葉が入り、層をなしている
ので、滑りそうで怖い。 下りるのにかなり神経を使った。 それでも江戸からは
下りなのでまだ良い。 京側からだと登るのが大変な坂で、元氣づけるために歌を唄った
ということが実感できた。
謡坂の石畳を下ると右手の斜面上に石窟があり、石窟内には大きな三面六臂馬頭観音像
と小さな馬頭観音像の二体が安置されている。
中山道は坂を下り、宮石集落に入るのであるが、坂の途中に「左マリア像 右御殿場」の
道標、足元に「平和の祈りマリア像←御手洗」の看板がある。
案内に従って右の細い道に入ると、右、左、右にカーブし車道に出たので、
右折し、二百メートルほど歩いた坂道の交叉点の右角に正岡子規の句碑がある。
正岡子規の句碑は子規が松山に帰郷の旅で記した「かけはしの記」
によるものである。
* 「 かけはしの記には 「つぐの日天気は晴れたり。 暫くは小山に 沿って歩めば山つつじ小松のもとに咲きまじりて細き谷川の水さらさらと心よく流る。 そぞろにうかれ出たる鶉足音を聞きつけて葎(むぐら)より葎へ逃げ迷うさまも興あり。 当地上郷村にて 「 撫子(なでしこ)や 人には見えぬ 笠のうら 」 の一句を残して、 伏見宿へ向かう。 」と書かれている。 気候も良く、浮かれて出てきた鶉(うづら)が 人の足音を聞いて、逃げまどう様が目に見えるような句である。 葎(むぐら)は雑草の ことで、この場合はナデシコのことだろう。 」
句碑のすぐ先に「七御前とキリシタン信仰」の説明板があり、その右下に「史跡七御前」 の三角形の石碑が置かれている。 説明板の隣の二段高い所に白いマリア像があり、 鐘や平和の鐘建立趣旨の石板がある。 マリア像は古いものを想像していたのだが、 最近建てられたものらしい。 その奥に、墓のようなものがあるのを見付けた。 小さな五輪塔が沢山並び、「史跡七御前」の標柱が立っている。
* 説明板「七御前とキリシタン信仰 御嵩町謡坂」
「 七御前址は謡坂村にある。 あるいは古き五輪塔、あるいは古樹あり、しかれども
其所の由、知れず」と宝暦六年(1756)に尾張藩士松平君山が編集した「濃陽志略」に
記されたように、仏教の墓石である五輪塔が多数あり古い樹木が生い茂った場所で、
この地の由来はわかっていませんでした。 ところが、昭和五十六年(1981)三月、
道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った
自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことがわかった
のです。 不幸なことに日本では一時期キリシタンを信仰することが固く禁止され、
密かに信仰していることが発覚すると命を奪われることもありました。 この遺跡からは
命をも顧みることなく信仰に打ち込んだ郷士に生きた先人の生き様が伝わってきます。
御嵩町・御嵩町観光協会 」
私が目にしているものは五輪塔でまさしく墓地である。 このあたりには隠れキリシタン
が多くいて、幕府からの処罰を怖れ、密かに信仰を続けていたらしい。 御目当ての
キリシタン遺跡である十字架を彫った自然石はここにはなかった。 白いマリア像は
地元の有志が七御前遺跡発見を記念し、遺跡址に建てたものということで、木曽路に
あったマリア観音のようなものではなかった。
謡坂の石畳に戻り、坂をを下り切ると突当りの三叉路の車道を左折する。 分岐点には
中山道の石柱、「謡坂石畳」の石碑、東海自然歩道道標「←耳神社 一呑清水→」、
歴史の道道標「←中山道→」がある。
小川をとどめき橋で渡ると車道に突き当たので左折する。
このあたりは宮石集落で、集落を過ぎ、
しばらく行くと右側の崖の中腹に耳神社がある。 下の石の鳥居は大きかったが、
上の社殿は予想に反し、小さく質素なものである。 殿の前には、変なものがいくつ
かぶら下がっている。 なにかと思ってよく
見ると、何本もの錐(きり)を紐(ひも)で結び、すだれのようにしたものである。
* 説明板「耳神社」
「 この神社は全国的に珍しい耳の病気に
ご利益があるといわれる神社である。 耳の悪い人は平癒の願をかけ、お供えしてある
錐(きり)を1本借りて耳にあてる。 病気が全快したら、その人の年の数だけの錐をお供え
する。 奉納される錐は本物でも竹などで真似てつくったものでもよい。 紐で編んで
すだれのようにして奉納する。 戦前には名古屋からもお詣りがあった。
元治元年(1864)、武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げ率いた水戸天狗党がここを通った際、
神社の幟(のぼり)を敵の布陣と錯覚し、刀を抜いて通った、という話も伝えられて
いる。 」
中原から西洞(さいと)に入る。 耳神社先の右側に嘉永元年(1848)建立の馬頭観音
像が祀られている。
耳神社の二百メートル先の三叉路に「右細久手宿7700米 左御嵩宿4100米」の道標が
あるので、ここで車道から別れ、右側の道に入る。 西洞坂を上ると左側に
百八十八ケ所順拝納経塚がある。 西国、四国、板東、秩父の霊場巡拝記念碑である。
三百メートル進むと三叉路で、右の丸太で土留め
されている細い山道をすすむ。 この分岐点には東海自然歩道道標「←牛の鼻かけ坂
0.5km 10分 耳神社0.4メートル5分 →」、そして歴史の道道標「←中山道→」が
ある。
西洞坂の草道を下ると右側に寒念仏供養塔がある。
* 「 切石で造られた石室(石窟)に納められたのは三面六臀(さん めんろっぴ)の馬頭観音像。 台座の正面に寒念仏供養塔、左側に維持明和二酉年(1765) 、右側に八月彼岸珠日、と刻まれている。 寒念仏は一年で一番寒い時期に白装束で 集まり、鐘を打いて念仏を唱えながら 村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念した、という。 江戸時代、旅する人は小石を拾い、 明和弐年に建立された馬頭観音に供え、旅の無事を 祈ったといわれる。 」
この先、カーブを曲がるとすぐ「牛の欠け鼻坂(西洞坂)」の説明板があり、ここから 西洞坂は急になる。 石がゴロゴロしており、正に牛の鼻が欠けてしまうような急な坂を 下る。
* 説明板「牛の欠け鼻坂(西洞坂)」
「 「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かかいた 西洞の坂で かかいた」という言葉が
残るように、ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻が
すれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。 中山道全線を通してみると、ここ
牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、
京へと続く西は比較的平坦地になります。 したがって地理的には、ちょうどこのあたり
が山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。
御嵩町 」
西洞坂(さいと坂)、別名 牛の鼻かけ坂 という坂は 「 牛がここを通るときに
自分の鼻を地面にこすって、鼻が傷つき欠けてしまうほど急な坂道である。」ということ
からその名がついたというものだが、距離は短く、あっという間に下りてしまった。
短い区間だが、たしかに急坂だった!!
西洞坂を下り切ると土道は舗装路に突き当たる。 大井宿から幾多の峠を越えてきた山道
もこの坂を下ると終わりになる。 舗装路を斜め右に進む。
この分岐点には「中山道牛の鼻かけ坂」の石柱、歴史の道道標「←中山道→」がある。
その先の三叉路を右に進み、その先のT字路を左折する。 この分岐点には道標
「右細久手宿8300米 左御嵩宿3500米」と東海自然歩道道標、歴史の道道標がある。
ここからは左手に田園風景が広がる舗装路を進む。
右側の電柱の所に文化十三年(1816)建立の三面六臂馬頭観音像が祀られている。
民家外れの右手段上に石燈籠、摩利支天王碑、南無阿弥陀佛名号碑がある。
くねくねした山裾の道を行く。 微妙にカーブする舗装路を進み、幅員の広い車道の
T字路を左折する。 ここには東海自然歩道道標や歴史の道道標「←中山道↓」が
ある。 一本目を右折、この分岐点には道標「←1.2km 20分 西洞 和泉式部碑
10分 0.6km→」がある。
このあたりを井尻といい、突当りのT字路を右折、右側の井尻公民館先の県道358号の
交叉点を左折する。
この分岐点には歴史の道道標「←中山道↓」、東海自然歩道道標「←西洞 耳神社
和泉式部碑 御嵩駅→」がある。
突当りの国道21号を右折すると右側に「和泉式部廟所」の説明板があり、そこから少し
入ると屋根付きの和泉式部廟の石碑が建っている。
* 説明板「和泉式部廟所」
「 和泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、
和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。
波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中御嵩の辺りで
病に侵されてしまい。鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁三年(1019)、この地で没した
といわれています。
(天文五年(1536)に建立された)碑には「ひとりさえ 渡れば沈む うき橋に
あとなる人は しばしとどまる」という歌が刻まれています。 」
和泉式部廟入口のすぐ隣に大きな「右中街道 中仙道 大井駅(うまや) 達」と 刻まれた中山道追分の道標が建っている。
* 「 東山道時代は南の比較的平坦地を通行する御嶽〜次月(しづき)〜 日吉〜宿〜半原〜釜戸〜竹折〜大井の道筋で中街道と呼ばれました。 慶長七年(1602)、大久保長安によって大井〜大湫〜細久手〜御嶽間の道筋が 新たに開削されました。 これは江戸防衛上の観点から難路を選択した結果と いえる。 」
中山道は国道21号に吸収されなくなっているので、国道をしばらく歩く。
右側の段上に郷社八幡神社の標石があり、奥の山中に社殿がある。
左側のこんもりとした森の中に太田南畝が壬戌紀行に「まろき形したる山のふもとをゆく
・・・・稲荷の社」と著している丸山稲荷神社がある。
井尻交叉点から可児御嵩バイパスがあるが、中山道は旧国道21号を直進する。
長岡交叉点を過ぎると栢森(かやもり)に入る。 ここには栢森の一里塚があったが、
場所は不明のようである。
県道341号の標識に従い左折する。 この分岐点には「左細久手宿 右御嵩宿」の
道標がある。
橋を渡って左折し、御嵩公民館バス停先のT字路を右折すると御嶽宿の江戸方(東)入口で
である。
御嵩宿は細久手宿から山中の道を経て、人里を歩くなだらかな道に移っていく平地に
ある。 宿長は四町五十六間(約537メートル)で、江戸方の上町、仲町、下町で構成され、
京方の入口は願興寺であった。
安藤広重の木曽海道六拾九次之内 御嶽宿は詩坂村にある十本木立場の立場茶屋を
木賃宿に見立てて描いたと思われる。 宿の前の小川で、老婆が米を研いでいる。
* 「 御嵩は中世以降宿場町と願興寺の門前町として活況を呈していた。 江戸幕府は御嵩から大井までは八里ほどの山道が続くので、それに備えた旅人の宿泊地 として重要であるとの判断から、江戸開府と同時に設けられた宿駅制度で、慶長七年(1602)、 中山道の第1号として、宿場の鑑札である「伝馬掟朱印状」を交付した。 それ以降、 中山道の宿場として明治まで続いた。 」
天保十四年に編纂された中山道宿村大概帳によると、家数66軒、宿内人口600人(男323人
女277人)、本陣1、脇本陣1、旅籠は28軒でした。
宿場の右手には御嶽富士と呼ばれる高尾峯(標高686m)が見える。 即ち、御嵩宿は
御嵩富士の南側に東西に細長く伸びた家並みで、可児川が南側に流れていて、その先で
木曽川に合流するという地形である。
左側に「正一位秋葉神社上町組」の石碑があり、その奥に屋根付の用心井戸がある。
* 「 井戸の上屋には水神が祀られ、用心井戸は万一の火災に備え 防火用水として、普段は飲み水として利用された。 」
このあたりには古い構えの家が数軒残っている。 いずれも間口が六間以上もある
大きな建物で、塗込壁造りの家もある。 二階は袖壁がついた造りになっている。
御嵩郵便局を越すと上町から仲町に入り、江戸時代には右側に高札場があったというが、
今は標示もないので確認できなかった。
仲町に入ると右側に「中山道御嶽宿商家竹屋」の表示のある商家竹屋(御嵩町文化財)
がある。 主屋、茶室、土蔵、展示館(新設)、トイレ(新設)からなり、入場無料。
* 「 商家竹屋は江戸末期、本陣職を勤める野呂家が分家し、商いを中心
として代々引継いてきました。 天保十三年(1842)の御嵩宿並絵図によれば本陣の東隣に
組頭としての記載があり、又宿内に二軒ある商家のうち一軒でした。
主屋は明治十年(1877)頃の建築と推定され、切妻造り、延べ面積九十二坪、中央の土間を
はさみ、東側に店、中の間、居間、
表座敷、奥中の間、奥座敷があり、西側には下店、板の間、台所がある。 北奥に
明治末期から大正にかけて増築された炊事場がある。
江戸時代の豪商の家で、商家にふさわしい質素で風格のある造りで、今日では徐々に姿を
消しつつある江戸時代の建築様式を色濃く残す建物とし
て、平成九年にこのうち「主屋」と「茶室」が御嵩町指定有形文化財に指定
された。 」
その隣はみたけ館第二駐車場。 それに続いて本陣門が建っている。
* 「 中山道みたけ館駐車場とその裏にある野呂家の屋敷一帯が 本陣だったところである。 本陣は代々野呂家が勤め、建坪百八十一坪でした。 本陣門は往時のものである。 母屋は明治十年(1877)と大正年間に二度改築され、 往時の姿は留めていない。 皇女和宮は当本陣にて昼食をとられました。 古文書が残っているという。 」
本陣跡の隣が中山道みたけ館である。 ここは往時脇本陣であり、その隣は人馬継所 (問屋場)でした。 中山道みたけ館には宿場時代の資料が豊富に展示されている。
* 「 中山道みたけ館は地区の公民館であるが、2Fはジオラマに
なっていて、中山道御嵩宿の紹介もしている。 中山道に関する知識や豊富な資料を
見ることができた(しかも、無料で)
例えば、御嵩宿宿並絵図。 絵図によると、宿面の出入口には宿場内が見通せないよう
に鉤の手(枡型)が設けられていたことがわかる。 宿内には七十二軒の家があり、本陣と
脇本陣が各1、旅籠屋24、旅籠屋兼茶屋5、木賃宿3のほか、茶屋2、床屋1、
豆腐屋2、質屋1、その他商家3、残りの29軒は百姓屋であった。
宿場の人口は600人を超えたようであるが、これから木曽路に向う旅人や蟹薬師に
お詣りする人達が泊まっていたのだろう。 」
中山道みたけ館の前に枡形痕跡を残している。
宿場の雰囲気が残っていたのは、このあたりだけで、あとは新しい町並みに変わって
しまっていた。 明治の濃尾地震で東濃地方は大きな被害を受けたというから、古い建物は
それで無くなったのかも知れないなと思った。
唐沢川を唐沢橋で渡ると右側に願興寺があり、蟹薬師と呼ばれる天台宗の名刹で、
蟹薬師の由来は近くの池から一寸八分の薬師如来が無数の蟹の背に乗って現れたと
いう伝説によるものである。
* 「蟹薬師大寺山願興寺略縁起」
「 弘仁六年(815)、天台宗の開祖、伝教大師(最澄)がこの地で布教の折り、
布教のための布施屋(宿泊所)を作り、そこに薬師如来像を自ら刻み、安置したのがこの
寺の始め。 その後、正暦四年(993)、一条天皇の皇女で得度名 行智尼 が正室庵を
建てて住まい、朝夕 伝教大師の刻んだ薬師如来を礼拝していたところ、長徳弐年(996)
寺の南西一キロほど離れた尼ヶ池より、不思議なことに金色に輝く薬師如来像が数千、
数万匹の蟹に乗って現れた。 行智尼はこの薬師如来像を丁重に迎え、大師の刻んだ
薬師如来像の腹中に納め、大切に信仰していた。 その出来事が朝廷に達し、
大変有り難い出来事であるとして、勅命により七堂伽藍が建立されることになり、
大寺山願興寺 として、美濃国各地より信仰されるようになった。 本尊の体内に、
蟹の背に乗って現れた薬師如来像が納められていることから、 蟹薬師あるいは可兒の地
にある寺 ということから可兒大寺と呼ばれるようになった。
その後、応仁の乱(1108)の兵火により諸堂炎上したが、本尊は他に移され焼失の難を
免れた。 正治元年(1198)、時の地頭纐纈源吾盛康の尽力により復興し、旧観に復す
ことになった。 その後、願興寺は荒廃したが、盛康の子康能が復興し、
嘉禎三年(1237)、大般若経600卷の修復も行われた。 しかし、元亀三年(1572)
武田信玄の手勢により火が放たれ、諸堂は炎上、多数の寺宝が焼失する悲劇に晒されたが、
幸いにも寺の北方にある臨済宗の名刹・愚渓寺の僧侶等の手により、本尊の薬師如来を
始めとする諸仏像は運び出され焼失を免れた。 天正九年(1581)地元民の勧進により、
本堂(間口十四間、奥行十間)を始め、諸堂が再建されて、今日に至っている。
寛永二年(1625)には徳川幕府から寺の領地として100石が与えられ、益々
発展した。 」
山門をくぐって中に入ると、大変広々とした境内である。 正面にはどんと構えた本堂
がある。 最近の調査では掘りだされた古瓦からして、寺の創建は更に百年古いとも
いわれる。 階段を上がり、回廊からお参りしたが、内部は暗くなんにも見えなかった。
ご本尊の薬師如来座像は子年の四月一日にのみ開帳されるという秘仏である。
その他にも多くの仏像が残ると聞くが、国宝級の仏像は昭和三十年に建築された霊宝堂
に全部収納されている。 重要文化財に指定されている仏像は、現在は団体客
(事前予約が必要)しか拝めない。 本堂の右手奥の鐘楼なども趣があり、広い境内では
ゆったりした時の流れを感じることができた。
願興寺が御嵩宿の西端(京方入口)にあたり、宿場特有の鈎の手になって
いたようだが、鈎の手は残っていない。
深萱立場からの坂をアップダウンする旅の一日はここで終了した。
(所要時間)
深萱立場跡→(1時間40分)→権現山の一里塚→(40分)→大湫宿→(1時間20分)→細久手宿→(1時間10分)→鴨之巣の一里塚
→(50分)→物見峠→(50分)牛の鼻かけ坂→(1時間10分)→御嵩宿
大湫宿 岐阜県瑞浪市大湫 JR中央本線武並駅からタクシーで15分
細久手宿 岐阜県瑞浪市細久手 JR中央本線釜戸駅からタクシーで15分
御嵩宿 岐阜県御嵩宿町御嵩 名鉄広見線御嵩駅下車