『 中山道を歩く  (24) - 伏見宿・太田宿  』





(50)伏見宿

名鉄広見線の終着駅の御嵩駅から旅が始まる。 
ここは御嵩宿の西の入口で、その先の願興寺前を右に回り込み、  先に進むと左側に秋葉神社などを合祀した神明神社がある。 
東濃信金の先の信号交差点を左折する。 原写真館前に中山道道標がある。  しばらく進むと左側に御嵩町役場があるが、その先の交叉点を右折する。  交叉点の左右側に文政四年(1821)建立の常夜燈がある。  交叉点を右折すると右側に正一位秋葉神社常夜燈があり、台石には組中安全と刻まれて いる。 
国道21号線の中交叉点に出る。 中山道は左折して国道を進むが、 願興寺の仏像を救った僧侶達がいたという「愚渓寺」に寄るため、右折して 少し行き左側の坂道を上ると、右手に御嵩小学校、その奥に愚渓寺がある。 
駐車場から入口に入る前に「大智山愚渓禅寺」の大きな石標と石灯籠がある。  

 * 説明板 「大智山愚渓寺と禅の庭「臥竜石庭」 御嵩町中 」 
「愚渓寺の創建は古く、応永三十五年(1432)頃に臨済宗妙心寺派の高僧(妙心寺第五世)   義天玄承禅師(ぎしょうげんしょうぜんじ)が先師の足跡をたどり鈴ヶ洞の地に愚渓庵を 開創したことに始まる。 その後、永正年中(1504〜21)初頭に愚渓寺となり、東美濃 における名刹としてその名を今に残している。 
愚渓寺において義天禅師は「臥竜」と名づけた石庭を作庭し、禅の世界を表現するともに、 修行の道場としての位置付けを与えたとされる。 江戸時代天保年間(1830〜44)になり 愚渓寺は現在地に移築され、二重塔を含めて伽藍が整えられるとともに石庭も再現され、 今日に至っている。 
優美な姿の御嵩富士を背後にいただき、厳粛な風の流れる大方丈と京都竜安寺の石庭の 原型と称されるその前に広がる石庭の姿は中世の禅の世界を語りかけてくれる。 
     御嵩町・御嵩町観光協会        」      

願興寺が兵火を受けた時代には願興寺に近いところにあったのだろう。 山門から 入ると、予想した以上に建物がしっかりしており、庭の手入れもきちんとされていた。 

 * 「 山額には「古禅林」と書かれているが、 朝鮮国 花庵の筆で、将軍就任の慶賀使として来日した際に揮毫したものである。  大方丈の前に ある石庭は京都の竜安寺石庭の原形ともいわれるものである。 真白な砂に波紋と直線が 織りなす造形、岩をさりげなく配する絶妙なバランス。 まさに見事の一言につきた。 
しかも、無料でだれでも入れるのは大変良い。  私だけしかいなかったので、砂の波紋と 岩を眺め、しばしの間、自分だけの時間と空間を楽しむことができた。 」 

神明神社      愚渓寺石標と石灯籠      愚渓寺石庭
神明神社
愚渓寺石標と石灯籠
愚渓寺石庭


中交差点に戻り、先に進むと右側に鬼の首塚の幟がはためいている。  ここは鬼の首塚で、脇の石碑には「関ノ太郎」の名が彫られている。  鬼の首塚は塚という程の高さはなく、祠も質素である。  
傍らに書かれていた鬼の首塚の伝説は鬼岩に住む鬼を退治話である。 

 * 説明板 「鬼首塚(天神塚)」  
「 伝説によれば鎌倉時代の建久、正治の頃(1190〜1200) 頗る凶暴で悪業三昧の男が 次月の鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め住民を大いに大いに悩ませました。  この者は西美濃不破の関の生まれであったため、住民はこれを「関の太郎」とか 「鬼の太郎」と呼び怖れていました。 そこで正治元年(1199)、人々はこの地の地頭 交告源吾盛康にこの惨状を訴え退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、 おいそれと帰ることができませんでした。 そこで自分の家臣四名に太郎の退治を頼み 御嵩の地に帰しました。 ところが、なかなか太郎を討つことができなかったため、 蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げの とおりに四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕らえ首を切ることが できました。 四人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとしたところ 急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。 すると首桶を縛っていた 縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それを この地に埋めました。 これが「鬼の首塚」の由来といわれています。 首塚のある あたりを「桶縄手」と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを詠んだ 歌を残しています。  
    桶縄手 今もその名を 朽ちさりき 塩漬にせし 鬼の首かも
     御嵩町・御嵩町観光協会                」      

先程訪れた願興寺境内にあった願興寺略縁起にも 「 正治元年(1198)の頃、御嵩の 東方の奥岩に関の太郎という妖怪を使う賊がいて、願興寺界隈に出没しては悪業三昧を 繰り返しており、地頭纐纈盛康がこれを討ち取り、首を中村地内にねんごろに葬った 」と書かれ ている。 
鬼の首塚の傍らに正岡子規歌碑があり、歌碑の脇に、かけはしの記の一部が墨で書かれ ている。  

 * 「 子規が明治三十四年(1891)五月、木曽路を通って、郷里の松山 に帰る際記した「かけはしの記」には「 御嵩行き越えて、松縄手に出づれば、数月の旅 の労れ発して、歩行もものうげに覚ゆ。肩の荷>卸して、枕とし、しばし木の下に やすらひて、松もあるじと頼めば、心地ただうとうととなりて、行人征馬の響もかすかに 聞ゆる頃、一しきりの夕立、松をもれて、顔を打つにあえなく、夢を驚かされて、 荒物担ぎながら一散にかけ去りける。 浮世の旅路是非もなきことなり。 」 とあり 
「  草枕 むすぶまもなき  うたたねの  ゆめおどろかす  野路の夕立  」 
と詠んでいる。 それが歌碑になっていた。 
子規も嶮しい木曽路や大井宿からの十三峠を越えてほっとしたのか、旅の疲れがでたのでは ないだろうか? うとうととしていたら、いつの間に来たか、夕立により心地良い眠りを 醒まされたという、夕立に驚く様と夢路を妨げた恨みを少し込めた句であろう。 」  

鬼の首塚の幟      鬼の首塚      正岡子規歌碑
鬼の首塚の幟
鬼の首塚
正岡子規歌碑


大庭交差点手前の右側に御嶽神社があり、  街道に面して大きな覚清心霊神碑や小さな清嶽覚直霊神碑そして常夜燈がある。  御嶽教は木曽御嶽山を信仰の対象としている。 
この先、大庭の交差点で国道と分かれ、中山道は右斜めの道に入る。  新木野旧道で、入口には中山道の道標がある。  住宅地を約七百メートルカーブして歩くと、再び国道21号に合流。 
しばらく歩くと顔戸(ごうど)交叉点で、交叉点の左側には可児川が流れていて、桜の木が 両脇にある。 右に入ったところに顔戸城址がある。 

 * 「 応仁の乱(1467〜77)の頃、中央政権をも揺るがすほどの影響力 を持った当地の豪族、斉藤妙椿(みょうちん)が東西北に空掘と土塁を築き、 南は可児川の流れを守りに利用した東西百六十メートル、南北百六十七メートルの平城を 築城している。 」 

交叉点を左に五分程入って行くと名鉄広見線の顔戸駅があり、その反対側に「在原行平 卿之墳」の石碑がある。 この碑は美濃国の国司だった徳を偲んで、寛保三年(1743)に 顔戸念仏信者らが建立したもので、「在原黄門行平卿之墳」と刻んだ石碑である。 

 * 「 在原行平は弘仁九年(818)五十一代平城天皇の孫として生まれ、 天長三年(826)在原朝臣の姓を賜った。 行政官として朝廷に仕え、民部卿の職にあり、 善政を施し、広く敬愛を受けた。 天慶五年(881)に貴族の子弟の教育の場として奨学院を 創設し、教育にも力を入れた。 和歌にも精通し、古今集、後撰集などに歌人として名を 残す。 平安六歌仙の在原業平は中納言在原行平の弟である。 百人一首の 「 立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り こむ 」 は行平の歌である。 」 

国道に戻り歩いて行くと右に東海環状自動車道が見えてくる。 右斜めに入る道の角に 「比衣の一里塚跡」の石碑が立っている。  一里塚跡であることはこの石碑がなければ、 分からなかっただろう。 比衣(ひえ)一里塚は顔戸(ごうど)一里塚ともいい、江戸から 九十六里目である。 
中山道は右斜めの細い道に入り、東海環状自動車道をくぐる。 先に進み比衣川を土橋で 渡る。 国道21号の高倉交差点を左に見て進み、変則交叉点で左折すると 国道に合流する。 ここが高倉旧道の西口で、「左 伏見宿 右 御嶽宿」の石柱道標が立って いる。 
高倉口交差点を越した先右側の伏見警察官駐在所を斜め右に入る。 伏見旧道東口で、 分岐に中山道道標がある。 

御嶽神社      比衣の一里塚跡      道標
御嶽神社
比衣の一里塚跡
道標


一本目を左折する。 その先の正面の丘のようなものは高倉山古墳である。  美濃最古の四世紀後半に築造された全長41.5mの前方後方墳である。 
高倉口の交差点を越えると上りになり、 名鉄八百津線 を越えるのだが、 この路線は平成十三年(2001)九月に廃線になったので、いくら待っても電車は来ない。  左側に目を転じると、あたり一面、田圃が広がっていて、時雨れて遠くが霞んで見えた。 
伏見宿は廃線になった名鉄八百津線の線路のあたりの高倉集落あたりからである。 
かつてはこの辺りにお柳さまと呼ばれる大柳があった。 伏見宿は飯盛が多く、この柳に 櫛を供えると苦死(くし)から逃れ、早く親元に帰れると信仰されました。 
伏見旧道が国道21号に合流するあたりが伏見宿の江戸方(東)の入口で、伏見宿に到着。 
伏見宿は木曽川の流れが変わり、土田の渡し場が上流の今渡に移設されたことから 廃宿となった土田(どた)宿に代わり太田宿が新設された。 それに伴い対岸の間の宿で あった伏見が元禄七年(1694)宿場に昇格した。 中山道制定から九十年後のことでした。  

 * 「 土田宿は東山道時代からの古い宿場で、中山道の開設と同時に 宿場になったが、中山道の伏見から鵜沼までのルートが慶安四年(1651)土田〜犬山経由 から太田〜鵜沼経由に変えられたため、宿場の機能を失っていき、渡し場が上流の今渡 に移設されたことから元禄七年(1694)に廃宿になってしまった。 伏見宿はそれまで 間の宿だったが、宿場鑑札を得たのはルート変更の四十三年後の元禄七年(1694)の ことである。 街道が変更された慶安四年から除々に宿場の体裁を 整えていったものと思われる。 」 

坂道を上るとすぐの左側に御嵩町伏見公民館があり、ここが本陣跡である。 その前に 「伏見宿本陣之跡」の大きな三角形状の石碑が建っている。 

 * 「  本陣は代々、岡田与治右衛門が務め、門構えと玄関のある百二十坪の建物だったというが、 嘉永元年(1848)に本陣他二十六戸が大火で焼失し、その後、本陣は 再建されることなく明治維新を迎えました。 脇本陣は代々岡田与兵衛が勤め ました。 本陣碑の隣に「是よ里東尾州藩領」と刻まれた領界石が 立っているが、もとは伏見小学校の校庭にあり、体育館の建設に伴いここに移設された ものである。 」  

高倉山古墳      伏見宿本陣跡      道標と領界石
高倉山古墳
伏見宿本陣跡
道標と領界石


伏見宿は天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿場の長さは五町十六間(約574m)で、 家の数82軒、宿内人口485人(男230人 女255人)、本陣1、脇本陣1、問屋1、 旅籠29軒である。 
公民館の次の道を左に七十メートル行くと竹山浄覺寺があり、「徳川光友夫婦御菩提所」 の石碑が立っている。 徳川光友は尾張徳川家第二代藩主で、初代藩主義直の長男、正室は 徳川家光の長女、千代姫(雲仙院)である。 

 * 説明板「伏見と浄覺寺」  
「 浄覺寺は元々は伏見山田庵ヶ洞(寺洞)に天台宗の寺として創建されていたが、慶長 年間に現在地に移築、真宗大谷派、東本願寺の末寺となった。 以来血派相承として続き 現在で二十一世である。 現在の浄覺寺本堂は昭和五十年に再建されたが、その工事のため 地下一メートルほど掘ったところ掘立柱のあとが発見され地下から食器類の破片などが 出土した。 旧本堂派元禄年間に建立され三百年ほど経過し老朽化し現在の本堂に再建 された。 旧山門は寛政年間の建築で二百五十年ほどたっていたが今の門に再建された。 
伏見と地名は金山城主として京都から来た斎藤大納言正義が城山より南を眺めた景色が 京都の伏見と似ていることから同じ伏見と名づけたといわれている。 (中略) 伏見は 中仙道の宿場として栄え、特に元禄時代は大変にぎわった。 特に伏見の宿場は花街で 旅人の憩いの場であった。 寺の隣が本陣で緊急の場合は寺が逃げ本陣だったともいわ れている。 寺の古文書によると宝暦年間宿場を通過した参勤交代の諸大名や東西 本願寺門跡の通過なども記されている。 圧巻は水戸天狗党の浪士武田耕雲済や孝明 天皇の妹君皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁された時中仙道をお通りになった、大変な 賑わいで会ったことが記されている。 (後略)  」  

境内には岐阜県名木の指定を受けた数百年 を経た古木があり、その脇に「 古池や かわず飛び込む 水の音 」の刻まれた芭蕉 の句碑が建っている。 
幕末に近いころ、美濃地方(岐阜県)には俳句に熱中する多くの 人々がいたので、指導を職にした師匠と称する人も少なからずいた。 この句碑も地元の 俳諧の人達が金を出し合って建てたものらしい。 
伏見小学校の南、浄覺寺(寺領地)に岐阜県重要文化財指定の東寺山古墳がある。 前方 後方墳でこの形はあまりなく貴重なものである。 約千六百年前に作られたもので、 古墳を囲で周囲には土居がめぐられされている。 

竹山浄覺寺      芭蕉句碑      東寺山古墳
竹山浄覺寺
芭蕉句碑
東寺山古墳


小学校の校庭がの先に洞興寺があり、入口に「洞興禅寺」標柱 と鐘楼門がある。洞興寺は河北山洞興禅寺といい、境内には大きな山茶花の木がある。  また、寺の右側に最近再建された子安観音堂がある。 

 *  「伏見子安観音堂の由来」  
「 本尊子安観音菩薩像は秘仏で安産子育ての守護として祀られ、堂内の弘法大師像は可児 新四国八十八番納めの札所である。 (中略)当初の創建年代は不明で度堂宇は兵火で 焼亡し、観音像は難を逃れ洞興寺へ預けられた。 江戸時代元禄年間に江戸幕府の再建 許可を得て宝永五年(1708)再建され、丹塗り彩色は壮厳で美観を呈していた。 道中奉行 配下の中仙道伏見宿の繁栄とともに七年ごとのご開帳行事は各町内の催物で競いあい、 遠来の旅人が参拝に押しかけ賑わったといわれる。 昭和三十四年の伊勢湾台風で全壊 し本尊、厨子は再度洞興寺へ預けられた。 昭和四十一年より伏見商工青年部の協力で 昔を偲ぶ賑わいを取り戻そうと縁日奉納行事がおこなわれてきた。 此の度復元が具体化 され伏見子安観音堂復元世話人会が発起となり、地域住民はもとよりこの地に縁のある人 たちの善意も寄せられ、遺構組木を使用して総齣「の観音堂が卓越技術の宮大工により再建 された。 今後は女郎塚とともに伏見の観光名所として末長く保存していきたいものである。     平成三年(1991)五月吉日    山主誌       」    

観音堂の前に「女郎塚」と呼ばれる塚があり、「女郎塚供養塔」が立っている。  塚はいつ築かれたものか分からないようで あるが、供養塔の周囲には多くの石仏が奉納されていて、 三十三観音 といわれている。   

 *  「 一説では「この宿には多くの飯盛り女が働いて いたが、身寄りのないものも多かったので、死後、塚に葬むられたことから、女郎塚と 呼ばれるようになったともいわれ、三十三観音はこの宿で死んでいった仲間を悼んで、 彼女達が奉納した。」 とも伝えられる。  真相は分からないが、彼女達とのかかわり があるのは間違いないだろう。 」  

 *  「 伏見宿は木曽川に新村湊(しんむらみなと)を控え、荷の集積地 として栄えていた。 伏見宿は御嵩宿と旅籠数はほぼ同じであるが、規模は小さかった ようである。 御嵩宿は木曾方面への旅に備えて宿泊という客であったのに対し、 伏見宿は遊べるところと旅人の間では人気があった。 飯盛り女を多くかかえて宿場稼業 を続けたのは後発だったことが関係しているのかも知れない。 それでも、太田の渡しが 川止めになると、旅人が溢れたという。 身体を金で売られた女たちの信仰の場所であった ところで哀れみが感じられた。 」 

興禅寺鐘楼門      子安観音堂      女郎塚
洞興禅寺鐘楼門
子安観音堂
女郎塚供養塔


国道に戻ると、伏見の交差点の右角に小公園の一本松公園があり、休憩所とトイレが 設けられている。 以前右手前の家の一角にあった道標「左 兼山八百津 右 御嶽」と 刻まれた道標がここに移設され、新たに「この道は中山道 可児市1.3km⇔御嵩宿4.8km ここは伏見宿」の道標が休憩所の隣に立っていた。 ここは兼山道との追分である。 
斉藤道三の養子斉藤正義が築いた兼山城へ通じる兼山道の追分で、この道筋には木曽川の 新村湊があり、桑名、名古屋、四日市への舟運があり、川舟は伊勢参りの足でもあった。  名鉄八百津線が廃止になったので、地域バスが明智駅からでているが、そのバスが曲がって 行くのが見えた。 
伏見宿は旧中山道が交通量の多い国道21号になってしまったので、当時の町並みはほとん ど残っていない。 しかし、古い家は交差点の左側に数軒並んで建っていた。  卯建や連子格子を持つ黒塗りの建物である。 
信号から二軒ある家の手前が元旅籠三吉屋で、「お休み処駱駝」の看板があり、 伏見地区さとづくりセンターとなり、残っている。 

 *  「 生薬感応丸(しょうやくかんのうがん)を商い評判でした。 文政七年(1824)にオランダ商人が幕府にラクダを献上したが断られ、 このラクダが見世物興行師の手に渡り、各地を巡回していました。  興行師が伏見宿で病に罹り、旅籠三吉屋に三日間ほど逗留したところ、 近隣の村々からラクダ見物のため二日間で二千人以上の人が集まってきた といいます。 」  

東濃実業高校を過ぎると右側に常夜燈があり、奥に道祖神の祠がある。 

道標「左 兼山八百津 右 御嶽」      お休み処駱駝      正岡子規の句碑
道標「左 兼山八百津 右 御嶽」
お休み処駱駝
常夜燈と道祖神


COCO一番屋の手前に幡隆上人の名号碑が建っている。 

 * 「 幡隆上人は北アルプスの槍ヶ岳を霊場として開山した浄土宗の 僧侶で、天保年間に伏見宿や近隣の比衣村、中村、小屋敷村を訪れ、「南無阿弥陀佛」 と独特の文字を刻んだ名号碑を建立した、といわれる。  美濃には七つの名号碑がある といわれ、その一つである。 」  

一番屋の向かいに正岡子規の句碑が建っている。 正岡子規が伏見宿に泊まり、翌朝 新村湊から川舟で木曽川を下りました。 
出発の際に詠んだ句が国道の脇に句碑となって建っている。 
 「   すげ笠の   生国名のれ   ほとときす      」       

 * 「 伏見宿の繁栄に貢献したものとしては新村湊(しんむらみなと)が ある。 地元の年貢米や 瑞浪や土岐方面からの荷物の積み出しに使われ、また、伊勢参り に行く客も利用したので、この湊の繁栄振りが土田宿廃宿後の新たな宿場選定に有利に 働いたものと考える。 
正岡子規の「かけはしの記」には、明治四年(1891)五月、伏見宿に泊まったことが書かれ ている。 
「此夜伏見に足をとゞむ。 朝まだほの暗き頃より舟場に至りて下り舟を待つ。 つどひ 来る諸国の旅人七八人あり。(以下船旅をした様子が書かれているが省略) 」  

その先の交叉点を右折すると新村湊跡で、付近に日帰り温泉があい、小生は一風呂 あびた。   
このように繁栄した伏見宿と新村湊も、鉄道輸送の登場、そして、国道建設による陸上輸送 により、水運輸送がなくなるとともに衰退していった。 
中山道は直進。 この辺りが伏見宿の京方(西)の入口で、伏見宿は終わる。   

幡隆上人名号碑      正岡子規の句碑      伏見宿の京方(西)入口
幡隆上人名号碑
正岡子規の句碑
伏見宿の京方(西)入口





(51)太田宿

上恵土(かみえど)交叉点の左側にあるGSの角に大正四年(1915)建立の 「右太田渡ヲ経てテ岐阜市 ニ至ル約九里」「御大典記念」「左多治見及犬山ニ至ル約四里」と刻まれた道標がある。 
広重は伏見として、犬山街道の中恵土にあった伏見大杉(中恵土大杉)を描いている。 

 * 「 樹齢千年といわれたこの大杉は昭和九年(1934)の室戸台風で倒れて しまい、今は「御妃塚名木大杉跡」の石碑を残すのみである。 この大杉跡碑は犬山街道を進み上恵戸本郷南交差点を越え、左手の美容室TOM先の左側 民家前にある。 」   

交叉点を越え三百五十メートル程歩くと右側に「新四国第八十六番札所」の石柱があり、 その奥に弘法堂が建っている。 
百メートル行くと右側に「上恵土神社」の標柱と常夜燈が ある。 

 *  「 寛文六年(1666)の再建で、神明神社、白山神社が合祀されて いる。 鳥居には「諏訪神明神社」と二つの神社名が標記されている。  また、少し入った参道の脇には「神明神社」の標柱が建っている。 上恵土の地名誕生は 明治七年(1874)、天領だった新村、本郷村、上野村、前波村が合併して、上恵土村が誕生 したことに始まる。 明治二十二年に尾張藩領だった比衣村と伏見村に上恵土村が合併し、 伏見村(昭和二十四年に伏見町、現在は御嵩町伏見)となった。 明治の終わりに神社統合 令が出て、同一集落には神社が一つにするよう命令が出た。 その際、ここにあった神明 社に他地区にあった大きな氏神の諏訪神社が合祀された。  また、その他の神社は 境内にある小さな祠に祀った。 それら全体を総称する神社名は地域名になった上恵土を 採用したが、諏訪神社と神明神社の氏子はそれを良しとせず、それが鳥居にある文字に なった理由ではないか?と思った。 」  

神社を出て国道を歩くとすぐにスクエアエアアクアの前で、上恵土地蔵堂に寄り道する ため、横断歩道を渡る。  国道の反対側にある三叉路に入り、工場の脇を通り、南に歩いて 行くと、国道21号可児御嵩バイパスの手前に上恵土地蔵堂がある。 

 * お堂の中にはお地蔵様以外にも沢山の石仏が祀られていた。  なお、 手前の畑地あたりは兼山城主・森長可により攻め滅ぼされた「上恵土城跡」のようで ある。 

弘法堂      上恵土神社の鳥居      上恵土地蔵堂
弘法堂
上恵土神社の鳥居
上恵土地蔵堂


国道に戻って歩いて行くと、アサヒフォージの先は三角状になっていて、国道は左に カーブしていくが、中山道はそのまま直進して、坂を下っていく。 ここから可児市 になる。  
右側の岐阜トヨタ(株)可児ボデーの前を通り、上って行くと再び国道に出た。 そこから約六百メートル歩くと左側にヤマダデンキの建物が見えてくる。  右手のラッキー プラザと国道の間に地下道の入口があるが、その角に一里塚跡兼道標が建っている。 

 * 「 道標の三面に 「京・今渡の渡し・太田宿」「中山道一里塚の跡  これより約30m東」「江戸・伏見宿」とある。 この道標は最近設置されたもので、 恵土の一里塚は江戸より九十七里目、京へ三十七里である。 」 

中恵土交差点の左右は県道64号で、左折すると可児市役所の脇を通り、多治見に出る。  中山道は直進するが、右側を見ると下には低地が続いているので、国道は丘陵地の上を 通っていることが分かる。 川合口交叉点からは下り坂になり、愛知用水を大東橋で 渡る。 愛知用水は昭和二十二年(1947)の大旱魃で知多半島一帯が大被害を受けた為、 後に用水路を開削し、木曽川の水を知多半島に供給した。
大東橋を渡ると右手に可茂中央市場の建物が見えてくる。 加茂公設市場交叉点で、 国道と分れて、 右へ入っていき、 左に廻るように可茂中央市場の建物に向かって、道なりにすすむ。  市場の敷地は思ったより広く、市場の外柵を三百メートル位歩くと可茂中央市場パッキン グセンターがあった。 そこを過ぎるとJR大多線の中仙道踏切に出た。 
踏切の手前の右側には「辞世塚」と書かれた石碑群があった。 
踏切を渡ると今渡地区に入る。  左側に可児人形の看板を掲げ、光峰作とある建物があった。  右側の高い擁壁の上に 「御料地払下開墾記念碑」と「開運北辰開運大菩薩」の碑がある。 
北辰妙見菩薩は北斗七星または北極星を神格化した神で、国土を守り、災を消し去り、 敵を退け、人の幸せと寿命を増す有難い菩薩である。 

一里塚跡兼道標      辞世塚      北辰開運大菩薩碑等
一里塚跡兼道標
辞世塚
北辰開運大菩薩碑等


その先、可児市今渡大東歩道橋交差点を越えると左側の東住吉自治会館前に秋葉神社 の小社が祀られている。  その住吉交差点で右折すると新太田橋があるが、中山道は直進する。 
五百メートル位歩くと右側に今渡(いまわたり)神社の鳥居が建っている。 
社殿は道から二百五十メートル程奥に鎮座していて、社殿の奥は道を挟んで木曽川が 流れている。  

 * 「 今渡は江戸時代には野市場村と金屋村に分かれていたが、 ここは金屋村だったので、その氏神だったのだろう。  境内には金毘羅神社、御嶽神社、 覚明霊神の石碑が祀られていた。  」 

江戸時代、住吉交差点から太田橋あたりが今渡の立場で、太田の渡しを利用する旅人で 賑わった。  今渡地区センター南交差点を左折すると、名鉄日本ライン今渡駅がある。 

今渡神社鳥居      今渡神社社殿      今渡駅
今渡神社鳥居
今渡神社社殿
名鉄日本ライン今渡駅


中山道は直進する。 今渡公民館南交差点を越すと右側に臨済宗妙心寺派龍洞寺がある。 

 * 「 本尊は聖観世音菩薩で、境内に龍の枕石がある。  昔、木曽川の洞穴に夫婦の龍神が棲んでいた。 この龍神は時より嵐を巻き起こし里人を 苦しめた。  ある日、江陽という坊さんが三日三晩祈祷を行うと突如、岩が割れ、水柱が立ち、 雄の龍は昇天し、雌の龍は深い淵に沈みました。 村人が恐るおそる岩の割れ目を覗くと、 龍の寝枕が残っていた。 村人は龍洞寺を建立し、本堂の西にこの龍の枕石を祀りま した。  」  

少し歩くと右側に富士浅間宮の幣額のある赤い鳥居の浅間神社がある。 元禄時代の 創祀と伝えられ、七社が合祀されている。 
国道は富士浅間神社前の三叉路を右にカーブして太田橋を渡って太田本町に向う。 

 * 「 太田橋は以前は車道専用の橋だったが、橋の右側に歩行者と 自転車のための専用橋が新設され、色を塗り替えられ、きれいになった。 」  

橋の袂には橋の改修工事の完成を記念して作られた小公園があり、渡しのイラストの石碑と 道の角には「西へ京 今渡の渡し場跡 東へ江戸」の新しい道標が立っている。 

 * 「中山道 太田の渡し今渡の渡し場跡」の石碑には、 「 木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい とうたわれた中山道三大難所 の一つ 」と書かれ、下に渡しの様子が描かれている。 」 

龍洞寺      富士浅間宮      太田橋
龍洞寺
富士浅間宮
太田橋


この三叉路を直進し百メートル行くと右側に「別格今渡弘法大師舊蹟」の石碑がある。  その先には「南無弘法大師」の奉納幟がはためいていて、左側に庚申塔があり、 下りの石段を下りると今渡神明弘法堂がある。 

 *  「 弘法堂は野市場弘法と呼ばれ、文正年間(1466)船頭幸助が川の中 に光り輝く地蔵を見付け、息子と共に水にもぐり、それを持ち帰り庵を造って信仰したと 伝わるもので、 眼疾や悪病の御利益があるといわれる。 」   

境内には可児(かに)の名地水錦江(きんこう)水があり、 自然石の段上に延命の巌(いわお)が安置されている。  

 *  「 この岩は、さざれ石(小さい石)が海底に堆積して地層となり、 幾万年もの間に岩となり、隆起して地上に出た堆積岩です。  さざれ石の巌は君が代の一節に登場しています。 」  

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弘法堂の奥にある階段を下りると、石畳の道が続いているが、今渡の渡し場に続く 道で、「市指定史蹟今渡の渡し場跡」の標柱と説明板が立っている。 

 *  説明板 市指定史跡「今渡の渡し場跡」  
 「 今渡の渡し場  
中山道の三大難所の一つ「木曽のかけ橋派太田の渡し うすい峠がなくばよい」 と詠まれた 。 現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です(この対岸の呼称が太田の渡し)。  木曽川が出水すると「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や 茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。  明治三十四年三月には両岸 を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める 「岡田式渡船」となりました。 その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。  乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。 夜でも対岸の 船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。  昭和二年二月、 このすぐ上流に見える太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。    
渡し場の移り変わり   
  鎌倉時代に起こったの承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流 にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。  江戸時代に入り、この官道は中山道として整備されました。 当時の絵図などから見ると、 江戸時代の中期までは同じ土田地区の渡し付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、 後期頃からここ今渡地区に移されています。 土田の渡しは、中山道の正式の渡し場で なくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三十五年頃に 廃止されました。 
明治十四年の渡し場の渡船料金は(今渡の渡し)人と車は一銭二厘、牛馬と荷物は 二銭四厘 (川合の渡し)人と車は一銭、牛馬は二銭、荷物は一銭五厘 (土田の渡し) 人は一銭、牛馬は二銭、車は一銭五厘 
   平成十七年九月   可児市教育委員会        」   

 

石畳は橋の手前までは残っていて、対岸には太田の渡し場も見えた。   なお、太田の渡しは対岸太田側で、伏見側は今渡の渡しと区別して云われたようである。 

今渡の渡し場跡石碑      弘法堂      今渡の渡し場跡
今渡の渡し場跡石碑
弘法堂
今渡の渡し場跡


上に戻り、三叉路を右折して土田の渡し跡に向う。 少し行くと 右手に津島神社があり、津島神社や秋葉山の常夜燈がある。  右側はKYBのグランドと社宅があり、道なりに進むと右側に渡クラブ(渡公民館)があり その前には「中仙道一里塚跡」の石碑が立っている。 

 * 「 古代の東山道から江戸初期の中山道までは犬山で木曽川を渡って いたので、中山道は犬山から土田宿を経由し今渡に至っていた時代、ここ渡町には 中山道の一里塚があった。 しかし、大久保長安が慶長九年(1604)に中山道のルートを 変更。  大井宿から日吉高原を越え御嵩宿に出るルートに変えると犬山経由を 廃止し、渡しを土田から太田に渡るルートに変えた。  更に、木曽川の渡し場は激流を避けて、時代とともに木曽川の上流に移っていく。  江戸時代中期の天明年間には渡し場は太田橋の下流になり、一里塚も対岸の太田宿手前 に移設された。 更に、江戸末期の慶応年間から昭和の初期には太田橋下流百メートル のところになった。 
天明以降、木曽川の流れが変わり、渡し場が上流の今渡に変更となり、土田(どた)宿は 廃宿となり、太田宿が新設され、それに伴い対岸の間の宿であった伏見が 元禄七年(1694)宿場に昇格となり、以降、今渡の渡しは明治の世まで続きました。 」 

道なりに直進すると右にカーブする先に右側に八幡神社がある。 

 * 「 八幡神社の脇の道を北に向かうと木曽川に出た。 江戸時代初期の 土田の渡しはこのあたりから対岸の祐泉寺の東に渡していたといわれる。  対岸には 美濃加茂市の市役所などの建物が見えたが、祐泉寺は低いせいか、目に入らなかった。  土田の渡し場跡を探したが、その位置は確認できなかった。 」 

土田一里塚跡      八幡神社      木曽川
土田一里塚跡
八幡神社
土田の渡し場跡からの木曽川


太田橋に戻り、橋を渡って美濃加茂市に入る。 
安藤広重は穏かな今渡の渡し場風景を描いていて、筏(いかだ)下りが描かれている。 

 * 「 尾張藩は尾張藩領の木曽ヒノキ等を筏に組んで熱田湊まで輸送 した。 太田宿では慶長十五年(1610)に大久保長安から差し出された太田渡船頭屋敷 安堵状により船頭八人の屋敷が保証されてい。 また、 渡しで使用される船は渡船四艘、鵜飼船五艘、御馳走船一艘が尾張藩から貸し与えられ、 船頭十六人に対し給米一石が与えられていた。 

橋の下は中之島公園と化石木公園になっている。 中山道は左側の川沿いを西に行くので、 左手後方の河原に下っていく。 河岸に近づくと、太田の渡しがあったことを標示する 説明板があり、廃止される前の渡し場の様子の写真がある碑もあった。 

 * 「 江戸時代末期の慶應年間から昭和初期まであった太田の渡し跡 である。 当時をしのばせる川石を敷き詰めた石畳の道である。 なお、慶應年間以前の 江戸時代の渡し場はもっと下流にあった、という。 当時の川巾は八十五間(約155m)。  水深が深く、流水が速く、出水が多かったので、渡し舟は時には下流に流された。 
「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい。」とうたわれたように、旅人に とって、木曽川を越える太田の渡しは中山道三大難所の一つであった。  太田の渡しは昭和弐年(1927)に太田橋が完成し、廃止された。 」 

太田南畝は壬戌紀行の中で「大田川(木曽川)を渡るには一町ばかり川上船にのるに 流れ急にして、目くるめくばかりなり」と著しているが、 今日の木曽川の流れは緩やか。 悠然と流れているので、急流だったことや 「渡船が流されて下流に着いた」という話は想像できなかった。  冬で水が少なかった こともあるが、ダムができたことの効果が大きいのだろう。 

化石林公園から木曽川沿いの堤防の上に遊歩道が続いている。  木曽川の景色 を堪能しながら、十分ほど歩くと右側の土手下に文化会館があり、文化会館の裏側に 河童像と「一里塚跡」の標柱がある。 古井(こび)の一里塚跡で、 江戸より九十八里目である。 今渡の渡し場が新設されると、これに伴い新たに一里塚が 築かれた。  
先に進むと右側に「岡本一平終焉の地」の石碑がある。  ここは江戸時代は古井(こび)村だったが、今は美濃加茂市の一部になっている。 
天才画家の岡本太郎の父、岡本一平(1886〜1948)は漫画家で、妻は岡本かの子である。  戦時中に白川町に疎開。 その後、古井町に移住し、ここで急逝した。 
碑の先を斜め右の坂を下り、を下りきったら右折する。 太田宿の東枡形で、 分岐点には柏木ポンプ場がある。 
突き当りの交差点が神明堂で、神明弘法堂からの地名である。 
右折した左側にある「左飛弾高山 右東京善光寺」と書かれている道標は明治時代に 篤志家の伊藤萬蔵が建てたもので、ここは中山道と飛弾街道の追分である。 

広重の太田宿      太田の渡し跡      神明堂交差点
広重の太田宿
太田の渡し跡
神明堂交差点


中山道は神明堂交差点の信号交叉点の脇に「太田本町」とその下に「この先」と 標示された道に入る。 
「中山道太田宿 みのや金物店」と書かれた宿場行燈がある。  太田宿は伏見宿から二里(約8km)、鵜沼宿まで二里余(約9km)で、江戸から 五十一番目の宿である。  太田宿は飛騨街道や郡上街道との分岐点として栄えた。 

 * 「 天明二年(1782)、尾張藩は太田代官所を設け、恵那から鵜沼 まで統括したが、飛騨街道や郡上街道との追分(分岐点)として、また東濃地方の行政・ 文化の中核として栄えた。  現在も飛騨方面に向うJR高山本線、郡上に向う長良川 鉄道などが集まる交通の要衝である。 」 

「ようこそ、セピアの散歩道へ」と、案内パンフレットには書いてあったが、 老舗が多く、漆喰壁に卯達をあげた立派な建物の呉服屋さんなど昔の商店街が残って いる。 

太田本町入口      宿場行燈      漆喰壁に卯達の商店
太田本町入口
宿場行燈
漆喰壁に卯達をあげた呉服屋


米問屋小島屋の店先には水車が回っていた。 そこを過ぎると左側に 「中山道太田宿」の石碑があり、その先の左側に神明水神公園があり、 休憩所や清潔な洋式のトイレがある。 
民家の前に 「太田町/古井町」の木札があり、右手に 「左太田脇本陣宿三丁 中山道 太田宿 右御嵩伏見宿三里」の石碑が建っている。  次いで左側に法華経塚がある。 髯文字の南無妙法蓮華経題目碑で、 法華経は日蓮宗の題目である。 
江戸時代、宿場の東側の入口は 新町木戸だったと資料にあるが、左側の空地に「新町木戸門跡」の標柱が立っているので、 ここが太田宿の江戸方入口である。 また、江戸時代の太田村と古井村の境でもある。 
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、太田宿は東西六町十四間(約680m)の長さに、 家数118軒、宿内人口505人(男259人、女246人)、本陣1、脇本陣1、旅籠20軒で、  宿場は、上町、中町、下町で構成され、尾張藩領でした。 
太田宿の名物は蜂屋柿と呼ばれる乾し柿で、別名美濃吊るしとも呼ばれた。  街道を進むと右側に増井写真店があり、ここを右折すると美濃太田駅がある。 
江戸方から入ると最初にあるのが、上町のはずれにある太田稲荷 である。 

米問屋小島屋      中山道道標      太田稲荷
米問屋小島屋
中山道道標
太田稲荷



社(やしろ)の右側に播隆上人と志賀重昂の墓碑がある。 

 * 「 浄土宗の僧播隆上人は世俗にみちた宗門に失望し、深山霊谷で の修行を志し、文政十一年(1828)槍ケ岳を初登頂し、山頂に厨子を設置し、阿弥陀如来、 観世音菩薩、文殊菩薩の三尊像を安置し開山した。  槍ヶ岳に登頂後、 脇本陣に泊まったが、病にかかり、享保十一年(1840)、この地でなくなり、 ここに埋葬された。   
昭和二年(1927)に死去した地理学者、思想家の志賀重昂(しげたか)は三河国(現愛知県 岡崎市)に生まれで、足跡は世界に及び、「日本風景論」で知られる学者であるとともに 、国粋主義者でもあった。  美濃加茂から犬山にかけての木曽川の風景がヨーロッパ中部のライン川に似ている ところから日本ラインと命名した人物である。 」   

その他にも石碑や馬頭観音など道中往来の安全を祈った石仏や庚申塚など並んで いた。 
中山道はここで枡形になっていて、正一位秋葉神社で直角に曲がり、更に直角に曲がって いる。 ここは上町の枡形である。  左側にある祐泉寺は正式名を龍興山祐泉寺(ゆうせんじ)といい、臨済宗妙心寺派の寺院 で、新美濃西国第二十七番の札所である。 先程の太田稲荷もこの寺に所属し、 地続きになっている。 

 * 「 祐泉寺は文明六年(1474の湧泉庵が始まり、寛文年間に現在 の名称になったとある五百年の歴史があるお寺である。 本尊は「滝場観音」と呼ばれる 聖観音である。 本尊は七年毎の御開帳の時にしか、拝むことができない秘仏である。  この寺には帯解地蔵もある。 当寺には東海道の白隠禅師が度々来訪し、徳を授けました 。 」 

祐泉寺前辺りが木曽川の土田(どた)の渡し場跡で、そのため祐泉寺の山門は宿並に 背を向け、木曽川方向に向いている。 

播隆上人の墓碑      志賀重昂の墓碑      祐泉寺
播隆上人の墓碑
志賀重昂の墓碑
祐泉寺山門


本堂の左側に滝場観音堂がある。 宿場が大火に見舞われた際に、焼失を免れたところ から火防観音と呼ばれ篤く信仰された。 
本堂の前には北原白秋の歌碑がある。 その隣には小説神髄を書いた坪内逍遥の歌碑もあった。 

 * 北原白秋の歌碑は白秋が昭和七年十一月三日に当寺を訪れた際、 即吟した、「 細葉樫 秋雨ふれり うち見やる 石燈籠の 青苔のいろ 」 という 歌が刻まれていた。 
隣の坪内逍遥の歌碑の歌は大正十一年の冬に詠まれたもので、椿二首である。 
  「 山椿  咲けるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ 」 
  「 この木の実 ふりいし事し しのばれて 山椿ばな ないとなつかしも 」 
ふるさとの椿の木を愛していたといわれるので、上記の歌にはその気持ちが詠われて いた。 
鐘楼の手前には林由興(太田宿脇本陣三代目当主)によって建立された芭蕉句碑がある。  貞亨二年(1685)、二月堂参篭のために伊賀から奈良東大寺へ途中に吟じた甲子吟行 句が刻まれている。 
    「   春なれや  名もなき山の  朝がすみ  」  
美濃路にも春が訪れ、木曽川の水が霞になって、近くの山をうっすらと隠してしまった。 
暖かくなった風景をさりげなく詠っている句である。 
太田稲荷と祐泉寺では歴史の重みと作品をじっくり味わった一時であった。 

(左)滝場観音堂(右)本堂      北原白秋歌碑      芭蕉句碑
(左)滝場観音堂(右)本堂
北原白秋歌碑
芭蕉句碑


街道に戻ると枡形先の左手側に旧旅籠小松屋がある。  今は太田宿のお休み処で坪内逍遥等の資料が展示されている(入場無料)。  

 * 「 太田宿の旅籠は二十軒あり、内大三軒、中十一軒、小六軒 でした。 小松屋はその一つで、伊勢参りの客で賑わったらしい。  なお、脇本陣林家所蔵の旅籠万覚帳(よろずおぼえちょう)によれば 、松屋、岩井屋、坂本屋、三升屋、油屋、今井屋、小松屋などが旅籠を営んでいまし た。 
主屋は江戸時代末期の建築で、大正から戦前までは煙草の元売りを営んでいたというが、 ほとんど手を加えていない状態にあるという。  一階に六畳間 2部屋、八畳2部屋、二階にも数部屋あるが、奈良井宿の旅籠にと比べるとやや 小ぶりか。 坪内逍遥等の資料が展示されている。 」 

このあたりが宿場の中心地区である。 向いが十六銀行旧太田支店である。 明治四十年(1907)の建築で、鬼瓦には銀行を表す 銀の文字があしらわれている。  先に進むと右側に魚徳がある。 御食事処で、店脇に太田宿名物鮎の甘露煮の看板を 掲げている。 木曽川の鮎を煮込む前に一度素焼きを行うとの事であった。 
隣りが永楽通寶の看板を掲げる永楽屋で、呉服商を営んでいる。 
その先右側に明治二十六年(1893)創業の造り酒屋、御代桜醸造がある。  黒壁の古風な酒蔵が印象深かった。 

 * 「  御代桜(みよざくら)という銘柄の酒を出している酒屋で、杉玉が吊されていた。  宿場時代は茶屋と酒の販売を生業としていました。 明治二十六年(1893)旧本陣の 福田家から酒造権を譲り受け、酒造を始めた老舗蔵元である。 酒造所の脇道に 入ると黒い酒蔵が並び、その規模の大きさに圧倒される。 」 

小松屋      魚徳      御代桜醸造
お休み処小松屋
魚徳
御代桜醸造


左側の旧太田脇本陣林家住宅は国の重要文化財になっている。 

 * 説明板 「旧太田脇本陣林家住宅(国の重要文化財)」  
「 旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831) に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。  江戸時代に太田宿は中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と 脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所 の御用達をつとめた旧家であります。 この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建 が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の 権威を象徴するものであります。 又、この建物は中山道において脇本陣としての 遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に 指定されています。 今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはり あげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんで きます。    
     昭和六十一年一月 美濃加茂市         」   

前述のように、槍ヶ岳開山を果たした播隆上人は帰途、この宿で 病に倒れ、天保十一年に没した。 林家では死を悼み、下町の弥勒寺に葬り、後年、 弥勒寺廃寺の後、寺と墓を上町の祐泉寺に移した。 また、岐阜で襲われ暗殺された 板垣退助が前夜泊まった宿でもある。 予約制なので、内部は見られなかったが、 一度見てみたいと思った。 
隣の太田宿中山道会館には宿場時代の資料が豊富に展示されている。 
敷地内には岡本一平の「糸遊庵」が移築・復元されている。 

 * 説明板 「糸遊庵(しゆうあん) 〜みのかも文芸ゆかりの家〜 」 
「 糸遊庵は、近代漫画の祖として知られる岡本一平とその家族が美濃加茂市に 昭和二十一年(1946)に転居してから亡くなるまで過した居宅です。  岡本一平の漫画家としての活躍は明治時代後期から始まります。 新聞紙上で漫画に 短い文章を添えた『漫画漫文』が掲載されると、たちまち大好評となり、彼は 「総理大臣の名前は知らなくてもその名を知らないものはいない」とまでいわれるよう になりました。 昭和二十年(1945)、戦火を逃れて現在の加茂郡白川町三川に疎開。  この地で、人間の感情や生活をこだわりなく五・七・五の詩形で表現する『漫俳』を 提唱し、昭和二十一年(1946)には現在の美濃加茂市吉井町下吉井に転居。  終戦直後の暗い世の中に活気をと、漫俳や地方公演などの活動をはじめて矢先、 彼は脳溢血のため帰らぬ人となりました。 しかし今もなお、漫俳や彼の絵画作品 などはこの地域の人々に大切にされ、伝えられています。   
     岡本一平顕彰碑建設委員会            」   

道の反対には旧太田宿本陣門があり、標柱と説明板がある。 

 * 説明板 「旧太田宿本陣門」美濃加茂市指定有形文化財  
  「 旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。  明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。  現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。  「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍 徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。 このときは、旧中山道 中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。 この門は、一間の薬医門(本柱 が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式の ある端正なつくりです。 昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。  建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市 教育委員会が解体修理しました。 」 

太田宿の本陣は福田家が勤め、庄屋を兼ねました。  本陣は間口二十一間(約37.8m)奥行二十二間(約39.6m)で、建坪な二百二十七坪でした。 本陣の表門は文久元年(1861)十月、皇女和宮が下向したときに建てられたもので、 元は西正門だったが、東門のあった現在の場所に移築された。 
建物は明治時代に本陣門を除き全て壊され、その跡に旧太田町役場が置かれ た。 北端には外堀があり、さらに北二十二間には垣をめぐらしていたというから、 その壮大さは想像できる。 

左折して、川に向かって歩くと長屋門がある家(坐馬家)がある。 
その先に、江戸時代には木曽川の舟と材木の管理と監視を行う川並番所があったが、 今は「太田 川並番所址」の標柱が立つだけである。 土田の渡しは中濃大橋が架 かかったことで、使命を終えたのだろう。 

 * 説明板 「太田川並番所跡」  
「 江戸時代、木曽川を支配・管理するために尾張藩は川並番所を設置しました。  寛文5年(1665)に手代1名、足軽1名が川並番所に常駐していたとされています。  川並番所は錦織奉行所の支配下にあり、船積荷物改めや筏川下げの管理や流木の取締り をおこなっていました。 その後、幾度かの機構改革が行われました。  太田宿本陣総年寄の福田三右衛門は、尾張藩から留木裁許役を命ぜられました。  また、この付近には明治初期に、中町地辺から土田へ渡る「新渡し」がありました。  昭和2年太田橋の開通により、太田の渡し(太田→今渡)で使用されていた、 ※岡田式渡船航法が払い下げられ、昭和34年頃まで利用されていました。
※岡田式渡船航法・・・岡田只治が考案した渡船航法で、両岸にやぐらを組み、 鋼鉄線を渡し、滑車により川の流れを利用して対岸へ船を導く航法。    
     美濃加茂市商工観光課        」   

旧太田脇本陣林家住宅      本陣門      川並番所跡
旧太田脇本陣林家住宅
本陣門
川並番所跡


太田本町4丁目バス停先の交叉点を左折する。 ここは下町で、西の枡形で、 太田宿の京方入口であった。    江戸時代、枡形を入った辻の右角に高札場が置かれていたが、今はその面影はなく、 「高札場跡」の説明板と「高札場跡と郡上街道追分」の新しい説明板が立っているだけ である。 

 *  説明板 「高札場跡」 
「 江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を 高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。  太田宿から次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていま した。 」  
  *  説明板 「高札場跡と郡上街道追分」 
「 高札は法度、禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げられた板の 札のことです。 一般の人々に知らせる目的で立てました。 弘化2年(1845)の 「加茂郡大田村家並み絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。  「濃州徇行記」には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた 高札と船高札があったとされます。 また、ここは郡上へ向う「郡上街道」との追分 でもあります。 左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵 が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。   
     美濃加茂市商工観光課      」    

郡上街道 追分道標の片面には「右 関上有知(こうずち) 左 西京伊勢道」、 もう片面には右側に「名古屋市」、左側に「伊勢道」と刻まれている。 
道標で左折し、突き当たりを右折するが、その右折手前右側に「弥勒寺跡と下町の桝形」 の説明板がある。 

 * 「 弘化二年(1845)の加茂郡村家並絵図の中には弥勒寺が描かれて います。 天保年間に祐泉寺九世海音和尚が隠居していたようです。 嘉永三年(1850)に 脇本陣林市左衛門が娘の宝林尼首座のため尼寺として再興しましたが、明治時代になって 廃寺となりました。 新田次郎の「槍ヶ岳開山」では播隆上人が太田宿に立ち寄った 際に滞在した場所として登場します。 播隆上人はこの地の南側に葬られましたが 廃寺に伴い、現在は祐泉寺に墓碑が移っています。 」 

枡形内を進むと右側に庚申堂があり、堂前には正一位秋葉神社が祀られている。 
枡形に戻って進み、国道41号の高架をくぐる。 一本目を左折し虚空蔵堂前に出る。  左側に質素な虚空蔵堂があるが、虚空蔵堂前には「左 大坂京」の石道標があり、 この辺りが大井戸の渡し場跡で、太田宿の西(京方)の入口(木戸) があったところである。  また、承久の乱の古戦場で、別名、大井戸の戦いがあった ところである。 

 *  「 承久三年(1221)後鳥羽上皇は鎌倉幕府倒幕の挙兵をしました。  木曽川合戦では、後鳥羽上皇が率いる朝廷軍と鎌倉軍が木曽川を挟んで戦いました。  朝廷軍が虚空蔵堂辺りに布陣し、大井戸の合戦が行われ、朝廷軍は敗退しました。 」 

虚空蔵堂の裏にムクノキの大樹が聳えている。 
明治の文豪、坪内逍遥は少年時代虚空蔵堂を遊び場に過ごした。 明治二年(1869) 父の引退とともない、太田を離れた逍遥は名古屋に移り住み、その後上京し 近代日本文学の基を築きました。 大正八年(1919)、昔を懐かしみ、夫婦揃って故郷 を訪れ、このムクノキの前で記念撮影をしました。 逍遥六十一歳でした。  夫婦で訪れた堂裏のムクの木は今も健在である。 

追分道標      正一位秋葉神社      虚空蔵堂
追分道標
正一位秋葉神社
虚空蔵堂


太田宿はここで終わる。  


(所要時間) 
御嵩宿→(1時間20分)→伏見宿→(1時間40分)→太田橋→(40分)→太田宿  


伏見宿  岐阜県御嵩町伏見  名鉄広見線明智駅から徒歩5分。  
太田宿  岐阜県美濃加茂市太田町  JR高山本線太田駅下車。   
鵜沼宿  岐阜県各務原市鵜沼東町 JR高山本線鵜沼駅又は名鉄新鵜沼駅下車。  



(25)鵜沼宿・加納宿                                  旅の目次に戻る



かうんたぁ。