妻籠宿の枡形を出たら車屋坂を下る。 すぐ先で県道7号を横断する。
渡った先の右側の馬籠館の前に「中山道馬籠宿碑」がある。 ここが馬籠宿の
京方(西)入口で、石碑碑には「江戸江八十里半 京江五十二里半」と刻まれている。
ここから新茶屋集落までは比較的なだらかな道が続いている。
緩い下りの石屋坂を進み、橋を渡る。左右に曲がる緩い上り坂を進むと、
左側の横屋バス停に「右中津川旧道 左中津川新道」の道標と中北道標
「←馬籠宿 340m 落合の石畳 1.7q 落合宿 3.7q→」がある。
上り坂を進むと右側の竹藪の前に「丸山の坂」の標石と馬籠城跡説明板がある。
ここはこんもりした林になった丘で、この坂道を丸山坂というらしい。
* 説明板「馬籠城跡」
「 この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から五百年ほど
前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。 戦国動乱の時代、
馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下
の木曽義昌の治めるところとなる。 天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の
両軍は小牧山に対峙した。 秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌に
木曽路防衛を命じた。 義昌は兵三百を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。
馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。 天正十二年九月、徳川家康は、
飯田の菅沼定利、高遠の保科正直、諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。
三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。 馬籠を
守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに
妻籠城へ逃れた。 このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。 慶長五年(1600)、
関が原の戦いで天下を制した家康は木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)
尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。 」
少し行くと左手に馬籠村の鎮守である馬籠諏訪神社がある。 諏訪神社参道口の右側に島崎正樹翁記念碑がある。
* 「 江戸時代木曽五木の伐採は尾張藩により厳しく禁止され、 「木一本首一つ、枝を落とせば腕を切る」といわれた。 徳川幕府が瓦解し、 木曽谷の人々は新政府に期待を寄せましたが、政府の政策は木曽谷のほとんどを官有林 に組み入れるという、遥かに過酷なものでした。 島崎正樹は木曽三十三ケ村の総代 になり木曽山林の解放運動に奔走するも、弾劾に遭い、失意の内に生涯を閉じています。 碑はこの島崎正樹の徳を顕彰したもので、明治四十五年(1912)正樹の二男広助が 建碑したものです。 広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主を勤めました。 」
荒町の緩やかな下り坂を進むと、左手の小屋の中に馬籠のいわれ解説がある。
* 「 この地の生活物資の搬送は馬方衆が担っていました。 ところが人間が病気や怪我をすると籠に入れて中津まで組内の者が皆で担いだと いいます。 この馬と籠が馬籠の地名由来です。 」
晴れた日には恵那山が見えるようだが、あいにく曇っていたので見ることはできな
かった。 バス停を横目に見ながら、のんびり歩くと男女双体道祖神に出逢った。
花が手向けられ夫婦像はほのぼのとしていて、良い雰囲気である。
下り坂を進むと左側に男女双体道祖神が祀られている。
向いには中北道標「←2.9km 落合宿 馬籠宿 1.1q→」がある。
なかのかやバス停を過ぎると神坂の下りになり、右側に西方が開けた正岡子規公園 がある。 正岡子規の歌碑が建つ小公園から、中津川の市街と恵那峡に架かる 赤い恵那大橋が見える。夕景は信州サンセットポイント百選に選ばれている。
* 【正岡子規歌碑】 昭和五十四年九月建立
桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 子規
「かけはしの記」には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已
に黄なり。 岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を
飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と記られている。
神坂を下ると新茶屋跡に到着。 茶屋の跡地には民宿が建っていた。
説明板「新茶屋」
「 このあたりの地名を新茶屋という。 江戸のころ、宿場と宿場の間にある茶屋を
立場茶屋といった。 かっての茶屋は ここから岐阜県側に数百メートルほど入った
場所にあったが、江戸時代の終わりころに現在地に移った。 そのためここを新茶屋
と呼ぶようになった。 わらび餅がこの茶屋の名物だった。 」
民宿の近くに芭蕉句碑と「 是より北は木曽路 」と刻まれた石碑が建っている。
芭蕉句碑の句碑には「 送られつ 送りつ果ては 木曾の龝(あき) 」と刻み込まれ
ている。
* 説明板 「芭蕉の句碑」
「 松尾芭蕉が門人の越智越人を伴って、信州姥捨山の月見と善光寺詣りを
兼ねて中山道を旅したのは貞享五年(1688)のことであった。 その旅を
「更級紀行」として世に出した。
送られつ 送りつ果ては 木曾の龝(あき)
この碑が立てられたのは天保十三年(1842)のことで、このころ岐阜県の美濃地方には
芭蕉を祖とする「美濃派」の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として
建てられたものである。 」
句碑の先に東屋(休憩所)があり、その脇に「是より北木曽路」と刻まれた碑がある。
* 説明板 「是より北は木曽路の碑」
「 ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。 昭和十五年(1940)七月、
当時六十八才だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。
藤村は六十才ころから自らを「老人」と記すようになった。 この碑は藤村記念館の
落成十周年を記念して、昭和三十二年(1957)十一月に藤村記念館建設の実行母体で
ある「ふるさと友の会」によって建立された。 」
碑の向かいに昭和六年(1931)建立の「信濃 美濃 国境」の標柱も立っている。
ここが信濃と美濃の国境で、長かった木曽路の終点である。
ここからはいよいよ美濃路に入る。
日本橋を出発し、碓井峠、和田峠、そして川留めもある木曽路の
旅を終えると残りは美濃路と近江路を残すのみである。
ここからはいよいよ美濃の国。
美濃路は十六宿で、落合、中津川、大井、大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼が
東美濃と呼ばれ尾張藩領。
加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ケ原、今須は西美濃と呼ばれ、鵜沼から美江寺
にかけては木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が横たわっている。
国境碑の並びに昭和三十二年(1957)建立の一里塚古跡碑があり、歴史の道 中山道
新茶屋の一里塚の説明板が立っている。
* 説明板「 新茶屋一里塚」
「 一里塚とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠が諸街道を改修し、日本橋を起点に
東海道、中山道、甲州街道などの各街道の一里ごと(約3.9km)に築かせた塚のことです。
これは街道の左右に方五間(約9.1m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、
また休息の場でもありました。 新茶屋の一里塚は天保〜安政時代(1830〜1860)には
立木は右(江戸よりに京)に松、左側には無しでしたが、今回、整備にあたり、右に松、
左に榎(えのき)を復元しました。
平成六年二月 文化庁 岐阜県 中津川市 」
その先の石畳道の手前の両側に一里塚が残っている。 江戸より八十三里目である。
* 説明板「 一里塚」
「 街道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っている。 江戸幕府は街道整備の一環
として一里を三十六町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、
塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。
現在中山道では殆どが失われており貴重な遺構である。 」
ここからはいよいよ美濃の国。 一里塚の分岐を斜め右に新茶屋遊歩道に入る。 この分岐点には木製道標「←馬籠宿 2.0km 落合宿2.0km→」がある。 新茶屋遊歩道は石畳道になっている。
説明板 「新茶屋遊歩道入口」
「 平成十七年(2005)二月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により
新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となり
ました。 この場所から旧長野県堺までの約120m間を合併記念事業により、
落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備しました。
平成17年10月 中津川市 」
この道は先程分岐し、回り込んできた車道に突き当たるので、左折し、すぐ右手の
落合石畳に入る。
この道は江戸時代の石畳三ヶ所を繋いで復元された石畳で、岐阜県指定史跡に
なっている。 石畳は落合宿と馬籠宿間の十曲峠の坂道を歩きやすいように石を敷き
つめたもので、現在、約一キロ(正確には840m)の距離が原型復元されている。
石畳の道は二十分ほどの距離である。
* 説明板「中山道落合の石畳」
「 中津川市は昭和六十三年度から平成七年度にかけて文化庁、岐阜県の補助を受けて
歴史の道・中山道の整備を行いました。 江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県
堺からの約1Kmを整備対象区間とし、道自体の整備としては石畳の敷設を行い、
遺跡の整備としては道の左右に残っていた「新茶屋の一里塚」の修復、また「休憩所」
一基を活用施設として設置しました。 従来から「中山道落合の石畳」として保存され
ていた石畳(三ヶ所延長70.8m)をつなぎながら復元した約840mの道は、
周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の二つの雰囲気を
もっています。 」
落合の石畳道を進むと右側の開けた所に東屋(休憩小屋)がある。
新茶屋に移転する前の立場茶屋跡で、ここには多数の街道解説等がある。
p>石畳については別の説明板があった。
* 説明板「落合の石畳」
「 この石畳は、中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩き易いように
石を敷き並べたものです。 江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え
制度化して、その保護にはたえず注意をはらいましたが、石畳については何も考えた
様子がありません。 このため壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も
一時は荒れるにまかせていましたが、地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しま
した。 いま往時の姿をとどめているのはここと東海道の箱根のふたつにすぎず、
貴重な史跡です。
中山道ができたのは寛永年間ですが、石畳が敷かれたのはいつ頃か不明です。
文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸のとき修理しましたが、このとき石畳に
砂をまいて馬がすべらないようにしたことが記録に残っています。
中津川市教育委員会 」
先に進むと左側に「なんじゃもんじゃの杜」の碑がある。
「 往時この地の村人達はこの木の学名が分からず、ナンジャモンジャ と呼んでいました。学名をヒトツバタゴというモクセイ科の落葉高木で、木曽川流域に 分布する、雌雄が異株の稀産種という。 5〜6月頃小枝の先に多数の白い花を咲かせ、 その姿は壮観である。 」
ここは林間の道で、石畳道の勾配は次第に増してくる。 馬籠宿と落合宿の境にある標高約500mの十曲峠(じっきょくとうげ)である。
「 太田南畝の壬戌紀行に「美濃と信濃境は十曲峠にあり。 石まじりの道をゆくゆく坂を上り、山中坂を三四町ばかりまがりてのぼれば、 落合の駅舎は遥かなる下に見ゆ。 此のあたりより道いよいよけわし。 ここを十こく峠という」と著しており、難所であった。 」
石畳道は小さな木橋を渡ると、右からの車道に吸収される。
この分岐点には中山道落合の石畳石柱がある。
左へ進むと、枝垂れ桜が綺麗な医王寺がある。
本尊の山中薬師如来は行基作で虫封じ薬師と呼ばれました。
* 「 医王寺は天台宗の寺だったが、争乱で焼失し、廃寺。 天文十三年(1544)に再興されて浄土宗に転じた寺である。 本尊の薬師如来は行基の作 と伝えられる。 別名、山中薬師といい、江戸時代には キツネ膏薬で有名だった ところである。 」
「 虫封じに御利益がある。 」と寺の境内に掲示があるので、現在も売られ ているようである。 境内に、しだれ桜が植えられている。
* 説明板「医王寺の枝垂れ桜」
「 (初代の枝垂桜は樹齢三百年で)俳諧の宗匠嵩左坊(そうしょうすさぼう)が
「その日その日風にふかせる柳かな」と詠んだ県下随一と
いわれた名木であったが、伊勢湾台風で倒壊しました。
二代目も四月初旬に先代(親木)に勝るとも劣らぬ見事な花をつけ人々を楽しませている。
落合まちづくり推進協議会 」
本堂の左脇に嘉永六年(1853)建立の芭蕉の句碑 「 梅の香に のっと日が出る
山路かな 」がある。 更科紀行で詠んだ句である。
鬱蒼とした山道をあるいていると、どこかで梅の香りがする。 突然樹の間から朝日
が現れた ・・・・
そのような木曽路ならでは風景を描いたのだろう。
医王寺を出ると三叉路に出るので左に進む。 ここには「←JR中津川駅 落合の石畳→」
の道標がある。 突当りの三叉路を左に進み、ひたすら下る。
正面の眼下に落合の町並が見えてくる。
途中の三叉路は左に進む。 ここには「↑落合の石畳(二百米先右折)0.7km
JR中津川駅(二百米先右折)4.4km→」の道標がある。
下り切ると落合川に架かる落合橋を渡る。 落合橋は今は下桁橋と呼ばれる。
落合橋は落合大橋ともいわれていたようだが、橋は大橋という
ほど大きくなかった。 当時はもっと下流に架かっていたと言うから川幅は大きかった
のだろう。
* 説明板 歴史の道 中山道「中山道の付替と落合大橋」
「 落合川にかかる下桁橋は、江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、
少し下流にあったといわれています。 この橋が洪水により度々流失していたこと、
またこの橋から医王寺までのも登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を
変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりま
した。 しかしこの道も悪路で、今までより約1.8Kmも遠回りになったことから、
明和八年(1771)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。 この時につづら折れの
道を廃し、現在の北側に大きく曲がって穏やかに登る道に付替られました。 」
橋を渡り、上り坂を進むと左側から車道が合流する。 石製の追分道標「右飯田道 左善光寺 御岳道」、飯田道道標 「右神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ」がある。 道標は飯田に通じる伊奈街道の追分である ことを示すものである。
* 「 伊奈街道は東山道時代の幹線道路だったが、 急嶮な神坂峠(みさかとうげ)を越えるのが難儀なため、木曾路が開設されたという 経緯がある。 この上道の一部が開削された神坂湯舟沢旧道である。 」
道脇に道祖神、享保十五年(1730)建立の馬頭観音像等がある。
上り坂内の集落を抜けると県道7号に突き当たり、木曽路口バス停がある。
ここには現在、湯舟沢〜中津川の車道が横切っているが、江戸時代は落合宿の入口だった
ところで、当時はこの場所に高札場があり、高札場跡の石柱が立っている。
美濃路最初の宿場、落合宿に到着です!!
安藤広重の木曽海道六拾九次には手前に木曽川、バックに恵那山、谷あいの
道を大名行列が下る姿が描かれている。
落合宿は江戸日本橋から四十四番目の宿場町で、これから木曽路を旅する人は恵那山を
正面に見ながら、これからの厳しい旅路を覚悟する宿場だった。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると町の長さは三町三十五間(約400m)しかなく、
家数75軒、宿内人口370人(男182人女188人)、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒で
あった。 宿並は東から横町、上町、中町、下町で構成され、宿並みの中央には
幅二尺の用水が流れていたが、明治天皇通行に際し片側に寄せられた。
県道を横断して車道をいくと、落合バス停がある。 ここが落合宿の江戸方(東)の
枡形跡で、バス停から左にくるりと回っていくと右側に寛政四年建立の秋葉山常夜燈
と汲み上げポンプがある。
* 「 落合宿は美濃路の東端にあたり、難所十曲峠を控え大いに
賑わいました。 三と六の日に六斎市が開かれ、火縄が名物で、水中でも消えないと
評判でした。 落合宿は文化元年(1804)と同十二年(1815)に大火に見舞われて
いる。
宿場には東と西の入口に枡形が配置されることが多かったが、ここでもその跡が残って
いる。 常夜灯は寛政四年に四つつくられたというが、明治十三年(1880)の道路整備
の際、善昌寺に一基、愛宕社に二基が移設され、この道筋に残るのはこの一つだけで
ある。 」
落合宿は本陣と脇本陣が向かい合わせに置かれるレイアウトになっていた。
左側の民家前に「落合宿脇本陣跡」の白い石柱が立っている。
* 「 落合宿脇本陣は塚田家が勤め、問屋そして尾張徳川家給人 山村氏(木曽方)の庄屋も 兼ねました。 敷地内には飢饉に備え、穀物を備蓄した郷倉がありました。 」
右側に立派な門構えの広い敷地の屋敷がある。 ここは井口家である。
家の前に「落合宿本陣跡」の石柱と「明治天皇落合小休所」の石碑
が立っている。
* 「
本陣を勤めた井口家は問屋も兼務し、尾張徳川家給人の千村家(久々方)の庄屋を兼ねて
いた。 表門は文化十二年(1815の大火後に)加賀前田家から火事見舞いとして贈られた
格式高い門であり、中津川市の重要文化財に
指定されている。 今も住みながら保存されている家屋は中山道でも現存する数少ない
本陣建物の一つで、上段の間、小姓部屋などには大名にふさわしい造作になっている
という。 幕末皇女和宮は上段の間で休息されました。 また、家の前には
「明治天皇落合御小休所」と彫られた石碑が建っている。
明治十三年(1880)巡幸に際に休息所となりました。 また、幕末、妻籠、馬籠、
落合の三宿に分宿した水戸天狗勢はこの落合宿に集結し、隊列を整え中津川宿へ
向かいました。 」
本陣の斜め前の公園に大きな釜が屋根付きで展示されている。
* 説明板「落合宿助け合い大釜」
「 文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には四日間で延べ約二万六千余が落合宿を
通りました。 当時、暖かいもてなしをするため、各家の竈は引きをきらず焚きつづけ
られたといわれてきました。 ここに展示してある大釜は寒天の原料(天草)を煮る
ときに使用されたもので、容量は1000Lを超えます(口径1.5m)
現在は中山道落合まつりで振る舞われるキノコ汁を作るのに使用されています。
その先に大きな松がある善昌寺がある。 道路に覆いかぶさっているのは樹齢四百
五十年と推定される義昌寺の門冠の松である。
* 「 義昌寺は慶長五年(1600)の創建といわれる曹洞宗の古い寺院で、
関市にあるお寺の末寺である。
松は寺の創建当時からあり、山門に植えられた松が山門を覆うようになったので、
その名が付いた。 明治二十四年の道路改修工事で、寺は東側に移されたが、松は
そのまま残されたので、その下を今は車が行き来しているのだという。 」
中山道は寺の前で左折する。 曲がったところの
民家の前に大正十一年(1922)建立の「右至中仙道中津町一里」と彫られた大きな石柱
道標と歴史の道の道標「←中山道→」がある。 向いの公園には落合宿標柱「東 馬籠宿
西 中津川宿」と「落合村役場跡」の石柱がある。
ここは京方の入口の枡形の跡である。
中山道は石柱道標のところで鈎型に曲がっていたのだが、道路改修で道を直線に変えた
ので、車が下を通るようになってしまったという訳である。
ここで落合宿は終わる。
落合宿を出ると急な登り坂になった。 上り詰めると、国道19号が眼下にある。
ここを右折しておがらん橋(高架橋)で国道を越えた。
渡詰め右側の石段上におがらん四社「愛宕神社、山之神神社、天神社、
落合五郎兼行神社」がある。 愛宕神社には落合五郎の霊が祀られている。
* 説明板 「落合五郎兼行」
「 平安時代の終わり頃、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が美濃口の押さえと
して、落合に館を構えていたといわれている。 落合五郎兼行は平安物語巻七寿永
二年(1185)五月の火打ち合戦の頃に名を連ねているが、出自は中原兼遠の末子である説
や中原氏の一族説等あり、生没不詳で定かでなく、木曽義仲に仕えていたことは
事実と思われる。 (中略) 諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光、今井兼平、
落合五郎兼行と義仲の妻となる巴の三男一女があり、平家物語の中で義仲の有力な
武将として取り上げられている。
館跡とされている所は「オガラン」と呼ばれ、伽藍(大きな寺院)という言葉からきたと、
推定され、近くには「小姓洞」という地名も残っている。 実際に家兼行が当地の落合に
居住していたという説に関して不明な点が多いが、江戸期に書かれた「木曽名所図会」
には「落合五郎霊社」と案内され、 新撰美濃誌には 「落合氏宗氏跡は駅の西の路傍
にあり、老杉三、四株生え茂りうらに愛宕神社あり」と書かれている。 また、美濃国
御坂越記には「落合五郎兼行住居の跡地といえども、兼平か弟の兼行にてはあるべか
らざる」と考察している。 兼行の館跡は後世に文献や地名から推定されたもので、
平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかった。 現在ここには
愛宕神社と寛延年間に建立された石灯篭や兼行の顕彰碑などがあり、毎年八月には
例祭が行われている。
平成六年十二月吉日 中津川市おがらん四社 愛宕神社 山之神神社
天神社 落合五郎兼行神社 」
境内には愛宕神社の社(やしろ)があり、寛延年間に建立された石灯籠と大正五年
建立の「落合五郎兼行の城跡」の大きな石柱が建っていて、奥に幾つかの祠があった。
ここから少しわかりずらい道になる。 がらん四社前から左に国道沿いに降りていき、
突き当りのL字路を右折する。 ここには歴史の道道標「↑中山道→」がある。
左右にうねる下落合川を横手橋で渡る。 横手橋の親柱には「東 木曽、東京
方面 西 美濃、京都方面」と刻まれ、道標を兼ねている。
横手橋を渡り、 再び左右にうねる上り坂を登ると与板バス停がある国道にでる。
三叉路で左折し、国道19号のトンネルをくぐって国道の反対側にでて、与坂バス停
で右側の坂をのぼる。 ここには歴史の道道標「↑中山道→」
がある。 このあたりは現在の国道バイパスにより道は分断されてしまっているので、
分かりづらい。
道は登り坂で高低差は五十メートルもないのかもしれないが、傾斜がきついので
身体に堪える。
登るにつれて左側に落合の家並みがよく見えた。 左手には常に恵那山の姿が見えて
いる。
息を切らせながら峠に到着。 峠からは見晴らしもよく、木曽川と架かる橋、
そして落合川駅
方面が眼下に入るので、一服するにはかっこうの場所である。
与坂に延享二年(1745)白木改番所が設置されたが、天明二年(1782)上金(中津川)に
移されました。
電波塔を過ぎると下り坂になり、右側に二軒の家の先の立派な家の前に、「与板立場
茶屋跡」の石柱が立っている。
* 「 立場茶屋とは江戸時代、街道沿いに置かれた休息所のことで、
アップダウンのある道を歩く人にはありがたい施設だった。 茶屋は越前屋が営んで
いたが、三文餅が客の人気を集めたため、与坂の三文餅として落合名物の一つとなり、
越前屋の裏の井戸から黄金が湧き出ると言われ程、繁盛したという。 三文餅は
米の粉でできた餅に黒砂糖を煮詰めたものを塗ったものであるが、砂糖など庶民に
縁遠いこの時代では旅の思い出に残るものであった。 そして、
名産の与坂徳利が評判でした。 」
立場跡の向いに石造地蔵尊坐像二体を安置した地蔵祠があり、「弘法大師三十六番
札所」の標石がある。
ここからは林間の急な坂を下る。
まるでジェットコースターの様な急坂で、歩幅を狭め、かかと着地でゆっくり下る。
この急坂の途中に中北道標「←落合の石畳 2.6km JR中津川駅 2.5q→」がある。
下り終えると三五沢橋を渡る。 三五沢は落合と中津川の境で、開けたところには
民家がある。 交差点から槇坂の上り坂になる。 すぐ先の左側の小高いところに
「子野(この)の一里塚跡」の石柱がある。 わずかに痕跡を残している。
江戸より八十四里目である。
また、左側の民家の擁壁上に南無観世音菩薩碑、馬頭観音像等が祀られている。
見下ろすと、畑と民家が点在していた。
再度、槇坂を登りになる。 坂の頂上の左側には「振袖を両手で重し、初詣で」と
刻まれた句碑があった。
坂の下のうっそうと茂ったところに覚明神社(御嶽神社)があり、入って行くと石碑が
数多く建っていた。 覚明行者は御嶽信仰を広めた人で、鳥居峠に覚明の碑がたっている
が、こんなに多くはなかった。
* 「 天明五年(1785)御嶽山の開山を目指した覚明行者がここに あった茶屋に宿泊しました。 御嶽神社にはその際に残した金剛杖、湯呑、数珠等を祀っています。 」
神社から先はジェットコースター並の急な下り坂になる。
坂からは中津川宿が遠望できる。
坂の左手には中北道標「←落合の石畳 3.1q JR中津川駅 2.0km→」が
あり、先の左側に休憩所の快心庵があり、トイレもある。
途中に神明神社があり、第六十二回神宮式年
遷宮祝御神木と書いたのぼりが立っていた。
* 「 神宮式年遷宮とは伊勢神宮が二十年ごとに建替えられることを
指し、神宮の要になる御神木は七年前に木曽の上松と岐阜県の二ヶ所で切られ、
数日かけて岐阜県と愛知県の神社を回り、神宮まで送り届けられる。
現在はトラックで運ばれるのであっという間であるが、昔は皆の手で引っ張られ
運ばれたのだから、それに参加する人の気持はすごかっただろう。 」
子野川にかかる子野橋を渡ると、ここからは上り坂になる。 先に進むと、葉を 茂らした枝垂れ桜が左に見えてきた。 桜の下は小野の地蔵堂跡である。
* 説明板 「小野の地蔵堂石仏群」
「 昔このあたりに地蔵堂があったといわれますが所在は明らかではありません。
中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで
枝が延びて趣があります。 ここは無縁の石仏を集めたところとも伝えられ、元禄七年
(1694)の庚申碑や地蔵、観音像等が数多く祀られています。 また、文政五年(1822)の
「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた高さ約2mの徳本行者の
名号石があり、生き仏といわれた彼が文政年間(十九世紀初め頃)にこの地に滞在して、
「称名念仏」を布教したことを偲ばせます。 」
眼下は国道脇にパチンコ屋や蕎麦屋などがあり賑わっているが、一歩入ったこの
あたりは閑静そのものである。
地蔵堂川を地蔵堂橋で渡り、一旦左に進み、一本目を右にヘアピン状に回り込み、
上り坂を進む。 登りきると国道19号に出た。 地下道をくぐり、反対側にでる。
ここには地下道の銘板や道に中山道の表示があるので、迷わないですむ。
* 説明板 歴史の道 中山道 「中山道上金かいわい」
と書いた市教育委員会の看板によると、
「 この付近は江戸時代には上金村と呼ばれ中津川村の支村であった。
「濃州順徇行記」の寛政七年(1795)には石高六十七石余りの小村で、
家数十八戸、人口八十五人、民家は街道左右に散在し、多くの山畠があったと記されて
いる。 国道十九号により約二十メートルが消滅しているが、道幅は三〜四間で
あったといわれている。 地下道を通って東に進むと子野の地蔵堂石仏群があり、
高さ二米余の徳本行者念仏碑の他、庚申、地蔵、観音等が数多く祀られている。 」
小さな集落であるが、中津川の中心部と
つながっているせいか、寒村という感じはなく、ベットタウンという印象を受けた。
この道、中山道には舗装になにか混ぜてある感じがするもので、それを辿っていくと
迷わないですむ。 しばらくの間、平坦な道をのんびり歩く。 左側の道端に文政六年
(1823)建立の秋葉大権現の常夜燈と廿三夜塔があった。 並びに上金メダカの池が
ある。
上り坂を進むと右側の民家の隣に「尾州白木改番所跡」と刻まれた石柱が建って
いる。 並びに平成十七年建立の中山道碑がある。
* 「 天明二年(1782)与坂から移設され、木曽から搬出される材木を
厳しく監視しました。 番所は明治四年(1871)に廃止されました。
白木改番所とはこの地を治めた尾張藩が木曽五木の取り締まり
のために置いた役所である。 白木とは桧などの皮をけづった木地のままの材木のこと
で、屋根板や天井板、桶板にするため、長さを一メートル半位に割ったものである。
村人達は木曽五木の植林〜伐採の仕事や桧細工で生活していたわけであるが、小さな
木切でも横流しされないように監視されていたのである。 」
中津川高校の横を過ぎると、左側にトイレの看板があったので、
なにげなく入った。
そこには「旭ヶ岡稲荷大明神」の幟の立った鳥居があった。
この一帯は旭ヶ丘公園になっていて、 その傍にはいろいろな形をした石碑がある。 標示石の説明板がある。
* 説明板「標示石」
「 この石は判読も覚束ないぐらい磨滅していますが、貴重なことを伝えており
ます。 はじめに「○石 相和房」「雪石 囲三」「涼石 藤朴」「木賊石 藤井氏」
「萩石 赤井氏」「揃石 大島氏」、右三ヶ口」、六歌仙塚とあり、六個の石それぞれ
の形容を詠んだおかしみのある句が刻まれ、いまは木賊石のみ不明のまま市立図書館
で保管しております。次に北野石室翁塚とあるのはすみれ塚を指し、「南石室歌仙塚」は
ここから扇薬師に移された碑のことであります。 これらの7つの石はもと台地に
あった2つの塚のほぼ中央に置かれ、天明3癸卯冬日、芭蕉の90回忌に設けたこと
をあらわし、それ以前にすみれ塚が存在していたことを標示しております。 」
奥に稲荷神社の社殿があり、境内には多くの石仏、石碑がある。
芭蕉の句碑を見付けた。
* 説明板「(7)芭蕉句碑(俗称月塚)」
「 三井寺の門 敲はや けふの月 (碑陰左側)指月亭糸甘(しかん)拝
松尾芭蕉の句 この句は元禄四年(1691)8月15日に近江の国、義仲寺の
無明庵にて 仲秋の明月を吟じた句であり、(碑を建てた指月亭)糸甘はもと
上金台地にあった茶屋「指月」にかかわる女性らしく、その亭内に建てられたもので
あろうと思われる。 これも大津を思い浮かべて建てられた、すみれ塚 三井寺観音
と一連のもので、馬風句碑を建てた 菅井馬良が園内の寂しさを補うために、
明治15年「指月」への登り道の現在地へに移建したものである。 」
また、「 菊折(おっ)て すててまた折る 山路かな 」(馬 風)という句碑もある。
* 説明板「(5)馬風句碑」
「 馬風は美濃以哉派中津川の四世宗匠の輩俳名で、旅籠田丸屋十代目の主人、
肥田九郎兵衛通光といい、中津川宿最後の庄屋を勤めた。 かたわら、俳諧をよくし、
門人も多く自らは平田門人になり、市岡殷政門殷矩らとともに水戸浪士横田元綱の首
埋葬および東山道軍の先導隊にも加わり、明治13年(1880)67歳で死去。 その3年
祭にあたる明治15年5月29日に馬風の三男、菅井守之助 馬良こと菅井かく等親族
門人一同によってこの句碑が建てられました。 なお、馬風は、藤村の小説「夜明け前」
に「中津川にこの人ありと知られた小野三郎兵衛」の名で登場しております。 」
その他にもいろいろな歌碑や経王書写塔、三井寺観音を模写した石仏、宝暦の 御神灯などが建っていた。 また、中津川市街が一望できた。
下に降りていくと小さな社(やしろ)があり、「 はだか武兵 」 と書かれたのぼりが たっていた。
* 「 はだか武兵は武兵衛とも呼ばれ、中仙道中津川宿の駕籠かき であったが、天保年間に木曽御嶽山で悪病退散の秘法を授かり、道中の大名家姫君の 病を治したことが評判になり、近郷の人々の悪病を追い払った。 死後、社が建てられ、 のち、現在地に移されたが、今でもおまいりするひとがたえないという。 」
小生は旭ヶ丘公園を横断して中津川方面に抜けてしまったが、中山道は左に公園がある
L字路を右に進む。
左側のガードレールの切れ目内に安永二年(1772)建立の芭蕉句碑(すみれ塚)があり、
「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」と刻まれている。
芭蕉の八十回忌記念に建碑されたものである。 芭蕉句碑の傍らには三面六臂馬頭
観音像、馬頭観音像、庚申塔がある。
芭蕉句碑前から茶屋坂の石畳道を下る車道に突当るので、 ヘアピン状に左に廻る。
すぐ先の中津川市旭ケ丘歩道橋でバス通りを横断すると右ヘアピン状に右折する。
先に進むとUターン矢印が記された中山道案内があるので、
左にUターン状に回り込み石段を下る。
中段の踊場をUターンし、石段を下ると下道に突き当たるので、
左折する。 この坂は茶屋坂で、京方面からですと、かなりの上りの急坂である。
公園に面する国道257号線を歩道橋で越え、更に石段を降りると、
中津川宿の入口にでた。
* 「 中山道は中津川から本格的な美濃路に入る。
地理的には落合宿が美濃路東端であるが、
昔から中津川が文化的にも経済的にも木曽路と美濃路の接点の役割を果たしてきた。
中津川は木曽の人々にとっては広い空の下にある賑やかな街、美濃の人々にとっては
木曽路の入口である。 」
左側に高札場がある。 ここが中津川宿の江戸方(東)口である。
高札場のは復元されたもので、長さ二間一尺(約4m)巾一間(約2m)に
八枚の高札が掲げられている。 高札は正徳元年(1711)公布の複製で、その文言は
中津川宿本陣の記録に残っていたものを今様に読み下し文にしたものである。
元の高札場の位置はここより四十メートル程坂を上った北側にあり、街道に面して
建てられていたようである。
高札場の並びに常夜燈、文化二年(1805)建立の庚申塔、天保六年(1835)建立の
二十三夜搭が並んでいる。
淀川町を進むと新町交差点に出る。 ここが中津川宿の起点で、右がJR中央本線
中津川駅である。 中津川の町並みに入ると、人口五万人を越える市の中心にしては
古い建物が残り、落着いた雰囲気がある。
中津川宿は北に苗木(なえぎ)城下、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地として栄え、
三と八の付く日に六斎市が立ち、東濃の中心地として大いに賑わった。
宿の長さは十町七間(約1.0km)で、町並は江戸方より淀川町、新町、本町、横町、
下町で構成され、宿場機能は本町に集中していた。
中津川宿は江戸から数えて四十五番目の宿場にあたり、天保十四年(1843)の中山道宿村
大概帳によると、家数は228軒、宿内人口は928人(男454人 女474人)本陣1、
脇本陣1、旅籠29軒でした。
寛政年間には家数175軒、人口1,230人となり、中山道でも大きな宿場町に発展した町
した。
* 「 山深い木曽路から美濃路に入ると、最初に見えてくるのが
広々としたこの盆地で、旅人にとってこの風景は谷間の中を
こせこせと歩いていたことから開放されたと感じるものがあったことだろう。
中津川は木曽川と市内を流れる中津川、四ツ目川などの多くの河川が
運び込んだ肥沃な土地で創り出した扇状地の上にできた町である。
今も、東濃地方では多治見に次ぐ都市で、今回の町村合併により、馬籠宿の山口村を含め、
近隣の町村を吸収合併し更に大きくなろうとしている。 」
大通りを渡ると新町で、欅並木の新町けやきモールというショッピング街を
形成している。 江戸時代には淀川と新町は商家を主とした町並みだったというが、
現在も商店が多くあり、特に新町はその観が強い。
新町に入った左側に栗きんとん本家のすやがある。 元禄年間(1688〜1703)創業の元
は酢屋でした、 今は栗きんとんの老舗である。
* 「 創業は元禄年間。江戸からきた赤井九蔵という武士が、この 宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いたのが始まりで、この酢屋が 百年後に菓子屋に変わったとのこと。 膝栗毛の弥次さん喜多さんが江戸への帰り道、 中山道六十九次を歩いたのと同じ頃、享和二年(1802)にここを通った蜀山人大田南畝 は「壬戌紀行(じんじゅうきこう)の中に「あんもち松屋と云るあり・・・二八うどん そばと云るもあり・・・十八屋と云る家三戸斗(ばかり)見えたり」 と書いている。 その「十八屋」のひとつが「すや」の前身である。 」
向いの愛知銀行前に「前田青邨画伯誕生之地」の碑がある
前田青邨(せいそん)は近代日本画壇の重鎮で、法隆寺壁画修復や高松塚古墳壁画の
模写等を手懸けました。
街道から左に少し入ったところの右側に桂小五郎隠れ家跡がある。
* 「 旧料亭「やけ山」である。 長州藩士・桂小五郎は文久二年 (1862) 六月、江戸から京に向かていた藩主毛利敬親に、公武合体ではなく、 尊皇攘夷を唱えるべきと説くために、ここで待ち受けていた。 この話し合いの後、 長州藩は朝廷方につくことになり、やがて討幕運動の中心勢力になっていく。 中津川会議と呼ばれる歴史的に残る出来事であるが、桂は地元の市岡と 平田門人間秀矩の厚意に より、料亭「やけ山」に隠れて到着を待っていたようである。 そういう意味で、 中津川は日本の維新前夜を演出した影の主役であった、といえよう。 」
街道に戻る。 連子格子の残る商家を見ながら西へ。 中津川郵便局の隣にある間家 大正の蔵はかって、東濃随一の豪商といわれた間家の倉庫で、中津川商人や 宿場に関する資料が展示されている。
* 「
東美濃随一といわれた豪商間杢右衛門(はざまもくえもん)の屋敷跡である。
間家は尾張徳川家御用商人を勤めました、赤穂浪士の間喜兵衛は遠祖にあたる。
間家大正蔵は間家の敷地内にあった倉庫の一つで、大正六年(1917)に建てられた
鉄筋コンクリート造りである。
従来の土蔵造りに明治以降の近代的工法が取り入れられたもので、建築学的に進歩の
過程を示す貴重な遺産で、間家から市に寄贈された。
前庭には大きな織部燈籠と間家の名入りの古い瓦が置かれている。 」
大正の蔵の斜め前(右手)には昔の宿場町の一部を再現した中津川宿往来庭が
造られ、休憩所になっている。
新町はここで終わり、宿場の中程で四ツ目橋を渡る。 歩道部分にはカラータイル
が貼られ、宿場の行燈状のものがある。
* 「 橋下を流れる四ツ目川はあばれ川で、度々流れを変えたと
いう川。 四ッ目川の名は氾濫の度に川筋が変わってこれが四つ目にあたることから
ついたという説がある。
説明板によると、「江戸時代は川の水面近くに板の橋がかかっているだけで、
東からきた旅人はこの橋を渡って、本町まで急な坂道をのぼった。 登り詰めると
街道の真ん中に用水が流れていた。 用水は野中の黒沢川から取水されたもので、
火災に備えたものなので、ものを流すことも洗うことも禁じられた。 」とある。
橋を渡ると宿機能が集中していた本町に入る。 ここから西(京方)に向かって、 旅籠、馬宿、茶屋、物を売る店の店が並んでいた。 左側の中津川市中山道歴史資料館 手前のNTTに「中津川宿脇本陣跡」の石柱があり、「脇本陣はここから右(西方) 約20mの所にありました」との張り紙がある。
* 「 脇本陣は森孫右エ門が勤め、建坪百二十八坪でした。
明治天皇の行在所として使われたが、NTT中津川営業所のビルが建ち、
当時を伝える「明治天皇中津川行在所碑は資料館の角にがあり、
左折して進むと資料館の裏に中津川宿脇本陣上段の間が復元されている。 」
NTT向かいの車庫の前に黒塀と瓦屋根を模した所に「中津川宿本陣跡」の石柱と
本陣の間取りが分かる説明板が立っている。
皇女和宮は九日目の夜を市岡本陣にて過しました。
* 説明板「中津川本陣」
「 本陣の入口には五間続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。
門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥が厩(馬屋)になっており、
表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場があった。 その奥が台所、貴人一行自らが
調理した所や御膳所があった。 その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋も
あった。 表庭の左手に中門があり、その左に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれて
いた。 玄関の奥には玄関の間、ついで三の間・次の間・中の間・上段の間へと続
いた。 上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳置かれて
いた。 上段の間には湯殿、上り場、雪隠などがついていた。裏も庭となり高塀で
囲われ、御退路の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。 」
建坪は二百八十三坪でしたが、本陣の建物はすでになく、駐車場になっていた。
* 「 本陣は寛永十二年の参勤交代の制により設けられたものだが、
宿場のなかで比較的高い場所に建てられた。 中津川宿本陣は代々市岡長右衛門が勤め、
問屋を兼ねていた。 幕末には平田門下の市岡長右エ門が主人であった(夜明け前では
淺田景蔵という名で出てくる)
落合宿で隊列を整えた水戸天狗勢は中津川宿に入り昼食を摂った。
総大将武田耕雲斎、田丸稲之衛門、山国兵部、藤田小四郎の四人は市岡長右衛門本陣
に入った。
本陣当主の市岡は平田篤胤門下の国学者であり、同じ志を持つ同士として一同を篤く
もてなした。 隊士達には昼食の他に名物五平餅が振舞われた。
田丸はこれに感謝し、甲冑の小袖を市岡に与えました。
そして和田峠樋橋の戦いで戦死した隊士の首級を市岡に託しました。
市岡は大泉寺の市岡家の墓所に首級を埋葬しました。 」
脇本陣の並びに中津川村庄屋・旧肥田家の建物が堂々とした姿で 建っている。
* 「 肥田家は代々九郎兵衛を名乗り、屋号は田丸屋と称し、
江戸後期からは旅籠を営みました。 享保三年(1718)から明治五年(1873)まで
中津川村の庄屋を勤めた。 肥田家は夜明け前では「小野三郎兵衛」の名で登場する
平田門人で、岩倉具視とも交流があった。 日本近代登山の父といわれるウォルター
・ウェストン が宿泊してここから恵那山登山に出発したという逸話もある。
建物は火事の類焼を防ぐための防火壁、隣家との境に高い壁を設け、その上端に
小屋根を置いた卯建(うだつ)をあげた風格のある建物で、一時期脇本陣を勤めた
ところからやや数奇屋がかかっている上段の間があり、そこからの庭の
眺望も素晴らしい。
明治中頃、曽我家が入居し、医院として用いて近代医療に貢献された。
現在は、曽我家の専用住宅となっている。 」
その先の左手に本町と中町の境に嘉永元年(1848)建立の常夜燈がある。
中町に入ると右手の駐車場に「大泉寺跡」の標識がある。
* 「 坂を下った小路に大泉寺がありました。 下町にあった瑞應寺を、天正四年(1576)中津川の有力地侍であった 市岡長右衛門(本陣の祖)が本町(旧泉町)に移し、寺号を大泉寺と改名しました。 文久二年(1862)四月二十九日の落雷により寺は全焼し、明治六年(1873)に北野大西に 移されました。 」
中津川宿には、旅籠が本町を中心に二十九軒あったとされ、旅籠は全て宿役人が
営んでいたというが、今は一軒も残っていない。
江戸時代の宿場町には警備上などの目的で、街の中心部をまっすぐ見通せないように
作った 枡形が置かれたが、中津川宿でもこの先に西枡形があった。
枡形の右側に表具松霞堂(可児家)がある。 往時は米屋でした。
* 「 当家は元々苗木藩士であった家系で、裏庭に樹齢百五十年以上 の松の木があり、この松の木に霞がかかったさまから、松霞堂と呼ばれました。 屋根裏には隠し部屋が残っており、博奕部屋であったという。 」
枡形を左に曲がると横町に入る。
横町は火災から免れた為に、往時の面影を色濃く残している。
右側に川上屋がある。 元治元年(1864)創業の栗菓子の老舗で、店先に「右、木曽路
左、なごや」とある石の道標が立っている。
道が左、右に曲がる枡形には十八屋、白木屋といった江戸中期から後期の建物が残り、
宿場情緒は豊かである。
右側に十八屋(間家)がある。 江戸中期の建物で、上がり框(かまち)や天井の
梁は当時のままという。
* 「 十八屋(間家)は中津川の豪商であった間杢右衛門家の一族、 宿役人で、旅籠を営んでいた。 「元治元年(1864)十一月、水戸天狗党が中津川を 通過の際、平田篤胤門人だったこの家の当主、間武右衛門が和田峠の樋橋戦いで負傷した 若い隊士を預かり、隠し部屋で介護するも、後に没しました、 当家にはこの若者の遺品を今に残しています。 皇女和宮の通行の際には、宮廷方の供の者がここに宿泊しました。 」
十八屋の隣の白木屋跡は天保十三年(1842)に遠山家が建てた卯建をあげた 家屋である。
* 「
当家の先祖宮大工横井弥左衛門が天保十三年(1842)に建てたもので、百五十年以上を
経過している。 明治末期に遠山氏はここを離れ、その後、大正時代に白木屋がここで
足袋の製造をはじめた。 四畳ほどの中二階が今も残されている。
ここへ梯子を懸け、中二階に登ると梯子を取り外し、収納すると外からは部屋のある
ことが全く分からない仕組みになっている、俗にいう、隠し部屋の構造である。 」
道の反対側には天満屋、旧中川家の建物がある。
* 「 天満屋(古井家)は格子や軒先の低さなど、昔の家並みを思い起 こさせるつくりで、築後百五十年以上は経っていて、二階部分がないので、どの部屋 にも明かり取りの天窓がついている。 」
* 「 旧中川家(杉本屋)は中津川村や子野村の庄屋だった中川萬兵衛 の屋敷の一部である。 中川家の屋敷はここより南東側一帯にあり、広壮な屋敷だった ようだが、道路などにとられて、一部になってしまったという。 建物は映画「青い山脈」のロケが行われた場所でもある。 二軒続きの長屋になっており、明治期には原家が呉服屋を営み、大正時代には薪炭・ 荒物商をおこない、現在は左半分が太田薬局、右半分が吉本屋の店舗になって いる。 」
突き当り枡形で、右に曲がると下町になる。
角には、慶應元年(1865)に建てられた「式内恵那山上道」の道標がある。
上道とは恵那神社に向かう道を川上道(かおれ道) といったことから。
左側に卯建をあげ、酒林を吊り下げたはざま酒造がある。
慶長六年(1601)創業の「恵那山」という銘柄の酒を造る老舗蔵元である。
堂々とした格子造りの建物には卯建が四つも上がっていた。 また、軒下には
酒屋の印である杉玉を吊るしていて、店舗の右端には土蔵もあった。
その先も下町が続いているが、中津川橋で中津川宿は終わる。
(所要時間)
馬籠宿→(1時間)→是より北木曽路の碑→(40分)→十曲峠→(20分)→落合宿→
(1時間30分)→中津川宿
落合宿 岐阜県中津川市落合 JR中央本線中津川駅からバス15分落合下車。
中津川宿 岐阜県中津川市本町 JR中央本線中津川駅下車。