『 中山道を歩く  (16) - 本山宿・贄川宿・奈良井宿  』





(32)本山宿

洗馬宿を出ると中山道は直進するが左折してJR中央本線尾崎踏切を越した先に言成地蔵 を安置する地蔵堂がある。 「言成地蔵」は言(こと)を願えば必ずかなう地蔵だといわれる 霊験あらたかな地蔵と伝えられている。 
地蔵堂の奥に洗馬神明宮がある。 獅子頭が舞う神明宮大祭の大神楽は塩尻市の無形文化財で ある。 
街道に戻り、JRの線路を仲仙道架道橋でくぐり、尾沢川を渡り、滝神社前に出る。  左手に鳥居があり、社殿は国道19号を越えた先にあり、社殿の脇に社名の由来になった滝が ある。 
中山道(県道302号)は牧野集落へ上りとなり、旧牧野公民館の裏の斜面に「牧野一里塚跡」の 朽ちかけた標柱が立っている。 牧野一里塚は江戸より六十里目である。 
しばらく歩くと左側に「木曽の酒七笑」の看板があり、そこを過ぎると車道は右に大きく 大回りしているが、歩行者は牧野交叉点まで、まっすぐの細道を行ける。  国道に合流する手前の交叉点には「本山宿まで1.2q」の標識があった。 
中山道は国道19号に合流するので、国道を急ぎ足で歩く。 五百メートル程歩く右手に 溜池が見えてくつので、右の旧道に入る。 この道はアルプス展望しののめ道で、 静かな道に入って落着いて前方を見れば、山々が塞ぎ、この先、道が続くのかと 疑わしくなってくるほどである。 
道の左側に秋葉神社が祀られていて、その横に道祖神を始め多くの石塔が並んでいる。  集落の入口にあたるため置かれた道祖神碑や旅のために供された馬や旅人の道中安全を 祈願した馬頭観音像などで、秋葉山常夜燈碑、 寛政二年の道祖神、馬頭観音像(馬持中2体)、大きな文政二年の徳本上人の名号碑、 地蔵尊2体、文化二年の名号碑、二十三夜塔、供養塔、庚申塔などである。  もともとは本山宿の江戸口下木戸にあったが、道路工事などにより 現在地に移された。 

和歌山城全図
秋葉神社と石塔群


街道沿いにはそば畑がある。 五百メートル程進むと右側に「塩尻市天然記念物池生神社 社叢入口」の標識と「そば切り発祥の里」の看板がある。 ここが本山宿の下木戸跡で、 本山宿へ到着である。 
本山宿は江戸時代初期に定められた中仙道時代には存在しなかったが、新道の開通以後は 木曽路の玄関口として賑わい、松本藩の木曽口の固めとして口留番所が置かれた。 
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、 本山宿は五町二十間(約581m)の町並みに家数117軒、宿内人口592人(男297人、女295人)、  本陣1、脇本陣1、問屋場が2、そして旅籠が34軒であった。 
昼時だったので、日本そばの発祥とされる地元のおばあちゃん達が運営する蕎麦処で ざる蕎麦を食べた。  
太田南畝は壬戌紀行で「本山のそば 名物と誰も知る 荷物をここに おろし大根」と 詠んでいる。 宝永三年(1706)芭蕉の十哲の一人、森川許六が「そば切りのいっぱ もと 信濃の国本山宿より出て あまねく国々にもてはやされける」と紹介し、本山はそば切り 発祥の地として全国に知られるようになった。 そば切りは今でいう蕎麦で、それまでは そば粉を湯で混ぜて柔らかくして食べるそばがきしかなかった。 
本山宿には二つの沢より懸樋などで引き込み、宿の中央に用水を通し、五ヶ所と土橋を 架けていた。 街道を進むと左の小路脇に「下社参道跡」の案内がある。  「下社(諏訪社)は昭和26年(1951)に上社(八幡社)に合祀され、本山神社となった。」 とある。 
現在の本山は宿場時代の賑わいは嘘のような静かな町である。  平日であれば、人の姿を見つけるのがむずかしいほどである。  地域バスが来るのを待つ老婆二人が、椅子に座り、のんびりとした口調で話し込んでいるのが その象徴に思えた。 
本山宿は宿場町でも昔の雰囲気がわりと残っているほうである。 
明治二年(1867)の大火で被害に遭い焼失したというので、古い建物でもその後に建てられた ものだが、けっこう特徴があり、見ていてもあきない。 
不思議なもので、古い建物は右側にある。 旧旅籠川口屋、池田屋、若松屋は街道の斜交 (はすかい)に建っていて、三軒とも明治の大火直後の再建で、間口五間(約9m)から七間 (約12.6m)の上級旅館で、出梁造りの立派なものである。 国の登録有形文化財に指定 された。 
川口屋の二重出梁は贄川宿の深澤家住宅以外にはないものである。 
各戸とも川口屋、池田屋、えび屋、花村屋など屋号を記した看板を出していたが、これは、 平成五年に宿場として栄えた頃の面影を残そうと地元の人達で行った活動と聴いた。 

本山宿の下木戸跡
     本山宿のたたずまい      川口屋
本山宿の下木戸跡
本山宿のたたずまい
川口屋


川口屋の向かいが下問屋跡である。 小林本陣が下問屋を兼ねていた。  その奥のすずめおどりを付けた本棟造りの家が本陣跡で、その前に「明治天皇行在所跡」の 石碑が建っている。 本陣は代々小林右衛門が勤め、皇女和宮は将軍家茂のところに降嫁した 文久元年(1861)十一月四日、本山宿の本陣で一夜を過ごされている。  
街道をすすむと左手の本山公民館の敷地に「中山道」の石柱と「本山宿」の石碑がある。  ここが脇本陣跡である。 当初、小野左衛門が勤めたが、後に花村家が引き継かれ、 上問屋も兼務した。 
先にすすむと本山上町のバス停の向かいあたりに口留番所があり、ここが本山宿の上木戸 (京側入口)であった。 本山は松本藩領で、南に尾張藩領が接していたため、口留番所が 置かれて厳重な取り締まりが行われていた。  今はそれを示す標柱だけである。 

俵屋
     行在所跡碑      川口屋
俵屋
本山宿本陣行在所跡碑
脇本陣跡





(33)贄川宿(にえがわしゅく)

本山宿のはずれ、国道19号に合流する手前左側を上がり、国道19号に架かる跨道橋を渡った 山腹に本山神社がある。 国道の線路側を二百五十メートル程行くと、右に下りる道があり、 第2中山道踏切を渡る。 その先の高架で線路を渡る道と合流した地点の左側に「本山一里塚 跡」の木柱が建っていて、「江戸より六十一里m京へ七十一里、両側に榎を植えた」と 記されている。 
日出塩は江戸時代に立場茶屋が置かれたところで、立場名物は熊の皮と熊胆(くまのい)だった 。 江戸時代の 道中案内に「 道脇では獣を売る店が多かった 」 と書かれていたところだが、今や塩尻市の 一角に組み込まれてしまい、当時の面影を偲ぶものは残されていない。 
左側に曹洞宗秀永山長泉寺がある。 山門前に庚申塔、二十三夜供養塔、六地蔵等が並んで いる。 山門や本堂には武田葵紋があしらわれている。 
左手奥にJR中央本線の日出塩駅がある。 右側の奥まった ところに駅があるが、無人駅でのぞいてみても誰もいなかった。 

本山一里塚
     長泉寺      日出塩駅
本山一里塚
長泉寺
日出塩駅


駅前を過ぎると左側に筆塚、道祖神、秋葉大権現碑が祀られている。 
日出塩集落を過ぎると、ほどなく国道19号を高架でくぐると にでるが、対面に細い旧中山道があるので、入ると左側に「御岳神社(熊野神社上方 二百メートル)の標柱がある。 熊野神社は左のJRのガードをくぐった右側の上にあり、 日出塩村の鎮守である。 
街道はその先で国道に合流してしまう。 合流点には中北道標「←1.1km南木曽碑/JR贄川 駅4.6km/JR日出塩駅0.6km 本山宿2.0km→」がある。 この先は左に中央西線の線路が平行して続き、 右手には奈良井川が蛇行して流れている。 
しばらく行くと、左側のホテルアルファの横に上り坂がある。 県道254号楢川岡谷線との 三叉路で、254号線は牛首峠に至る道で、狭いが辰野町小野に通じる。 これが中山道が 開設された当時の中山道の京方(西)口である。 

 * 「 中山道が開設された当初は岡谷から小野峠を越し、小野宿に出て、 牛首峠からここに通じていた。 塩尻峠越えより距離が短いためであったが、 大久保長安の死によりわずか十五年で、塩尻峠経由に変更された。 」  

直進すると、奈良井川に注ぐ桜沢川(旧境川)があり、桜沢橋を渡るといよいよ木曽路に入る。 
桜沢橋は往時は境橋と呼ばれ、尾張藩と松本藩との境で、高欄干付刎ね橋でした。  架橋費用は両藩で折半した。 
橋を渡った右側に東屋と案内板と「是より南 木曽路」の石碑がある。 

 *  「 この地は木曽路の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境で あった。 石碑は昭和十五年(1940)に百沢立場の茶屋本陣を勤めた家の藤屋百瀬栄が建立した もので、裏面に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余 里ナリ」 と刻まれている。 
中山道で木曽路と呼ばれるのは桜沢から馬籠と落合の間にある出会茶屋までの八十八キロ で、この間に十一の宿場があり、これを木曽十一宿と呼んだ。 

いよいよ「すべて山の中」の木曽路である。 
石碑の向かいの草道が桜沢旧道の上り口で、ヘアピンのように右にカーブする。 眼下には 奈良井川の渓谷がみえる崖道である。 この山道は桜沢村民が開削して通行料を徴収していた といわれる。 

道祖神、秋葉大権現碑
     是より南木曽碑      馬頭観音堂と石碑群
筆塚、道祖神、秋葉大権現碑
是より南木曽碑
奈良井川


左斜面に厄除馬頭観音塔と馬頭観音像が祀られているが、旅人の安全を見守ると共に 活躍した馬や谷底に転落して亡くなった馬の慰霊塔でもあったのだろう。 
この先の道には落下防止ネットが施されている。 左側に馬頭観音堂があり、 その脇に道祖神、明和九年(1772)の南無阿弥陀仏名号碑が祀られている。 
観音堂の中には三面六臂の馬頭観世音像が祀られている。 
木曽路碑から十数分歩き国道に出ると桜沢集落で、道路右側に数軒の家がある。  ここは江戸時代に本山宿と贄川宿の合(あい)の宿として、また、木曽路の入口として 栄えたところで、道路下の崖下にも数軒の家がある。 
右側に桜沢立場茶屋本陣跡がある。 茶屋本陣は代々藤屋百瀬栄左衛門が勤めた。 建物前 には「明治天皇桜澤御膳水」の碑が立っている。 

道祖神、秋葉大権現碑
     馬頭観音堂と道祖神、名号碑      桜沢茶屋本陣跡
馬頭観音堂と道祖神、名号碑
是より南木曽碑
桜沢茶屋本陣跡


蔵の前には「明治天皇桜澤御小休所」と「明治天皇御駐輩跡」が立っている。 
現在は普通の民家として生活しているようであるが、上段の間と次の間は残している ようである。 
桜沢の集落を過ぎると、木曽谷の谷間が狭くなり、美しい景色である。
国道には歩道が設置されているが川側にあり、場所によっては川に飛び出して設置され ている。  川は数十米も下に流れているので、この高さから川に落ちたらと思うと、 恐怖感がでてきて、歩いていても落ち着かない。 
やがて、奈良井川の片平橋を渡る。 その下には、ダムがあり、眺めがすばらし かった。 
左側の古い橋が中山道の旧道であるが今は通行不可になっている。 昭和十年(1935)建築 の開眼アーチ橋は土木学会推薦土木遺産である。 
片平橋を渡ると右側の草原奥に庚申塔がひっそりたたづんている。 その先を斜め右に 入って行くと片平集落があるが、この分岐には中北道標「←片平地区を経てJR贄川駅2.2q  是より南木曽碑1.3q JR日出塩駅3.0km→」がある。 
江戸時代立場であった旧片平村の家屋には旧屋号が掲げられている。 集落のはずれに 曹洞宗飛梅山鶯着寺がある。 立派な門柱があるが、お堂は民家風で、境内に延命地蔵尊を 祀る祠がある。 日出塩の長泉寺の末寺で、現在は住職はおらず。片平集落の集会所として 使われているようである。 山号は参勤交代でここを通行した加賀前田侯が命名したと 伝えられる。 前田家の家紋は梅鉢である。 
国道19号に合流すると 合流地点に中北道標の「←JR贄川駅 是より南木曽碑1.4km→」がある。 
道は左にカーブし、その先の右側のよう壁の上に若神子一里塚がある。  江戸から六十二里目で、西塚が残っている。 

 * 「 若神子一里塚は楢沢地区の五箇所の一里塚の一つで、江戸時代には 二基の一里塚に榎木が植えられていたが、明治四十三年の鉄道敷設の際、一基は取り壊され、 現存する一基も国道の拡張時に切り崩され、現在は直径約5m、高さ1mを残すのみである。  石段を上らないと見られないということはかっての中山道はこの高さにあったということ である。 」 

その先で右に入ると十軒足らずの若神子集落がある。  ここに中北道標「←JR贄川駅1.7km 国道経由南木曽碑1.8km→」がある。 
若神子バス停とその先の諏訪社の手前に屋根付きの水場があり、地元の人々に利用されて いる。  
若神子集落のはずれに明和二年(1765)の二十三夜待供養塔、天文三年(1534)建立の 道祖神、青面金剛庚申塔等が祀られている。 

桜澤御小休所碑
     片平付近の歩道      若神子の二十三夜待供養塔等
桜澤御小休所碑
片平付近の歩道
若神子の二十三夜待供養塔等


若神子集落を出ると中畑バス停の先の三叉路で右に入る。 ここには中北道標「←JR贄川駅 1.3km 桜沢1.8km是より南木曽碑2.2km→」がある。 
上り坂を上るとY字路で左の細道に入ると左下には国道とJRが並んで続いている。  左にカーブすると右側に直線の草道がある。  分岐点に中北道標の「←JR贄川駅1・0km 桜沢2.1q→」がある。 
この道に入ると右側に石仏、石塔群がある。 この先は国道に接近するが、国道脇の 草道を行く。 下遠集落を出ると明るく開けた草道のY字路になる。 左に入ると舗装道路に 変る。 この分岐には中北道標の「←JR贄川駅0.6km 桜沢2.5q→」がある。 
坂を下ると国道に合流し、右側の水場、左側の贄川駅を過ぎると左側に「贄川宿」の大きな 看板がある。 贄川歩道橋の下をくぐると正面に大きな 「←贄川宿入口」の標識が現れるので左折して、関所橋(メロデイ橋)を渡る。  この橋の欄干に鉄琴がぶら下げられていて木曽節のメロデイを奏でる。 橋を渡った先 の左側に復元された贄川関所があり、木曽考古館が併設されている。 

 *  説明板「贄川関所」  
「 源義仲七代の孫讃岐守家持が建武二年(1334)頃贄川関所を設け、四男家光に守らしむ。 贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役割を果たす。 慶長十九年(1614) 大坂冬の陣の際は山村良安の家臣、原産左衛門、荻原九太夫、此の関の警固に当る。 元和元年(1615)五月大坂夏の陣の際は荻原九太夫、千村炊左衛門、小林源兵衛、此の関を 守り、酒井左衛門の家臣八人の逃亡者を捕まえる。  江戸時代は木曽代官山村氏の臣下をして贄川関所を守らしめ、特に婦女の通行並びに 白木の搬出を厳検せり。」 

 *  説明板「贄川関所考古館」  
「 贄川関所は明治二年に福島関所とともに閉止され、原型は残っていないが、明治九年 贄川村誌「古関図」や寛文年間の「関所番所配置図」により現在の位置に復元したもので あります。 また、木曽考古館は村内簗場古墳等で出土した土器、石器類を展示して あります。 」 

水場
     贄川駅      贄川関所
水場
贄川駅
贄川関所


太田南畝の壬戌紀行には 「駅をはなれて小高き所に番所あり。  尾張より番をすゑて曲物の器を改むるという。」と記されている。  

 *  「 江戸時代の贄川関所は尾張藩領の最北をおさえていた口留番所で、 福島関所の副関所の役割を担っていた。 女人改めや他領に出ていく木曽の木材、 木製品(白木)などの監視をしていた。 
今見ることが出来るのは復元された番所の建物に過ぎないが、野太い柱、低い石置き屋根は かっての番所の厳しさを充分実感させてくれる。 」 

関所跡の道を南進すると、右側に水場がある。 
贄川(にえかわ)宿は木曽路に入って最初の宿場である。 中山道の中では小さな宿であったが、 宿場の北端に福島関の副関にあたる贄川関所が置かれ、檜物、曲物、漆器を生産する平沢や 奈良井が近かったこともあり、商業も活発であった。 
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿の長さは四町六間(約500m)の小さな宿場 だが、家数124軒、宿内人口545人(男304人、女241人)、本陣1、脇本陣1、問屋場2、 旅籠が25軒あった。 

 *  「 贄川はその昔、温泉があったことからその名がついたといわ れる。 「木曽路名所図会」に「いにしえここに温泉あり、かかるがゆえに熱川と名づく」と ある。 この宿場は宿場稼業の仕事の他、交通の要衝という地理的条件を生かして、 遠隔地商業を行っていたという。 」  

洗馬郵便局の向かいが贄川宿本陣跡である。 本陣は木曽家の子孫、千村家が勤め、 問屋と庄屋を兼務していたという。 

 *  「 現在の贄川には道の左側に本陣跡、脇本陣跡の標柱が建っているが、 枡形や鍵の手などの形跡も見あたらず、かっての中山道をしのばせる建物は残っていない。  昭和六年の火災で宿場の大部分の建物が焼失したからである。 」

すぐの右に「秋葉神社 津島神社」の鳥居がある小さな祠があり、 左側には「朝衣廼神社」の石柱が建っている。 

贄川関所
     贄川宿本陣跡      秋葉神社津島神社
贄川関所
贄川宿本陣跡
秋葉神社津島神社


脇道を入って行くとJRの踏切と国道を渡った先に山門が見えるのが観音寺である。 

 *  「 観音寺は高野山金剛峰寺を本山として大同元年(806)に 創建された真言宗の寺院で、本尊は室町時代造りの十一面観音である。 山門は寛政四年(1792)に再建された楼門である。  楼門の彫刻はなかなか立派なものだった。 」 

本堂を通り抜け、寺の墓地を通り抜けた小高いところに麻衣廼(あさぎぬの)神社がある。  なお、麻衣廼は木曽の枕詞になっている。 

 *  「 麻衣廼神社は天慶年間(938〜947)の創立だが、 天正十年(1582)の武田信玄と木曽義昌による兵火により焼失したが、 文禄年間(1592〜1596)に現在地に再建されたと伝えられる古社である。  神明造りの社殿と拝殿からなり、四本の御柱が境内に立てられている。  社殿(本殿)は延享四年(1747)の再建で、三間社流造りこけらぶきで、 拝殿は慶応元年(1865)の建立である。 
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で、  諏訪大社同様、六年に一度(寅年と申年に)御柱祭が行われる。 」  

秋葉神社津島神社
     観音寺      麻衣廼神社
秋葉神社津島神社
観音寺
麻衣廼神社


街道に戻ると本陣の並びの酒屋が脇本陣跡である。 脇本陣は贄川家が勤めた。 
その先に又秋葉津島神社の鳥居があり、隣に水場がある。 
鳥居の奥には二つの祠と青面金剛庚申塔や道祖神碑などが祀られている。 
水場の向かいが国の重要文化財に指定されている深澤家住宅である。 

 *  「 深澤家は屋号を加納屋といい、行商を中心とする商家を営み 文化年間(1804-1817)京大坂方面にも販路を伸ばし、幕末には苗字が許された贄川屈指の 商人である。 主屋は嘉永七年(1864)の建築で、切妻造り、二重の出梁や吹き抜けの 大黒柱など、木曽地方の代表的な建物で、価値が高いとされる。 北蔵は文政四年(1821) の築、南蔵は文久二年(1852)の建築である。 」  
その先の漆器店ひのき屋の先を直進する道は新道で、桜岡を経て国道に合流する。 中山道は 漆器店ひのき屋の先を右折する。 ここが贄川宿の京方(西)の入口で、枡形の跡である。 
枡形を進み、突き当たりを左折する。 その先はJR中央本線で分断されて、 道なりにUターンする。 突き当たりの跨線橋でJRの線路を越えて、国道19号に出て左折 する。 ここで贄川宿は終わる。 

水場と鳥居
     秋葉津島神社の祠      深澤家住宅
水場と鳥居
秋葉津島神社の祠と石塔群
深澤家住宅





(34)奈良井宿

贄川宿を出て、中央本線を越えると右側にドライブインの食堂SSがある。  食堂側の段上に地蔵尊、観音菩薩、馬頭観音等の石仏石塔群があり、奥に枝垂れ桜の古木 ある。 
国道には歩道がないので注意しながら左側を歩くと左側に木曽民芸館が あるので、その前を進むと擁璧に突き当たる。 国道の脇のグレーチング(金網)の架設 歩道を歩き、グレーチング階段を上り、土手を越えると草が茂る細道に出る。  ここが桃岡旧道で土道が舗装道路に変ると旧桃岡村に入る。 右手の民家を過ぎると右側に 「中仙道」の石碑がある。 押込坂の小さな橋を渡ると右側に津島神社の小さな祠があり、 並びに庚申塔、徳本名号碑等がある。 先に進むと右側に「塩尻市史跡押込一里塚」の標柱 が立っていた。 
(注)新道に一里塚が復元されて、新しい「塩尻市史跡押込一里塚」の標柱と「一里塚跡」の 石碑と説明板が設置されたようである。 
また、新道の桃岡集落には水場があり、その前には木曽漆器座卓の共同展示場がある。 
街道はT字路に突き当たり、右にクランク状に進み、国道に合流する。  奈良井川にかかる桃岡橋を渡り、次に鉄道線路の高架をくぐると国道と分かれ、 左の道に入り進む。 分岐点に「旧中山道」の標識と中北道標「←平沢駅1.8km 贄川宿1.6q JR贄川駅2.5q→」がある。 
この旧道は深い谷間の道で木曽谷の風情が深い。 長瀬という集落があり、座卓などの 木材加工の工場や漆の工場があり、平沢の町内の工房より規模が大きい。  道は一台しか通れない程の狭さで、数百メートル歩いたら国道に出た。 合流地点に 中北道標「←暮らしの工芸館0.5km平沢駅1.1q 贄川宿2.3qJR贄川駅3.2q→」 がある。 
国道を進み、平沢北交叉点で国道と分かれて、右の川側の道に入ると左側に 木曽くらしの工芸館がある。 
駐車場も広く、道の駅 ならかわも兼ねている。 木曽漆器の展示館やレストランなどがあり、 二階には地元作家の作品も展示されていて、おもしろかった。 長野オリンピックのメダルも ここの工房で作られた、と説明があった。  

押込一里塚
     桃岡集落の水場      木曽くらしの工芸館
押込一里塚
桃岡集落の水場
木曽くらしの工芸館



工芸館を出て県道257号木曽平沢戦を歩く。物見坂を進むと左手に塩尻市楢沢支所がある。  小生が訪れた頃は楢川村役場であった。  駐車場の一角に表に「芭蕉翁」、側面に「 送られつ をくりつ果ては 木曽の秋」 と刻まれた芭蕉の句碑がある。  宝暦十一年(1761)に木曽代官山村甚兵衛良啓(たかむら)が建立したものである。  近くには地場産業のシンボルの「漆供養塔」がある。 
芭蕉の句碑の裏、右手の諏訪坂が中山道で、二十三夜塔があった。  坂を上ると諏訪神社の鳥居があり、うっそうとした森の中に諏訪神社の社殿がある。 

 *  「 諏訪神社は、文武天皇の大宝弐年(702)の創建だが、 天正十五年(1582)鳥居峠の合戦で木曾義昌に敗れた武田勝頼は敗走の際、 社殿に火を掛けさせ全焼させた。 朱塗りの社殿は江戸時代後期の享保十七年(1732)の再建 で、二間社流造り、こけら葺きである。 それでも、二百七十年以上経っている。 」 

芭蕉句碑
     諏訪神社鳥居      諏訪神社社殿
芭蕉句碑
諏訪神社鳥居
諏訪神社社殿


笹原に庚申塔を二基見付けた。 
社殿の右脇と御柱の間をぬけ、石段を降りると県道に合流する。 ここには中北道標 「←JR木曽平沢駅0.5qJR奈良井駅2.5q 木曽くらしの工芸館0.9q→」がある。 
その先は漆器の町、平沢である。 贄川宿〜平沢間は約五キロ、一時間ちょっとかかった。 
平沢は江戸時代、奈良井宿と贄川宿との間に設けられた合の宿があったところである。  平沢は度重なる火災で古い建物は残されていないが、プーンと漆の匂いがしてくると錯覚 するくらい、多くの漆器店や工房が軒を並べていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に 指定されている。   しかし、江戸時代は奈良井が漆器製造の本場だった。 享保九年(1724)には塗物師四十四軒、 絵物師九十九軒があったのに対し、平沢は桧細工に漆を塗る職人には十数軒に過ぎなかった。  その後、奈良井の塗櫛がブームになりそちらにシフトとし、奈良井の漆器業は次第に寂びれて いった。 木曽の地は農地が少ないため白木細工に活路を見出すしか方法がなかった のである。 
平沢のほとんどの家はなんらかの形で漆器に関係するといわれる木曽漆器の町である。   また、頼めば実際の工程を見せてくれる店が多い。 
なかでも手塚万右衛門漆器店は店頭の「千切屋万右衛門漆器店」「木曽漆資料館」の 看板が長い歴史を伝える代表的な老舗である。 店内には漆器にまつわる古い資料も 展示されている。 
集落の終わりの左手に木曽漆器館とうるしの里広場公園がある。 

 *  「 木曽漆器館は漆器に関する資料や用具が集められている資料館で、 これらの収蔵物は、平成三年に、国の重要有形民俗文化財に指定された。 ここでは昔からの 名品や漆器の製品工程、漆の採取道具などを見ることができる。 」  

庚申塔
     平沢の町並      ちぎりや(木曽漆資料館)
庚申塔
平沢の町並
ちぎりや(木曽漆資料館)


町のはずれの右側に津島神社があり、境内に道祖神や御嶽山三社大神が祀られている。  境内の京都側に中北道標があり、「←奈良井駅1.7kmJR木曽平沢駅0.5km 諏訪神社0.7km→」 がある。 神社の先の三叉路で左斜めの上り坂を上ると県道に合流する。 右側の笹良漆器店 の先で、JR中央本線の踏切の手前で右の下り坂に入る。 車止めのJRのガードをくぐると 奈良井川沿いの土手道に出る。 奈良井川のせせらぎを聴きながら快適に歩ける遊歩道である。   
土手道を進むと奈良井川の対岸に橋戸一里塚跡がある。 文化三年(1805)の中山道分間延絵図 に「此の辺り古往還一里塚」とあるもので、街道付け替えで取り残された貴重な一里塚で ある。 江戸より六十四里目で、手前に歩道橋があるので対岸に渡ることができる。 
土手道を進むと小橋がある。橋のたもとに中北道標「←JR奈良井駅0.8q JR木曽平沢駅 1.4q→」がある。 この橋は渡らず直進し、奈良井川橋を渡る。 橋の袂の左側に「右中山道 左国道」の石碑がある。  奈良井川橋を渡ると県道258号奈良井線となり、三叉路があるので左に進る。  線路に沿って進むとJR奈良井駅があり、背後の鳥居峠の山容が見えた。  平沢から奈良井の駅までは約二キロで、三十分足らずで到着できた勘定になる。 洗馬宿から始めた旅は奈良井駅で終了、平沢を出る頃は夕方になり、カメラの電池もなくなり 撮影できなくなっていた。 
日を改めて、奈良井駅から奈良井宿を訪問。  あいにく小雨。 

和歌山城全図
奈良井駅前広場


駅前には木曽奈良井宿の標柱と案内板、そして石屋根の建物が建っている。  奈良井宿は中山道一の難所であった鳥居峠をひかえた宿場である。 

 *  「 奈良井宿ができたのは古く、鎌倉時代の始め頃と言われるが、 慶長七年、徳川家康により、中山道六十九の宿場が定められると、奈良井宿もそのひとつに 選ばれた。 「奈良井千軒」とうたわれていた旅宿で賑わい、また、塗り櫛や曲物の産地 としても有名であったため、薮原宿からは一里十三町、贄川宿からは一里三十一町しかないが、 旅人たちは峠越えの前とか後に奈良井で骨を休めるのが常だった。 」 

天保十四年(1843)中山道宿村大概帳によると家数409軒、宿内人口2155人(男1104人、 女1051人)、本陣1.脇本陣1、旅籠15軒であった。 宿場は木曽路で標高が一番高い 940mの位置にあり、標高1197mの 鳥居峠越えが控えていた。 宿場は上町、中町、下町の三地区で構成され、 八町五間(約870m)と薮原宿や贄川宿の約二倍の長さがあった。 

 *  「 南北約九百メートル、東西二百メートル、 面積十七ヘクタールの土地に、現在約二百軒の建造物が並ぶ。 江戸から明治にかけて 建築された建造物が百六十余りあり、昭和五十三年(1978)に国の伝統的建造物保存地区に 指定された。  ほとんどの家が日常生活をしながら、修理・保存に取り組んでいるという、 現在でも生きている宿場町としての努力や活動は称賛に値する。 」  

駅を過ぎると左側に木曽五木が植栽されている。 木曽五木は檜(ひのき)椹(さわら)鼠子 (ねずこ)翌檜(あすなろ)高野槇(こうやまき)で、これらの五木は尾張藩の厳しい管理下に 置かれ、枝一本腕一本、木一本首一本といわれた。 
その先を右に入りヘアピンカーブを上ると左側の石段上に八幡宮があり、誉田別尊(ほんだ わけのみこと)が祀られている。 奈良井宿の丑寅の方向にあることから鬼門除けの守護神 として崇敬され、奈良井宿下町の鎮守である。 
参道口に戻ると杉並木がある。 前述の橋戸一里塚から続く古中仙道の杉並木の痕跡で、 現在十七本が残っている。 
杉並木を進むと左側に庚申塔の大きな石碑や石塔があり、その奥に地蔵堂がある。 
地蔵堂の前に聖観音を始め、千手観音、如意輪観音、馬頭観音などの観音像が二百体近く 祀られていて、一体一体違った表情をしている。 明治期に国道開削や鉄道敷設の際に 奈良井宿周辺から集められたものである。 

杉並木
     地蔵堂      二百地蔵
杉並木
地蔵堂と石仏、石塔群
地蔵堂前の二百地蔵


右側の石垣は奈良井宿の江戸方(東)入口の枡形跡である。 右側の石置屋根の下町水場が ある。 下町水場組合が運営している。 
先の右奥に関ヶ原の戦いに向った徳川秀忠の陣屋になった法然寺がある。  左側に寛政五年創業の杉の森酒造がある。 
蔵元の対面に横水水場がある。 かって横水という沢があり、ここが下町と中町の境であった。  横水水場の右手冠木門の奥に大宝寺がある。 

 * 「 大宝寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、広伝山大宝寺という。  寺のパンフレットによると「 天正十年(1582)、当時の領主、木曽氏の 支族・奈良井治部少輔義高が建てた寺で、大安和尚が開山である。 江戸時代に入り、 明暦年間、玉州禅師が中興し、福島の代官・山村良豊が寺門を修造し、万治元年(1658)には 現在の本堂を建てた。 」 

江戸時代に書かれた木曽名所図会に、庭園について、 「 寺の庭に臥竜樹あり、長さ五丈許(ばかり) 義高の薬園の跡なり 」 の記述があり、 心字池に亀島、三尊仏石、蓬莱石などの岩石を用い、背景には槙、楓、杉の樹木で山とした 嵯峨流の作庭である。 この寺はマリヤ地蔵で有名であるが、マリヤ地蔵は 寺の裏手の墓地の中にある。 

 * 「 マリヤ地蔵は昭和七年、寺の近くの薮の中から発掘され、 現在地に移されたもので、膝の上に抱かれた子供が手にもつ蓮の花はたしかに十字架に 見える。 キリシタン禁制の時代に、信者が地蔵の姿を借りて聖母マリアを拝んだものだろう。  仏教の子育地蔵になぞえて作られた石像だが、役人に見付かり、頭部、抱かれた子供や膝を 壊されて、捨てられてしまった、といわれるものである。 」  

下町水場
     杉の森酒造      マリヤ地蔵
下町水場
杉の森酒造
マリヤ地蔵


奈良井宿は天保年間には旅籠に茶屋などを合わせると三十九軒に及び、その数は 木曽十一宿中最大である。 狭い道の両側には、長い軒先を突き出した家屋が並ぶ。 
江戸時代、中町には宿場機能が集中していた。 今はみやげものやと食事処や旅館、民宿 がある。 左側に郷土館と茶房を営む徳利屋がある。 

 * 「 徳利屋は江戸時代、脇本陣と高級旅籠と問屋を兼ねていた。  この屋号はとっくり(徳利)からの命名のようである。 昭和初期まで営業していて、 、 島崎藤村、幸田露伴、正岡子規などの文人が宿泊した。 みがきこまれて黒光りする階段箪笥や 大きな自在鈎のあるいろりなど、歴史的に貴重なものがある。 地粉の手打ち蕎麦や独自 の三色五平餅を商っている。  」  

並びの松阪屋は朱塗りの大看板を掲げている。 奈良井の名産だった塗櫛を現在も 扱うただ一軒の店である。 

奈良井宿の家並
     徳利屋      松阪屋
奈良井宿の家並
徳利屋
塗櫛を扱う松阪屋


右側の池の沢水場から奥の奈良井郵便局方面に入ると嘉永二年(1849)の常夜燈があり、 その奥に「本陣跡」の標柱がある。 本陣職は代々九郎右衛門が襲名したが、本陣は 江戸末期に焼失し、以後再建されることはなかった。 本陣門は長泉寺の山門に なっている。 
街道に戻ると左側に寛政年間創業というゑちごや旅館(越後屋)がある。 軒下の看板は 江戸方がゑちごや、京方面は越後屋と描かれている。  軒下には明治 時代のランタンがぶら下がり、夕方には江戸時代の袖行灯が出される。  部屋数が少ないのでなかなか予約がとれないときいた。 
続いて右側に文政元年(1818)創業の旧旅籠伊勢屋がある。   脇本陣を勤め、下問屋を兼ねた。 現在も旅館を営んでいる。 
隣に国の重要文化財に指定された手塚家住宅がある。 江戸時代上問屋だった家で、 現在は上問屋史料館になっている。 

 * 「 手塚家は慶長七年(1600)より明治維新まで上問屋を勤め、 庄屋を兼務した。 家の前に「明治天皇駐輩碑」と「明治天皇奈良井宿行在所」の石碑 があり、奥の一室は明治天皇巡幸の際に行在所となった部屋で、当時のままに残されて いる。 

ゑちごや旅館
     伊勢屋      上問屋史料館
ゑちごや旅館
伊勢屋
上問屋史料館


その先の右手奥に曹洞宗玉龍山長泉寺がある。 

 * 「 貞治元年(1355)の創建で、本尊は元禄 二年(1689)造の釈迦尼佛である。 当寺は寛永十年(1633)に徳川家光に始まった御茶壺 道中の宿泊所だった。 山門は奈良井宿本陣門が移築されたものである。 」

街道は縄の手(西の枡形)に突き当たる。 
正面に荒沢不動尊が祀られている。 
並びに「中山道奈良井宿縄の手」の石碑がある。 ここには鍵の手手水場がある。  ここが中町と上町の境である。 
その先の右側に中村家がある。 
水場の背後に庚申塔、馬頭観音、二十三夜塔等の石塔群が ある。 

 * 「 中村家は天保の豪商・櫛屋中村利兵衛の屋敷で、塗り櫛の創始者 中村惠吉氏の家である。 この家は天保八年の奈良井宿大火直後に建てられたもので、 二階建ての出梁造りの家である。 櫛屋が豪商と聞いたので、質問したら 「 江戸時代の 櫛は髪を梳く櫛と髪を結う櫛と二種類あり、髪結いは数十本の櫛を持ち歩いていた。  これらの櫛は全て無地のものだったのだが、中村惠吉氏が塗り櫛を考案して世に出した ところ、江戸や上方の女性から「頭を飾る櫛」として人気を集め、大成功を収めた、と、 いわれたようです。 」 との答え。  この地特産の櫛製造と木曽漆器の技術を融合し、これまでにない新製品を考案した訳で、 豪商になったのは当然なのだろう。 この家は二階をせりだした出梁造り(だしばりつくり)の 建物で、くぐり戸、蔀戸(しとみど)のある家で、千本格子が町並みの遠近感を強調して いる。 」  

荒沢不動尊
     鍵の手手水場      塗櫛創始者中村家
荒沢不動尊
鍵の手手水場
塗櫛創始者中村家


「木曽の奈良井か藪原流か、麦もとらずに飯をたく」と、経済的に豊かな奈良井が白米を 食べていることを羨んだ俗謡に、宿場の繁栄ぶりをうかがうことができる。 
宿場の外れにくると右側に高札場がある。  奈良井宿の高札場は京方の入り口にあたるこの場所におかれ、明治のはじめごろまで 使われていたが、その後街道の廃止にともない撤廃された。この高札場は当時の絵図に もとづいて昭和四十八年(1973)に復元されたものである。 
また、宮の沢水場もあり、その奥には庚申塔、馬頭観音、廿三夜塔等の石塔群がある。 

 * 説明板 「水場(みずば)」  
「 奈良井宿の町並を特徴づけている水場は生活に欠かせない生活用水の確保や火災が発生 した場合に連なる家々への延焼を防ぐために山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けら れた。また、中山道を歩く多くの旅人が難所鳥居峠を越えるために水場で喉を潤した。 現在奈良井には六箇所の水場が整備され、それぞれに水場組合を作り、維持、管理を 行っている。 」  

その先の交叉点を越えると左側が枡形で、ここが奈良井宿の京方(西)の入口であった。  その右側にあるのが鎮神社である。 
鎮神社は奈良井宿の守護神で、疫病などが侵入してくるのを守っていた。 

 * 「 鎮(しずめ)神社は別名、鎮大明神 ともいわれ、奈良井・川入の氏神で、 祭神は経津主神である。 十二世紀後期、中原兼遠が鳥居峠に建立したものを、天正年間 (1573〜1592)に奈良井氏がここに移した。 元和四年(1618)、疫病が発生したため、 下総香取神社よりご神体を迎えて鎮めたことから鎮神社という名が付いたと、伝えられる。 
本殿は寛文四年(1664)の建築で、立派なつくりには感心した。  峠の登り口にあるので、道中の安全祈願に参詣する人が多かったらしい。 」 

高札場
     宮の沢水場      鎮神社
高札場
宮の沢水場
鎮神社


隣に、木曽楢川歴史民俗資料館があり、宿場の史料や民具などを展示していた。  庭先には山口青邨の句碑があり、「 お六ぐし つくる夜なべや 月もよく 」の句が刻まれ ていた。 
奈良井宿は中山道の宿場の中で一番江戸時代の情緒が残っているところで、見るところが多い。 
店頭に酒林が人目を引く平野屋酒造店や木曽漆器を扱う店や木曽櫛を商う店など、半日いても あきないところで、じっくり見学したい。 


(所要時間) 
洗馬宿→(1時間20分)→本山宿→(50分)→「是より南木曽路」の碑→(1時間40分)→贄川宿
→(1時間30分)→平沢集落→(1時間30分)→奈良井宿
 


本山宿  長野県塩尻市本山  JR中央本線日出塩駅から徒歩20分。  
贄川宿  長野県塩尻市贄川  JR中央本線贄川駅下車。  
奈良井宿  長野県塩尻市奈良井  JR中央本線奈良井駅下車。  



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かうんたぁ。