『 中山道を歩く  (17) - 藪原宿・宮ノ越宿  』





(35)藪原宿

楢川歴史民俗資料館の先右側に石段があるのでここを上るのが鳥居峠へ第一歩である。  ここには「右上鳥居峠 左下奈良井宿」の石標と中北道標「↑鳥居峠2.3km 奈良井宿100m JR奈良井駅1.2q→」がある。 
砂利道を歩くと急な上り坂になり、県道に突き当たるので右折する。 ここには信濃路自然 歩道旧中山道石畳道道標「←鳥居峠2.16km 奈良井宿0.15km→」がある。 
県道を進み三叉路で右に行くと右側に石段があり、左側に「木曽鳥居峠」の標識と 右側に「上る鳥居峠下る奈良井宿」の自然石の中山道道標がある。 
ここが鳥居峠の第二の上り口である。 石段を上ると本格的な峠道になる。 途中に 石畳道が残っている。 
大きな沢を木橋で渡る。 右側にケルン状の石組の上に石仏が祀られている。 この坂 はくるみ坂と呼ばれる。 丸太橋状のコンクリート橋と木橋を渡ると小屋があるところに 出た。 小屋の手前に「本沢自然探勝園(葬沢) 」の説明板があり、  「天正十年(1582)二月、織田信長に寝返った木曾義昌が武田勝頼軍二千余名を迎撃し大勝利 を収めた鳥居峠の古戦場です。 この時、武田方の戦死者が五百余名をこの谷に投げ込み、 谷が埋もれたといわれ、戦死者葬った場として葬沢と呼ばれました。 」とある。 
小屋の中には「中の茶屋」の看板あるが、中の茶屋跡は菊池寛の「怨讐の彼方に」の前篇の 舞台になっていて、「いつとはなしに信濃から木曽へかかる鳥居峠に土着ぢた。そして昼は 茶屋を開き、夜は強盗を働いた。」 と 著されている。 

鳥居峠第二の上り口
     木橋      中の茶屋(葬沢)
鳥居峠第二の上り口
木橋
中の茶屋(葬沢)


ここには信濃路自然歩道道標「←鳥居峠1.15km 奈良井宿1.15km→」がある。 
峠道の斜面上に二体の馬頭観音が祀られている。  みぎがわの信濃路自然歩道道標「←鳥居峠1.13km 奈良井宿1.25km→」を過ぎ、 木橋と丸太橋風のコンクリート橋を渡ると橋の右側に清水があり、おいしい水が飲めた。 
更に進むと右側に「鳥居峠一里塚跡」の石碑が立っている。 江戸から六十五里目である。  次いて右側に信濃路自然歩道道標「←鳥居峠0.98km 奈良井宿1.38km→」がある。  二か所の木橋を渡ると石畳になり、砂利道の旧国道に突き当たりので、ここを左折する。  ここには自然石の中山道道標「上り鳥居峠下り奈良井宿」と、中北道標「←鳥居峠100m JR藪原駅3.4km 奈良井宿2.0qJR奈良井駅3.0km→」が立っている。  砂利道の旧国道を行くと右側に立派な小屋と水場、トイレがある。 小屋を覗くと、ノートが あり、訪れた人が気楽に書けるようになっていた。 
小屋の脇に信濃路自然歩道道標中山道の「←奈良井宿1.95km 鳥居峠0.35km→」が立っている。  信濃路自然歩道道標中山道コースは藪原から鳥居峠を越えて奈良井、平沢、贄川宿を抜け 桜沢に至るコースとあった。 
水場の横から左に上る細い道が中山道で、左側の斜面に御嶽講明覚霊神碑が立っている。  これは御嶽山を信仰する講社が立てたものである。 
丸太階段を上ると少し広い所に出る。 ここが鳥居峠の頂上で、江戸時代には三軒の茶屋が あったという。 その先に「明治天皇駐蹕碑」がある。 

  * 「  鳥居峠は標高千百九十七メートルで、薮原、奈良井の どちらからも高低差約二百六十メートル で、木曽川(太平洋)と奈良井川(日本海)の分水嶺である。  奈良井宿はゆくゆくは信濃川となって日本海に注ぐ奈良井川の源流に位置する宿場であり、 一般に木曽路というと思い浮かべられる木曽川に中山道が出会うのは次の藪原宿からで ある。 明治天皇は明治十一年(1878)北陸 東海巡行の際、峠の茶屋で休息されたという。  」  

丸太階段を降りると簡易舗装の道に出る。 真直ぐ行くのが中山道だがその先で行き止まり になっているので、右に下りていく。 この道の右からは先程別れた小屋からの 広い道(旧国道の砂利道)である。 ここを左折する。 分岐点に中北道標「←JR藪原駅3.0km  奈良井宿3.4km」がある。 
木製の「←遊歩道藪原宿 旧国道(車道)→奈良井宿↓」の標識の藪原方面にUターンする ように更に左の平の道を行く。 「遊歩道につき車両進入禁止」のところに熊除けの鐘が 吊り下げられている。 この鐘はこの道の出口の藪原側と藪原から鳥居峠への上り口にも 設置されている。 
この道は明治時代に造られたので明治道といわれていて、途中にトチノキの群生している ところを通る。 右側の穴の開いたトチノキの横に「昔、この穴に捨子があり、子宝に恵 まれない村人が育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば子宝にわれる。 」 という言い伝えが残る。 
藪原側の熊除け鐘を過ぎると左側に霊神碑、右奥に鳥居が見えてきた。  「御嶽遥拝所」入口である。 

峠への旧道
     熊除けの鈴      御嶽遥拝所前
峠への旧道
熊除けの鈴
御嶽遥拝所前


弘化弐年(1845)建立の鳥居峠の名が付いたとされる鳥居がある。  

  * 「 かって、峠一帯は 美濃と信濃の国が境界をめぐって争っていたことがある。 元慶元年(879)に美濃に属する ことで決着するが、当時は県(あがた)坂と呼ばれていた。  その後、奈良井坂とか、薮原坂 と呼ばれた時代もあった。 室町時代の明応年間(1492〜1500)、木曽義元が松本の小笠原氏 との戦いに際し、この頂上に鳥居を立てて御嶽権現に戦勝祈願をしたことから、 鳥居峠と呼ばれるようになった。 」 

鳥居の脇には、「御嶽遥拝所」と書かれた石碑があったので、階段を登り、お堂の前に立つ。  社殿の左横に「御岳山眺望所」の立ち札があったが、御嶽山がどれなのか分からなかった。  

 * 「 御嶽山は古来から信仰の山として 知られる。 江戸方面から来た信者にとって鳥居峠を越えたこのあたりで御嶽を望むことが できるため、訪問できない人のため、遥拝所は設けられたという。 峠の最高地点でもある。  社殿の周囲には御嶽講関連の石碑が沢山あった。」 

鳥居の横から道は下り始める。 
濃緑の中を少し下ると多くの句碑が立つ丸山公園に出る。  松尾芭蕉、法眼獲物などの美濃以哉派のもので、薮原や木曽福島などの町人富裕層を中心と した俳人達が建立したものである。 

鳥居
     御嶽遥拝所      丸山公園
鳥居
御嶽遥拝所
丸山公園


芭蕉の句碑は二句あるが、どちらも更級紀行で、詠まれたものである。 

  * 「 一つは「 木曾路の栃 うき世の人の 土産かな 」 という句碑で、天保十三年(1842)、 法眼獲物の門人達により建立されたものである。 この句は、芭蕉自身が俗世界から離れた人 (うき世の人の土産)になった、という立場で詠まれたと、いわれる。 栃の実は栗くらい 大きさで、加工して作ったとち餅はなかなかの美味であるが、トチ餅を「 冥土の土産に しましょう 」と芭蕉はいうのである。 
もう一つのは、享和元年(1801)、中村伯先の 肝いりで、薮原の俳人ふとねが建立したもので、 「 雲雀よりうへに やすらふ 嶺かな 」 と刻まれている。  信州には芭蕉の同様な句碑がいろいろな所で建立されているが、これ等は芭蕉没後七十年から 百年を期に興った中興俳諧運動によるものである。 

丸山公園から少し下ったところに「 義仲硯水」と書かれた石碑がある。 

  * 「 木曾義仲が平家討伐の旗揚げをした時、御嶽山へ奉納する願書 を書くのに使った、と伝えられているものである。 」  

すぐ上の小高いところに、古い井桁状に囲まれたものがあったが、 これが義仲硯水らしい。 今は、水も流れている様子もなく、汚れていた。 
鳥居峠の浮世絵には「御嶽遠景と義仲硯水」と書かれていて、旅人が御嶽を眺めながら、 休憩している図であるが、周辺は樹木に包まれていて見晴らしが悪く、御嶽山は見ること はできなかった。 

芭蕉句碑
     義仲硯水      鳥居峠の浮世絵
(木曾路の栃)句碑
義仲硯水
鳥居峠の浮世絵


丸山公園からは急な坂を下るが、奈良井側より広く歩きやすい。  途中、何度か、道と交差するが、直下する。  道標がしっかりしているので 迷うことはない。 
車道に出る手前に熊除けの鐘があり、ここで山道は終わった。 車道を横切るとカラマツに 囲まれた石畳の道になった。 
石畳の道はなくなりさらに下りて行くと、車道(林道)に出たが、車道を横切りそのまま 下る。 天降社前を通過すると原町清水がある。 このあたりは急坂危険地帯と表示が あった。 
この先は藪原の宿だが、宿の手前、高台に江戸時代には尾張藩の御鷹匠役所があった。 

  * 「  御鷹匠役所は別名、お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保 するために設けられた施設である。 尾張藩は享保十五年(1730)、御鷹匠役所を設置し、 訓練された鷹は将軍家に献上されたり、諸大名への贈り物にしていた。 季節になると、 鷹匠が尾張から出向いてきたが、明治維新により明治四年に廃止された。 今はこの辺り にも家が建て込み、民家の庭先に説明板があるだけである。 」  

石畳道
     原町清水      御鷹匠役所跡
石畳道
原町清水
御鷹匠役所跡


かっては御鷹匠役所の下から飛騨街道が分岐していた。 しかし、その地点は中央本線 の線路下である。 道脇にそれを示す「飛騨街道追分」の木柱が建っている。 

 * 「  飛騨街道・奈川道と中山道の追分にあたり、右に行くと、 奈川から麦草峠を越えて飛弾高山に行ける。 しかし、江戸時代の奈川道は大変狭い上に、 道が険しく、馬では登れないため、荷物の搬送には奈川牛という牛が利用された。 」  

跨線橋を渡って藪原宿に入る。 
藪原宿は戦国時代に既に利用されていたとある歴史のある宿場である。  慶長六年(1601)の徳川幕府による中山道宿駅制度の設置により宿場が整備 され拡大された。 天保十四年の宿村大概帳によると、南北五町(約550m)の宿場に家数266軒、 宿場人口1493人、本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠10軒と記されている。 

 * 「 藪原宿は中山道の中では中規模の宿場だが、木曽路では馬籠宿や 妻籠宿をしのぐ大きさである。 ここは中山道と野麦峠を越えて飛弾へ行く飛弾街道(奈川道) の分岐点、すなわち追分にあたる。 また、中山道の鳥居峠越えを控えていたので、 峠を目指すものは鋭気を養い、越えてきたものは疲れを癒す人達で、活気あふれた宿場 だったといわれる。 」 

藪原宿は数度にわたる大火に遭ったため、当時の面影を残す建物は残っていない。  道のすぐ左側が本陣跡であるが、何も残っていない。 藪原本陣は木曽氏の家臣であった 古畑氏が代々勤めた。 

 *  「 本陣跡に建つ民家の前の木柱には 「 本陣の間口は十四間半、奥行二十一間半の広さで、二十余部屋。敷地は凡そ三百十坪、 七十坪の広い庭などで、木曽路十一宿で一番大きかった。 」 と書いていた。  皇女和宮は十一月三日、翌日の鳥居峠越えに備え、古畑本陣に宿泊された。  その時のお供の数は実に延べ二万五千人。 行列の先頭が入泊してから、最後尾がこの宿を 通過するまで、四日丸々かかったというから、驚きである。 」  

街道を進むと左側に手打ちそばのおぎのやがある。 築百二十年の古民家を再生した店である。   奈良井宿を出て、ここまで店や飲食店は一軒もなかった。 鳥居峠越えには軽食と飲料水の 携帯は忘れないようにしたい。 また、トイレの場所も少ないので、これにも気をつけよう。 
その先には旅籠であった米屋があり、今も旅館を営業している。 

 * 「 旅館こめやは慶長十三年(1608)創業なので、 三百六十年以上続く老舗で、江戸時代には米屋興左衛門が代々旅籠を営んでいた。  木曽路最古といわれたが、明治十九年(1885)の藪原大火で建物は焼失した。 
現在の建物の道路側部分は須原宿にあった建物を大火后移築したもので、奥の部分は木曽 ヒノキの新築である。 文人に愛された宿で明治三十五年から残された宿帳には掘辰雄、 伊藤左千夫、河井寛次藤田嗣治などの文豪 や藤田嗣治画伯の名が見える。 若き日の藤田嗣治が宿泊し、ほととぎすの掛け軸を残して いる。 」  

飛騨街道追分
     藪原宿本陣跡      旅館こめや
飛騨街道追分
藪原宿本陣跡
旅館こめや


向かいに酒林を吊った造り酒屋がある。 湯川酒造店は慶安三年(1650)創業の老舗醸造所で、 銘酒「木曽路」の蔵元である。  福島町の七笑に比べるとかなり小さい規模だが、金賞を受賞している。 買って飲んでみたが、 うまかった  
旅館こめやの先を左折して、JR中央本線のガードをくぐり、突き当たりを右折して 上り坂を進むと、左側の石段の上に藪原神社の朱塗りの鳥居が見える。 

 * 「 藪原神社は当初熊野社と称した。 明治四年(1871)に現社名に 改称。 本殿は文政十年(1827)の建立である。 」  

その先に臨済宗妙心寺派の城山極楽寺がある。 

 * 「 極楽寺は元亀年間(1570〜73)の創建で、本尊は釈迦如来。  山門は元禄十一年(1698)の建立である。 お六櫛の創始者というお六の廟が 極楽寺にあり、廟の天井には藤田嗣治、近藤浩一路による美しい絵が見られる。  また、庭園は小堀遠州流といわれ、三段の滝を配した美しい庭である。 」  

古畑氏が営んでいた脇本陣兼問屋の跡地には木祖村役場が建っている。 
宿の中央の木祖村消防団の隣に松が聳える防火高塀跡がある。 

 * 「 元禄八年(1695)七月の大火で宿場は全焼。 この教訓から石垣を 築き、その上に高い土塀を設けて、防火壁とした。 」 

石垣の上に「明治天皇駐輩所碑」や津島大神の石碑がある。 
その先に水場があり、二又水道組合が管理している。 

湯川酒造店
     明治天皇駐輩所碑      源流の里水場
湯川酒造店
明治天皇駐輩所碑
源流の里二又水道組合水場


この辺りは最も宿場の雰囲気を残している一帯で、 かっての家屋で今も生活を営んでいる。 

現在も藪原にはお六櫛を製造販売する店が数軒ある。 いずれも店先は古色蒼然として いる。 
左側に大きな朱塗りのお六櫛看板を掲げた宮川漆器店がある。 奥の土蔵が宮川家 資料館になっている。 

 *  「 宮川家は六代に渡って医業を営んでいた家で、木曽代官の苗字帯刀 が許された医師だった。 館内には当時医療器具、薬や古文書、生活用品、殿中刀等が 展示されている。 」  

その先の右側に [元祖お六ぐし 萬寿屋本店] というのれんを かけた、レトロな雰囲気を醸し出しているお六櫛問屋山六篠原商店がある。 

 * 「 江戸後期発行の木曽名所図絵には「 薮原は江戸や京都でも、 薮原のお六櫛として知られた櫛の一大生産地であった。 宿場の両脇には櫛を作る家が 軒を並べて、行き交う旅人に櫛を売っていた。 」 という案内がされている。 
お六櫛は今でも全て手作りで、櫛の歯数が多いのが特色で、細かな歯を挽ていくことが 職人の腕の見せ所になっている。  ミネバリのお六櫛は靜電気を起さず髪にやさしいと 現在も人気がある。 
お六櫛は元々妻籠宿のお六という娘が考案したもので、妻籠宿の名産品であった。 材料は ミネバリという粘り気のある堅い木である。 ところが妻籠宿周辺では、そのミネバリが不足 しはじめ、藪原からも購入していた。 それを見ていた藪原宿の藤屋某が不甲斐なしとして、 虚無僧姿の産業スパイとなって妻籠宿に潜入、苦心の末にその技術を盗み出してきたという。  その後、皆で技術を磨き改良を加え、やがて旅人が薮原宿の土産に買うので、京、大坂、 江戸にまでもその名が知られるようになった。 江戸時代の中頃の話である。 」 

宮川漆器店
     篠原商店      篠原商店
宮川漆器店
篠原商店
篠原商店


街道を進むと右側に赤いレトロな郵便ポストが置かれている。 その脇に「藪原宿高札場跡 」の石柱が立っている。 高札場の規模は高さ二間三尺、幅二間四尺で、御判形とも 呼ばれた。 
江戸時代にはここで行き止まりで右に曲がっていた。 ここが右に曲がる枡形で、 藪原宿の京方(西)の入口になっていた。 しかし、今は枡形取り外され、道路は直進 し駅に通じている。 
旧中山道は右折して枡形の坂を用水に沿って下り、 津島社の前で左に折れ、墓地に向って進む。 墓地には延命地蔵尊や六地蔵を 安置した祠がある。 
中山道は先程高札場の枡形の所に新設された道路に突き当たる ので、右折する。 左側にJR藪原駅があり、そこを過ぎると左折する。  ここを直進すると右側にSLのD51がある。 

 *  「 D51は主として貨物列車を引っ張った蒸気機関車で、その勇壮な 姿に鉄道ファンのが好む機関車である。 私は貴婦人といわれたスマートなC61の方が 好きである。 かなり良好な状態で保存されている。 」 

機関車の手前に「中山道薮原一里塚跡」の小さな石碑があり、「江戸より六十六里  京へ七十里」と書かれていた。 江戸時代には中山道の 薮原一里塚がこの両脇にあり、旅人が通過して行ったところである。 

高札場跡(御判形)
     高札場跡碑      薮原の一里塚跡
高札場跡(御判形)
高札場跡碑
薮原の一里塚跡


これで藪原宿は終わる。 




(36)宮ノ越宿

JR藪原駅近くの分岐点に戻り進むと県道26号に突き当たる。 ここを横断して 直進する道が旧中山道であるが、その先はJR中央本線敷設により消滅しているので、 県道26号を左折する。 
JRの藪原架道橋の下をくぐり、突き当たりを右折する。 ここには「←藪原駅 国道19号→」の標識がある。 緩やかな坂道を歩くと「木曽川 源流の里木祖村」の看板があり、藪原交叉点で国道に合流する。  
JR藪原架道橋のガードをくぐり突き当たりを右折する。 緩やかな上り坂を上り切ると 藪原交叉点で、国道19号に合流する。 名古屋まで151kmの標識がある。 
国道の右側を木曽川の渓谷を眼下に望みながら進むと木曽川に架かる櫛岩橋が見えて くる。 
中山道はその手前左側に旧国道に入る。 右側の新国道の擁璧には鳥居峠を行く旅人の レリーフ描かれている。 
この旧道は三百メートル余りで国道に合流。 菅交叉点で国道の右側に移り、吉田洞門 (トンネル)の右側を木曽川に沿って進む。 
吉田交叉点で左に移り、吉田橋の歩行者用の橋を渡る。 橋を渡ったら、左折して 川沿いの歩道を歩く。 
二百メートル程で国道 に出たら、注意して国道を横断して国道の右側に移り、山吹トンネルの手前を右に 入る。 これは旧国道で、車がこない川沿いの静かな道である。 
山吹トンネルの出口付近の神谷入口交叉点で国道に合流する。 左折する道は伊那に向う 権兵衛街道(国道361号)である。 

  *  「 神谷の牛行司古畑権兵衛が山代代官の許可を取り、木曽十一宿 の協力を得て、元禄九年(1695)米の取れる伊那地方から米の乏しい木曽地方に最短で 運べる街道を開通させた。 このことにより、江戸から御嶽参りへの道も増え、宿場の 営業にもプラスになった。 」  

国道を直進すると右手に山吹山が迫ってくる。 かっては山吹山の山腹を行く 道があったが、今は一部残るだけである。 現在の国道も旧国道も山吹山を迂回して 出来ている。 
木曽川に架かる山吹橋を渡ると巴淵交叉点があり、「宮ノ越」の大きな看板が立っている。  中山道は山吹橋を渡った所から右折するが、そのまま直進し二百五十メートル弱ところで、 左の小道に入ると木曽氏の氏神「南宮神社」がある。  

  *  説明板 「南宮神社の由来」  
 「 南宮神社の前身は古代よりは村の鎮守として南西約一キロの処「古宮平」という 所にあったが、義仲公柏原築城の際、現地に移し、その産土神とし更に関ヶ原の南宮 大社を分祀勧請したものといわれています。この由来は義仲公が幼時養父中原景遠に 連れられ京に上った時密かに源氏信仰の本拠である大社から特に請い受け合祀された ものであります。 祭神は天照大神の兄神、金山彦命で、武運、富致、厄除、安産、 養蚕の神として近在の参拝者が多く訪れる。 この社殿、拝殿共総桧造りで、 江戸中期元禄時代(1688〜1703)に再建され、その後も度々の風水害のため改築補修 されている。 
桧林の山陰、そそり立つ岩壁の下には清流がせせらぎ、夏の涼しさは格別の神域で あります。 」 
とあり、宮の越の地名も、宮(神社)の越し(中腹)を意味するもので、 境内にはこの地区の神社の神を集めて、合祀したとあった。 

木曽川源流の里
     国道のレリーフ      南宮神社
木曽川源流の里
国道のレリーフ
南宮神社


巴淵交叉点に戻り、巴淵に向う。 二百メートル先のJRのガードをくぐると 巴淵バス停がある三叉路に出て、巴淵に到着である。 
巴橋の東詰には「山吹も巴もいでて田植かな」の森川許六の句碑が立っている。 

  *  「 木曽川もここまでくると、小さな川になり、S字状の深い 渕になっている。 この北にある山吹山は義仲の愛妾の山吹姫の名をとったものと いわれる。 山吹も巴も、ともに木曽義仲の愛妾である。 」 
巴橋の手前に「巴淵」の石碑がある。  このあたりは木曽川の川幅は狭いが、深くえぐられ、 淵となっていて、巴淵と呼ばれている。 新緑と紅葉の名所として有名である。 

  *   説明板 木曽三川三十六景の一「伝説の残る巴が淵」  
「 歴史が漂うこの淵は巴状にうずまき、巴が淵と名付づけられた。 伝説ではこの淵に 龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生れ、名を巴御前と云った。義仲と戦場 にはせた麗将巴御前の武勇は痛ましくも切切と燃えた愛との証しでもあった。巴御前の尊 霊は再びこの淵に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓 が苔むして並ぶ。絶世の美女巴はここで水浴をし、また泳いでは武技を練ったと云う。 そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌元には義仲への恋慕の情がひたに燃えて いた。 岩にかみ蒼くうずまく巴が淵、四季の風情が魅する巴が淵、木曽川の悠久の 流れと共に、この巴が淵の余情はみつみつとして今も人の胸にひびき伝わる。 
 蒼蒼と巴が淵は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く   
   日義村  日義村観光協会     」  

巴が淵
     「巴淵」の石碑と巴橋      巴が淵の秋
巴が淵
「巴淵」の石碑と巴橋
巴が淵の秋


巴ガ渕に架かる寺橋を渡ると正面に南宮神社手洗水がある。 

  * 「 南宮神社手洗水は巴川を渡った突き当たりにあり、 石垣から水が湧き出ている。 木曽義仲がここで身を清めてから、南宮神社を 参拝したといわれる。 
「往昔木曽義仲公鎮守南宮神宮手洗水也唱來発年暦事歎今石船造立仕者也(願主村中)」 

川を左に見ながら歩くが、右側には徳音寺集落があり右側に道祖神が祀られている。  その先は向小路集落。 宮の越大火を免れたのか、その後に再建したものか、分から ないが、古い家が数軒残っている。 
徳音寺南バス停で右折する。 ここには中北道標「←旗挙八幡宮0.8kmJR宮ノ越駅0.9km  巴淵0.6km」がある。 十字路を左折する。この分岐には木製道標「←義仲館徳音寺 国道19号へ」がある。 続いて、T字路を右折し、突き当たりのY字路を左に入る。  ここには中北道標「←旗挙八幡宮0.5kmJR宮ノ越駅0.7km ↓巴淵0.8km 義仲館0.7km→」が ある。 木曽川を葵橋で渡る。 
中山道は葵橋を渡ったところで右折するが、旗挙八幡宮に寄る為直進する。 
JRのガードをくぐり、道なりに約四百五十メートル進むと、旗挙八幡宮に到着する。 
旗挙(上)八幡宮は義仲の居館跡とされ、治承四年(1180)、 平家追討の旗揚げをした所である。 道の道脇に大きなケヤキがあるところが 旗上八幡である。 別名は旗揚げ欅(ケヤキ)というもので、樹齢八百年。  義仲の元服の時期と合致し、その記念に植えられたものとされている。 
人口も多くない、このように辺鄙なところに館を建て、居住しながら、 京を制圧している平家を倒そう!! とは、かなり大胆な発想だったように思えた。  義仲の考えだったのか、中原義遠の野望なのか分からないが、それを実現させた 地元の豪族の中原義遠の財力、権力と執念の強さに驚いた。 
新しい社殿が建っている。 宮ノ越は木曽地方には珍しく平坦な地が広がり、 田圃に恵まれている。 こうした環境が木曽義仲を産んだの だろう。 

南宮神社手洗水
     旗挙八幡宮      旗揚げ欅
南宮神社手洗水
旗挙八幡宮
旗揚げ欅


葵橋に戻る。 広重は宮ノ越しとして、満月の中、らっぽしょ祭帰りの親子が葵橋 を渡る姿を描いている。 

 * 「 往時、宮ノ越では祭をだつぼうと呼んでいたが、今はらっぽしょ と呼び、受け継がれている。 祭礼の日に子供達が山吹山に上り、木の火文字から松明 に火を灯し、「義仲公とおいらが在所はひとつでござる」とはやしながら、義仲公の 墓を詣でて祭が終わる。 」 

県道295号を進むと左側の旭町バス停を脇に入ると旧道が一部残っているようで あるがパス。 右側の義仲橋で木曽川を渡ると右側に義仲館があり、敷地内の正面に 木曽義仲と巴御前の像がある。 

  * 「 木曾義仲は武蔵国の生まれで、源義仲が正式名、源頼朝や 義経とは従兄弟にあたる。 二才の時、父、義賢(よしかね)が悪源太義平によって 討たれた。  斉藤実盛のはからいで、母、小枝御前とともに木曽に落ち、上田集落に 住んだ中原義遠の屋敷でかくまわれて生育。 元服の後、館をこの宮の越に建てて、 移り住む。 以仁王の平家追討の令旨を受け、平家打倒で決起、北陸より京に攻め入り、 平家を追討。  後白河法皇より朝日将軍と称号を贈られた。 しかし、部下が狼藉を はたらいたため、京の都の人気を落とし、また、法皇とも対立するようになった。  後白河法皇は、源頼朝に義仲追討を命じ、義仲は征夷大将軍となって迎え討ったが、 義経の軍勢に宇治川の合戦で大敗し、ついに、近江の粟津浜で討死。  木曽で旗揚げしてわずか四年、よわい三十一歳だった。 」 

その奥に臨済宗妙心寺派の日照山徳音寺がある。 仁安三年(1168)木曽義仲が母小枝 御前を葬った寺で、木曽義仲一族の菩提寺である。 

  *  説明板 「日照山徳音寺」  
「 仁安三年(1168)、義仲公の御母小枝御前の菩提所と平家追討の祈願所として 木曽殿が建立した柏原寺が前身であり、寿永三年 公の討死の後、大夫坊覚明上人が 朝日将軍の名を後世に伝えん為、山号を日照とし 法名により寺名を徳音と改め義仲公の菩提寺といたしました。 天正七年(1579) 大安和尚中興し臨済宗妙心寺派に属しました。  二度の水害に埋没し正徳四年(1716) 現在地に建立され、 古来木曽八景 徳音の晩鐘として往来の人々にしたしまれてきました。  四十二年秋、宝物殿、宣公郷土館ができ、義仲公の遺品や郷土の文化財を 集収展示してあります。 」 

享保八年(1723)建立の山門(鐘楼門)は尾張犬山城主成瀬正幸の母堂より寄進されたもの である。 鐘の音は徳音寺の暁鐘として木曽八景の一つに数えられ、  秋の夕方に聞く鐘の音がしみじみと心に沁みる風情がある。 

 * 説明板 「徳音寺山門」  
「 この鐘楼門は木曽義仲二十四代の孫木曽玄蕃尉義陳の発願により、 尾張藩の犬山城主成瀬隼人正藤原正幸の母堂が施主となって、 享保八年(1723)に巾番匠棟梁藤原朝臣大和流狩戸弥兵衛久正の 手によって建立されたものです。
この門は桁行三間梁行二間の重層楼門で、軸部の構成、組物は唐様(禅宗様式)であり、 全体に調和がとれ安定した楼門です。 しかも、装飾的な無駄がなく簡素の美を構成 している点が賞せられます。 弘化二年(1845)と平成八年(1996)に修理はされているが、 木曽における江戸時代中期の楼門建築を代表するものとして、よくその姿をとどめて います。
     日義村教育委員会    」   

境内には木曽義仲の霊廟(おたまや)があり、木曽一族の位牌や等身大の木曽義仲の旗挙げ の雄姿像が安置されている。 

義仲と巴御前の像
     徳音寺山門      木曽義仲公の霊廟
義仲と巴御前の像
徳音寺山門
木曽義仲公霊廟


老杉に囲まれた境内の奥まった小高いところにある墓所には、義仲の墓を中心に 右側に小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓が並んでいる。 
また、境内の一角にある宣公郷土館には義仲の守り本尊と伝えられる兜観音や彼の 愛蔵品などが展示されている。 

義仲館前を通り義仲橋を渡り真直ぐ行くとJR宮ノ越駅である。 
駅入口交叉点を右折すると中山道で、宮ノ越宿である。 家々にはかっての屋号が標示 されている。 
宮ノ越の辺りは木曽路にあって珍しく平坦な土地で農地が広がっているところで、   また、中山道の中間点に位置し、伊那に抜ける権兵衛街道を控えていて、旅人で賑わった 。 
天保十四年の中山道宿村大概帳によると、宮ノ越宿は四町三十四間(450m)程の長さに、 家数137軒、宿内人口585人(男299人女286人)、本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠21軒 とある。 隣の薮原宿が10軒、奈良井宿は5軒と比べると旅籠の数は多い。 
駅から南に家並みは続く。 
上町の宮の越駅を過ぎるとすぐところに「本陣跡」の木標と 正面に「中山道宮ノ越宿」・側面に「江戸より六十六里三十五丁」と書かれた 木柱が立っている。 奥の方にある建物はそれ以降に建てられたもののようである。 
左側には「明治天皇御小休所跡」の石碑が立っていた。 

 *  説明板 「宮ノ越本陣跡」  
「 宮越宿は中山道のちょうど中間地に位置し、脇街道の伊那へぬける権兵衛街道と の追分ともなっていました。 宮越宿本陣は、徳川幕府による中山道六十九次の宿駅 制度確立とともに整備され、明治三年(1870)の宿駅制度廃止まで続きました。  天保十四年(1843)の本陣絵図では、往還に沿って、間口九間、奥行十八間。  十六坪の中庭と裏に庭園と土蔵一棟があって、敷地面積一九四坪となっていました。 表構えは、西に表口、中央式台を上がった処に十五坪の板の間を置き、左に門玄関、 北側に仮門を構え、その正面奥に式台玄関があって、十八畳の大広間の奥が上段の間 という本陣の基本形を備えた規模の堂々たる屋敷を構えていました。 建物は明治 十六年(1883)の大火で全焼し、以後のものですが、中山道木曽街道に於いて、江戸 時代のままの遺構が現存するのみです。  
     日義村 宮の越宿保存会   」  

義仲墓所
     本陣跡(明治天皇御小休所跡)      本陣跡
義仲公墓所
本陣跡(明治天皇御小休所跡)
本陣跡


下町に入ると道路の左側の草むらの中に、木札で「脇本陣問屋跡」と表示されて いるのを見付けた。 宮ノ越宿の脇本陣は都築家が勤め、問屋と庄屋を兼務した。 
宮ノ越宿は明治十六年(1883)の大火で焼失したので、今の家並はそれ以降のものである。  日義村の原野、宮ノ越からは江戸時代に大工集団が遠く甲斐(山梨)三河(愛知) 駿府(静岡)まで出かけ、なかには諏訪の立川流の流れをくむものもあって、各地の 神社や民家の建築に携わり、その技術は高い評価を得ている。 
宮ノ越郵便局の先の右側に建つ田中家の建物は立派である。 

 *  「 田中家は元旅籠屋であるが、建物は明治十六年の火災後に、 火事の際運び出した建具をもとに再建したものである。 間口四間、二階 出梁造りで、一階の格子と二階の障子戸の対比が美しい。 」 

田中家のすぐ先に「明治天皇御膳水石碑」と井戸がある。 御膳水は明治天皇が 明治十三年(1880)の御巡行の際、旧本陣で小休みしたとき、 この水で御茶を献上されたというものである。 

 *  説明板 「明治天皇宮ノ越御膳水」  
「 この井戸は江戸末期(1866年頃)町内の飲用水を得るために掘られ、昭和初期まで 近郷随一の名水として永く人々の生活をささえてきました。 その後水道の普及により 廃止されました。 井戸の石積は当時のままの姿を残しております(道径11m、 深さ80m) 明治十三年六月(1880)、明治天皇中山道ご巡幸のみぎり、旧本陣に お小休みされた際、この井戸水をもってお茶を献上されました。 以来明治天皇御膳水 と呼ばれるようになりました。 
現在の建物は町内の旧跡保存の熱意と村の援助により復元されたものです。 
     平成七年四月  下町組  」  

脇本陣問屋跡
     古い建物      明治天皇御膳水
脇本陣問屋跡
古い建物
明治天皇御膳水


これで宮ノ越宿は終わる。 


(所要時間) 
奈良井宿→(1時間)→中の茶屋跡→(1時間10分)→丸山公園→(1時間10分)→藪原宿
→(2時間30分)→巴ヶ淵→(50分)→宮ノ越宿 


藪原宿  長野県木祖村藪原  JR中央本線藪原下車。  
宮ノ越宿  長野県木曽町日義  JR中央本線宮ノ越駅下車。  



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かうんたぁ。