下諏訪宿の立町のはずれ(京方(西)の入口)には高札場が復元されているが、
ここを右に曲がると中山道は国道に合流するので、左折して国道を進む。
大社通り交叉点を過ぎ、下諏訪駅前交叉点を越えるとその先で国道142号は終わる。
ここは変則五差路になっていて、直進するのは国道20号で、中山道は左斜めの道に入る。
この辺りは魁町、家並みの中を進めば左側の少し高いところに、魁塚(さきがけつか)
と刻まれた石碑がある。
* 「魁塚(さきがけ)」
「 維新の混乱期、偽官軍として処刑された赤報隊(せきほうたい)隊長相楽総三以下八名の
墓がある。 赤報隊は東山道総督群の先鋒を勤めた。 ところが官軍が急な倒幕のため、
各所で献上金を強奪し、これらの罪は赤報隊に被せ、慶応四年(1868)、偽官軍の罪で
岩倉具視等の手より斬首に処せられた。 しかし、昭和三年(1928)潔白が証明され、
正五位が追贈され、靖国神社に合祀され、汚名は晴らされた。
供養碑(魁塚)は赤報隊を供養するため建てられたものである。 」
県道184号を横断すると右側に「一之宮常夜燈」があり、右手の国道側に
諏訪神社秋宮の大鳥居が見える。
先に進むと右側に木柱に囲まれた道祖神がある。
東弥生町の道祖神碑で、四本の小さな柱が立てられ、注連縄で囲まれていた。
このあたりは下諏訪町社東町である。
中山道はその先でT字路に突き当たるが、突き当たりの家前の電柱の所に「中山道」の
道標があり、民家の間の狭い道が砥川旧道である。
(考えられない道であるが)民家と民家がくっついてところをくぐるように行くと、
砥川の土手にぶつかる。 右折して富士見橋を渡る。
富士見橋を渡り、三十メートル進み、石神ホンダの手前を左折し、次を右折する。
ここには「←中山道→」の道標が立っていて、左折すると砥川で道が途切れている。
この道が砥川旧道の続きで右折して進む。
火の見やぐらを越すと十四瀬川を小さな木橋で枡形に渡る。
ここから岡谷市長地東堀になる。 右からの道に合流し、三百メートル進むと左側に
「旧渡辺家住宅」の標柱があり、左に入ると右側に茅葺寄棟造の旧渡辺家住宅が
ある。
* 説明板 「長野県宝 旧渡辺家住宅」
「 渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ
藩士)の家でした。安政年中(1854〜)の「家中分限帳」(武士の身分や禄高を記録したもの)
によると、「郡方下役外様御徒士18俵2人扶持)であったことがわかります、住宅の規模は
間口7間半(約13.5m)奥行5間(約9m)で、外観は茅葺・寄棟造で内部には土間と炉の間があり、
また居間に中床があります。 この住宅の創築については記録や墨書などは残されていない
が、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつけた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度など
から18世紀中ごろに建てられたと考えられます。その後、天保12年(1841)から嘉永年間
(1848〜1854)にかけてのころ改築工事をして、現状のような間取りになりました。
現存する武士の家が全国的に数少なくなった現在、この渡辺家は大変貴重なものです。
この一家から三人の大臣がでており、渡辺千秋(1843〜1921)宮内大臣と国武(1846〜1919)
大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、千冬(1876〜1940千秋の三男で国武の養子)は司法
大臣になりました。 」
街道に戻ると二百メートル先の右側に平福寺がある。 真言宗智山派の寺院で、境内に
日限地蔵尊があり、日を限って一心に願掛けをすると願いが叶うといわれる。 地元では
おひぎりさまと呼ばれ、毎月二十三日の縁日は今も賑わう。
その先が長地(おさち)中町交叉点で、右角に「左いなミち 右中仙道」の道標があり、百万遍供養
塔を兼ねているもので、寛政三年(1791)の建立である。
この交叉点は中山道と岡谷道(伊奈街道に合流)との追分である。
* 「 中山道は岡谷中心部へ向かう広い道を横切る。 この道は江戸時代の伊那街道で、ここから飯田を経て、清内路越えで妻籠に出る道であるが、 慶長七年(1602)に中山道が開かれたときはここから小野宿までは中山道になっていた。 大久保長安の死後の慶長十九年(1614)から、小野宿経由の中山道が廃止され、塩尻経由の 道筋に変更になった。 」
交叉点を横断すると長地柴宮集落になるが、家々の庭木は見事に手入れされている。 このあたりは古い家が残っていて、門構えのある家の屋根には不思議なものが乗っている。 雀返しとか雀おどりというものである。
* 「 旧道には諏訪地方独特の雀おどり(雀返し)の軒飾りを掲げた
本棟造りの旧家があり、道脇には「中山道」の石碑がある。 」
中山道は出早口交叉点突き当たり国道20号に合流するが、交叉点を横断した先の三叉路を
左の岡谷自動車学校の方面に進む。 右側の駐車場に「中山道 一里塚 江戸より五十六里」
の東堀一里塚碑が立っている。
自動車学校の先の右側に「中山道」の標識があり、すぐ先の変則交叉点の手前右側に
道祖神と常夜燈がある。
交叉点を越すと右側に馬頭観音像がある。 横河川に架かる横河大橋を渡り、今井集落に入ると
もう中山道の雰囲気である。 左手の草地に天満宮、道祖神、繭玉神社が祀られている。
今井中山道バス停の先の信号交叉点を越え、火の見ヤグラの手前を右に入ると左側に
今井観音堂がある。 江戸時代初期の京仏師の作といわれる木造の聖観音坐像を安置して
いる。
街道に戻ると火の見ヤグラの足元に男女双体道祖神が祀られている。 先に進むと右側に
石の冠木門、手前に「明治天皇今井御膳水」の石碑がある。 冠木門の脇に「今井番所跡」
の石碑が立っている。 諏訪高島藩が設けた口留番所跡である。
この地には西に難所塩尻峠を控え、四軒の茶屋があり、四ツ屋立場と呼ばれました。
番所の向かいの門前に「明治天皇今井御休所跡」の石碑と説明板が立っている。
* 説明板「旧御小休本陣 今井家」
「 旧今井村は中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古来交通上の要衝で、江戸時代には
ここに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残して居る。
中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ
、参勤交替の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
文久元年十一月五日、皇女和宮の徳川将軍家に御降嫁の時、明治十三年六月二十四日、
明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡幸の時、御小休なられた。 平成十一年七月十六日
、「江戸時代の姿をほぼ継承して居る点が貴重である」として、主屋等十一件が国の登録
有形文化財に指定された。 」
今井家は木曽義仲の四天王、今井四郎兼平を祖とする家系で、代々茶屋本陣を勤めた。
立場跡の茶屋本陣に立てば、往時の大名の休憩茶屋の堂々たるたたずまいがしのばれる。
すぐ先に「中山道」の道標がある。 「右しもすわ 左しほじり」と刻まれているが、
近世のものである。 その先の右側の擁璧に不動尊石塔が祀られている。
この辺りから道は緩やかな上り坂となる。 塩尻峠への旧道である。
家並から離れると、道は細くなり傾斜が増える。 左に田圃を見るようになる。
坂をけっこう上ったところから振り返ると諏訪湖が見えた。
英泉は木曽街道塩尻嶺すわ湖眺望で、このあたりを描えている。
御神渡の頃の諏訪湖の湖上を歩く旅人と荷馬であり、遠くに白い富士と八ヶ岳連峰
である。
三叉路には「右中しもすわ左塩尻」の道標があり、少し先の右側に「中山道」の道標がある。
下諏訪岡谷バイパスを新開跨道橋で渡り、左折し、一本目を右折する。 ここに「旧中山道
石船観音」の標識がある。 突き当たりの三叉路を右に進むが、この分岐点の右上段に
岩船観音があるので石段を上っていく。
* 「 石船観音は本尊の馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られたこと から呼ばれるようになった。 特に足腰の弱い人に霊験があらたかといわれる観音様で、 お堂の前には奉納の草鞋が多数奉納されている。 中山道を旅する人はこれから先の旅が 順調に、足が無事に中山道を踏破するようにと祈ったことだろう。 」
中山道がある下に降りると、道端に清水が流れ落ちていた。 境内を流れる沢清水で、
金名水として名が知られた鳴沢清水である。 参拝者や旅人の喉を潤し、皇女和宮も明治
天皇も賞味している。
柄杓があったので、したたり落ちる水を汲み、かんろこんろと飲んだ。
さらに上ると、左手に大岩が現れる。 坂を下ってきた時、突然、賊が現れたとしたら、 防ぎようがないなあ!!、と思わせる場所にあるとてつもない大きな石である。 木曽名所図会に 「 大石、塩尻峠東坂東側にあり。 高さ二丈(約6m)、横幅二間余(約3.6m)ばかり 」と記され、諏訪七不思議の一つでした。
* 「 伝えによると、昔、この大石に盗人が隠れて旅人を襲ったといいます。 ある時、この石の近くで旅人が追い剥ぎに殺され、大石の袂に埋められました。 雨の降る夜 には下の村から峠を見ると大石のところで青い炎がチヨロチョロと燃えていたといわれます。 また、この付近にはムジナが出ました。 夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の 提灯のろうそくを奪いました。 ムジナは蝋燭が好物でした。 」
大岩から峠まではかなりの上り坂である。 途中の左側に馬頭観音文字塔があり、
旅人の安全を見守っている。 あえぎあえぎながら上っていくと塩尻峠に到着
した。
峠は標高1060m。 夏に登れば、かなり汗をかきそうな登りである。
頂上からの風景は霞みがかかっていま一つであった。
* 「 塩尻峠は太平洋側から運ばれてくる塩(表塩)と日本海側から運ばれて くる塩(裏塩)の接点に当たることから塩の尻ということから名がついた。 峠が岡谷市と 塩尻市の境である。 」
頂上には富士浅間社の石祠が残り、左手奥には御嶽遙拝所が設置されている。
富士浅間社は松本藩と諏訪藩の境の宮として石祠が奉祀されたものである。
石祠の左側にあるのは「明治天皇御野立所碑」である。 明治十三年(1880)に山梨、三重、
京都方面に巡幸された際、ここで野立を行った。
塩尻峠一帯の山地は塩嶺といわれているようで、四差路になっていて、高ポッチへのハイク
道の案内もあった。
峠頂上前の四差路を横断して峠を下り始めると、右側の階段の上に大きな馬頭観音碑が
祀られている。
その先に「明治天皇塩尻嶺御膳水」の石碑があり、その奥に御膳水井戸が残っている。
左側に雀返しの付いた本陣造りの立派な家は上条源治茶屋本陣跡である。
宝暦十四年(1764)塩尻峠の通行に難渋する旅人の為に立場が設けられ
、柿沢村の名主上条家の弟、吉次郎が茶屋本陣を勤めた。
坂は穏やかな下り坂。 その先の右側に「 夜通道 」と標柱と親子地蔵がある。
標柱には「 昔、塩尻の娘が恋人に会いに夜通しかけてこの峠を越えて諏訪まで行った、
という故事から、夜通道という名がついた。 」 と書かれていた。
親子地蔵は享保元年(1716)の建立で、天明の大飢饉で行き倒れになった旅の親子を供養した
もので、傍らには馬頭観音碑も祀られている。
その先の左側には東山一里塚があり、「東山一里塚 江戸日本橋を起点として五十二番目の
一里塚で、北塚は開拓の時くずされた。」とある標柱と「塩尻市史跡 東山一里塚」の標柱
と説明板が立っていて、その奥に南塚が残っている。
* 説明板「市史跡 東山一里塚」
「 東山一里塚は東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり、古図には道を挟んで2基
描かれているが、南塚のみ現存している。この塚の大きさは幅12m、奥行13m、高さ3mの
塚である。 元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、中山道は牛首峠経由(桜沢口ー
牛首峠ー小野ー三沢峠ー諏訪)から塩尻峠経由(本山ー洗馬ー塩尻ー諏訪)に変更され、
この1里塚もその頃つくられたものと推定される。 市内には東山、塩尻町、平出、牧野、
日出塩の五ヶ所に築かれたが、現在はここと平出の一里塚が形を残しているだけである。
塩尻市教育委員会 」
すぐ先の変則四差路を直進する。 右折するとれんげつつじの名所高ポッチ高原(8km)に
通じる。 次の三叉路を左に入ると左手に東明神社が見える。 東山地区の鎮守である。
東明神社との分岐点に、半僧坊大権現、馬頭観音塔、道祖神が並んで祀られている。
坂を下ると左側に雀おどりを屋根に掲げた本棟造りの旧家がある。 すぐ先で国道20号に
架かる東山歩道橋に突き当たるが、国道には合流せず、右の道を行く。
右側の大木に「犬飼の清水 江戸時代中山道を通交中の公卿の愛犬が病気にこの水を飲ませたら
なおったと伝えられる」と書かせた標板が立っている。 この清水は木曽路名所にも
紹介されているが、清水のようなものは見渡らない。 この小川が清水なのか、もうなくなって
いるのか分からなかった。
中山道は左に回り込んで国道に合流するが、すぐの斜め右の道に入る。
永井坂は穏やか上り坂である。 その先は赤松林で、右側の斜面の上に「牛馬守護神」
と刻まれた石碑が少し土に埋もれながら立っている。
木々の隙間から右下側に国道を走って行く車が見えた。 このあたりは新茶屋立場があった
ところであるが、表示はなかった。
国道20号と交差するところを地下道でくぐり進む。
旧中山道は車1台分くらいの狭い道で、かろうじて対向車がすれ違える程度走ってくる。
少し歩くと、今度は長野自動車道のみどり湖PAの柿沢跨道橋を高架で跨ぐ。
その先の右側に嘉永六年(1853)建立の馬頭観音塔がある。
柿沢の集落に入ると古い家が多く残っている。 家、庭、門、石垣など、どこの家にもあり、
更に土蔵がある家が多い。 家、庭、門、石垣など、どれをとっても古色をおび、風格がある。
この集落のたたずまいを見ると、裕福な山村だったのだろうと思った。
永井坂を下ると左側に「首塚胴塚」の標示があり、案内に従い進むと
田畑がなくなった先の土手の上に「首塚」の石碑があり、畑の奥に「胴塚」がある。
* 「 天文十七年(1548)、甲斐の武田晴信(信玄)軍と松本(深志)の
小笠原長時が永井坂で激突し、小笠原軍は大敗し、退去しました。 信玄軍は首実験後、
遺体を放置さたまま引き上げた為、柿沢村民はこれを哀れみここに埋葬したものである。
小笠原長時と貞慶父子は諸国を放浪し、長時と貞慶父子は家康や秀吉により松本城の奪還に
成功したが、大坂夏の陣で戦死し、貞慶の次男が嘉永九年(1632)に豊前小倉藩十五万石として
復活し、明治まで続いた 首塚・胴塚の石碑の揮毫は長時の子孫の海軍中将小笠原長生(なが
なり)の筆によるものである。 」
首塚の脇に「 野に山に 討死なせ益良男のあと なつかしき柿沢の畔 」 の歌碑がある。
街道に戻るとその先の交叉点の右側に男女双体道祖神がある。
緩やかな坂を下り、右側の
柿沢公民館を過ぎると右側に雀おどりを掲げた本棟造りの旧家があり、道側に道祖神が
祀られている。
この家の前に最近柿沢村の高札場が復元されたようである。
柿沢集落を過ぎると、少し急になった。 下柿沢交叉点の手前の右側に道祖神が祀られて
いる。
交叉点を直進するとすぐ先の火の見ヤグラで、左側の道に入るのが中山道である。 この道は 田川の手前で、国道153号に合流する。 川に架かる緑並橋を渡りると右側に 男女双体道祖神がある。 抱擁像であることからお女郎道祖神と呼ばれた。 この道祖神の脇 の道に入ると広い道に出て右側の林の中に堂々たる永福寺の山門が見える。
* 「 永福寺の正式名は高野山真言宗慈眼山永福寺で、創建は元禄十五年
(1702)、木曽義仲の縁の地(現在地)に木曽義仲信仰の馬頭観音を本尊として朝日観音堂として
建立されたのが始まり。 山門(仁王門)は明治二十九年の建立で、立川音四郎種清によるもの
である。 中に入ると本堂があり、本堂の右側の少し高くなったところに、藁葺きの建物の
観音堂がある。 現在の観音堂は安政二年(1855)に再建されたもので、立川流二代目、立川富昌が塩尻宿の沢潟屋に泊まり、棟梁として建築を進めたが、
翌年十一月、工事中の事故でなくなった。 その後、工事は三代目富重が引き継いで、
四年後に完成させた。 お堂の龍の彫刻や象、ぼたん、獅子などの彫刻は二代目富昌の手に
よるもの。 お堂に祀られているのは馬頭観音で、お堂にあった絵馬には「
嘉永七甲寅年・・・・」 と、記されているので、幕末に奉納されたものである。 」
永福寺を出ると、仲町交叉点手前の右側に「柿沢一里塚跡」の石碑があり、江戸より
五十八里目の一里塚である。
仲町交叉点で国道153号に合流する。 交叉点を渡ると右角に「是より中山道塩尻宿」の標柱
があり、ここが江戸方(東)の入口である。
* 「 塩尻とは富山から運ばれてきた塩も三州街道から運ばれてきた三
・尾張の塩もここで終りになったという「塩の道の終り」を意味した。
塩尻宿は江戸時代初期に定められた「下諏訪〜小野〜木曽桜沢」ルートが廃止された後に
開設された新宿場町で、東山道時代の塩尻宿の南隣に設けられた新宿である。 」
塩尻宿は三州街道(伊那街道)五千石街道(糸魚川街道)松本街道(善光寺西街道)の要衝にして
東に塩尻峠を控え、大いに賑わい、旅籠の数では中山道で二番目である。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿場は七町二十八間とあるので、一キロ
にも満たない長さであるが、家数が166軒、宿内人口794人(男411人、女383人)、本陣1、
脇本陣1、旅籠75軒とある。
中山道は現在国道153号になっていて、道巾が狭く、車が行き来の激しい。
歩道がなく、大型車が軒下近くを遠慮なく突っ走ることひっきりなしで、
国道を歩くのは危険としかいいようがない。
「塩尻宿」の標柱の向かいに道祖神が祀られている。 塩尻宿の入口で、悪霊が侵入する
のを見張ってきたことだろう。 また、その奥に明治十四年(1881)建立の南無妙法蓮華経の
題目が刻まれた「南無日蓮大菩薩六百遠忌」の碑がある。 遠忌(おんき)は五十年毎に行われる
宗祖の回忌法要のことである。
街道(国道)を歩くと右側に阿礼神社の御旅所の小さな社がある。 阿礼神社は柿沢の奥の院
に祀られているが、祭礼の時ここまで下りてくる。
その先の右に入る曲がり道の角に「三州街道」の標柱が立っている。
* 「 ここは三州街道の追分である。 伊那街道とも呼ばれ、岡崎、吉良町
に通じている。 三河と信濃を結び、三州からは太平洋の塩(表塩)が入りました。 」
その先の右側に「松本藩塩尻口留番所跡」の標柱がある。 口留番所では塩、米、
材木、女等を取り締まる松本藩の役所であった。
右側の上町公会所横に「十王堂跡」の標柱と庚申塔、道祖神等の石碑が建っている。
* 「 石碑は元文五年(1741)の庚申塔三基と双体道祖神一基、文化十三年(1815)の南無阿彌陀仏 の名号碑が一基がある。 」
上町公会所の先の右側の中山道と五千石街道の分岐に「五千石街道」の道標が立って いる。 五千石街道は松本を経由し、糸魚川に通じている。 ここからは日本海の塩(裏塩) 入ってきました。
* 「 「松本市史」によると 「 元和三年(1617)の大坂夏の陣後の
戦功査定で功績のあった松本藩主、小笠原忠政は二万石加増で、播磨明石(兵庫県明石市)へ
転封した。 その後に上野国高崎城主の戸田康長が着任したが、これまでの石高は七万石
だった。 小笠原氏が得ていた石高が八万石だったので、一万石の差が生じたのである。
幕府はその一万石を二分し、松本市の一部と塩尻市の片丘を諏訪高島藩の所領に、
松本市の一部と洗馬宿、山形村、朝日村を高遠藩(保科氏)へ与えた。 五千石街道は
江戸時代に松本平の諏訪藩や高遠藩の飛び地での年貢や物資を運ぶ道として、ここから
桟敷村(塩尻市)を経て松本に通じる道が造られた。 五千石街道の名はこういう背景から
生まれたのである。 現在は県道松本塩尻線として、松本から諏訪に通じるバイパス道路
として活用されている。 」
仲町の右側に見事な鬼瓦を屋根に乗せた旅籠風の家が残っている。 国の重要文化財に指定されて いる小野家住宅である
* 「 小野家住宅は江戸時代には「いてふや(銀杏屋)」の屋号で旅篭を 営んでいた。 現在の建物は嘉永三年(1850)の建築とされ、道路に面した部分は総二階建て で、二階に大部分の客室を設けていた。 町家では珍しく、二階の「桜の間」は天井・板壁・ 天袋小襖に桜の極彩色の絵が描かれている。 裏庭にある二階建ての文庫蔵も 母屋建築当時のもので、これも国指定重要文化財に指定を受けている。 」
塩尻宿は文政十一年(1828)と明治十五年(1882)の二度の大火で宿場は灰塵に帰してしまった。
明治の大火を唯一免れた貴重な建物である。
塩尻町交叉点の左側に「上問屋跡」の標柱がある。 塩尻宿の問屋は当初は一軒で、
小口源左衛門が勤めたが、寛永十年(1633)退職し、その後問屋は二軒になり、上の問屋は
吉江家が勤めた。 <
道の向かい(右側)に「下問屋跡」と「高札場跡」の標柱が立っている。 下の問屋は平林家が
勤めた。 また、かってはここに高札場があった。
上問屋跡横の消防小屋の敷地に「明治天皇行在所」の石碑が建っていて、 左側の民家の前に「中仙道塩尻宿本陣跡」の大きな看板と 「塩尻宿本陣跡」の石柱が立っている。
* 「 塩尻宿の本陣は当初小口家が勤めたが、平林家に変り、明和八年(1771)から 造り酒屋を兼ねた川上屋が勤めた。 本陣は間口二十四間、建坪三百六十七坪で門構、玄関付 き、中山道最大規模の本陣であったが、明治十五年の大火で焼失した。 将軍家へ御降嫁の 皇女和宮は川上本陣で昼飯を取りました。 駐車場の奥には明治天皇に差し上げた御膳水の碑があり、その脇に井戸があるのだが、 朽ちていた。 」
その隣の空地に「塩尻宿脇本陣跡」や「中山道」の標柱が建っていて、整備は不十分だが、 小公園のようになっている。
* 「 脇本陣は川上氏の一族の川上喜十郎が勤めていた。 脇本陣は間口十六間、門構、玄関付き、百七十坪である。 明治十五年の大火により焼失した。 庭石等が残っている。 」
左側の家に酒屋の象徴である杉玉を吊るされているのは笑亀酒造で、その前に 「塩尻陣屋跡」の石柱が建っている。
* 「 塩尻宿は当初松本藩であったが、享保十年(1725)に幕府の天領
(直轄地)になり、陣屋は享保十九年(1734)に建てられ、信濃国の幕府領五万三千石を管理する
使用されたが、十八年後の永享二年(1853)に廃止された。
その跡に建つのが笑亀酒造で、明治十六年(1883)の創業、なまこ壁に覆われた穀物蔵は国の
有形登録文化財である。 」
中山道は国道と分かれて、右の道に入るが、中山道が国道に合流するところに江戸時代には
駕籠立場があった。 明治以降は塩尻村役場が置かれたところでもある。
歩道橋があるところを右に入ると「鉤の手(枡形ともいう)跡」の石柱が歩道橋の降口に建って
いる。 右側の道に入ると、阿礼神社がある。
* 「 阿礼神社は式内社で筑摩郡三座の一つである。 祭神は素盞嗚命と 大己貴命、誉田別命を祀る。 「阿礼神社縁起」によると 「諏訪氏を祖とする一族が定住し、 山祇神水神を祀っていた。 仁寿弐年(852)、諏訪神社と関係深い素盞嗚命を主祭神とする ようになった。 平城天皇延暦年間(728〜806)、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途次この社で 戦勝を祈願し、戦勝を祝って社殿を寄進した。 木曽義仲も深く尊信した。 」とある由緒ある神社である。 」
境内は広く、幽邃な趣がある。 狛犬が二対あり、一つは獅子で
あるが、もう一つは犬のような感じで、ユニークな造りであった。
阿礼神社の隣の塩尻東小学校の前に「是より東塩尻宿」の標柱が建っている。
ここが塩尻宿の京方(西)の入口である。
その先の堀之内との境、右側に男女双体道祖神が祀られている。
その先の右側に堀内家住宅がある。
* 「 堀内家は、江戸時代に堀之内村の庄屋を勤めた豪農の家である。
道の右側の大きな家は堀内家が御住まいになっている部分で、隣にある黒くずっしりした門の
小さな入口から中に入ると、本棟造りの立派な外観をもつ建物が建っている。
信州中南信地域の豪農民家に見られる「本棟造り」とは巨大な切妻屋根を持ち、妻入に設計
した造りをいうが、正面の切り妻に二重に配した破風が重厚で格式ある外観をかもし出して
いる。 切妻屋根の端に破風板を二段重ね打って、板葺の厚みに対処するようにし、その頂点
に大きな「雀おどり」と呼ばれる棟飾りを付けているが、屋根に乗っている棟飾りは
この地方独自のものである。
堀内家住宅は十八世紀末の建築で、文化年間(十九世紀初め)に下西条村から移築したといわれ、
本棟造りの中でも大型上位で、この系統民家の頂点を示すもので、
国の重要文化財に指定されている。 土蔵の鬼瓦も立派なものだった。 」
大小屋交叉点で国道に突き当たるが、交叉点の手前、左側に繭玉大神、秋葉大明神、
庚申塔、道祖神、南無妙法蓮華経名号碑が並んで祀られている。
大小屋交叉点を過ぎるとすぐの三叉路で、左斜めに入る。 旧道が二百メートル余りである が残っている。 田川の土手で右折し、国道に出る。 塩尻橋を渡ると下大門交叉点 (松本街道追分)の五差路で左に曲がると、右側に大きな樹木のある大門神社がある。
* 「 大門神社はもとは柴宮八幡宮といった。 柴宮八幡宮は正平十年、 桔梗が原の南北朝の戦いで、南朝の指揮所になったところに建立されたが、街道にあった ので、旅人の参拝が多かった。 昭和二十七年に上野山の麓にあった若宮八幡宮が合祠され て、現在の大門神社となった。 建物は昭和五十年代に建てられたものである。 境内の大ケヤキは樹齢三百年である。 」
、また、境内から昭和三十五年(1950)に日本最北の銅鐸が出土した。
道脇に「柴宮銅鐸出土の地」の石碑が建っている。 このことから、当時から祭祀に係わる
場所だったのかも知れないと思った。
隣に小さい耳塚神社がある。 耳塚神社は美濃路にもあるが、その由来は合戦にかかわること
が多いようである。
* 「 戦国時代、将兵が戦勝後の戦功の評価を受けるときに、討ち取った 首級を提出したが、多い場合には耳をそいで提出し、これに代えた。 その霊をともらうため の首塚もあるが、耳塚も同じであろう。 案内を見ると「安曇族に関係あるといわれ、 また、桔梗が原の合戦に関係があるともいう。 天文十七年(1598)の桔梗が原の合戦で武田 信玄と小笠原長時が激突し、武田軍が勝利し、討ち死にした将兵の耳を葬った所と いわれる。 耳の形に似た素焼きの皿やおわんに 穴をあけて奉納すると、耳の聞こえがよくなると評判になり、伊奈地方などから御参りにきた といわれる。 お堂の中を覗くと、かわらけが沢山綴じられて納めてあった。 」
その先の右側民家前に男女と子供の道祖神があったが、このデザインのものは珍しい。
左側のカネホン酒店の看板には大工道具の曲尺(かねじゃく)の中に本の一字を入れたデザイン
で珍しいと思った。 このあたりはすっかり近代化している。 目の前に中央本線のガードが
あり、そこを右折すると左側に有明山御神燈と石祠、道祖神が祀られている。 約一キロ歩く
とJR中央本線塩尻駅に着いた。
中山道は中央本線のガードをくぐり、県道305号(床屋大門線)を進む。 昭和電工のメタセコヤの並木が塀越しに見え、そこを越すと田畑が広がる。 天文十七年(1598)、武田信玄と小笠原長時が激突した桔梗が原である。 平出遺跡交叉点を横断して進むと平出の一里塚がある。
* 説明板「市史跡 平出の一里塚」
「 一里塚は慶長九年(1604)より二代将軍徳川秀忠の命により各街道に築かれ、同十二年には
ほぼ完成をみた。秀忠は永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、
私領をとわず人足を徴発して道を整備し、江戸日本橋を基点として三十六町を一里として、
一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を
慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は五間(9m)、塚は五間四方、高さ一丈(2.3m)
と定められたが明治以後はその必要もなく、いうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように
原形を保つものは極めてわずかとなった。江戸時代当塩尻市内は三つの街道に沿って八ヶ所に
一里塚が築かれていたが、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。この一里塚は
日本橋の基点より五十九番目のもの、また、宝暦六年(1756)頃にはこの付近に茶屋二軒の
あることがわかっている。 塩尻市教育委員会 」
道の南側にある一里塚の松は桔梗ヶ原合戦の時に、武田軍の軍師、山本勘助が赤子を 拾ったという伝説にちなみ、 勘助子育の松と呼ばれている。
* 「 勘助子育の松は平出の乳松とも呼ばれ、「 松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなる 」 という言い伝えがある。 」
これは南塚で、北塚は反対側の民家の中にある。
二百メートル行くと、平出遺跡と遺跡公園がある。 道の左側に駐車場があり、
「国史跡・平出遺跡」と表示されている。
* 「 この一帯は「うばふところ」と呼ばれる丘陵地帯で、古墳時代から
平安時代まで、古代の平出集落があったところである。 三つの円墳があり、これらは六世紀
中頃から七世紀中頃にかけて君臨した権力者たちの墓と考えられる。 平出博物館には
平出遺跡から発掘した古墳時代や奈良時代、平安時代に至る遺跡や出土した瓦塔
(五重塔を模した土の焼物高さ2.3m)などが展示されている。 」
平出遺跡の近くを過ぎると、辺りは一面のブドウ畑である。
このあたりは昼と夜の寒暖の差が大きいので、良いぶどう酒がつくれるというので、
現在は葡萄を栽培している農家が多い。 国道付近は勿論、旧中山道一帯に観光果樹園を
営む店が多い。
JR中央本線を越えると五百メートル程で、、国道19号の中仙道一里塚交叉点に出る。
交叉点を左折する。 なお、そのまま直進すると善光寺街道である294号が平行して洗馬
に通じている。
途中「名古屋まで177q」の標識があり、中仙道一里塚交叉点から九百メートル歩くと
左にコスモ石油のGSがある。 この裏の道が中山道で砂利道を二百メートル程で
国道19号の平出歴史公園交叉点に再び出る。 中山道は国道を横断し県道204号に入る。
洗馬郵便局の先を左にカーブすると右側に細川幽斉の肘懸松がある。
* 説明板 「肘懸松(肘松)」
「洗馬の肘松、日出塩の青木、お江戸風の絵にござる」と歌われた赤松の名木。
細川幽斉が「肘掛けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」 と詠んだと伝えら
れる。 また、二代将軍秀忠上洛の時、肘かけて休んだとの説もある。 左方標柱辺り
にあった。 洗馬区 」
肘懸松の本来の場所は少し下がったところにあったよう(であるそこに「肘懸松跡」
の標木が立っている。
松の脇を斜め右に下りると枡形で、これが旧道である。 枡形を辿ると右側に安政四年(1857)
建立の分去れ常夜燈が建っている。
常夜燈の脇に「左これより善光寺道」の道標があり、
その前が江戸時代の分去れで、三叉路の左は北国往還(善光寺西街道、現県道294号)で
ある。
ここが洗馬宿の江戸方(東)の入口であった。
洗馬宿(せばしゅく)は慶長十九年(1614)に中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに付け替えられた
際に塩尻宿、本山宿とともに設けられた新宿である。 北国往還善光寺道の追分として大いに
賑わい、北陸の鮭や鰤を煮込んだ洗馬煮が名物であった。
分去れを南下すると、肘懸松で分かれた左から県道304号が合流してくる。
江戸時代の分去れにあった「右中山道左北国往還善光寺道」と刻まれた「分去れ道標」は
この三角地に移されている。
* 説明板 「中山道と善光寺道のわかされ」
「 左側の道をおよそ50メートル行くと石造の「常夜灯」のある枡形にいたる。
ここが中山道と善光寺道のわかされであった。道標は昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」
以後右側の新道が開通したおりに枡形からここに移されたものである。 」
この三角地には徳本上人の「南無阿弥陀仏」の大きな名号碑や庚申塔、道祖神などの石塔が
祀られている。
洗馬宿は日本橋から五十九里三十三町で、宿場の長さは五町五十間とあるので、
七百メートル程度である。 天保十四年の中山道宿村大概帳によると、家数163軒、
宿内人口661人(男340人女321人)で、本陣が1、脇本陣が1、旅籠は29軒であった。
隣の本山宿より人口が多いのは善光寺詣りの客の増加が背景にあり、その御陰で宿場は
かなり繁栄していたようである。
宿に入ると、すぐ右側に「おふたの清水」の標識がある。
通りの民家の裏は崖のように なっていて下は田畑、その先は奈良井川である。 その崖をほんのわずか降りれば、大木の 根元から水が滾々と湧き出している。 遠い昔から多くの旅人のの喉を潤すしてきた水である。
* 説明板「あふた(太田)の清水」
「 治承四年、平家追討の令が出され、木曽義仲もこれに挙兵。 小県の依田城を目指す途中、
義仲の忠臣、今井兼平がこの地で合流。 義仲の馬は強行軍に疲れて、一歩も進むことが
できなかった。 兼平は北の村はずれの鬱蒼とした檜の根元に湧く清水に馬を引いていって、
脚を洗ってやったところ、馬はたちまち元気を取り戻した、という。 それ以来、
この清水をあふたの清水と呼び、馬を洗ったことから地名が洗馬になったと伝えられる。 」
左手の洗馬駅前を過ぎると左側に宗賀洗馬農林漁業体験学習館があり、
壁に「洗馬学校跡」の解説板がある。
* 解説板「洗馬学校跡」
「 洗馬学校は明治六年に民家に開校され、開智学校(重文)を建てた立石清重を棟梁に、
明治十一年ここに新築移転した。 近隣に例を見ない、廻り階段やバルコニーの付いた
、洋風3層の校舎はその偉容からバビロン城と呼ばれ、屋上に今井兼平洗馬の像が飾ら
れた。 洗馬区 」
洗馬学校は火事で焼失して今はない。
火の見ヤグラを過ぎると左側の民家の前に「洗馬宿本陣跡」の木柱が建っている。
* 「 本陣職は百瀬家が勤めました。 本陣の敷地は九百三十坪、 建坪百五十七坪で、裏に大きな庭園を有していた。 善光寺名所図会に「百瀬氏林泉之図」 に見られる庭園は明治四十二年(1909)の洗馬駅開設に伴い消失し、 昭和七年(1932)の大火により建物も焼失した。 」
その先の左側の民家の前に「荷物貫目改所(にもつかんめあらためとごろ)跡」を示す 木柱が立っている。 問屋が扱う荷物の目方を検査する役所跡である。
* 説明板 「荷物貫目改所」
「 荷物(公用荷駄)の目方(重さ)を検査する役所で、問屋場と併設されていた。 中山道
では洗馬・板橋・追分の3宿に置かれた。 規定の重量を超えた荷物に割増金を徴収するなど、
伝馬役に過重な負担がかからないようにした。 この建物は明治の一時期、
洗馬学校に利用された。 洗馬区 」
その先の家の前には「洗馬宿脇本陣跡」の木柱があり、生垣の中に「明治天皇御駐輩之碑」 がある。
* 「 洗馬宿の脇本陣は志村家が勤め、問屋も兼ねていた。 脇本陣の
敷地は千五十坪で、善光寺名所図会に紹介され、本陣の百瀬氏、脇本陣の
志村氏の庭園は評判のものだった。 明治十三年の明治天皇の御巡幸の際、明治天皇が宿泊
されたのを記念し、石碑は建てられた。 この建物も昭和七年の大火で焼失した。
庭園は鉄道に削られあとかたもない。 」
右側に朱塗りの真宗大谷派正徳山萬福寺の山門がある。
その先の左側に小公園の洗馬公園があり、その角に芭蕉句碑 「 つゆ(梅雨)はれの
わたし雨や 雲ちぎり」 がある。 公園前には「中山道」の標柱と洗馬宿と彫られた三角形
の石碑がある。 ここが洗馬宿の京方(西)の入口で、江戸時代には枡形(御判形)になっていて、
高札場があった。
* 説明板「高札場跡」
「 ここは洗馬宿の高札場があったところで、後に御判形(おはんぎょう)と
呼ばれた。 高札の伝馬駄賃御定や幕府のお触れが掲げられていた。 明治以降、裁判所の
出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物はどんぐりハウスとして、移築利用され
ている。 」
以上で、洗馬宿は終わる。
(所要時間)
下諏訪宿→(1時間40分)→今井の茶屋本陣跡→(30分)→石船観音→(40分)→塩尻峠→(2時間20分)→塩尻宿
塩尻宿 長野県塩尻市塩尻町 JR中央本線塩尻駅から徒歩20分。
洗馬宿 長野県塩尻市洗馬 JR中央本線洗馬駅下車。