熊谷宿から深谷宿までは約四時間の行程である。 国道17号線の鎌倉町交叉点を出発
すると右側に八木橋デパートがあるが、旧中山道は八木橋デパートの中を通って
いた。 熊谷は第二次世界大戦の空襲により、往時の町並みは消失してしまい、
その後の区画整理により道は拡張され、旧中山道も銀座一丁目交叉点から八木橋
デパートの先までは残っていない。
デパートの外庭の国道に沿ったところに「旧中山道」の石碑と宮沢賢治の文学碑が
あり、「 熊谷の 蓮生坊がたてし碑の 旅はこば 泪あふれぬ 賢治 」と
刻まれている。
百貨店の中をそのまま通り抜け、反対側に出ると一番街という商店街があるので、
その通りが中山道である。 一番街は戦前から戦後にかけて繁盛したが、駐車場
のある郊外の大型ショッピングセンターに客を奪われ、かっての賑わいはない。
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石原南交叉点で再び、国道17号に合流する。 石原一丁目歩道橋交叉点 のあたりは東武鉄道妻沼線のガードがあった所である。 右側の「かめの道」とある公園が鉄道の跡地で、リリーフには鉄道が描かれている。
* 「 妻沼線は熊谷線ともいわれ、戦時中に群馬県太田市 の中嶋飛行機に資材を輸送するため建設が進められたが、戦後、妻沼から先の 工事が中止され、1983年に赤字のために廃線となった。 )
境内には江戸末期に建てられた「ちゝぶ道」「秩父観音順礼道」「寶登山 (ほどさん)道」と刻まれた三基の道標が立っている。
* 「 左側のは明和三年(1766)の年号が入っていて「 ちゝぶ道 志まぶへ十一り 」 とあり、中央のは 「秩父観音順禮道」 の下に 右 「一ばん 四万部寺へ 」 左 「たいらミち十一里 」 とある。 左側のは表に 「宝登山道」 裏面に 「是ヨリ八里十五丁」 とあり、登山記念に江戸講が建てたものである。
「埼玉県指定旧蹟 秩父道志るベ」と書かれた石碑がある。
* 石碑 「埼玉県指定旧蹟 秩父道志るベ」
「 室町時代から始まった秩父札所の観音信仰は江戸に入ると
盛んになり、最盛期には秩父盆地を訪れる巡礼の数は数万人に達した。江戸からの
順路の一つとしてこの地、石原村で中山道から分かれて、寄居、釜伏峠、三沢
を経由する秩父道があった。 これはその分岐点を示す道しるべである。創建
当時は東へ約五十メートルの所にあったが、平成十六年九月に現在地に移設
された。
ちゝぶ道志まぶへ十一り 石原村
明和三年丙戌正月吉辰 説法一万余座快明誌
秩父観音順礼道 一ばん四万部寺へたいらみち十一里
安政五年戌午正月 願主当所秋山四郎兵衛
血洗島渋沢宗助
寶登山道 是ヨリ八里十五丁 弘化四年丁未秋八月
江戸講中初登山建石世話人当所秋山四郎兵衛
血洗島渋沢宗助吉岡小兵衛石工人松崎吉太郎
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熊谷は第二次世界大戦までは繊維産業で栄え、この石原集落(旧石原村)にある
日本有数の製糸会社・片倉工業の熊谷工場はピーク時には五百人近い女子工員が
いた。 しかし、産業の海外移転で1994年に閉鎖になり、現在は片倉シルク記念館
になっている。
熊谷警察署前交叉点で広い道と交差する。 石原北交叉点を過ぎると国道と
分かれて、左斜めの道に入るのが中山道である。
左側の新島自治会館手前に新照寺、 右手に江戸から二十六里の植木(新島)一里塚がある。
* 説明板 「一里塚跡」
「 この一里塚は旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ十二メートル、樹齢
三百年以上のけやきの大木が残っています。
慶長九年(1604)、江戸幕府は江戸日本橋を起点に東海道、中山道など主要な街道沿い
に旅の道のりの目印とするため、一里(約4キロ)ごとに一里塚を設けました。 当時は
中山道の両側に五間四方の塚が築き、榎などが植えられたといわれてますが、
、西側の石原分の塚は現在残っていません。
宝暦六年(1756)の「道中絵図」には、熊谷地区では久下新田、柳原(現在は曙町)と、
新島に一里塚が描かれ、「 榎二本つづきづく 」とあるが、現存する新島の
大木は不思議なことにけやきです。
平成十二年九月 熊谷市教育委員会 」
新島自治会館の手前左側に旧蹟 忍領石標」と書かれた標柱の横に、忍(おし)藩の 境界石がある。 忍藩の境界を示す柱は最初は木製であったが、利根川の酒巻河岸 から五十人が二日かかって運んだといわれる石材を使って建替えられたといわれる。
* 説明板 「忍領石標」
「 「従是南忍藩」 と刻まれたこの石標は忍藩が他藩との境界を明らかにするため、
藩境の十六ヶ所に建てられたものの一つです。 始めは材木を用いていましたが、
安永九年(1780)に石標として建て直されました。その後、明治維新の際に撤去
されることとなりましたが、昭和十四年にこの石標が再発見されると、保存の道が
講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。
また、大字石原字植木には「従是東南忍藩」と彫られた石標がもう一基ありましたが、
そちらは現存していません。
平成十三年十一月 熊谷市教育委員会 」
その隣は浄土宗松原院 浄観山新照寺で、門の左に地蔵像などが祀られていた。
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宮塚古墳通りを横断して三叉路を右方向に行くと国道17号に合流する。
日本橋より70kmの標識がある。 陸橋を横断して反対側に出て、右斜めの
県道264号に入る。
この先で、国道17号の熊谷バイパスを横断するが、その手前に筋交橋がある。
* 「 江戸時代にはここから川越えをしていた。 玉井窪川越場 の跡で、現在は川はないが、安政二年(1855)に出された五街道細見に「 満水のとき は往来を人足で渡す 」 とあるので、難所の一つだったのであろう。
バイパスを横断すると水が流れる集落がある。 石丸病院の先に
右側に庚申塔が数基道脇にあり、奥に地蔵堂などがある。
道に面した左の大きい石には「庚申」下に「玉井邑(たまいむら)」の文字が見えた。
右の小さなのは一般的な絵柄の庚申塔である。 これだけ、周りが開け変貌すると、
庚申塚と観音堂などが残るのは奇跡に思えてしまう。
奈良用水を過ぎると信号交叉点の二つ目を左折するとJR籠原駅である。
交叉点を越えると左側に「明治天皇御小休所地」の石柱が立っている。
ここは江戸時代の志がらき茶屋本陣跡である。
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右側に地蔵尊があり、新堀北交叉点を直進すると右側に鬼林稲荷大明神が
ある。 東方町二丁目交叉点を過ると右側に御嶽神社がある。 この道、
県道264号は国道17号と平行しているので、多くの車が流れ込んできている。
道巾が狭いため、歩道は暗渠の上に造られている。 車が多い上に狭い歩道で、
怖い思いをして歩く。 このあたりは東京のベットタウン化して、以前のような
武蔵野を感じさせる雑木林はなくなってしまている。 途中の民家に石仏が置かれて
いるのを数ヶ所見た。 このあたりは昔のままである。
右手に熊野大神社の鳥居と参道が見えてきた。 この先、右に行く道は中瀬道で
ある。
その先の右側に立派な鳥居があり、大きな石碑がいくつかあり、社殿が建っている。
御嶽神社(木曽御嶽遙拝所)で、石碑の一つを見ると「霊場開基盛心行者百年祭」とある。
* 「 江戸時代庶民の生活が豊かになると伊勢神宮や善光寺詣り
に加え、富士山や御嶽山などに講を結成し集団で御参りするようになった。
御嶽山の霊場開基で江戸時代に有名なのは尾張の覚明行者と武蔵の普寛行者
である。 碑に書かれている盛心行者も御嶽教布教に携わった人なのだろう。
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右側の愛宕神社と幡羅中学校前の道を入ると黒門、そして三門(山門)がある 国済寺がある。 この寺は深谷城の前身の庁鼻和(こばなわ)城址である。 奥州管領の上杉憲英が城(というより館のほうがふさわしい)を構えた跡といわれ、 境内は広く樹木が多い。
* 説明板 「国済寺」
「 関東管領、上杉憲顕(のりあき)は十三世紀末、新田氏を押さえるため、この
地庁鼻和(こばなわ)に六男の憲英(のりふさ)をつかわし、館を築かせました。
憲英はのちに奥州管領を任じられました。 以後、憲光、憲長と三代この地に居住
しました。 館は一辺百七十メートルの正方形で、外郭を含めると二十八ヘクター
ルあります。 康応二年(1390)高僧峻翁令山禅師(しゅんのうれいざんぜんじ)を
招いて、館内に国済寺を開きました。本堂裏に当時の築山と土塁が残っています。
天正十八年(1590)に徳川家康から寺領三十石の朱印状を下付されています。
文化財に令山禅師と法灯国師の頂相、黒門、三門、上杉氏歴代の墓などが指定されて
います。 昭和五十七年三月 深谷上杉顕彰会 」
寺の正面は国道側で、黒門、そして三門(山門)があり、三門は深谷市の指定文化財
になっている。 本堂の裏に、応永十一年(1404)八月二日の没年を記した憲英
の墓など上杉家三代の墓がある。
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中学校の先から松などの樹木が道に植えられている。 これらは俗謡に詠われた 深谷の並木を復元したもので、総延長は約一キロである。
* 説明板 「深谷市中山道ふるさとの並木道」
「 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝え
ようと、この中山道沿いの樹々が「ふるさとの並木道」に指定されました。
この並木道は中山道が国道17号線と交差する地点の東西に伸び、江戸末期の安政
年間には松、杉合わせて四百本ほどあったといわれていますが、今では
「見返りの松」に昔日の面影が偲ばれるにすぎません。 現在の並木は中山道の
拡張整備に伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを植栽して復元したもので、
総延長は約一キロです。 平成三年三月 埼玉県 」
「見返りの松」の石碑が国道17号線と交差する原郷交叉点の三角地にあった。
以前は松があったようであるが、小生が訪れた時には松があったところはポールで
囲われていた。 見返り
の松は遊郭の遊女との別れの際、振り向いて別れを惜しんだことによる。
(注)見返りの松は平成十八年二月に枯れ死し、同年十一月に二代目の松が植えられ
た。 小生が訪れたのは4月だったので、準備中だったようである。
原郷交叉点はそのまま直進(本庄に向って左の道)する。
ここは深谷宿の南の入口(江戸方入口)で、道路整備により変ってしまっているが、
江戸時代は桝型になっていた。
ここから中山道は県道263号から県道47号に名称が変る。
三百メートル行くと稲荷町常夜燈がある。 稲荷町常夜燈は明治初期に建てられた
もので、北入口にある田所町常夜燈と同じ四メートルの高さがある。
深谷宿はここから北の田所町常夜燈までの約千八百メートル、
熊谷から二里半九町の距離で、江戸より九番目の宿場である。
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常夜燈のすぐ先に立派な豪邸がある。 豪商が昭和恐慌の時失業者救済のため、
建てたとのことで、桶川の天保飢饉の時建てた蔵と同様で、昔の豪商は立派
であった。
左側に江戸時代から営業している米屋「大政」がある信号交叉点を右折
すると、東源寺(とうげんじ)があり、山門前に加賀の俳人・菊図坊祖英の
「 死ぬ事を 知って死ぬ日や としのくれ 」と刻まれた歌碑がある。
このあたりは古い民家が残っている。
その先の行人橋は唐沢川にかかる小さな橋である。
深谷宿は天保十四年(1843)の宿村大概帳には宿内人口1928人、家数525軒、本陣1、
脇本陣4、旅籠80軒であり、中山道の宿場町のなかでも繁盛していたところで
ある。 田所町、相生町、本町、仲町、下町、稲荷町で構成されていた。
本住交叉点を右折し、七百メートルのところに深谷城址公園がある。
* 「 深谷城は庁鼻和城主だった上杉氏房憲が康正弐年(1456) に築城したと伝えられる。 徳川家康が関東入国後も使用されたが、寛永四年 (1627)に廃城となり、寛永十一年(1634)に取り壊された。 現在は城址公園に なっているが、当時の痕跡はほとんど残っていない。 」
仲町交叉点の少し手前左側に煉瓦製の卯建を上げた家がある。
ここまでもその先もそうであるが、卯辰を掲げた家や土蔵を持つ家などが
多く残っている。 江戸時代からの建物かどうかはわからないが、当時からの
商売を続けている店が多いというからすごいなあと思った。
仲町交叉点の手前右側にきん籘旅館があり、その前には「明治天皇御小休息地」
という標柱が立っている。
* 「 きん籘旅館は近江の人が創業した旅館で、明治十一年
九月二日、北陸、東海へ行幸のおり、明治天皇はここで休息された。
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仲町交叉点を左折すると東京駅風の深谷駅がある。
* 「 深谷駅が東京駅にそっくりなのは平成八年の立体交差 事業により駅が再開発される際、東京駅に使われた煉瓦が深谷市で作られ深谷駅 から送り出されたことに因んで、作成したからである。
深谷は江戸時代中期から窯業や養蚕が盛んになり、また、毎月五と十の日に六斎市 が立つようになった。 今当時の面影はないが、中山道沿いに本陣跡があり、 造り酒屋も多く、落着いた雰囲気である。
* 「 大田南畝は「壬戌紀行」に市の賑わいを「 駅舎の道の中 に苫、筵、畳、俵のようなもの、又はくだ物青物をつらねて賑わしきさまなれば 、輿かくものにとへば、ここは五・十の日に市たちてにぎはゝし、けふは五日 なればかくつどえりといふもおかし 」 と 記している。 」
仲町交叉点を過ぎると「東白菊」「深谷桜」醸造元の看板を出している
藤橋藤三郎商店がある。 その裏には煙突のある工場があった。
深谷交叉点を過ぎると本町で、右側に飯島印刷があり、その前に「本陣跡」の
説明板がある。
* 説明板「本陣跡」
「 (前略) 飯島家は宝暦(1752)より明治三年まで本陣職を務めた。 上段の
間、次の間、入側が古色を帯びて現存している。 」
その先左右に酒造所があり、共に大きな煙突が建っている。 左側にあるのは 滝沢酒造所である。
* 「 深谷には造り酒屋が多い。 滝澤酒造は菊泉(きくいずみ)と
いう銘柄の酒を造っているが、文久三年(1863)の創業である。
その他、東白菊の藤橋藤三郎商店や七ツ梅の田中藤左衛門商店などの造り酒屋が
ある。
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滝澤酒造では明治期にレンガを使用して建てられた煙突や建物が今でも使用
されている。
明治の実業家、渋沢栄一は深谷の豪農の出で、第一国立銀行など多くの企業を
誕生させたが、明治二十年(1887)、日本煉瓦製造株式会社を設立している。
酒造所の煙突に使用された煉瓦も同社製のものだろう。
* 「 ドイツから輸入したホフマン釜を用い、質の良いレンガを 生産したといい、その煉瓦は東京駅や赤坂離宮などに使用された。
その先卍のような交叉点の手前右側に田所町常夜燈がある。 ここは深谷宿の西 の入口(京方入口)になっていた。
* 説明板 「旧深谷宿常夜燈(田所町)」 <br>
「 江戸時代中仙道深谷宿の東と西の入口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはか
られた。 天保十一年(1840)四月建立。高さは四メートルで、中山道筋最大級の
常夜燈である。 深谷宿の発展を祈願して、天下泰平、国土安民、五穀成就
という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった
富士講の人たちで、塔身に透かし彫りになっている丸の中の三はこの講の印である。
毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明田、三反が講の所有になって
いた。
天保十四年には、深谷宿は約一・七キロの間に八十軒もの旅籠があり、近くに
中瀬河岸場をひかえ中仙道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町に
ある。 平成六年四月 深谷上杉顕彰会 」
常夜燈の道の反対に呑龍院がある。
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深谷宿はここで終わる。
中山道は仲町交叉点から県道265号になる。 呑龍院を過ぎて、最初の信号交叉点を
過ぎたところの三叉路に清心寺(せいしんじ)の
案内があるので左折し、JR高崎線の踏切を渡ると、清心寺の
山門の両脇に石碑群が祀られている。
庚申碑が多かったが馬頭尊と刻まれたのも多い。 馬方にとっては命の次に
馬が大切だったのだろう。
山門に入ってすぐの左手に「平忠度の墓」の石柱と「清心寺」の説明板があり、
塀の奥に供養塔がある。
* 説明板 「清心寺」
「 この地は荒川扇状地の末端で湧水が豊富で古代より人が住み六〜七世紀古墳が
多く築かれました。十二世紀源平一谷の戦いで岡部六弥太忠澄が平家きっての智勇
にすぐれた平薩摩守忠度(たたのり)を打ってその菩提を弔うため、忠澄の領地の
中で一番景色の良いこの地に五輪塔を建てました。 忠度ゆかりの菊の前が墓前
でさした桜が紅白の二花相重なる夫婦咲きとなり忠度桜として有名です。 戦国
期深谷上杉氏の三宿老皿沼城主岡谷清英は天文十八年(1549)萬誉玄仙和尚を
招いて清心寺を開きました。 江戸期幕府から寺領八石の朱印状が下付されました。
境内に忠度供養塔、腕塚、千姫供養塔、秋蚕の碑、谷繁実の墓がある。
昭和五十七年三月 深谷上杉顕彰会 」
岡部六弥太が好敵手の忠度の菩提を弔うため、自領で最も景色の良いこの土地に
五輪塔を建て、墓前には忠度桜を植え、その死を惜しんだ、と伝えられる。
源平盛衰記に纏わるこころ暖まる話である。
街道に戻り、街道を進むと次の信号交叉点の先の右手にあるのは萱場稲荷神社
である。
社の前の狐の石像がなければお稲荷さんとは気が付かない。
この辺は萱場集落であるが、源平一の谷の戦いで、平忠度を討った岡部六弥太の
所領だったところである。
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道は右に大きくカーブして行き、宿根交叉点で、また、国道に交差するが
直進すると右に滝宮神社がある。
岡部南交叉点を過ぎると右手に正明寺があり、入口に十二夜塔や馬観音などと
刻まれた石碑が点在している。
岡部北交叉点を過ぎると右側に「曹洞宗 玉鳳山源勝院」の看板があり、
「岡部藩主安部家菩提所 明治天皇御休憩跡」とあるので、入って行く。
山門は室町時代の様式を残す江戸時代のものである。
* 説明板 「源勝院」
「 源勝院(曹洞宗)は岡部の地を領地とした安部家(あんべけ)の菩提寺としてつくられた寺で、
境内墓地の一角に二代信盛(のぶもり)から十三代信寶(のぶたか)まで十二基の屋根
付位牌形の墓碑が東向きに南から北へ世代順に並んでいる。
天正十八年(1590)徳川家康の関東入国とともに、初代安部弥一郎信勝に岡部領が
与えられた。信勝は亡父大蔵元真(もとざね)追福のため、人見村(現深谷市)昌福寺
八世賢達和尚を招き、源勝院の開基とした。初代の信勝は、当時徳川家康と石田三成
との対立が激しくなったので、家康に従い大坂城に詰めていた。慶長五年(1600)
大坂城詰所で死亡し、大阪の鳳林寺に葬られた。安部家は、初代以降岡部の地を領し、
大字岡部の一角に陣屋を置いた。
源勝院表門を入ってすぐ左手に安部家の祖、安部大蔵元真(信勝の父)の碑がある。
安部氏は信州諏訪の出で、駿河国(静岡県)安部川の上流、安部谷に移り住み、元真の
時はじめて安部氏を名乗った。元真は、はじめ今川義元に仕えたが、後に徳川家康
に仕え、甲斐の武田信玄、勝頼と戦い、おおいに戦功をあげた。
安部氏歴代の墓及び安部大蔵元真の碑は町の指定文化財となっている。
平成三年三月 埼玉県 岡部町 」
(注)安部氏は大身旗本五千石で岡部に陣屋を構えたが、その後、数回にわたり加増を
受け、二万石余の大名になった。 加増された所領は愛知や和泉など数ヶ所に
分かれているが、大名であるのでこの地名をとって「岡部藩」と呼ばれる。
安部氏歴代の墓は寺の裏に、南から北へ十二基が並んでいる。
山門の右側にある大きな石碑は、明治天皇が東海北陸行幸したとき、ここで
休憩された記念碑である。
岡部北交叉点の左側に「高島秋帆の幽閉地入口」の石柱が建っているところを
左折して百七十メートル行き、右側に石柱が建っているところを右折すると畑の
中に「高島秋帆の幽閉碑」がある。
なお、このあたりに岡部陣屋があったようで、それを示す石碑が立っている。
また、陣屋の長屋門は全昌寺に残っているという。
国道に戻り、十分程行くと右側に普済寺がある。 入口に馬頭観音や庚申塔が並んで
いる。
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普済寺の開基は岡部六弥太忠澄で、本堂は新しく建て替えられているが、 本堂前の御影堂に岡部六弥太忠澄の像が安置されている。 なお、明治六年十月十七日 普済寺本堂に学校が 開設され、普済寺学校と称したとあるのが現在の岡部小学校である。
* 「 猪俣六太夫忠綱が岡部の地に館を構え、岡部氏と称するよう になって、三代目にあたるのが岡部六弥太忠澄で、武勇に優れ、情け深かったと 伝えられる人物である。 彼は治承・寿永の乱(1180〜1185)で源氏方に付き、 一の谷の戦いで平忠度を討ったことは平家物語に登場する。 」
忠澄の墓は寺の裏の畑の中にある小さな公園にある。 寺の裏を出て歩いて行くと公園というようなものではなかったが、畑の先に周りを 囲んだ墓所があった。
* 「 墓所の中には五輪塔は六基あるが、北の三基の中央が忠澄
の墓で、左が夫人、右が父行忠と伝えられる。 五輪塔が削られ変形しているなあ、
と思ったら「六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれる」という伝承があるので、
形がこのように変形してしまったのである。
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中山道はその先で国道と分かれて右側の道に入って行くが、右にあるのは 島護産泰(しまもりさんたい)神社である。 太田南畝の壬戌紀行に「 榛沢郡惣社 島護大明神、天津彦火瓊々杵尊としるせり。 」 と、書かれている神社である。
* 説明板 「島護産泰神社」
「 当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が当社の加護により進め
られた為、郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えら
れている。この為に当社の再建及び修築等は郡内各村からの寄付によりなされた。
祭神は瓊々杵尊(にぎにぎのみこと)と木花咲耶媛(このはなさくやひめ)という。
当社を島護と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに
深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、
伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は常に被害を受けたため、当社を
これらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
また、当社は安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には底の抜けた
柄杓を奉納することでも有名である。四月十日の春祭には里神楽が奉納される。
平成三年三月 埼玉県 岡部町 」
坂の上の集落は岡上である。ここで寄り路。 平坦になったと思えるところを 左折し進んでいくと、国道に出る手前に岡上屋台庫があり、その奥に 岡廼宮(おかのみや)神社がある。 こじんまりとした建物だが、 美しい彫刻を残している。
* 「 江戸時代、大田南畝が壬戌紀行に 「 岡村の人家すぐ。 右に聖天あり。又寺あり。又社あり。 」 と書いている聖天宮はこれであり、 明治時代に周辺の神社を合祀して、現在の名前になった。 」
今日の熊谷からの旅はここで終了することにして、岡部駅に行くため、国道を
越え、真っ直ぐ行くと、右側に古墳が見えてきた。 お手長山古墳である。
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昨夜は熊谷に宿泊し、岡谷駅に戻り、再出発。今日は新町宿までいく予定。
駅から中山道までの距離は一キロ程あり、これまでの駅からの距離で一番長い。
前回終了したところの先の三叉路で右側の道を降りて行き、岡西交叉点で、深谷
バイパスを越え、小山川に架かる滝岡橋を渡る。
左の小山川の堤防の道を進み、三叉路を細い道に入り、県道本庄妻沼線の下を
くぐって県道258号に合流。 信号交叉点の先の左側に八幡大神社がある。
* 「 八幡神社は正式には牧西八幡大神社という。
建久年間(1195)、児玉党の一派、牧西四郎広末が鎌倉鶴岡八幡宮から奉遷し建立
したものだが、文明三年(1471)の兵火で消失、廃社になったが、慶長十七年に
再興されたという歴史をもつ神社で、 この神社には金鑽神楽宮崎組が伝えられる。
神楽に使われる面は正徳年間(1711〜1715)以前の作といわれるので、それ以前からこの地では神楽が行われて
きたことになる。 江戸時代には信州の上諏訪などに出かけ奉納して
きた。 」
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八幡神社の先は牧西(もくさい)集落で、集落の北の入口の子育地蔵を祀る祠の脇
に庚申塔、西の賽神などの石碑が並んで立っている。
この後、道は左に左にカーブするように進むと、交叉点の右側に傍示堂集落センタ
ーがある。
傍示堂は昔ここが武蔵と上野の境であったころ「傍示堂」という国境を示す標柱が
立てられたのが地名の由来である。
「木曾名所図会」には 「 ここに大市あり。 人数多群集して
交易なすこと多し。 」 とあるが、これは利根川交易が盛んだったころの話で、
今はひっそりとした集落である。
中山道は交叉点を左折し、元小山川にかかる新泉(しんせん)橋を渡る。
さらに、諏訪町交叉点で国道17号を横断すると県道392号。
ゆるやかな坂で御堂坂(みとうさか)というが、寺のお堂ではなく、沢の入口などに
付けられる「ミト」から付いた名前である。 ミトは本庄台地を切り崩した小さな
谷状の出口のことである。
坂の途中のやや引っこんだところに文化元年(1804)の庚申塔と宝暦十三年(1763)に
宿内の馬方が建立した馬頭観音があるのだが、
車が多く、歩道はあるのだが、家に出入りする部分が削られているため、凸凹して
いて大変歩きずらいのに気をとられ、見過ごしてしまった。
中山道交叉点から本庄駅入口交差点は大正院を頂点として上り下るゆるやかな坂である
が、坂の名前は大正院不動堂から付いたといわれる。
中山道交叉点から一つ目の道を右に直進すると本庄城跡に出る。 この一帯は現、
城山公園になっていて、奥に城山稲荷神社がある。
* (ご参考) 「本 庄 城」
「 室町時代の弘治弐年(1556)に武蔵七党の武士団、児玉党一族の本庄実忠が
本庄城を築いた。 本庄氏は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏に攻められ、
北条方となった。 その子、隼人正の時代の天正十八年(1590)、羽柴秀吉が
小田原を攻めた時、この城も攻められ落城する。 徳川家康の関東入国で、
天正十八年(1590)、家臣の小笠原信嶺が城主となり、城下町として発展する。
しかし、慶長十七年(1612)、小笠原氏は慶長十七年(1612)に下総・古河に移封され、
本庄城は廃城となった。 本庄はその後は江戸幕府の天領となり、中山道の宿場、
商人の町となった。
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中山道交叉点から本庄駅入口交差点の
中山道には花の形をした可愛らしい街灯が建ち並んでいた。
本庄駅入口交差点の近くにある陶磁器小売の戸谷八商店には「創業永禄三年」
の看板文字があり、裏手の瓦屋根と土蔵造りの建物が長い歴史を感じさせる。
また、岸屋も元禄二年(1689)の創業である。
本庄宿は江戸から十番目の宿場で、深谷から二里半七町の距離である。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内4554人、家数1212軒、本陣2、
脇本陣2、旅籠70軒と、旅籠も多く、豪華な宿場で、飯盛り女が100人以上も
いた。
* 「 助郷に来た近郷の若者が村に戻らず、役人に取締り願いが 出たという話も残る。 太田南畝の「壬戌紀行」にも「本庄の駅舎にぎははし」と ある。 また、「書店があり。文広堂といふ。又新古本屋林といふも見ゆ」と あって、文化面も高かったようである。
本庄宿の町並は十七町三十五間、城寄りから本町、仲町、上町と西にあり、
寛文三年(1663)から宿の東西に市神が祀られ、二と七の日に市が立ち、大いに
繁栄した。
本陣は本町と仲町、脇本陣は本町に二つあったが、今は一軒も残っていない。
本庄駅入口交叉点を越えた右側の埼玉りそな銀行が田村本陣跡、その先左側の
足利銀行、東和銀行が内田本陣跡である。 右側にある本庄仲町郵便局は
秩父セメントの創始者、諸井恒平が昭和九年に建築したもので、木造二階建である
が、外観はタイル張りで 当時世界的に流行したアールデコ調に仕上げられて
いる。
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仲町郵便局の脇の道を右に入ると開善寺があり、小笠原信嶺の墓がある。
* 「 開善寺は天正十九年(1591)、本庄城主の小笠原信嶺が 開基し、家光より十五石の朱印地が下された寺であるが、数度の火災で古い建物 は残っていない。 境内の古墳上に小笠原信嶺夫婦の墓がある。 信嶺は 慶長三年(1598)に死去し、その後を養嗣子の信之(酒井忠次の三男)が継いだが、 慶長十七年(1612)、下総国古河藩へ移封になり、これで本庄藩は廃藩となり、 幕府の天領として、代官、伊丹播磨守の支配するところとなった。 壬戌紀行にも 「 御代官榊原小兵衛支配所なり 」 と、記述されている。
開善寺前を西に向うと突き当たりに慈恩寺と本庄市立歴史民俗資料館と
田村本陣の門がある。
田村本陣の門はここに移築され保存されていた。
* 説明板「田村本陣門」
「 この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。
本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣は
現在の中央一丁目六の区域で寛永十九年(1642)から宿泊記録が残られています。
本庄市教育委員会 」
その奥にあるのが本庄市立歴史民俗資料館であるが、本庄警察署だった建物で、
明治の洋風建築である。
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歴史民俗資料館の裏手にある安養院は太田南畝の壬戌紀行に「大きなる寺がありて
楼門たてり」とある寺である。
この寺の門前には珍しく纏(まとい)を作る店がある。
安養院の墓地に小倉家の墓地があり、そこに江戸時代の文人碑が林立している。
どれも粋を凝らしたもので、墓の主は小倉紅於といい、江戸末期に本庄で料理屋
を営んだ粋人。 自像を彫った墓があり、「墓が楽しい」という変った墓地
である。
* 「 加賀千代尼句碑、芭蕉画像句碑、渡辺崋山書の嵐雪、
基角の句碑など二十七基。 千代尼の句碑は長めの自然石の下方に瓢(ひさご)の
一筆があり、「 百生や つるひとすじの 心より 」 とある。 」
中山道に戻る。 本庄宿では寛文三年(1663)から宿場の東西に市神が祀られ、
二と七の日に市が立っていた。 市立図書館入口付近に「西の市神」があったはず
だが、痕跡も表示もなかった。 ローヤル洋菓子屋の看板を出している赤煉瓦造り
の建物を見付けた。
* 説明板に 「 明治二十七年に設立された本庄商業銀行が 所有していた繭保管倉庫を取得して、店舗兼工場にしている。 赤煉瓦は イギリス積みで、セメントが貴重品だったので、漆喰を混ぜたものを使用して 造られた。 」 とある。
本庄商業銀行は本庄には周囲から集められた生繭を扱う市場が設けられ、
経済が活発であったことから設立された銀行だが、銀行が繭を保管する倉庫を
持っていた、とはおもしろい。
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中山道を進むと右側に金鑚神社(かなさなじんじゃ)がある。 鬱蒼とした樹木に 囲まれ、丹塗の社殿は極彩色の彫刻で飾られて実に美しい。
* 「 金鑚神社は寛永十六年(1639)、本庄城主の小笠原忠度が創建
したもので、神紋も小笠原氏の紋である。
* 金鑽神社の入口の鳥居は屋根のようなものが付いた珍しいもの
である。 入ったところにある天にも届けといわんばかりの二本の木は県指定文化財
の大クスノキである。 寛永十六年(1639)、本庄城主小笠原信嶺の孫、忠貴が神社
改修に際し献木したものと伝えられ、樹齢三百五十年といわれる。
社殿は本殿、拝殿、弊殿が一体になっていて、本殿は享保九年(1724)、
拜殿は安永七年(1778)、弊殿は嘉永三年(1850)に建立されたものである。
幕に書かれた紋は最後の城主小笠原家のものだが、極彩色の彫刻で飾られ朱塗りの
社殿は美しかい。 ここは金鑽神社の遙拝所として建てられたもので、本宮は
ここから数十キロ離れた児玉郡神川村にある。
境内には幾つかの社が祀られていて、その前の常夜灯に文久三年と刻まれていた。
横にある総欅造りの大門は、別当寺だった威徳院の総門で、寺は神仏分離で廃寺に
なったが、門だけが残されたのである。
太々神楽の舞台もある。 免許を持つ
神楽として有名で、一社相伝の本庄組の 神楽は今でも神社の氏子に
よって継承されている。 」
本庄宿はここで終わる。
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(所要時間)
熊谷宿→(1時間30分)→植木の一里塚跡→(2時間15分)→深谷宿→(1時間50分)→岡部駅入口交叉点
→(1時間50分)→本庄宿
深谷宿 埼玉県深谷市深谷 JR高崎線深谷駅下車。
本庄宿 埼玉県本庄市中央 JR高崎線本庄駅下車。