金鑽神社を出て千代田三丁目交叉点で、藤岡道(県道462号)を歩道橋で渡り、
その先の三叉路で右の道に入る。 道は右に大きくカーブし、小島四丁目交叉点を
越える。 小島四丁目はまだ本庄市であるが、昔の小島村で、一里塚があった筈だ
が、確認できなかった。
このあたりは現代風の住宅地に変貌しており、昔の街道がどうだったかを
想像することはむずかしい。
左手に木の茂った小山があり、赤い鳥居が見える。 この小山は浅間山古墳で、
赤い鳥居と社殿は富士浅間神社で、江戸時代にはその前に茶屋があったという。
道の反対側の路地に入ると、この地区の人々が伝馬役(助郷)に苦しみ、涙を流した、
という「泪橋」跡の石碑がある。 現在は川はないが、橋の跡と石碑、庚申塔が
建つ。
しばらく歩くと御陣場川にかかる小さな橋(楠森橋)がある。 この橋を渡った
あたりは大字神保原(じんぼはら)町である。
神保原は旧石神村、忍保村、八町河原村が合併した際、一文字づつを取って神保原村
となったが、その後の合併で上里町の一部になっている。
ここは旧石神村で、本庄宿から一里、新町宿からも一里のところにあったので、
江戸時代には立場茶屋が置かれた。 木曽名所図会にも「 石神より左の方に
赤木(赤城)見ゆる、 富士峰に似たり。 此所立場也。 」 と紹介されている。
国道と平行しているせいか、車の通行が多く、歩道が凸凹していたり、
片側にしかないなど、とても歩きやすい道とはいえない。
国道と平行しているせいか、車の通行が多く、歩道が凸凹していたり、
片側にしかないなど、とても歩きやすい道とはいえない。
神保原一丁目交叉点で右折し、神保原北交叉点で国道17号を横断する。
そこから大字金久保で、キムラヤ乳業の道の反対の空き地に、小さな社(やしろ)
があり、その両脇に薬師像、二世安楽塔、庚申塔、二十二夜塔などのおびただしい
石碑群がある。
五百メートル位歩くと右側に金久保八幡神社があり、
そこから最初に右に入る道に「金窪館址入口」の石柱が建っている。
右奥に金窪城跡があるのだが、簡単には辿りつかない。 右の道を三百
メートル行くと萌美保育園角に「館入口」の小さな石柱があるので、ここを左折し
庚申塔と小さな南雲稲荷大明神を右折すると金窪城跡公園の前に「金窪城跡」の
木柱があり、奥に「金窪城跡」の石碑と説明板が立っている。
* 説明板 「金窪城跡」 児玉郡上里町金久保
「 金窪城跡は神流川に臨む崖上に残る平城の跡で、別名、汰瑯(たや)城と呼ばれ
た。 平安時代末期の治承年間(1177〜81)に武蔵七党である丹波から出た加治宗春の
構築と伝えられ、天弘年間(1331〜34)新田義貞が改築して家臣の畑時能に守らせた
という。 室町中期の寛政年間(1460〜66)には斎藤実盛りの子孫といわれる斎藤
盛光が居城した天正十年(1582)六月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦において、
一族ことごとく戦死し、城は兵火にかかって焼失し、斎藤家は没落した。 その後、
徳川家康の関東入国に伴い、川窪氏の所領となり、陣屋が置かれたという。
川窪氏は元禄一年(1618)に丹波国に転封となり、陣屋も廃されたという。 現在、
城跡の大部分は畑地や雑木林に変っているが、所々に遺存する堀や土塁の一部に
戦国の昔を偲ぶことができる。 」
道の右手の林の中にある陽雲寺には武田信玄の奥方の墓がある。
* 「 陽雲寺の寺名は武田信玄の奥方の陽雲院の名に由来する。 元久弐年(1205)の創建と伝えられる寺で、新田義貞が幕府打倒を祈願して不動堂を 造立した。 天文九年(1540)、金窪城主、斎藤定盛が諸堂を修復し、崇栄寺と名を 改めたが、天正十年(1582)の神流川合戦兵火で焼失した。 信玄の甥、武田信俊は 武田氏滅亡後、徳川氏に仕え、天正十九年、川窪与左衛門と名乗って、この地に 八千石が与えられ、養母である信玄夫人を伴って入封した。 夫人は当寺に居住し、 元和四年(1618)に没したので、法号の陽雲院をとって崇栄山陽雲寺と名を 改めた。 寺には信玄と葡萄模様の小袖の奥方夫妻の画像があるという。 」
境内に「鞍間太郎坊大神」と刻まれた石柱があり、立派な社(やしろ)が建って いる。 参道には石仏が並んで立っているが、その一角に新田義貞の家臣、 畑時能(ときよし)の墓所がある。
* 説明板 「畑時能の墓」
「 畑時能は、義貞が戦死后も南朝のため戦ったが、歴応弐年
(1339)、越前国で足利方に討たれた。 従臣の児玉五郎左衛門光信が首を持って
敵陣を脱出し、当地に持ち帰り、ここに墓を建てて、供養した。 児玉五郎光信も、
死後、時能の墓側に葬られ、二石祠が建立され、畑児塚と呼ばれた。 」
境内の銅鐘は、元禄時代に天命鋳物として栄えた下野国の佐野宿の鋳物師、
井上元峰により造られたものである。
陽雲寺から街道に戻ると市の先左側に上里町賀美公民館があり、その前に 「中山道」の説明板がある。
* 説明板 「中山道」
「 中山道は江戸と京都を結ぶ街道で、江戸期以降五街道として整備が進められた。
金窪村(現上里町大字金久保)は江戸から二十三里余、文政期(1818〜)の家数は162軒
、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。 新町宿が出来るまでは陽雲寺の東で北に
向きを変え、角渕(現群馬県玉村町)を経て、倉賀野宿へ向かっていました。この道は
三国街道とか伊香保街道と呼ばれていた。 新町宿が設けられたのは中山道で最も
遅い承応二年(1653)頃です。勅使河原村(現上里町大字勅使河原)は家数280軒、
絵図では武蔵国最後の一里塚を見られます。現在の街道はここで国道17号と合流
する。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には
神流川畔に建てられていた見透し灯籠が移築されている大光寺が見えます。 」
その先の土手の脇には「賀美村道路元標」がある。
公民館から六百メートル先、右側の旧家の手前に四基の庚申塔が祀られていた。
国道17号に合流する手前右側の民家脇にあるお堂の左側に「一里塚跡」の黒い
小さな石柱が立っている。 日本橋から二十三番目一里塚である。
国道17号に合流すると、神流川橋南交叉点を左折し、JRを越えると大光寺が
あるのだが、時間の関係からパスした。
その先に神流川が流れ、国道には神流川橋が架かっていて、親柱には見透燈籠
のレプリカが飾られている。
* 「 上野国と武蔵国との国境に流れる神流川は往古より荒れ川
で、出水毎に川流筋を変えて、旅人、伝馬、人足の悩みの種であった。
文化十二年(1815)、本庄宿の戸谷半兵衛が川の両側に常夜燈を建立し、夜になると
火を点して、夜道を往来する旅人の標準にした。
浮世絵師、渓斎栄泉の木曽街道六十九次「本庄宿」の絵は神流川の渡し場を描いて
いる。 右手に本庄側の見通し灯篭、中州までは仮橋、中州から新町側は舟渡し、
そして遠景に上毛三山の妙義山、榛名山、赤城山が描かれている。
その絵を頭に描きながら神流川橋を渡ると、神流川は想像していたより川巾が 広い。 当時の様子がかなり違うのだろうが、今の流れは本庄側一つだけで栄泉の画 にあった上州側の舟渡しがされる流れはなく河原であった。 橋の中程に群馬県と埼玉県の県境の表示がある。
* 「 大田南畝の壬戌日記に 「 河原ひろければ仮橋二つばかり わたる。 これ上野国と武蔵国との境なり。 」 とあり、季節や川の状況により、 上州側は川渡りになったり仮橋を架けたりしたようである。 」
神流川を渡ると右側に常夜燈二基と「神流川古戦場跡」の大きな石碑と説明板が 立っている。
* 説明板 「神流川合戦」
「 天正十年(1582)六月十九日、信長が本能寺で倒れた直後、関東管領瀧川一益は
信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機至れりと北条軍は五万人の大軍を
神流川流域に進めた。 滝川一益は義を重んじ勇猛な西上州軍一万六千人を率いて
、石も燃ゆる盛夏の中、死闘を展開し、瀧川軍は戦死三千七百六十首の戦史に稀なる
大激戦で、神流川合戦と呼んでいる。 後世、古戦場跡に石碑を建立し、首塚、
胴塚も史跡として残され、東音頭にもうたわれ、神流川の清流も今も変ることなく
清らかに流れている。 」
神流川合戦では、死者の血で神流川が赤く染まったといわれる。 この一戦で
一益の勢力下にあった金窪城は落され、一益軍は厩橋に退却した。
橋を渡り終えると左手に自衛隊新町基地がある。 その先の三叉路で国道と別れ、
右の道の県道131号に入るとこの三角地に地元のライオンズクラブが建てた実物大に
復元した新町宿の「見透し灯篭」と「中山道 → 新町宿」の木柱が立っている。
本物の見透し灯篭は江戸時代、国道の向かいの交番あたりにあったようで、
明治時代に売却され、現在は高崎市大八木の諏訪神社の参道入口にある。
このあたりが新町宿の江戸側入口(江戸方)である。 新町宿は上州七宿の東口に
当たり、神流川の渡しを控え、宿場がないと不便なことから、承応二年(1653)に
落合村と苗木村を合わせ新町宿として誕生した。
右側に土蔵造りの小さな八坂神社がある。 昔は大きな柳があって、旅人が休む茶屋
があったところである。
今は大きなけやきの下に、寛政年間(1789〜1801)に建てられた芭蕉の句碑が建っている。
句碑には、「 傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな 」と、刻まれている。
句碑の先、右側に諏訪神社の入口を示す鳥居があり、入って行くと更に鳥居が あり、その手前の右側には「神明威赫」、左側に「政清人和」と刻まれた石柱が 建っている。
* 「諏訪神社之由来」
「 御祭神 建御名方命と八坂刀売命
諏訪大明神が緑埜郡笛木村の鎮守として今の元宮の地をトして始めて奉祀されたのは
元正の頃の頃か。
慶安四年(1651)、室賀下総守により検地あり、中山道筋に町並の区画が行われ、
宿場町「新宿」が新らたに造営された。
承応三年諏訪大明神は村社に列し、元禄十五年(1702)には石鳥居成る。この頃には
笛木新町が街道筋に繁栄してきた。
宝永五年(1708)御神木が焼けた。この時光物が飛び来たり落ちた処を神域と定め、
大明神を御遷座した。これが現在の社地である由。
享保九年二月(1724)社殿の中へ宮殿を奉納し、京都へ赴き吉田家に願い正一位の神位
を授与され、御位をお宮に納める。
享保の頃二畝歩の土地を買いとり鎮守の大門を作るという。同十七年に石鳥居
成る。
延享四年正月(1747)新町宿の大火に遭い社殿、稲荷社、津島社等烏有に帰した。十年後
、宝暦七年にこけら葺きの荘厳なる社殿再建成り、同年六月二十四日御遷座する。
同十一年九月には銅葺の稲荷社成り全く旧態に復した。
明治三十九年(1906)の失火により社殿を全焼したが、同四十三年に先ず拝殿を再興し
、昭和十年(1934)に至り御本殿が完成され、以来神徳はいよいよ明らかに
氏子の尊崇は日をおって篤く現在に及ぶ。 」
拝殿前の常夜燈には文化十二年の銘があり、拝殿は彫刻が施されている。
また、神社の奥には元禄十五年の石鳥居の一部が保存されている。
なお、ここに伝えられる獅子舞は無形文化財に指定されている。
諏訪神社に並んであるのは「真言宗智山派 苗木山専福寺」である。
万治三年(1660)の創建で、本像は大日如来、墓地に江戸和算の権威、関流八傳の
一人と称された田口文五郎の墓がある。
専福寺の並びの浄泉寺は天正二年(1570)の創建で本尊は阿弥陀如来。境内の
大イチョウは高さ二十五メートル程、推定樹齢四百年で高崎市の指定文化財天然記念
物である。
浄泉寺を出ると左右の県道40号、かっての佐渡奉行街道である。
交叉点を越えて進むと右側の笠原家の門扉内に「新町宿高札場跡」の標柱が建っている。
宿場の東口からここまでが苗木新町、ここから宿西口までが落合新町で、
両町に境に高札場が建てられた。
新町宿は本庄から二里の距離で、江戸から十一番目の宿場である。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口1437人、家数407軒、本陣は
落合新町に2ヶ所、脇本陣は落合新町に1ヶ所おかれ、旅籠43軒であった。
* 「 中山道が開設された時は本庄宿から倉賀野宿までは対岸の 玉村宿を経るルートであった。 当時、落合村と笛木村は寂しい寒村だったが、 正保年間(1644〜1648)、中山道最大の大名、加賀前田家が倉賀野から新町を通る ルートを開拓し、加賀街道となったことで変わった。 中山道開通五十年後の 慶安四年(1651)、両村に伝馬役が課せられ、翌年、両村が合併し、新町になり、 承久三年(1654)にはこの道が中山道になり、亨保九年(1724)、新町が正式な 中山道の宿場になったのである。 特に笛木村は強制移動がなされ、ここに 居住させられた、というから、当時の庶民は哀れである。 」
そのようにしてできたため、新町宿は落合新町と笛木新町とそれぞれ分かれ
た行政行われたようである。 それにしても、 街道や宿場を変えるそれくらい、
加賀百万石の力があった、ということか?!
道の先に休憩所のような公園があり、新町道路元標の石碑があった。
ここは御在所公園で、「明治天皇新町行在所」の石碑が建っている。
奥に塀で囲まれた日本家屋が見えるが、明治天皇が北陸、東海巡幸の際宿泊された
ところである。
* 説明板 「明治天皇新町行在所」
「 明治天皇は明治十一年八月から十一月にかけて北陸、東海地域の御巡幸(視察)
を行い、その途中の九月二日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
当時は木造瓦葺平屋建ての本屋と附属棟の二棟で、旧中山道に正門を設け、
周囲は高さ九尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
昭和五十五年一月に新町の史跡文化財として指定を受けました。 」
以前は郵便局が建っていたが、今はその先に移転し、その後に行在所公園が
つくられたようである。
御在所公園を出て、東に向うと右側に於菊稲荷神社があり、
嘉永四年の鳥居の脇に、道祖神と庚申尊の石碑が建っていた。
於菊稲荷神社は宝暦年間(1751〜63)に宿場の於菊という美女と白狐の結び付きで
誕生したといわれる神社である。
* 説明板 「於菊稲荷神社」
「 戦国時代(天正十年)神流川合戦の際、白いキツネが現れ、北条氏が勝利を
収めたのを感謝して、社を構えたと伝えられるが、「於菊稲荷」と名付けられた
のは江戸時代の宝暦年間のことである。 神社の由来によると 「 新町に住む於菊
という美しい娘が重病にかかり、医者にも見放されため、稲荷に救いを求めた
ところ、 病はすっかり治った。 その後、於菊に夢で、 「 今後は人々の為に尽く
すように 」 という神託があり、 神社の巫女となり、人の吉凶、なくし物の
ありかまでさまざまな事を言い当てた。 ここから 「困ったことがあったら於菊
に聞け、稲荷の於菊に聞け 」 と言われるようになり、誰いうともなく
「於菊稲荷」 と呼ぶようになった。
新町の名所として、遠くは江戸、相模、長崎からも、参詣人が集まり、
大いに賑わったと言うことである。 」
双体道祖神もあったが、寄進が平成とあるので、最近彫られたものではと思った。
神社には村上義光を題材にした武者絵などの絵馬が掲げれ、
境内には文政六年(1823)、町人の浄財で作られた水屋や太々神楽の舞殿があった。
貞享乙丑(1685)、木曾路を旅した貝原益軒は 「 新町の民家は二百ばかり。
町の出口に橋あり 」 と 記録しているのをみると、江戸中期にはかなりの町並に
なっていたようである。
第2公民館と隣の駐車場前に「旅篭高瀬屋跡」の石碑が
あり、小林一茶の七番日記の一節が石に彫られている。
* 石碑 「史跡 旅篭高瀬屋跡」
「 十一 雨 きのふよりの雨に烏川留る
かかることのおそれを思えばこそ彼是日を費して門出はしつれいまは中々災いの日
をよりたるやう也 道急ぐ心も折れて日は斜ならされど、新町高瀬屋五兵衛に泊
雨の疲れにや すやすや寝たりけるに夜五更のころ専福寺とふとく染めなしたる
提灯てらして枕おどろかしていうやう爰のかんな川に灯篭立てて夜のゆききを介
けんことを願ふ全く少きをいとはず施主に連れとかたる かく並々ならぬうき旅
一人見おとしてたらん迄 さのみぼさちのとめ給ふにもあらじゆるし給へとわぶ
れどせちにせがむ
さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくあらんと思う 十二文きしんす
手枕や 小言いふても 来る蛍
逆へ帰らんとすれば 神奈川の橋もなく前へ進んと思へば烏川舟なし
ただ篭鳥の空を覗ふばかり也
とぶ蛍うわの空呼したりかり
山伏の気に喰はぬやら行蛍
一茶七番日記より 」
俳人小林一茶は文化七年(1810)五月十一日、中山道を下ってきたが、
烏川の増水で川留をくらい、旅籠高瀬屋に宿泊していると、夜更けに突然起こされ、
専福寺の者に 「 川渡りの助けのための灯籠を立てるため 」と神流川岸に建てる
石灯籠の寄進を強要され、幾度と断わったが根負けして、懐のさびしいところを
十二文寄付した。 「手枕や 小言いふても 来る蛍 」という句はその執こいさに
根をあげてよんだ句である。
その先の左側の民家の前に「小林本陣跡」の標柱が立っている。
宮本町バス停先を左に入ると宝勝寺がある。 宝勝寺は敷地も広く、建物もかなり
大きい。 宝暦十一年の大きな鐘楼門があり、山門脇には、安永四年の百番巡拝
供養搭と六地蔵があった。
隣の八幡神社には八幡絵馬というのがあるが、文久三年(1863)、高橋屋、丸富楼、
絹屋の遊女達が奉納したものである。 また、寛政五年(1793)の宿場の大火で
燃失した神輿を享和元年(1801)に復元したものも保管されている。
神輿は宮本、仲町、橋場の町内に御旅所を設け、落合宿の年番の町内が奉仕した、
と説明板にある。
八幡神社を北に向うと弁天橋の手前に弁財天が祀られている小さな祠がある。
ここには 「 むすぶより はや歯にひびく しみずかな 」 の
芭蕉句碑がある。
* 説明板「弁財天」
「 温井川の中の島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和48年に現状のように
なった。 弁財天の社は天明3年5月に建立された。 境内には芭蕉の句碑が
あり、この島には清冽な清水が湧きでて旅人ののどをうるおしたという句である。 」
境内には弁財天を祭る小さな祠とその周りに庚申碑二つと道祖神石碑が一つあり、」
安政弐年(1855)に建立されたという芭蕉句碑は古く字も読めない状態である。
渓斎栄泉の木曽街道六十九次の新町宿の絵は、弁天橋と温井(ぬくい)川を描いたと
されるが、絵にある山や崖は見当たらない。 説明板にあったように昭和四十八年の
工事で姿を変えてしまったのだろう。
新町宿はここで終わる。
温井川の弁天橋を渡ってすぐの立石新田の交叉点を「旧中山道」の標識に従って
右(直行)の道に入ると右側に伊勢嶋神社の石柱と鳥居があり、常夜燈は天保五年に
建立されたものである。
伊勢嶋神社は明治の神社統合令により周囲の神社がここに合祀されたと思われ、
御嶽山大神、蟲影山大祖、榛名山満行大○○など山岳信仰関係のものや大己貴命、
猿田彦大神、巳待など神を祀るもの、そして二十二夜講や庚申講に纏わるもの等、
多岐にわたる石碑が建っている。 寛政四年の道祖神や万延元年の庚申搭なども
あった。
奥に伊勢嶋神社の社殿があるが、周りに小さな祠が明治の神社令によりへ移祀された
神社なのだろう。 確認できなかったが、お伊勢の森の伊勢神社もその一つなの
だろう。
その先左側に大きな白壁の土蔵造りの屋敷がある。 周りを黒い板と白壁の塀で
囲っていて、白と黒の調和がばつぐんで大変すばらしい。
漆喰で塗られた家や倉が多数あるこの屋敷は川端家である。
* 「 川端家住宅は旧中山道の立石新田の豪農で、
かっては一町屋敷とも呼ばれた。南北棟の主屋は屋敷南側に建ち、骨格は江戸後期の
民家で、街道側の土間側を二階建てに改造したのは明治前期頃と思われる。その
他、別荘、土蔵五棟を含む十九棟の建物群として、国の登録有形文化財に
指定された。
その先の右側に信迎庵があり、常夜燈の前に橋供養搭が二つあった。
両側の常夜燈は安永二年と明和五年に建てられたものである。
* 「 左側の仏像が刻まれた供養搭は宝暦十三年に建立された
もので、基壇正面に 「 橋建立供養 国土安全 同國緑埜郡阿久津村住 願主沙門寿得 天下太平
宝暦十三癸未十一月 」と刻まれ、基壇左面に「 江戸本所石原 石工吾兵衛 」
が彫ったと書かれている。
もう一つ、右側の橋供養搭は安永二年に建立されたものである。
橋供養搭は、橋が洪水で流されないよう祈願することや石橋を建てた記念に建てる
ということから行われたようで、烏川の氾濫や川留めが
地元民に迷惑をかけていたということの証拠である。
少し歩くと立石新田の集落は終わりになり、その先に関越自動車道の高架が
見えてくる。
関越道をくぐり、烏川サイクリングロードを歩く。 土手に上がるとすぐ、右手 下の河原にお伊勢の森が見えてくる。 下に降りて小道をすすむと右手に小さな社 (やしろ)がある。
* 説明板「中山道お伊勢の森」
「 このあたりから烏川右岸に沿い温井川にある一帯を昔から砂原村と言っている。
いつの頃かが詳かではないが、伊勢島村というようになり、村の北端に伊勢大神宮を
奉斎して神明宮社殿を建立し村の鎮守として崇敬した。寛文(1661〜1673)年中の
初頭、洪水のため村民が離散し廃村となり、立石村に合併となったが、間もなく
立石村民が再開発して伊勢島新田村と仮称した。天和(1681-1684)年中正式に
分村して立石新田村ととなり、現在に至った。中山道は神明宮境内の北側を通って
いたが文化九(1812)年頃から南側を通るようになった。二百坪程の境内には巨大な
御神木の欅や榎、杉などがおい茂り、倉賀野宿の東外れ、例幣使街道とのわかされから
一里余りの位置に當り、道中の目やすともなり、広重筆による中山道六十九次次の
絵の中の一つはお伊勢の森付近の風景を画いたとも言われている。
明治四十二(1909)年七月、神明宮、稲荷神社、琴平社、諏訪社、菅原社、秋葉社、
戸隠社を稲荷神社社殿に合祀して伊勢島神社とし、鎮守様として専崇している。
昭和のはじめ項黷フ大木は壱千五円参銭で買い取られたことからもその大きさや
樹齢を想像することが出来る。お伊勢の森近くに伊勢島、伊勢宮下の小字名が
残っている。 昭和六十二年春、区内の篤志家によって檜造り銅葺きの社殿が
造営寄進された。
昭和六十二年十月 」
伊勢島村の現在は藤岡市の一部になっていて、地名が字の一部に残るだけで
ある。
堤防の上はサイクリングロードになっていて、周りが見通せる。
サイクリングロードの道には烏川に面して新立石樋管があった。
道脇に「 水鳥が 群れ飛び遊ぶ 烏川 」 と書かれた標柱が建っていた。
道の右側を烏川が広く静かに水を流しながら流れている。 河原には子供が
石を投げ水切りをしていた。
二十分程、サイクリングロードを歩き、左斜めに下る道の先に「旧中山道」の
道標があるので、一旦、県道4に出る。 薬師堂があり、その先の左側に宝昌寺がある。
中島(漆の内)交叉点で右折する。
県道13号(前橋長瀞線)を歩き、烏川に架かる柳瀬橋を渡るが、江戸時代の中山道
は舟渡しであった。 発着場が知りたかったが、分らなかった。
その先、岩鼻交叉点を左折すると右手に観音寺があり、その奥に岩鼻陣屋跡がある。
* 「 江戸幕府は上野国内六郡の天領を統治のため、 代官所(初代代官は吉川栄左右衛門、近藤和四郎)を設け、 寛政五年(1793)四月に 陣屋を建てた。 陣屋では博徒や無宿人の取締り、年貢徴収、訴訟事務などを行う ほか、幕府の関東取締出役の活動拠点ともなった。 慶応元年(1865)、木村甲斐守 勝教は関東郡代役となり、岩鼻陣屋で上野、下野、武蔵の三カ国の幕府直轄地 五十万石を管理し、生糸改印制の実施、農民による猟師鉄砲隊を編成して一揆の 鎮圧を行った。 しかし、郡代の木村甲斐守は、慶応四年二月、東山道総督府の 進軍を期に罷免され、同年三月、高崎藩が陣屋を接収し、 業務を引き継いた。 明治政府の発足により、上野国内と武蔵国西北部の旧幕府領、旗本領は 岩鼻県となったが、明治四年の群馬県の発足により岩鼻県は廃止された。 」
観音寺本堂は明治時代に焼失したが、最近建てられたように思えた。 寺には
岩鼻陣屋初代代官の吉川栄左右衛門の墓がある。
その裏は日本化薬の研修センターで至る所に社員用の駐車場がある。 その奥に
小高い丘があり、天満宮がある。 その下の広場が岩鼻陣屋跡である。
街道に戻り県道121号を西に進む。 新柳瀬橋北交叉点を越え、JR高崎線と八高線を
越える。 このあたり一帯は工場地帯である。 下町交叉点の手前の
右から来る道と交わる三叉路に「従是右江戸道、左日光道」の道標と常夜燈、その
奥に閻魔堂がある。 この三叉路は中山道と日光例幣使街道との倉賀野追分である。
常夜燈は上野国五料の高橋光賢という人が若い頃の生活を反省して造立を決意 し、自分の財産を投げ出し、不足分を人々の寄進によって文化十一年(1814)五月に 建てたというものである。
* 「 常夜燈には西面に 「 日光道 」 、南面に 「 中山道 」 、 北面に 「 常夜燈 」 、東面に 「 文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書 」 と 刻まられている。 また、常夜燈の四面に寄進者の名前が並び、役者の団十郎や 柏戸、雷電為右ヱ門、鬼面山などの力士の他、木村庄之助、式守鬼一郎という行司 の名もあり、 三百十二人の名が刻まれている。 」
道標に刻まれている日光道とは例幣使街道(県道136号)のことである。
* 「 例幣使街道は利根川を越え、下野(栃木県)に入る街道で、 群馬県内には、玉村、五料、柴、境、木崎、大田と六つ、栃木県には八つの宿場が あった。 例幣使とは東照宮の例祭に御所から金の御幣を届ける使者のこと である。 」
この追分には閻魔堂もあり、石の道標と常夜燈といかにも「お江戸で ござる」の雰囲気である。
* 「 閻魔堂は正式には阿弥陀堂。 中を覗くと御堂の真ん中 に閻魔大王が鎮座している。 閻魔大王は地蔵菩薩の化身といわれ、信仰すれば地獄に 落ちず、救われるといわれる。 」
この先の下町交叉点から上町交叉点までが倉賀野宿である。 倉賀野宿は江戸から十二番目の宿場で、上町、中町、下町の三つの町に分れて いた。 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口2312人(男1417人女895人)、 家数297軒、本陣は1、脇本陣は2、旅籠32軒(大4軒、中4軒、小24軒)である。
* 「 倉賀野はすでに寛保二年(1742)には宿場女郎屋が許可され、 六十四軒の宿場旅籠ができ、二百余人もの飯盛り女がいた派手な宿で、かの十返舎一九 も 「 乗るこころよさそふこそ見ゆるなり 馬のくらがのしゆくのめしもり 」 と狂歌に詠んでいる。 」
下町交叉点は江戸時代には下の木戸(江戸側の入口)があったところである。
江戸時代には下町と中町の境に五貫堀が流れ、石の太鼓橋が架かっていたが、
今はコンクリートの橋になって、昔の面影はない。
* 「太鼓橋の由来」
「 当時、ちょっとした増水でも流られてしまう粗末な板橋があり、それを見かねた
飯盛り女たちが享和弐年(1802)、二百両を寄進し、江戸の石工に依頼し、翌年八月に
完成させたと伝えられる中山道で有名な橋であった。 」
彼女たちは金で売られてきたので、一生ここで住み、水泡のように消えたことを思うと、
彼女等の善行には頭がさがる。
>中町交叉点の先、左側のスーパーの大きな駐車場の前に「本陣跡」と書かれた
石碑がある。 ここは勅使河原本陣の跡である。
中町交叉点を左折し二百五十メートル程行くと烏川に架かる共栄橋がある。
このあたりが、江戸時代に倉賀野河岸があったところである。
* 「 倉賀野は烏川と利根川を利用する江戸通いの物資運搬船の
最上流の河岸であった。 そのため、西上州はもとより信越方面との、水陸輸送の
拠点で、信州の大名や旗本四十二家の回米河岸となっていた。
また、米だけではなく信州、上州の産物である煙草や屋根板、砥石などが江戸に
運ばれ、帰りは行徳の塩や干鰯などを積んで来た。 「烏川が逆さに流れない限り、
お天道様と米の飯はついてまわる」といわれて賑わい、米宿は十軒あった。 」
栄泉の描いた木曽街道六十九次・倉賀野宿烏川之番では、 積荷を載せた川舟と水遊びをする子供の風景が描かれているが、 現在の川の姿からは水運盛んな様を想像するのは無理である。
* 「 倉賀野河岸は烏川と利根川を利用した江戸通いの通船の 最上流の河岸だった。 倉賀野河岸からは、信州や越後の大名や旗本四十二家の 回米(かいまい)が江戸に運ばれた他、西上州や信濃、越後から集まった煙草、織物、 木材などの産物を江戸に運び、帰り舟で油、茶、砂糖や行徳(千葉県)の干鰯や塩など を持ち帰った。 」
「 烏川が逆さに流れない限り、お天道様と米の飯はついてまわる 」 といわれた位、
繁盛していたが、明治十七年(1884)の高崎〜上野間の鉄道開通により、急速に衰えて
いった。 現在は共栄橋の左下に「倉賀野河岸跡」の石碑が建っているだけである。
街道に戻る途中で古い家を見た。 主屋は屋根に三つの天窓(てんそう)が載った切妻造り
で、瓦葺き、総二階の典型的な養蚕農家である。 明治初期の建物のようであるが、
清塚ヨシ家である。 その先に新酒ができたことを表す杉玉を吊るした家があったので、
造り酒屋なのだろうと思った。
街道に戻ると、倉賀野駅入口交叉点の左側に倉賀野仲町山車倉がある。
その前に「中仙道倉賀野宿中町御伝馬人足立場址」の大きな石碑が建っている。
石碑の斜め前(北側)に立派な門の連子格子の家があるが、その前に「中山道倉賀野宿
脇本陣跡」の黒い石標があるが、脇本陣を務めた須賀喜太郎家である。
その斜め前(向い)にあるのが須賀庄兵衛脇本陣跡、民家のブロック塀の前に
「中山道倉賀野宿 脇本陣跡」 の石碑がある。
脇本陣のすぐ先の健康会館の前に復元された高札場がある。
その先の上町交叉点で左折すると井戸八幡宮がある。
* 「 正保三年(1646)、倉賀野城三の廓跡に、一夜にして出現した 井戸が起源と伝えられる。 井戸は今も残り、その上に神輿が保管されている。 井戸は十年に一度開帳される。 」
その隣にある雁(かりがね)児童公園には「倉賀野城址」の石碑が建っている。
* 「 倉賀野城は鎌倉時代にこの地に落ち着いた武蔵児玉党の子孫が 倉賀野氏を名乗り、南北朝の頃、築城された城である。 戦国時代には上杉、武田、 北条氏の勢力争いに巻き込まれ、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に 陥落し、廃城になった。 」
街道に戻り、倉賀野神社入口で左に入ると、倉賀野の総鎭守である倉賀野神社がある。
倉賀野神社の祭神は大国魂大神で、本殿は丸彫り彫刻で飾られ、鷹や梟、兎などが素晴
らしい。
* 「 倉賀野神社の旧社名は飯玉宮(いいだまぐう)といい、
あるいは飯玉大明神、飯玉社と呼ばれていたようである。 その後、大国魂(玉)神社
と呼ばれた時代を経て、明治四十三年の神社合併令により、近郷の諸社を合祀して
現在の名前になった。
倉賀野神社の社伝によると 「 創建は崇神天皇四十八年、皇子豊城入彦命が東国経営に
当たり、斎場を設けて、 松の木を植えて亀形の石を祀ったことから始まる。
日本書紀によれば、豊城入彦命は上野国の一大豪族上毛野君の祖である。 」 とある。
大和時代より、上毛野国を安堵するために建立されたという古い神社で、御祭神の
大国魂大神は大国主命(おおくぬしのみこと)の荒魂(あらみたま)といわれる。
なお、古には同じ神を荒々しく神威さかんな側面を荒魂、柔和な徳を備えた側面を
和魂(にぎみたま)と称え、 異なる神名で呼び分ける習わしがあった。
本殿の建物は一間流れ造り、銅板葺き、元治弐年(1865)に上棟したもので、 社殿は総ケヤキ造りで、数多くの彫り物があり、それに彩色をせず、彫物師の腕を みせている。 拝殿正面の向拝にある彫刻は「飯玉縁起」を描いているようで、 三代目喜代松の作とされる。 北村喜代松は信州鬼無里(きなさ)村に彫刻屋台の名品を 多数残していることで知られる人物である。 神社には天明七年(1787)、 狩野探雲が六十三歳のときの作画で、大板四枚を繋ぐ大作の厄除雲龍図もある。
* 「飯玉(いいだま)縁起」
「 光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭、群馬大夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は芸能弓馬の道にすぐれていたのだが、兄たちは八郎を夜討ちにして、
鳥啄池の岩屋に押し込めてしまった。 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、
兄たちとその妻子眷属まで食い殺し、さらに、その害は国中の人々まで及ぶように
なった。 帝(みかど)はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。 生贄の順番になった
小幡権守宗岡は十六歳の娘、海津姫との別れを嘆き悲しんでいた。 都から旅して
立ち寄った奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入り、
頭を振り尾をたたく大蛇に向かって、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。
すると、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛び
上ったのである。 そして、烏川の辺へ移り、「 吾が名は飯玉 」 と託宣し、
消え失せた。 これを見ていた倉賀野の住人、高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が
建てさせたのが飯玉大明神である。 」
倉賀野神社の境内に赤い幟に「正一位冠稲荷大明神」と書かれている冠稲荷がある。 この稲荷はかっては太鼓橋の近くにあって宿場の女郎たちに信仰されてきた。 玉垣には「金沢屋内りつ・ひろ・ぎん」などと刻まれ、文久三年(1863)の常夜灯には 「三国屋つね」の名がある。 宿場町に水泡のように消えた女たちの証しである。
* 「 倉賀野宿には寛保弐年(1742)、宿場女郎屋の鑑札が許可され、 六十四軒の旅籠ができ、二百人ほどの 飯盛り女がいたという。 旅籠一軒に飯盛り女は 二人という定めがあったが、それ以上いた計算になる。 女郎奉公に出された彼女達が 信心したのが冠稲荷(三光寺稲荷)で、江戸時代には太鼓橋の近くにあったが、 明治の 神社統合のとき、この境内に移されたのである。 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて き、常夜灯と玉垣は当神社と養報寺に移された。 本殿前の常夜灯は太鼓橋近くから 移されたもので、文久三年(1863)、飯盛り女の三国屋つねが寄進したものである。
飯盛り女の数が多すぎて弊害があったとみられ、享和3年(1803)には手入れが
行われ、刑に処せられた者が出ている。 十返舎一九も
「 乗こころ よさそふこそ 見ゆるなり 馬のくらがの しゅくのめ
しもり 」 と狂歌を詠んでいる。
境内を歩くと、飯塚久敏の橘(たちばな)物語の石碑があった。
* 「 飯塚久敏は倉賀野宿出身の文人で、越後の歌人、良寛の非凡さに
着目し、没後十二年に良寛初の伝記を書いた。 それが橘物語である。 碑文には
橘物語の書き出しの部分が以下のように刻まれている。
『 いまはむかしゑちごの国に良寛とゐふ禅師あり 梅さかりなる頃人のもとに
こころあれバ たづねてきませ うぐいすの こづたひちらす うめの花見に
天保十とせせまりよとせというとし 』
橘物語が書かれたのは、天保十とせせまりよとせというとし、即ち、天保十四年のことで
ある。 」
北向道祖神の幟がはためく先に、小さな祠があり「 上町惣子供 施主大島三右
衛門 」 「 文化二年乙丑正月吉日 」 と刻まれた、一体の双体道祖神が祀られている。
安政三年(1858)の倉賀野の大火の時、延焼をくい止めた火伏の神とされ、倉賀野城跡に
あったのを昭和十二年に移転した、とある。
境内には太々神楽の舞台や脇本陣須賀庄兵衛家の妻、円が浪速から買い付けたという
天明神輿があり、倉賀野宿の繁栄振りをかいま見ることができた。
ゆっくり見てまわったので、かなりの時間が経過してしまった。
倉賀野宿の上の木戸(京側の木戸)は倉賀野神社入口交叉点あたりにあったようである。
木戸跡の先の右側にあるのは安楽寺である。 入口の左側に「馬頭尊」と刻まれた石碑が
あり、山門には「瑠璃光殿」の額があったが、これはお薬師さまが
祀られていることをしめすものである。 ここで倉賀野宿は終わる。
(所要時間)
本庄宿→(2時間30分)→神流川古戦場→(15分)→新町宿→(1時間20分)→柳瀬橋
→(40分)→倉賀野宿
新町宿 群馬県新町第二区 JR高崎線新町駅下車。
倉賀野宿 群馬県高崎市倉賀野 JR高崎線倉賀野駅下車。