東海道五十七次の内、伏見から大阪高麗橋までの道は京街道や大坂街道とも呼ばれる。
江戸幕府は参勤交代の制を交付すると東海道の延長として、京街道と伏見街道を道中奉行の管轄下に置き、
伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の四宿場を設けた。
京街道は豊臣秀吉が文禄五年(1596)に大阪城と伏見城とを結ぶ道として、毛利、小早川、吉川氏に命じて
淀川左岸に築かせた文禄堤が起源である。 文禄堤の終点となる淀宿は淀藩の城下町でもあった。
枚方はもともとは浄土真宗の順興寺を中心した寺内町だったが、
江戸時代に入り、台地上にあった町が、江戸幕府の命令により淀川沿いに移って枚方宿になった。
枚方宿は伏見と大阪の中間地点にあったことや三十石船の寄港地になったことで幕末に向かって大変繁盛した。
伏見宿から淀宿までは一里十四町(5.4km)の距離である。
三栖向町の狭い道に入ると左側に、三栖神社の鳥居がある。
鳥居の前にある石柱に「祭神 天武天皇」とある。
神社には 「 大海人皇子、後の天武天皇が近江朝廷との決戦に際して、
三栖の村人がかがり火を焚いて夜道を照らした。 」 という言い伝えが残る。
江戸時代の伏見宿は、三栖神社あたりがはずれだったのではないだろうか?
宇治川に注ぐ濠川に架かる肥後橋を渡る。
橋を渡るとすぐ左折して、川に沿って歩く。
道の右側には民家が連なっているが、何軒かの家の軒先に、祠が祀られているところを見ると、
昔からの住人が多いのではないかと思った。
道の左側の石段から川側に降りると、川の両脇は伏見港公園である。
屋根付きの休憩施設は伏見港から浪速へ下った三十石船をイメージしたものである。
濠川に架かる橋を渡り、対岸に行くと「宇治川派流 一級河川 伏見港」と書かれた地図がある。
江戸時代には京橋の近くに寺田屋のような船宿が多かったことや
伏見港から三十石船、過書船、伏見船などで、淀川を下る旅人が多かったこと等が分かった。
「祝平成6年伏見港開港400年記念」 の看板が金網に囲われていて、その奥に復元された船が繋がれている。
奥のテニスコートや室内体育館も「伏見港跡」とあったので、伏見港は予想以上に大きなものだったのである。
x | x | x | ||||
堤防道に戻り、淀宿に向かう。
堤防上の濠川沿いの道を進み、京阪電車を横断、高架道路の下をくぐる。
国土交通省淀川河川事務所伏見出張所の建物の手前の三叉路で、
左側の濠川に沿ってある歩道に入り、宇治川に向かって行くと、三栖閘門がある。
「 三栖閘門は、昭和四年(1929)、宇治川の改修を行った際に伏見港と宇治川を繋ぐため、
造られた施設である。
二つのゲートで閘室内の水位を調節して、水位の違う濠川と宇治川を連結させ船を通すようにしていた。
昔はたくさんの船がこの閘門を通って、伏見と大阪の間を行き来していたという。
現在は産業遺産として保存され、近くに資料館もある。 」
その先の三叉路で道は突き当たるので、右折して進むと河川事務所の裏側になり、 右からの舗装道と合流するので左折して、堤防道を左に宇治川を見ながら進む。
道は右にカーブしながら、右側にユータウンするように進むと、左側に宇治川に注ぐ新高瀬川が流れている
「 高瀬川は、慶長十六年(1611)、門倉了以が資材運搬用に京都の中心部と伏見を結ぶため開削した運河である。
大正九年(1920)までの約三百年間、京都と伏見の間の水運として利用された。
川底が浅いため、底が平らな箱型運搬船を使用したが、この舟を高瀬船と呼んだので、
川の名が高瀬川となった。
その後の鴨川の改修などにより、高瀬川は鴨川で京都側と伏見側に分断され、上流部分を高瀬川、
下流部分を東高瀬川、新高瀬川と呼ばれている。 」
川の上流へ向かって数十メートル行くと、左側に鉄製の小さな橋があるので、
橋を渡って対岸の堤防道に出る。
この堤防道は府道124号線で、車の通行がけっこう多いが、道幅は二車線分もないような狭い道である。
左折して、新高瀬川の下流に向かって歩くと道は右にカーブし、
右側の堤防の下には京都大学防災研究所の建物が建ち並んでいるのが見える。
前方に横切る橋は、阪神高速道路京都線(第二京阪道)の京都南大橋である。
橋の下をくぐると、右手に京阪本線の電車が走っていて、
その先には京阪国道(1号線)の宇治川大橋が見える。
宇治川大橋の袂にある交差点に出ると、この交差点には信号もなく、車も左折だけの一方通行の標識だけで、
車は全て左折して、宇治川大橋に吸収されていった。
車が多く走る京阪国道を横断することは不可能なので、階段で下の道に出て、京阪国道の陸橋の反対側に出た。
道の左側には京阪電車の線路が道に沿って続いているが、そちらから上る道はなさそうである。
x | x | x | ||||
仕方がないので、京阪国道の側道を京都方面へ歩きながら、国道に入る道を探す。
二百メートル以上歩くと、左側に油揚げ・豆腐を造る、 京禅庵の工場があり、
国道と側道が交差するところから京阪国道に入ることができた。
京阪国道の歩道を大阪方面に歩き、宇治川大橋北詰交差点まで戻り、
時間をだいぶロスして、堤防道の反対側に出た。
こちら側の府道は二車線で、歩道も併設されているので、安心して歩ける。
道の左側には「宇治川」と書かれた看板があり、道の右下には京阪電車が頻繁に通っていく。
宇治川は穏やかな表情で、整然と流れている。
「 琵琶湖を源流とする宇治川は、江戸時代以前は巨大な巨椋池(おぐらいけ)に流れ込んでいた。
巨椋池は周囲十六キロという巨大な池で、遊水地を形成していて、河運には良かったが、
治水や陸路としてはいろいろと問題があった。
豊臣秀吉が伏見城の築城をすすめた際、大規模な河川改修を行い、
伏見から納所までの宇治川の右岸に、淀堤(文禄堤とも呼ばれる)堤防を築いて、宇治川の流れを固定した。
この堤上の道が伏見と淀城を結ぶ道として、東海道(京街道)の一部になったのである。
その後も、河川改修と巨椋池の干拓事業が続けられて、昭和四十年頃には巨椋池は姿を消した。 」
府道に入り、千二百メートル程行くと三叉路で、左は川に沿ったほそい道、 右にカーブするのが府道で、その先に京阪電車の踏切が見える。
東海道(京街道)は宇治川から離れ、踏切を横断しその先の三叉路を左折して、京阪本線沿いに進む。
このあたりは松林住宅街で、京阪電車の線路に沿って住宅街が続くが、江戸時代には淀宿の城外の町だった。
x | x | x | ||||
淀宿は淀藩の城下町であり、伏見宿からわずか一里十四町というの近いところにあった宿場である。
「 淀宿は元和五年に設置されたが、江戸幕府は元和九年に伏見藩に代わり、淀藩を設置し、
同年に淀城が造られた。
従って、江戸時代の淀城は豊臣秀吉が築城して淀君を住まわせた淀城ではない。
秀吉は伏見城造営の際、淀城を取り壊したが、
徳川家康は伏見城を廃城にして、桂川、宇治川、木津川が合流する三角州に新に淀城を築いた。
淀宿はこの新しい淀城の領域にある三つの町と淀小橋でつながった城外の三町で出来ていた。 」
左手前方に、京都競馬場があり、正面に競馬場への横断橋がある。
横断橋下の道の右側に、 「 慶応四年正月 史蹟戊辰役東軍西軍激戦之址 」 と、書かれた白柱と、
戦死者慰霊石碑があり、花が供えられている。
「 戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いは、数の上では勝っていた幕府軍が、政府軍の錦の御旗の前に
多数の死傷者を出して淀まで敗退し、この辺一帯で最後の激戦が行われ、
新撰組も先頭に立って戦い、多くの戦死者を出した。
敗退した幕府軍は幕府側の淀城に入ろうとしたが、淀藩主の稲葉正邦は寝返り、
幕府軍に門を閉ざして開けなかったので、
仕方なく橋本まで後退し、以降幕府軍の弱体化と敗北へと傾いていった。 」
左側の柵の奥には京都競馬場の建物と時計塔が建っている。
ここを過ぎると、競馬場や京阪電車と離れ、道は右にカーブし、
車道と離れた右側の坂の上に歩道と民家がある。
そのあたりが頂上で、歩道は下り坂になり、交差点手前の右側の建物の外壁の下に「淀小橋旧址」の石碑がある。
「 江戸時代の宇治川はこのあたりを流れていた。 淀小橋は淀城と城外の町をつなぐ橋で、幕府軍が撤退するとき、 薩長連合軍が追撃できないように焼き落としたと伝わる。 」
江戸時代の街道は、淀小橋を渡ると南に向う宿場特有の鉤型の道で、
その先の道に出ていたが、今はその道は残っていない。
道をそのまま直進すると、変則六差路の納所(のうそ)交差点に出る。
「 納所の地名は、淀川を行き来する船の港として物産を納める倉庫が連なっていたことからきているといわれる。
淀は水陸交通の要衝として、問屋場、伝馬所が設けられ、五百隻もの淀船の母港だったのである。 」
x | x | x | ||||
納所交差点は左折して、東南東へ進む道(府道125号)に入る。
前方には京阪電車の踏切が見えるが、踏切までは行かずに道の右側にあるモスグリーンの建物の脇、
「 淀本町 商店街」と書かれたポールのところを入っていく。
淀宿には本陣、脇本陣はなく、旅籠が十六軒の小さな宿場だった。
淀本町商店街は、全長数百メートルしかない短い商店街で、淀では唯一の商店街である。
近くに伏見や枚方があるので、生き延びるのは大変と思ったが、
JRA中央競馬の開催があるのでやっていけるにだろう。
街道はその先の三叉路で左折するが、右手奥には京阪本線上り線(京都方面)の淀駅があった。
京阪電車は、上りの駅と下りの駅とは違うところにある。
(注)訪問した時は京阪電車の立体化工事中で駅が分れていたが、今はロータリーも整備され、
一体的な運用になっている。
駅の南西に、淀城公園があり、「式内興杼神社」の標柱と鳥居が建っている。
神社の由来
「 興杼(よど)神社は、豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命を祀る神社で、
古くは淀姫社又は水垂社とも呼ばれた。
応和年間(961-964) 僧の千観内供が、肥前国河上村の興止日女大神(よどひめおおかみ)を
勧請したことに始まると、伝えられている。
当初は水垂町に祀られていたが、明治三十三年、桂川改修工事のため、ここに移された。
慶長十二年(1627)に建立された興杼神社の拝殿は国の重要文化財に指定されている。」
隣にある稲葉神社は、稲葉正成<(いなば まさなり)を祭神とする神社である。
「 稲葉正成は、戦国時代から江戸初期にかけての武将で、美濃の稲葉重通の婿となったが、
妻に先立たれた後、結婚したのが重通の姪である福(後の春日局)である。
彼は豊臣秀吉、小早川秀秋、徳川家康に仕えた。
家康に仕えたからは美濃国十七条藩主、越後国糸魚川藩主、下野国真岡藩初代藩主となったが、
その末裔の稲葉正知が、享保八年(1723)に、佐倉藩から淀藩に移封され、
その後、稲葉家が明治まで淀藩主を務めたことから、この神社が誕生した。 」
x | x | x | ||||
稲葉神社の先には、淀城の石垣が残っていて、その前に淀城の説明板がある。
「 淀城は二代将軍徳川秀忠の元和五年(1619)の伏見城廃城に伴い、
桂川、宇治川、木津川の三川が合流する水陸の要所の淀の地に松平越中守守綱に命じて築城させた城で、
元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。
翌寛永三年、秀忠、家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
淀城には宝暦六年(1756)の雷火で炎上するまでは白亜五層の天守閣があった。
また、周囲を二重、三重の濠をめぐらせて、濠の中には城内に水を引くための水車があった。
江戸時代の名所図会を見ると淀城の左手に二連の水車が描かれている。
水車は城の西南と北に取り付けられていて、直径が八メートルもあったという。
「 淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると ・・ 」 という歌で有名になった。 」
「淀川瀬水車旧趾」の石碑は城の石垣が残る濠の北側の府道13号線の道端にある。
江戸時代には水車は毎日水を汲み、城内に水を送っていたのだろうと思った。
先程の淀駅の手前の三叉路まで戻る。
東海道はその前を直進であったが、京阪の線路で切断されている。
京阪の線路沿いに北二歩き、淀駅手前の踏切を渡る。
左側に高架になった京阪本線淀駅があり、その先は京都競馬場敷地の西側にある府道125号線に出る。
府道はその先で90度曲っているので、右折して住宅街の狭い道を歩く。
淀下津町の左側には古い家が三軒建っている。
少し進むと左側につくだ病院がああり、その先で道が二つに分かれる。
右へカーブする道を行くと、淀下津町バス停があり、左側にローソンがある。
その先左側に浄土真宗本願寺派の文相寺がある。
その先の左側の家には「運輸省免許 競走馬輸送竹内運送株式会社」の大きな看板、そして天満宮がある。
さらに行くと橋があり、両側の橋の下を見るとコンクリートで縁取られた川が見える。
小公園になっているようで、淀緑地という。
この先の一方通行の三叉路では直進し、坂を上ると府道15号線と交差する信号交差点に出る。
交差点の左方に宇治川に架かる淀大橋がある。
江戸時代の淀宿はここで終わる。
江戸時代の「拾遺郡名所図会」には、新町と美豆の間に木津川が流れていて、
淀大橋は木津川に架けられている。
現在の木津川はもっと下流で、桂川と合流するように、
宇治川、木津川、桂川の流れが江戸時代と今では大きく変わっている。
その変化をもたらしたのが巨椋池の干拓で、川の流れを大きく変化させた。
江戸時代の姿を想像することは難しい。
x | x | x | ||||
淀宿から枚方宿までは三里十二町(13km)の距離である。
東海道(府道126号)と府道15号線と交差する信号交差点で、東海道は府道とは別れて直進する。
少し行くと右側に西岸寺があり、このあたりは淀美豆町になる。
西岸寺を過ぎると二つ目の交差点の手前にNTT西日本京都支店淀別館があるが、
次の次の交差点を右折して細い道に入る。
八十メートルほど先の三叉路を左折すると長い直線道路になる。
この通りの両側には古い家がところどころに残っている。
昔の街道の雰囲気を感じさせて道を行くと、左側の圓通寺の先から道はゆるやかな下り坂になる。
その先で住宅は途切れると前方が急に開けて一面が畑となる。
解放感ある畑の中を進むと右からの道と合流する。
道の右側の塀で覆われているところは、京阪電車の車両基地、左側には松ヶ崎記念病院がある。
病院を通り過ぎ京阪電車のガードをくぐるとすぐに道は二つに分かれるので、左側の細い農道に入っていく。
道はガードに沿って右にカーブし、左右は田畑、
正面に京滋バイパスの高架橋と宇治川に架かる石清水大橋、
その先には旧京阪国道を走る車の姿が目に飛び込んでくる。
七十メートルほど行くと用水路があるが、そのあたりが京都市伏見区(淀美豆町)と八幡市(八幡在応寺)の境である。
東海道はこの先どのようになっていたのか?
江戸時代の木津川、宇治川の位置は現在と違うし、巨椋池もあったので、これらを避けるように歩いたと思うが、どうなのだろうか?
用水路の脇の狭い道を歩き、京滋バイパスの石清水大橋の付近までくると、
左手にある宇治川の堤防に上がる階段を登る。
橋の下をくぐり堤防道を直進し、旧京阪国道(府道13号線)の御幸橋に出る。
御幸橋(ごこうばし)は現在、四車線化の工事が行われているが、
宇治川にかかる大阪方面の橋は新築されたきれいな橋である。
「
石清水八幡宮への参道は御幸道と呼ばれていたので、
昭和五年(1930)に橋を架けた際、橋の名を御幸橋にしたという。
橋は淀川御幸橋と木津川御幸橋の二つで、淀川と木津川をわたり、八幡市科手に出る。 」
x | x | x | ||||
歩道も付いているので安心して渡っていくと、右手の堤に沿って桜並木が続いているのが見えた。
橋の上から見える前方のこんもりとした山は石清水八幡宮が鎮座する男山である。
橋の先は三叉路で、三叉路を渡った正面の道路案内板には
「 右大阪13号 左木津川市、京田辺市 直進京阪八幡市駅 」 という表示板がある。
直進京阪八幡市駅とあるが、三叉路を渡り左折すると歩道は右にカーブする。
その先は長い下り坂になっていて、東海道は右側の八幡市営駐車場の先の交差点で右折する。
ここで石清水八幡宮に立ち寄る。
道を直進し、小さな橋を渡るとコンビニ、右手に京阪の八幡市駅があり、
直進すると右側に、 やわた走井餅老舗がある。
餅は小ぶりだが、淡白でうまかった。
「 明和元年(1764)、大津から山科に抜ける追分の茶屋で走井の名水を用いて、
井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことが起源で、
六代目の四男、井口嘉四郎が明治四十三年に石清水八幡宮の門前で営業を始めた。
餅の形は、三條小鍛治宗近が走井の名水で名剣を鍛えたという故事に因み、刀の荒身を表している。
なお、山科にあった本家は昭和の初期に廃業し、その場所には月心寺が建っている。 」
その先にある「八幡宮」の幣額が架かった鳥居が、岩清水八幡宮の一の鳥居である。
「 岩清水八幡宮は、貞観元年(859)の創建で、応神天皇、神功(じんぐう)皇后、比(ひめ)大神を祀る。
承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)の乱、元寇等の際には国家の危急を救う神として朝廷の崇敬を受けた。
また、武家の守護神として、源氏の信仰が厚く、その分社は全国に及んでいる。 」
石清水八幡宮参拝するには、その先の二の鳥居から七曲がりの坂などの坂道の参道を、
三十分程上るのが正式である。
時間短縮或いは参道を上るには自信がない人など多くの人が利用するのは、八幡市駅の右手のロープウェイである。
これを利用すれば五分で山頂駅、そこから五分歩けば岩清水八幡宮本殿の入口・南総門前まで行ける。
x | x | x | ||||
石清水八幡宮は空海の弟子の南都大安寺の僧・行教律師が、宇佐神宮に参詣した折に、
「 われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん 」 との神託を受けて、
清和天皇の命により、社殿を建立したのを創建とし、創建当時は宇佐八幡宮と同じような本殿だった。
その後、天皇家の崇敬を受け、大きな建物に変わっていった。
現在の建物は、三代将軍徳川家光により、寛永十一年(1634)に造営されたものである。
「 桧皮葺きの本殿は、前後二棟からなる八幡造りという建築様式で、その前には幣殿、舞殿、楼門と続き、
周囲を百八十bに及ぶ回廊が囲んでいる。
本殿をはじめ建物の全てが丹漆塗りで、
随所に当時の名匠による極彩色の彫刻が刻まれている壮麗な社殿で、
国宝である。
また、本殿の棟の間に架けられている黄金の樋は織田信長により、寄進されたものである。 」
お参りを済ませ、ロープウェイで下に降りる。
一の鳥居の前に戻ると、鳥居の手前に右に入る狭い道があり、「神応寺」の看板がある。
入っていくと右側に「神応寺」の標柱があり、石段を上って行くと小高いところに神応寺がある。
「 神応寺は、貞観二年(860)に石清水八幡宮を勧請した行教律師が応神天皇の霊を奉安して建立した寺で、 後に天皇の号をはばかって神応寺と改めたといわれる。 明治維新までは石清水八幡宮の神宮寺だったが、 明治政府の廃仏棄却で現在の姿になった。 」
石段下に戻り、その先に進むと右側の石段上の小高いところに巨大な五輪塔が建っている。
説明板「石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)」
「 高さ6m、地輪一辺2.4m、
全国最大規模の鎌倉時代の五輪塔で、国の重要文化財に指定されている。
摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、
その恩に報いるために建立されたと伝えられ、
航海の安全を祈って参拝され、航海記念塔として称される。 」
先程の八幡市営駐車場の先の交差点まで戻り、東海道の旅を再開する。
交叉点を曲がると、右側に八幡市駅自転車駐車場のベージュ色の建物があり、
このあたりには古い家が残っている。
細い道を歩いていくと、道は木津川へ近づき、その後は堤防沿いに進む。
この辺りは八幡市八幡科手という珍しい名前で、
左側の線路の先には「曹洞宗常昌寺」と書かれた看板と建物がある。
その先の三叉路で直進するが、車が一台通れるかどうかという狭い道である。
その先の堤防ののり面に樹齢千年近い楠の大木がある。
「東海道分間絵図」によると、淀宿で淀大橋を渡ると、土手の道になり、
松ヶ崎記念病院病院の先の土手から、この楠の大木の場所まで直進するように、東海道は描かれているので、
江戸時代の東海道は直線で繋がっていたようである。
x | x | x | ||||
このあたりは橋本尻江町、民家に突き当たったところで左折、そして右折して橋本北ノ町を進むと、 道の左側の民家前に、文政五年の八幡宮常夜燈が建っている。
堤防が接近するところで右側から道と合流し、大谷川に架かる橋を渡った先の三叉路で右折して、
道幅のある道に合流する。
その先の三叉路角の八幡市消防団・消防器具庫の右側に、左に少し傾いている道標が建っている。
この道標は文政二年(1819)の建立で、 「 右八まん宮山道 是より十六町 」「 左大坂下・・ 」 と書かれている。
東海道は直進の一方通行の狭い道である。
この道を行くと左側に、「豊影稲荷大明神」を祀る神社があり、
門や塀や庭木のある屋敷や白漆喰の家が建っている。
その先の右側には橋本郵便局、神社があり、突き当たった三叉路では東海道は右折、
左折すると京阪橋本駅に行ける。
その先の三叉路の先には大谷川に架かる橋があり、その先には旧京阪国道(府道13号線)、
その奥には淀川の堤防がある。
橋の手前の民家の前に、明治二年(1869)建立の 「 柳谷わたし 」 、「 山ざき あた古わたし場 」 、
「 大阪下り舟のり場 」 の道標が建っている。
「
橋本は、伏見と大阪を結ぶ東海道(京街道)と、対岸の山崎とを結ぶ渡しの船着場もある交通の要所だったので、
江戸時代から料理旅館があったが、明治以降、大阪からの業者により遊廓ができた。
遊郭は京阪電車を利用してくる客で大繁盛したが、
昭和三十三年施行の売春防止法により旅館やアパートなどに転業せざるをえぬようになった。
伏見の中書島遊郭もその時、廃業している。 」
東海道は三叉路を左折して進むが、このあたりは橋本中ノ町で、昔は遊郭があったところだが、
今は古い建物が並ぶ静かな街という印象である。
とはいえ、家の窓ガラスにスナックの文字が残っていたり、
格子や欄間、玄関のタイル細工などに、料亭や旅館だったことを示す装飾があったりして、
遊郭後の飲食街への転換時期を感じさせるものがある。
こうした家は橋本小金川町まで残るが、右側に「ゆサウナ 橋本湯」の看板があるところが橋本の町外れである。
「
東海道はその先の三叉路を直進した坂道の京阪電車の線路で途切れるが、
江戸時代の東海道は、旧京阪国道(府道13号線)の右側にある河川敷を歩き、
久親恩寺の付近に出たようである。 」
x | x | x | ||||
東海道は京阪電車の線路で終わっているので、 手前の小金川踏切を渡ると、踏切から十メートル程先が京都府と大阪府、 八幡市と枚方市の境である。
十メートル程先の三叉路で、右側の農道のような小道に入る。
右手には京阪電車が頻繁に行き来していて、正面にスモッグで煙る楠葉駅前の高層マンションが見え、
それ以外は田畑が広がっているだけの道をのんびり歩いていく。
左手の黄色い塀に囲まれた寺院は、 天王山木津寺 久修園院である。
(山門の前の枚方市教育委員会の)説明板
「 天王山木津寺 久修園院(てんのうざんこつじ くしゅうおんいん )は真言律宗の寺で、
奈良西大寺が本山、この寺は別格本山。
本尊は釈迦如来で、霊亀二年(716)に行基により開基され、神亀二年(725)に落慶されたとされる。
多くの塔頭と伽藍を持つ大寺院だったが、元和元年(1615)の大阪夏の陣の兵火で大半を失った。
のち、江戸時代の延宝年間に宗覚律師により再建された。
寺には枚方市有形文化財指定の宗覚律師作の天球儀と地球儀がある。 」
少し先の道から右に入ったところに、 「戊辰役橋本砲臺趾」 の石碑と説明板がある。
説明板
「 樟葉台場(砲臺)跡 慶応元年(1865)五月、
江戸幕府は大阪港から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、
淀川左岸のここ樟葉に台場(砲臺)を築きました。
この台場は関門の機能をも備えました。
設計の総責任者には勝海舟があたり、築造には北河内の大工が総動員されました。
当時の設計図によると、土塁と堀に囲まれた約三万平方メートルの台場内には、
カノン砲が三門、番所、火薬庫を備え、新しく造り換えられた京街道が通っていました。
砲台は黒船が淀川を遡って京都への襲来を防ぐために造られたものだが、結局、黒船は来なかった。
戊辰戦争では、幕府軍の小浜藩が砲台を守っていたが、対岸の高浜砲台を守っていた津藩が官軍に寝返って、
淀川を挟んで交戦状態になった。 」
さらに進むと交差点となり、直進する道は広い道である。
最初の三叉路を右折すると右側に「禅(曹洞)宗 久親恩寺」の石柱があり、その奥にモダンな建物が見える。
久親恩寺(くしおんじ)は江戸時代、長州藩の参勤交代時の休憩処だったといわれる寺であるが、
コンクリートの建物になっていた。
x | x | x | ||||
久親恩寺奥の墓地には石仏が刻まれた下に「八まん道」と刻まれた道標や石仏群が祀られていた。
寺を出るとその先で京阪の線路に突き当たる。
左折して路沿いに進むと左側の金網越しに見えるのは楠葉取水場。
その先の三叉路の辺りから両脇に住宅が建ち並び、道路がアンツーカー色に変わった。
このあたりは楠葉中町であるが、小金川踏切で途切れた東海道はここで復活する。
町楠葉に入ると左側に「松栄山長栄寺参道」と書かれた石柱が建っている。
住宅が続く直線道路を歩いて行くと、町楠葉一丁目の表示がある電柱近くの道端に
「 旧京街道 (旧国道2号線) 」 と書かれた石柱が建っている
突き当たりを直角に右折して、京阪電車の線路のところの三叉路で左折する。
その先で道路の色が変わるのは東海道が消滅したという印である。
「 東海道は京阪電車の線路を斜めに横断して、反対側の線路沿いに進むのだが、反対側に出る道がない。 」
このまま歩くと二百メートルほど先のパチンコ店で、府道18号線が左右に通る交差点に出る。
交差点を右折して京阪本線のガード下をくぐると、左右とも一方通行になっている道になる。
この道が東海道で、先程、京阪電車の踏切で分れた東海道に再会する。
道を左折すると左側に京阪本線樟葉駅と超高層ビルがあり、 樟葉南交叉点の先で、府道13号線(府道京都守口線)に合流する。
府道13号線の右手には「淀川」の看板と河川敷には楠葉パブリックゴルフ場のコースがある。
府道13号を京阪電車沿いに河川敷を見ながら南へ千三百メートル程行くと、道はゆるい下り坂になり、
樋之上北交差点に出る。
東海道はその先の樋之上町の信号交差点手前で左斜めに入る細い道に入る。
左側の樋之上公民館の前を通り過ぎ、住宅地を二百メートル程行くと船橋川の土手にぶつかり、
東海道は消滅する。
東海道は本来は直進するのだが、橋がないので土手沿いに右に八十メートルほど迂回して、
府道13号線の楠葉側道橋を渡り、川沿いに先程の土手の対面まで行く。
x | x | x | ||||
二股道の右の方の坂道を下っていくと、途中の土手に地蔵を祀る祠があり、その脇に道標が建っている。
道標には 「 八幡宮 参宮道 橋本へ一里 」 と書かれており、
八幡宮とは先程訪れた石清水八幡宮のことである。
ここで川の対岸でなくなった東海道が復活。
道は左右にカーブするが、上島町の住宅の中を進むと、左に京阪電車の踏切のある交差点に出る。
線路沿いに進み、とうかえでの道を横断し、小さな橋を渡ると牧野下島町になる。
坂道になった道を上っていくと、右側の低くなったところに、虫籠窓の白漆喰の家が建っている。
その先には踏切と京阪の牧野駅があるが、江戸時代の東海道は駅舎を斜めに横断し、 穂谷川の西側の川沿いに出ていた。
その道は残っていないので、牧野駅の踏切を渡る。
東海道は、右側の穂谷川に架かる小さな明治橋を渡ると左折して、川沿いに南へ進む。
防垣内橋の先の三叉路で、川沿いの道と別れて、右の道を進むと左側に阪今池公園がある。
公園を過ぎた左側の道の入口に、享和元年(1801)建立の常夜燈がある。
台座の左側には「京都」、右側には「大坂」と刻まれていて、京街道の道標の役割も果たしていた。
ここは片埜神社の一の鳥居があったところで、片埜神社はその先の穂谷川を渡った住宅地の中にある。
「 片埜神社は、垂仁天皇の時、野見宿彌が当麻蹴速を角力で破った功によりこの地を賜って、
須佐之男命を祀ったと伝えられる古社である。
豊臣秀吉は、大阪築城の際に艮(東北)の方位にあたる此の社を鬼門鎮護の社と定めて尊崇したという。
古くは一の宮牛頭天王と称されていたが、明治以降、現在の名前になった。
慶長七年(1602)、豊臣秀頼により造営された本殿は、国の重要文化財に指定されている。 」
このあたりは黄金野一丁目のはずれで、道は右にカーブし、京阪電車の前川踏切踏切を渡ると、
三栗(めぐり)一丁目。
住宅街を西へ進むと、右に浄土宗清伝寺、左の三栗郵便局を過ぎると、府道13号線の三栗交差点に出る。
東海道は交叉点を渡り、その先の狭い道に入る。
ここは渚内野一丁目で、道は左にカーブし、三百メートル程行くと三栗南交差点で、府道13号線に合流する。
県道を四百メートル歩くと渚西交差点で、京阪電車の線路沿いになり、
御殿山駅前を過ぎると五百メートル程で磯島交差点に出る。
東海道は府道と別れて、左斜めの細い道に入っていく。
三百メートル先にベージュ色の家があるが、その右側の道を二百メートル程行くと、天野川の土手に遮られる。
「 天野川は四條畷市を源流とし淀川に合流する川で、流れが美しかった。
その姿は天上の天の川と見なされ、平安貴族があこがれる歌どころだった。
東海道には木橋が架けられていたが、紀州藩徳川家が参勤交代で渡る時は上流に土橋の仮橋が架けられたという。 」
ここには橋がないので、右折して八十メートル程行くと、府道13号の鵲橋(かささぎばし)がある。
「 川に橋が架けられて後、中国の 「 天の川にかささぎの群れが集まって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをする 」 という七夕説話に因んで、鵲橋と呼ばれるようになったという話が残っている。 」
天野川を越えると、枚方宿(ひらかたしゅく)である。
x | x | x | ||||
橋を渡り終えると左折して、川沿の坂道を八十メートルほど下ると三叉路になる。
そこには堤防をバックに「枚方宿東見付跡」碑と「東見付」の大きな説明板が建っている。
説明板「東見付」
「 江戸幕府は、慶長六年(1601)、岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の四つの村を枚方宿に指定したことにより、岡新町の東見付から泥町の西見付まで淀川に平行して、
長さ十三町十七間(1477m)の長い宿場町・枚方宿が誕生した。
元禄二年(1689)には旗本久美氏の長尾陣屋が設置された。
枚方宿は天保十四年(1843)に編纂された宿村大概帳によると、
三矢村を中心に本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が六十七軒あった。
東見附は天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵に囲まれた松が植えられていた。
元文二年(1737)の岡新町村明細帳によると、天の川には長さ十七間、幅三間1尺の木橋が架かっていた。 」
説明板にある「河内名所図会(享和元年ー1801) 天川」 には、 伏見方向へ向かう大名行列が天野川の橋に差しかかり、 見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれている。
天野川の対岸で別れた東海道はここから始まるが、左側に小野平右衛門住宅がある。
「 小野家は江戸中期より村年寄と問屋役人という要職を務めた家柄である。
街道に面した広い間口の建物は白漆喰の壁に袖卯建が上がり、表門口には揚見世や下げ戸が現存している。
当家には正徳六年(1716)建築の古図と鬼瓦があるが、現在の建物は幕末だろうとのことである。 」
江戸時代には左側に町飛脚、右側に郷倉があったはずだが、その跡は確認できなかった。
三百メートルも歩かないうちに、ラポール枚方前信号交差点から続く大通りがある交差点で、
交差点の左側には京阪枚方市駅がある。
交差点を直進すると三叉路というか、変則的な交差点に出た。
駐車場の左の空間の一角に「枚方橋跡」の石碑が建っている。
江戸時代の枚方橋は土橋だったようだが、石碑は二本あり、
一つは「枚方橋」と書かれた橋柱の形をしているもの。
もう一つは「安尾川枚方橋跡」とある石柱で、道標を兼ねたものである。
交差点の地形から考えると、ここは宿場特有の枡形になっていたのではないだろうか?
x | x | x | ||||
道なりに斜め左に進むと、交叉点の正面の黄色いビルの一角に、文政九丙戌年(1826)十一月建之の道標がある
道標の正面に 「 右 大坂ミち 」、
側面に 「 右 くらしたき 是之四十三丁、左 京六リ や王(わ)た二リ道 」 、
「 願主 大阪 和泉屋次右衛門 近江屋又兵衛 綿屋伊兵衛 小豆嶋屋勘右衛門」 と刻まれている。
ここは京街道と磐船街道との追分である。
この交差点は京阪の枚方駅へ行き来する人が多かった。
左側のBARBAR SHIKITAの角には「宗佐の辻」の道標が建っている。
宗佐の辻とは油屋の角野宗佐の屋敷があったことからそう呼ばれるようになったところである。
「 送りましようか 送られましょうか せめて宗左の辻までも 」 と俗謡があり、
遊郭から客が帰るときに遊女がこの宗佐の辻まで見送ったといわれる。
交差点を右折し、江戸時代は岡村だった通りを進むと、
ラポール枚方南(現在は関西医大病院前)信号交差点から続く大通りの交差点に出る。
交差点の右側にあるビルはSATYなどが入っているビオルネだが、
その前に「京街道(枚方宿)」、側面に「←特別史跡百済寺跡」の道標が建っている。
「 枚方宿は京都伏見と大阪高麗橋のほぼ中間の二十キロにあり、陸上の交通の要衝として繁栄したが、 幕末が近くなると船便により、伏見から大坂までいく旅人が多くなり、枚方宿の経営は難しくなっていった。 」
ビオルネビル脇のブロック舗装の歩道を行くと、 左側の岡本町公園に「京街道と枚方宿」という説明板がある。
説明板「京街道と枚方宿」
「 枚方市は淀川に面して古くから交通の要衝であったが、
中世末に願興寺(願生坊)の寺内町として町づくりが始まった。
豊臣秀吉は淀川左岸に文禄堤を築いたが、その堤が江戸時代になって京街道になって整備された。
この公園の街路の飛石が旧京街道の中心線である。 (以下省略) 」
歩道に色の濃い四角のブロックが一直線に敷かれているのは旧京街道の中心線を示している。
ビオルネ側の「東海道 枚方宿」の案内板には東見附から西見附までの地図や主な史跡の案内があった。
x | x | x | ||||
その先の交差点を横断して進むと、道幅も街並みもがらっと変わる。
通りの道幅は江戸時代当時の道幅のままではないかと思えるし、
右側の店は味噌屋さんで、宿場を思わせるような情緒が残っている。
交差点の先の左側には宿場にマッチさせて、最近改装されたと思われる建物、
マンションは景観を損なわないように建設されている。
そうして心使いが大阪に近い大都市で行われているのはうれしいなあと思った。
交差点の先の三叉路の右側に、「 旧三矢村岡村の村界 」 と書かれた道標が建っている。
ここは岡村(現在は岡本町)と三矢村(現在は三矢町)の境界にあたる。
道標の隣には、 「 妙見宮 」、「 他力 」、「 開運講 」 と書かれた、文政十二年(1829)建立の常夜燈が建っている。
その先に見えるのは歴史を感じさせる建物である。
「
枚方の伝統的建物は、広い間口と出格子、漆喰塗りの連なる虫籠窓の構成で出来ている。
この通りの古い建物にはこの伝統的な構成をしたものが多い。
江戸時代、三矢村は枚方宿の中心をなし、本陣や脇本陣、問屋場など、宿場の機能の中核をなしていた。 」
三叉路の左側にある専光寺の塀の一角には、枚方市が建てた「高札場跡(札の辻)」の標柱が建っている。
江戸時代にはこの手前あたりに脇本陣があったようである。
少し行くと右側に、白漆喰の壁に袖卯建のある建物がある。
「 江戸中期の享保年間に、塩問屋として創業した塩熊商店・小野家が、
店舗兼母家として使用していた建物である。
この建物はこの一帯が火災で焼かれた後の明治二十九年に再建されたものという。
現在は店舗部分を使い、「くらわんかギャラリー」という名前で、郷土品の展示や民芸品の販売を行っている。 」
x | x | x | ||||
安藤広重の「京都名所之内 淀川」の浮世絵に、
川を下る三十石船に、煮たきをするくわらんか舟が接近する様子が描かれている。
十辺舎一九は、享保二年(1802)、東海道五十三次の中で、三十石船とくわらんか舟を書いている。
「 くらわんかとは、淀川舟便の三十石船が枚方浜へ寄港すると、小舟で漕ぎ寄せ、船客相手に 「 さあさあ、飯くらわんかいっ! 酒くらわんかいっ! あん餅くらわんかいっ! みな起きくされっ! なんじゃい、銭がのうて、ようくらわんか? 」 と威勢のよい声で、寝ている人までたたき起し、 酒や飯を売り付けたかけ声のことである。 」
その先の交差点先の右側(三矢公園?)は、工事用塀に囲まれていたが、 その角に枚方市が建てた「本陣跡」と「淀川旧枚方浜への矢印の付いた道標」が建っている。
「 江戸時代には工事柵に囲まれた一帯に池尻善兵衛家が営む本陣があり、 御三家の紀州徳川家や西国大名が参勤交代で宿泊し、幕末には第十五代将軍、徳川慶喜も宿泊した。 」
右側のマンションの角に 「 すく國道第二号路線京道 左枚方街道渡場 」 と書かれた道標がある。
その先の左側には袖卯建が上がった旧家がある。
三叉路の角に 「 大阪、京街道 旧三矢村 」、「 志賀美神社→ 」 と、書かれた道標が建っている
左側にある坂口医院の間の道を行くと、京阪の踏切の先を上った先に、 願生坊と志賀美神社がある。
「 願生坊は、永正十一年(1514)、蓮如上人の子で、本願寺第九世・実如上人が開基し、後に願生坊となり、 西御坊の浄念寺に対して東御坊と呼ばれる寺院である。 」
坂口医院のすぐ先は、右そして左に屈折する枡形となっている。
その角に西御坊の浄念寺があり、
門前に「浄土真宗と枚方寺内町」の説明板があった。
「 枚方は浄土真宗とゆかりの深いところである。
永禄二年(1519)に蓮如上人の子、実従が順興寺に入寺し、一家衆(本願寺宗主の一族)寺院として栄えた。
枚方は、この寺を中心に、蔵谷、上町、下町などの町場が形成され、商人など多くの人々が住んだ。
このような真言寺院を中心とした集落を寺内町という。
本願寺勢力の低下とともに、順興寺は廃止され、寺内町は衰退した。 」
浄念寺の先を左折すると、枚方パークハイツ手前に道標があるので、鍵屋資料館の方へ右折する。
この辺りは当時の泥町村(現在は堤町)で、少し行った右側に枚方宿問屋役人木南喜右衛門家の古い重厚な屋敷が建っている 。
「 木南喜右衛門は楠木一族の後裔で、江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、屋号は田葉粉屋。
くらわんか船の茶船鑑札を所持し、枚方宿と泥町村の運営に大きな影響を行使した。
現在の建物は明治期の建築で、長い間口に出格子と虫籠窓が連なる伝統的な表屋造りで、
広い敷地内に四棟の土蔵を配している。 」
x | x | x | ||||
建物が建つ塀の角に、「枚方船番所跡」の標石があり、右折した先に古い石柱が建っている。
道を挟んで、「淀川舟運 枚方浜(問屋浜)跡」 の案内板があるが、江戸時代にはこの辺りまでが淀川の浜で、
船高札場と船番所があった。
「
船番所では、淀川を往復する過書船、伏見船、二十石船の検閲を行っていた。
過書船とは、幕府が営業許可を与えた船が関所を通過できる令状でこれを備える船である。
伏見船は、過書船の独占による弊害を断つため、新設されたもので、両者で荷の奪い合いが行われた。 」
街道に戻り直進すると、右側に市立枚方宿鍵屋資料館がある。
「鍵屋」の軒行灯を掲げ、垂れ幕を張った、白漆喰の建物である。
現在の主屋は文化八年(1811)の建築であるが、表玄関は京街道に面し、裏口は淀川に接した岸辺にあり、
三十石船の乗降に最適な構造になっている。
「 鍵屋は、淀川で京都と大坂を往復する三十石船の船待ち客や街道の旅人が泊まる船宿を営んでいた。
創業は天正年間(1573〜1592)というから古く、
淀川三十石船唄に、
「 鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ、三味や太鼓で船止める 」
と唄われた老舗である。
京阪電車が開通し、船運がなくなった後は、平成九年まで料亭を営んでいたが、
平成十三年、市立枚方宿鍵屋資料館となった。 」
この通りには白漆喰の壁に虫籠窓の家が残っていて、当時の雰囲気を伝えていた。
夕日がまぶしい通りを進むと形がゆがんだ交差点に出る。
この角に「西見付」の説明板が建っていた。
「 ここは、枚方宿の西のはずれの西見付だったところで、
江戸時代にはこの角にかり捨高札場があった。
(注)かりは、(草かんむりに刈という字で、パソコンでは使えない字である。 」
道の反対の坂道の歩道には、「堤町」の標柱が建っている。
これで枚方宿は終わる。
x | x | x | ||||
(ご参考) 三十石船について
「
三十石船は淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜を結び、二十八人の乗客を乗せ、
それを船頭四人と臨時の引き子数人で、川の上り下り行っていた。
淀川は底が浅いため、櫓は使えないため、棹を操り、それで上れないところは岸から引いていた。
朝出て夕べに着く船を昼舟といい、夕べに乗って朝に至るのを夜舟といっていた。
伏見からは夜に出て、早朝に着くのが一般的だったが、その船が枚方へ寄港するとくらわんか船が漕ぎ寄せてきた。
また、船宿にいる飯盛り女を目的に下船した旅人もいただろう。
三十石船の運賃は上りと下りでは労力に違いがあるため、船賃は上りは下りの2倍以上であった。
また、享保の頃の下りは七十二文だったが、幕末の繁忙期にはその倍にもなったという。 」