淀川は、枚方宿から下流の地区に洪水により、大きな被害を与えたようである。
守口宿は東海道五十七次の最後の宿場である。
今でも文禄堤が約一キロにわたって残っている。
東海道五十七次は、東横堀川に架かかる高麗橋がゴールで、江戸日本橋から始まった東海道の旅が終わる。
枚方宿から守口宿までは約三里(12km)の距離である。
「 江戸時代の東海道(京街道)はこの先、枚方市出口6丁目までは、明治十八年の大洪水で流されてしまって現存しない。
従って、東海道が残るところまでは、別の道で行く。 」
枚方宿の西見附の案内板がある交差点を左折して、南東に向かう。
次の三叉路で右折すると、右側に竹長商店の白い蔵があり、
その先の高い煙突は桜湯の煙突である。
少し先の三叉路の角に「桜町」という標石がある。
明治時代に入り桜町には遊郭ができたが、その時期は洪水後のことだろう。
元遊郭に興味があったので右折して進むと古い家は少し残っていたが遊郭風という感じはなかった。
少し行くと頭上に「枚方大橋」が架かっている小さな橋に出たので、
橋の手前で下に降りていくと「水面廻廊」という用水を利用した公園があった。
淀川を往来していた三十石舟を復元したと思えるモニュメントがある。
公園を歩き、枚方大橋の下をくぐると、前方の右側には高層マンションが林立しているところに出た。
公園はここまでのようなので、左折すると枚方大橋南詰交差点で、交差点を右折して狭い道に入る。
その先の左側にはいわた歯科医院があり、道なりに進むと左にカーブ、
その先には棟割り長屋風に、商店が並んで建っている。
読売新聞販売所を過ぎると広い通り(府道13号)に出たが、道は対面に続いている。
信号交差点(伊加賀西町交叉点)は左手にあるが、車の通行を確認しながら道を横断して対面の小道に入る。
道は右に左にとカーブし三叉路に出たので、右折すると廃校になった枚方西高に突き当たる。
その隣は伊加賀小学校である。
「 伊加賀地区はかっての伊加賀村で、 古代史に登場する物部氏の基礎を築いた伊香色謎(いかがしこめ)の生まれたところとされ、 地名もそこから生まれたようである。 」
小学校の先の交差点の正面に道が二つあるが、ブリキの壁の小屋の右側にある細い道に入る。
このあたりは出口二丁目で、細い道を進むと、
左側に白い漆喰壁と板囲い壁で構成された蔵が石垣の上に乗っている。
「
これは段蔵と呼ばれるもので、度々起こる淀川の洪水の対策のため、家具などを避難させるために、
二段、三段の高さを連立させた蔵、あるいは高く積んだ石垣の上に築かれた蔵である。
こうした段蔵は洪水になやんだこの地方では多くみられる。 」
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道を右に入ると光善寺の山門がある。
光善寺は浄土真宗本願寺八世の蓮如上人より開かれた寺院で、光善寺初代住職は長男の順如である。
「 蓮如は室町時代の僧で越前国吉崎に滞在していたが、富樫氏家の内紛をきっかけに吉崎を退去し、
文明七年(1475)、河内国茨田郡出口村に移った。
淀川河畔の葦原を埋め立てて造った草庵がこの寺の前身といわれ、
ここを拠点として近畿一円に教化活動を展開したが、
山科本願寺再建のため、二年半で山科野村に移住している。 」
光善寺前の道を南下すると狭い道の両脇に昔ながらの建物の並ぶ。 しかも段蔵付きである。
このあたりは出口三丁目である。
百数十メートル先の用水に架かる小さな橋を渡ると、左へ行く変形の三叉路がある。
三叉路の正面には板張の段蔵があり、その左側の木が繁っている中に入っていくと、
「 親鸞聖人 蓮如上人 御田地 」 と刻まれた大きな石碑があり、
玉垣の中には 「 文明七乙未歳八月下旬 蓮如上人御遺跡 」 と、書かれた石碑と、
丸くうすく平らな小さな石がある。
これは蓮如上人が腰をかけて説法したといわれる「腰掛石」で、光善寺のお堂が建てられるまでは、
蓮如上人はこの石に腰掛けて村人達に説法していたといわれるものである。
道を南下すると、このあたりも段蔵の古い家が残っている。
三叉路の先の左側に幼稚園があり、「郷社蹉陀神社御旅所」と書かれた石柱と鳥居が建っている。
蹉陀神社はここから南東へ約一キロにある旧中振村の蹉陀天満宮のことである。
奥には常夜燈、その先に狛犬が鎮座し、「遥拝所」と書かれた石柱が建っていた。
説明板
「 蹉陀(さだ)神社御旅所(境内) ー
この地は蹉陀天満宮の御神輿が例大祭にお渡りになる御旅所と呼ばれるところで、
本宮を遥拝する神域である。
蹉陀は菅原道真が左遷されたとき、後を追ってきた娘の苅屋姫が悲しみ足摺(蹉陀)したことに由来する。
(注)上記の陀(だ)の字は正式には足へんであるが、パソコンになかったので、その字を使用した。」
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その先の左側の家と家との間に鳥が群がっている大きな木がある。
樹齢七百年以上の柿の木で、その下を見ると根元に石碑があり、
「 柿の木が家の傍らに自生していたので 人々は姓を呼ばないで、柿木氏と呼んだ。 」
と漢文で書かれている。
そこを過ぎた交差点あたりが出口三丁目と五丁目の境のようである。
交差点を越えると道はゆるやかに右に左にカーブする。
CITYARK枚方というマンションの先の水路に架かる橋を渡って進むと淀川の土手に突き当たる。
土手の下の道を左に進むとその先に三叉路があり、その角に小さな祠が建っている。
中には四体の石仏が祀られているが、これは松ヶ鼻の地蔵尊と呼ばれているものである。
「 東海道(京街道)は、西見附からここまでは、明治の大洪水で流されて現存しない。
東海道はここへ出てきたようで、ここで江戸時代の旧道(文禄堤)に戻ったことになる。 」
現在、淀川の河岸側は淀川河川公園になっていて、公園と出口6丁目との間に堤防の上の道(文禄堤)が 通っている。 」
地蔵尊の祠の前の道を進み、堤防の法面下を四百メートルほど上ると、淀川の堤防の上の道に出る。
堤防道は車の出入を規制しているので、自転車と人のみで安心して歩くことができる。
堤防の右手は河川敷を利用した淀川河川公園になっていて、その向うには雄大な淀川の流れが見られる。
また、堤防道はウォーキングを楽しむ人が多く、小生の前を通り過ぎていく。
河川敷の公園ではスポーツを楽しむ人達の姿が見られた。
四百メートル程歩くと、蹉陀ポンプ場の放流渠があり、寝屋川市へ入る。
四百メートル位先の道の左下には大阪府の枚方土木事務所太間排水機場の建物と排水池がある。
少し先の右側には 「 よどがわ 大阪湾まで約21.9km 」 と、書かれた表示板があった。
道の左側の一段下がったところに降りると、大きな 茨田堤(まんだつつみ)碑が建っている。
説明碑の文面
「 日本書紀に茨田堤の築造は仁徳天皇十一年とあり、
これは河川堤として本邦最初のものである。
築造は難工事で強頸絶間(こわくびたいま)、衫子絶間(ころもこたいま)の伝説がよくこれを語っている。
当時、淀川は水量が多く、平流れに広い土地を河道としていたが、これを二流に分け、
その間に農地を確保したのが茨田堤で、一つは現在と変わらず西南流し、
一つは南流して生駒山の西辺で大和川に合流していた。
その分岐点がこの碑が建つあたりと考えられる。
また、土佐日記でいう 「 わだの泊まりの分れの所 」 もこの地点としてよいだろう。 」
このあたりは寝屋川市太間町(たいまちょう)という地名だが、絶間が太間に変わったのだろうか?
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二百メートル余り行くと堤防の左下に、段蔵がある大きな屋敷が見える。
その先の石段を下りると西正寺があり、その先に 太間天満宮がある。
「 太間天満宮は、日本書紀の茨田堤の故事により、
衫子の断間である当地に昔から小社を建てて祀っていたという神社で、
創建年代は不詳だが、祭神は菅原道真と茨田連衫子である。
最初は、三井の若山に壮麗な天満宮が造営されたが、慶長三年(1598)に焼失、
再建に当たって主導権争いが起こり、太間村は天満宮を分社して、衫子社に合祀した。
その後も紆余曲折を繰り返し、昭和四十二年に現在の形になった。 」
(注)日本書紀の故事とは、
「 仁徳天皇は、人柱を建てると決壊が収まるという夢を見た。
その命により選ばれたのが、武蔵国の強頸と河内国の茨田連衫子である。
強頸はそのまま入水し、堤の犠牲となったが、衫子は 「 本当の神ならヒサゴを沈めてうかばないようにせよ。 沈まなければ偽りの神と思うぞ!! 」 といって、ヒサゴを水に投げ入れたら沈まなかったので、
その身は助かった。 」
というものである。
その先の小さな川には絶間橋が架かっている。
戻る途中の段蔵のある屋敷は道からかなり高いところにあり、自然への備えは今も続くのだなあと思った。
二百メートル先の淀川新橋の下をくぐると、堤防の下の左手にマンションがある。
その先で、堤道の石段を降りていくと、用水のようなものがある。
ここは 茨田樋遺蹟水辺公園で、「茨田樋之跡」の石碑が建っている。
説明板
「 茨田樋は昔、淀川から農業用水、生活用水を引き込んでいた用水の樋門で、
淀川左岸の枚方から毛馬まで八ヶ所あった。
台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあるとして、すべてが廃止され、
その跡が残っているのはここだけである。 」
その先には両手を広げたような鳥飼仁和寺大橋があり、橋の先から仁和寺という地名になる。
地名は京都の仁和寺領があったことに由来する。
堤防道の右下の河川敷では、大人達がパターゴルフに熱中していた。
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八百メートル程歩くと、左手に続いていた団地が途切れる。
堤の下の道路の先に、佐太天神宮の鳥居を見える。
階段を降りると民家が立ち並ぶが、その先の用水路手前の右側に、「淀川筋佐太渡船場」の石碑がある
ここは河内国佐太と摂津国鳥飼を結ぶ渡し場の跡である。
用水路に架かる橋を渡り、国道1号の佐太中町7交差点を渡ると、佐太天神宮の鳥居がある。
鳥居の右側にある万延元年(1860)建立の道標には、もり口一里などと、書かれている。
長い参道の両脇には常夜燈が建っている。
その先に佐太天神宮の本殿がある。
「 佐太天神宮は、菅原道真が太宰府へ左遷された時、暫くの間滞在し、自身の木像を残したといわれ、
死後の五十年後、菅原公を祀って創建されたのがこの神社とされる。
天神様には梅がつきものであるが、この神社もご多聞にもれず、梅の木が多く、
また、梅のシーズンとあって、梅の香がほのかにした。 」
神社の右側の門を出ると参道があり、右側の塀に「石清水八幡宮本地天筆如来」の石柱が建っている。
その先に、 来迎寺の菊の御紋がついた勅使門がある。
菊の御紋がついた勅使門があるのは創建当時、後村上天皇の勅願所だったことと関係があるのだろう。
「 来迎寺は、実尊誠阿上人が正平二年(1347)に、
現在の守口市来迎町(河内国茨田郡下仁和寺庄守口村)に来迎堂を建立したのが始まり。
その後、二十六回もの移転を繰り返し、延宝六年(1678)よりこの地に定着した。
現在は浄土宗であるが、かっては摂河和城四ヶ国に末寺六十余寺を擁する大念仏宗佐太派の本山だった。
寺の本尊は天筆如来(阿弥陀三尊来迎図)だが、これは石清水八幡宮を創建した僧、
行教が貞観元年(859)に感得したとされる阿弥陀三尊の絵像で、
それを表示したのが石清水八幡宮本地天筆如来の石柱である。 」
本堂の前の松の枝ぶりは見事である。
本堂裏の庭園には嘉元二年(1304)の建立の石造十三重塔がある。
山門を出て右折すると右側に市立老人福祉センターがある。
その手前、来迎寺の鐘楼の裏側にあたるところに小さな竹林があり、 その中に気をつけないと分からない、 「佐太陣屋跡」の説明板がある。
説明板佐太陣屋跡」
「 佐太地区は京都、大阪間の交通、軍事の要地であったことから、
美濃加納藩(32000石)の永井氏が、貞享年間(1684〜1688)に、渚(現枚方市御殿山)からこの地に陣屋を移し、
摂津、河内の一万二千石を領有支配し、約五千uの敷地に屋敷、蔵、牢屋などを次々に整備していきました。
この陣屋は加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし、年貢米の納入はもちろん加納藩の特産物である提灯、
傘等もここにいったん集積し、大阪の商人に売りさばき、金融、物資の調達など、
加納藩の台所の役割を担っていきました。 」
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街道に戻り、歩き始めるが、このあたりは佐太西町で、既に守口市に入っている。
二キロ弱歩くと鳥飼大橋があるが橋の下はくぐれない。
左下の道を通り、堤防道を四百メートル程行くと三叉路に出る。
堤防道は直進するが、東海道(京街道)は左斜めの坂道で、左下にあるのは八坂瓊神社である。
このあたりは大庭二丁目。
坂道を下り、右側の道に入り、右側の守口市浄水場入口前を通過する。
道は左にカーブする。 その先の交差点を通過し、八雲北公園の中ほどの三叉路を右折して進む。
突き当たりに正迎寺(しょうごうじ)がある。
「 正迎寺は観応元年(1350)、南朝方の同基善正が存覚上人に帰依して、建立された寺である。
元和元年(1615)の大阪夏の陣の兵火によって焼失した。
その後、再建された寺院は元禄十五年(1702)に正迎寺として認められた。 」
正迎寺で左折すると交差点がある。
右側の八雲北町3丁目自治会館の前には、 「 左旧守口方面 右旧大庭方面 京街道 」 と、
書かれた道標がある。
交差点の先の阪神高速12号守口線の高架の下には
「 八雲樋遺蹟 京街道 」、「 旧南十番村 八雲公園 時空の道 」 と、書かれた石柱が建っている。
細い道に入ると左側に、八雲小学校と八雲公園がある。
交差点を二つ横断すると三叉路に出て、左からの京阪北本通と合流する。
道の左側に守口東高校があるが、東海道(京街道)は学校のはずれの右側の高垣商店の角を右斜めに入っていく。
道は左に半円を描くようにカーブする。 二百メートル程で京阪北本通に出る。
信号交差点を斜めに横断し、少し進むと左側のマンションの前の繁みに、
「 京街道 一里塚 大名行列 」 と書かれたレリーフがある。
大名行列と一里塚の碑が描かれていたので、これは京街道を表しているだろうと思った。
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その先は右カーブする変則四差路で、右側には山本金属守口工場がある。
少し行った右側の家と家との間の細長い土地の奥に、「守口一里塚跡」の石碑が建っている。
説明板「守口一里塚」
「 ここは守口宿の出入口にあたるところで、江戸時代、大名が宿泊や通過する時には、
守口宿の宿場役人や庄屋などの村役人が麻上下などを着てこの一里塚で送迎した。 」
一里塚跡を過ぎると、国道1号線と交差する浜町(はままち)交差点に出る。
東海道(京街道)は交差点を斜めに横断して対面の道に入る。
最初の交差点には、昔は橋が架かっていたようで、左側の家の一角に「瓶橋旧親柱」、
交差点を渡った先には 「 かめはし 」の旧親柱がある。
交差点右側の民家の壁には、 「 京街道 陸路官道第一の驛 守口 」 と、
書かれた表示板が張られていた。
浜町一丁目の通りには古い家がほとんどなく、
最近になって建築されたと思える二世代住宅と貸マンションを兼ねた住宅が多い。
その先の左側には東本願寺の末寺の 盛泉寺がある。
「 盛泉寺(じょうせんじ)は、慶長十一年(1606)教如上人の創建、本尊は阿弥陀如来である。
慶長十六年東本願寺別院となり、元和元年火災で焼失した。 今の堂宇は天保十一年の再建である。
慶応四年三月二十二日、明治天皇が大阪を行幸された折、当坊本堂前に賢所を奉安された由緒がある。
この時の行幸は幻の大阪遷都ともいわれるもので、三種の神器の一、天照大神御霊代の八咫の鏡を持参したといわれる。 」
寺院を過ぎると左右は広い竜田通りに出る。
交差点を越えた左側に難宗寺があり、
山門の左側には「明治天皇行在所」の大きな石柱が建っている。
山門の左側には、高さ約二十五メートル、樹齢四百年の大イチョウがあり、
大坂府指定天然記念物になっている。
「 難宗寺(なんしゅうじ)は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺院である。
この地は実尊上人が創建された来迎寺の跡地で、来迎衆と呼ばれた人達により、
小さな御堂が護持されていた。
文明七年、出口の光善寺を本拠として、河内、大和、和泉、摂津の布教に明け暮れていた蓮如上人は、
堺への途中、守口に立ち寄られて、この御堂で教えを説かれ、文明九年、
その教えに感動した来迎衆は全員揃って真宗に帰依したといわれる。
今も難宗寺の西側に来迎町の地名が残っている。
江戸時代に入り、本願寺が分裂した結果、
この地の本願寺門徒は、東本願寺と西本願寺の二つに分断されたが、
お寺も難宗寺は浄土真宗本願寺派、盛泉寺は真宗大谷派となり、
それぞれ西御坊と東御坊と呼ばれるようになった。 」
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交差点の左角、難宗寺の塀の一角に四つ石碑が建っていて、 左から順に 「 左京 すぐ京 」、「 すぐ守口街道 」 と刻まれた二つの小さな道標、 その隣には 「 御假宿所 」、「 御行在所 」 の二つの大きな石碑がある。
「
御仮泊所とあるのは、大正天皇が皇太子時代に明治天皇が泊まられた行在所に宿泊されたことを指す。
御行在所は明治天皇が大阪行幸の際、当寺の行在所に宿泊されたことを指す。 」
お寺を出ると竜田通りを西に向かうが、竜田通りは江戸時代から広く、
当時定められていた二間半(約4.6m)より大巾に広い十五メートルである。
この場所が枚方や大坂への人馬継立てや荷物の受け渡しをする問屋場だったことによる。
左側の南大門という焼肉屋の手前に、「駐輪場」と書かれているところが、 吉田八郎兵衛が務めた、 守口宿本陣跡である。
「 守口宿は江戸から五十七番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤に沿って、
南北は約十町(1km)、東西は約一町(110m)の宿場で、
守口宿には本陣が一軒、問屋が二軒、問屋場が一軒のみで、脇本陣はなかった。
宿場ができたのは大坂夏の陣の翌年、元和二年(1616)のことなので、
東海道の他の宿場に比べると十年以上遅い。
大坂から二里という近さのため、宿泊者が少なく、時代が経過すると淀川舟運が発展し、
歩行者の交通量が少なくなっていった。
しかし一方では、米、菜種、綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはたし、
商業活動は活発だったといわれる。 」
国道1号線と合流する八島交差点の右側手前に、白い蔵を持つ古い家がある。
「 この家は白井家で、祖先の白井孝右衛門は大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎を信奉し、 経済的援助もした協力者である。 大塩平八郎は、白井家の書院で、近郷の郷士や農民に出張教授をしていたという。 」
白井家のある交差点のあたりに、江戸時代、高札場があったらしい。
八島交差点は五差路だが、交差点では国道1号線には入らないで、すぐ左側の斜めの道に入る。
ゆるい坂道を登るとすぐ右側にあるのは川東提灯店である。
うだつがあがった蔵造りの家で、屋根には鐘馗様が祀られていた。
道の左側には「京街道」と「文禄堤」の説明板があった。
説明板「文禄堤」
「 文禄堤は、豊臣秀吉が文禄五年(1596)、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家などの毛利一族に命じて、
淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち二十七キロにも及ぶ。
八島交差点からこの先の義天寺までの約一キロの間だけ残っている。 」
説明板「京街道」には、東海道の五十七番目の宿場である守口宿が栄えたことや、
京都からは大坂街道と呼ばれたことなどが書かれていた。
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この通りには宿場跡の情緒がする連子格子、虫籠窓、うだつのある家が残っている。
その先には左に下りる石段があり、下り口に 「 右なら のざきみち 」 と、刻まれた小さな道標がある。
ここは奈良街道との追分で、この細い石段の道は「来迎坂」と呼ばれ、かなりの急坂である。
ここから難宗寺の南側の塀の一角の 「 すく守口街道 」 の道標を経て、
旧奈良街道(後の守口街道)に通じる道で、宿場が出来る以前からある守口では一番古い街道である。
本町橋を渡ると橋のたもとに、「文禄堤」の石碑が建っている。
「 文禄堤の京街道は、道、幅は一車線余と狭く、車は一方通行になっているが、 古い建物も残り、宿場町だった情緒が残る道である。 」
左手に守口市駅を眺めながら進む。
陸橋の守居橋を渡ってゆるい坂道を行くと、右側の建物の外壁に「義天寺」と書かれた寺がある。
山門の左側の大きな 「南無妙法蓮華経」の題目碑は、
豊臣氏の残党を処刑した大坂野江の刑場(仕置場)にあったのを明治時代に移したものである。
「 義天寺は、明治二十三年、開祖の日扇上人が京都から淀川を下って大阪へ向かう途中、 守口の茶店・丁子屋で休息したがここで亡くなり、その由縁で建立されたという寺院である。 」
文禄堤が残る道を真直ぐ進むと下り坂になり、その先の三叉路で終わっていた。
「 東海道(京街道)は三叉路をそのまま進み、日吉公園の西南の角に出て、 国道1号線の京阪本通東交差点へ出るのが本来だが、今は道が残っていない。 」
三叉路手前、左側のコンクリート塀には、 「 京街道 陸路官道第一の驛 守口 」 の標示板があった。
文久元年(1861)に発行の名所絵図「淀川両岸一覧」には、
「 守口驛は浪華より京師に上がる陸路の官道第一の驛なり。 高麗橋より此地に至る行程二里。
片町、野田町、野江、内代、関目、森小路、土居、これを本街道とも言い、東街道(ひがし街道)とも言ふ ・・・ 」 とある。
突き当たり辺にあったと思われる大阪口の見付跡は確認できなかったが、ここで守口宿は終わる。
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東海道五十七次の終点(起点)は大阪の高麗橋である。
見附跡の三叉路を右折して進むと交差点があるので左折して進むと、交差点の右側に日吉公園がある。
交差点を右折して公園前を進む。
「 江戸時代の東海道は三叉路を直進した後、右斜めに緩やかなカーブを描きながら、 現在の日吉公園の南の角をかすめるように進み、右に曲がって国道1号付近に合流していた。 」
公園の前を通り過ぎると交差点があり、その先の右側にあるのは廃校になった土居小学校である。
交差点で左折し南に下り、二つ目の交差点を右折すると、守口車庫前交差点に出る。
交差点を左折して、国道を百メートル行くと左側に旭通商店街がある。
このあたりが、先程別れた江戸時代の東海道が合流していた地点である。
京阪本通1東交叉点から商店街のアーケードに入り、東に二百メートル程行くと左側に守居神社がある。
守居神社の略記
「 守居神社は延喜十八年(918)の大洪水で周辺が湖のようになったとき、
素盞嗚尊(スサノオノミコト)のお告げによって、土居を築いて治水祈願をしたのに始まる。
天文十三年(1544)の洪水で再び流されたので、それまで京都の方向の東北を向いていたのを南西の向きにした。
延喜十八年の洪水の時、ちさ(食用のちしゃの葉)の船に乗り、
ねぶか(ねぎ)の櫂で漕いで淀川を渡ってこられた神様に雨がやむように祈願したところ、たちまち晴れた。
それ以来、村人はちしゃとねぎは一切食べないようになり、それは明治末頃まで守られていた。 」
京阪本通1東交差点に戻り、国道を南に進むと、京阪本通1交差点で、
国道1号線と494号線とが交差する。
交差点を横断して国道を進むと次の信号交差点・太子橋交差点には、地下鉄太子橋今市駅の入口がある。
交差点を横断するとその先で守口市から大坂市旭区に変わる。
今市交差点の左手には今市商店街がある。
交差点を横切ると横断歩道橋があり、
その先に昭和六十年に大阪市が建てた「京かいどう」の石碑が建っている。
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今市バス停の先に左に入る狭い道があり、東海道はここで国道を別れ、カラー舗装の道に入っていく。
道は左にカーブし、左側に政近歯科がある。
道には 「京かいどう」のロゴが入ったプレートが埋め込まれているので、
東海道(京街道)を歩いていることが確認できる。
その先の左側には地蔵尊を祀る祠がある。
右側にある福島病院の手前から千林(せんばやし)2丁目になる。
左に入る三叉路の壁面に「千林商店街」と書かれた絵看板がある。
左側に京街道の地図と説明文があった。
「 千林商店街の道筋は野崎街道(野崎観音に通じる陸路)と呼ばれ、
昔から交通の要所としてにぎわった。
野崎観音とは大東市、慈眼寺の天平勝宝年間(747-757)に行基が彫ったと伝えられる十一面観音のこと。 」
そこを過ぎると森小路二丁目になり、東海道は府道161号の名称になる。
「 森小路 京かい道商店街 」 と書かれたアーケードが続く商店街に入ると、
うなぎ大扇の角に「京かいどう」の石柱が建っていた。
右にわずかにカーブする交差点に出ると、右手に大宮1交差点が見え、左折すると京阪森小路駅へ行ける。
東海道は直進で、森小路一丁目に入る。
左側の小公園・森小路東公園の脇には先程と同じタイプの「京かいどう」の石碑が建ち、
公園のはずれには大扇前と同じ、「京かいどう」の石柱(道標)があった。
阪神高速12号守口線の高架下までくると、川に橋が架かり、 橋の中央部分の左側に 「 右大阪、左京 」 とある道標も兼ねた古市橋の説明板がある。
説明板「古市橋」
「 文禄年間に造られた京街道の跡に架けられていること。
橋が架けられたのは比較的新しく、昭和十年から十五年にかけて開削された城北運河からで、
その上に架けられた今の橋は昭和十二年十一月である。 」
橋の上から左手を見ると運河が延々と続いている。
橋を渡ると高殿七丁目で、道をまっすぐ進むと左側の田中電工の構内には、小さな社が祀られている。
その隣は本門仏立宗清現寺で、その先の交差点を右折すると高殿7交差点に出た。
左折して城北筋を歩くと、関目5交叉点に出た。
「
関目5交叉点は、谷町線と府道161号が合流する五差路の交差点である。
関目(せきめ)という地名は、平安時代にこの地が榎並荘だった頃、
見張所(目で見る関所)が設けられたことからつけられたといわれる。 」
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東海道(京街道)は、この付近で複雑に曲がりくねっているが、これは「関目の七曲り」といわれるものである。
「 天正八年に設けられた関目の七曲がりは、豊臣秀吉が大阪城築城の際、 防衛の一策として、関目より古市、森小路の間の十余町の通路を屈折させたものである。 」
交差点で谷町線を横断すると地下鉄の関目高殿駅入口があるが、
谷町線を横断し、対面にビルの下にあるファミリーマートの前に出る。
関目5交差点から東側は旭区から城東区になる。
次に、国道1号に沿って、南へ百五十メートル行き、関目5南交差点を右折し細い道に入る。
交差点の左側に深草温泉があるが、このあたりは成育五丁目である。
道なりに右、そして、左にカーブして進むと三差路で、ここを右折すると右側に関目神社がある。
境内には「関目発祥之地碑」があった。
説明板
「 須佐之男尊神社 通称 関目神社 ー
天正八年、豊臣秀吉が大阪城築城の際、防衛の一策として関目より古市、森小路の間、
十余町の通路を特に屈折させて、敵兵の進軍を俯瞰し、その軍容兵数を察知するのに便利なようにした。
これと同時に、北の護りとして武神の須佐之男尊を祀り、崇敬すると共に、浪速の鬼門に当たるので、
鬼門鎮護の神として、毘沙門天王を勧請して、小祠を建立したことに始まる。 」
神社を出ると谷町線に出た。
谷町線を右折して二百メートル進むとエネオスのガソリンスタンドがある。
東海道(京街道)はここで途切れているが、谷町線を横断して反対側へ行き、
谷町線を左側へ行くとすぐ右に入る狭い道がある。
右側に自転車の駐輪場、その先のビル下にはモードツチヤの看板がある。
この道に入るとすぐ、左側に「京街道」と書かれた石標が建っていた。
この石標はこの先もしばしば現れる。
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このあたりは高殿4丁目で、道は左にカーブし、その後も少しくねくねして進む。
途中からカラー舗装の道になったが、左側に「京街道」の石標がある。
右手に旭ゴルフガーデン(ゴルフ練習場)がある。
左にラーメン五右衛門があるところで、東海道は谷町線に合流。
谷町線を右折して百メートル行くと、歩道にアーケードのあるアサヒ国道筋商店街に出る。
入口付近は飲食店が多いが、その先は魚や豆や総菜などの店がある。
城北貨物線の高架をくぐるとアーケードのデザインが変わり、野江国道筋商店街になる。
商店街が終わったところに右に入る狭い道がある。
道の入口に「京街道」の石標があるが、これまで左側にあったのと異なり、右側に建っていた。
一方通行の出口にあたることと関係がありそうである。
狭い道を歩いていくと城北筋の三叉路に出たが、ここにも「京街道」の石標が建っている。
石標には「京橋口から2.1q」とあったが、ここで高殿7丁目から始まった関目の七曲りが終了である。
左折して城北筋の道を進むと、左側に地下鉄野江内代駅の入口がある。
その先の野江4交叉点の手前で左から谷町線に合流した。
野江4交叉点を右折し、細江3西交差点の手前にある居酒屋もりちゃんという看板を掲げた店の横の狭い道に入る。
少し行くと細江3西交差点からの道に合流し、広い道に変った。
二百五十メートル程行くと道は左にカーブし、前方の信号交差点にはファミリーマートがあるが、そこまで行くのは行きすぎ。
左にカーブするところで、右手を見ると道路の右側に側道があるので、その道に入る。
交差点を越え中三商店会の看板がある道を進むが、ここからは都島区である。
「中三商店会」とあるが、これはという店はないところである。
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古い家も残る道を行くと、老人ホームの青都荘の前に、 榎並地蔵の小さな社が祀られている。
その左に、 「 京街道 野江 高麗橋 」 と書かれた地図とイラストのパネルがあった。
その先左側の大内病院の先にある「京かいどう」と書かれた石標は、
これまで見てきたものとタイプが違う。
大内病院から山本医院までの東手の地名は野江二丁目だが、このあたりは道が少しくねくねする。
山本医院を過ぎたあたりからお店が増えてくる。
新しいアーケードの 「 リブストリート(京橋中央商店街) 」 は、
天井がガラス貼りなので、明るく感じがよい。
ドーム型の広場のあたりは、 ビギン京橋(新京橋商店街)である。
天井がカラフルなビギンドーム下の広場は三叉路になっていて、
右側の中央に「京かいどう)の石碑が建っている。
長く続いた商店街を出ると、国道1号線(京阪国道)が左右にある京橋交差点である。
交叉点を横断したら右折して、JR大坂環状線のガードをくぐる。
すぐに左折すると、正面に京阪京橋駅の京阪モールの建物が見える。
右側の第一晃進ビルの前に、 「 左京みち 右大和なら のさき 」 と書かれた、 文政九年(1826)建立の道標がある。
「 江戸時代の東海道(京街道)は、その先の京阪電車の線路を横断して、 片町交差点の手前の道に出るルートだった。 」
線路で遮断されているので、京阪モールビルに沿って右に進み、
京阪モールビルが終わった先の片町交番前の交差点で左折する。
京阪電車のガードをくぐり、出たところの交差点を右折して狭い道に入ると、「のだ橋跡」の碑が建っている。
この後、三叉路の片町交差点に出る。
左右の道が土佐堀通(府道168号)で、先程別れた東海道はこの辺りで合流していたと思う。
交叉点を横断したら右折して、少し歩くと左側の家と家との間から大坂城天守閣が姿を見せるようになる。
「 大坂城天守閣は、高さが五十五メートルの鉄骨鉄筋コンクリート造で、 昭和六年(1931)の再建。 形は秀吉が造営した大坂城天守閣と、大阪夏の陣後に家康により再建された天守閣とを、 複合したものである。 」
寝屋川東詰交差点を渡るとその先の歩道橋の下に「京橋川魚市場跡」の石碑が建っている。
説明板「京橋川魚市場跡」
「 大阪の魚市場といえば雑魚場市場が著名である。 しかし、近世の魚市場は雑魚場市場だけでなく、
木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれていた。 また、海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあった。
京橋川魚市場の起源は石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされる。
もともと、漁民が京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられる。 」
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寝屋川東詰交差点まで戻り、京橋を渡る。
京橋は大川(旧淀川)に注ぐ寝屋川に架かる橋で、上流に大坂ビジネスパークの高層ビル群が広がる。
「 豊臣秀吉が大阪城を造った時、城北側の寝屋川に架けた橋に、
京都に通じる橋という意味から、京橋と命名した。
秀吉が淀川左岸を改修して堤防上に築いた京街道は、大坂城の京橋口が起点だった。
江戸時代に東海道五十七次が制定されると、起点は高麗橋東詰に替えられた。 」
京橋を渡るとその先右側の細い道に入る。
右側はレンガ色の日本経済新聞社ビルの側壁で、道に出る手前、ビルの東北隅に、
「石垣の由来」という説明板がある。
「 昭和五十年、社屋建設時に敷地内地下から発見された古い石垣遺構の一部で、
大部分は本社屋の東北隅に移築復原している。
元和六年(1620)の大坂城再興のころ、城北の旧大和川の左岸に、護岸用に築かれたものと推定される。
以下省略 」
道の左側のドーンセンター前に、大坂城三の丸の石垣跡を復元したという説明板がある。
ビルの北側には移築復元された三の丸の石垣があった。
「 このビル建設の際、地下から取壊された石垣が発見された。
慶長十九年(1614)、家康が大坂冬の陣の講和条件として、大坂城の三の丸の石垣を壊させたが、
それが発見されたもので、ビルの北側の塀沿いに移築復元した。 」
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ビルの前の道は上町筋。
「
江戸時代の東海道は、上町筋を斜めに横断して、天満橋ビルと大坂歯科大学の間の道に入るルートだった。
横断歩道はないので、右折して京阪東口交差点に出て、上町筋を横断すると左折して、
ドーンセンターの対面に出る。
天満橋ビルと大坂歯科大学の間の道に入ると、五十メートル程で行き止まりになるので、
右折して土佐堀通りに出る。 」
土佐堀通は東西に通る全長五キロ足らずの道である。 西に向かって歩く。
府道30号の高架下にある天満橋交差点を横断する。
右側のビルに「京阪電車天満橋駅」の大きな表示があり、
道の反対には永田屋昆布本店がある。
永田屋昆布本店の暖簾の下に、 「八軒家船着場跡」 と書かれた石碑が建っている。
「 淀川は、明治の終りに大工事が行われて、北方へ流れが変えられた。
現在、大川と呼ばれているのが江戸時代の淀川で、中島(なかのしま)の手前にある八軒家浜は、
京都と大阪を行き来した三十石船の大阪側の船着場だったところである。
平安時代に渡辺之津と呼ばれ、紀州熊野詣での船便の上陸地だった。
秀吉により、淀川に文禄堤が造られると、京と大坂間を往復する淀川の舟便・三十石船が発着するようになり、
賑わったようになった。 」
天満橋駅の北側の西方には、大川と土佐堀川が並行して流れている。
現在、天満橋駅の北側には八軒家浜船着場があり、船が発着している。
また、川の駅はちけんやがある。
説明板「八軒家船着場跡」
「 淀川を上下した三十石船の発着場で、八軒の船宿があったことから八軒家と呼ばれている。
大江山の鬼退治で有名な渡辺綱は、この地を支配した摂津源氏一族の出身である。
また、楠正行がここにあった渡辺橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ、
衣料を払って国へ帰してやったという美談もある。 」
北浜東2交差点の手前、左角の福助ビルの歩道に、「熊野かいどう」の石碑が建っている。
熊野街道の陸路はここを起点として、熊野三山へ続いている。
土佐堀通を更に進むと、松屋町筋との天神橋交差点の右手に、土佐堀川と堂島川に架かる天神橋がある。
「 大川(旧淀川)は、中島(なかのしま)を前に、北側が堂島川、南側が土佐堀川と名前がかわる。 」
天神橋交差点をそのまま進むと、阪神高速1号環状線の下で、道は二つに分かれる。
東横堀川に架かるのは、右は土佐堀通の葭屋橋、左が東海道(京街道)の今橋である。
今橋を渡り、二つ目の交差点を左折して、百メートル程進み、交差点を左折すると、
その先に阪神高速環状線の高架が見えてきた。
高架の下にあるのは左右に常夜燈が付いた高麗橋である。
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ここには高麗橋説明碑と里程元標跡碑が建っている。
高麗橋説明碑
「 東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修され、高麗橋はその頃にかけられた。
高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも最も格式が高く、
西詰には幕府のお触書を掲示する制札場があったほか、
諸方への距離を測る起点にもなっていた。
明治三年(1870)、大坂最初の鉄橋として架け替えられ、
さらに、昭和四年(1929)に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかえられた。
欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した柱は昔をしのぶ姿となっている。 」
「里程元標跡」の碑の裏側
「 明治時代に高麗橋東詰に里程元標が置かれ、
西日本の主要道路の距離計算はここを起点として行われた。
この里程元標は東京日本橋の里程元標と対をなすものである。
現在は梅田新道交差点に置かれている大阪市道路元標が、
七本の国道の起点となっている。 」
高麗橋が東海道五十七次の終点なので、東海道を完全制覇したことになる。
ベンチに座って、感傷にしばしの間浸った。
高麗橋には夜の帳が降りてきて、東横堀川の川面には明かりの波がきらめいていた。
これで小生の東海道の旅は終了したが、
東横堀川の水が淡々と流れていて、江戸時代から続いているように思えた。
すっかり日が暮れた高麗橋をゆっくり渡る。
淀屋橋から地下鉄で新大阪駅へいき、新幹線で妻が待つ自宅に帰った。
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