大津宿から山科追分を経て伏見に行く道は、大津街道とか伏見街道と呼ばれた。
江戸幕府の命令で参勤交代が行われるようになるが、西国大名が京都に入ることは望ましくないと考え、
幕府は大津宿から伏見に出て、京街道を行くように指定、元和五年(1619)、京街道の沿線に
伏見、淀、枚方、守口の四つの宿場を設けた。
そのため、京三条大橋ゴールの東海道五十三次に対して、摂津国高麗橋がゴールのこの道は宿場が四つ増えるので、東海道五十七次と呼ばれた。
大津宿から山科追分を経て伏見に行く道は「大津街道」とか「伏見街道」と呼ばれた。
大津宿から山科追分の間は東海道を行き、山科髭茶屋で東海道と別れて、左側の道に入る。
三叉路には 「 右ハ京みち、ひだりふしミみち 」 という道標と、蓮如上人碑が建っている。
「 江戸時代には髭茶屋があったので、髭茶屋追分とも呼ばれた。
ここは京都府と滋賀県、大津市と京都市の境界になっている。
なお、江戸時代の伏見道(大津道)は、現在は府道35号線となり、通称は奈良街道である。 」
この道には漆喰壁の家が多く残っているが、道は少し曲がりながら僅かに下っていく。
少し先のシェルターをかぶった名神高速道路の高架橋の下を潜り、その先に信号交差点を直進する。
満福亭の看板がある家の前から道は右にカーブする。
右側に音羽病院があり、病院正面前の道は三叉路になっている。
三叉路を左斜めに折れて進むと、右側に僅かばかりの田圃がある。
三百メートル行くと国道1号線に出る。
街道は国道の先に見えているが、横断歩道はないので地下道を通り反対側に出る。
その先の細い道には田畑などの自然がまだ残っている。
山科川に架かる音羽橋を渡り、五百メートル程行くと国道1号線の山科大塚交差点に出る。
国道を地下道で横断し、その先に続く狭い府道に入ると、バスが頻繁に走り、車の往来が激しい。
東海道新幹線の陸橋の手前にある左側の家の前に、「 ひだりおおつみち みぎうじみち 」 の道標がある。
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新幹線の陸橋を潜って、少し行くと右手のこんもりとした台地の上に、二本の木が茂っている。
囲いの中に入ると、しめ縄が巻かれた木の切り株と「皇塚」という石碑が建っている。
古墳といわれればその気もするが、桓武天皇の墓にしては小さすぎる。
「 皇塚は山科区で一番古い六世紀前半頃と推定される古墳跡で、
直径二十メートル程の円墳だったが形は残っていない。
桓武天皇の墓という伝承もあり、大塚、王塚、皇塚などとも呼ばれていた。
付近の地名に大塚が付くのはこれに由来する。 」
南大塚バス停がある交差点の左角には「妙見宮」の石碑が建っていて、 奥の山麓にある大塚の妙見寺に通じる細い坂道があった。
「 大塚の妙見寺は、平安遷都のとき都の四方を守護する四つの妙見寺の一つとして建立された由緒ある寺である。
妙見さまは古く奈良時代から方角の神様として信仰を集め、江戸時代には妙見詣りが流行った。 」
交差点を過ぎると、右側に愛宕山常夜燈が建っている。
この先の伏見宿までには幾つかの愛宕山常夜燈を見ることになる。
「 東海道の遠州から三河にかけて、また、中山道でも美濃で多く見たのは秋葉山常夜燈だったが、 この地方では山城・丹波国境の愛宕山の山頂にある愛宕神社が、 古代から火伏せ・防火に霊験のある神社として知られてきた。 」
その先右側に浄土宗の寺院・宝迎寺がある。
境内に井原西鶴の好色五人女の一人、おさんと茂兵衛の墓があるのだが、
長屋門風の山門の入口が柵でふさがれていた。
このあたりには築地塀をめぐらせた民家も残っている。
七百五十メートル程歩くと、大宅バス停の先の道が狭くなった左側に、岩屋神社の大きな鳥居が建っている。
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岩屋神社へ立ち寄る。
鳥居をくぐって岩屋神社への参道を歩いて行くと、右側にコンビニがある交差点がある。
そのまま進むと名神高速道路のシェルター付きの陸橋があるのでその下をくぐる。
正面の石段を登ると両側に民家があり、参道を行くと両側に常夜燈があり、岩屋神社の鳥居が建っている。
石段を上って神門をくぐると、奉納された提灯が付いた拝殿に出る。
「 岩屋神社は、仁徳天皇の三十一年(343)に、本殿背後の山腹に陰陽の巨岩を磐座として祀ったことが始まりである。
宇多天皇の寛平年間(889〜898)に、物部氏系の大宅氏が、山科を開拓するに当たり、
磐座に祖神の栲幡千千姫命、天忍穂耳命を祀り、岩前の小祠に饒速日命を祀った。 」
左側にある奥の院と「岩屋不動」の石柱を見ながら進むと、自動車が通れる道にでる。
車道を横断して進むと、石段の両側に「南無金剛大師遍照」と書かれた赤い幟が翻っているのは、
川崎大師京都別院・笠原寺である。
「 笠原寺は、昭和五十四年(1979)に、真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の京都別院として、 平間寺第四十四世中興第一世貫首・橋隆天大和上により開山された寺で、尼寺である。 」
ここで街道まで戻り、旅を再開する。
数百メートル行くと交差点を越えた右側に、京阪バス大宅甲の辻のバス停があり、
交差点の角には高い榎の木が聳えるように立っている。
ここは日本橋から百十九里目の大宅(おおやけ)一里塚で、
広場の奥には「岩屋神社御旅所」の大きな石碑がある。
御旅所とは、祭礼の時神輿がしばらく留まるところである。
バス停の左側には愛宕常夜燈が建っていた。
大宅甲ノ辻町交差点の名神高速のガードを潜ると、道は広くなり、登り坂になる。
三百メートル先の「宇治六地蔵」と「小野」への分岐を示す道路標識がある信号交差点で右折して、
府道35号線に入る。
左にカーブすると右手に山科警察署が見えるが、道は右にカーブし、緩やかな坂を下っていく。
対向二車線の道は狭く、歩行帯もないので、側溝の蓋の上を歩いていく。
六百メートル程先の右側に「小野葛籠尻町」の広報板があり、そばに 愛宕常夜燈が建っていた。
伏見街道は、左側のPANASONICの看板がある電気店の先の信号交差点で、右折する。
ここは高川の交差点と呼ばれ、交差点の左右に流れる用水のような川が高川である。
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ここで小野小町に由緒ある随心院に立ち寄る。
直進する道は標識にある奈良街道だが、この道を進む。
坂を下ると、小野御霊町交差点。
この地区は、古代に小野一族が栄えたところで、
仁明天皇の更衣だった小野小町も宮中を退いた後、
この地で過ごしたとされ、小野という地名が残った。
その先に「大本山随心院門跡」の看板がある。
交叉点を越えて少し行くと左側に随心院の山門が建っている。
「 随心院は真言宗善通寺派の大本山で、仁海僧正が正歴二年(991)に曼荼羅寺を創建、 その後、同寺の塔頭として随心院を建立し、後堀河天皇より門跡寺院の宣旨を受けた。 」
随心院の境内に入ると、右側に化粧井戸がある。
随心院は、小野小町が住んでいた屋敷跡で、
寺の裏側には薄暗い木立の中に深草少将の手紙を埋めたとされる「文塚」がある。
道を引き返し、交差点を曲がって高川に沿って西へ向かう。
外環小野交差点の脇に地下鉄小野駅がある。
交差点を越えるとしんたかがわはし、更に二百メートル行くと山科川に架かる勧修寺橋がある。
橋を渡ると左側に二、三軒の古い家が残っている。
伏見街道(府道35号線)は勧修寺前の三叉路に突き当たるので、左折する。
突き当たった小高いところに 「仁王堂町」の銘がある愛宕常夜燈や 道標など、
大小四つの古い石碑が並んで建っている。
「
常夜燈の隣の道標には 「 文化元子九月」、「 南 右大津 左京道 北 すくふしみ道 」 と刻まれている。
その隣の小さい道標の左にある道標には、 「 右 坂上田村麿公墓 山科 左 深草小栗 」 と書かれている。 」
三叉路を左折して、最初の信号交差点を右折して、坂道を上る。
左側に吉利倶八幡宮の鳥居が建っている。
「 吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)は小野の産土神で、
平安時代の仁寿三年(853)の創建と伝えられ、江戸時代までは勧修寺の鎮守社だった。
吉利倶八幡宮の名は、昔境内の老杉が倒れたため、材木にしようと裁断したところ、
切断面に梵字の吉利倶の三文字があったことに由来する。 」
元禄八年(1695)の建築とされる本殿は、ここから六百メートル先にあり、
江戸時代中期の大型の切妻造平入本殿の形式を伝えるものとして、京都市の指定有形文化財になっている。
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道の右側にあるのは、寛平十年(898)に創祀された、宮道神社である。
「 宮道神社には宇治郡を本拠とした宮道氏の祖神、宮道弥益と日本武尊とその子の稚武王を祀っている。
宇治郡司・宮道弥益は、醍醐天皇の生母藤原胤子の祖父にあたり、その邸を寺にしたのが勧修寺と伝えられる。 」
この先の勧修寺下ノ茶屋町交差点の三叉路は直進する。
この道は旧奈良街道で、醍醐寺の前を通るので醍醐街道とも呼ばれている。
坂を上ると右側に名神高速道路のシェルターが圧迫するように迫ってくる。
道は高速道の左側に沿って進んでいくが、七百五十メートル行くと、
左側に勧修寺観光農園などのぶどう園がある。
五百メートル程行くと、伏見街道(府道35号線)は高速道路と別れて、左にカーブしていく。
ここは山科区と伏見区の境である。
伏見区深草馬谷町に入ると、左側に「大岩神社自動車道入口」の石柱がある。
坂を下って行くと三叉路の右側に、 京都ピアノ技術専門学校がある。
(注)現在は育英館大京都サテライト校?
伏見街道はこの建物の先の右に入る細い道なので、歩いてきた府道と別れてこの道に入る。
賃貸住宅が多く建てられているが、野菜畑も見られ、その先には古い立派な家もあった。
五百メートル程行くと深草谷口町交差点に出る。
交差点手前の用水の橋を越えた右側に、「宇多天皇皇后御陵」と「仁明天皇御陵」の道標、
「霊場深草毘沙門天」の道標が建っている。
「 深草毘沙門天は、深草鞍ヶ谷町の浄蓮華院の本尊・阿弥陀如来が深草毘沙門天とも呼ばれていることによる。
浄蓮華院は、江戸時代の文政四年(1821)に、
比叡山の僧・尭覺(ぎょうかく)上人が有栖川宮韻仁親王の命により、
桓武天皇の菩提のために建立した寺院である。 」
深草谷口町交差点で、合流した府道35号線を行く。
前方にJR奈良線のガードが見えたが、伏見街道はそこまで行かず、
百五十メートル先の左側に右にカーブしていく坂道に入る。
右側の家の軒下に「銀平」と書かれた家がある。
寿司屋だったようだが、脇看板の店名を示す板が外されていたので、廃業したのだろう。
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坂を上って道なりに進む。
このあたりには連子格子で虫籠壁の家や造園業の大きな家など古い家が残っていて、
古の街道を歩くような雰囲気が残るところである。
坂の入口から二百五十メートル程行き、T字路で右折して少し行くと、
直進する狭い道と左折する車が通れるやや広い道の三叉路に出る。
道なりに左折して行くと、左側に天理教山国大教会、反対側にはJR奈良線の線路がある。
伏見街道は、JR奈良線を跨ぐ陸橋に斜め右に入り、陸橋を越えると右折と直進の三叉路にでる。
三叉路では左側に東寺町バス停がある直進の道を選んで、線路沿いに進む。
二百五十メート程行くと交差点に出て、左手を見るとJR藤森駅とJR藤森駅駐輪場の看板がある。
伏見街道は交叉点を右折して長い坂道を下っていくが、右側に京都教育大学の看板がある。
少し行くと緑の中に「藤森神社」の標柱と 常夜燈、 正徳元年(1711)の銘のある石造鳥居が建っている。
「 藤森神社は、神功皇后が軍旗や武具をこの地に埋めて祭祀を行ったのが起源で、 平安京を開いた桓武天皇も弓兵政所としたと伝えられることから、 昔から武家の間に武神として崇められてきた神社である。 そうしたことから、江戸時代、大名行列が神社前を通るときは槍を横に倒して歩いたといわれる。 」
坂道が終わるところに藤ノ森小学校があり、伏見街道は信号のある三叉路で左折する。
この通りは藤森商店街で、小さな昔風の商店が軒を並べている。
百五十メートル程先の墨染交差点で右折して、墨染通を進む。
京阪本線墨染駅の踏切を渡ると、黒染橋が架かる琵琶湖疎水が流れている。
墨染橋を渡ると左側に、桜寺とも呼ばれる日蓮宗の寺院、墨染寺がある。
平安時代の歌人・上野岑雄が、関白・藤原基経が亡くなったのを哀しんで、
「 深草の 野辺の桜し 心有れば 今年計りは 墨染に咲け 」 (古今和歌集)
と詠んだところ、本堂前の桜が薄墨色に咲くようになったので、
「墨染寺」 と呼ぶようになったと伝えられる寺院である。
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伏見墨染郵便局前を進むと、右から左への一方通行の京町通の交差点に出る。
ここが東海道五十五番目の宿場、伏見宿の入口である。
左側にある三上食品の信号交差点を左折して南に向う。
「
伏見宿は、東の京町通りから西の高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接する東西一キロ、
南北四キロ半の宿場町である。
京町通は伏見宿の東側にあたる。 道は狭く、車の通行は多いが、古い建物も残っている。 」
伏見街道(府道35号)は、左側の伏見税務署を越えると、交差点の右側の道路の入口に
「 大正七年八月吉日 」と 「 撞木町廊入口 」 と、書かれた二本の門柱が建っている
これは、この先に「撞木町廊」という遊郭があったことを示すものである。
このあたりは、江戸時代には賑やかな遊興街だったところで、
赤穂浪士、大石内蔵助が吉良方の目をあざむくために遊興したことで有名だった、という。
ここを過ぎると、竹田街道(国道24号)と交差する信号交差点に出る。
伏見街道は交差点を直進し、最初の交差点で、府道35号と別れ、右折する。
狭い道に入るとすぐに白い蔵がある三叉路に出るので、両替町通りを左折して南に向かう。
なお、京町通と両替町通は徳川家康が銀貨を造らせるため、銀座を置いたところである。
近鉄京都線のガードの先には虫籠造りの壁の家や小さな社が祀られていて、街道の面影が残っている。
左奥にゲベッケン菓子店がある交差点の左右の道は丹波橋通で、街道は交差点を右折して、この通りを進む。
少し行くと石屋町の右側に本成寺があり、一番奥の本堂には創建当時の本尊が祀られている。
「 本成寺は、本能寺の乱で焼け落ちた本能寺の再建に尽力した日逕上人が、
慶長二年(1597)に現在の伏見区上板橋中ノ町に創建した寺である。
寛永十三年(1636)に篤信者中村隆運が伏見奉行の協力を得て、現在の地に移転させた。 」
上り坂の先の右側に、 地蔵堂があり、小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像一体が安置されている。
「 木造地蔵菩薩像は、もとは伏見区三栖の大亀谷地蔵院にあったもので、
隆閑寺学堂を経て、明治三年(1870)に当寺境内に移されたものである。
昔から痰きり地蔵とし地元では信仰を集めている。 」
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道の反対側(左側)にある、勝念寺山門前に 「 天明義民柴屋伊兵衛墓所 」の碑がある。
「 天明義民とは、時の伏見奉行・小堀政方(こぼりまさみち)の悪政により虐げられた住民の苦しみを救う為、天明五年(1785)、天下の禁を破り幕府に直訴した文殊九助、丸屋久兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋右衛門、焼塩屋権兵衛の七人を指す。
彼らの幕府訴えにより伏見奉行の政方は罷免されたが、公にしたくない幕府の態度もあり、
柴屋伊兵衛は京都奉行に投獄され、獄死した他、残りの六人も江戸または京都の獄中で死亡している。
なお、ここから南東に千二百メートルの 御香宮神社 に彼ら七人を顕彰する碑が建っているが、
これは明治時代に入ってからのものである。 」
勝念寺の先に古い家が連なって残っている。
伏見街道は、その先の信号交差点を左折して、南に向かう。
「
伏見は、豊臣秀吉が大阪城の築城と平行して、伏見城を造り、
そこを住居を構えて大名達にも伏見に屋敷を作らせたことから始まったという町である。
伏見街道がこのように曲がりくねっているのは宿場町特有の鉤型によるのだろう。 」
右側の笠置屋駐車場と蔵が立ち並んでいるところを過ぎると、「指物町」の地名表示板があり、
伏見板橋小学校がある。
学校の先の左側の 玄忠寺の山門脇には、 「 伏見義民小林勘次之碑 」が建っている。
境内の顕彰碑には
「 淀川奉行により淀川船の通行料が値上げされたため、 伏見町民が困っていることを知った薪炭商小林勘次は、江戸に出て幕府に直訴し、 値下げの命を記した朱印状を受けたが、 元和四年(1618)四月二十六日、江戸から伏見に帰る途中の東海道鞠子宿で勘次は急死。 勘次は暗殺されるのを恐れ、朱印状は魚の腹に入れて別人に伏見へ持ち帰らせていた。 この結果、通行料は旧に復したので、伏見の町民は勘次を徳とした。 」
と記されている。
寺の角の信号交差点を右折して、下板橋通を進み百メートル程行くと右側に京都市福祉事務所、
その奥に京都市伏見区青少年活動センターの看板がある信号交差点に出る。
街道は左折して南下するが、そのまま直進すると右側に板橋中学があり、
小さな橋を渡ると突き当りの三叉路にでる。
塀に「江戸時代 薩摩島津伏見屋敷」と書かれた新しい標石が建っている。
「
現在は松山酒造になっているが、江戸時代にはここに島津氏が参勤交代の際立ち寄る島津藩屋敷があった。
徳川家定に嫁した天璋院篤姫も宿泊している。 また、石柱には「坂本龍馬寺田屋脱出避難之地」とも記されている。
慶応二年(1866)一月、伏見奉行所は龍馬と長州藩の三吉慎蔵が船宿の寺田屋にいることを知り、
寺田屋に突入したが、風呂にいたお龍が気が付き、龍馬はなんとか脱出し、川に繋がれていた舟に隠れた。
お龍は薩摩藩屋敷に知らせ、龍馬は島津藩邸に逃げ込むことができた。 」
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交叉点に戻り、南下すると左側に御駕篭郵便局がある。
その先の左側には、寺田屋の女将、お登勢の墓のある 松林院がある。
松林院は民家のような建物だが、門がガードされていて入れそうになかった。
京都の寺は大きな寺は別として檀家以外は入れない寺が多い。
松林院を過ぎると、右側に「薩摩寺」と呼ばれた 大黒寺がある。
「 大黒寺は、円通山と号する真言宗単立の寺で、空海(弘法大師)の開基と伝えられる。
もとは長福寺といい、豊臣秀吉が信奉したのを初め、武家の信仰も厚かった。
江戸時代の初めにこの近くに薩摩藩邸が置かれ、
薩摩藩主、島津家の守り本尊と同じ大黒天が祀られていたことから、
元和元年(1615)、薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を本尊として寺名も大黒寺と改められた。
本尊の秘仏大黒天は金張りの厨子に安置される小さな像で、六十年に一度、甲子の年に開帳される。 」
本堂の左側には「金運清水」、「薩摩義士碑」と「伏見義民の遺髪塔」が建っている。
右側の柳に隠れて見えない碑は「伏見義民の遺髪塔」といわれるものである。
「 天明五年(1785)、伏見奉行小堀政方の暴政を幕府へ訴えるため、 江戸で寺社奉行松平伯耆守に籠訴を決行した伏見義民の文殊九助ら七名の遺髪を祀ったものである。 」
中央の大きな「薩摩義士碑」は工事の犠牲となった藩士たちの慰霊のため大正十一年に建立されたものである。
「 宝暦三年、幕府が薩摩藩に下した木曽三川の治水事業に、薩摩藩家老・平田靱負は總奉行として取り組んだ。
幕府の邪魔や多額の借財の末なんとか完成させたが、工事の途中で殉死者や病死者を出したことなどから、
靱負は工事完成後、割腹自殺した。 」
大黒寺の墓地には、平田靱負の墓がある他、 西郷隆盛が建てたという寺田屋騒動の犠牲者、有馬新七など薩摩九烈士の墓碑や 伏見義民文殊九助の墓がある。
大黒寺を出ると左側に 喜運寺があり、
その先の鳥居脇の石柱に「金礼宮」とあるのは、
天平勝宝二年(750)創建と伝えられる伏見区で最も古い神社である。
本殿の前のしめ縄がかけられた大きなクロガネモチは京都市指定天然記念物である。
神社の由来
「 平城京より山城の国に遷都された桓武天皇が、伏見の里に神社を建立の為の勅使を使わしたところ、
金札が降ったので勅使が取上げると、 「 伊勢大神宮の流れを絶やさぬため天津太玉神を祀るように 」
という御神託が金文字で書かれていた。
神社では金札を御神体として祀り、御祭神は天津太玉神と天照大神とした。 」
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その先の交差点を越えると左側に伏見区役所があり、その先の信号交差点の左右に道は毛利橋通である。
伏見街道は交叉点を横断して進むが、その先の道幅は狭くなっている。
狭い道を行くと前方上方に大きな円盤のようなものがあり、その下に「 SOLOR ZONE 」と「大手筋」と書かれている。
左右に連なるアーケードは伏見区で一番賑やかな大手筋通商店街である。
伏見街道は直進だが、左折して進むと、天明義民七人の顕彰碑がある御香宮神社に至る。
御香宮神社の先に伏見城があったので、伏見城の大手筋ということから、大手筋の名前が付いた。
大手筋通を横断して進むと、左右が魚屋通の交差点にでる。
ここも直進し、浅山眼科の看板がある交差点で右折して、油掛通に入る。
車が一方通行の狭い道だが、歩道がしっかり整備されていて歩きやすい。
のんびりとした雰囲気が漂う通りを行くと左側の門の下に「カッパカントリー」の看板がある。
「 カッパカントリーでは、黄桜酒造が清水昆に描かせていたカッパをテーマに、
コマーシャル映画の上映や世界の河童に関する資料を展示している。
(注)現在は黄桜記念館。
この南東に、月桂冠大倉酒造記念館があるので、立ち寄る。
「 ここは旅人の往来する街道筋に面し、舟着場の京橋と目と鼻の先の南浜の馬借前で地の利もよかった。
大倉酒造の創業者、大倉治右衛門は寛永十四年(1637)、笠置の里(現笠置町)から伏見に出てきて、
ここで酒造りを始めた。
伏見は江戸時代には伏水と書かれたほど伏流水に恵まれ、酒造りの町として発展し、
兵庫県の灘とともに醸造業が盛んである。
羽柴秀吉は伏見城をつくるため、淀川を巨椋池から切り離し、城山の真下へ迂回させ、
その一部を町の中に引き入れ、城の外堀とするなど河川の大改修を行った。
明治の終わり頃までは、米、薪炭、樽材などの材料から酒樽までの全てが、
濠川<(ほりかわ)を上下する船で運ばれていた。
そうしたことから、現在もほとんどの原酒蔵はこの濠川に接して建てられている。 」
街道に戻り、西に向かうと南北に細い道がある交差点に出る。
交差点の南側の細い道は、龍馬通り。
そのまま直進すると右側に「西岸寺」があり、
油掛という地名の由来になった、油掛地蔵尊を安置されている。
「 山崎の油商人がこの地蔵さんの前で油桶をひっくりかえしたので茫然としたが、
残った油を地蔵さんに掛けて帰ったところ大金持ちになったという話が残る地蔵尊である。
地蔵堂は鳥羽伏見の戦いで類焼し、明治二十七年に再建され、昭和五十三年に建て替えられた。 」
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境内の柵の中にあるのは文化二年(1805)に建立された芭蕉の句碑である。
芭蕉が、貞享二年(1685)に、当寺の任口(宝誉)上人の高徳を慕っておとずれた際、
出会いの喜びを当時の伏見の名物の桃にことよせて詠んだ句である。
「 我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の 雫とせよ 」
油掛通は江戸時代から京と大阪へ行き交う旅人や物資の集散地として賑わった通りで、
日本最初の電車が明治二十八年(1895)に博覧会への客輸送用として運転されたところである。
「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が、その先の交差点右角の駿河屋本店の左隅に建っている。
交差点を左折すると、百メートル程先に濠川に架かる京橋」がある。
その下には川の両脇には柳が植えられ、遊歩道のある公園になっている。
説明板
「 濠川は江戸時代には高瀬川に注ぎ、その先で淀川に通じていたが、
今は流れが変えられて宇治川に注いた後に、淀川に合流している。
淀川の水運は、古くから京や大阪を結び、琵琶湖経由で東海、北陸と繋がる交通の大動脈だった。
京市内と伏見との間に角倉了以(すみのくらりょうい)>が開削した高瀬川が開通すると、
このあたりは旅人や貨物を運ぶ川舟の湊として、淀川を上下する貨客の三十石船、高瀬川を往来する高瀬舟、
宇治川を下ってくる柴船など昼夜なく賑わった。
明治初年に京都と大阪間に鉄道が開通すると次第にさびれていった。
今は往時の盛観は見られないが、
ここから東約五十メートルのところにある旅館寺田屋がわずかに船宿の名残をとどめている。 」
寺田屋に立ち寄る。
「 伏見宿の中心は現在の京橋付近で、京橋北詰には高札場、 南詰には幕府公認の過書船(かしょぶね)番所や船高札場などがあり、 本陣は四軒、脇本陣は二軒、旅籠が三十九軒あったといい、寺田屋もその一つである。 」
寺田屋は橋の手前のガソリンスタンドのところを左に入ると左側にある。
舞台になった一階奥の部屋は残っていて、庭には「寺田屋騒動」の記念碑が建っている。
寺田屋は、文久二年(1862)四月二十三日、
薩摩藩の討幕急進派がここで決起を企てた寺田屋騒動の舞台として有名だが、
今も旅館として営業している。
「 寺田屋事件は、薩摩藩の急進派である有馬新七以下三十五名が寺田屋一階に
関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して集結した。
そのことを知った薩摩藩は藩士を説得に向かわせたが、説得に失敗し両者乱闘 となり、
有馬新七ら七名が斬られ、二人が重傷をおい、翌日、切腹したという事件である。 」
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寺田屋は坂本龍馬の定宿で、二階に龍馬の部屋が残っている。
「 慶応二年(1866)一月、伏見奉行所は、龍馬と長州藩の三吉慎蔵がいることを知り、見廻組にも応援を頼み、
二階の龍馬の部屋を襲った。
一階の風呂に入っていた許嫁のお龍は、外の気配で知り、二階に駆け上がって知らせたので、
龍馬はかろうじて脱出することができた。 」
街道(府道115号)に戻ると、京橋下の河岸に復元された川舟が繋がれている。
伏見から大阪までは京街道とも大坂街道ともいわれる東海道を歩く人もいたが、
大多数は乗り合い船のお世話になったのである。
五海道中細見独案内には
「 伏見より大阪まで下り夜舟、乗合の事はよく宿にて掛合、万事間違のなき様にすべし。
乗合の中にて、もし勝負事をする者は必ずごまのはえの類なるべし。 用心すべし。
また、舟中にて心やすくなり大阪其先々までも同道して其上にて取逃げする輩もあるなれば御用心なさるべし。 」
とあり、夜間の船旅での犯罪が多かったことが窺える。
京橋を渡った先の右側にある京都市伏見土木事務所は、江戸時代の長州藩伏見藩邸跡で、
道路に面した花壇の脇には「観月橋」の橋柱が建っている。
建物の一角に 「 右京道 左宇治 左北山役行者・・・ 」 と書かれた道標があるが、
大和海道で宇治へ二里の距離である。
このあたりは上中町と下中町に分かれていたが、旅籠が多くあったようである。
歩いて行くと、頭上に中書島の標識が現れ、三叉路になる。
左は京阪本線中書島駅、直進は伏見港公園で、東海道(京街道は右側の道である。
この道は数百メートルで、高瀬川に突き当たるが、そこまでが伏見宿だったと思われる。
今も街道らしい雰囲気の家並みが残っている。
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