大津から京三条への道は坂を二つ越えるのである。
大津と山科を隔てる逢坂山は平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところである。
山科を過ぎると三条通を通るが、天智天皇御陵の先で坂になり、蹴上に下っていく。
三条大橋を渡ると長かった東海道の旅は終わる。
(ご参考) 大津〜三条大橋 11.7キロ 徒歩約3時間10分
大津宿の探訪が終わるとゴールの京都三条大橋は目前である。
国道1号線に合流すると山科までは東海道の古い道はなく、国道を歩くことになる。
通過する車の数は半端ではない。
少し行くと右側に蝉丸神社下社の常夜燈と石碑があり、線路の向こうに鳥居がある。
京阪電車の踏み切りを渡って、境内に入ると、少しじめじめしたところに蝉丸神社の社殿があった。
「 蝉丸神社は音曲の神様で、
琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていた。
天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」があるが、蝉丸の生い立ちははっきりしない。
盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようである。
現在の神社は、ここにあった蝉丸を祭神として祀る「蝉丸宮」に、江戸時代の万治三年(1660)、
現社殿が建てた際、街道筋にあった「猿田彦大神」と「豊玉姫命」を合祀したものである。 」
境内には 「 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 」 という歌碑があった。
京阪電車の踏切りを渡ると、右側の小高いところに、安養寺がある。
「 安養寺は蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりとする名号石があり、 また、国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。 」
ここから逢坂山の上りになる。
「 逢坂(おうさか)の地名は、「日本書紀」の 神功皇后の将軍・武内宿禰が、
この地で忍熊王と出会った、という故事に由来し、平安時代に平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、
関を守る鎮守として「関蝉丸神社」と「関寺」が建立された。
なお、関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことである。 」
安養寺の入口に「関寺旧跡」と表示した教育委員会の木札があるので、日本書紀の関寺はここにあったのであろう。
この先、右側には歩道がないので左側を歩くことになる。
右が国道、左が京阪電車に挟まれた狭い空間を四百メートル上ると、名神高速道路の下をくぐる。
百メートル行くと道の右手の高いところに、赤い鮮やかな鳥居の 蝉丸神社上社がある。
更に二百メートル程行くと右側に、「逢坂山弘法大師堂」、の木柱が建っていて、
民家のような建物の弘法大師堂がある。
そこには、小さな祠が幾つかあり、石仏が祀られていた。
x | x | x | ||||
逢坂は右にカーブをしながら頂上に到着した。
地名は逢坂1から大谷に変わった。
東海道はここで国道と別れ、右側の道を行くので、歩道橋で国道を越えて右側に出る。
ここで国道を少し大津側に下ると、「逢坂山関址」の石碑と、
寛永六年建立と刻まれている、逢坂常夜燈が並んで建っている。
歩道橋まで戻り、東海道に入るとうなぎ日本一の看板が大きく掲げた 「かねよ」という、
鰻料理の老舗の店がある。
その先の右側に「蝉丸大明神」の常夜燈があり、小高いところにもう一つの蝉丸神社があった。
この神社はこの地域の鎮守である。
江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があり、
山から流れて出た清水を使った「走井餅」が評判だったといわれる。
東海道は短くすぐ終わり、国道に合流してしまった。
このあとは国道1号の左側の歩道を1500m位歩く。
それを歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、月岡庄兵衛住宅跡」の石柱がある。
今やそろばんは時代の長物化した感があるが、
当時はパソコンの到来くらいのすごいものだったのだろうと思った。
説明板
「 月岡庄兵衛は慶長十七年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始した。
最近まで子孫の方が住んでいた。 」
下り坂なので快調であるが、このあたりは旧寺一里町で、
江戸時代には両脇に一里塚があったところである。
左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれる。
月心寺から七百メートルで名神高速道路をくぐる。
道が少しごちゃごちゃしている感があるが左に入っていくのが東海道で、国道1号とはここで別れる。
道の北側が大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、 滋賀県と京都府の県境である。
少し行くと三差路があり、伏見道の追分である。
「 伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道だった。
大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け、伏見道を使ったのである。 」
x | x | x | ||||
「東海道名所図会」に、「 追分 ー 村の名とす。 京師・大坂への別れ道なり。 札の辻に追分の標石あり。 」 と書かれているが、「 みきハ京みち、ひだりふしミみち 」 と、刻まれている道標は、
今も残っている。
隣の「蓮如上人」の石碑には 「 明和三丙 」 と刻まれていたが、途中で折れたものか?、かなり小さかった。
右の道・東海道を行くと、右側の閑栖寺の門前に 「 東海道 京三條 」 と刻まれた道標と、
車石がある。
これまでは荷車が使用できたが、幕末に間に合わなくなり、牛馬車の使用ができるようになったのである。
寺が作成した説明板
「 逢坂山は大量の荷物の輸送があったので牛馬車が使用されたが、急坂なので難儀していた。
文化弐年(1806)三月、京都の心理学者・脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案。
近江商人の中井源左衛門が一万両の財を投じて、大津から京三條まで、花崗岩に轍を刻んだ敷石(車石)を並べ、
荷車が通行できるようにした。
このあたりは車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側に人や馬が通る道があった。 」
一万両というお金は半端なものではないが、文化文政時代ごろから商人の経済力が強くなり、
幕府に頼らず商人の手で行う動きがでてきたが、これもその一つである。
近くのお寺の庭にも車石があったが、これらの車石は道路工事で取り外されたのを残してきたもので歴史的に価値がある。
400m歩くと楡木一丁目で国道に合流する。
東海道は国道の反対側に続くので横断歩道橋で越える。
橋から来た方角を見ると京都東ICへの道や北国街道への道などがあり、壮観である。
これで逢坂山は越えた。
x | x | x | ||||
陸橋を下り、少し行ったところに「三井寺観音道」と刻まれた大きな道標がある 。
「 三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院である。
三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)である。
北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だった。 」
このあたりは横木一丁目で、まだ大津市の領域、四ノ宮町に入ると京都市山科区に変る。
一部古い家があるが、地下鉄の開通により山科の景観は一変しつつある。
道の右側に二つの石柱が建つ「徳林庵」がある。
「南無地蔵尊」と刻まれた石柱は、京都六地蔵の一つ ・ 山科地蔵(四宮地蔵とも山科廻り地蔵ともいう) のことである。
地蔵尊は奥の六角堂に安置されている。
「 後白河天皇は、都の守護、往来の安全や庶民の利益結縁を願い、
小野篁(おののたかむら)により、仁寿弐年(852)に作られた六体の地蔵尊像を、
平清盛、西光法師に命じ、
保元弐年(1157)、京都の入口に当たる街道筋に安置させたもので、俗に六地蔵といわれる。
各寺で授与される六種のお幡(おはた)を家の入口に吊るすと、厄病退散、福徳到来のご利益があるとして、
六地蔵めぐりの行事が定着した、といわれる。
毎年八月二十二日、二十三日に、六地蔵巡りの行事が行なわれる。 」
手水鉢には丸に通の字が彫られ、裏には 「定飛脚 宰領中 文政四巳年(1821)」 と彫られている。
これが日本通運の丸通になったといわれる。
もう一つの石柱に「人康親王(さねやすしんのう)墓所」とあるが、寺の脇の道を奥に行くと十禅寺があり、
その隣に親王の墓がある。
人康親王は蝉丸という説もあるようで、徳林庵は親王の子孫が開創した寺という。
その先の右側に「諸羽神社」の石標と鳥居が建っている。
説明板
「 諸羽神社は延喜式の式内社で、神社の歴史は古い。
祭神の天兒屋根命と天太玉命が、禁裏御料地の山階郡柳山に降臨座されたので、楊柳大明神と奉称された。
二神は天孫降臨の時左右を補佐したことから両羽大明神と称し、
清和天皇の貞観四年(862)に御所により社殿が造営され、裏山は両羽山と称するに至る。
永正年間に八幡宮と若宮八幡宮を合祀したことから諸羽神社と改称した。
これが四ノ宮の地名の由来である。 」
x | x | x | ||||
線路を越えた先に更に鳥居があり、その奥に青い屋根の諸羽神社の社殿がある。
諸羽神社の社殿は二度の火災に遭い、現在の社殿は明和五年に再建したものである。
この後、毘沙門堂に寄り道する。
毘沙門堂はここから約1qの距離である。
神社の奥にから山科疎水の橋を渡り、
緩やかな上りの道を行くと毘沙門堂の入口である。
橋の形した先に、「毘沙門堂門跡」の石標と常夜燈が建ち、石畳が続いている。
車道に架かる橋の上には「極楽橋」の文字がある。
寺の説明によると
「 極楽橋は後西天皇による勅号で、明治以前はどんな高貴な方でもここで下乗され、参拝した。
毘沙門堂は、大宝三年(703)、
行基によって出雲路に創建された「出雲寺」と号する天台宗の五門跡の一つである。
室町以降の度重なる戦乱により荒廃し、岩倉や大原などに移転したが、天正年間に堂宇が全焼。
寛文五年(1665)、天海僧正により、この山科の地に再興された。 」 とある格式のある寺院である。
その先のかなり急な石段を上ると、しだれ桜の先に本堂があり、本尊の毘沙門天像を安置する。
街道に出る道はそのまま南下する。
200m程の右側に、赤穂義士のゆかりの寺・瑞光院がある。
山門の脇の説明板
「 慶長十八年(1813)、因幡国若桜藩主・山崎家盛により、浅野長政の旧蹟に創建された寺で、
山崎家が無嗣により断絶すると赤穂浅野家の祈願寺となる。
元禄十四年(1701)三月、浅野長短は吉良上野介に刃傷し、浅野家は断絶。
同年八月、大石良雄は当寺に浅野長短の衣冠を埋め、亡君の石塔を建立し、
墓参の都度の同志との密議のところとなる。
更に、元禄十五年十二月の赤穂義士による吉良邸討ち入り、本懐を遂げて後、
義士四十六士の髻を寺の住職が預かり、主君の墳墓の傍らに埋めたのが遺髪塚である。 」
x | x | x | ||||
その先左側の民家前には「左毘沙門堂道」と刻まれた道標が建っていた。
JRとのガードをくぐり、京阪電車の線路を越えると、先程の東海道の先に出る。
東海道を進むと、右側の「エスタシオデ山科 三品」というマンション前に「東海道」の道標と車石がある。
その先の道の両側には地下鉄東西線が通り、右手はJR山科駅である。
駅前を越えた右側のRACTOビルの植え込みに、「明治天皇御遺蹟」碑がある。
「 明治天皇は東京に遷都の際、京都と東京の間を数回往復されたが、
その際、本陣あるいは小休所として三回利用されたのが、毘沙門堂の領地内にあった奴茶屋だった。
昭和の終わりまでは料亭として残っていたが、現在はビルの中に移りこじんまりと営業をしているようである。 」
少し行くと、「五条別れ道」の道標が建っている。
道標の北面には、「 右ハ三條通 」 、
東面には 「 左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道 」 、
南面には 「 宝永四丁亥年十一月 」、西面には 「 願主・・・ 」 と刻まれている。
「左ハ五条橋」とは、澁谷越道で、五条大橋へ出るルートである。
国道1号線はほぼ同じルートを通っているが、澁谷越道は途中で途切れている。
x | x | x | ||||
京都三条大橋までは山科から六キロ程の距離で、これを歩くと東海道の五百キロに及ぶ旅は終わる。
「五条別れ道」道標で右側の道を進むと、県道143号(通称三条通り)に合流し、すぐにJRのガードをくぐる。
このあたりは御陵久保町で、左側に散歩道があるが、それには入らず、次の三叉路で左側の細い道に入る。
この道が東海道で、間違いやすいところなので、要注意である。
このあたりの御陵○○町という地名は、県道のこの先右に入った森にある天智天皇陵による。
東海道は先程の散歩道を横断し、二つか三つの交叉点を通過する。
左右からの道の方が広いが気にせず、まっすぐ行き、左側に畑が一部残るところを過ぎると、
御陵岡町の住宅地に入る。
その先は日の岡地区で、大乗寺への案内がある先の交差点の左右の道は大石道。
交叉点を越えると、右にカーブし、道はかなりの上り坂になる。
「 この道は日ノ岡峠に通じる道で、今は自動車も通れるが、
昔は石ころや窪みのある悪路で、牛車や荷車の難所だった。
木食上人はこの峠道の改修に心血を注いて、元文三年(1738)、三年がかりで安心して通れる道を完成させた。 」
坂を登った左側に、 亀水不動尊がある。
「 木食上人は、峠の途中のここに、道路管理と休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、 井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、 牛馬の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待した、という。 」
その先の北花山山田町の敷地の一角に、二条講中が建てた「妙見道」の道標、
その隣に「 右かざんいなり(花山稲荷)道 」 の道標が並んで建っていて、
左の小さなお堂の脇には石仏群が祀られている。
都会と隣接しながら一部古い家が残り、落ち着いた暮らしの雰囲気があるのだが、
周りの住宅地開拓がどんどん進んで変貌しつつ感じも受けた。
x | x | x | ||||
一台しか通れない一方通行の狭い道なのに走る車は多いので、注意しながら歩く。
四百メートル行くと、信号交叉点で県道143号(三条通り)に合流する。
歩道は右側にしかないので、道を横切って反対側に出て坂を上る。
九条山交差点を過ぎたところで、前方にあるのは東山ドライブウェイの橋で、 道路標識には「九条口」とあった。
「 東山ドライブウェイは左手の坂を上ると将軍塚に至る。
将軍塚は桓武天皇が平安京の造営時、王城鎮護のため、八尺の征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、
都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところである。 」
橋をくぐり、直進すると日ノ岡坂の頂上になる。
坂を下って行くと、左手に京都蹴上浄水場がある。
ここから京都市山科区から東山区に変る。
道の右側に「式内日向大神宮」の石柱が建っている。
「 日向大神宮は、顕宗天皇の時代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされ、 天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請したといわれる神社で、 延喜式にも記名がある。 」
鳥居をくぐり上っていくと、疎水に架かる太神宮橋に出て、
琵琶湖疏水では大津方面にトンネルがある。
橋の脇には安政六年(1859)三月建立の常夜燈が建っていた。
大神宮へは、橋を渡った先の石段を上っていく。
左手には疎水を利用して人や荷物を運んだ「インクライン」の跡があり、使用した台車が展示されている。
「 明治に入ると大津港から南禅寺溜まりまで船に人や荷物を載せたまま運ぶ輸送が行われた。
そのため掘られたのが疏水やトンネルである。
高低差の多いこの区間は水路が使えないので、土砂で傾斜を付けてレールを敷き、
船を載せた台車をロープで引き上げる方式(インクライン)がとられた。 」
x | x | x | ||||
街道に戻ると、道の右下に煉瓦造りの 蹴上発電所 の建物が見える。
「 蹴上発電所は日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行った。 明治二十三年(1890)一月に工事を着工し明治二十四年(1891)の八月に運転開始したが、 明治四十五年(1912)二月に第二期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたという。 従って、写真の煉瓦造りの建物は第二期のものである。 」
坂を下ると、右側に地下鉄の蹴上駅があり、蹴上交叉点の三叉路で、右に直進する道は南禅寺や銀閣寺に至る。
左折する道は県道143号で、東海道はこの道を行く。
左側にウエステイン都ホテル京都がある。
坂を下りきったあたりが粟田口で、右側に「正一位合槌稲荷明神参道」の道標が建っている。
このあたりに稲荷大明神の神助を得て、名刀、小狐丸を打ったと伝えられる、 刀匠三條小鍛冶宗近 の家があったといわれる。
道の反対には粟田神社がある。
三条神宮道交叉点では右手に平安神宮の大きな鳥居が見え、左折すると知恩院へ至る道だが、東海道は直進する。
その先の白川橋の脇には、東面に 「 是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち 」、
南面に 「 延宝六戊午三月吉日 京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽 」 という道標が建っている。
その先の東山三条交差点で、 東大路通りを渡ると左側に「銘酢 千鳥」という看板を掲げた村山造酢がある。
「 村山造酢は創業から二百八十年という老舗で、質のいい江州米と酒を使って食酢をつくり続けているという。
江戸時代の醸造蔵を近代建築で囲い、京都市都市景観賞にも選ばれている。 」
ここからゴールの三条大橋までは五百メートルである。
x | x | x | ||||
「茶懐石 辻留 出張専門 」 という看板を掲げているのは、明治三十五年創業の辻留で、
裏千家お出入りの仕出し屋である。
京都の料亭は板前を持たず、一流職人を抱える仕出し屋から料理を届けさせている。
左側の京阪三条駅は出町柳まで線路を延伸した時駅を地下化し、上は喫茶店とモダンな庭園にしている。
右側に「浄土宗 だん王」という石碑が建つ寺の正式名は、朝陽山栴檀王院無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)である。
その先にひれ伏す武士像は、皇居を遙拝している高山彦九郎像である。
「 高山彦九郎は延享四年(1747)、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)の生まれで、天皇を崇拝した勤王思想家である。 松平定信などの幕府の警戒から常に監視下に置かれ、寛政五年(1793)、筑後国久留米の友人宅で四十六歳で自刃した。 林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた人物であるが、その後の幕末の勤王の志士達に大きな影響を与えた。 」
目の前にあるのは加茂川で、三条大橋が架かっている。
日本橋からここまで百二十六里余(約492q)を歩いてきたが、東海道の旅もこの橋で上りである。
「 現在の三条大橋は昭和二十五年に建設されたものだが、擬宝珠の中には豊臣秀吉が作らせたものもあり、 また、西より二つ目の擬宝珠には、池田屋騒動時につけられたとされる刀傷が残る。 」
池田屋は高瀬川に架かる三条子小橋の西側にあった。
池田屋騒動も関係する橋なのだと思いながら橋を渡る。
橋を渡ると左側にあるのが弥次喜多像である。
弥次さん喜多さんの時代には途中で大変なことが多かったので、
京都に到着すると大きな達成感が得られたと思う。
交通機関の発達した今日に生きる我々でも、東京から京都まで歩くことは、
コストと時間を考えると贅沢なことといえよう。
そのような時代の移り変わりの中で、加茂川は今日も淡々と流れていた。
江戸日本橋から京三条大橋までの東海道の旅は終わった。 達成した満足感とともに・・・
x | x | x | ||||
(追加)東海道五十三次を歩き終えてしばらくして、東海道五十七次と呼ばれる道があることを知り、歩くことにした。
出発点は京都三条からではなく、大津宿から逢坂山を越えたところに道標のある山科追分である。
皆様も歩いてみませんか?