草津宿を出ると、矢倉集落に矢橋道の道標が建っている。 矢橋港からの渡しに向う追分だった。
瀬田川には唐橋を制する者は天下を制すといわれた橋が架かり、古代から幾多の戦いが繰り広げられた。
大津宿は天領で、商人の町であると共に東海道最大の宿場といわれた。
(ご参考) 草津〜大津 14.3キロ 徒歩約5時間10分
草津宿の京側入口にある立木神社を出発して二百メートル行くと草津川が流れている。
この草津川は、旧草津川の洪水を防ぐため、平成十四年(2002)から平成十九年(2007)七月にかけて、
新たに開削された新草津川である。
これにより、旧草津川には水が流れなくなった。
矢倉橋を渡り、信号交叉点を越えると左奥に 光伝寺がある。
光伝寺は承平年間(931〜938)の創建と伝わる寺で、応仁の乱により消失したが、
明暦年間(1655〜1658)に再興された。
矢倉集落は江戸時代は矢倉村だったところで、古い家がかなり残っている。
信号交叉点の手前右側、「天井川」と書かれた酒の看板があるのは、古川酒造である。
ショウルームには杉球が吊るされ、酒徳利が置かれていた。
信号交叉点を越え、百メートル行くと三叉路の右側に瓢箪(ひょうたん)専門店の瓢泉堂がある。
「 矢倉の瓢箪は今から二百五十年ほど前から作られたといわれるが、
現在はこの店だけである。
この場所には明治時代に同じ矢倉の地から移ってきたという。 」
店の角に 「 右やはせ道 これより廿五丁 」 と刻まれた、矢橋(やばせ)道標が建っている。
江戸時代には 「 瀬田へ廻ろか、矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち 」 と、
言い囃された姥ヶ餅屋があったところで、東海道と矢橋道との追分である。
「矢橋道標」は、姥が餅屋(うばがもちや)の軒下に、寛政十年(1798)に建てられたもので、
東海道を往来する旅人を「矢橋の渡し」に導くために建てられた。
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矢橋道は矢橋港の渡し場への道で、矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていた。
陸路の瀬田の大橋経由で大津宿は三里(12キロ)なのに対し、
矢橋港からの渡船では湖上五十町(5.5キロほど)と短く、
時間短縮と疲労防止ができたので、浮世絵の百石船のように多くの旅人や商人が利用したという。
江戸時代の旅人は「姥が餅屋」で茶を飲みながら、舟にするか、大津まで歩くかを思案したことだろう。
与謝蕪村はここで 「 東風吹くや 春萌え出でし 姥が里 」 という句を残している。
矢倉集落を過ぎると、国道1号線の矢倉南交差点に出る。
対面の標識に「旧東海道」の案内表示があるので、それに従って国道を斜めに渡ると野路集落に入る。
「 野路は、東山道の宿駅の野路駅舎として源頼朝など武将達が往来したところで、宇治への分岐点だったが、 東海道が開設され草津宿ができると、野路の存在は低下していった。 」
道を渡った反対側の小さな上北池公園に、「野路一里塚」の石碑がある。
説明板
「 野路の一里塚は、これより北西三十メートルと道を挟んだ北東二十メートルにあったが、
明治十四年、国有地払い下げで消滅した。 」
東海道は国道の一本東の狭い道で、国道と平行している。
道の左側の教善寺の前には、「草津歴史街道 東海道」の案内板がある。
道は右にカーブする。
少し先の右側にある遠藤家で、錦鯉が泳いている池の奥に五輪塔の清宗塚がある。
遠藤家はこの塚を数世紀に亘り守ってきたわけで、遠藤家の歴史の長さと行為に感心した。
「 清宗は壇ノ浦で敗れた平家の総大将平宗盛の長男である。
捕虜になっていた清宗は、父宗盛が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせて祈った後、
堀弥太郎景光の一刀で首をはねられた。 清宗の亡骸を葬ったというのが五輪塔の清宗塚である。 」
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このあたりは野路集落の中心であるが道が狭い。
その先に「新宮神社」と「都久夫須麻神社」の石柱と鳥居が建っていた。
右側の願林寺の裏には「八幡神社跡」の記念碑があり、 「 京都の石清水八幡宮に近い歴史があった。 」 とある。
道は左にカーブし、信号交差点にでるので、大きな道(県道43号)を横断する。
その先の右手のフェンスに囲まれた中にあるのは、野路の玉川である。
現在の「野路の玉川」は、昭和五十一年に復元したものである。
「 野路の玉川は、十禅寺川の伏流水が湧き水になり、一面に咲く萩と共に近江の名水、名勝として有名だった。
源俊朝が千載和歌集で 「 あさもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり 」
と詠まれた他、多くの歌人が歌を詠んだ。 阿仏尼は十六夜日記に
「 のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら 」
という歌を詠んでいる。
しかし、東山道の野路宿駅の衰退とともに、野路の玉川も運命をともにしたようである。 」
道がカーブすると南笠東に入るが、江戸時代には松並木があったようだが、今はなくなっている。
右側に弁天池があり、浄財弁財天が小島に祀られている。
狼川に架かる橋を渡ると、道は緩やかな上り下りをくり返しながら続く。
栗林町に入ると大津市になる。
以前は畑か山林だったと思われるところだが、道の両側に工場がある。
月輪集落に入ると、右は月輪二丁目、左は月輪三丁目である。
信号のない交差点の左側に古く立派な家があった。
月輪は江戸時代、立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇にあった。
玉川からここまで一キロ以上の間に街道という雰囲気はまったくなく、
道の狭さだけが当時のものだろうと思った。
左側の柵の中に、「新田開発発祥之地」、「明治天皇駐輩之碑」 などの石碑が建っている。
ここは月輪寺で、文久三年(1863)の開基である。
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信号交叉点に出ると、ここから一里山で、東海道は車道を横断し、その先左にカーブしながら、
くにゃくにゃ続いている。
車一台分位しかない狭い道なのに予想した以上の車が走り、歩きづらい。
一里山三丁目交叉点を右折すると広い道で、300m程行くと角に洋服お直し工房がある、
一里山一丁目の交差点に出た。
店の一角に「一里塚碑」が建っていた。
説明板
「 ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間を位置するもので、大きな松が植えられた塚でしたが、
惜しくも明治末期に取り除かれました。
その場所は旧道と広い市道の交叉しているこの地点にあたります。
現在の一里山という地名が一里塚があったことを物語っています。 」
点滅信号を左折(道路右上の案内板に注意)。
道が二手に分かれたら、塀沿いに右に行く。(道路正面上の案内板に注意)
東海道はこの先、大江三丁目と六丁目の境を行くが、国道に向かっていく道が多く、分かりずらい。
道筋に大津市が設置した案内板があるのでそれを見ながら行くが、少しはずれると分からなくなってしまう。
大江四丁目の東消防署前に道標があり、続いて、市立瀬田小学校前に道標がある。
瀬田小学校の近く(小学校南の忠魂碑付近)に、西行屋敷跡がある。
「 西行法師は佐藤義清という北面の武士だったが、二十三才で出家して、諸国を行脚して多くの歌を残した。 この大江の地にも一時期住んだと言い伝えられている。 」
「 近江国府は、奈良中期(八世紀)に建設され、平安中期(十世紀末)まであった近江国を治める役所である。
東西二町(二百十八メートル)、南北三町(三百二十七メートル)の敷地に、
南北の前殿と後殿、東西の脇殿という建物が建ち、門や築地垣があり、
千名を越える官吏と兵士が勤務していた。
その外側に九町(九百七十二メートル)四方の規格化された街路が広がっていた。 」
所どころに島のように囲まれたところがあるが、これは建物のあったことを示すものである。
中央の建物の中には発掘状況などの資料とともに国府の想像図がイラストになって掲示されている。
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交叉点に戻り、旅を再開。
瀬田南小学校前バス停(現在はないかも)で、旧国道1号線の広い道に合流する。
信号交叉点を越え、高橋川に架かる橋を渡ると神領である。
神領の地名は建部神社の門前に位置し、御料田(神領)となったことから名付けられたといわれる。
古い家が少し残る商店街を行くと、神領交叉点の三差路になる。
左折して350m行くと、左手に、建部神社の大きな石柱と鳥居がある。
「 建部神社の創祀時期は定かでないが、昔から建部大社とか建部大明神などと称え、
近江国一の宮として延喜式内名神大社に列する由緒正しい神社である。
社伝には 「 景行天皇四十六年、稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、
神崎郡建部郷千草嶽に日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳四年、勢田郷へ遷座した。
天平勝宝七年(755)、孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、権殿に奉祭せられ、
現在に至っている。
本殿に主祭神の日本武尊を、相殿に天明玉命、権殿に、大己貴命を祀っている。
承久の乱で戦火に遭い、社殿と多くの社宝を失ったが、
延慶弐年(1319)、勢多の判官、中原章則が再建したといわれる。
歴代の朝廷の尊信が驚く、また、源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、
源氏再興を祈願し見事にその願が叶ったことから武運来運の神として信仰を集めた。 」
神社の創世に不明な点があるようだが、
稲依別王の子孫である建部連安麿が天武天皇の頃(676) 創建したという説が有力のようである。
参道を歩いて神門に到着。
神門を入ると神木の 三本杉 があり、入母屋造の拝殿が建っている。
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拝殿の先には、中門を隔てて、本殿と権殿が並んで建っている。
中門の右側の柵内にある石燈籠は文永七年(1270)の銘があり、国の重要文化財である。
その他、平安末期から鎌倉初期の作と推定される「木造女神像三体」があり、
重要文化財に指定されているが、これは宝物館に保管されている(拝観料200円)
神領交叉点に戻り、商店が立ち並ぶ道を歩くと唐橋東詰交差点に出る。
交差点の左手前角に、「田上太神山(たなかみやま)不動寺」の道標があり、「 是より二里半」 と刻まれている。
「 田上太神山不動寺の道標は、寛政十二年(1800)に建立されたもので、
田上不動道への起点を示すものである。
もとは瀬田三丁目の瀬田商店街の角にあったが、理由は分らないがここに移転していた。 」
交差点を渡った先には、常夜塔と句碑が建っている。
河川敷の中には、勢多橋龍宮秀郷社がある。
祭神は瀬田川の龍宮様と俵藤太秀郷である。
俵藤太が竜神の頼みにより大ムカデを平らげたという伝記による神様だろう。
大江匡房は 「 むかで射し 昔語りと 旅人の いいつき渡る 勢田の長橋 」 という歌を詠んでいる。
唐橋東詰交差点の先には、瀬田川が流れ、西側寄りに縦に細長い小島があり、橋が架けられている。
現在の橋は大正十三年(1924)にかけられたコンクリートの橋で、
大小三十四本の擬宝珠があり、川中の島を挟み、二つの橋で構成されている。
「 瀬田の唐橋は、琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる奈良時代にはあった橋で、
鎌倉時代に付け替えられた時に唐様のデザインを取り入れたため、唐橋と呼ばれれるようになった。
古代から東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だったため、
唐橋を制する者は天下を制すとまでいわれ、壬申の乱を始め、承久の乱、
建武の戦いなど、幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、その度に橋は破壊と再建を繰り返してきた。 」
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唐橋を渡った先の唐橋西詰交差点の先には「石山商店街」の表示があるが、商店街らしくない。
道の左側に二軒の古い家があり、その隣の建物は中国風である。
京阪唐橋前駅手前の小路の角に「地主之守大神」、「方位之守大神」 「逆縁之縁切地蔵大菩薩」「蓮如上人御影休息所」と書かれた石碑が建っていた。
線路を越えると、鳥居川町の交差点に出る。
ここを右折するのが東海道(県道104号)である。
交差点の右側の家の一角に「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑が建っている。
(注)四年前に中山道を歩きここを通った時は白壁の塀に黒い門があり、その前に石碑が建っていたが、
家が建て替えられた現在は狭い一角に押し込められていた。
ここで御霊神社へ寄り道する。
交差点を左折して車が一台しかと通れない狭い道に入ると「鎮守の森」の案内板がある。
この道は直進すると「地蔵寺」の前を通って京阪石山寺駅に出る。
この案内板には 「 聖域だった本殿の背後の一段小高くなったところに永年大切に守られていた鎮守の森がある。 」 と書かれていた。
この森の奥の晴嵐小学校に 「近江国分寺跡」の石碑がある。
「日本紀略」に、「 延暦四年(785)、近江国分寺が焼失し、弘仁十一年(820)、定額国昌寺を以て分寺とした。 」 とあるが、その寺の跡といわれている。
その先に「御霊神社」の石柱と鳥居があり、小高いところに本殿があった。
中の鳥居に「大友宮」とあるが、壬申の乱で亡くなった、大友皇子が祭神なのである。
「 天智天皇の子・大友皇子は、父の死後の壬申の乱で、叔父の大海人皇子との戦いに敗れ、
この先の長等で自刃した。
明治時代に天皇に列せられ、弘文天皇という諱がおくられた悲劇の皇子で、
御陵は三井寺の先の御陵町に造られている。 」
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街道に戻り、県道104号を歩き、国道1号を横断し、京阪電車の線路を越えると左側にJR石山駅が見える。
松原町西交叉点で、県道104号と別れ、直進し、JRのガードをくぐる。
左側のNEC(現在はルミネスセミコンダクタマニュファクチユアリング)の工場を一回りするように続く。
この地区は晴嵐で、
一キロほど行くと左側に朝日将軍、木曾義仲と乳兄弟だった、今井兼平(いまいかねひら)の墓
の道案内があった。
「 今井兼平の正式名は中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠兼平、
兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。
墓はここ以外に長野市川中島にあり、彼を祀る今井神社は同所と松本市にある。 」
このあたりは「御前浜」という地名だが、江戸時代以前には粟津野といったようで古戦場である。
近江八景の一つ、「粟津の晴嵐」もこのあたりだが、湖が埋め立てられて、水面を望むという風情は残っていない。
道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家の前に、「膳所城勢多口総門跡」の石柱がある。
このあたりは、城下町特有の鉤形になっていて、道は右、左、右というようにかなり曲がっている。
左側にあった格子の家には珍しい「ばったん床几」が付いていた。
ばったん床几とは前に倒すと縁台になるものである。
このあたりには少ないが古い家が残っていた。
京阪電車の踏み切りを渡ると、右側に若宮八幡神社がある。
表門は明治三年に廃城になった膳所城の「犬走り門」を移築した、
切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、
軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られる。
社殿は幾多の戦火により焼失したので、それほど古くないが、
江戸時代の東海道名所図会に 「 粟杜膳所の城にならざる已前、膳所明神の杜をいうなるべし 」
とあるのはこの神社のことだろう。
「 若宮八幡神社の創建は、白鳳四年(675)、天武天皇がこの地に社を建てることを決断し、
四年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さという神社である。
当初は粟津の森八幡宮といっていたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になった。
」
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道はその先鉤形になっているが、右折して京阪の瓦ヶ浜駅前の踏切を渡る。
瓦ヶ浜には古い家がかなり残っていて、それを大事にしながら生活しているような気がした。
左側のマンションの隣に、 篠津神社の鳥居があった。
説明板
奥の篠津神社の表門は、膳所城の「北大手門」を廃城時に移設したものである。
「 篠津神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、古くは牛頭天王と称した膳所中庄の土産神である。
創建時期は明らかではないが、康正二年の棟札から室町時代にはあったと考えられ、
宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けた。 」
この先の東海道は分からなかったので、京阪中ノ庄駅の手前の交叉点を北上して、信号交叉点に出た。
ここは本丸町で、左手に膳所神社、右に行くと膳所城跡公園である。
膳所神社の表門は、明治三年(1870)に廃城になった膳所城から二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門で、
国の重要文化財に指定されている。
説明板
「 膳所神社は、天武天皇六年に大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して、
大膳職の御厨神とされたと伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、
豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残る。 」
本殿、中門と拝殿の配置は直線上にあり、東正面の琵琶湖に向かって建っている。
境内には「式内社膳所倭神所」と書かれた石碑があった。
膳所城址公園へむかって、東に進むと本丸町交叉点があり、その向うが膳所城跡である。
膳所城は琵琶湖湖岸に築かれた城で、今は膳所城址公園になっている。
中に入って行くと、本丸の 「天守閣跡」 に石碑が建っていた。
「 膳所城は、徳川家康が大津城に替えて、慶長六年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に、
藤堂高虎に縄張りを命じて、新たな城を築いた城で、琵琶湖に浮かぶ水城として有名だった。
京都への重要拠点だったので、譜代大名を城主に任命、
初代は戸田氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、
慶安四年(1651)、再び、本多氏となりそのまま幕末まで続いた。
瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は、琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸を配置し、
本の丸には四層四階の天守が建てられた城だった。
明治三年(1870) 廃城令が布告されると直ちに解体され、一部の門が神社に移築されたが、その他は破壊され、
北側に石垣がわずかに残っているだけである。 」
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信号交叉点まで戻り、北上すると左側に梅香山縁心寺がある。
この寺は、膳所城主・本多家の菩提寺である。
その先の三叉路は直進すると、左側に和田神社がある。
透かし塀に囲まれた本殿は、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、
軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されている。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものだが、側面の蟇股は鎌倉時代の遺構と伝えられる。
「 和田神社は、白鳳四年(675)に祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、古来から八大龍王社とか、
正霊天王社とも称されたが、明治に和田神社となった。
門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものである。 」
境内のいちょうの木は、樹齢六百五十年といわれる市の保護樹木で、 関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき縛られていた、という話が残る。
和田神社の先の三叉路を斜め左に二百メートルに進むと、寺院があり右折し、左折し、
寺の周りを回って道なりに行くと西の庄に入る。
小さな橋を渡るとすぐあるのが石坐(いわい)神社である。
「 石坐神社は、大龍王社とか高木宮と称したこともあったが、
延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古い神社である。
祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇などを祀っている。
本殿は文永三年(1366)とあるので、鎌倉期のものらしい。 」
法応寺を過ぎると「膳所城北総門跡」の石碑が建っている。
このあたりが、膳所城の北のはずれでなので、膳所藩と大津陣屋領との境である。
「 徳川家康は慶長七年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、
大津を直轄地にして、大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置いた。
これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになる。 」
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馬場1丁目に入ると、左側に義仲寺がある。
国の指定史跡の義仲寺(ぎちゅうじ)は、
名所記に 「 番場村、小川二つあり。 西の方の川をもろこ川といふ。 川のまへ、
左の家三間めのうらに木曾殿の塚あり。 しるしに柿の木あり 」 と記されているところである。
寺の由来書
「 寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い、討ち死したが、
しばらくして、側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲の供養した。
尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん)>、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、また、義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にある。
戦国時代に入ると寺は荒廃したが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により寺は再建され、
寺領を進めた。
その後、安政の火災、明治二十九年の琵琶湖洪水などに遭ったが、改修された。
第二次大戦で、寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものである。 」
左奥の土壇の上に、宝きょう印塔を据えたものは、木曽義仲の供養塔で、 「木曾塚」ともいわれるものである。
武勇に優れ美女であった側室の巴御前は尼になり、ここで庵を結び、義仲の供養に明け暮れていたが、
ある日突如として旅に出た、と説明されていたので、ここで亡くなった訳ではないが、
その隣に「巴塚」があった。
山門の右にあるお堂は巴地蔵堂で、巴御前を追福する石彫地蔵尊が祀られていて、
昔から遠近の人の信仰が深い。
巴塚の近くにJR大津駅前にあった山吹姫の「山吹塚」も移設されていた。
この寺が有名になったのは、芭蕉とのかかわりである。
芭蕉が最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後四回滞在している。
元禄七年(1694)十月十二日、大阪で亡くなると、芭蕉の遺言により、
去来、其角ら門人の手で、遺体はこの寺に運ばれ、木曾塚の隣に埋葬された。
当時のままの芭蕉の墓があり、墓の右側には芭蕉の辞世の句を刻んだ句碑が建っている。
「 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る 」
その他にも、巴塚の近くに
「 古池や 蛙飛びこむ 水の音 」
の句碑がある。
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義仲寺本堂は朝日堂ともいい、義仲とその子義高の木像を厨子に納め、
義仲や芭蕉などの位牌が安置されている。
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあった。
「 行春を あふミの人と おしみける 」 (芭蕉桃青)
街道に戻り、京阪電車の踏切を越えたところに三叉路がある。
右の道を行くと、右手に京阪電車の石場駅があり、隣の県道18号には打出浜信号交叉点がある。
「 ここには、江戸時代、矢橋港などから琵琶湖を船で渡ってきた旅人が利用する石場港があったので、
大変賑わい立場茶屋が並んでいた。
港には、弘安弐年(1845)、船仲間の寄進より、高さ八メートル四十センチの花崗岩製の大きな常夜燈が建てられ、船の安全を守る灯台の役目も担っていた。 」
その常夜燈はよそに移されて今はない。 また、石場駅の右側が埋め立てられ、におの浜地区が誕生するなど、当時の姿は残っていない。
三叉路で、道を左にとると、古くから芸能の神として信仰を集めていた、平野神社の石碑が建っている。
平野神社は左の坂の上にあり、蹴鞠の祖神という精大明神を祀っている。
平野集落を過ぎると松本2丁目になるが、東海道は三叉路の左の道を行く。
石山からここまでは古い建物が多く残っていたのに、
大津宿の中心部に入ると古い町並や建物がほとんど残っていない。
「 推測になるが、第二次大戦で空襲に遭い大津市中心部はほぼ全壊したことと、
昭和四十年後半から大津市の人口が急増し、市域が五倍に拡大し、
市中心部の高層化が進んだことによるのだろう。 」
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東海道が通るのは 京町通りで、京都への道筋にあることから名付けられたという通りである。
スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、
県庁などの官庁が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静けさである。
「 大津宿は、南北一里十九町(四キロ強) 、東西十六町半(二百メートル)の広さで、 本陣が二軒、脇本陣一軒、旅籠は七十一軒を数えた。 また、近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、 天保年間頃には人口が一万四千人を超え、家数は三千六百五十軒と、東海道最大の宿場町になった。 」
道脇に天保十二年造と刻まれた、北向地蔵尊を祀った小さな社(やしろ)があった。
通りには寺院が多いが、寺なのか貸し駐車場なのか分からないような寺もあるのは時代を反映しているのだろう。
信号交叉点を左折して、通りを一つ行くと、滋賀県庁がある。
このあたりは江戸時代、四宮といわれたところで、
「東海道名所図会」に 「 四宮大明神社 − 大津四宮町にあり 祭神 彦火火出見尊 」 とある、
四宮神社が町名になっている。
「 四宮神社は、延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同三年(806)、 近江に行幸された平城天皇が当社を仮の御所として禊祓いをされたという古い神社で、 四宮大明神とか天孫第四宮などとも呼ばれたが、明治時代に天孫神社に名に変え、現在に至っている。 」
大津地方裁判所の近くに、江戸時代四宮大明神と呼ばれた、天孫神社がある。
「 四宮の由緒には幾つかの説がある。
祭神が彦火火出見尊、国常立尊、大己貴尊、帯中津日子尊の四神であることからというもの。
近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は一宮〜四宮と称した。
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社である。
天孫神社はこの説を採っているように感じた。 」
天孫神社の隣の 華階寺 の門前には「俵藤太」「 矢板地蔵」「 月見石」の石柱が建っている。
左右に中央大通りが通る京町三丁目の交差点を越えた右手に真宗大谷派の「大津別院」があり、
山門前には「明治天皇大津別院行在所」の石柱が建っている。
「 大津別院は、慶長五年(1600)織田信長に敵対した教如の創建という寺院で、
本堂は慶安二年(1649)、書院は寛文十年(1670)の建築で、ともに国の重要文化財である。
書院の天井には草花、障壁や襖には花鳥などがあざやかに描かれている。 」
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京町通りは江戸時代と違い住宅が多くなったが、それでも仏壇屋や料理屋などの店があった。
すだれ老舗の看板を掲げた森野すだれ店を覗くと装飾を施したものなど、
室内インテリアとなるモダンなものが飾られていた。
「御饅頭處 」 と書かれたお菓子屋で買ったかしわ餅は素朴な味がした。
(注)2014年9月29日のNHK「 鶴瓶の家族に乾杯 」で、笑福亭鶴瓶がすだれ店やお菓子屋などに訪問する姿が放映された。
京町二丁目交叉点左側の徳永洋品店の脇に 「 比付近露国皇太子遭難之地 」 の石柱が建っている。
説明板
「 明治十三年(1880)五月、日露親善のため来日したロシアの皇太子が、警備中の巡査・津田三蔵に切りつけられた。
ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったが、
大審院長の児島惟謙の主張により、刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立を貫いた。 」
天孫神社の例祭は十月第2日曜、前日の土曜の宵宮と併せて「大津祭」と称され、
周囲の町内から十三基の曳山(山車)が参加し、市内を巡幸する様は豪華華麗で有名である。
その様子はこの通りから右に二つ先の通りにある大津祭曳山展示館(大津市中央1丁目2-27)で見ることができる。
街道をそのまま進むと国道161号が通る大通りに出た。
京町一丁目南交叉点で、江戸時代は「札の辻」といわれたところである。
高札場が置かれたことから「札の辻」と名付けられた。
交差点を越えた先に 「 大津宿の人馬会所があった。 」 という説明板があり、建物前に「大津市道路元標」の石碑が建っていた。
道路の右上に 「旧東海道」 の標識があり、国道161号を歩くように表示されている。
国道161号はこの先の国道1号と交わる逢坂1交差点が起点で、この交差点を越えて進み(直進し)、 坂本や堅田など琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には北国西街道と呼ばれた。
ここで長等(ながら)神社に寄り道する。 片道800m程の距離。
北国街道を行くと街道に赤い鳥居があり、入って行くと長等神社があった。
「 長等神社は、天智天皇が遷都した大津宮の鎮護のため、長等山岩座谷に須佐之男神を祭祀されたことを
起源とする1300年の歴史を持つ神社である。
天安弐年(858)、比叡山の僧・円珍が園城寺(三井寺)の守護神として大山咋命(日吉大神)を合祀し、
五柱を祀る神社した。
以後、繁栄と安泰を願う多くの皇族の方々や著名な武将に愛されてきた。
天喜弐年(1054)、庶民参詣のため山の上から現在地に移った。
現在の建物は寛文四年と慶安二年にそれぞれ増改築されたものである。
朱塗りの楼門は大津市の指定文化財である。 本殿は、全国的に類例の少ない五間社流造である。 」
その先に三井寺があり、境内を見学するには時間がかかる。
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京町一丁目南交差点に戻る。
東海道は国道161号を南に向う。
江戸時代には札の辻一帯には旅籠が多くあったのだが、旅館も古い家も一軒もない。
京阪電車が突然現れ、車と平行して道路を走る光景に出逢った。)
左側にある大津京町郵便局のところで、電車は道路から別れ、右に入って行った。
その先の滋賀労働局の前に「本陣」があったことを示す石碑が建っている。
ここは「大塚嘉右衛門本陣」があったところと思われる。
道はゆるやかな上り坂で、春日町交叉点を過ぎると、右側に「南無妙法蓮華経」の石碑があり、
「妙光寺」の石柱の先には京阪電車の線路が横ぎっている。
線路を渡った先に山門があり、お堂がある。妙見大菩薩を祀っている。
右側の東海道線のトンネルは、左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製で、 鉄道開通から百年以上が経つが今も現役である。
その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流するが、大津宿はここで終わる。
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