石部宿から草津宿へ行く途中にある、旧和中散本舗の豪商、大角弥右衛門家の建物は、
国の重要文化財に指定されている。
和中散とは、徳川家康が腹痛を直したと伝えられる腹痛の漢方薬である。
草津宿に残る田中七左衛門本陣は東海道に残る数少ない本陣建築である。
(ご参考) 石部〜草津 11.7キロ 徒歩約3時間10分
石部宿の西の玄関の見附を出たあたりには古い家が残っていた。
石部西交叉点から北北西に道は続いていて、江戸時代には縄手と呼ばれたようである。
左側に縄手町集会所と石部駅前バス停があり、
三叉路を右折し、県道118号を横断するとJR石部駅である。
左側に小さな松が多く植えられたところがあり、
宿場の町を意識して造られたと思われる「東海道」のポケットパークがあった。
ここは、大名行列が宿場に入る前、長い松並木の下で、全員を集めて整列させたところである。
石部から草津までは約十二キロの距離、この間、東海道は比較的多く残っている。
縄手を過ぎると道は右にカーブし、駅からきた道に合流し、橋を渡る。
と三叉路にでる。
その先に見える山は安藤広重の石部宿の絵にあった灰山である。
「 灰山は、昔、「石部金山」と呼ばれ、聖武天皇時代には銅が、 江戸時代には黄銅鉱が採掘されたといわれる山である。 」
坂を上りかけると、左に入る三叉路があり、道に越えた先に 「左五軒茶屋」 、小さく 「東海道古い道は直進」 の標示がある。
「 東海道は江戸時代初期には直進する道だったが、野洲川の氾濫で歩けなくなったため、
正面の山の左裾を回る道が開発され、旅人はそちらを通るようになった。
直進する道を下道、左に大きく迂回する道を上道と呼んだようである。 」
二つの東海道がある訳で、直進する道は、今は道路も整備されている上、距離も短いが、 遠回りになる上道を歩くことにした。
ゴ―シューの工場に沿って進むと、工場が終わると数軒の民家があり、道はその先で右に大きくカーブする。
「五軒茶屋」というバス停があったが、今はなくなっているかもしれない。
名前から察すると江戸時代には茶屋が置かれたのであろう。
カーブが終えた先の右側にも数軒の民家があり、その先に国道1号栗東水口道路がある。
(注)小生が訪れた時はこの一帯は空地で道路はなかった。
ここには五軒茶屋の表示があり、国道1号を走る車が左先で降り、栗東湖南南ICから名神高速に、また、県道12号に入れるようになっている。
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東海道は国道のガードをくぐる。
手前に高速道路、奥に廃棄物処理場の煙突が見えるところに出た。
道なりに直進すると、三角の調整池があるので、三叉路を右に行き、名神高速の高架をくぐる。
(注)小生が東海道を歩いた時の姿は下左の姿で国道バイパスの部分を含め、空地で一部が囲いで覆われていた。
道の右奥にある名神高速道路の高架をくぐると、正面に作業中の採石場があり、
山がどんどん削られていく姿が見えた。
ここから栗東市六地蔵で、右折した道は高速道路と平行しているダンプ一台分程の狭い道で、
ダンプを気にしながら下る。
高速道路に目を向けると、 「近江富士455m」 と書かれた看板があり、
その方向には三上山があった。
坂を下りきると先程別れた右の道と合流するが、ここにはダンプの出入を調整する係員が立っていた。
ここを左折して、田圃に囲まれた道を進むと、伊勢落(いせおち)集落に入る。
伊勢落集落は、白漆喰に連子格子の古い家が多く、しっとりとした町並を形成していた。
「 伊勢落の地名は、伊勢参りの旅人が中山道から東海道へ行くのに守山市伊勢町からここに出たが、 その道は伊勢大路とか伊勢道と呼ばれており、伊勢に落ちるところということに由来する。 」
300m程行くと左右が太い道の交差点に出たが、
これまでの狭い道を走ってきた車は全て右折して、国道1号に向かって行った。
道の右角には 「 生涯学習の町伊勢落 」 という看板があり、この先にも集落は続いていた。
道辺には小さな石仏が花を生けて祀られている。
右側にJRの線路と近江富士といわれる三上山が見える。
少し行くと林集落で、右側の民家の目立たないところに「新善光寺道」の道標があった。
少し先の右側に楞厳山長徳寺 がある。<
「 、
永正十六年(1519)開基の浄土宗本願寺派の寺院で、境内に石仏群が祀られている。
寺の左角には 「 従是東膳所領」と書かれた領界標が建っていた。
従是東とあるので、西の間違いではないかと思ったが、
膳所藩の領地は滋賀郡、栗太郡を中心に近江国六郡、河内国三郡まで及ぶので、
ここは飛び地になっていたのだろうと思った。 」
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少し先の道の右側に「新善光寺道」と刻まれた大きな道標が建っていた。
新善光寺は、江戸時代の「東海道名所図会」に 「 信州善光寺如来と同体なり 」 と、
書かれている浄土宗の寺である。
江戸時代の旅人も訪れたと思い、寄り道することにした。
右折して250m行くと新善光寺の山門に出た。
山門と本堂は明治二十二年(1889)に再建されたものである。
本尊の一光三尊善光寺如来は、鎌倉時代から南北朝時代に作られた、九十八センチの阿弥陀如来立像で、
慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作とも伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
寺の由来書「新善光寺縁起」
「 今から八百年程前、源平の乱で敗れた平清盛の長子、小松内府重盛の一族のひとり、
小松左衛門慰尉宗定がこの地に遁れて住み、当地の地名を取り高野宗定と称した。
高野宗定は平家一門の菩提をとむらうため、信濃善光寺へ四十八度の参詣を発願され、
十二年かけてこの願を成就させた。
満願の未明、信濃善光寺如来より夢の中でお告げを賜り、
江州(滋賀県)一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ という霊告を得られた。
宗定は御分身如来を頂き、この地に請来された。 建長五年(1253)一月十三日のことである。
これが善光寺分身仏の由来で、宗定公の御影は五十年に一度の御開帳の秘仏として御奉安している。
寛文元年(1661)膳所城主、本多俊次から三間四面の本堂と寺領の寄進を受け、新善光寺と称するようになった。 」
街道に戻り、東海道を直進すると六地蔵集落で、道の両側には古い家が多く残っている。
江戸時代には石部宿と草津宿との間宿(あいのしゅく)だったところである。
東海道は三叉路に突き当たり、その奥には国宝六地蔵地蔵尊がある。
寺の前に、「国宝地蔵尊」と刻まれた石碑が建っている。
説明板
「 福正寺(法界寺) 木造地蔵菩薩坐像は、96.5cmのヒノキ一本造り、
平安時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
六地蔵の地名の由来になった地蔵尊の一つである。 」
ここで、左折すると道は左にカーブする。
100m先の右側に福正寺がある。 また、左側には浄玖寺がある。
その先の道を越えた左側の大きな古い建物は、旧和中散本舗の豪商・大角弥右衛門家である。
「
大角家の本業の「和中散」は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、
この薬を飲んだところただちに直ったことから、
腹の中を和らげるという意味で名付けられたと伝えられる腹痛の漢方薬である。
江戸時代には和中散を作って売る店が何軒もあったようで、大角家はその一軒だった。」
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道の反対側には、大角家住宅隠居所」がある。
説明板
「 大角家は間宿の茶屋本陣で、大名や幕府要人の休憩に使われた。
また、建物に付属する日本庭園は国の名勝に指定されている。
大角家住宅隠居所は、大角家の家長が隠居したとき住む為に造られた建物だが、
大名が本陣として使用している間は、家族も一時的に居住した。
この建物は、江戸時代を代表する豪華な建物として、国の重要文化財に指定されている。 」
現在、和中散は製造されていないが、街道に面して立つこれらの建物は当時の賑わいを偲ばせるものである。
所在地: 滋賀県栗東市六地蔵402 大角家住宅と庭園入場料500円
その先、道を隔てて大きな道(県道116号)があるが、そこには「一里塚跡」の石碑が建っている。
東海道は右側の狭い道で、少し行くと車が一台ほどの狭い道になる。
700m行くと小野集落(旧小野村)になり、白漆喰の倉がある家には「酒屋清右衛門」と表示されていた 。
その先にもベンガラで塗られた連子格子の家など、古い素敵な家が残っていた。
小野集落は短く400m、そこを過ぎると手原(てはら)集落に入る。
ここは道中記などで「手孕村」 と書れていたところである。
手原一丁目の信号交差点の右側に「東海道」の道標がある。
その先、名神高速道路栗東ICへの接続道路のガードをくぐるが、このあたりも古い家が多い。
左手に背の高い木が見えてきたので近づいていくと、右側に倉付きの立派な屋敷がある。
壁に 「 東海道 手原村平原醤油店 塩谷藤五郎 」 と書かれた張り紙があり、
江戸時代には醤油製造業だったことがわかる。
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道の反対にある赤い柵で囲まれている神社は、手原稲荷神社である。
鳥居の左側に、「稲荷大明神常夜燈」と「皇太神宮常夜燈」があった。
江戸時代の「東海道名所記」に、 「 左の方に稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。 」 と書かれていた神社である。
手原稲荷神社の由来書
「 傘松の宮とか、里中稲荷大明神とも称された神社で、祭神は稲倉魂神、素戔鳴尊、大市比売神。
寛元三年(1145) 領主・馬渕広政が勧請、子孫は手原氏と称し、当社を崇敬、
文明三年(1471)、同族の里内為経は社殿を修し、社域を拡張、
慶長七年(1612)、宮城丹羽守豊盛が社殿を造営した。
その後、貞亨三年(1686)と享保八年(1723)に社殿を再建、明治二年に改築、昭和六十一年修復工事を行った。 」
明治天皇が寄られたようで、境内に「明治天皇聖跡」という石碑があった。
また、鳥居の左脇には「明治天皇手原小休止碑」が建っていた。
神社の角を右折するとJR草津線の手原駅、東海道は直進する。
手原駅を過ぎたあたりから人の往来が多くなった。
道なり歩いて行くと道は左(南西)にカーブし、信号のない交差点に出る。
左右の道(県道55号)は車の通行を多く、右手の方が賑わっているようだった。
車に注意しながら交差点を渡り、右側のビィラ栗東というマンションと左の堤(上鈎池の堤)の間の道
(県道112号)を行く。
少し先の堤の中腹に、「 九代将軍足利義尚公鈎(まがり)陣所ゆかりの地 」 の石碑が建っている。
説明板
「 足利九代将軍義尚は、幕府に抵抗する近江守護・佐々木高頼を攻めた。
文明十九年(1487)、この地に陣を張り、佐々木陣営と小競り合いを繰り返した。
二年後の延慶元年、陣中において、二十五歳の若さで病没した。
本陣はここから西に三百メートルほどの永正寺のあたりに置かれたようである。 」
堤の向こうには上鈎(かみまがり)池があり、堤に沿って進むと上鈎東の信号交差点に出る。
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交差点を渡ると、道はわずかに右へ左へとカーブする。
少し上りになると葉山川に出た。
葉山川に架かる葉山川橋を渡ると右側は一面の畑で、その先に草津の町が見える。
川辺交差点を越えて100m行くと、左側に善性寺がある。
「 文政九年(1826)、
シーボルトが、この寺の住職で植物学者でもあった、恵教を訪ねている。
シーボルトは、その時の印象を 「江戸参府紀行」 に、
「 かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、
スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学せり、 と綴っている。 」
東海道(県道116号)は国道と平行しているだけでなく、
名神高速道路の出入路が近いので、道幅が狭いのに車の往来が激しく歩きにくい。
善性寺から100m行くと、三叉路で、奥には金勝川の堤がある。
突き当たった堤脇に、 「 金勝寺 こんぜ 東海道 やせ馬坂 中仙道 でみせ 」 と刻まれた、道標が建っている。
三叉路を左折すると、坊袋バス停があり、右手には坊袋池がある。
100m先の右側に、地蔵院があり、境内には、「天照皇太神宮」、「八幡大菩薩」と、
側面に「元禄年間亥年」の刻印がある「春日大明神」の石碑があった。
寺社に神社の碑があるのは、神仏混交時代の遺物で、おもしろいと思った。
治田小学校前バス停から、道を左に折る。
少し行くと右側の民家前に「一里塚跡」の石柱が建っていた。
200m行くと、右側に専光寺がある。
道は左にやや曲がるが、右側に 「 目川立場茶屋伊勢屋跡 」という説明板と「田楽発祥の地」碑と、
領界碑が建っている。
説明板「目川立場茶屋伊勢屋跡」
「 江戸時代には元伊勢屋(岡野家)、京伊勢屋(西岡家)、古志ま屋(寺田家)の三軒の茶屋が並んでいた。
伊勢屋の天明時代の主人、岡野五左衛門は与謝蕪村に師事した文人画家だった。 」
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数軒先の寺田家の前に「 名代田楽茶屋古志まや跡 」と書かれた石柱が建っていた。
説明板
「 江戸時代には目川という立場茶屋があった所で、ここの菜飯と田楽は東海道中で名物になった。 」
その先の岡交叉点の先、左手に乗円寺があり、西岡家の前にも「京伊勢屋跡」の案内があった。
道は左、右、左とカーブし、その先で金勝川の堤と突き当たるので、右にカーブする道を進む。
この辺りは現在は岡集落、旧坊袋で、左は堤、右下には畑が広がり、その先には遠くなった三上山が見える。
東海道新幹線の下をくぐると、また、住宅地になり、
右側に「従是東膳ヽ領」と書かれた「領界碑」が建っていて、近くに新屋敷バス停があった。
更に行くと小柿10丁目の右側に、「史跡老牛馬養生所跡」 の碑があった。
「 湖西和称村の庄屋・岸岡長右衛門は、年老いた牛馬を打はぎにする様子を見て、残酷さに驚き、
息のあるうちは打ちはぎにすることをやめるように呼びかけた。
天保十二年、老牛馬が静かに余生を暮らさせる養生所をこの地に設立した。
なお、打はぎとは、殴り殺して皮を剥ぐこと。 」
小柿10丁目を過ぎると、草津市大路3丁目になる。
左側の土手に「草津市」と書かれた看板があり、その先には上る道があるので、
県道とは別れ、その路を登っていく。
その先に国道1号があるので、その下をくぐると、水は一滴もなく、草が生い茂った草津川があった。
平成十四年(2002)までは水が流れていたが、上流でせき止められ、新草津川に水が流されるようになり、
今の姿になった。
この川(草津川)の歴史
「 草津川は平素は水がなく、歩いてそのまま歩けることから、砂川と呼ばれていたが、
大雨が降ると一気に水嵩を増して川止めになることもしばしば、
堤が決壊して宿場町が飲み込まれて復旧するのに大変苦労した。
江戸中期頃から、土砂の堆積などにより、川床が年々高くなり、徐々に堤防が築かれ、
江戸後期には現在の天井川の形になった、と推定される。
平成十四年(2002)に、治水事業として中流域から草津川放水路が開削されたため、
このあたりの河川は廃川になり、旧草津川と呼ばれることになった。 」
江戸時代には浮世絵のように川へ降りて、川に架かる土橋を渡って、対岸に行き、土手を上っていったのである。
土手に上ると草津宿(くさつしゅく)である。
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草津宿は、江戸方の横町道標から始まり、草津追分を経て京方の立木神社の南、
二百メートルにある黒門までといわれる。
安藤広重の東海道 「草津宿」 は、江戸方入口に一本の松を配し、草津川、遠くに三上山という構図で描いている。
橋を渡ると、土手の右側に地蔵堂、そして下に降りる道の左側に常夜燈がある。
ここは草津宿の江戸方入口で、以前は道の北側にあったが、河川の改修時にこの位置に移された、という。
石造常夜燈は、夜になると火が灯され、草津宿に出入りする人を明るく照らし、
旅人の道先案内に大きな役割を果たした。
「 日野の豪商中井氏の寄進により、文化十三年(1816)に建てられた常夜燈は、
「横町道標」と呼ばれ、道標を兼ねていた。
常夜燈には、 「 左 東海道いせ道 」 「 右 金勝寺志がらき道 」 の刻印があり、
高さは火袋を含めて四メートルもある大きなものである。 」
土手を下って行くと、両脇に民家が建ち並んでごちゃごちゃしているが、
一部に古い家と思われる漆喰壁の家もあり、宿場の雰囲気はわずかながら残っている。
T字路に突き当ると、右側には草津川の下をくぐるトンネルがある。
その手前の右側の小高い所に、石造の常夜燈が建っている。
「 文化十三年(1816)建立の高さ四米の火袋付き常夜燈で、 「 右東海道いせみち 」、「 左中仙道みのぢ 」 と刻まれていて、「草津追分」を示す道標を兼ねていた。 」
ここは草津追分で、江戸からきた中山道がここで東海道に合流していた。
中山道を旅してきた人もこの後は東海道を歩くことになる。
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トンネルはトンネルの向こう側の旧大路井村とこちら側の旧草津村が、
明治十七年、東海道の新道と随道開築事業の義願書を県知事に出して造られたものである。
随道開設後の東海道は草津川の右側を通り、トンネルを抜けるルートに変更された。
明治以降の東海道を確認するため、トンネルをくぐって向こう側に出る。
その先の交差点を右折すると覚善寺がある。
寺の前の道が明治に造られた、東海道の新道で、
門前には明治十九年(1886)に建てられた 「 右東海道 」「 左中山道 」 と書かれた大きな石柱道標が建っている。
新東海道ではここが中山道との新しい追分になり、中山道は直進、新東海道は右折して、
その先の女体権現の「小汐井神社」を越えて進むと、先程別れた草津川への上り口で、東海道に合流する。
トンネルをくぐって元の場所(草津追分)に戻る。
「 草津宿は十一町五十三間半(約1.3km)の長さに、家の数が五百八十六軒、宿内人口は二千三百五十一名と多い。
東海道と中山道の追分の宿場だったので、本陣が二軒、脇本陣二軒、
旅籠は七十二軒 (最盛期はもっと多くあった) もあり、大変な賑わいを見せていた。 」
このあたりは草津二丁目で、道角の草津公民館は脇本陣大黒屋弥助だったところである。
少し行くと右側に田中七左衛門が営んでいた、草津宿本陣がある。
田中家が個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたのを、
草津宿本陣として公開している(月曜日・年末年始は休み、200円) 」
「 草津宿本陣は、田中七左衛門が材木屋を兼業していたため、木屋本陣ともいわれた。
敷地は千三百坪もある広大なもので、建坪は四百六十八坪、部屋数は三十余もあり、
現存する本陣の中では最大級で国の指定史跡である。 」
立派な構えの門をくぐると、玄関広間には関札が並べられていた。
関札とは大名、公卿、幕府役人が泊まる際、持参した札で、使用目的により、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を関札で示した。
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玄関から順に座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間があった。
その奥に庭園があり、お殿様用の湯殿は離れになっていた。
上段の間の反対に(向き合って)、向上段の間があり、
玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間と続いていた。
真ん中は畳敷きの通路であるが、人数が多いときにはそこに泊まる、とあったのはおもしろかった。
本陣職を務めた田中家の住宅部分は六畳以下が大部分とはいえ、九部屋以上もあり驚いた。
裏には厩(うまや)もあり、本陣はすごい施設と思った。
宿帳も公開されていて 「 慶応元年五月九日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎、など三十二名が宿泊した 」 と記載された大福帳もあり、写真の大福帳には浅野内匠頭の九日後に吉良上野介が泊まったことが記録されていた。
江戸時代には、その先の左側に、脇本陣の「藤屋与左衛門」と「仙台屋茂八」があった。
仙台屋茂八脇本陣は、白い建物の「脇本陣」という名の草津市観光物産館に変身し、
草津宿のお土産屋兼レストランになっていた。
いろいろなおみやげがある中で、小さな奇妙な形をした御菓子を見付けた。
姥(うば)が餅という、乳房をかたどった小さなあんころ餅で、当宿の名物だったようである。
織田信長に滅ぼされた佐々木義賢の忘れ形見の幼子(曾孫)を乳母があんころ餅を売って育てた、という故事のある菓子である。
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中神病院は三度飛脚取次所跡である。
ある民家前には、「柏谷十右衛門脇本陣跡」の張り紙があった。
その先はアーケードのある本西商店街で、左側に街道交流館がある。
右側の常善寺は、承平七年(735)、良弁上人の開基の寺院で、
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉期のもので国の重要文化財に指定されている。
田中九蔵本陣は、十軒位に分割されたといわれ、その先の食事処がその一軒のようである。
アーケードの終わりにある太田酒造は、
戦国時代の関東の英傑・太田道灌の末裔が江戸時代から営む造り酒屋で、
「道灌」という酒樽が店の前に置かれていた。
太田家は草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれていた旧家である。
道の反対側には江戸時代、「問屋場」と「貫目改所」があった。
少し先の 「 旅館 野村屋 」 の看板を掲げた家は、幕末から営業している元旅籠である。
草津3丁目交差点の先にある伯母川(志津川)には、江戸時代、宮川土橋が架かっていた。
橋を渡った右側にある立木神社は、旧草津宿と旧矢倉村の氏神だった。
神社に鎮座するのは狛犬が普通だが、ここでは獅子の狛犬の他、神鹿が祀られていた。
「 立木神社の創建は、神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社で、
その名前は常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来する。
神鹿が祀られているのは、鹿島明神の使いが神鹿であったことに由来するのだろう。
延宝八年(1680)十一月建立の草津宿最古の追分道標がここに移築されていた。 」
草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされるが、その跡は確認できなかった。
これで草津宿は終わる。
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