京から下る場合、京発ち石部泊まりといわれたようで、京を発った旅人は石部宿に泊まるものが多かったので、
石部宿は繁栄していたといわれる。
(ご参考) 水口〜石部 13.7キロ 徒歩約3時間30分
安藤広重の 「水口宿」の浮世絵は、山が遠くに連なり、 街道の脇で、干瓢(かんぴょう)を剥く女と干す女が描かれている。
「 水口藩の三代目藩主・加藤嘉矩が、下野国壬生藩から転封になった時、
名物の干瓢を持参したので、水口の名物になった、という。
生産全国一の栃木県でも、干瓢を職業としては栽培しているのは、下野市周辺(宇都宮市の南部)だけである。
その干瓢がこれだけ離れた水口宿の名物になっていたことには驚いた。 」
水口宿の西見付跡を出発すると、右側に造酒屋の 美冨久酒造がある。
店前には壜が置かれていたが、黒い板壁と白い漆喰と取り合わせが美しかった。
少し行くと左側の麦畑の向こうに丸い小さな山が連なり、松並木があるところに出た。
「
古代の伊勢大路が曲がりくねっていたのを、東海道を開設する時に整備して、見通しの良い道にし、
道の両脇の土手に松並木を植えたところである。
ここから横田の渡しまでは、田んぼの中を貫く一本道なので、 江戸時代には北脇畷(縄手)と呼ばれた。 」
ここから二キロ位は自然が残る道を歩く。
道端に小さな石仏が祀られていて、花が供されていた。
一ヶ所だけと思っていたら、更に、二人並んだ石像ともう一体の石仏があり、
その先には長屋のように長い祠に沢山の石仏が祀られていた。
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美冨久酒造から七百五十メートルの交差点の先の左側に北脇公民館があり、一つの集落を形成している。
二百メートル先の柏木小学校の前には松並木が残っている。
二百五十メートル行くと「柏木公民館」の看板の脇に、消防士が梯子を上る姿の箱状のものがあった。
浮世絵師が絵を描くからくり人形の入った櫓で、窓から中をのぞくと人形が動き出す仕組みである。
二百五十メートル先の信号交叉点を越えると家の数が増えてきた。
泉集落で、柏木集落より多そうである。 左側に小川が流れている。
交差点の右側に百二十センチの尖頭角柱の道標がある。
宝暦十二年(1762)に建立された道標で、 「 従是山村天神道三十二丁 」 と刻まれている。
その先、右側にある泉公民館の前には「日吉神社御旅所」の石柱が建っている。
泉集落は古い家も多いが、家が皆大きい。
道の右側に 「 国宝延命地蔵尊泉福寺 」 の石柱があるので入っていく。
道の途中の三叉路の左角に、「淨品○」 と刻まれた道標があるが、土に埋まっているので読めないが、
その先の淨品寺の道標だろう。
その先にある泉福寺は、最澄の開基と伝えられる天台宗の寺院で、
本尊の木造地蔵菩薩坐像は国の重要文化財である。
泉福寺の境内に年老いた大樹が茂っていた。
東海道に戻り、松並木が続く中を二百メートル行くと、三叉路の左手に橋が見える。
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橋の手前に「東海道」の案内標木があるので、ここで左折し、泉川に架かる舞込橋を渡る。
右側に「日吉神社御旅所」の石柱がまたあったが、道はその先で右にカーブする。
右に曲がったところに榎の木が一本植えられている築山がある。
「 これは、泉の一里塚を再現したものである。
昔の泉の一里塚は今より野洲川寄りにあったようである。 」
その先で小さな川を渡り、左にカーブをすると県道535号の先に冠木門と巨大な常夜燈がある。
正面に大きな野洲川が流れているが、ここは 横田の渡し の跡である。
「 野洲川はこのあたりでは横田川と呼ばれていた。
伊勢や東国に向かう旅人はこの川を渡らなければならなかった。
室町時代には横田川橋が架けられていたが、江戸時代に入ると防衛上の見地から通年の架橋を認めなれず、
通常時は舟渡しだった。
江戸幕府は東海道の十三渡しの一つとして直接管理し、泉村に命じて賃銭を徴収させて渡しの維持に当らせた。
三月から九月までは四隻の船による舟渡し、
寒さが厳しくなる十月から二月は、流れ部分に土橋を架けて通行させた。 」
江戸参勤交代をはじめ夜中に及ぶ往来が頻繁で、川を渡る途中での事故もあったので、 文政五年(1822)、村民達の寄付で建立されたのが夜に灯がともる巨大な常夜燈である。
「 常夜燈は高さ十メートル五十センチ、笠石は二メートル七十センチ四方、 囲いは七メートル三十センチの玉垣で築かれている。 」
渡船から見上げた旅人はその大きさに驚いたことだろう。
「 明治時代になると、明治二十四年(1891)に、常夜燈の右側河岸に石垣を組んで、木橋が架けられた。
昭和四年に下流に橋は移された。 」
説明板の前に当時の石組の一部が残っていた。
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ここからは川を渡れないので一キロ下流の横田橋に向かう。
県道535号を歩き、泉西交差点に出る。
国道1号線が通る泉西交差点で、左折して国道に入り、朝国交叉点で国道と別れ、左折して横田橋を渡る。
横田橋は昭和四年に横田の渡しの下流に移されたが、
この橋は昭和二十七年に国道1号を敷設の際に架けられたものである。 」
歩行者用の橋で、野洲川渡ると旧甲西町三雲で、今回の合併で湖南市三雲になった。
横田の渡しの「対岸跡」に行ってみる。
左側の側道を下り、左折して三雲駅前の道を左折する。
数百メートル行った道の左側が先程の渡し場跡の対面にあたり、常夜燈が建っている。
常夜燈には、「常夜燈」と書かれた下に、屋号のような図案があり、その下に「東講中」と刻まれている。
野洲川は上流から名前を変えながら流れていき、最後に野洲川になる。
水の量は多くないが、川巾は広かった。
世の無常を書いた方丈記の作者、鴨長明は、
「 横田川 石部川原の 蓬生に 秋風さむみ みやこ恋しも 」
と詠んでいる。
三雲駅前まで戻ると、右側に 「 微妙大師萬里小路藤房卿御墓所 」、左側に 「 妙感寺従是二十二丁 」 と書かれた石柱があった。
「 萬里小路(藤原)藤房は、鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、
後醍醐天皇の笠置山脱出に従ったが、
その後、出家し、臨済宗妙心寺派大本山、妙心寺の二代目住職になったという人物である。
微妙大師の諡号は昭和天皇によるもの。
ここから西南二十二丁にある妙感寺は藤房が晩年に過ごしたところである。 」
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東海道は直進で、道は線路沿いに続いているが、このあたりは旧田川村で、
江戸時代は立場だったところである。
駐在所前の民家に、「明治天皇聖蹟」の碑が建っていた。
ここを過ぎると道は右へ左へと曲がり出す。
小さな荒川に架かる荒川橋を渡る。
左側の道には正面に 「 萬里小路藤房卿古跡 」 、右面に 「 雲照山妙感寺 従是/十四丁 」 と書かれた石標と、「妙感寺」、「立志神社」、「田川ふどう道 」の道標が建っている。
立志神社は、江戸時代の「東海道名所図会)に、
「 垂仁天皇の頃、大和国より天照大神が伊勢へ遷坐の時 この地に四年間鎭座し、
瑞雲緋の如くたなびきしより 緋雲宮と称し、 のち日雲とし、また 後世三雲 と訛れるなるべし 」 と、ある神社である。
倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢へ落ち着くまで、天照大神を奉斎して、
大和から近江、美濃、伊賀などの各地を廻った際、
仮宮になった社(やしろ)の一つである。
そこから南西に1200m先にある妙感寺は萬里小路藤房が開山した寺で、
元亀元年(1570)、織田信長による焼き討ちに遭い焼失したが、
万治年間(1660年ごろ)に再興された。
寄らずに進むと道は左にカーブする。
JR草津線の踏切を渡ってすぐに右折すると、道の右側に「東海道」の木標がある。
ここは湖南市吉永、
さっきまで車一台分の狭い道だったが対向二車線の道である。
と、思ったのも束の間で、車一台分のスペースの道に戻った。
そんなことお構いなく、どんどん車が入ってくる。
両側に緑で塗られた歩道帯があるのだが、これを利用してすれ違って行く車がいたり、
歩行者の前でもスピードを出したまますれ違う交通マナーのなさは目に余った。
(注)新名神高速道が出来る前の状態だが、開通後は東海道に国道1号の車が進入してくることは減っただろうか?
道の両脇には家が続くが、古そうな家はない。
左側に「吉見神社」の石柱、その先の小さな祠には二体の石仏が祀られていた。
右側に吉永公民館があり、そこを過ぎると「大沙」と書かれたタイルが貼られているトンネルがある。
トンネルの上には大沙川が流れている。
「 上流から運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、
川が家や田畑よりも高くなったところを川の氾濫を防ぐために土手を高く築き直した結果、
川が高いところを流れるようになった。 このような川を天井川といい、滋賀県東部に多い。
江戸時代までは土手を登り、川を渡って向こう岸の土手を下って行ったが、
明治以後はトンネルを造り、その下をくぐるようになった。
この大沙(砂)川トンネルはその一つである。 」
トンネルをくぐると左側に、「弘法大師錫杖跡」の碑があり、大杉がトンネル上の土手に立っている。
「 地元では弘法杉と呼ばれているこの大杉は、樹高二十六メートル、周囲六メートル、
樹齢七百五十年という堂々とした杉の古木である。
弘法大師が当地を通過したとき植えたとも、食事をした後杉箸を挿しておいたのが芽を出したともいわれる。
最初は二本並立していたが、安永弐年(1773)の地震で、一樹は倒れたと伝えられる。 」
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左にカーブする右側の家は古いのかは分からないが、漆喰の白が印象的だった。
やがて三叉路になり、右折する車を優先させるような表示がある。
道は右にカーブする。 ここは夏見地区で、古そうな家が多い。
左手の盛福寺を過ぎ、小学校前バス停、夏見会館の前を通り、覚蓮寺の石柱を右に見て通り過ぎると、
天井川の由良谷川トンネルがある。
トンネルをくぐると針地区で、左手の山にはタケイ種苗会社の研究農場が広がっている。
針地区は街道情緒を感じさせる家並みが続く。
右側の針公民館を過ぎると、二つの交叉点があり、その先の左に創業文化二年という、北島酒造がある。
トンネルから七百五十メートル程の距離である。
北島酒造では店内に湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれている、という。
その先の交叉点を過ぎるとで家棟川を渡る。
渡ったところからは平松集落になる。
橋を渡ったところに、両宮常夜燈が建っていた。
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この後、武内飯道神社、松尾神社などに寄り道をする。
川に沿って左に歩き、美松ゴルフセンターの脇を通り抜けると、鳥居がある。
鳥居の脇の石標の正面に 「 式内 飯道神社 」、脇に 「 明治十二年再建 」 と刻まれている。
中に入ると左側に針公民館、奥に飯道神社(いいみちじんじゃ)の社殿がある。
説明板
「 飯道神社は旧村社で、大同弐年(807)に大字針の飯道の森(現在の湖南市役所東庁舎の敷地)で創建。
明治六年(1873)、家棟川の改修工事が行われた際、現在地に遷座した。
飯道神社の祭神は、素盞鳴尊、菅原道真 である。 」
境内には、塔身を失った鎌倉期の造とされる「宝しょう印塔」があった。
ゴルフ練習場の前まで戻り、練習場の向こう側の道を上っていくと、常夜燈や石仏群がある、南照寺の前に出た。
山門に入ると右側に南照寺のお堂がある。
「 南照寺は天台宗の寺で、
延暦二十四年(805)に伝教大師の開基と伝えられる。
弘仁十年(819)には阿星山下にあったが、天正三年(1575)に現在地に移転した。 」
同じ敷地内に松尾神社があり、奥に進むと松尾神社の拝殿があった。
「 松尾神社は平松集落(旧平松村)の鎮守社で、文徳天皇の仁寿三年(853)、
領主の藤原頼平が山城国松尾神社から美松山に勧請、
至徳三年(1386)に現在地に遷座された。
本社殿は文政四年(1821)の建立である。
南照寺と松尾神社は江戸時代までの神仏混淆時代は一つのものだったが、
明治の廃仏希釈により現在の形になった。
南照寺の住職が松尾神社も管理している。 」
道の反対の奥にあるの西照寺は浄土宗の寺である。
「 平松山西照寺が正式名称で、
天文六年(1537)、応誉明感の開基で、高木陣屋の領主・高木伊勢守の菩提寺で、
九代目の高木松雄の墓がある。 」
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西照寺の右側の道を上り、美し松(ウツクシマツ)自生地に向う。
六百メートル程上ると分譲住宅地が現れ、更に三百メートル上って行くと、右側に 美し松があった。
「 美し松は一つの根から曲がりくねった幹がいくつにも枝分かれしており、
傘を逆さにしたような樹形をしている。
この地には大小二百本以上が自生し、見事な風貌を見せていて、国の天然記念物に指定されている。
日本全国でここしか無い松だといわれ、他に移すと枯れてしまうようである。 」
しばし眺めた後、持参したお茶を飲んで一服した。 街道に戻る途中で三上山が見えた。
東海道の入口に 「 美し松自生地0.9q 」 とあったが、
美松山の山腹で、上りだったせいか、それ以上の距離に感じられた。
街道に戻り歩いて行くと、柑子袋(こうじぶくろ)という、珍しい名の集落に入った。
狭い道に車がどんどん入ってくる。
大池バス停を過ぎ、仲町バス停を過ぎると、道から奥まったところにお寺が幾つかあり、
右手に愍念寺、光林寺、養林寺、左手には八島寺があり、寺が多いところである。
西柑子袋バス停を過ぎ、道は左に曲がり、右にカーブすると、西柑子袋のはずれである。
左に入る道の入口に、「上葦穂神社」の石柱があり、常夜燈と鳥居が建っていた。
鳥居の手前には「南無妙法蓮華経」の石柱が建っている。
「 上葦穂(かしほ)神社は、この奥の落合川の左岸にあり、 江戸時代には白知大明神と呼ばれ、天智三年(664)の創建と伝えられる神社である。 」
落合川の橋を渡ると、石部宿(いしべしゅく)に入る。
「 江戸時代には落合川から三百メートルほど行ったところに石部宿の木戸があり、 そこが石部宿の江戸側の入口であったという。 現在の石部東交差点のあたりと思うが何の痕跡も残っていない。 」
街燈には「東海道」の表示があり、股旅姿の旅人のイラストがあった。
道の傍に小さな石仏が祀られている、トタン屋根の社があったが、東海道は石部東交差点を直進する。
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石部宿は千六百メートルの長さで、家の数が四百五十八軒、宿内人口は千六百十六人、
本陣が二軒、脇本陣はなく、旅籠が三十二軒だった。
安藤広重の浮世絵、「 東海道石部宿 」 は、草津に向かう山を背景に描いている。
「
京から下る場合、京発ち石部泊まりといわれたようで、京を発った旅人は東海道なら石部宿、
中山道なら守山宿に泊まるものが多かった。
宿場として繁栄していたことから、いろいろな事件も起きたようで、
そうしたことを題材にして歌舞伎や浄瑠璃にも登場する。
桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ )は浄瑠璃で、
三十八歳の長右衛門が伊勢参りの下向の途中、石部宿で、
十四歳のお半と一夜を共にしてばかりに追い詰められて、京の桂川で心中するという話である。 」
石部東交叉点から百メートル、「 吉姫の里あけぼの公園 」 の標示のところを上って行くと、
小高いところに古墳がある。
吉姫の里あけぼの公園は宮の森古墳に作られた古墳公園である。
「 古墳時代の中期、五世紀に築かれた宮の森古墳は前方後円墳で、円の直径は五十五メートル、 高さは十メートルである。 」
公園の隣に、吉姫神社があるので、下りていくと 「 江州石部上田宮 」 と刻まれた常夜燈が建っていた。
神社の社頭には
「 吉姫神社の創建時期ははっきりしないが、
御旅所の上田の地に祀られていた明応年間に、兵火に遭い燃失し、
天文三年(1534)に現在地に移ったという神社である。
江戸時代には上田大明神という名で呼ばれていたが、明治元年に現在の名前になった。 」 とある。
祭神が上鹿葦津姫(かみかやつひめ)大神、吉比女大神、配祀神は木花咲耶姫 と、女の神様ばかりなのは珍しい。
吉姫神社の本殿は室町時代の天文三年の建立で、間口一間三尺、奥行一間一尺の大きさの一間社流造である。
拝殿は間口三間、奥行三間の大きさの入母屋造りである。
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参道には神木と思われる大きな木があったが、鳥居をくぐり街道に戻り、旅を再開する。
吉姫神社からしばらくはごちゃごちゃした家並みが続く。
漆喰壁、むしこ窓、格子戸のある古い家がだんだん増えてきて、宿場の雰囲気が出てきた。
石部中央交差点の手前には清酒・香の泉を造る「竹内酒造」があり、
交差点の南側は東海道のポケットパークになっている。
交差点を渡ると、その先の左側に、「石部宿夢街道」の看板が掲げている家がある。
その先の左側に「小島本陣跡」の説明板と「明治天皇聖蹟碑」が建っている。
表札を見ると「小島」とあるので、今も本陣の末裔が住んでおられるのだろうと思った。
説明板
「 小島本陣は、吉川代官所の跡地に建てられた。
永応元年(1652)に本陣となり、明治維新で本陣制が廃止するまで続いた。
敷地二千八百四十五坪に間口四十五間、奥行三十一間、建坪七百七十五坪、部屋数が二十六室、
玄関や門が付いた家だったが、老朽化で昭和四十三年に取り壊された。
幕末には征夷大将軍、徳川家茂が文久三年(1863)に上洛の際宿泊した。
最後の征夷大将軍、一橋慶喜も同年、上洛の際、ここで小休止している。
また、新撰組局長、近藤勇も文久四年(864)江戸下向の際に宿泊している。 」
この先左手奥に淨現寺、明清寺がある。
その先左奥に入って行くと、浄土宗の真明寺がある。
説明板
「 真明寺は、もと土豪青木氏の一族・青木検校の持院で、
青木氏の屋敷跡に慶長二年(1597)に蓮華の開基で建てられた。
なお、検校とは盲人に与えられた幕府の官職である。 」
境内には、芭蕉が「野ざらし紀行」で石部宿を訪れた時、詠んだ句碑がある。
「 つつじいけて その蔭に 干鱈さく女 はせを 」
句碑は右書きでなく左書きになっている。
また、季語がなく、自由句になっているのは芭蕉では珍しい。
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街道に戻り、少し行くと三叉路に出た。
正面に「いしべ」と書かれた暖簾が下がる建物がある。
これは東海道開設400年の時に作られた休憩施設の 石部宿田楽茶屋である。
建物の左の道に入ると、吉御子神社の鳥居があり、その奥の石段の先に拝殿がある。
「 吉御子神社(よしみこじんじゃ)は、崇神天皇六十八年、石部山に御神降があり、
吉比古、吉比女神を黒の御前で祀っていた。
弘仁三年(812)、現在地に移し、承平五年(935)、吉比古、吉比女神を末社から本社に遷座した。
延喜式神名帳に、近江国甲賀郡の式内社に、鹿塩上神社の記載があるのが吉御子神社の古社で、
吉姫神社とこの神社が共にその後裔の社とされている。 」
一番奥の石段を登ると、その先に見えるのが本殿で、 三間の向拝をつけた流造建築の代表的なものである。
「 本殿は、慶応三年(1867)に京都の上加茂神社の旧社殿を移築したもので、国の重要文化財である。
本殿は東に面し、内陣と外陣に分かれ、
内陣には藤原時代に作られた重要文化財の吉彦命立像と随神坐像二体が祀られている。 」
先程の三叉路に戻ると、最近作られた常夜燈の下に 「 京へ右東海道 」 とあるので、
右側の道を行くが、江戸時代にはここは「枡形」になっていたようである。
少し行くと左折、右側の家の前に「一里塚跡」と書かれた木標がある。
更に二百メートル程行くと、く形に曲がるところの左側に広場があり、
その片隅に「見付」と書かれた木標があった。
ここが石部宿の京側の入口である西の木戸があったところだが、今は何も残っていなかった。
石部宿はここで終わる。
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