『 mrmax 東海道を歩く  (28)  土山宿〜水口宿 』


土山宿から水口宿へ行く途中に頓宮(とんぐう)があったところがある。 
頓宮は平安時代から鎌倉時代中期まで行われた斎王が、伊勢神宮の参行の途上、宿泊された施設である。
水口宿には行基が建立したと伝えられる大岡寺や碧水城の異名のある水口城、ヴォーリズの設計で建てられた
旧水口図書館などがある。 

(ご参考)   土山〜水口  10.5キロ  
              
(注)小生の旅は寄り道がありゆっくりしたので、5時間余要した。 



 

土山宿から水口宿

江戸時代の東海道は、御代参街道(ごだいさん)の道標で、進路を北西に変えて進み、 野洲川を舟渡しで渡るのだが、 現在はその道はないので、国道1号線で野洲川に架かる白川橋を渡るルートをとり、 橋を渡ったところの信号交叉点で国道と別れて、左側の細い道に入る。 
入るとすぐの三叉路を右折し、その先の三叉路で左に入る。
これが東海道で、鈴鹿を下りてきた道と違い、平坦で所々に茶畑があった。
入った先の集落は、甲賀市土山町頓宮、江戸時代は頓宮村で、民家の木札にそう表示されていた。 
三叉路で右から国道からの道が号流してきて、その先の交差点は直進が東海道だが、 ここで頓宮跡に寄り道をする。

頓宮跡に行くため、交叉点を右折して国道に出る。
車に気をつけて、 国道を横断し、右側の小高い畠の畦道に入って、 林に進むと「垂水斎王頓宮跡」の石柱と説明板が建っている。

「 斎王とは天皇の代わりに、伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた未婚の皇女で、 垂仁朝の倭姫(やまとひめ)が初代で、天皇の代わる毎に皇女の中から占いによって選ばれ、伊勢へ向かった。 
これを群行といったが、京都から伊勢の斎宮まで、近江では勢多、甲賀、垂水の三ヶ所、 伊勢では鈴鹿、一志の二ヶ所に一泊し、 合計五泊六日もかけて、伊勢の斎宮に行かれたのである。 
この群行は鎌倉中期まで続いたが、以後皇威の衰微とともに廃れた。 
垂水斎王頓宮(とんぐう)跡は、平安時代から鎌倉時代中期までの約三百八十年間、 三十一人の斎王が伊勢参行の途上宿泊された垂水頓宮があったところである。 」 

森閑とした林の中に入ると、ぽっかりあいた空地の奥に、「垂水斎王頓宮跡」の大きな石碑と、 「伊勢神宮遥拝所」の木柱があり、伊勢神宮遥拝所の社殿が建っていた。
五つの頓宮で明確に存在が検証されているのは、この垂水頓宮跡だけであると、説明板に書かれていたが、 土で埋まった井戸の跡が残っているだけで、千年前に頓宮があったという形跡は無くなっていた。

説明板には、醍醐天皇第四皇子重明親王の長女・斎王徽子(きこ)女御が詠んだ 
 「  世になれば  又越えけり  鈴鹿山  廿日の今になる  しやあるらむ  」 
という和歌が書かれていた。 

「 斎王徽子女御は、わずか九才のとき、斎王として伊勢に下向し、また、娘が斎王に選ばれたため、 娘に付き添って伊勢群行に同行し、二度ここで宿泊したのを詠んだものである。 
人生を斎王のために翻弄された彼女に哀れを感じた。 

東海道 x 垂水斎王頓宮跡入口 x 伊勢神宮遥拝所 x 垂水斎王頓宮跡
東海道
斎王頓宮跡入口
伊勢神宮遥拝所
垂水斎王頓宮跡


東海道に戻り、信号交叉点で、県道24号を越え、前野集落に入る。
三叉路の左側の民家の一角に、「 滝樹神社入口 従是四丁(約450m) 」 とあるので、 歩いて行くと、滝樹神社までは五百メートルもあった。 
建て替えたばかりなのか、拝殿から本殿までぴかぴかの建物ばかりである。

「 滝樹神社は、永久元年(11139に、伊勢国龍原大神、速秋津比古神、速秋津比売神を勧請して合祀し、 龍大明神としたのを創始とする神社である。
社前に楓樹があるので、応永二十一年(1414)に、滝樹神社と改めたと伝える。
寛正六年(1466)に北野天満宮を勧請。  文明三年(147)から二殿が並立すると伝えていて、東に滝樹宮、西に天満宮が並んで建っている。 」 

街道に戻った前野集落には「べんがら」で塗られた連子格子の古い家が多い。
道の左側に「滝樹神社」の「石柱」と鳥居があり、滝樹神社の参道が続いていた。 
道は右にカーブし、直線となり、二百五十メートル程行くと右側に、「地安禅寺」の石柱が建っている。
その奥に鐘楼門が見えた。 地安禅寺は黄檗宗の寺院である。
「 後水尾法皇の御影 御位牌安置所 」 とあり、皇室と縁のある寺院である。 

「 御水尾法皇は寛永六年(1629)に明正天皇に皇位を譲り、三十四歳で上皇になった。 
長寿だった上皇の臨終の床に控えていたのは、 法皇の第一皇女の文智女王と第八皇女の朱宮光子内親王といわれる。 
文智女王は早くから得度し、大通大師の号を得て、奈良市山町に普門山円照寺を建立し、晩年を過ごした。 
第八皇女の朱宮光子内親王は、修学院離宮内に林丘寺を建立し、開基となり、 普門院と号した。 
宝永年間(1704〜1710)に、林丘寺光子(普門院)が、後水尾法皇の御影 御位牌の安置所を建立した。 」 

林丘寺光子(普門院)が植えたという茶の木の脇に、「林丘寺宮御植栽の茶碑」が建っていた。 
立派な鐘楼門前の参道の両側は茶畑だったというが、今は茶の木1本だけである。

滝樹神社本社 x 連子格子の家 x 地安禅寺の標柱 x 地安禅寺鐘楼門
滝樹神社本社
連子格子の家
地安禅寺の標柱
地安禅寺鐘楼門


道の両側に古い家が残っていたが、信号のない交叉点で県道24号を越えると、道の右側は頓宮。左側は前野。
このあたりには江戸後期から普及した虫籠窓の漆喰壁の家もあり、左側には以前は茅葺きだったと思える家もあった。
道の左右に茶畑が増えてくると左側の民家の一角に、「 垂水頓宮御殿跡 」 と書かれた石柱が建っていた 。

説明板「垂水頓宮御殿跡」
「 伊勢神宮に伝わる"倭姫命世記"によると 垂仁天皇の皇女である倭姫命は、天照大神の御神体を奉じて、 その鎮座地を求めて巡行した と伝えられる。 
土山町頓宮には、巡行地の一つ、"甲可日雲宮"があったとされ、 この時の殿舎が、この付近に設けられたことが御殿という地名の由来とされる。 」

甲可日雲宮の所在地については、日雲神社(甲賀市信楽町牧)説、高宮神社(甲賀市信楽町多羅尾)説、 田村神社(甲賀市土山町北土山)説などの異説もある。 

その先は甲賀市土山町市場(江戸時代には旧市場村)で、 諏訪神社の前を過ぎると右側に延命地蔵尊が祀られている長泉寺がある。 
どっちりした大きな建物が何軒かあり、数百メートル行くと、 道の右側の角に、市場の一里塚を示す「一里塚跡」の石柱が建っていた。
一里塚から百メートル位行くと大日川(堀切川)で、 川の手前の右側に「大日川掘割」の石柱があった。
橋を渡ると今度は左側に「東海道反野畷」の石柱が建っている。 
この二つの石柱は洪水被害を避けようとした歴史がある。 

「 大日川は。江戸時代、市場村と大野村の境をなす川だった。 
頓宮山を源流とした川は平坦部で広がり、大雨が降ると市場村と大野村の被害が多かった。 
大野村はその対策として、江戸時代の初期、堤を作ったが、 市場村はこの結果、多大の被害を受けるようになった。 
市場村は元禄十二年(1699)、排水用の掘割により、野洲川に流すことを計画し、 元禄十六年(1703)に完成させた。 」 

茅葺きと思える家 x 垂水頓宮御殿跡 x 市場一里塚跡 x 大日川
茅葺きと思える家
垂水頓宮御殿跡
市場一里塚跡
大日川


橋を渡ると、道の右側は大野、左側は徳原。
整然とした松並木が現れるが現れる。 旧東海道松並木である。
そこから三百メートル程行くと、左側の林の前にも「東海道反野畷」の石柱がある。
少し行くと左側に野洲川が見えた。 
交叉点右側に「花枝神社」の参道があり、隣が大野小学校である。 
花枝神社は国道1号を越えたところにあり、この交叉点から500mの距離である。

百メートル先の左側の民家の前に「旅籠松坂屋」の石柱があり、その隣に「長園寺」の石柱が建っている。 
民家には 「東海道大野村加佐屋」 という木札が張られ、また、昔の屋号が復活である。 
また、左側の民家に 「旅籠丸屋跡」の石柱がある。

旧大野村と旧徳原村には、江戸時代に旅籠だったことを示す標柱が建っているが、 土山宿と水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのだろうか? 

屋根の上に「煙り出し」の屋根を付けたこの地方独特の建物が増えてきたが、 養蚕が盛んだった時代に建てられたものだろう。 
左側の煉瓦作りの煙突の家は造り酒屋で、右側の民家の脇に「明治天皇御聖蹟碑」がある。
ここは「旅籠小幡屋跡」で、明治天皇が休憩されたところである。

東海道は北西の方向へ右にカーブしながら進み、国道1号の大野交叉点に出る。
そこには「大日如来」の小さな祠や「布引山岩王寺」の道標と、 「三好赤甫先生をしのびて」という石碑があった。 

説明板
「 三好赤甫はここの生まれで魚類商を営んでいたが、家業を子供に譲り、京に上り、 芋庵虚白に俳諧を学び、待花園月坡と号して、俳道に精進した。
75歳で死去、  大野村若王寺に葬る。 」  

大野交差点を横断歩道橋で国道を越えると、橋の上からは先程越えてきた鈴鹿が見えた。
道路標識にある 「若王寺まで100m」 とある若王寺も、目のあたりに出来た。 

旧東海道松並木 x 旅籠丸屋跡跡 x 明治天皇御聖蹟碑 x 大野交差点
松並木
旅籠丸屋跡
御聖蹟碑
歩道橋からの風景


橋を下り、道に入ると旧徳原村の集落で、「旅籠東屋跡」の石柱のある家は茅葺き屋根だった。
集落を三百メートル程行くと左下に国道の徳原交差点が見え、国道の先には田圃は広がっている。 
  道の両脇に田畑が続くところを五百メートル程行くと、旧今宿村の集落が現れたが、 三百五十メートル程行くと、国道1号と県道549号が交わる大野西交叉点に出た。 
大野西交差点の手前に松が植えられていて、「東海道土山今宿」の石碑と石燈籠があった。

大野西交差点で国道1号線を横断して、左側の県道549号(旧国道1号)に入る。
その先で、稲川を渡ると、甲賀市水口町今郷になる。 
その先に右に上って行く細い道があるが、これが東海道で、集落を貫いて続いている。 
少し行くと左側に「今在家一里塚跡」の表示があり、 「 最近復元したもので、元の一里塚はこの近くにあったが明治に撤去された。 」 と説明があり、 道の脇に、馬頭観音などの石仏群があった。

一里塚を過ぎると左は竹林、右は田圃で、国道が見えるところに出た。
そのまま進むと県道に合流するが、合流する道角に、  司馬遼太郎の「 街道をゆく 」 と題する石碑が建っていた。 

県道を五十メートル歩き、県道と別れて右の狭い道に入ると、今郷集落には古い家が多く残っていた。

信号のない交差点を直進し、宝善寺の前を通り過ぎると道は少し上りになり、 道は左にカーブすると県道に合流した。 

旅籠東屋跡 x 土山今宿碑と石燈籠 x 今在家一里塚跡 x 今郷集落
旅籠東屋跡
土山今宿碑と石燈籠
今在家一里塚跡
今郷集落


県道を歩くと左手には野洲川が流れていて、右側は岩山で、巨岩や奇岩が多い。

「   ここは「岩神」と呼ばれたところで、寛政九年(1797) の「伊勢名所図会」には絵入りで紹介された名所である。
ここには「岩神社」と「岩上不動尊参道」の石柱があり、東海道の道は矢印で示されている。 」

県道岩上バス停の三叉路を右に入った道は広く、最近建てられたと思える家も多い。 
七百五十メートル行くと右側に「八幡神社」の石柱があり、右手に八幡神社の森が見えた。
二百メートル先の三叉路で、右の道を進むと穏やかな上り坂で、右側に最近植えられたと思える松があり、 「東海道の松並木」の碑が建っていた。 
道の正面に古城山、左は田、右は民家というようなところを過ぎると、新城の集落がある。
すべり坂を下って行くと、左側の小高いところに真言宗高野山派の大師寺がある。

秋葉北交差点を越えた右側には休憩スペースがある秋葉水公園があった。
山川橋を渡ると下り坂の両脇に民家が建ち並んでいて、水口神社の山車倉があった。 
前方の坂を上ると右側に冠木門があり、冠木門に「東海道 水口宿」と書かれていた。
ここが水口宿の東見付(東入口)跡である。
ここは宿場や城下町に多い「鉤型」になっていたところで、今もその面影が残っている。 

岩神社前 x 八幡神社 x 大師寺 x 冠木門
岩神社前
八幡神社
大師寺
東見付跡・冠木門




水口宿(みなくちしゅく)

水口宿は、江戸時代、三度の大火に遭い、多大な被害を受けたので、 明和七年(1770)、宿場の人達は、火除けの神として有名な遠州秋葉山から勧請し、 冠木門の北方にある松元寺の奥の地(古城山の東麓)に秋葉神社を建立した。

「 水口宿は江戸から五十番目の宿場で、天保の宿村大概帳によると、 家数は六百九十二軒、宿内人口は千六百九十二人、本陣が一軒、脇本陣も一軒、 旅籠が四十一軒の宿場である。 」 

信号がない元町交差点のあたりが宿場の中心だったところで、今も古い家が残っている。
道が三叉路になっているところの右側に、ぬり又本店という漆芸品の店があった。 
その手前の左側に脇本陣があったはずだが、案内板などがないため、分からなかった。 

本陣跡は、ぬり又本店の対面の立派な家の手前にある竹垣で囲まれたところで、 奥に入って行くと石柱に囲まれた 「明治天皇聖蹟碑」があった。

説明板「水口宿本陣跡」
「 本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいた。 大きさは普通の家の三倍の大きさだった。 
明治二年に明治天皇が宿泊されたのを最後に歴史を閉じ、撤去された。 」

その先の三叉路で左側を行くと左側に桔梗屋があある。
百メートル程先の三叉路の中央にミニチュアの高札場があるが、 江戸時代にはここに高札場があった。

秋葉神社 x 元町 x 明治天皇聖蹟碑 x 高札場跡
秋葉神社
元町
明治天皇聖蹟碑
高札場跡


三叉路で、右の道を行くと「御菓子処一味屋」の向かいの家前に「問屋場跡」の標石がある。
このへんから京町にかけて、旅籠が軒を連ねていたというが、今もその面影はいくらか残っている。 

交差点手前右側にある塀をかけた奇妙な空間は、本町商店街駐車場である。 
道の角に毎時0分になると囃子に合わせて、祭半纏を着た人形が踊りだす「からくり時計」がある。

大岡寺に立ち寄る。 
交叉点を右折し、国道を横断すると正面に見える山は、「古城山」とも呼ばれる、 標高二百八十三メートルの大岡山である。
、 左側の狭い道の右側に、大きな 「 国宝本尊観世音大岡寺 」の石柱があった。

「 水口の歴史は古く、野洲川に沿って続いていた古代の東海道の時代に甲賀駅舎が置かれ、 中世には市が立ち、人や物資の往来で賑わっていた。
豊臣秀吉は、この地が京への入口であることを重視し、中村一氏に城を築かせた。 
秀吉の命を受けた中村一氏は、天正十三年(1585)、野洲川を見下ろす大岡山に城を築き、 山麓の集落を城下町に整備した。 
中村一氏は、天正十八年(1590)に駿河国駿府へ転封となり、代わって増田長盛、 そして長束正家が城主となったが、関ヶ原の西軍の敗北で、岡山城は落城した。  徳川幕府はこの城を廃城にし、水口を幕府の天領(直轄地)にし、宿場町に替えた。 」 

大岡寺(だいこうじ)は、大岡山の麓にある天台宗の寺院で、岡観音の名で親しまれている。

「 大岡寺は、白鳳十四年(686)、行基が大岡山の山頂に白彫の十一面千手観世音像を安置したのが始まり。
天正二年(1574)の兵火で堂字は焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。 
天正十三年(1585)、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転したが、 落城後の享保元年(1716)、住職の寂堂法印が再び、現在の地に堂字を再建した。  以後、水口藩主、加藤氏歴代の祈願所となった。 
寺には鴨長明や一条兼良も宿泊したといわれ、方丈記を書いた鴨長明の発心地とされる。 
本尊の木造十一面千手観音立像と恵心僧都の作の木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっている。 」 

問屋場跡 x からくり時計 x 大岡山 x 大岡寺
問屋場跡碑
からくり時計
大岡山
大岡寺


石段を上ると二階堂造の本堂が山を背にして、古寺らしい姿を見せた。 
境内に松尾芭蕉の句碑が建てられている。

  「  命ふたつの  中に生きたる  桜かな  」  
野ざらし紀行の中で詠れた句で、芭蕉が水口で、旧友と再会したときに詠んだといわれる。 

巖谷一六の顕彰碑には 「 巖谷一六は明治を代表する書家だった。 」 とあった。 

寺を出て、石柱があったところまで戻り、右に入る細い道を見付けて進むと、水口小学校に出た。
小学校の構内にはヴォーリズの設計で建てられた、 旧水口図書館がある。

「 旧水口図書館は二階建てのモダンな建物で、昭和三年(1928)、町の出身の実業家井上好三郎氏が寄付し、 ヴォーリズ事務所により建てられたもので、戦前期の建築のなかで、珠玉の小品と評されるものである。 
第2、第4日曜日の10時〜16時のみ館内見学ができる。 」 

街道まで戻ると、交差点の先の左側にあるいまむら呉服店は、なかなか古そうな店である。
アーケードのある本町商店街を進むと広い通りと交差する。 
右へ行けば日野を経て彦根へ、左に行けば貴生川を経て信楽や甲賀に至る道である。 
東海道は直進するがこのあたりは普通の民家が多い。 

少し行くと近江鉄道の踏切が見える。
東海道は踏切の手前で平行して続いてきた左右の道と合流、ここにもからくり時計があった。

芭蕉句碑 x 旧水口図書館 x いまむら呉服店 x からくり時計
芭蕉句碑
旧水口図書館
いまむら呉服店
からくり時計


水口神社に立ち寄る。 
踏切の左側に近江鉄道水口石橋駅があるが、線路に平行している道の途中には山車倉が幾つか連なって建っていた。 
水口神社の境内は広く、鳥居は大きかった。
社殿はそれほど古くなさそうである。 

水口神社由緒書
「 水口神社は延喜式神名帳に記載された近江国甲賀郡八座の一つで、古い歴史をもつ神社である。 
祭神の大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)は、饒速日命六世の孫・出石心大臣命の子で、 水口を開拓した豪族の祖神を祀ることから始まったと伝えられる。 
その後、相殿の大己貴命(おおなみちのみこと)、素盞鳴尊(すさのうのみこと)と、 稲田姫命(いなだひめのみことト)を加えて、今日の姿になった。 
什宝の木造の約二十二センチの女神座像は藤原期(10世紀〜13世紀)神像の特色を示していることから、 国の重要文化財の指定を受けている。 」 

水口神社の山車は有名で、毎年四月二十日を中心に行われる水口神社の例大祭は「水口曳山祭」といい、 曳山の巡行を見所としている。 
江戸時代の中期の享保年間に町の繁栄と町民の心意気を示すものとして成立したもので、 今でも曳山十六基を伝えている。 

隣に「甲賀市あいこうか市民ホール」と「水口歴史民俗資料館」がある。
資料館の庭を見ると、「横田の渡し」の南対岸の地にあった、「 従是東水口領 」と刻まれた、 極めて大きな「領石標」がここに移されていた。
また 「 ひの 、 左天神道 、右いか 」 などの道標も移されて、前庭に置かれていた。 

資料館の裏の小道に出て、踏切を渡ると水口城南駅がある。 
駅前を少し行くと左側に、「碧水城」と呼ばれた 水口城がある。

「 寛永十一年(1634)、三代将軍・徳川家光が京都に上洛の際、築かせたのが水口城(水口御茶屋)である。
作事奉行は小堀遠州が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。 
この御殿が将軍の宿舎として使われたのはこの一回限りで、その後は幕府の城番が管理する城になった。 
天和弐年(1682)、加藤明友が石見吉永から移封になり、二万石の水口藩を立藩し、この城の主となる。 
その後、鳥居忠英に替わったが、加藤明友の孫の喜短が二万五千石で入封し、加藤氏が明治維新まで領した。 
歴代の水口藩主は同城を幕府からお借りしている城として大切に管理し、特に居城であるにもかかわらず、 本丸部の御殿を使用しなかった。 
明治に入ると城は壊され、わずかに堀、石垣の一部が残るのみだったが、平成になって城や櫓を復元され、 水口城資料館として公開されている。
(入館料100円、 10時〜16時、月曜、祝日、第3日曜は休み。) 」 

城を跡にし、北に進むと左側に 「甲賀市誕生記念碑」がある。 
その先に東海道と交差する交差点があり、右側に 藤栄神社がある。 
東海道側に行ってみると「藤栄神社」と刻まれた石柱と鳥居、そして右奥に社殿が見える。

鳥居をくぐり、振り返ってびっくり!! 
石柱に 「 従比川中西水口領 」 とあるではないか?? 
先程訪れた歴史資料館にあった境界石の片割れであるが、藤栄神社の標柱に転用されていたのである。 

水口神社鳥居 x 領石標 x 水口城 x 藤栄神社鳥居
水口神社鳥居
従是東水口領領石標
水口城
藤栄神社鳥居と標柱


交差点を越えて、少し行くと右側に斜めに行く狭い道があり、その奥に、綾野天満宮がある。

「 水口は菅原道真の荘園があった所で、その子の菅原淳茂が父の像を彫り、 水口天神として祀ったといわれる。 
初めは美濃部宮と称し、現在の藤栄神社のあたりにあったが、水口城が築城する際、現在地に移された。 」 

近江鉄道水口石橋駅まで戻り、東海道の旅を再開。 
右に八坂神社、左に藤八幡宮があり、古い家並みが続く。 

「  江戸時代の東海道は湖東信用金庫水口支店前から幾重にも折れ曲がっていた。 
水口宿が城下町ということに加え、水口城が東海道が開通した後に作られたため、 道を一部変えたと思われる。 」

湖東信金前を右に折れて、突き当たりの米屋の前を左折し、 心光寺の前を通って信号のない交差点を渡って直進すると、道は直角に左に曲がる。 

少し行くと丁字路(トの字)があり、その角に力石と呼ばれる大きな石が置かれている。

「  江戸時代、ここは小坂町で、東海道に面した角地にあるこの石は力石と呼ばれ、 江戸時代の浮世絵師、国芳の錦絵にも登場する。 
小坂町は水口藩庁にも近く、長大な百軒長屋や小坂町御門など、城下町のただずまいが濃かったといわれる。 」

東海道はこの石の前で右折するが、このあたりにも連子格子の家が多く残っている。 
真徳寺の表門は、水口城下の武家屋敷(蜷川氏)の長屋門を移したものである。

その先右側に高い木が生い茂っているのが見えるところが五十鈴神社である。 
神社の角に土が盛っていて、「林口の一里塚跡」と書かれた標石がある。

「 林口一里塚は、最初はここより南にあったが、水口城の城郭の整備で、東海道が北側に付け替えられ、 五十鈴神社の境内の東端に移った。 
旧水口町には、今郷、林口、泉の三ヶ所に一里塚が設けられたが、明治維新に全て壊された。 」 

東海道は一里塚で左折すると、岩谷医院前の信号交差点に出る。 
このあたりに東海道の西側入口の「西見付」があったと思われるが、 表示はなかった。 
ここで水口宿は終わる。 

綾野天満宮 x 力石がある丁字路 x 真徳寺表門 x 一里塚跡
綾野天満宮
力石がある丁字路
真徳寺表門
林口一里塚跡




(29)石部宿へ                             旅の目次に戻る



かうんたぁ。