坂下宿は箱根峠に次ぐ難所の鈴鹿峠を控えた宿場だったので大いに賑わったが、今は静かな集落である。
鈴鹿峠は鈴鹿馬子唄で唄われているように気象が変りやすいところで、旅人を大いに悩ました。
土山宿は京を目指し険しい鈴鹿峠の山道を歩いた旅人が初めて出会う里だった。
(ご参考) 関〜坂下 6.5キロ 徒歩約2時間
坂下〜土山 9.7キロ 徒歩約4時間
(注) 関駅前〜伊勢坂下間のバスは1日5便あるが、通学と通勤客用のため、朝夕の運行になっているので、
要注意。
土山宿にはJR草津線貴生川駅から甲賀市コミニュテイバスが運行している。
東海道は大和街道と分岐する東海道関宿西交叉点の先の観音寺テニスコートの交叉点で左折して、
国道1号に合流する。
なお、古代の鈴鹿の関は観音寺テニスコートの交叉点を右折して、次の交叉点の先にあったようである。
国道を歩くと、市瀬交叉点の二百五十メートル先に市瀬橋がある。
東海道は橋の手前で国道と別れて右側の道に入る。
東海道は車が一台通れる程度の細い道で、鈴鹿川沿いに進むと左へカーブして小さな橋に出る。
江戸時代にはその手前で川を渡っていたが 道は残っていないので右側に架かる橋を渡ると市瀬集落に入る。
市瀬集落は、江戸時代立場だったところで、道の両側には古い家が並んで建っている。
市瀬集落はS字形になっているが、国道により分断されているので、突き当たりを右へ行くと国道と交差する。
走る車に注意して向こう側に渡ると、道の左側に自然石を積み重ねたような常夜燈が建っている。
その奥に見えるのは浄土宗本願寺派の西願寺で、その先で市瀬集落は終わり、道は国道に合流してしまう。
再び国道を歩く。
道の両脇には人家はなく、緩い登り坂になって、いよいよ山越えの道になる。
右側の畑に「転び石」というのがある。
元に戻しても街道に転がり出ては通行の邪魔をしたと伝わる岩である。
道の右手は落ち込んでいて、下方に川が流れていて、畑がある。
市瀬から国道を八百メートル程行くと、左にカーブする道の正面に三角おにぎりのような筆捨山が見えてきた。
「 室町時代の絵師・狩野法眼元信が、山の風景を描こうとしたところ、雲や靄がたちこめ、 風景がめまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説が残り、 正式の名前は岩根山だったが、筆捨山と名付けられたという山である。 」
右に下って行く小道は旧東海道とも思えるが、途中で無くなっているよう気がしたなので歩かなかった。
坂はより傾斜を増すが、この坂は「起こしの坂」と呼ばれたようである。
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坂を上りきると筆捨山のバス停があり、街道の雰囲気を残した民家もあった。
歌川(安藤)広重は、 東海道五十三次の 「坂之下宿」 の絵で、筆捨山を描いている。
ここから下りになり、道は左、右、左にカーブと目まぐるしく曲がり、弁天橋を渡る。
弁天社の存在には気がつかず、通り過ぎた。
少し先の左側の民家の隣に、「沓掛一里塚跡」の石柱があった。
東海道は、楢木橋の手前で国道と別れて、右の狭い道に入る。
この道は鈴鹿峠を越えるまでの区間残っている。
楢木集落に入ると楢木バス停があり、十軒ほどの家が建っている。
集落を抜けると左側に「鈴鹿峠 4.4q」の道標がある。
百メートルほど行くと、右側に「東海道自然歩道」の案内板と道標がある。
このあたりは家は点在するが、その先を併せても六軒か七軒しかなかった。
楢木バス停から七百メートル行くと、これまでより大きな沓掛集落に入った。
「
沓掛は山道で沓(草鞋)が壊れ、新品に取り替えた際、道沿いの木に、古い草鞋をひっかけて行ったことが、
名の由来である。
沓掛集落は江戸時代に立場茶屋があったところである。
集落に古い家は少なかった。
右側に超泉寺があり、その先に沓掛バス停があった。
三重県は皇室と関係が深い伊勢神宮があるせいか、神社が多いのだが、
これまで歩いてきた集落には神社は見かけなかった。
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沓掛集落を過ぎると、人家が少なくなる。
家は主に右側にあるが、ここ十年くらいに新築されたと思える家が多く、
その中に坂下簡易郵便局があったが、普通の民家のような家である。
このあたりから道は穏やかな上り坂になり、家数が少なくなる。
郵便局から五百メートル程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登る。
左側に東海道五十三次の宿場名が書かれた木柱が並んで立っている。
その奥にサッカーボールのような建物・鈴鹿馬子唄会館が建っている。
「
館内では哀調を帯びたその節回しが聞かれる。
鈴鹿馬子唄は、旅人を乗せた駄賃馬を引く馬子(まご)が、
鈴の音に合わせて 「 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 」 と口ずさんだ民謡で、
伊勢湾側の 鈴鹿(坂下宿)は晴れていても、峠を越えた近江側の 土山宿 では雨が降っている、
という気象の違いを謡ったものである。
鈴鹿馬子唄会館 (9時〜15時、入場無料、月曜日は休館) 」
右側にある旧小学校は、坂下青少年研修センター(鈴鹿峠自然の家)となって活用されている。
東海道はその先で左側からの二車線の広い立派な道路と合流する。
この道を直進するが、左手に国道1号の上り線が上に、下り線がその下に見えた。
約一キロ程歩くと、小さな川に河原谷橋が架かっている。
ここが沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると坂下宿(さかのしたしゅく)に入る。
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坂下宿は鈴鹿峠の登り口にあった宿場町である。
「 天保十四年の東海道宿村大概帳によると、
宿内軒数は百五十三軒、人口は五百六十四人、本陣が三軒、脇本陣は一軒、旅籠は四十八軒だった。
人口の割に本陣、脇本陣が多いこと、三軒に一軒が宿場というのは、
これから鈴鹿を越えようとする旅人の多くが泊まることを想定してのものだったのだろう。 」
鈴鹿越えで賑やかな宿場だった坂下宿は、明治時代に入ると東海道の宿駅制が廃止され、
更に東海道線の開通で、人の流れが変ったことで一変。
坂下宿には立ち寄る人もいなくなってしまい、すっかり寂れてしまった。
今では、関町坂下集落はひっそりただずむ山あいの集落の一つである。
家の前の道が二車線なのは物産の集積地だったので、他の東海道より広かったようで、
この道幅は宿場時代からのものである。
左側に坂下公民館があり、伊勢坂下バス停前には「松屋本陣跡」と刻まれた石柱があった。
その先には、茶畑をはさんで、「大竹屋本陣跡」と「梅屋本陣跡」の石碑が建っていた。
大竹屋本陣は宿場一の大きさだったというが、
このあたり一帯が茶畑になっていては想像するのは難しかった。
梅屋本陣の道の反対側に「法安寺」がある。
山門の下には「南無阿弥陀佛」という大きな石碑と、「西国三十三所順拝写」と書かれた石碑があった。
石段を上ろうとすると右側に「不許葷酒入山閉」と書かれた石碑がある。 <
石段を上っていくと、山門の左側に 庚申堂 があった。
山門をくぐって入ると正面に本堂があり、右側に庫裏があった。
寺の玄関にしては立派だなあ!!、と思っていると、傍らの説明で分った。
松屋本陣から移築したものといい、この宿場で当時を偲ぶ唯一の遺構である。
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法安寺の先にある橋を渡ると、右側にあるのが、「小竹屋脇本陣跡」の石柱である。
この先、左側の家並みに沿った狭い道が東海道で、道の右側に「身代わり地蔵尊」と書いた小さな祠があり、
石仏が幾体か祀られていた。
その先の小さな橋が如来堂橋、別名上の橋というが、このあたりが坂本宿の端(京側の入口)だった。
山中橋を渡り、林を通過すると右側に民家があり、 国道1号線に合流する手前に「大道場岩家十一面観世音菩薩」と刻まれた石柱が建っていて、 その脇に閉じられている鉄製の門がある。
「
江戸時代の 「伊勢街道名所図会」 の 「坂下宿」 に 崖下に観音堂があり、
その脇に滝が落ちている絵が描かれている。
これは岩屋観音あるいは清滝の観音というものである。 」
民家の脇を通り抜けると薄暗い林になり、石仏や石碑が並んでいる。
石段を上って行くと、崖の下に木で作られた社があり、これがどうやら、観音堂である。
左側にはちょろちょろという程度であったが、滝が流れていた。
蛇でも出てきそうな陰気な場所なので、お参りを済ますとそこくさと退散した。
岩屋観音の前で、国道1号の下り線に合流する。
少し先の右側に「東海自然歩道」の道標があり、右に上る表示がある。
旧東海道は国道1号を歩く表示になっている。
「
東海自然歩道は国道に平行して林の中を歩くが、その先で国道と合流する。
この区間は国道でも東海自然歩道でも好きな道を歩けばよい。 」
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国道を五百メートル程歩くと、右側から東海自然歩道の道は降りてきて、国道に合流した。
国道は曲りながら上って行くが、東海道は鈴鹿川の橋の手前で右に入る。
その先に「東海自然歩道」の道標があり、左側に「片山神社」の石柱が建っている。
左にせせらぎの音を聞きながら、暗い杉林を歩いて行くと、
右側の崖下に小さな岩や木の枝が折れたのがいくつか転がっている。
これらの岩は一月前に亀山で起きた地震によるもので、一瞬どきっとしたが、その後、
歩いた所は木が擦れて落ちた枝が散らばる程度でほっとした。
その先の道の左下に小さな社があった。
左右は杉林で、谷川が流れていて、じめじめしたところであるが、
江戸時代の初期に、坂下宿があった所だといわれている。
江戸時代にはこの地は古町という地名だったというが、民家は既になく林になっていた。
「 坂下宿は、慶安三年(1650)九月の大洪水で、ここにあった宿場が壊滅的な被害に遭い、 山川、田畑、民家が全て頽廃したため、翌年、十町(1キロ余)下に移転したのである。 」
細い上り坂の路を行くことしばし、小さな石橋を渡ると「片山神社」の石柱と鳥居がある。
石段を上ったところにある大きな常夜燈は文化十二年の建立で、
石段下の鳥居の周りの常夜燈は天保七年や文化十二年の建立である。
「 片山神社は三子山に鎮座していたが、度々の水害、火災により、
永仁五年に現在地に移つたと伝えられる。
延喜式内社片山神社とあるように歴史は古く、坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を祀ったのが始めともいわれ、
古来は鈴鹿大明神、江戸時代には鈴鹿大権現とも呼ばれてきた。 」
神社にお参りしようと思い、石段を上っていったが、火災に遭い、
在ったと思われるところに土台の敷石があるだけである。
奥まったところに極めて小さな社があり、その前に建つ石柱には「牛頭王 下町中」と刻まれていた。
(注)片山神社の祭神、鈴鹿明神は水害や火事の神様であるが、社殿は2002年放火により燃失した。
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坂に沿って更に幾つかの常夜燈が並んで建っていて、「鈴鹿流薙刀術発祥の地」の碑もあった。
今や、廃墟化しかねない神社であるが、東海道の往来が盛んだった時には多くの参拝があったのだろう。
東海道はこの神社から「八丁二十七曲がり」と呼ばれた鈴鹿峠越えが始まる。
片山神社の鳥居を右折すると急坂を登る道になるが、薄暗い杉林の中で荘厳な雰囲気があった。
曲がりくねった山道は途中に一部だけ石畳が残るが、大部分はコンクリートで補強している。
道はかなりの急坂だが、登って行くと、頭上に国道の橋桁が見えてきた。
その下をくぐり登っていくと、国道の横の広場に出る。
そこには 「東海自然歩道」の大きな看板が建っていて、
「 坂下から鈴鹿峠までは2.1km、35分 」 とあった。
看板の横には鈴鹿峠の上り口の石段があった。
石段の左側に、松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「 ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山 」 という句である。
西行法師は公家の地位を捨てて旅にでたが、鈴鹿峠ではその心情を歌に詠んでいる。
「 鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ 」
芭蕉は、西行法師の上記の和歌が頭にあって、上記の句を詠んだのではないだろうか?
「
鈴鹿峠を越える始めての官道は、「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和弐年(886)に開通した。
当時の鈴鹿越えはぶっそうだったようで、山賊にかかわる伝承が多く残っている。 」
ややゆるい坂を上り、ひと汗かく頃には雑木林に出る。
道脇から下を覗きこむと、国道1号線の上下二本の道がループになっている様子が見られた。
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雑木林から杉林に変り、しばらく上ると、突然、平らな道になった。
どうやら、上りは終わったようで、これで鈴鹿の一番厳しかったところは越えたのか? あっけない幕切れである。
ここには「東海自然歩道」の道標があり、左折すると 「 田村神社跡10m 」 、「 鏡岩150m 」 とある。
田村神社は、明治三十九年までは「田村神社跡」の石柱が建っているところにあったが、
明治三十九年の神社合祀令により、片山神社に合祀されてしまった。
思ったより早く峠を越えたので、鏡岩に寄り道することにした。
鏡岩へはきちんと手入れされている杉林の中を歩いて行く。
道として作られていないので、ところどころの杉に紐が結ばれているのを目印にして歩く。
目当ての鏡岩に到着した。
説明板「
鏡岩は、絶壁にちょこんとある大きな石で、縦二メートル三十センチ、 横二メートルの大きさで、
石質は硅石である。
昔は鏡のように光っていたので、登って来る旅人の姿が映り、それを見て盗賊が旅人を襲った、
という伝説があり、鬼のかがみともいわれた。 」
鈴鹿峠が難所だったのはこうした山賊の存在も大きな要因の一つだったのだろう。
山賊の気分になって、岩から身を乗り出すと国道を走るトラックの姿が見られた。
街道に戻り、そのままを進むと急に明るい場所に出た。
そこには 「 界 右滋賀県 近江の国 左三重県 伊勢の国 」 と書かれた石柱が建っている。
鈴鹿峠は海抜三百七十八メートルで、伊勢国と近江国との国境である。
とうとう鈴鹿越えを果たし、滋賀県に入った。
先程上ってきた道は鏡岩の脇を通らなかったので、江戸時代の道とは違っているのだろうと思った。
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その先には 「 歴史の道 東海道土山宿・現在地土山町山中 」 という道標の他、
「東海道」の石柱など、いくつもの道標がある。
「東海自然歩道」の大きな案内板も建っていた。
案内板には 「 江戸時代、このあたりには松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の茶屋が建ち並び、旅人で賑わっていた。
現在でも茶屋の石垣が残り、当時の面影を感じることができる。 」 とあったが、
茶屋跡がどこなのか、確認はできなかった。
あたり一面に茶畑が広がっていて、茶の刈り取りを待っていた。
茶畑で採れるお茶は「土山茶」といい、葉は厚く、二番煎じ、三番煎じでも、美味しくいただけるお茶だ、という。
「 土山町は今回の合併で、狸で有名な信楽町、甲賀忍術で有名な甲賀町、水口宿のある水口町など、 と一緒になって、甲賀市になった。 」
少し行くと巨大な石積みの常夜燈が建っている。
そこにはトイレやベンチのある休憩所が設置されていた。
「 巨大な石積みの常夜燈は万人講常夜燈で、重さ三十八トン、
高さは五メートル四十四センチもある存在感のある常夜燈である。
二百七十年前に、讃岐金比羅神社の講中が建てたものである。
旧山中村高畑山天ケ谷産の粗削りの大きな自然石をそのまま使って、
山中村を始め、坂下宿、甲賀谷の人 三千人が結集して作られたものと伝えられる。
常夜燈は当初は東海道沿いに建っていたが、国道トンネル工事のため、現在地に移された。 」
少し休憩した後、道を下って行くと一軒の民家の前で、
トンネルを抜けて来た国道1号線に合流した。
楢木橋から続いてきた東海道はここで終わった。
道の反対側にラーメン屋があったが、関宿から土山宿到着までに見た只一軒のお店だった。
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この後は十楽寺までは国道を北に向って下っていく。
両側に点在する家は万年講の常夜灯を作った人々の子孫なのだろうか?
国道の右側に常夜燈があるが、畑の道と離れているのは国道工事の影響なのか?
七百メートル先の山中交差点のあたりに、馬頭観音と双体道祖神のような石仏が祀られている。
その先の左側に「熊野神社」の石柱と鳥居が建っている。
このあたりが江戸時代、山中村の中心だったのだろう。
二百メートル行くと左側の小山が国道にせりだしてくる。
ここに近江山中氏の発祥の地の山中城があったようである。
「 山中氏は鎌倉時代の嘉禄二年(1226)、橘中務丞俊信が鈴鹿山の賊を退治した功績で、
山中村地頭と鈴鹿山盗賊追捕使に任じられたことが始まりで、地名をとり、山中氏と称した。
山中氏は、伊勢神宮祭司によって、伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、
鎌倉幕府からも公卿勅使儲役、鈴鹿峠警固役を公認されていた。 」
その先の数軒残る集落があり、住宅の裏側の道が東海道であるが、すぐに終わってしまった。
国道を四百メートル行くと十楽寺があり、「十楽寺」の標柱の脇に「南無阿弥陀仏」の石碑が建っていた。
「 十楽寺は元は天台宗の寺院だったが、信長の兵火に焼失。
寛文年間(1661〜)に、巡化僧広誉により再建された寺で、
浄土宗知恩院の末寺である。
丈六阿弥陀如来を本尊とするが、十一面千手観音などの仏像も安置されている。
境内の常夜燈は天保三年の建立である。 」
道の対面に石碑があるので道を横断して見に行くと「一本松緑地」と書かれた石碑である。
石碑は最近作られたものだった。
右手に川が流れていて、小田川橋が架かり、その先には、民家が点在していた。
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寺から四百メートル行くと右側に狭い道があるので、東海道は国道と別れてその道に入る。
小さな橋を渡ると小公園があり、「東海道 鈴鹿 山中 」の石碑と石灯籠が建っている。
右側には 「 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 」 と刻まれた、鈴鹿馬子唄 の大きな石碑があった。
小公園には休憩できる東屋<(あずまや)があり、数台置ける駐車場もあった。
東海道は、公園を出ると道を右折し、まごうたはし(馬子唄橋)の手前まで行き、そこで左折して、
細い道に入る。
少し先の右側に「地蔵大菩薩」の常夜燈と祠が建っていた。
両脇の民家の間からは第二名神高速道路の橋の上を走っているトラックが見えた。
民家がなくなると両側は田圃で、その先で第二名神高速道路の高架橋の下をくぐる。
高架橋の下に滋賀県知事による滋賀県工事第1号という記念碑があったが、
この橋は巨大で何と高いことか?!と驚いた。
その先で東海道は国道と合流する。
合流点に小公園があり、「山中一里塚公園」の標石があった。
山中一里塚は江戸から百九番目の一里塚である。
園内には 「 いちゐのくわんおん道 」 と刻まれた道標がある。
道標の側面には、 虚白の 「 盡十方(つくすとも) 世にはえゆきや 大悲心 」
という句が刻まれている。
説明板
「 いちゐのくわんおん道 は現代人には読めない詠み方だが、櫟野(いちいの)観音道である。
観音道は、東海道から分岐して、旧神村、旧櫟野村に至る道で、大原道とも呼ばれた。
ここはその道の追分で、南西に伸びて、第二名神高速の橋脚に向かってあった。 」
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奥まったところには「馬子唄」の碑と「馬と馬子」の石像が建っていた。
「 東海道は、ここから土山宿まで、左右に曲折しながら続いていたが、
国道1号線はそれを突っ切るように一直線に敷かれた。
その結果、旧街道は畑になったり、原野に戻ったりして、今は跡形もなく失われてしまっている。 」
国道を歩く。
国道に設置された 「 東京まで437q 」 の標識のあたりから、道は左へカーブし、下っていく。
右側に民家が見え始めると猪鼻交差点で、江戸時代には猪鼻村だった。
道脇に「若宮神社」の石柱が建っているが、右に下る道が東海道で、わずかの区間だが残っている。
下りたら左折し、右側の「浄福寺」を過ぎると、緑に包まれた家があり、
表札には「猪鼻村旅籠中屋武助」とあった。
緑の中に「旅籠中屋跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」がある。
明治天皇が立ち寄られ、休憩されたところである。
その先、S字のカーブで上りきると、国道に合流した。
国道を五百メートル行くと、前方に町が見えてきて、「道の駅 あいの土山1q 」の表示板があった。
東海道は国道と別れ、右側の細い道に入る。
ここは甲賀市土山町南土山である。
「白川社」の石柱があり、鳥居の先に「白川神社御旅所」の石柱と小さな社殿が二つある。
道の脇に南土山案内板があり、 「 国道の右側を下りた小道が江戸時代の東海道で、
その先でなくなっている。 また、蟹塚がある。 」 とあった。
蟹塚に行くため、国道まで戻り、道を横断し、右側を下りると細い道がある。
細い道を少し行った所で右側の林に下り、じめじめした地面を歩くと、
谷川の向こうに「蟹塚」と書かれた石碑と説明板があった。
説明板
「 平安時代、蟹坂に大きな蟹が出て旅人を苦しませていた。
それを聞いた京の僧、恵心僧都が現地に赴き、往生要集を唱えると、
蟹の甲羅はバラバラに砕け散ったという話が残る。 」
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南土山案内板まで戻り、東海道を進むと、茅葺き屋根だったと思える、屋根にトタンをかぶせた家がある。
明治時代の蟹坂集落は農家がほとんどだったようで、その名残りといえる家である。
ここから土山宿までは八百メートル程の距離である。
工場に挟まれた道を通り抜けると、小さなトンネルがあり、そこをくぐると視界が広がり、
正面に駐車場が見えてきた。
五十メートル程歩くと右側に大小の碑があり、小さい石柱が 「 蟹坂古戦場跡 」 の石碑である。
説明板
「 天文十一年(1542)、伊勢の北畠具教(とものり)は、甲賀制圧を目指して軍を進め、
一隊を割いて鈴鹿を越えさせ、山中城を攻めさせた。
山中城主の山中秀国はよく戦って、北畠勢を敗走させた。
これを知った北畠具教は一旦兵を引かせたが、すぐに軍を増強させて、再び山中城攻略にかかった。
山中秀国は近江守護の六角定頼に援軍を乞ったので、ついに、北畠氏と六角氏との大戦争になった。
一万二千人の北畠軍に対し、一万に満たない山中・六角連合軍はよく戦い、ついに北畠勢を敗走させ、
北畠具教の甲賀進出を阻止した。
この合戦の主戦場がここ、蟹坂である。 」
会社の駐車場と左側の田圃に挟まれた道を直進すると、田村川に突き当たる。
田村川に架かる海道橋は、江戸時代の板橋を再現したというもので、平成十七年七月に竣工した。
説明板「海道橋」
「 安永四年(1775)に田村川に板橋が架けられた。
板橋の巾は二間一尺五寸(約4.1m)、長さは二十間三尺(約37.3m)で、橋を渡ると右側に橋番所があり、橋のたもとには高札場があった。 」
橋が架かる以前の東海道は、川の手前で左折して、国道1号に出る道(この部分は現存)で、 現在は国道で道は途切れているが、 国道の約五十メートル先で田村川を徒歩で渡り、 「道の駅・あいの土山」の先の左側(現存)にある道に合流していた。
東海道は、板橋の完成により、安永四年(1775)からは橋を渡って、
田村神社の境内に入り、神社の参道で直角に曲がって、土山宿へ向かった。
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安藤広重の東海道 「 土山宿 」 の浮世絵は、 「 春の雨 」 と題して、雨の中、笠を目深にかぶり、
合羽を羽織った大名行列の一行が背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、
田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いている。
江戸時代には土山は雨が多い土地柄という印象が強かったようで、上記の絵でも雨の情景が描かれている。
田村神社の境内に入ると、右側に田村神社の二の鳥居、常夜燈、狛犬が並んで建っている。
「
田村神社は、平安時代の弘仁十三年(822)の創建と伝えられる古社で、
蝦夷征討で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っている。
東海道名所図会には、 「 祭神、中央、将軍田村麻呂、相殿、東の方、嵯峨天皇、西の方、鈴鹿御前 」
とある。
田村神社の生い立ちには異説もある。
垂仁(崇神)天皇の御代(紀元前四十七年)に「鈴鹿大神」として、倭姫命を祀ったことが創始、
その後、弘仁十三年(822)に嵯峨上皇が坂上田村麻呂の霊を鈴鹿社に合祀して、社号を田村神社と定めたというものである。
弘仁元年(810)田村麻呂が嵯峨天皇の勅を奉じて、鈴鹿の悪鬼を討伐したことから、
「厄落とし厄よけの神」として有名である。 」
田村神社の由緒書はそのあたりをぼかした表現になっていた。
鬱蒼たる樹林に囲まれた参道を神社に向って歩いていくと、正面に見えるのは拝殿である。
拝殿を過ぎると、禊場から流れてきた川を渡る太鼓橋があった。
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田村神社の本殿は、元文四年(1739)に焼失した社殿を再建したもので、築後二百六十年以上になるという。
向拝に、 牡丹 と 孔雀、そして 鳳凰(ほうおう)が彫刻されている。
参拝を済ませて二の鳥居まで引きかえす。
参道は国道に面した一の鳥居まで続く。
参道にある 「永夜燈」 と刻まれた四つの燈籠は、文政十二年の建立である。
一の鳥居に出て、国道1号を横断すると、左側に「かにが坂飴」の高岡商店がある。
「 恵心僧都が、蟹の供養をするために村人に石塔を建てるよう願い、また、蟹の甲羅を模した飴を作り、
厄除けにするよう言い残したという飴が、かにが坂飴である。
かにが坂飴は今でも1つ1つ手作りされているという。 」
その先右側に「道の駅 あいの土山」があったので、土産に厄除けの「かにが坂飴」と手もみ新茶の「土山茶」を買った。
道の駅の脇の道を入っていくと、土山宿(つちやましゅく)の大きな案内板があった。
(柱)橋が架かる安永四年以前の東海道は、田村川を渡って、この左側の道に続いていたのである。
公園の前には松の木が植えられ、「土山宿」と書いた石碑が建っていた。
「 土山宿は南土山村と北土山村と二つの村からなり、
問屋場も南土山村と隣の北土山村で交代して務めていたという。
天保年間の土山宿の家数は三百五十一軒、宿内人口千五百五人、本陣は二軒、脇本陣はなく、
旅籠は四十四軒あった。
」
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数十メートル歩くと右側に「東海道土山宿」の標柱が建っていた。
江戸時代、このあたりは生野町で、町家と農家が混在していたところである。
右側に 「 東海道土山宿旅籠鳥居本屋 」 の木札がある家を見つけた。)
これまで気付かなかったが、各家の玄関には土山宿だった頃の屋号を書いた木札が下がっているのである。
旅籠鳥居本屋は四十四軒の中の一軒なのかは説明がないので分らない。
その先の左側に祠があり、脇に「東海道」の道標と歌碑があるが、最近のものらしい。
右側の 「東海道土山宿お六櫛商三日月屋」 の木札がある家前で、
お孫さんを遊ばしていたお婆ちゃんがいた。
お六櫛は中山道の薮原宿の名物で、妻籠宿に住んでいたお六という娘が使ったみねばりの木で作った櫛が由来で、現在でも薮原で作られている。
お婆ちゃんは 「 詳しいことは分らないが、江戸時代の土山宿はお六櫛を商う店が多くあり、街道の名物になっていた。 」 といわれた。
その先にもお六櫛商を掲げた木札が数軒あったが、どの家も三日月屋となっている。
これらから推察すると、薮原の三日月屋から仕入れた櫛を東海道を旅する人々に販売していたのではないか?
櫛が名物だったことは、 上島鬼貫の句碑で確認できた。
「 吹け波ふけ 櫛を買いたり 秋の風 」
上島鬼貫は攝津国伊丹の生まれで、東の芭蕉、西の鬼貫といわれた人物である。
彼が貞享三年(1686)の秋、東海道を旅して、当地でお六櫛を買い求め、鈴鹿に向かうとき詠んだ句である。
このあたりは古い家が多く、連子格子のある家が並んでいた。
それを見ながら行くと、右側の家の前に日本橋から百十番目の「土山一里塚跡」の標柱があった。
この地方は一里塚を一里山と呼ぶようで、地名の一里山町はそこからきているのだろう。
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その先で道は微妙に右に曲がっているが、このあたりから江戸時代の中垣外町。
道の左側に立派な塀のある大きな建物の屋敷があったが、江戸時代の屋号は油屋権右衛門とあるので、
油商を営んでいた家なのだろう。
表見川に架かる橋には、街道にまつわる絵を陶板にして張られている。
橋を渡ると緩やかな坂道で左にカーブで、その先の左手に白山神社がある。
このあたりは古い家が少ない感じがした。
民家のガラス戸に張られた「鈴鹿馬子唄全国大会」のポスターには、馬子に引かれて、
とぼとぼ歩く馬の姿が描かれ、妙に哀愁を帯びていた。
正和堂という菓子屋があり、 「 万人講もなか、伊賀饅頭 」 という看板を出していた。
「旅籠跡」の石柱が目だつが、稲荷町には、江戸時代、旅籠が八軒あった、という。
道が左にカーブすると、その先の左側に「大原製茶場」の看板がある連子格子と白い漆喰壁の家があった。
「 土山茶は、文和五年(1356)、南土山の常明寺を再興した、鈍翁了愚禅師が、 京都の大徳寺から茶の種を持ち帰って植えたのが始まり、といわれるので、歴史は古い。 」
右側のさじや酒店の前には、三軒の「旅籠跡」の石柱が並べて建っていた。
道の反対側の民家前に、 「 森白仙終焉の地 井筒屋跡 」 の石柱が建っていた。
「
森白泉は森鴎外の祖父で、津和野藩亀井家の典医だったが、文久元年(1861)、
参勤交代に従い江戸からの旅の途中、ここでなくなった。
井筒屋のはす向かいには平野屋があった。
森鴎外は明治三十三年三月一日、一泊二日で祖父の墓参りに訪れ、平野屋に宿泊した。
その時 「(祖父の泊まった)宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問いに既に絶えたり 」 (と答えられた) と、森鴎外は「小倉日記」に書いている。 」
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左側に江戸中期の建物を改造した、食事処うかい屋、
その先の家の前には「二階屋脇本陣跡」の石柱がある 。
道の反対の連子格子の家は、 土山かしきや で、このあたりは江戸時代は中町で、土山宿の中心だった。
かしきやの先の右側の細い道を入っていくと、東海道伝馬館がある。江戸時代の農家の建物を移築した、
「 この建物は、江戸時代の農家の建物を移築したものである。
東海道伝馬館では、問屋場を再現したり、大名行列のジオラマを設けたりしている。
(無料、9時〜17時、月曜と火曜は休み)
街道に戻ると、空地の自動販売機の脇に「 問屋場、成道学校跡 」 の石柱が建っている。
説明板
「 土山宿の問屋場は中町と隣の南土山村にあったが、問屋役の自宅に設けられたので、
問屋役が変るたびにその場所が変った。
空き地が問屋場跡で、問屋が廃止された後は成道学校として利用された。 」
空地の左側は蔵がある立派な屋敷で、玄関脇には「土山宿油佐」の木札があり、 二階は白壁、下半分が奥に三尺引っ込んだ格子造りの大きな家である。
その先の交叉点の角に、「問屋宅跡」の石柱があるが、
空地にあった問屋場を仕切っていた宿場役人の家があったことを示す石柱である。
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交叉点の先の青黒い建物は、土山宿の本陣があったところである。
建物の左側に「土山宿本陣跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」と「歌碑」が建っている。
説明板
「 土山宿本陣は、寛永三年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛するに当り、設けられたもので、
初代当主は甲賀武士、土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門で、甲賀忍者の末裔ともいわれる。
明治元年(1868) 九月の天皇行幸の際、この本陣で誕生日を迎えられ、御神酒とするめが下賜されたという。
明治三年(1870)、東海道の宿駅制度廃止により廃業となった。 」
右側の「旅籠近江屋跡』の建物は、旅籠風に思えたが・・・・
少し先の左側に土山公民館があり、駐車場には「土山宿」の大きな案内板が建っている。
その先の左側にある漆喰壁の家は、前田製茶本舗である。
その先の交差点で、県道539号を越えると甲賀市土山町南土山で、江戸時代は北土山村だった。
右側に大黒屋公園があり、正面に 「大黒屋本陣跡」 と 「土山宿問屋場跡」 の石柱が並んで建っている。
少し離れた左側には、「高札場跡」の石柱と説明板が立っている。
説明板
「 土山宿は、宿場が出来た当初は土山宿本陣だけだったが、参勤交代で往来が増加したため
幕府は、当宿の豪商だった大黒屋立岡へ控本陣を命じた。
何時出来たのかは不詳だが、土山宿本陣と同規模だったと思われる。
奥に明治天皇聖蹟碑があるところから見ると、東海道が廃止されるまであったことは間違いない。 」
公園に高桑闌更の大きな句碑が建っていた。
「 土山や 唄にもうたう はつしぐれ 」
高桑闌更(らんこう)は、加賀国金沢生まれで、虚白禅師の師匠だった。
また、「巖稲荷神社跡」の石柱もあったが、その近くに台座のようなものがあるので、
神社は燃失してしまったのだろう。
街道に戻る。 道はここで大きく右に曲がるが、向かいの民家の前に「土山陣屋跡」の石柱が建っている。
「
土山宿は、幕府が支配する天領なので、幕府から派遣された代官などの役人が陣屋に詰めていたが、
派遣された代官の自宅が陣屋に使われることが多かったという。 」
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その先に流れる川は吉川で、渡る橋は大黒橋である。
この橋には鈴鹿馬子唄の一節とそれを表現した絵が陶板になって張られていた。
馬子唄に 「 坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る 」 というフレーズがあるが、
「あいの土山」についてはいろいろな説がある。
「
間の宿(あいのしゅく)からという説や藍染をやっていたという説などである。
間の宿は、幕府が設けた宿場から宿場まで距離が長いため、休憩するために置かれた宿のことで、
その意味では土山は宿場なので当てはまらない。
しかし、東海道が始まる前は、坂下から水口まで距離が長かったので、
ここが間の宿として使われたことは間違いないので、
馬子たちはそれを 「あいのしゅく土山」 と唄ったことは、充分考えられる。 」
大黒橋を渡ると「常明寺」の標柱があるところで左折して、
百メートルほど行くと「常明禅寺」の石柱があり、右折すると常明寺の山門に着く。
常明寺の住職にこの地方の俳諧の指導者だった、 虚白がいた。
境内に芭蕉の 「 さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかん 」 という句碑が建っている。
常明寺には森鴎外の祖父が葬られていた。
森鴎外が墓参りに訪れると墓が荒れ果てていたので、住職に依頼して墓を整備した。
その後、祖母と母が葬られたが、昭和に入り、それらの墓は故郷の津和野の寺に移された。
現在は森白仙の供養塔が建っている。
街道に戻る。
江戸時代、吉川町は旅籠が少なくとも七つはあったが、隣の大門町に入ると町家が少なくなったとある。
街道には大きな白漆喰の家が建っていた。
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常明寺から数百メートル行くと左側に、「土山宿」の大きな案内板がある。
「
江戸時代の辻町と滝町の北には町家は半分か、三分の一程度を占めるだけだったが、
大中規模の旅籠があったといわれる。
宿の西寄りに「御代参街道」へ至る脇道があるためである。 」
ここまでくると頻繁に見た「旅籠跡』の石柱はまばらになり、
これが小生が見た最後の石柱である。
道は相変わらず左右に蛇行しているが、大局的に見ると右にカーブしているなあ!!と思いながら、
歩いて行くと、正面に道路、右側に白い塀のようなものが見えてきた。
近づいていくと国道1号で、白い塀の中には松が植えられ、 常夜燈と「東海道土山宿」の石柱が建っていた。
常明寺から五百メートル足らずだった。
南土山交叉点で、国道を横断すると右側の店と左の駐車場の間に細い道があり、
道の左端に二基の道標が建っている。
小さな方の道標には、 「 右 北国たか街道 ひの八まんみち 」 と刻まれている。
ここが、東海道と 御代参街道 との追分だった。
「
伊勢神宮は天照大神を祀り、皇室は、祖先神として敬い、
皇室や公家自身あるいは代参の使者が定期的に訪れた。
それらの人が歩いたことから、御代参街道という名が付いた。
「 お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる 」
と謳われた御代参街道は ここから多賀大社へ行く近道でもあった。
更に、多賀大社を経由し北国街道や中山道にも通じ、
多賀大社にお参りする人々や近江商人などが利用して賑わった。 」
東海道は、江戸時代、国道1号を横断したところで、北西の方向に向かって道が続き、
松尾川(現在の野洲川)の渡し場に出て、舟で川を渡っていた。
しかし、現在は、この先、道が無くなっている。
土山宿はこの道標で終る。
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