庄野から亀山宿に行く途中に打ち首を覚悟で築いたといわれる女人堤防がある。
亀山宿は粉蝶城と言われた美しい城のある城下町であった。
関宿は西の追分で大和街道、東の追分で伊勢別街道とつながっていたので、大変繁盛した宿場である。
(ご参考) 庄野〜亀山 7.8キロ 徒歩約2時間
亀山〜関 5.8キロ 徒歩約1時間30分
庄野宿の京側の入口を出ると、汲川原町交差点である。
汲川原町交差点は行く手を阻むような立体交差になっているので、県道27号を渡り、
国道1号線の高架下をくぐって、交叉点の反対側に出た。
東海道はここから亀山まで国道1号線と平行しながら残っている。
田畑の道を道なりに行くと汲川原東バス停がある集落に出る。
左側の民家の角には「平野道」の道標があった。 平野は鈴鹿川対岸の平野町である。
ここは江戸時代、汲川原村だったところで、道の反対に高札場があったようであるが、
その面影はなく、古い家も残っていない。
道はその先で右にカーブする。 その先の左側に本願寺派の真福寺がある。
少し行くと道の左前方に大きな椿の木があり、その横に「女人堤防碑」が建っている。
「 鈴鹿川の洪水に悩まされていた村民が、神戸藩に堤防の補強を願い出たが、
対岸の神戸藩の城下町を守るため、堤防の補強は許可されず、打ち首覚悟で六年の歳月をかけ、
約四百メートルの堤防を造った。
男性が作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造った、と言われる。
今から百七十年前の文政十二年(1829)のことである。 」
女人堤防碑の近くに 「 従是東神戸領 」 と刻まれている、領棒石と、燈籠が建っていた。
領棒石は、亀山藩中富田との境界からここに移設したものである。
右側には 山神碑と、常夜燈があったが、山神碑は江戸時代からここにあった、という。
手洗石は、文化十年(1813)のもので、その他、 常夜燈もあり、道の裏には古墓群があった。
その先で左から道と合流するが、ここから中富田町(旧中富田村)になる。
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少し先の三叉路では、右の道を行く。
百メートル程先の左側に、式内川俣神社がある。
鳥居の左側には大正十五年建立の常夜燈、右側の石柵の中には「中富田一里塚跡碑」と
「従是西亀山領」と書かれた領棒石が建っている。
なぜか、社殿が道路に背を向けて建っている。
享和三年(1803)発行の 「東海道亀山宿分間絵図」 には 、 汲川原村との境に領棒石が置かれ、その右(西の方角)に、 中富田一里塚、高札場、そして、川俣神社 、 という順に描かれている。
また、「 高札場の前には大名や公家を接待する御馳走場があった。 」 ことも記されている。
境内には、樹齢六百年の楠の大木や山神碑、安政三年の手洗石がある。
川俣神社を過ぎると両脇は住宅地で、右側に天台真盛宗の常念寺がある。
かってここには延命地蔵尊を祀る平建寺があったが、安政地震後に常念寺が移転してきたという。
その先は西富田町(旧西富田村)である。
その先の三叉路には「ひろせ道」と書かれた道標があるが、右折して北方に行くと広瀬町がある。
道は左にカーブし、上り加減の道を進み、前方に見える堤防が近づくと、登り坂の左側に、
また、川俣神社があった。
鳥居の脇の常夜燈は慶応弐年(1866)のものだが、元は大筒川辺にあったらしい。
近くの道標には 「右 ひろせ 左 はたけ」 と刻まれている。
境内に入ると神戸城主・織田信孝(信長の子)が愛した「無上冷水井」は既になく、その跡の石碑が建っていた 。
ここには、庚申塚 、 献燈(1803年)、「座標」の石柱、「和泉橋」の橋柱などがあった。
堤防に上ると安楽川が見え、対岸に東海道が続いている。
江戸時代にはここから対岸に渡る土橋があり、出水の時は渡しとなったという。
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川俣神社の左手に和泉橋があるのでそちらに向かう。
河川敷(井田川地区グランド)では子供が野球をしていた。
安楽川を和泉橋で渡ると和泉町である。
正面に井田川小学校があり、ここは右折して堤防の上の道を川に沿って百メートル程進み、
川と別れて左へカーブする道に入ると和泉町の集落だが、古い家はほとんどない。
その先の三叉路は東海道は直進だが、左折すると椋川に架かる平和橋の手前に、また、川俣神社がある。
このように川俣神社が多いのは各村が鈴鹿川系の河川の水害から逃れようと建てたことによるのだろう。
右にカーブする手前の右側の狭い道の両側に、「右 のぼの道」 と刻まれた道標がある。
左は江戸時代のもの、右は大正三年のもので、のぼのとは能褒野神社のことだろう。
その先の左側には「地蔵堂」があるが、先程の道標を含めて江戸時代から現在地にあった、という。
集落が続いているので区別はできないが、和泉西バス停を過ぎると小田町になる。
小田坂の下バス停の先の右側の小高いところに、極楽山地福寺があり、眺めはよい。
地福寺の右側の空地に「明治天皇御小休所」の碑が建っていた。
その近くに「和泉橋旧橋」の主柱が残されていたが、かなり雑な扱いだんだなあという印象である。
道を下り、交差する道(県道641号)を横断すると右側に踏切が見える。
道を直進して線路沿いに進み、踏切の前を通ったら、右、そして、左、また、右とカーブを繰り返し、
井田川駅の手前で右折して線路を渡り、三叉路に出たら、そこを左折する。
道の右側に小さな祠があり、石仏が祀られていた。
少し行くと、左手にJR関西本線井田川駅があるが、無人駅で駅舎というようなものはなさそうだった。
駅前で右折して直進すると、国道1号線が通る井田川駅口交叉点に出た。
東海道は直進なので、歩道橋を渡って反対側に出た。
ここから亀山市みどり町。 右側にコンビニがあり、その先にすき家があったので、ここで一服した。
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井田川駅口交叉点から坂道を上り、最初の交差点を右折して百五十メートル程行くと、
みどり町第四公園がある。
この公園は茶臼山古墳である。
「 茶臼山古墳は標高六十一メートルの山頂に六世紀初期造られたこの地方最大の墳墓で、 長径二十メートル、高さ四メートル以上の大きさで、西側に入口がある横穴式石室には石棺が二つ安置されていた。 」 という。
交差点まで戻り、真直ぐ坂道を登り、次の交差点で左折するのが東海道で、この後、住宅地の中を直進すると坂道になる。
坂をみちなりに下って、川を渡り、真宗高田派の西信寺の前を通り抜ける。
400m程歩くと、椋川に架かる川合椋川橋に出る。
「 昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624〜1644)の頃、 亀山藩士・生田現左衛門が私財を投げうって、水流を南に変え、橋を架け替えたので、現左衛門橋と呼ばれた、といわれる橋である。 」
百メートル程先の国道1号の陸橋の下をくぐり、 二百メートル程行くと「谷口法悦題目塔」と呼ばれる大きな石碑がある。
説明板
「 この供養塔は東海道の川合と和田の境にあり、昔から川合の焼け地蔵さん、法界坊さんと呼ばれ、
親しまれてきた。
「南無妙法蓮華経」 と書かれた二メートル五十九センチの大きな石碑は、
江戸時代中期の貞享から元禄年間の頃、京都の日蓮宗信者の谷口一族によって、
各地の刑場跡や主要街道の分岐点などに建立された題目塔の一つである。 」
その先の信号交差点を越えて、細い道を行くと左の歩道上に、和田道標がある。
「
この道標は、東海道と神戸道の分岐点(追分)に建っているもので、市内最古の道標である。
正面に、「 従是神戸白子若松道 」、脇に 「 元禄三庚午正月吉辰 」 とあり、
元禄三年(1690)に建てられたことが分かる。 」
江戸時代、神戸白子若松道は、亀山城下から亀山藩下の若松港へ通じる重要道路だった。
道標は折れて鉄枠で固められていて、痛々しかった。
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東海道は和田交差点で、少しだけ県道28号と合流するが、
歩道橋手前を右に曲がると「東海道」の看板がある。
なお、和田交差点を左折すると県道41号で、鈴国橋、その先が伊勢国府のあった国府町で、
国衙跡や惣社の他、王塚を始め幾つかの古墳群、住居跡や縄文時代の遺跡がある。
東海道は緩い登り坂となるが、坂が始まってすぐの左側に「井尻道」の道標がある。
右側に福善寺があり、坂道は少し急になると右側に石垣があり、見上げると幟がひらめく石上寺がある。
「 石上寺は、延暦十五年(796)、熊野那智社の夢告をうけた紀真龍によって新熊野三社が勧請され、
この鎮護のため開基された神宮寺である。
その後、朱雀天皇の勧請寺になったと伝えられ、建久三年、源頼朝から寺領社殿の寄進を受け、
同五年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉幕府の手厚い保護を受け、壮大な伽藍を有した。
織田信長の伊勢進攻による兵火により、伽藍を失い衰退した、と伝えられる。
現在の建物は明和三年(1766)に再建されたものである。
和泉式部が参籠したという言い伝えもあり、付近には式部の梅や式部の井戸がある。 」
境内には「仁王護国般若経石塚」の石碑があり、寺には古文書も多く残っているという。
街道に戻る。 けっこう急な坂だがそれほど長くは続ず、坂が終わると右側に、 和田一里塚があった。
といっても、一里塚があった東側に近接する場所に、平成五年に復元された一里塚である。
昭和五十九年に道路が拡張されるまでは一里塚の一部が残されていたとあるが、区画整理で消えていた。
県道41号線はこのあたりは広くのびのびしている感じがするが、
栄町交差点で国道306号線を渡ると再び狭い道になる。
この道は巡見街道と呼ばれる道である。
その先の左側に亀山ロウソク前のバス停があり、奥に仏壇やXマスケーキでお世話になる、亀山ロウソクがある。
右側の小さな祠は地蔵堂で、もとは左側にあった、という。
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少し行くと右側に大きな能褒野(のぼの)神社の鳥居があり、
鳥居の下には地元の人が書いた木札の 「従是西亀山宿」 があった。
ここが江戸側の亀山宿入口である。
本町四丁目からは商店が続き、古い家も所々に残っている。
本町四丁目の信号交差点を渡ると右側に亀山本町郵便局がある。
本町三丁目の交差点の左側に小公園があり、説明板があった。
「 巡見道はここから北に向かい、菰野を経て、濃州道と合流した後、 美濃に入り中山道と繋がる道で、寛永十年(1631)に始まった巡見使が使った道で、そう呼ばれた。 」
本町二丁目に入ると、古い家も所々に残っている中、 右手に城が見えたが、近づいてみると城を看板にした呉服屋だった。
能褒野神社へは当日二キロ程歩いたところで引き返し、後日訪問した。
「
能褒野神社は、 日本武尊墓陵 とされる塚の傍らに建てられた、日本武尊を主祭神とする神社である。
社殿はここから約5km北東の亀山市田村町の能褒野橋北側の森の中にある。
明治十二年(1879)、当時の内務省が、森の中にある全長約九十メートル、後円径五十四メートル、
高さ約九メートルの「王塚」とか、「丁字塚」と呼ばれていた、三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定した。
以後、宮内庁が能褒野陵として管理している。 」
能褒野神社は、明治時代に創建された神社なので、この鳥居は江戸時代には本町4丁目になかったのである。
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本町2丁目から、道は左へ弧を描いてカーブする。
各家には当時の屋号を書いてあるが、特筆するものはない。
道は東町バス停のある三叉路に突き当たるが、ここは亀山城の「江戸口門」があったところである。
しかし、その面影はどこにも残っていない。
説明板
「 江戸口門は、延宝元年(1673)、亀山藩主・板倉重常によって築かれたもので、
東西百二十メートル、南東七十メートルを土塁と土壁で囲み、北側と東側には堀を巡らせる曲輪を形成し、
東端に平櫓が一基築かれた。
西側の区画に番所が置かれ、通行人の監視と警護にあたっていた。 」
東町は、亀山宿の中心で、旅籠や本陣、脇本陣、東問屋場があったところである。
「 天保十四年の東海道宿村大概帳によると、
亀山宿は家数五百六十七軒、宿内人口は千五百四十九人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠二十一軒である。
亀山藩の城下町でもあったので、大名も旅人はこうした城下町の堅苦しさを嫌って、
亀山宿に泊まるのを敬遠したようという。 」
今は商店街になっていて、古い家は残っていない。
百五銀行の辺りが樋口太郎兵衛が務めた本陣や椿屋弥次郎の脇本陣などがあったところと聞いていたが、
百五銀行は移転してしまい、それらの跡は確認できなかった。
商店街から右に入ると黒い板塀で囲まれた福泉寺と法因寺がある。
東海道は江ヶ室交番前交差点を左折して、狭い道に入る。
東海道はカラーモールで表示されている。
東海道は、亀山城を迂回するため、鉤の手に曲がるように設計されている。
突き当たりを右折し、左折して坂を下ると左手に 遍照寺と誓昌院がある。
その先はなだらかな下り坂。 道が大きく左にカーブするところに大きな古い家が残っていた。
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左にカーブすると右手に亀山城の濠があり、その先に亀山城の石垣と多門櫓が見える。
亀山城址に寄り道をする。
坂を上っていくと右側のお濠の脇に「亀山城石坂門跡」の木柱と説明板があった。
「 石坂門は西の丸から二の丸に通じる枡形の楼門で、三間十間の長さで、高さは四間あった。 」
木柱の脇に階段があるので、下に降りると「石井兄弟仇討ち」の碑があった。
「 江戸時代初期の延宝(1673-1680)年間に石井源蔵、半蔵兄弟が大坂城代青山家の家臣だった父石井宗春の仇討ちで、 亀山城外で本懐を遂げた。 江戸三大仇討ちの一つである。 」
坂道の反対側にある一本の松の木は石坂門から外濠に沿って植えられた松並木の唯一の生き残りである.
亀山城の濠から左手は城壁で囲まれて、西の丸が建っていたというが、今は学校や住宅地になっている。
更に坂を上ると道の左側に「亀山城址」の石碑が建っていて、多門櫓と石垣が見えた。
その先を左折すると右側に「亀山城楠門跡」の木柱と説明板があった。
「 楠門は本丸に入口にあった門である。
亀山城は文永二年(1265)、関実忠により若山(現亀山市若山町)に築城されたが、その後、現在地に移された。
天正十八年(1590)に入城した岡本宗憲が天守、本丸、二の丸、三の丸などを造ったとされ、
江戸時代に入ると伊勢亀山藩六万石の藩主の居城となった。
江戸時代の初頭に丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、
三層の天守閣は壊されている。
また、この時期の亀山城は幕府の宿所としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。
このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、
歴代の藩主は二の丸で居住し、本丸は空けていた、という逸話が残っている。 」
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寛永十三年(1636)、藩主となった本多俊次が城の大改修を行い、天守を失った天守台に多門櫓を築いた。
粉蝶城(こちょうじょう) とも呼ばれ、その優美さで知られた名城だった。
明治時代の城壊し令により、亀山城は壊されたが、
黒板張りの「多門櫓」は、士族授産の木綿緞通工場として使用されたため、破壊されずに今日まで残った。
三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されている。
多聞櫓に登ると白壁と黒板のコントラストはなかなかよいなあ!!、と思った。
(注)平成二十三年に江戸末期の姿に戻すため、多門櫓は板壁から白い漆喰壁に変えるなどの工事が行われて、
平成二十五年四月に一般公開された。 小生の訪れた時とかなり変わっているのだろう。
石段を降りると「明治天皇亀山行在所遺構」と書かれた石柱があり、 明治天皇も利用していたこともわかった。
これで亀山城の探訪も終わった。
坂道を下って信号のない交差点に出ると、正面に「亀山宿分間地図」が描かれたモニュメントがあった。
その脇の狭い道が東海道(県道647号)で、ここから名神高速道路亀山IC近くまで残っている。
坂を上ると道は右にカーブし、西町になるが、
上ったあたりに若林又右衛門が務めた「西問屋」があったといわれる。
街道の各家には江戸時代の屋号が掲示されていた。
右側の家の前に「沼慾斉生家跡」の木柱があった。
飯沼慾斉は江戸時代末期の本草学者(植物学者)である。
百五十メートル行くと、道の両脇に 「 右 郡役所 左 東海道 」、「 右 東海道 左 停車場」 と書かれた小さな道標がある。
この右奥に、二の丸に入る 青木門があったようである。
その先の左側には倉のある古い家があった。
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そのまま行くとT字路に突き当たる。
ここは鉤型になっていて、このT字路を右折し、その先のT字路は左折する。
ここの北手に本宗寺があり、そこから東にかけて、亀山城の城郭があったので、
京都側の守りとして重要で、その下には寺院を多く配置していた。
左カーブからは下り坂となり、右折、左折を繰り返して行くと、梅厳寺の前に出た。
梅厳寺の入口には「十一面千手千眼観世音菩薩」の石柱があり、「京口門跡」の説明板があった。
説明板「京口門跡」
「 京口門は亀山宿の西端の竜川左岸の崖の上にあった。
亀山藩主・板倉重常が、寛文十二年(1692)、亀山宿の西入口として造らせたもので、石垣に冠木門を設け、
亀山城の一部としての機能を備え、棟門と白壁の番所が付いていた。
坂道の両側にはカラタチが植えられ、下から見上げると門や番所が聳え立つ姿は壮麗を極め、
亀山に過ぎたものの二つあり、伊勢屋の蘇鉄と京口御門と詠われた。 」
亀山宿の京口門を出ると京口坂にさしかかる。
東海道の浮世絵の「亀山宿」は、大名行列が雪の中、急な京口坂を登っていく風景が描かれている。
今日は天気はよいが風が強いので、歩くのが難儀するくらいだが、
大名行列の一行は急坂の雪道をどのような気持で歩いていったのだろうか?
坂を下っていくと、深い谷に竜(達)川が流れていて、川の高部に京口坂橋が架かっている。
現在は竜川にが架かっている。
江戸時代には橋は架かっていなかったので、川の下に降り、
対岸の照光寺まで川を渡り、坂を登って行ったのである。
橋を渡って道の右側から下を見ると、照光寺がある。
なかに入ると 、「赤堀水之助(源五右衛門)」の石碑があった。
「 赤堀水之助は、亀山城の濠の脇に石川兄弟仇討ちの碑があったが、その相手である。
彼は京口門外で討たれたが、哀れに思った人達がこの寺に墓を建てた。
この石碑は平成に入って造られたものである。 」
照光寺から東海道に戻り、野村3丁目に入ると、道の両脇には古い家が残っていた。
東海道は狭い道だが、歩道を示すスペースは橙色で塗られているので、インパクトがあった。
歩道はグリーンで表示されているのが多いが、この色の方が運転者に対し目立つような気がした。
京口坂を過ぎたので、亀山宿の項はこれで終わる。
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野村3丁目には、照光寺を始め、心光寺、永信寺、光明寺、慈恩寺と寺院が多くある。
西(京側)の守りの一環として、この一帯に配置されたのだろう。
この通りには古い家が残っている。
三百メートル程先の左側に、慈恩寺がある。
「
慈恩寺は神亀五年(728)、聖武天皇の勅願により行基が開山し、
忍山(おしやま)神社の神宮寺として創建されたと伝えられる寺である。
天正三年(1575)に法相宗から浄土宗に改宗し、江戸時代の中頃、
長福寺から現在の慈恩寺に改称した。
本尊は九世紀初頭、弘仁年間(810〜824)頃の作とされる、
約一メートル六十二センチのヒノキ一本彫りの阿弥陀如来立像である。
平安時代初期の代表的な彫刻作品として、国の重要文化財になっている。 」
その先の左側の小さな道の角の民家に、 「 天照皇太神御鎮座跡 忍山神社山道 」
と書かれた石柱が建っている。
忍山神社は集落の南の外れの鈴鹿川の北岸近く、関西本線の北に位置する。
小さな道を進むと県道565号にでるので、
北勢国道事務所前交差点で県道を横断して進み、道が右にカーブすると、その先の道を越えた先にある。
「 忍山神社は延喜式神名帳に載る古社で、垂仁天皇の時代、皇女倭姫が御杖代となって、 天照皇大神の鎮座の地を求めて、 大和の国から忍山に御遷幸になり、神宮を造営し、御鎮座になること十年、なおも南へ遷り坐した、と伝えられる由緒正しい神社である。 文明四年(1472)の戦火で焼け落ちるまでは愛宕山と呼ばれる海抜九十メートル の丘陵の南麓に神宮寺の神福寺と共にあったという。 」
街道に戻り、信号交差点を越えると右前方に巨大な椋(むく)の木が見えてきた。
ここは野村一里塚で、国の史跡に指定されている。
「 一里塚に、椋(むく)の木を植えているのは珍しい。
現存するのは北塚だけで、その上に植えられた椋の木は樹齢三百年を越し、幹周り五メートル、
高さ二十メートルの大木に成長している。
南の塚は大正十二年に壊された。 」
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野村一里塚を過ぎると、車が1台しか通れない細い道になり、布気町に入る。
道の脇の空地に「大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」 と書かれた木柱が建っていた。
道は左にカーブして、右側に野尻公民館、左手に善性寺がある三叉路に出た。
ここまで一里塚から七百メートル位。
道案内があり、右が東海道「布気皇舘太神社 能古茶屋跡」 とあるので、右の道を行く。
このあたりには古い家が一部残っていた。
道は左にカーブするが、カーブが始まるところの三叉路に毘沙門天があり、その脇の道を入る と左手に、布気皇舘太神社がある。
「 布気皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)は、延喜式神名帳に小布気神社とある式内社で、
天照皇御神、豊受大神、猿田彦命などが祭神である。
皇舘とは垂仁天皇の御代、天照大御神を忍山に還幸の折、大比古命が神田の神戸を献じたことに由来する。
神戸七郷 (野尻、落針、太岡寺、山下、水下、小野、鷲山) の総社である。
東海道名所図会に、天照大神五十鈴川遷幸の際の行宮の古跡也、とあるのは、
ここにも還幸されたという説があるからだろう。
明治四十一年、近郷の小社、小祠を合祀し、現在の名前になった。 」
布気集落は、江戸時代、立場茶屋があったところで、元禄三年(1690)に開かれた能古(のんこ)茶屋が有名だった。
亭主の禅僧・道心坊能古は、奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなし、好評をえた。
松尾芭蕉も能古の友人で 「 枯枝に 鳥とまりたるや 秋の暮 」 という句を残している。
能古茶屋はこの神社前にあったようである。
直進すると下り坂、ガードレールの所に「東海道は直進」の矢印がある。
坂を下ると東海道の道案内があり、「大岡寺畷」と示されているのに従って進む。
真直ぐ進むと県道565号(旧国道1号)に出るが、その手前で左折し、歩道橋を渡って、国道1号とJR関西本線を越える。
越えたら右折し、三叉路を左折し鈴鹿川沿いに進む。
この辺りは畑の中の一直線の道で、
「大岡寺畷」と書いた木標が道の左側にある。
畷(なわて)とは直線道路のことで、大岡寺畷は鈴鹿川の北堤で、千九百四十六間(約3.5q)にわたる東海道一の長い畷だった。
江戸時代には松並木があったので、里謡に 「 わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり 」 と謡われたというところである。
芭蕉はここでは珍しく和歌を詠んでいる。
「 から風の 太岡寺縄手 ふき通し 連もちからも みな坐頭なり 」
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神辺小学校前を過ぎると、名販高速道路の高架をくぐる。
高架下には広重の東海道の浮世絵が描かれていた。
鈴鹿川は水量が少なく、歩いても渡れるくらいの浅さで、早春の日できらきら輝いていた。
三叉路で右の道と合流し、関西本線を越え、国道1号に出て、小野川に架かる小野川橋を渡る。
二百五十メートル行くと右に入る細い道があり、「関宿」と書いたの大きな看板が建っている。
左側に「関の小萬のもたれ松」の説明板と最近植えたと思われる松がある。
右側には宿場を見学する人のための無料駐車場もあった。
説明板
「 関の小萬は父の仇討を遂げた女性である。
久留米藩士、牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて、関宿の山田屋に逗留、一女の小萬を産んだ後、病没した。
成長した小萬は三年程、亀山で修業し、天明三年(1783)、母の遺言通り仇敵の軍太夫を討つことができた。
ここは亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるため、姿を隠したと伝えられる松があったと伝えられるところである。 」
この細い道が東海道で、
四百〜五百メートル位行くと左側に大きな木の鳥居がある。
ここが関宿の江戸側の入口である。
「 大鳥居は、東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に、
伊勢神宮に向かって遙拝するためのものである。
二十年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の都度、
伊勢神宮内宮の宇治橋南詰で使われていた鳥居をここに移築し、建て替えられてきた。 」
鳥居の左側の小高いところは関一里塚の跡で、右側奥にそれを示す小さな「関一里塚跡」の石碑が建っている。
「
関宿はこの鳥居から西の追分まで、東西に千八百メートルの帯状に伸びていた宿場町である。
また、東海道と伊勢詣での旅人が向う伊勢別街道との追分(分岐点)でもあった。
一里塚の右側は既になく、左側も原形は留めていないが、追分道標や常夜燈が置かれている。 」
追分道標にはそれを示す 「 是よりいせみち 」 、その他の二つの道標には 「 右さんくうみち これより外宮十五り」 「 京都石見屋藤兵衛建立 天保七年丙申 」 「 右さんくう道 左江戸道 」 とある。
常夜燈には 「 常夜燈 大阪津国屋重右衛門 江戸嶋屋佐右衛門 元文五(1682)庚申歳正月手坂組中 」 と刻まれている。
(注)平成22年9月に伊勢別街道の旅で再訪すると道標などは無くなり、一里塚碑と常夜燈だけになっていた。
道標などは丘の整備で町民会館へ移したとのことだが、その後、ここに戻されただろうか?
鳥居前の石垣上の家は、 岩間家住宅である。
説明板
「 岩間家は当時の屋号を白木屋といい、東追分で稼ぐ人足や人力車登場後は車夫の常宿だった。
連子格子が素晴らしい建物は二百年以上経っていて、むくり屋根が特徴である。
屋根の曲面形状はそり(反り)とむくり(起り)に分類される。
そり(反り)は下方に凸となったもの、むくり(起り)は上方に凸となったものである。
むくりは使われることが少ないが、数奇屋建築にはむくり屋根が好んで使われ、桂離宮などはその好例である。 」
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関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に
「 総戸数が六百三十二戸、人口は約二千人、、本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が四十二軒。 」
とあり、大きな宿場だったが、
今も古い家が残り、約三百八十軒の建物が軒を並べている様は壮観である。
「 これらの貴重な建物は昭和五十九年に、旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
宿内で最も古い建物は十八世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約四十五パーセントを占める。
更に昭和戦前までのものを加えると実に約七割という。 」
宿場は木崎町、中町、新所町の三つの町で構成されているが、鳥居に近いのは木崎町である。
ここから先は道幅が狭くなり、車が1台だけ通れるだけの巾しかない。
木崎町の建物の特徴としては平屋や中二階の比較的建ちの低い建物が多い。
二階の壁面も真壁が普通で、中町に比べるとやや簡素である。
岩間家の先にある浅原家は、屋号を江戸屋といい、米屋や材木商などを営んでいた。
家の正面に塗籠の中二階、連子格子で、二階の窓の部分が虫籠窓(むしこまど)になっている。
明治以降につけたばったり(店棚)、馬つなぎの環などもあるが、
全体的に江戸時代の面影を良く残している建物で、万延年間以前の建物のようである。
少し歩くと「御馳走場」と書かれたところにでた。
ここは宿役人が関宿に出入りする大名や高僧、公家などを出迎えたり見送ったりしたところで、
大名行列ではここから本陣まで行列を組んで進んだ、という。
御馳走場の前には「開雲楼」と「松鶴楼」という関を代表する芸妓置屋の建物が残されている。
ここは関神社の参道の入口でもあり、奥に関神社の社殿がある。
「 関神社は関氏の始祖が紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧請し、江戸時代には熊野三所権現と呼ばれていたが、
明治時代に笛吹大神社や大井神社などを合祀して、関神社と名を改めた。
境内のナギの木は熊野に縁があるといわれている。 」
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中町は関宿の中心で、宿場の中枢的施設が集中している地区である。
中町には比較的建ちが高く、塗篭、虫篭窓を基調とした特色ある町屋が残っている。
関まちなみ資料館は、江戸時代末期に建築された町家を公開したものである。
鶴屋脇本陣(波多野家)は西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣ともいわれた。
二階避面の千鳥破風がその格式を示している。
川北本陣があった場所には石碑が立っているだけで、なにも残っていなかった。
また、その隣に「問屋場」があったことを示す石碑が立っていた。
その奥に山車倉があった。 江戸時代、山車が曳き出される夏祭りは関の名を有名にした。
「関の山」 という言葉は、関宿の山車が互いに華美を誇り、狭い宿内を練ったことから生まれたのである。
「 最盛期には十六台の山車があったが、現在でも四台が残り、四ヶ所に山車倉がある。 」
関宿のもう一つ本陣は 伊藤本陣で、現在は松井家が住んでおられる。
「 本陣の間口は十一間、建坪は六十九坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きである。
現在残っている建物は家族の居住に供された部分と大名宿泊時に道具置き場になっていたスペースである。 」
旅籠玉屋資料館は、江戸時代、 「 関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か 」 といわれた旅籠である。
「 玉屋が創業した時期ははっきりしないが、
寛政十二年(1800)には宿場絵図に記されているので、その頃には現在地で営業していたといえる。
道に面した主屋は、慶應元年(1865)建築の木造二階建てで、外観は漆喰で塗籠る形式であるが、
江戸時代の建物としては軒が高く、宝珠を形取った虫籠窓が印象的である。
旅籠の建物が一体になって残っているのは珍しく、江戸時代の様子を今に残す貴重な遺構として、
関町が持ち主の村山家から有償で譲受け、旅籠玉屋として修復したものである。 」
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玉屋に入ると土間(とおりどま)があり、左側に板の間の店の間と帳場がある。
右側の二室はこみせで、右側の二階部分が家族や奉公人の部屋だった。
たたきには竈などが置かれ、客に出す炊事が行われた。
左側の二階の部屋は客室として使われていたが、今は旅籠で使われた道具が展示されていた。
主屋に続く離れには整然と六部屋が並び、
部屋には玉屋十二代主人作という欄間彫刻や池田雲樵による襖絵があり、もっとも上等な間だった。
土蔵は元文四年(1739)の建物で、広重の浮世絵などが展示されていた。
関宿には大きな旅籠が十軒もあったというが、
こうした大旅籠では多いときには二百名近い旅人を泊めたと思われる。
玉屋に残っている宿帳に百名近い団体客の記録が残っている。
吉沢家は屋号を岩木屋といい、明治から大正にかけて酒造業と味噌醤油醸造業を営んでいた。
現在の建物は明治十七年の建築である。
「 中町の建物は二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多く、
二階壁面を真壁とした新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やかである。
また、間口が大きく、主屋の横には庭を設けて高塀を廻すのがみられるが、
その主屋や高塀群は意匠的にも質が高く、町屋の細部意匠としては漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多い。
漆喰彫刻の鯉の滝昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く、
細工瓦には職業に使う道具を意匠にしたものなどもあった。 」
その先の「関の戸」の看板がある深川屋は、代々菓子司である。
「 寛永年間に初代によって考案された餅菓子「関の戸」は関宿を代表する名菓として名高く、
京都御所から陸奥大掾の名を賜っている。
看板は庵看板という瓦屋根の付いた立派なもので、
看板の「関の戸」の文字は、京側が漢字、江戸側がひらがなになっていた。 」
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関宿のほぼ中心にある関郵便局の前には、「道路元標」がある。
「 関郵便局は天正二十年(1592)、徳川家康が休息したので、「御茶屋御殿」と呼ばれ、 江戸幕府初期には代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは藩役人の詰所が置かれた。 」
古い建物群の中で営業している百五銀行や郵便局は、周りに調和した建物になっていた。
その先右に入ると、福蔵寺がある。
「 正式名は清浄山福蔵寺という。
福蔵寺は、織田信孝の菩提寺として天正十一年に創建された寺で、境内に「織田信孝」の墓がある。
また、前述した仇討ち烈女といわれた小萬の墓もある。 」
地蔵院は、景観的にも歴史的にも関の町並みを特色づけるものとして、重要な要素である。
地蔵院は 「 関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう 」 という俗謡で名高い「関地蔵」が祀られている寺である。
道路に面したところに、「歴史の道」という大きな石碑と大正三年に建てられた「停車場道」の道標がある。
享保十六年(1731)に建てられた常夜燈には、 「 せきのちそう」 と刻まれている。
「 地蔵院は、天平十三年(741)、行基が当時流行った天然痘から人々を救うため、
この地に地蔵をきざんで安置したのが始まりである。
本堂に安置されている地蔵菩薩は我国最古のものとさせる。
地蔵院本堂は四代目で、元禄十三年(1700)、将軍の綱吉が母、桂昌院のため建立したものである。
隣の愛染堂は室町初期の建立で、享徳元年(1452)、愛染堂の大修理の際、開眼法要したのが一休禅師である。
本堂、愛染堂ともに国の重要文化財に指定されている。 」
境内には「一休禅師」の石像があった。
鐘楼の鐘は「知行付の鐘」と呼ばれ、寛文十一年(1671)に建立されたもので、
鐘楼の近くには「明治天皇御行在所」の石碑が建っていた。
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地蔵院の前に、江戸時代、鶴屋、玉屋とともに関宿の有数の旅籠だった会津屋(森元家)がある。
鈴鹿馬子唄に 「 関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足 」 と謡われた、
仇討ちの烈女・小萬は明和から天明にかけて、この旅籠山田屋(後の会津屋)で育ったといわれる。
現在は街道そばなどの食事処になっていて、昼飯にざるそばを食べたがおいしかった。 」
東海道は地蔵院のところでゆるくカーブしているが、地蔵院の東側が中町で、西側が新所町である。
「
新所町の大半の建物が仕舞屋ふうの平屋なので、全体としてはやや地味ではあるが、
落着きのある等質性の高い町並みになっている。
また、格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が新所の家々には比較的よく残されていた。 」
右側にある説明板の付いた家は松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた田中家である。
説明板
「 江戸時代の関宿の名物、特産品に、火縄(ひなわ)があったが、
田中家は松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた家で、今でも播州林田御用火縄所という看板が残っている。
火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用があったが、
道中の旅人が煙草などに使うためにも購入されたという。 」
その先の田中屋住宅は、大正初期に建てられた。
「 田中屋は代々庄太夫を名乗り、醤油醸造業を営んでいた家である。
三十尺の黷フ通し柱の母屋や煉瓦作りの麹部屋や煙突など七年がかりで建設されたという、
関町でも最も広荘な町屋のひとつである。
表構えは、間口十五間半の総格子で、連子格子の細工は凄いと思った。 」
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その先の関西山観音院は東海道の関宿の守り佛として、西国三十三ヶ所の霊場となった寺である。
「 観音院は天台真盛宗の寺院で、古くは関西山福聚寺といい、城山の西方にあった。
福聚寺は嵯峨天皇(830)の開創といわれ、関氏の祈願寺として栄えたが、戦国末期の兵災で焼失した。
寛文年間に現在地に移転し、お堂を建て、関西山観音院 と名称を変えたが、
東海道の関宿の守り佛として、後には西国三十三ヶ所の霊場となった。 」
寺の奥にある観音山は景勝地として知られていたという。
東海道に面したところに、大正十五年に建てられたという 「観音山公園道」 と刻まれた道標があった。
手前の井口家は南禅寺の屋号で、豆腐料理を名物にする料亭だったという。
連子格子、塗りごめの中二階がある建物で、文久年間(1861〜1865)の頃に建てられた、といわれる。
(注)再訪した平成19年4月には井口家の建物は建て直しの最中で、
見る影もない状態の中、多くの職人が働いていた。
観音院から西の追分までは百五十メートル。
江戸時代には民家や見附土居や御馳走場松並木が続いていて、西の追分にも常夜燈が置かれていた。
現在も民家は続いているが、常夜燈と見附土居は残っていない。
当時の面影を残すのは、高さ二メートル九十センチの「法悦供養塔道標」 のみである。
「 大きな石造りの法悦供養塔道標は、元禄十四年(1691)に、
谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したものである。
道標には 「南妙法蓮華経」 の下に 「 ひたりはいかやまとみち 」 と髭文字で刻まれている。
いかやまとみち(伊賀大和道)は、加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道である。 」
ここは伊賀大和道の追分であるとともに、関宿の京側入口でもあった。
現在は「西追分」と書かれた案内板のあるところが、国道25号と国道1号の分かれ道になっている。
平成十八年に西追分の案内板の近くに 「従是関宿」 という石柱が建てられた。
江戸時代には関宿はここで終わり、その先は険しい鈴鹿の山越えが待っていたのである。
「 関宿はこれまでに三回訪問したが、訪問の旅に変化があり、最初は観光化されない集落だったが、
店や喫茶店なども出来できて、かなり観光地らしくなった。 また、東海沖地震への耐震化と、
外観のみを残せば助成金が出る処置から、家を建て変える動きが加速しているので、
町並の景色が変わりつつある。 」
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