日永は伊勢街道の追分で、伊勢神宮の二の鳥居があり、その下に湧き水がある。
石薬師宿は泰澄が開創した石薬師寺が有名、佐佐木信綱の故郷でもある。
石薬師宿から庄野宿まではわずか三キロと大変短い。
庄野宿は安藤広重の庄野の白雨で有名で、記念切手にもなったところである。
(ご参考) 四日市〜石薬師 10.7キロ 徒歩約3時間
石薬師〜庄野 2.7キロ 徒歩約1時間
近鉄四日市駅の西側にある鵜森神社の周囲は、室町時代に浜田城があったところである。
「 浜田城は、現在の鵜ノ森公園のところに文明二年(1470)、 田原孫太郎景信の三男・田原(赤堀)美作守忠秀が築城し、 その後、藤綱、元綱など四代続いたが、織田信長の部将、滝川一益に攻略されて落城した。 なお、田原孫太郎景信は俵藤太秀郷の子孫とされ、隣の鵜ノ森神社には、俵藤太秀郷が祀られている。 」
江戸時代の四日市宿の京側入口は諏訪神社だった。
スワマエ表参道のアーケード街の端から東海道を歩き始める。
駅前の中央通りを横切ると浜田町であるが、四日市は戦災で中心街は焼失したので古いものは残っていない。
百メートル行くと小さな川があり、「阿せちばし」 と刻まれた円筒状の石碑が橋の脇に建っていた。
百メートル先の左側に四日市浜田郵便局があり、その手前にアルミサッシで囲まれた保育園がある。
アルミサッシの脇に 「 仏法山崇顕精舎 丹羽文雄生誕之地 」 という石柱が建っている。
「 奥にある寺は崇顕寺(そうけんじ)で、丹羽文雄はこの寺の住職の長男として生まれた。
戦後、銀座を描いた風俗小説で、一世を風靡(ふうび)し、親鸞や蓮如などの宗教小説で人間の深い業を描いた。
昭和五十二年(1977)には第一回の文化勲章を受章している文壇の重鎮である。 」
その先に「東海道」の道標があり、右折すると三百メートルで浜田城祉、鵜森神社、鵜の森公園にいける。
二百メートル行くと中浜田町に入り、古い家が立ち並ぶようになった。
このあたりは戦災を免れたのだろうか?
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道が右にカーブすると近鉄線のガードが見えてきた。
崇顕寺から近鉄のガードまでは約五百メートルで、ガードをくぐると南浜田町になる。
道は右にカーブし、その先の三叉路で近鉄内部(うつべ)線と平行する道に合流する。
左折してこの道を線路に沿って歩くと赤堀駅前に出る。
その先右側の連子格子の家の前には、小さな祠に納まった地蔵様が祀られていた。
古い街並みは続くこのあたりは赤堀集落で、
慶応年間(1865〜1868)頃には居酒屋や傘屋、種屋、畳屋など、多くの商家が立ち並んでいた、という。
右側に立派な古い建物があり、説明板に 「鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」 とある。
説明板
「 鈴木家は三百年近く続く家柄で、第四代の勘三郎高春が寛永三年(1750)、蘭学の盛んな長崎に赴き、
漢方を伝授され、 赤万能即治膏や 萬金丹 などの膏薬を製造、販売する旧家である。
この建物は嘉永五年(1852)に建てられたもので、がっちりした建物には歴史の重みが感じられる。 」
小さな落合川を渡ると前方が小高くなっている。
一段高い所にあるのが鹿化川で、川に架かる鹿化橋を渡る。
川が周りの土地より高いため、車が勢いをつけて上ってきた。
その先の三叉路は右のカーブする道に入る。
右手の小さな社殿は大宮神明社である。
説明板
「 垂仁天皇の時代に、倭姫命が天照大神を伊勢に遷す際、この社に一時留まったという言い伝えがあり、
名所記に 「 松林のうちに、天照太神の社あり 」 と記されている神社である。
前身は五百メートルほど西の岡山の地にあった「舟付明神」で、
四百年ほど前に炎上した後、現在の地に移ってきた。
当時の岡山は海に面していた。 」
二百五十メートル行くと信号交差点があり、右手に日永駅がある。
このあたりは相変わらず古い街並みである。
更に二百五十メートル程行くと右側に真宗高田派の興正寺がある。
「 興正寺は貞観六年(864)の創建といわれる古い寺である。
天白川がこの寺を囲むように曲がっているのは、滝川一益が堀の役目をするようにしたといわれ、
昔の人は、滝川堤と呼んでいた。 」
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その先の小高い所を流れているのが天白川で、橋を渡ると右側に両聖寺がある。
信号交差点で笹川通りを越えると、
右手に日永神社と南日永駅がある。
名所記に 「 ひなの村。 この村にも太神宮の御やしろあり 」 と記されている神社である。
神戸藩主本多家の崇敬が厚かったという日永神社は、昔は南神明社といった古い神社だが、
創建の時期は分からない。
明治四十年に周囲の神社を合祀して現在の名前になった。 」
境内の片隅にある石柱は、日永追分の神宮遥拝鳥居の傍らに立っていた道標である。
説明板
「 嘉永弐年(1849)に現在の道標に替えられた時、この道標が不用になり、
近くの追分神明社に移され、
明治の神社統合により追分神明社が合祀された際、道標もここに移されたと推定される。
石柱の正面に 「 大神宮いせおいわけ 」 、右側に 「 京 」 、左側に 「 山田 」 、
裏面に 「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 專心」 と刻まれていて、
明暦弐年(1656)に專心という僧侶の手で建てられたことが分かる。 」
隣にある長命山薬師堂の薬師如来像は、平安末期から鎌倉期のものといわれ、市の有形文化財である。
少し歩くと左側のたばこ屋の向かいの倉庫の横に、「日永一里塚跡」の碑が建っていた。
左側に一本立っている松の木は松並木の生き残りのようである。
それにしても、この道は車の行き来が多い。
平行している国道を避けた車が流入するからだろう。
泊町北交差点で、県道44号を横断すると、右側に 「 伊勢みそ、伊勢蔵しょうゆ 」 の看板を掲げた店がある。
その先で東海道は国道1号線と合流した。 日永神社からここまで千五百メートル位の距離である。
国道を百五十メートル歩くと三差路になる。
日永の追分交叉点で、ここが日永(ひな)の追分である。
「 日永の追分は伊勢参宮道との分岐点で、四日市宿と石薬師宿の間にあることから間の宿とよばれ、
周辺には、多くの旅籠や立場茶屋などが並んでいたという。
現在は自動車が行き交う三差路の真中になってしまっている。 」
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車に注意して三差路の真中に渡ると伊勢神宮の大きな鳥居がある。
桑名の一の鳥居に対し二の鳥居といわれ、鳥居は伊勢神宮の遷宮に合わせて、二十年毎に建て替えられる。
「 日永の鳥居は安永三年(1774)、久居出身の渡辺六兵衛という商人が江戸から京都に行く途中、 ここから伊勢神宮を遥拝するのに鳥居がないのは残念!!と、この土地を購入し、 江戸の伊勢出身者に募って建立したものである。 」
鳥居の脇には常夜燈や道標等が建っている。
嘉永弐年(1849)建立の道標には、 「 右 京大坂道 」、「 左 いせ参宮道 」 と刻まれている。
伊勢街道はかっては鳥居の下を通っていたが、道路改修の際、現在のように道がずらされ、
三角地は小公園になった。
鳥居の脇に湧き水があるので、降りて手元のペットボトルに注ぎ飲んでみたが、なかなか美味しかった。
「 江戸時代、この付近には数軒の茶屋があり、鈴鹿を目指す者も伊勢に向かう者も休憩して、身支度をしたり、腹ごしらえをしたので、たいへん賑わった。
また、団扇が特産で、特に夏には日永団扇を土産物として買い求める旅人が多かったという。 」
日永追分から右に分かれる道が東海道で、現在は国道1号線になっている。
左へ行くのは伊勢街道で、伊勢神宮に至る。
周りは変わっているが、道標の指示通り、右の道(県道407号)を進むと、近鉄追分駅がある。
近鉄内部線の踏み切りを渡ったら、すぐ左の細い道に入る。
曲がってすぐの右側に、 追分まんじゅう 岩嶋屋 がある。
江戸時代、追分茶屋の名物はまんじゅうだった。
「東海道中膝栗毛」の中で、 弥次さん喜多さんは、 「 名物の饅頭のぬくといのをあがりやあせ。
お雑煮もござります。 」 と、茶屋の客引きにあい、美人のいる鍵屋に入ったが、
居合わせた金毘羅参り途中の旅人と饅頭の食べ比べをすることになり、賭けに負けてしまう。
相手は手品を使い、食べた振りをしていたのが、後で分かり悔しがる、という話である。
岩嶋屋の追分饅頭は、天保時代から守り続けてきた酒酵母を使った酒饅頭で、
五十年前に三重県菰野町の店から分家して開業した店という。
江戸時代にここで売られていた饅頭とは製法は違うが、小粒でなかなかうまかった。
(注)岩嶋屋は後継者がいないということで、閉店したようである。
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岩嶋屋の前の道が東海道で、このあたりが小古曽集落である。
この先は静かな道が続く。
近鉄追分駅が700m行くと交叉点があり、直進すると左側に大蓮寺、続いて慈王山観音寺がある。
「
観音寺は禅宗の一派の黄檗宗の末寺である。
山門は四脚門形式で、屋根の両端に異国風のマカラを上げていた。
観音寺隣の細道奥にある小許(古)曽神社(おごそじんじゃ)は、
延喜五年(905)の延喜式神名帳に記載されている古社である。 」
その先の交叉点で右へ直角に曲がる。
三叉路で左折するが、そのまま奥に進むと願聖寺がある。
直角に曲がっているのは昔大きな寺の境内があったからといわれる。
道は右にカーブしている。交差点に出ると、正面に山中胃腸科病院が見える。
交差点を越えて病院に向かって進むと、小古曽三丁目の交差点に出る。
病院の前の二本の松は「街道名残の松」といわれ、昔は松並木だったという。
道の左奥は近鉄の内部駅で、東海道は県道407号が通る交差点を渡って、向こう側の道へ入る。
400m歩くと内部川岸に突き当たった。
「 内部川は古には三重川と呼ばれたようで、 万葉集の第九巻に、 「 わが畳 三重の河原の磯うらに 斯くしもがもと 鳴くかはづかも 」 (伊保麻呂) と詠われている。 」
江戸時代には橋があったというが、東海道道はここで終わっていた。
左側に見える国道1号の内部橋を渡って対岸へ出た。
対岸は四日市市采女町である。
「 采女とは宮廷で天皇に仕えていた給仕など雑用をする女官のことで、
地方豪族から未婚の美女がつかわされた。
地名の「采女」は雄略天皇に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得てこの地の名前にしたといわれている。 」
橋を渡り終えたら、右側の階段で下に降りて、国道の下をくぐりぬけ、直ぐに右折すると、
国道に平行する小道に出る。
青い橋で川を渡ると左側にマックスバリューの駐車場があり、駐車場の先で左折すると東海道に出る。
(注)現在はマックスバリューは閉店し、ないのかも?
東海道はここから杖衝(つえつき)坂を上り終えた先まで残っている。
采女集落には古い家はあまりないが すれ違ったバイクの郵便屋が何故か風景にマッチしていた。
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少し上り坂かと思える道を歩き、突き当ったところで右折し、そのまま進むと国道に出る。
それでは行きすぎるのでその手前の左の道に入った。
少し行くと道の正面の小高くなっているところに、金比羅堂が建っている。
金比羅堂の境内には日本武尊(やまとたてるのみこと)の墓と伝えられるものがあった。
ここから杖衝坂の登りが始まる。
古事記には、 「 日本武尊は幾多の苦難の末に東国を平定して帰途についたが、
伊吹山で荒ぶる神の祟りを受けて深手を負った。
大和に帰るため伊勢国に入り、このあたりまで来た時、急坂で登れなくなり、
持っていた剣を杖してようやく登ることができた。 」 とあり、
このことからこの坂を「杖衝坂」と、名付けた、とある。
また、「伊勢名勝志」にも、 「 杖突坂 采女村ニアリ官道ニ属ス、伝へ云フ倭武尊東征ノ時、
桑名郡尾津村ヨリ能褒野ニ到ルノ時、剣ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク・・・・ 」 と、
記述されている。
金比羅堂の前を過ぎると、杖衝坂は左右とカーブし、勾配が急に険しくなる。
杖衝坂の長さは二百メートル程であるが、高低差が五十〜六十メートルと、かなりの急坂である。
坂の中腹には、昭和四年(1929)に県が建てた「杖衝坂」の石碑があり、 その先に村田鵤州(かくしゅう)が建立した芭蕉句碑がある。
芭蕉の笈の小文に 「 貞亨四年(1687)、 美濃より十里の川舟に乗りて
むかしも桑名よりくはでと詠る 日長の里に馬かりて 杖つき坂をのぼるほどに 荷駄打ちかへりて 馬上がり
落ちぬ 」 、とあり、
「 歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな 」 という季語がない句を詠んでいる。
句碑を建てたのは、村田鵤州で、宝暦六年(1756)のことである。
芭蕉の句は 「 歩いて登ればこんなしくじりをしなかったのに、庶民(芭蕉を指す)の身ながら、
おこがましくも馬に乗ったばっかりに、急な坂で荷鞍が打ち返り、落馬してしまった。
この坂は遠い昔、景行天皇の皇子、日本武尊が重い病をおして、都に帰りたい一心から、腰の剣を杖にして、
吾が足三重に曲がる程疲れたとおっしゃりながらも、あえぎあえぎ越えられたのだった。
歩いてのぼればよかったのにもったいないことをした。 」 という意である。
その先にある二つある井戸にはふたがかけられているが、四季を通じて湧き出る井戸で、
東海道の旅人が渇きをいやし、近隣の家々では朝夕この井戸の水を求めてやってきた、という。
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日本武尊は、更に少し進んだとき、 「 吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり 」 と言い、
その地を 「 三重 」 と言うようになったと伝えられている。
これが三重郡(県)の由来である。
坂を登って行くと、左側に血塚社がある。
「 日本武尊が坂をようやくの思えで登り終え、血止めをしたところといわれる。
前述の伊勢名勝志にも 「 側ニ血塚アリ 尊ノ足ヨリ出デシ血ヲ封ゼシ処ナリト云フ 」 と書かれている。
この坂は自動車をはじめ歩行者にも難所だったので、昭和の初期、丘陵の北側中腹にゆるやかな坂道を新設し、
これが現在の国道一号となった。 」
坂を上りきる手前から右側に自動車が行き来するのが見え始め、上りきった所で国道1号線と合流した。
「采女一里塚」の碑は道路右側の出光のガソリンスタンドとマルエイ設備の間にあった。
道の左側にある、豊冨稲荷神社は、寛治弐年(1088)の創建で、参勤交代の大名が通行する際
庶民や旅人が迎えたための土下座場があったという神社である。
五百メートル程行くと采女南交差点があり、交差点を左折して行くと国分の集落があり、
西の畑の中に「伊勢国分寺跡」がある。
そこには寄らず直進する。
采女南交差点から四百メートル程歩くと鈴鹿市に入る。
東海道は小谷バス停手前の三叉路で、
国道1号線と別れて左の道に入る。
右側に二つのお堂がある前を通り、少し歩くと下り坂になり、木田町大谷交叉点で国道1号線に合流する。
この間は四百メートルである。
信号手前の右手の地下道を使って国道の反対側に出ると、右手は自由が丘団地である。
国道の歩道を百メートル歩くと団地が終わるあたりから道は左にカーブを始める。
浪瀬川を渡ると、国道は上りながら、大きく左にカーブする。
東海道はカーブを始めるところの右側にある細い道である。
団地の端から百五十メートル程、ここが石薬師宿の入口である。
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安藤広重の「石薬師宿」の絵は、石薬師寺と山を背景に、数軒の藁屋根の家が描かれている。
「 石薬師宿は元和弐年(1616)に四日市宿と亀山宿の間が長いため作られた新宿である。
幕府領(天領)であり、宿場ができるまでは高宮村と呼ばれていたが、
宿場ができても総家数は二百四十一軒、宿内人口は九百九十人と宿場の規模が小さかった。
本陣は三軒あったが、脇本陣はなく、時代で数は変わるが旅籠が十五軒に対し百姓が百三十軒で、
石薬師宿は農村的な性格を有していたのである。 」
カーブする国道の手前で、右側の細い道に入ると「東海道石薬師宿」の石碑が建っている。
その傍らに「信綱かるた道」と称して、佐々木信綱の歌の色紙が掲示されていた。
「 四日市の 時雨蛤(しぐれ)日永の 長餅の 家土産(いえずと)まつと 父は待ちにき 」
その先の左側には、延命地蔵が祀られている、 北町地蔵堂がある。
祀られた経緯は分からないようだが、江戸時代からのもののようである。
ここから少しの間は上り坂で、上りきったあたりから石薬師宿で、古い家が残っていた。
右側に大木神社の鳥居があるが、式内大木神社の社殿は二百メートル程奥にある。
「 大木神社は延喜式に記載されている古い神社で、
蒲冠者といわれた頼朝の弟・源範頼とゆかりのある神社である。
東京遷都の時には明治天皇の使者が訪れ、玉串代を納めている。 」
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大木神社の境内には佐々木信綱の歌碑がある。
「 大木神社に詣で侍りて 文学博士源信綱 」 に引き続き、
「 月ごとの朔日(ついたち)の朝 父と共に もうでまつりし産土(うぶつち)のもり 」、
「 冬をおへる 森木木のかけらみて あしきまつらふ神の恵を 」
という歌が刻まれていた。
街道に戻りまた歩き始める。
右側に立派な建物が見えてきたが、本陣だった小澤家である。
説明板
「 昔はもっと広い屋敷だったというが、国学者・萱生由章はこの家の出で、
元禄の宿帳には赤穂藩浅野内匠頭の名も見える。 」
旅籠は本陣を取り囲むように建っていたようで、斜め前には「問屋」の園田家があった。
天野記念館はタイムレコーダーで有名なアマノ(株)の創業者がふるさとのために建てて贈ったものである。
石薬師小学校のあたりに二軒の本陣はあったようであるが、案内表示がないので分からなかった。
隣の建物は石薬師文庫である。
「 佐佐木信綱が故郷に贈った「石薬師文庫」で、佐佐木幸綱は佐佐木信綱の孫にあたる。
佐佐木信綱は、明治から大正、昭和にわたり歌人、歌学者として、万葉集の研究にあたった人物である。
」
建物前の四角な石碑には 「佐佐木信綱」と「佐佐木幸綱」の歌が刻まれている。
佐佐木信綱は石薬師文庫を贈るにあたり、
「 これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために 」 という歌を詠んだが、
建物の右側に、地元の人達が昭和四十年の信綱死後二年祭に、上記の歌を刻んだ記念碑を建てている。
記念碑の前に道路元標、二人の歌碑の脇には「道路元標」を記念した石碑が建っていた。
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石薬師文庫の左側にある連子格子の二階家が、佐々木信綱の生家である。
信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごした。
家の前には佐々木信綱の歌碑がある。 その隣には佐佐木信綱記念館があった。
その先左側にある浄福寺は、真宗高田派の寺院で、室町時代の開創。
ご本尊は阿弥陀如来で、佐佐木家の菩提寺だった。
山門入口の左側には佐佐木信綱の父、佐佐木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれている。
道はその先で左にカーブし、その向こうに国道1号を跨ぐ瑠璃光橋があり、 橋を渡ると右側に石薬師寺がある。
東海道名所図会に 「 高宮山瑠璃光院石薬師寺 」 とある寺で、 本尊は石仏薬師如来で、菊面石に彫刻してある、といい、 石薬師宿という名は全国的に有名なこの寺から付けられたと伝えられている。 」
神戸城主の一柳監物により再建された本堂は、桁行三間、梁行四間の寄棟造り、本瓦葺きで、 一間の向拝付けである。
石薬師寺の由来記
「 今から約千二百年前の聖武天皇の神亀三年(72)に泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのが始まり。
嵯峨天皇の弘仁三年(812)に弘法大師が自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされた。
嵯峨天皇が勅願寺にしたので、堂坊も整い、塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達した。
天正三年(1575)の織田軍による兵火で、諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したが、本尊の薬師如来は難を免れた。
神戸城主・一柳監物直盛が寛永十一年(1626)に諸堂諸坊を再建された。 」
境内には佐佐木信綱が昭和七年八月にこの寺で詠んだ歌碑があった。
「 峰時雨 石薬師寺は広重の 画に見るがごと みどり深にし 」
その他にも西行法師や一休禅師、松尾芭蕉の歌碑が建っていた。
「 名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり 」 (一休禅師)
「 柴の庵に よるよる梅の 匂い手やさしき方もある 住いかな 」 (西行法師)
「 春なれや 名もなき山の 薄霞 」 (松尾芭蕉)
これで石薬師宿は終わる。
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石薬師宿から庄野宿まではわずか三キロと大変短い。
石薬師寺の山門を出て、まっすぐ(東方面) 行くと、
左側に 「蒲冠者範頼之社」 と書かれた石柱が建つ神社がある。
蒲冠者範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問に優れていたので、
それらの願望成就の神様として祀られてきたもので、地元では「御曹子社」と呼ばれている。
神社の南約六十メートルのところに、「蒲桜」と呼ばれる山桜がある。
伝聞によると、 「 寿永年間(1182〜1184)の頃、源範頼が平家追討のため、西に向かう途中、
石薬師寺で戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにさしたところ、芽を出してこの桜になった、
といわれる。
東海道名所図会に 「 名馬生食の出し所はここならむとめぐりたまひ 馬のむちを倒にさしたまふ
後に枝葉栄へり 」 とあるのが、この桜だという。
蒲桜は、逆桜といわれる、ヤマザクラの一変種の学術上珍しいもので、
白色から淡紅色の花が見事というので、見てみたいと思った。 」
街道に戻り、庄野宿に向かうと寺の前からなだらかな下りになっていた。
坂が終わると左に古い家があるところで、道が二又になっている。
左の道を行くと川に突き当たるが、江戸時代にはここに土橋が架かって進めるようになっていた。
今は橋と道がないので、二又に戻り、右の坂道を登ると蒲郷橋がある。
蒲郷橋を渡ると左側に大きな石標と常夜燈が建っていた。
ここは石薬師一里塚跡だが、当時の面影はなかった。
説明板
「 ここは石薬師の一里塚があったところで、江戸時代には榎の木が植えられていたが、
昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れてしまった。 」
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東海道はJR関西本線の線路を斜めに横切る形で道ができていたが、その道はなくなっている。
JRの線路下のガードをくぐって、三叉路を右に曲がり、左手に田圃が展開する農道のような道を行く。
道は左にカーブし国道1号線に沿って進むが、川の手前で、国道1号下のガードをくぐる。
その先道は左、右とカーブする。
JR関西線の踏切手前の三叉路で、左へ曲がって椎山川を渡る。
橋を渡ると、 「 伊勢国一之宮 椿大神社 」 に行く道(上野町交叉点から県道27号になる道)の陸橋下をくぐる。
200m歩くと国道1号線に合流する。 この道が東海道とはいえ、少し分かりづらかった。
鈴鹿川を左手に見ながら国道を歩くと加佐登町交差点で、国道はカーブしながら上っていく。
庄野宿(しょうのしゅく)の入口は、
一キロ先の庄野北交差点で右折し、最初の信号を左折するとある。
ここで、日本武尊の白鳥塚などに寄り道する。
加佐登町交差点で国道と別れて右の道に入り、
JR関西本線の踏切を越えて、その先にある五差路に出る。 このあたりは加佐登集落である。
左折したところにはJR加佐登駅があるが、右の左にカーブする道(県道637号)を行き、
五差路の加佐登駐在所前交叉点で右折して、椎山川を渡り、二又で左に道を直進すると加佐登神社がある。
五差路から七百〜八百メートルである。
この地は景行天皇が行在所を置いた所で、高宮の里ともよばれているところである。
加佐登神社由来記
「 ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい、
ヤマトタケルが最期まで持っていた笠と杖をご神体として祀った神社で、
日本武尊、天照大御神を祭神としていたが、
明治になり、他の神社が合祀され、現在の名前になった。 」
神社の裏には白鳥塚古墳がある。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓を造り葬ったところ、
タケルの魂は白鳥となって大和へ向かって飛び立って行った という伝説のある。
「 白鳥塚古墳は、東西七十八メートル、南北五十九メートル、高さ十三メートルの三重県下最大の円墳で、
墳丘には葺き石が一部残っている。
なお、日本武尊の墓は各地にあり、この先の亀山市の能褒野にも御陵がある。 」
道を更に行くと鈴鹿フラワーパークの先に、荒神山観音寺がある。
「 荒神山観音寺は寛治元年(1087)に創建された寺で、真言宗御室派に属し、本尊は十一面観世音菩薩。
往古は神事山といったが、のち、高野山の一寺の名をとって、高神山に改めた。
春日局がこの寺に銘入りの吊り鐘と五体の仏像を寄進している。
奥の院の三宝荒神は春日局と異母弟の順海上人が礼祭りしたものである。 」
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奥の院の隣に「吉良の仁吉碑」が建っていた。
「 慶応弐年(1866)四月八日、博徒の神戸の長吉と桑名の穴太徳の縄張り争いから、
寺の裏山で死闘つくした事件が起きた。
後の世になり、吉良の仁吉が神戸の長吉を助けて男を挙げたという、浪曲、荒神山の血煙り となり、
この寺を訪れる人が増えた。 」
境内には 「 右下久保、左深○道 」 と刻まれた道標があった。
ここまでの往復は五キロ程で、所要時間は約一時間半。
先程の五差路に戻り、加佐登駅前を通って保育園の先で左折して踏み切りを渡る。
川を越えて、五百メートル程行くと
庄野宿の入口を示す 「庄野宿」の石碑と説明板が建っていた。
「 庄野宿は江戸から四十五番目の宿場だが、宿場が出来たのは寛永元年(1624)と一番遅い。
天領(幕府直轄地)だったこの地に、鈴鹿川東の古庄野から移住させられてきた人を合わせ、
七十戸で宿場を立ち上げた、という。
草分け三十六戸、宿立て七十戸 といわれる言葉に、宿場作りの難航振りがうかがえる。
宿場は南北八町(約1000m)の長さで、加茂町、中町、上町からなっていた。
総家数二百十一軒、宿内人口は八百五十五人、本陣は一軒、脇本陣が一軒、 旅籠は十五軒しかなかった。 」
庄野宿を浮世絵で描いたのが、安藤広重の 「庄野の白雨(にわかあめ)」 である。
東海道五十三次中の傑作とされ、庄野宿を 「 雨の中を急ぐ旅人と薮の中の数軒の人家 」 という構図で、
描いている。
宿の入口の石柱から上り坂になっていて、道の両脇には古い家が残っている。
広重の「絵」は斜めに矢のように降り注ぐ夕立、あわてて先を急ぐ旅人だが、
この後、歩いて行ってもこのような急な坂道はなかった。
空想によるものか?? 実在する坂を斜めにして描いたのか?? 疑問が残った。
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少し先の左側にある平成十年に公開された庄野宿資料館は、江戸時代に油問屋を営んだ小林家の跡である 。
立派な連子格子の建物は屋敷の一部を創建当時の姿に復元し、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料を展示している。
その先の民家の壁に、「問屋場跡」を表示した説明板があった。
「 庄野宿は四日市宿と亀山宿間が長かったので新設された宿場だが、
石薬師宿からわずか三キロと短いことに加えて、伊勢詣の旅人達は手前(東)の日永追分やこの先(西)の関宿で
伊勢街道に入ってしまうため、通行量が少なく、宿泊者は三分の一と大変少なかった。
問屋場は御伝馬所ともいい、問屋二名、年寄四名、書記(帳付)、馬差各四十五名が半数で交替してつめていた。
宿場の経営は難しかったようで、幕府は宿場の不振を理由に文化十二年(1815)、石薬師と庄野の二宿に対し、
配備しなければならない人足百人、 伝馬百疋の定めを半減させ、
人足五十人、伝馬五十疋に削る処置を行っている。 」
右側の庄野集会所の前に、「庄野宿本陣跡」の標柱が建っている。
標柱には 「 本陣は寛永元年(1624)には沢田家が担当し、
間口十四間一尺,奥行二十一間一尺、二百二十九坪の家だった。 」
隣りに、 「 距津市元標九里拾九町 」 と書かれた「道路元標」が建っていて、
これによると、亀山へは二里三町である。
交差点の右角に「高札場跡」の表示があったが、江戸時代には本陣の近くに高札場があったのだろうか??
交差点を越て少し行った右側の床屋の壁に「郷会所跡」の表示板があった。
「 郷会所は助郷の割当を受けた各村の代表(庄屋や肝煎)が集会する場所だった。
江戸後期になると、助郷人馬の割当が多くなり、減免陳情のための会合が繰り返された。 」
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その先、右奥にお寺がちらりと見えたが、
通り過ぎると右側に「延喜式内川俣神社」と彫られた大きな石柱があり、
常夜燈には「天保十五甲辰歳小春」と刻まれていた。
鳥居をくぐって川俣神社に入ると、右手では巨木に育ったスダジイが存在感を示していた。
説明板
「 スダジイはブナ科の常緑樹で、樹齢三百年、高さ十一メートル、幹周りのの古木で、
県の天然記念物に指定されている。 」
街道に戻り、少し行くと、庄野宿の入口にあったのと同じ、庄野宿の石柱が現れた。
その先は汲川原町で国道と交差。 立体交差になっている。
庄野宿の石柱が京側の入口で、ここで庄野宿は終わりのようである。
あっけない終了だった。
亀山宿までは次回として加佐登駅に戻る。
「
本日は近鉄四日市駅から寄り道を含めて約十五キロ歩いた。
加佐登駅に着き、ダイヤを見ると一時間に一本しかない。
少し待つと、二両連結の電車が来たが、この路線は単線なので、
すれ違いで二十分遅れて名古屋駅に到着。
関西本線の本線というのは名ばかりだと思った。
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