熱田から桑名の七里の渡し(28.0キロ)は、三時間〜四時間の船旅だったが、
それを嫌う人は佐屋街道を利用した。
明治維新による街道の廃止で七里の渡しもなくなったので、東海道の旅は
国道1号または26号を歩くか、近鉄の列車で移動するかの方法をとるしか方法はない。
桑名宿は桑名藩十一万石の城下町であると同時に東海道と伊勢街道の入口として賑わっていた。
四日市宿は伊勢参詣の分岐点であり、陸海交通の要地で商業の盛んな土地だった。
(ご参考) 桑名〜四日市 12.5キロ 徒歩約4時間10分
慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、宮宿と桑名宿の間は、海上七里を船で渡る渡船と定められた。
これを七里の渡しと言った。
右の絵は「尾張名所図会」であるが、宮宿の七里の渡し場の様子が描かれていて、
道沿いに並ぶ旅籠などの家や岸につながれた船、道を行く交う人の多さから、当時の賑わいが分る。
尾張藩は、東西に浜御殿、浜鳥居の西に船番所、船会所を設け、船の出入りと旅人の氏名を記録していたという。
しかし、天候によっては船が出ない時もあり、また、海路を船で行くことを恐れる人達や大名行列があった。
そうした場合は佐屋街道か美濃路の陸路を利用した。
佐屋街道は女性や子供の旅人が多く利用したことからひめ街道とも呼ばれていた。
佐屋街道は熱田から佐屋宿まで歩き、そこから桑名宿へは川路三里の渡船に乗った。
船便を避ける人は、美濃路を利用して垂井に出て、そこから中山道に入り、京に行くルートが利用された。
七里の渡しと佐屋街道、美濃路に分かれるのは、伝馬町の三叉路に残る道標のところである (右写真)
宮宿には、七里の渡しの船番所が設けられ、行き交う船の管理を行っていた。
渡し船は七十五隻、小渡し船四十二隻程度だったようである。
明治に入り、東海道制度は廃止となり、東海道宮の宿から桑名へ渡る七里の渡しもなくなった。
また、伊勢湾台風の到来で、このあたりの様相はすっかり変った。
七里の渡しの船着場は堀川と新堀川の合流点にあり、船着場の遺構の一部が残るだけである (右写真)
東海道の旅は国道1号または26号を歩くか、地下鉄で名古屋駅に行き、近鉄で桑名駅にいくか決めなければならない。
江戸時代、尾張国から桑名にくるには海路の七里の渡しによるか、川路の佐屋街道を利用するかしていた。
桑名市船馬町に、「史跡七里の渡し」 の石標が建っている。。
ここが江戸時代、宮宿を出た七里の渡しの帆掛け舟が着岸したところで、
伊勢湾から揖斐川沿いに少し入った場所になる。
「 慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、
宮宿と桑名宿の間は 「海上七里を船で渡る渡船」と定められた。
これを七里の渡しといい、この区間を三時間から四時間で運んだ。
京や大阪に向かう人の他、お伊勢さん詣の人の利用が多かったので、その賑わいはいかばかりだっただろう?
明治に入り東海道が廃止になってからも、揖斐川上流の大垣との間に人荷の流通があり、
船着き場は客船や荷物船の発着場となっていたが、
鉄道の開通とトラックの登場で、次第に利用されることがなくなった。
更に、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事のため、
渡船場と道路の間に防波堤が築かれて、旧観は著しく変化し、港としての機能は全く失われた。
昭和六十三年から平成元年にかけての整備修景工事により、コンクリートの堤防で囲まれ、
手前の右側の舟溜まりから出る船のための水門があるという構造になってなった。 」
船着き場の跡からは外の風景は見渡せないが、伊勢神宮遙拝用の一の鳥居が建っている。
「 江戸時代の天明年間(1781〜1789)に、伊勢国の到着地にふさわしい鳥居をと願い、
矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して建てたのが鳥居の初めである。
明治以降は伊勢神宮の式年遷宮のたびに、伊勢神宮の宇治橋外側の鳥居(一の鳥居)を削って、建て直されている。 」
その脇にある常夜燈(常燈明)は江戸や桑名の人達の寄進によって天保四年(1833)建立されたもので、
以前は鍛冶町の東海道筋にあったが、交通の邪魔になるのでここへ移築されたという。
昭和三十七年の伊勢湾台風で倒壊した後、元のままの台石に、
安政三年(1856)銘がある上部を多度大社から移して再建した。
安藤広重の「東海道・桑名」の絵は、桑名城を背景に、七里の渡しの帆掛け舟が描かれている。
「 桑名宿は東海道五十三次で四十二番目の宿場で、旅籠では宮宿に次ぐ二番目に多い宿場だった。
元禄十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内の総家数 二千五百四十四軒、宿内人口 男子四千三百九十人、女子四千四百五十八人、計八千八百四十八人で、本陣が二軒、脇本陣が四軒、旅籠は百二十軒あった。 」
江戸時代の旅人になった気分で、鳥居から伊勢神宮の方角を拝んでから、街道にでて、東海道の旅を再開した。
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北の方に少し行くと「料理旅館山月」があるが、ここが「駿河屋脇本陣」を営んでいた家で、小さな石標が建っている。
隣の「料亭船津屋」は江戸時代に大塚本陣があったところである。
(注)料亭船津屋は、現在は結構式場の 「 THE FUNATSUYA 」 に代わっている。
船津屋は泉鏡花の名作「歌行燈」のモデルになったことで有名である。
「 泉鏡花は明治四十二年(1709)十一月、講演の為、桑名に来て船津屋に泊まった。
この時の印象を基に、小説「歌行燈」を書いている。
船津屋は格式の高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、
裏河岸からかわうそがはい上ってきて悪さをするという噂話が登場する。 」
建物を囲む塀の一角に、久保田万太郎の句碑があった。
「 かはをそに 火をぬすまれて あけやすき 万 」
「 昭和十四年(1939)、久保田万太郎は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲、歌行燈を書き上げたが、 その際に船津屋主人の求めに応じて詠んだものといわれる句である。 」
船津屋の裏側に回った先に住吉神社がある。
神社前の二基の石塔は材木商達が寄進したもので、「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれている。
「 桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、
十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達した。
住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り、
浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立した。 」
境内には山口誓子の句碑がある。
「 水神に 守られ冬も 大河なり 誓子 」
住吉神社から見ると揖斐川と長良川が流れ、その先で一つになって流れていく様は巨大で竜を感じさせる。
快晴の今日は臥竜のように穏やかな風景を演出していた。
風景を見ていると時間が刻々と過ぎ、自分の存在が小さく感じられた。
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七里の渡しに戻り、東海道を南下する。
船着場から春日神社あたりまでは、船宿や旅籠があった所である。
丹羽本陣は左側の後藤商店やめん処川市のあたりにあったようである。
その先の右側には「泉鏡花の歌行燈」と書いたうどん屋があり、 その先の交差点の左角にある明治四年(1871)創業の柿安本店は文明開化の牛鍋屋由来の老舗である。
ここで桑名城址に立ち寄る。
交差点を左折すると多聞橋と舟入橋があり、
それらを渡ると左手に鹿の飾りの兜を被った本多忠勝の大きな銅像がある。
「 本多忠勝は徳川四天王の一人で、慶長六年(1601)に桑名十万石に封じられると四層六重の天守をはじめ、 五十一基の櫓と四十六基の多聞が立ち並んだ近代城郭の桑名城を建てた。 また、葦が生えた湿地に城下町を整備したといわれる桑名の基礎を築いた人物である。 」
ここは桑名城の三の丸跡で、右折して狭い道を進み左折すると、 鎮国守国神社がある。
「 桑名藩はその後本多氏は移封され、二代目以降は松平氏一族に変った。
鎮国守国神社は寛政の改革の老中、松平定信の息子が城内に設けた神社で、
桑名藩主になった先祖の松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀っている。 」
神社を右折して進むと桑名城の本丸跡である。
桑名城の天守閣は元禄十四年(1701)の桑名の大火で焼失し、以後再建なされなかった。
その先の小高いところは「辰巳櫓」の跡である。
「 辰巳櫓は三重櫓で、天守の代わりをしていたが、大政奉還の後の慶応四年(1868)、 明治政府軍により桑名城を焼き払われ、建物は灰燼に帰した。 」
桑名城の跡は全体で、「九華公園」となっているが、
無数の堀の中に空地があるという感じで、ここに「水城の桑名城」があった姿は想像できなかった。
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中橋を渡って出たところは東海道の春日神社前で、青銅の鳥居が建っていた。
「 春日神社は桑名宗社ともいわれる神社で、
旧桑名神社(祭神三崎大明神)と中臣神社(祭神春日大明神)を合祀した桑名の総鎮守社である。
春日神社門前の旧東海道に面して建つ青銅鳥居は高さ七メートル六十センチの大きなもので、
寛文七年(1667) 桑名藩七代藩主・松平定重が辻内善右衛門に命じて建立したもの。
その後、何度か天災や戦災に遭ったが、その都度修復されて今日に至っている。 」
鳥居の左側前の大きな石柱は「しるべ石」といわれるもので、江戸時代の迷子の捜索板である。
「 しるべ石の左に 「 たづぬるかた 」 と右に 「 おしへるかた 」 と彫られていて、 それぞれの石面に「尋ね人の名前と特徴」と「見つけた場所」を書いて貼り付ける、というしくみだった。 」
鳥居の先に楼門(随神門)がある。
天保四年(1833) 十五代藩主・松平定永により、建立されたが、昭和二十年の空襲で焼失した。
現在の門は平成七年(1995)に再建されたものである。
神社の境内には文化三年の常夜灯や明治天皇に供した御膳水の井戸がある。
また、山口誓子と二川のぼるの句碑があった。
「 山車総(す)べて 鎧(よろい)皇后 立ち給う 」 (山口誓子)
「 山車の燈に 夜は紅顔の 皇后よ 」 (二川のぼる)
山口誓子の句は春日神社の石取祭>(いしとりまつり)を詠んだもので、皇后とは神功皇后である。
「 石取祭の起源は江戸時代初期に神社の祭場へ町屋川の石を奉納した神事といわれ、
毎年八月第一土曜日の午前零時から日曜日深夜まで行われる。
町内毎に大太鼓一張と鉦を四〜六個持つ山車があり、それが三十数台寄り集まって、
東海道などを練り歩き、全車が桑名宗社へ渡祭(とさい)を行うまでの二日間、
おはやしを打ち鳴らし練り歩く。
その音のうるさいことから日本一やかましい祭といわれる。 」
春日神社の先には、「桑名御坊」と称せられる本統寺がある。
「 本統寺は東本願寺桑名別院で、徳川家康や明治天皇も宿泊した由緒ある寺院である。
慶長元年(1596)、本願寺第十二代世教上人により開創され、開基は同上人の長女(教証院)である。
延宝年間の火災で堂宇が全て焼失したが、桑名の長者、山田彦左衛門の寄進で再建された。 」
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本統寺境内には、芭蕉句碑がある。
「 冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす 」
松尾芭蕉は 野ざらし紀行 の初旅の折この寺に宿泊している。
「 当時の住職は琢恵(たっけい)で、古益という俳号を持ち、北村季吟門下の俳人でもあった。 」
東海道に戻ると、左側が掘割があるところに「歴史ふれあい公園」と名付けられたポケットパークがある 。
この堀は桑名城を囲む城壁の一部で、
正面の堀川東岸の城壁は、川口樋門(揖斐川に出る)から南大戸橋に至る約五百メートルが残っている。
小公園を過ぎると道は突き当り、左側にあるのは 南大手橋で、以前はもう少し南にあったようだが、
桑名城の出入口のなっていたところである。
東海道はここで右折する。
100m行くと右側に石取会館があり、入場無料で石取祭のビデオの上映や祭に参加する山車が見られる。
京町交差点の手前の左側には桑名市博物館(入場無料)があり、その壁面に石の道標があった。
「右 京いせ道、左 江戸道」 と書かれた石の道標で、下の方は欠けているように思えたが、「 東海道に置かれていたものを移設した。 」 とあった。
県道613号を横断して、交差点を渡る。 真直ぐ行くと変則交叉点で、右側に赤い建物の 毘沙門天堂がある。
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その先に小公園の「京町公園」あるが、ここが、京町見附跡である。
「 見附とは番所のようなもので、ここで桑名城と宿場に入る人を監視していた。
江戸時代の東海道はここで左折し、更に左折しそして右折するという「鉤型」になっていた。 」
鉤型の道はなくなっているので、毘沙門天堂まで戻り、曲がってよつや通りに入る。
吉津屋(よつや)町には仏壇屋が多い。
横断歩道の信号を押して向こう側へ渡ると、少し先の右側に桑名市勤労青少年ホームがある。
説明板吉津屋見附跡」
「 江戸時代の「吉津屋見附」があったところである。
吉津屋門があり、桑名藩士が詰める番所が置かれていたので、吉津屋見附と呼ばれたが、
後に鍛冶町として独立したので、鍛冶門に変わった。 」
この先は城下町や宿場町特有の「鉤型」になっているところである。
このあたりは鍛冶町で、勤労青少年ホーム前を右折し、その先で左折すると右側に、
桑名名物の佃煮のしぐれを販売している貝増商店 本店があった。
「 桑名の名物の蛤を土産にと願う声が高まり誕生したのが、蛤を溜まり醤油で煮て作った佃煮である。
「 桑名の殿様 しぐれで 茶々漬 」 と民謡にも唄われるほどの人気ぶりだった。
東海道名所図会にも 「 初冬の頃美味なるゆえの時雨蛤の名あり、溜まりにて製す 」 とあるが、
時雨蛤という風情ある名前は、芭蕉門下の各務至考の考案らしい。 」
その先の四差路を左へ曲がると民家の前に、「鍛冶町常夜燈跡」の説明板があった。
「 常夜燈は七ッ橋近くにあり、天保四年(1833)、 江戸、名古屋、桑名二百四十一人の寄進で建てられた多度神社の常夜燈で、 戦後道路拡張で七里の渡し跡に移した。 」
先程、七里の渡し場で見た常夜燈は、ここにあったのである。
七ッ橋は埋められて、今はない。
このあたりは入江葭町で、三つ目の道(大通りに出る手前の道)まで歩き、右折し、道を横断すると新町に入る。
右側の教宗寺の先に、 泡洲崎八幡社があり、「 右 きやういせみち 左 ふなばみち 」 の道標がある。
道標は天保十三年(1842)に「新町北端」に建立されたものといい、真中で折れていたので、
折れた後、保存のため、ここに移設保管したのだろう。
「 桑名は、江戸時代以前は町屋川の流れにより、自凝(おのころ)洲崎、加良(から)洲崎、
泡(あわ)洲崎 の三洲に分かれていた。
この付近は泡洲崎といわれ、 泡洲崎八幡社はその鎮守社だったといわれる。 」
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東海道沿いのこの周辺には寺院が建ち並んでいる。
本多忠勝が桑名城の備えとして寺院を配置したといわれる。
光明寺には「円光大師遺跡」の石碑が建ち、七里の渡しの海難事故で亡くなった旅人の供養塔がある。
道一つ向うの光徳寺には、万古焼創始者の沼山弄山やその後継者の加賀月華の墓がある。
その隣が光徳寺で、県道613号の反対側(東側)には法盛寺がある。
光徳寺の隣の十念寺前には 「桑名藩義士森陣明翁墓所」 という、ばかでかい石柱が建っていた。
説明板
「 森陣明は、桑名藩主・松平定数の京都所司代在任中公用人として勤皇佐幕に心をくだき、
戊辰戦争には公に従い函館に立て篭もった。
敗れてのち、朝廷より反逆の首謀者を出せと藩へ命じられたので、
彼は自ら進んで全藩に代わって出頭し、東京江川の藩邸で死んだ。 」
寺の裏にある彼の墓には 「 うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立 」 という、彼の辞世の句碑が建っている。
右側の壽量寺を過ぎると、県道401号の大通りに出る。
右手に伝馬公園が見えるが、東海道は左斜めの道である。
左側に長円寺、報恩寺があり、寺の高い塀に沿って進むと、萓町交差点からきた、県道613号に合流した。
道の反対には日進小学校、日進幼稚園があるが、ここは 七曲見附の跡である。
江戸時代にはここに桑名城の七曲門があり、番所があったのである。
隣の顕本寺には四日市代官、山田奉行などを務めた水谷九左衛門光勝の墓がある。
東海道はこのあたりで、鉤型になっていた。
鉤型は残っていないので、右側を歩き、日進小学校前交差点に出たら、右折する。
東海道はここから矢田の火の見櫓まで直線の道である。
このあたりは東鍋屋町で、200m先の右奥にあるのは、天武天皇社である。
(注)天武天皇社の奥は伝馬公園で、県道421号には伝馬橋バス停がある。
天武天皇社の社殿は質素であるが、鬱蒼とした樹林に囲まれて深閑としていた。
「 天武天皇社は、壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が一時を過ごしたとされる場所に、
後年になって創建された神社である。
当初は隣の旧本願寺村にあったが、天和年間(1681〜1684)にこの地に移された。
天武天皇、持統天皇と天武天皇の第一皇子の高市皇子が祀られている。 」
「 壬申の乱とは、西暦672年、天智天皇の弟・大海人皇子が、近江朝を継いだ大友皇子に対し、
反乱を起こした戦いである。
大海人皇子は、隠れていた吉野を出て、伊賀を通ってこの地に陣を置き、
伊勢や尾張の兵を集めて、美濃に進出して不破の地で全戰線の指揮をとった。
同行した妻の鵜野皇女(うののひめみこ)、後の持統天皇はこの地に留まり、
伊勢の勢力を固めたといわれる。
戦いに勝った大海人皇子は即位し、天武天皇となった。 」
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その先左側の広場に、ボルト締めになった「善光寺一分如来碑」がある。
「 石碑には、「善光寺一分如来 世話人万屋吉兵衛」 と刻まれていて、寛政十二年(1800)の建立である。 」
その先の右側には 「 左 東海道渡船場道 」 「 右 西京伊勢道 」 と刻まれた、
明治二十年建立の道標がある。
道標の向かいに珍しい名の神社の一目連神社がある。
一目連は神社の名前であるが、桑名の北の多度大社に同名の神社がある。
「
多度の一目連神社は多度大社の別宮で、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。
本宮の祭神・天津彦根神(雨乞いの神、風神、海神)の子で、製鉄、鍛冶や金属加工の神、
そして台風の神ともいわれる。
祭神の目一箇は片目という意味のようで、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、
という説がある。
鋳物に従事する人達が多度大社に勧請して、一目連神社を建てたのだろう。 」
このあたりは鍋屋町(現在は東鍋屋町)で、鋳物に従事する人が多かったことから町名になったといわれる。
その先に「梵鐘」を造る家があり、店のガラス越しに大小の鐘が置かれていた。
道を越えると西鍋屋町。 ここには明円寺、教覚寺があった。
東矢田町を過ぎると矢田町交差点で、国道1号線を越えてすすむと、西矢田町で、右側に善西寺があった。
善西寺の先右側の鳥居は、立坂神社の鳥居で、立坂神社は県道421号を越えた先、ここから150m奥にある。
「 立坂神社は桑名藩初代藩主・本多忠勝により創建された矢田八幡宮が前身である。 」
このあたりは戦災を受けなかったので、古い連子格子の家も残っている。
突き当たりの三叉路の右側の黒壁の倉前に火の見櫓があるが、
江戸時代の矢田町は東海道の立場であった。
久波奈(くわな)名所図会には、 「 比立場は食物自由のして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし 」 とあり、桑名は物資が四方から集まる商業都市であったことがこの文からも分かる。
三叉路の左手に三ッ矢橋バス停があるが、江戸時代にはこのあたりは「八曲り」といわれる鉤型になっていた。
「 ここは桑名宿の西の入口に当り、 西国の大名が通行する際には、
桑名藩の役人がここで出迎えて案内をした。
また、旅人を引き止めるため、客引小屋があった、という。 」
桑名宿はここで終わる。
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東海道は、桑名宿のはずれの火の見櫓の先の三叉路で、左折して南下する。
少し行くと、右側に小さな、神戸岡神社がある。
「 神戸岡神社は街道の反対側にあったが、明治二十九年の神社統合令により、立坂神社に合祀された。
地元の人達の要望で、昭和三十年代に再度、この地に遷座された。 」
ここまではうどんやなどの飲食店が多くあったが、この先四日市まではほとんどない。
この先は昔の大福村で、火の見櫓から七百メートル位歩くと、左側に了順寺がある。
了順寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、立派な構えをしており、立派な山門は桑名城の遺物と伝えられる。
その先に「江崎松原跡」の説明板があった。
説明板
「 七里の渡しから大福までの東海道の両側には家が建ち並んでいたが、
江場から安永にかけての百九十二間(約345m)は両側とも家がなく、松並木になっていた。
眺望がよく、西には鈴鹿山脈が遠望され、東には伊勢湾が見られた。
松並木は昭和三十四年の伊勢湾台風頃までは残っていた。 」
この付近には日立金属桑名工場や竹中製作所があり、 松の木は一本もなく、道の両脇には家が建ち並んでいるので、その風景を想像するのは困難だった。
了順寺から七百メートル位歩くと、右側に城南神社があり、 「大神宮の一の鳥居下賜」と刻まれた石碑が建っていた。
「 城南神社は、伊勢神宮に天照大神と豊受大御神が鎮座する前、この地に仮座したことから、
式年遷宮後の鳥居と建物の一部が下賜されるという。
伊勢神宮の一の鳥居は桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後、この神社の鳥居になるのである。 」
そのまま進むと国道258号線に突き当たった。
東海道は地下道を通って向こう側へ渡って、そのまま直進する。
ここは安永集落である。
道は少し上りになりややカーブしているが、右側に古い家が残っている。
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道を進むと、町屋川が流れる堤防の手前にある交叉点に出る。
道の左側には、藤棚のある料理旅館の「玉善」がある。
「 江戸時代の安永(やすなが)は、東海道 桑名宿の入口にある立場で、
町屋川(員弁川)の舟運の舟積場だったところである。
料理旅館の「玉善」は江戸時代には茶屋を営み、街道名物の安永餅を売っていた、という。 」
左手に国道が見えるが、小道を直進すると、左側に樹齢二百年の老木の楠があり、注連縄>(しめなわ)が結ばれていた。
右側の石積の上に 常夜燈、その前に 石造里程標が建っていた。
「
常夜燈は、東海道の灯標として伊勢神宮の祈願を込め、桑名、岐阜の材木商により、
文化元年(1818)に寄進された「伊勢両宮常夜燈」で、桑名の根来市蔵という石工が彫ったものである。
石造里程標は、明治二十六年の建立で、正面に 「 従町屋川 中央北 桑名郡 」、
左面に 「 距三重県県庁舎拾一里口町余 」 と刻まれている。 」
そのまま進むと、安永第一公園があり、町屋川(員弁川)が見えるところで、行き止まりとなる。
説明板「東海道」
「 寛永十二年(1635) に、ここから対岸に橋が架かった。 川の中州を利用し、大小二つの板橋だったり、
一つの板橋だったりした。 中央に馬がすれ違えるように広くなっていた。
昭和十二年に国道1号線の橋が架かり、その橋はなくなった。 」
十返舎一九はまち屋川を待つにかけて、
「 旅人を 茶屋の暖簾に 招かせて のぼりくだりを まち屋川かな 」
と詠んでいる。
ここには橋が架かっていないので、左手に見える国道1号線の町屋橋を渡るが、 右側の遠いところに鈴鹿の山々が見え、 左側の川越火力発電所の大きな煙突から煙がたなびいていた。
桑名市はここまでで、川を渡ると三重郡朝日町縄生(なお)である。
東海道は橋を渡り終えたところで、右に曲がって坂を下り、すぐに左折して細い道に入る。
ここから近鉄伊勢朝日駅まで約八百五十メートル。
道はやや上りであるが、江戸時代には「だらだら坂」と呼ばれたようである。
道の両側は民家で埋め尽くされていて、ほとんどが新しい家だが、一部古い家が残っている。
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道の右側に「十一面観世音菩薩」の石柱があり、奥には金光寺があり、その先の右側には真光寺がある。
その先左側のタバコの看板のある店前に、山口誓子の句碑があった。
「 山口誓子は新興俳句の中心人物として名高いが、 昭和十六年(1941)に病気療養のため四日市市富田に移住、 その後、天カ須賀、 鈴鹿市の鼓ヶ浦と、伊勢湾沿いの地で十二年間の療養生活を送っている。 」
その先の左側の黒い倉のような建物前に「一里塚跡」の石柱がある。
ここは縄尾の一里塚があった場所である。
その先の右側には「東海道」の道標がある。
左側に「 富士の光 清鷹 」 の看板を上げた「安達本家酒造」という造り酒屋があり、近鉄名古屋線の
踏み切りを渡る。
右に東芝の工場があり、左側は近鉄伊勢朝日駅である。
ここから朝日町のはずれの朝明川までは八百メートルほどの距離である。
左側にある「旧東海道」の石碑は、宿駅四百年記念に建てた新しいもの。
十メートル先の榎(エノキ)は樹齢三百年余で、東海道の並木の一本だったといわれる。
東海道の松並木は、戦時中に松根油を採油するため切り倒されたという。
その先の右側に連子格子が素晴らしい家があった。
その先は旧小向村で、右側に「東海道」の道標と「御厨小向神社」の石柱が建っていた。
その先の左側角に「橘守部旧蹟」の表示があるが、ただの畑である。
説明板
「 橘守部は、この地の庄屋の家に生まれたが、父親が一揆加担の容疑を受け家は破産してここを追われた。
守部はその後、独学で国学を学び、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに天保の国学四大家の一人に数えられた。
本居宣長を痛烈に批判し、古事記よりも日本書紀を重んじ、
神話の伝説的な部分と史実の区分の必要性を説いた。 」
その先の右側の浄泉坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、山門や瓦に徳川家の三葉葵の紋がついている。
徳川家ゆかりのある奥方の菩提寺になっていたことがあり、
東海道を通る大名は駕籠を降りて黙礼をしたと伝えられる。
その先の朝日跨線橋東交差点の左右の道(県道66号)は最近造られたもののようである。
交差点を越えると、右側の石垣の上に白い壁で覆われた西光寺があるが、この寺も古い。
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その先の交叉点の右側の細い道の角に「JR関西線朝日駅入口」の表示板がある。
百メートル奥に無人駅のJR朝日駅がある。
駅前を過ぎると右側の「柳屋」という雑貨屋の先で、道が二又になっている。 東海道は左折する。
道はすぐに右へカーブし、南下する
ここからは一本道で、しばらく民家が続く。
民家がなくなったところから桜並木で、春は桜が咲いてきれいだろうと思った。
柿交叉点の先は伊勢湾岸道のガート。
街道から右(西方)へ三十メートル程行くと、多賀神社常夜燈が建っている。
「 常夜燈は弘化三年(1846)に建立されたもので、
「多賀神社常夜燈 」「五穀成就」と刻まれている。
最初は朝明川の堤にあったが、昭和六年に現在地に移された。 」
伊勢湾岸道路と北勢バイパスのガードをくぐり、国道1号を横断すると、朝明川(あさけがわ)に出た。
「 壬申の乱の際、大海人皇子が伊勢神宮に遥拝し、戦勝を祈願した遼太川が、この朝明川と伝えられてきた。 」
朝明橋を渡ると、道は県道66号になり、四日市松寺集落に入る。
道の右側の狭い道角に、「御厨神明社」の大きな石柱が建っていて、その奥に御厨神明社がある。
その先の左側に「タカハシ酒造」という造り酒屋がある。
左の石碑の前のうす汚れた案内には、「 伊勢松寺の立場はこのあたりにあった。 」 と書かれていた。
タカハシ酒造から五百メートルで蒔田集落に入り、 百メートル先の右側には宝性寺と御厨神明神社があった。
「 御厨神明神社は、伊勢神宮の御厨の地に建てられたのでその名があり、
以来、蒔田村の氏神として信仰されてきた。
宝性寺は天平十二年(740)、聖武天皇の勅願で創建されたと伝えられる由緒ある寺だが、
永禄十一年(1568)の伊勢長島の一揆で燃失、その後建てられたものも燃失した。
現在の建物は文化十一年(1814)の建設と鬼瓦の銘から推定できる。
本堂は間向拝付き三間四方の入母屋造りの本瓦葺きで、獅子の彫刻は素晴らしい。 」
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そこから四百メートル先で、三岐鉄道の高架下にあるJR関西本線の踏切を渡る。
右側の三光寺を過ぎるとやや変則の四差路があり、左折する。
左にカーブした道を進み、信号のある三叉路を直進し、三岐鉄道と近鉄の高架をくぐる。
川が流れ、小さな橋が架かっている。 昔は庚申橋といっていた一里塚橋で、
橋を渡った右側に 「冨田一里塚跡」の碑がある。
「 東海道の開設により、大名行列や伊勢参りなどの多くの旅人が行きかい、 立場になっていた冨田(とみだ)はたいへんな賑わいを見せた。 」
冨田には多く茶屋があったが、茶屋の名物は焼き蛤だった。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、喜多八が茶屋の名物の焼き蛤で騒動を起こしている。
膝栗毛には 「 富田の立場にいたりけるに ここはことに焼はまぐりのめいぶつ、
両側に茶屋軒を並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り 」 とあり、
冨田の茶屋の多く競争が激しかった様子が描かれている。
弥次郎兵衛と喜多八が焼き蛤でめしを食ったまではいいが、
焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、
「 膏薬は まだ入れねども はまぐりの やけどにつけて よむたはれうた 」
という狂歌が落ちになっている。
このあたり一帯は古代には海であったが、次第に陸地化した土地で、
美味しい蛤がとれたのもこの土壌のおかげだろう。
今回訪れて残念なのは海が遠くなり、海は全然見えないことと今は蛤はほとんどとれないことである。
右側の連子格子の家の屋根に陶器の神様が祀られていた。
これまでも数ヶ所で見た屋根神様である。
道をすすむと、左側に八幡神社があった。
「 冨田六郷氏神記」に、 「 改安弐年(1279)に冨田地頭佐原豊前守政盛により東富田に勧請された 」 と記されている神社で、祭神は応神天皇である。
明治四十二年の神社統合令で、鳥出神社に合祀されたが、
昭和四十年、現在地に社殿を建てて再建された。 」
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八幡神社の境内には、力比べに使われたという凡そ百キログラムの横長の丸い石(力石)が置かれていた。
江戸時代には八幡神社が富田の西端で、八幡の森が茂み、昼でも暗かったと伝えられる。
今は近鉄の御蔭でここから冨田駅にかけての方が家が多い。
道をそのまま進むと正泉寺に突き当たってしまうので、 手前の三叉路のクリーニング屋の角を右に曲がる。
中町通りを行くと右側の富田地区市民センターの前に、
「 右 富田一色、東洋紡績、川越村 」 と書かれた道標がある。
これは大正六年十月に建てられたもので、近くに 「 明治天皇御駐れん跡 」 の石碑があった。
説明板
「 明治天皇は明治元年(1868)九月二十日、京都を発ち、
二十五日、富田茶屋町の広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を賞味になられた。
同年十二月十九日、京都に戻られる途中も小休止された。
更に明治二年に神器を奉じて東京に遷都されたときと明治十三年陸軍大演習で行幸されたときも寄られている。
明治天皇が休憩された屋敷は、東海道に沿った現在の富田小学校から富田地区市民センターにかけてあった。 」
少し行くと小さな十四川があり、「十四川堤の桜並木」という説明板があった。
説明板
「 桜並木は両岸千二百メートルにわたって、ソメイヨシノが約八百本植えられている。
日本の桜の会より全国表彰を受けた。 」
十四川に架かる十四橋を渡ると南富田で、右側に弘法大師が彫ったという、
秘仏の薬師如来を祀る薬師寺がある。
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少し行くと茂福町(旧茂福村)で、突き当った三叉路に、「新設用水道碑」という大きな石碑があり、
脇に力石が置いていた。
力石は大石が一つと小さな石が数個だった。
説明板
「 明治時代中期、二つの寺の御堂を再建するため土台石の奉納があった。
その際、地固めに集まった人達の間で、休憩時に奉納された石を持ち上げ、力競べを行なわれた。
茂福地区ではその後も大正の終わりまで力競べが続いた。 」
東海道は三叉路を左折し、その先ですぐに右折する。
しばらく行くと右側に茂福(もちぶく)神社の石柱がある。
神社はこの奥(西)に三百メートル程行かなければならない。
そのまま進むと、産業道路(県道64号)の八田三丁目西交差点にでる。
道はこの先、左にカーブする。
このあたりは自動車販売店や工場が多く、これまでの風景とは違う感じがした。
少し雑然とした家並みの中を歩くと、右側に「羽津の常夜燈」といわれた燈籠がある。
少し上ると米洗川(よないがわ)が流れていて橋を渡る。
800m歩くと、羽津町である。
しばらく歩くと「真央法願上座」と書かれた石柱があり、その脇に小さなお堂の薬師堂があった。
少し先には大きな松の木があり、斜めに傾いた枝が妙に良い感じである。
しばらく歩くと享保十年(1725)に建てられという志氏(しで)神社の鳥居の前にきた。
「 志氏神社はその奥、近鉄名古屋線を越えた先にある。 ここからは400mの距離である。
志氏神社は四世紀末に築造されたといわれる前方後円墳の前に建てられている。 」
境内にある、丹比屋主真人の歌碑には、万葉集の
「 後れにし 人を偲はく 四泥の崎 木綿(ゆう)取り垂(し)でて さきくとぞ思ふ 」
という歌が書かれている。
聖武天皇に随行し、志氏神社に詣でた時に、妻の無事を祈って詠んだ歌といわれる。
志氏(しで)は四泥<(しで)と同音なので、この地がその歌の地であることは間違いないだろう。
「 古代にはこのあたり一帯が海で、四泥(しで)の崎と呼ばれていた泥地だったところで、
その土を使って焼かれたのが四日市の特産品になった万古焼である。
製品に万古または万古不易の印を押したので、万古焼きと呼ばれるようになった。
桑名の豪商が元文年間(1736−41)に窯を築いて焼いたのが始まりといわれる。
茶器や急須などが主製品で、持つと非常に軽く上品な薄い作りで壊れやすいと思えるが、
半磁器のため見た目より丈夫である。 」
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鳥居の脇には「五穀成就」と刻まれた常夜燈と「八幡宮御神前」と刻まれた常夜燈が建っていた。
境内にある狛犬は神様から留守を守るようにと言いつけられたにかかわらず、遊びに出かけたため、
左右の足を折られたという言い伝えが残る。
その先の右側に、「八十宮御遺跡」という大きな石碑がある光明寺がある。
説明板
「 八十宮(やそのみや)は吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称で、
異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王がいる。
生後一ヵ月で時の将軍・徳川家継と婚約したが、夫となる家継もわずか六歳だった。
その二年後に、家継が死去したため、史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかった。
その後出家し、法号を浄琳院宮(じょうりんいんのみや)と称され、四十五歳で亡くなった。 」
光明寺を過ぎると交叉点のようなところで、道なりに左の道を行く。
すぐに右カーブし、100m歩くと国道1号線に合流する。 ここで東海道は終わった。
国道を歩き、その先の金場町の交差点には小さな道標がある。
道標の表面には 「 右くわな 左四日市道 」、右面には 「 右四日市、大矢知道 」 とあり、 左面には 「大正十二年一月三日」、陰刻に 「 羽津四区除雪紀・・ 」 と刻まれている。
七百メートル程歩くと二股になっているので左に入る。
左側にあるのは多度神社で、明治四十二年に海蔵神社に合祀されたが、大正九年に再建されたものである。
この道は旧東海道で、この先百メートル程、道が残っている。
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東海道をそのまま行くと海蔵川に突き当たり、東海道は途切れてしまう。
「三ツ谷一里塚跡」の石碑が土手際にあった。
説明板
「 江戸時代の東海道の海蔵川には土橋が架かっていた。
元禄三年(1690)の「東海道分間之図」には海蔵川に突き出た辺りに一里塚が記されている。
昭和二十年に川を拡張した際、一里塚だったところは川の中に入ってしまった。
土手際にある石碑は最近になって建てられたものである。 」
東海道分間之図には、海蔵川をかいぞ川と書いてあったが、 国道に架かる橋には「かいぞうばし」と刻まれていた。
国道にかかる海蔵橋を渡ったらすぐ左折し、二股は右の道に入り、南下するのが東海道である。
といっても、古い家がある訳でもなく民家と商店が続くだけだが・・・
500m行くと、川原町の信号交差点で大きな道(橋北通り)を横断する。
200m行くと小さな橋の脇に、「嶋小のだんこ」の看板を架けた嶋小餅屋がある。
更に100m行くと三滝川に架かる三滝橋がある。
橋の手前右側の民家のような造りの家には、「 創業元禄 文蔵餅 三滝屋 」 という看板があった。
三滝橋を渡ると四日市宿(よっかいちしゅく)である。
広重の四日市宿の浮世絵は、川に突き出た縄手道の上に突然強風が吹き、
吹き飛ばされた笠を追う男と板橋を歩いて平然と立ち去る男を描いている。
浮世絵にある三重川は三滝川のことで、海蔵橋から約七百メートルほどの距離である。
江戸時代の寛永年間に刊行された「東海道名所図会」には、 「 当駅海陸都会の地にして商人多く、宿中繁花にして、旅舎に招婦見えていと賑はし 」 と書かれている。
「 四日市宿は、三滝橋を渡ったところから諏訪神社の手前までの六町二十間(約700m)の短い宿場町である。
伊勢参詣に使われる伊勢街道の追分(分岐点)による陸海交通の要所で、商業が盛んな土地だった。
宿内人口は六千八百九十人 、家数千五百六十一軒 、本陣が二軒、旅籠が百十一軒と多い。
」
三滝橋を渡ると、右側に 笹井屋菓子店がある。
「 笹井屋は名物のなが餅を売る店で、創業は天文十九年(1550)という老舗菓子店である。
津三十六万石藤堂家の始祖・藤堂高虎が、足軽時代から 「 吾れ武運の長き 餅を食うは幸先よし 」
と好んで食べたという菓子で、長き餅の名の通り、細長い餅の中に餡を入れて焼いた素朴な味で、
程よい甘いが残る。 」
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四日市はかっては浜辺の美しいところで、諸国の物産が集散する港町として栄えたところである。
江戸時代の前に数多くの市場が開かれ、やがて、毎月四日に立つようになった。
そこから四日市の名がついたと言われる。
現在の四日市は空襲による市内部の破壊と石油コンビナートによる海岸部の埋め立てにより、
江戸時代の姿を思い浮かべることは出来ない。
道の左右には普通の家やビルが建ち並び、古い建物は皆無である。
右側の福生医院が「問屋場」の跡で、近藤建材店が「帯や本陣跡」で、
その先にある黒川農薬商会が「黒川本陣跡」である。
確認できる表示がない。
その先の左右は広い通りの県道164号(柳通り)で、右手に中部交差点がある。
道を横断すると、正面に「ぶつだん屋」の看板があるビルがある。
道はここで右にカーブするが、カーブする右側に「すぐ江戸道」の道標がある。
「
道標の三面には 「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」、「 京いせ道・ゑどみち 」、「文化庚午冬十二月建」
と刻まれている。
文化七年に造られ、この先の「江戸の辻」に建っていたものを昭和二十八年に複製し、当地に置いたもので、、
本物は個人蔵とのこと。 」
江戸時代の東海道は、ここから諏訪神社の前に向かって斜めに横断していたが、 区画整理で様相が一変し、それを辿ることはできない。 」
この道標が仏壇屋の周辺が宿場の中心地だったことを示している気がした。
道案内に従って、道標のところで右に曲がり、国道1号線に出たら左折する。
最初の信号で国道を渡り、
正面にあるアーケードのスワマエ表参道商店街に入った。
「 道標のあったところが中部(旧南町)で、諏訪神社が諏訪栄町(旧新田町)である。
江戸時代には、この間の区画(区画整理された地域)に「四日市場」と呼ばれた市場があったのだが、
その痕跡は残っていなかった。 」
スワマエ表参道の入口右側に、諏訪神社がある。
「
諏訪神社は、建仁弐年(1202)、信州諏訪の諏訪大社に勧請し、分祀した神社で、当地の産土社である。
「大四日市祭」の名で行われている諏訪神社の祭礼が、江戸時代の「東海道名所図会」に
「 祭式の楽車(だんじり)ねりものあり、近隣群集して賑しき神事也 」 と紹介されている。 」
日も暮れてきた頃、桑名宿から四日市宿の旅は終わった。
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