知立宿から有松の間に国史跡の阿野一里塚と桶狭間古戦場がある。
鳴海宿は隣の有松とともに尾張藩が奨励した絞り染めの販売で有名だった。
宮宿は熱田神宮の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから、
海道一の宿場といわれた宿である。
(ご参考) 池鯉鮒〜鳴海 11.0キロ 徒歩約4時間30分
鳴 海 〜 宮 6.5キロ 徒歩約2時間10分
(注)桶狭間の古戦場跡や有松絞り会館などに寄り道したので、小生は2回に分けて歩いた。
池鯉鮒宿の終わりの逢妻川に架かる逢妻橋を渡る。
逢妻町交差点で国道1号線と合流する。
交叉点を渡り、道の右側に出て、国道を200m歩き、三叉路で右側の狭い道を入って行く。
これが東海道で、入って100mの右側に秋葉神社がある。
その先は西丘公園があり、右手に進むと密蔵院がある。
「 密蔵院は、三河三弘法の第参番札所で、敷地も広くゆったりとしたお寺である。
このあたりは刈谷市一里山町。 一里山は一里塚の別称で、静岡県や滋賀県でもそう呼ばれている。 」
西丘公園の方面に戻ると、一里山新屋敷交差点の手前で、国道に合流する。
一里山新屋敷交差点のあたりに「一里塚跡」の碑があると思ったが、確認できなかった。
国道を少し歩くと、工業団地入口交叉点の手前、右側に上州屋があり、 その先の今岡町歩道橋のところで、東海道は左側の細い道に入る。
入った右側には十王堂があり、左側には屋敷門の家があった。
このあたりは国道を少し入っただけなのに昔の情緒を残していて、連子格子の古い家が点在していた。
今岡町日向バス停前で、道は左にカーブするが、カーブする手前の左手に洞隣寺がある。
洞隣寺は、天正八年(1680)の開山、刈谷城主・水野忠重の開基と伝えられる寺である。
寛政八年(1796)と刻まれている常夜燈と「子安観音尊霊場」の石碑が建ち、
奥に建物が見えた。
奥の建物は曹洞宗の洞隣寺の本堂で、本堂の隣には、地蔵堂、行者堂、秋葉堂が並んで建っていた。
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本堂の裏側にまわると、墓地の奥に、 「豊前国 中津藩士の墓」 と 「めったいくやしいの墓」 が並んで立っている。
「 渡辺友五郎は、寛保弐年(1742)、帰国途中の今岡村付近で、牟礼清五郎を突然斬りつけ、 二人とも亡くなった。 二人の遺体は洞隣寺に埋葬されたが、二人の生前の恨みからか、いつの間にか反対に傾き、何度直しても傾いてしまうので、墓地を整理し、改めて葬ったところ傾かなくなったと、いう。 」
少し行くと右側に小さな社と常夜灯と、 「芋川うどん発祥の地」 と書かれた木札があった
江戸時代の東海道名所記に、 「 いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也 」 とあったところで、ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところだが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではない。
傍らの説明板には 「 江戸時代の紀行文にいもかわうどんの記事が多くでてくる。
名物のいもかわうどんは平打うどんで、これが東に伝わりひもかわうどんとして現代に残り、
今でも東京ではひもかわと呼ぶ。 」 と書かれていた。
信号のない交差点を過ぎ、左にカーブする手前には古い家が多く残っている。
その先の左側に、乗願寺がある。
「 乗願寺は天正十五年の創建で、当初は真宗を内に外向きは浄土宗としていたが、
後、真宗木辺派に改めた。
水野忠重の位牌を祀る。 なお、真宗木辺派の本山は滋賀県野洲市の錦織寺である。 」
このあたりは刈谷市今岡町。 江戸時代には立場茶屋があったところである。
少し行くと右側に連子格子の凄く立派な門付きの家があった。
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その先にも屋敷門がある家があり、格子を黒く塗り、白い漆喰の壁で、門から覗くと二宮尊徳の像があった。
この先の交差点の手前に倉付きの屋敷門のある家があり、ここを越えると今川町に入る。
今川市民館バス停を過ぎると、右手に乗蓮寺があり、その先の左にロータリーがあり、
その奥は名鉄富士松駅である。
駅前のロータリーの噴水にはサッカーを興じるレリーフがあるが、刈谷市はサッカーが盛んな地区である。
その先で、県道282号と交差するが、ここは今川歩道橋を渡り、反対側に出る。
道は右にカーブし、少し歩くと下り坂になり、国道1号が見えてくる。
国道に出ると今川町交差点で、正面に敷島製パン刈谷工場が大きく見える。
そちら側に渡りたいのだが、歩道橋や横断歩道がない。
左側に降りる道があるので、国道の下を川と一緒にくぐり、国道の右側の道に入る。 これが東海道である。
シキシマパンの駐車場の前を通り、小さな橋を渡ると、サウナやパチンコなどがあるが、
その先に境川に架かる境橋を渡る。
「 境川は、三河と尾張の国境に流れる川である。 それ程大きな川ではないのに、
川を挟んだ両側で住民の気質がかなり違う。
一言で言えば、尾張は豊臣秀吉の性格同様、派手というか、見栄ぱりで、三河は徳川家康同様、質素で堅い。
言葉も「みゃあみゃ」いうのは尾張で、三河は「どんくさい(もっときたない)」し、荒い言葉に思える。
結婚時に自宅前で菓子をばらまくという風習は尾張(名古屋以西)だけである。 」
境橋を渡ると、三河国今川村(現刈谷市)から尾張国東阿野村(現豊明市)に入る。
「 境橋は東海道の開設時に三河と尾張の立会いのもとで作られた橋だが、 当初は三河側は土橋、尾張が木橋をほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だった。 」
その当時の橋を詠んだ歌碑が橋を渡った右側の川岸に残っている。
「 うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん 」
詠んだのは烏丸殿と呼ばれた公家の藤原光広で寛文六年(1666)である。
その後、継ぎ橋は洪水で度々流された。 やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になった。
明治に入って欄干付きになった。 現在の橋は平成七年なので新しい。
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橋を渡ると、少し先に伊勢湾岸道が見えたが、
ここは国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要路である。
東海道はこれらの道路が並ぶ反対側にあるので、
道を下り、二百メートル程先で国道1号下のトンネルをくぐって左側の道に出る。
東海道が残るのはここまでで、この後は国道1号を歩いていく。
左手に名鉄豊明駅があり、道には車が多く渋滞している。
それを尻目に進むと、正戸橋を越えると県道が通る陸橋が見えてくる。
陸橋の手前の三叉路には 「国指定史跡阿野一里塚200m 」 の標示板があるので、左の道(けやき通り)に入る。 この道が東海道である。
二百メートル先に、阿野一里塚が両側とも残っていた。
塚の部分が崩されて、原形を留めているとはいえないが、木を植えられ、
小公園のようにして大事にされていた。
左側の一里塚の中に入ると、 「 春風や 坂をのぼりに 馬の鈴 (市 雪)」 という歌碑があった。
(句の意味) ここから前後(地名)に向かって上り坂になっているが、
春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。
愛知郡下之一色(現名古屋市)の森市雪の作で、嘉永元年(1848)の「名区小景」に載っている。
その下に文化五年(1808)の折れた道標があった。
一里塚を出るとその先の交差点からやや急な坂になり、左側に大きな松の木が見える。
豊明小学校の前に一本だけあるのは、東海道の松並木の生き残りである。
その先左側の三田皮フ科の隣に、立派な建物があるが、塀に囲まれ門が閉まっている。
外から覗くと「文部省」と書かれた高札、そして、隣に「明治天皇東阿野御小休所跡」という石碑が見えた。
説明板
「 明治天皇は明治元年から弐年にかけて東京と京都の間を行き来した。
明治維新で京都から江戸に遷都するためと京都に戻り再度、東京に戻るためであったが、
その際、三田邸で休息をおとりになったのである。 」
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その先右手にある坂部善光寺あたりで上り坂は終わった。
前後駅前交差点の左側はスーパーが入る高層ビル・パルネス、その一角に名鉄前後駅がある。
「 前後という地名は珍しいが、桶狭間の戦いの後、織田方の雑兵が褒賞をもらうため、 自分が倒した敵方の首を切り取って、前と後に振り分け荷物のようにして、 肩に担いだという話から名が付いた、といわれる。 」
神明社の石柱と常夜燈を右に見て進むと、落合公会堂の前に「寂応庵跡」の石碑があった。
このあたりは古い家と新しい家が混在している。
そこから500m位歩くと、左にカーブする正面にマンションがあり、ここで再び、国道1号に合流した。
競馬場入口交差点の三叉路の右側に馬蹄の上に疾駆するサラブレッドの姿をしたレリーフが立つ。
この後は国道を歩く。
名鉄の高架をくぐると右手に名鉄中京競馬場前駅がある。
中央競馬が開催される土曜、日曜は周囲が大混乱するが、今日は平日なので静かだった。
その先の信号交叉点の左側の角に、「香華山高徳院」の案内板が立ち、
右側には「桶狭間古戦場100m」の表示がある。
ここで、桶狭間古戦場跡に寄り道する。
道を入って行くと、左側に橙茶色の立派な建物がある。
「藤田学園本部」と表示があり、北東の豊明市沓掛にキャンバスを構える、藤田保健衛生大学の本部である。
その奥に「史跡桶狭間古戦場」と書かれた石柱があるのは、桶狭間古戦場公園である。
説明板
「 永禄六年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ、戦死したところと伝えられ、
田楽狭間とか館狭間と呼ばれているところで、今川義元、松井宗信、無名の人々の塚があり、
明和八年(1771) 七石表が建てられた。
文化六年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた。 ここが有名な田楽桶狭間である。 」
園内に入ると左側に細長い標石が建っているが、七石表の一つである。
「 七石表は今川義元の戦死した場所を明示する最も古いもので、
明和八年(1771)十二月、鳴海下郷家の出資により、人見弥右衛門等により建てられたもので、
この標石には、北面に 今川上総介義元戦死所、東面に 樋峡七石表之一、南面に 明和八年辛卯十二月十八日、と刻まれている。 」
その他の七石表も境内にあり、その前に花が手向けられていた。
「 桶狭間古戦場は、ここ以外に名古屋市緑区桶狭間北にもあり、
豊明市と名古屋市はそれぞれが主張している。
国は昭和十二年、これまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表を根拠として、
ここを「狭間古戦場」として、国史跡に指定した。
しかし、異論を唱える学者もいる。 」
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七石表の先の樹木に囲まれた塚が今川義元の墓である。
その先の「古戦場案内板」の脇に「桶狭間弔古碑」と呼ばれる大きな石碑が建っている。
これは、文化六年(1809)五月、津島神社社司・氷室杜豊長が建てた桶狭間合戦の戦記である。
左側には香川景樹の歌碑があった。
「 あと問えば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ 」
説明板
「 香川景樹は桂園派の巨匠で、江戸で己の歌風を広めようと上府したが迎えられず、
失意のまま帰途の途中ここを通り、今川義元の無念を思ってこの歌を詠んだ、という。 」
義元の墓は公園の隣の「高徳院」の斜面にもあった。
これは万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、法名が刻まれている。
この斜面の左側には小さな石仏が並んで祀られていた。
その中に「徳本上人の名号碑」があった。
高徳院への石段を上り、山門をくぐると「義元本陣の跡」と書かれた石柱が建っている。
また、寺院の敷地の一角には桶狭間合戦の敵味方の戦死者を弔う石仏群があった。
高徳院は桶狭間合戦の跡地に建っている。
昔からここにあると思っていたが、意外に歴史は浅いのである。
寺の由来
「 高徳院はもとは高野山にあった寺である。
空海が高野山を開創して頃、河内国高貴寺より本尊の高貴徳王菩薩を勧請して建立された。
明治維新の神仏分離で高野山にあった多くの院坊が廃寺され、
この寺も同じ運命を辿るところを、東京本所吾妻橋の遍照院の僧侶・諦念和尚が、
この地に本尊、仏具、法具等を移転し存続された。 」
墓地に遠州二俣藩主で、義元に従った、松井宗信の墓がある。
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東海道に戻り歩き始める。
この先に左へ入る細い道があるが、すぐに歩き終わり、国道に合流してしまった。
東海道は、大将ヶ根交差点で、国道を別れ、右側の細い道(県道222号)に入る。
東海道は、ここから有松を経由し、鳴海宿まで残っている。
国道から右に別れて入ったところが有松の入口で、このあたりは最近の家が大部分だが、 進むに連れて漆喰で塗られた家が現れてくる。
「 池鯉鮒宿から鳴海宿までは二里三十町(約11q)、
江戸時代にはこの間になにもなく、特にこのあたりは樹木が生い茂り、追剥も出る物騒なところだった。
尾張藩は、慶長十三年(1608)、桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から十一戸を移住させ、
安永弐年(1125)、有松を間(あい)の宿にした。
有松は耕地が少なく、茶屋としての営みにも限界があったため、尾張藩は副業として絞染を奨励し、それが新しい産業に育った。 」
左側の有松郵便局を過ぎると、右側に有松山車会館がある。
飛騨高山と同じようにからくりを演じる山車を保管する山車倉で、有料だが見学できる。
その先左側に有松・鳴海絞会館があり、絞り商品の展示や絞り技術の実演を行っている。
「
有松絞り染めが全国津々浦々まで名声をとどろかせるようになったのは、
五代将軍綱吉への献上品・絹布(きんぷ)に絞りを施した手綱であったという。
以来、有松絞は尾張徳川家の庇護奨励のもと、ますます技に磨きをかけ、あるいは様々な技法を編み出し、
繁栄を極めていく。 」
商人達は絞り産業で儲けた富を店先の装飾や家並みにあてることで繁盛ぶりを競いあった。
その結果、町並も洗練され、いつしか 「 田舎に京の有松 」 といわれるようになった。
そうした景観を維持するため、有松地区は文化庁の町並み保存地区に指定されている。
右側にある、絞り問屋・井桁屋服部家の建物は特に素晴らしい。
「 店舗兼住居部は、瓦葺に塗籠(ぬりごめ)造りで、卯達を揚げ設け、
蔵は土蔵造りで、腰になまこ壁を用い、防火対策を行っている、絞り問屋を代表する建築物である。
その他、井戸屋形、客室部、絞倉、藍倉、土倉、長屋数棟などが連なっていて、
県の有形文化財に指定されている。 」
街道に沿った処に 「 有松や 家の中なる ふじのは那 淡 淡 」 という歌碑があった。
説明板
「 淡淡は大阪の人で、東京に出て、晩年は大阪で過ごした。 」
その先にも昔から有松絞りを生産販売をして来た店が多い。
「 有松絞り染めは初めは九九利染めといわれていた。
名古屋城普請に集められた大名の家臣のうち、豊後のものの絞りの手拭に、
竹田庄九郎が目をつけたのが始めといわれる。
四十年ほどの後、豊後からきた医師の妻が絞りの手法をつたえ、産業としての準備ができ、
三河、知多の木綿産地を背景として発達した。
十八世紀後半には、隣村の鳴海、大高あたりまで拡大し、
その営業権をめぐって有松との紛争をおこすほどまでになった。 」
有松絞りのルーツともいえる竹田家の主屋は、 江戸時代、茶室などは明治から大正時代にかけて整備されたもので、 これまた、絞り問屋の繁栄した様を感じることができた。
その他にも、岡家や小塚家住宅のほか、数多くの古い建築が残っている。
漆喰の壁が多いのは、天明四年(1784)の大火で村の大半が焼失してしまったが、
その後火災に備えて漆喰による塗籠造とし、萱葺き屋根を瓦葺としたことによる。
祇園寺を過ぎ、名古屋第二環状線の高架をくぐり、橋を渡ると間の宿・有松は終わる。
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四本木の右側の山裾には左京山住宅が拡がり、左側の名鉄左京山駅周囲はマンションが林立する。
平部北交差点の左側に秋葉大権現常夜燈が建っている。
常夜燈の正面に「秋葉大権現」、左側に「永代常夜燈」、右側に「宿名内為安全」、 裏面に「文化三丙寅(1806)正月」と刻まれている。
江戸時代にはここが鳴海宿の江戸側の入口だった。
昭和三十年代まで鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町。
平部も名古屋のベットタウンとしてマンションや団地が立ち並び開発が進む。
それでも、旧東海道の両脇には古い家も散見された。
平部北から五百メートル程で下中地区に入る。 有松から二キロ弱。
途中の民家前には飛脚と旅女のレリーフが置かれていたりして、
都会に近いのに昔の面影もかすかに残る道だった。
扇川に架かる中島橋を渡ると、鳴海宿である。
「 鳴海宿は天保十四年の東海道宿村大概帳によると
東西十五町十八間(約1.6km)の間に家の数が八百四十七軒、三千六百四十三人の人が住み、
本陣は一軒、脇本陣は二軒、旅籠の数は二百六十八軒 と大きな宿場町だった。
鳴海宿も、有松同様、絞りで知られた町である。
絞りの生産、販売が上り調子だった有松が、鳴海にまで生産を拡大し、
鳴海が有松の絞りを販売していたからである。
それゆえ、有松絞りは「鳴海絞利」と呼ばれる一方、販売権をめぐって両宿の間に紛争が起きることもあった。 」
鳴海は数多くの社寺を残す宿である。
入ってすぐ右手にあるのが瑞泉寺である。
重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は、宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になっている。
境内には、宝暦六年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び、壮観である。
「 根古屋城主・安原宗範が、応永十一年(1404)に大徹禅師を開山として、 平部山に創建した曹洞宗のお寺である。 文亀元年(1501)に現在の場所に移建したが、明暦弐年(1656)の火災で焼失。 寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦五年、堂宇が完成した。 」
少し入った右側の立派な御屋敷は、桶狭間の七石表の製作に金を出した、江戸時代から続く下郷家である。
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鳴海には小さな寺を含め寺院が多く、右側に淨泉寺、正面には万福寺があった。
万福寺の山門をくぐり中に入ると、本堂は大きく立派だった。
説明板
「 万福寺は永享年間、三井右近太夫高行の創建で、真宗高田派。
永禄三年(1560)の兵火で焼失したが、再建され、江戸末期に再々建された。
明治六年(1873)、鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした。 」
街道に戻ると、その先は鉤型のように右に曲がっている。
宿場特有の鉤型で、このあたりから、鳴海宿の中心になる。
安藤広重の東海道五十三次「鳴海宿」では旅籠の様子が描かれている。
左側の緑生涯学習センターは江戸時代の「問屋場跡」で、 昭和三十八年の名古屋市との合併までは鳴海町役場だった。
本町交差点を右折すると幾つかの寺がある。
曲がってすぐの左側にあるのが、誓願寺である。
誓願寺は天正元年(1573)の創建で、本尊は阿弥陀如来である。
境内には安政五年(1858)に建てられた芭蕉堂がある。
芭蕉が手ずから植えた杉の古木を彫ったという、芭蕉像が安置されている。
「 芭蕉の門下の下里知足は、鳴海宿で千代倉という屋号の造り酒屋を営んでいた。
下里知足は芭蕉のスポンサーの一人で、芭蕉との交流を示す芭蕉の手紙が数通残っている、という。
また、笈の小文の旅の途中、芭蕉はここで休息している。
安政五年(1858)に下里知足の菩提寺であるこの寺に芭蕉堂が建てられた。 」
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芭蕉堂の傍らに市の指定史跡となっている芭蕉供養塔が建っている。
「 芭蕉供養塔は、芭蕉が没した一ヶ月後の元禄七年(1694)十一月十二日に追悼句会が営まれた折、
鳴海の門下達によって如意寺に建てられた日本最古の芭蕉碑である。
高さが六十センチ位の青色の自然石で、
表面に芭蕉翁、背面に元禄七年(1694)十月十二日とその没年月日が記されている。
下里知足の菩提寺に芭蕉堂が建設されると如意寺にあった芭蕉供養塔もその脇に移された。 」
境内には文政弐年の徳本上人の名号塔もあった。
誓願寺の隣に聖観世音のお堂があり、
その隣に赤い幟が並んでいるのは、四百年以上前に創建された曹洞宗の尼寺・庚申山円道寺である。
ご本尊が青面金剛尊(庚申様)であることからこの坂は庚申坂と呼ぶ。
坂を上って行くと、道が別れる右側に神社があり、「天神社 成海神社旧蹟」の石柱が建っている。
天神社は、鳴海城の鎮守としてこの場所に祀られた神社だが、この地は成海神社の御旅所でもある。
説明板
熱田神宮寛平縁起には、 「 日本武尊が東征の折、鳴海浦に立ち寄り、対岸の火高(現在の大高)丘陵の尾張氏館を望見し、
「 鳴海浦を見れば 遠い火高地 この夕浦に 渡らへむかも 」 と叫んだ、と記されている。
成海神社は、これに由来する尾張氏の神社で、延喜式神名帳にも登録されている古社である。
根古屋(鳴海)城が築城された時、敷地にかかることから、北方に移された。
神社の左側の道を上り、左の小道の先が根古屋(鳴海)城祉で、現在は鳴海城址公園になっている。
「 鳴海城は、応永年間(1394頃)に安原宗範によって築かれた城で、その後、今川方の城になっていたが、 桶狭間の戦いで信長軍に攻められて落城し、織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になった。 」
天神社の右側の坂を上ると、円龍寺がある。
寺伝では 「 今から七百年前には奈良の法隆寺に匹敵する伽藍が建つ善照寺という寺だった。 」 とあるが、今はその面影はなかった。
更に上ると鳴海小学校で、道の反対側に「善照寺砦跡」の道標があったが、そこで引きかえした。
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坂を下り、本町交差点まで戻り、ここを右折する。
この通りは家の建て替えが進んでいて、古い家は壊されてしまっている。
右側の自転車屋辺りが二軒あった脇本陣跡のような気がするが、表示杭の類がないので確認できなかった。
その先左側の山車倉の前に「本陣跡」の表示があり、 「 鳴海本陣は間口三十九メートル、奥行五十一メートル、建坪二百三十五坪、百五十九畳の規模だった。 」 と説明板にあった。
右側の路地の奥に、如意寺がある。
本堂の左側の「蛤地蔵堂」は尾張国六地蔵の第四番である。
「 如意寺は康平弐年(1059)に鳴海町上の山で地蔵尊を本尊として「青鬼山地蔵堂」として開山したが、 応永五年(1398)に無住国師が如意輪観音を本堂に祀った際当地に移転し、応永二十年に現在の寺名になった。 」
金塗りの大きな地蔵さんが祀られていると聞いたので訪れたが、 地蔵堂はすりガラスで覆われ、拝もうとしたが賽銭箱もないのでそのまま立ち去った。
「 名古屋市は戦災で焼け野原になった。 伊勢湾台風でも大きな被害があったので、東海道はなくなっていると思っていたが、この先かなりの長い区間が残っている。
有松や鳴海などの緑区は戦災当時は田舎だったため焼失を免れ、
戦災を受けた南区あたりも区画整理計画がなく、道路拡張もハイピッチで行われなかったため、
旧道が残ったらしい。 」
街道に戻ると、作町交差点の三差路に突き当たったので、交差点を右折する。
作町の地名は、桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄父子から付いたとされる。
ここから二百メートル位の道の両脇には古い家がところどころ残っている。
作町のはずれの右側に白壁に黒い板の塀を張り巡らした屋敷が特に大きかった。
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作町交差点から五百メートルほど歩くと三皿交差点で、左右に県道36号が通り、車の行き来が激しい。
東海道は交差点を越えて、北に向かって進む。
作町までは東海道は西に向かっていたのに変に思ったが、
江戸時代は鳴海から熱田にかけての南側は干潟か海だったのである。
現在の地図では想像できないが、明治以降埋め立てられ、現在の地形に変わった。
道の両脇には民家が建ち並んでいた。
その先の右側に、「村社式内成海神社」の石柱が建っている。
「 成海神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田に還座された時日本武尊の縁により鎮座された、 と伝えられ、根古屋城を築城の際、この東方にある二子山に転座された。 」
少し歩くと、丹下町常夜燈が建っている。
隣には天正十五年の「子安地蔵大菩薩光明」の石柱もあった。
常夜燈の正面には「秋葉大権現」、右面に「寛政四年(1792)」、左面に「新馬中」裏面に「願主重因」
と刻まれている。
名古屋市教育委員会の説明板
「 鳴海宿の西の入口、丹下町に建てられた常夜燈で、
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方集の安全と火災厄除けなどを秋葉社に寄願した、
火防神として大切な存在だった。
平部の常夜燈と共に鳴海宿の両端に残っているのは旧宿場町として貴重である。 」
ここまでが鳴海宿である。
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東海道(県道222号)を歩き、鉾ノ木に入ると道路の右側は民家一軒か二軒先から奥は高台になっていて、この先、三王山の先まで続いている。
右側の野原に「鉾ノ木貝塚」の説明板が立っていた。
説明板「鉾ノ木貝塚」
「 縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主とし、
縄文の荒い土器や薄手の細線文土器などが出土した。
上層部から出土した土器は鉾ノ木式と呼称される。 」
説明板から推察すると、今歩いているところは太古は海だったのだろう。
五十メートル先の右側狭い道の入口に、「正一位緒畑稲荷神社」の石柱と「千鳥塚」の道標が建っている。
坂を上ると「千句塚公園」と書かれたレリーフが現れ、
「 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 」 という芭蕉の句が刻まれている。
ここは三王山で、左から上は広場公園になっているが、俳聖芭蕉の有名な千鳥塚は直進で、
五分程上るかなり急な坂だった。
木の下にある「千鳥塚」と呼ばれる句碑は、高さ五十センチ位の小さな青ぽい自然石で出来ている。
「
松尾芭蕉が、貞享四年(1687)冬十一月 寺島安信宅での歌仙の巻が満尾した記念に建てたもので、
碑の表面に「 千鳥塚」 、その下に 「武城江東散人芭蕉桃青」 と芭蕉直筆の文字で刻まれている。
裏面には「 知足軒寂照、寺島業言、同 安信、出羽守自笑、児玉重辰、沙門如風 」 と、
連衆の鳴海六俳人の名が見られる。
側面には 「貞亨四丁卯十一月日」 と興行の年月日が刻まれている。 」
芭蕉存命中の芭蕉塚は全国でもここしかない貴重なものということで、
名古屋市の重要文化財になっている。
その北側には、緒畑稲荷神社 があった。
三王山の高台は見晴らしがよいので、しばし市内を眺めて、東海道に戻った。
この先すぐの三王山交差点では、県道59号線を横断し、直進する。
山下西交差点で広い道と合流し、その先少し上り坂になる。
天白川に架かる天白橋を渡ると名古屋市南区である。
「
天白川は、江戸時代にはすでに同じ名前で、東海道宿村大概帳には「天白川有」と記されている。
東海道名所記には同じ名前ではないが、田畠橋(でんばくはしとあり、長さ十五間(約30m)と書かれている。 」
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天白橋西交差点を越え、赤坪交差点を渡る。
東海道(県道222号線)はその先は右にカーブし、道が細くなる。
その先の三差路の右側に笠寺一里塚がある。
「 笠寺一里塚は、直径十メートル、高さ三メートルの土を盛った上に大きく育った榎(えのき)が生えている。
現在は東側だけが残り、西側は大正時代に消滅している。 」
ここから笠寺の立場で、江戸時代には立場茶屋があったところである。
ここで寄り道をする。
右側の狭い道を入って行くと、小高い岡という感じの場所に出る。
ここは笠寺公園で、簡単なブランコと滑り台もあり、遊び場も兼ねた公園になっているが、上古の
「見晴台遺跡」で、現在も発掘が続けられている。
見晴台考古資料館もある。
説明板
「 見晴台はこのあたりから熱田、御器所、名古屋と台地が続く土地で、旧石器時代から人が住んでいて、
台地の上に幅四メートル、深さ四メートルの大きな濠がめぐらされ、集落が作られていた。
もっとも栄えたのは弥生時代後期から古墳時代前期で、
これまでに百八十軒以上の竪穴住居跡が発見されている。 」
街道に戻ると、茶屋は残っていないが、古そうな家が数軒あった。
五百メートル程行くと、右側の池の向こうに山門があり、「天林山笠覆寺」という石柱が建っている。
道の反対側には「玉照姫」と書かれた大きな石碑かあり、その上には本尊の玉照姫像を祀る泉増院がある。
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右側の池の橋を渡り、笠覆寺(りょうふくじ)の楼門をくぐると、 正面に本堂があり、赤いのぼりが林立していた。
「 笠覆寺は、笠寺観音として多くの参詣客を集めているが、正式の名前は天林山笠覆寺である。
奈良時代の天平八年(736)、善光上人は呼続(よびつぎ)の浜辺に漂着した流木で、十一面観世音菩薩像を刻み、
粕畠に小松寺を建てて観音像を祀ったが、いつしかお堂は荒廃していった。
平安時代に入り、近所の鳴海の娘が野ざらしになっていた観音像に笠をかぶらせお参りをするようになる。
都から来た公卿の藤原兼平(藤原基経の三男)が鳴海宿に立ち寄り娘の話を聞いた。
彼は心優しき娘を妻として迎えた。 彼女は玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれた。
藤原兼平はこの地にお堂を建て、名前も小松寺から本尊の十一面観世音菩薩像が笠をかぶっているので、
笠覆寺に改めた。
笠寺観音の通称で呼ばれてきたので、笠寺の地名もこれに由来するといわれる。 」
京の公卿、藤原兼平と鳴海の少女、玉照姫のロマンスに、笠寺観音が係わる話は面白いと思った。
先程訪れた泉増院が縁結びとして売り出しているのは、この話による。
また、笠覆寺でも燃失した玉照姫と兼平を祀るお堂(玉姫殿)を本殿の右前に再建して、
玉照姫の本家はこちらと主張し、PRに努めていた。
笠覆寺の境内は広い。 本堂の右手に「宮本武蔵供養碑」と「千鳥塚碑」があった。
宮本武蔵供養碑は、百年忌の延亨元年(1744)に建立された「新免武蔵守玄信之碑」と刻まれている石碑で、
武蔵の孫弟子に当たる左右田邦後の子孫と門弟が建立したものである。
隣にある芭蕉の「千鳥塚碑」は、名古屋の医師で俳人だった人が芭蕉三十六回忌に建立したもので、
鳴海にある句碑よりはかなり遅い。
石柱には痛んで良く読めないが
「 星崎の 闇を見よや 啼千鳥 芭蕉翁 」 と刻まれている。
本堂の左手の多宝塔の建立時期ははっきりしないが、江戸時代中期(1753)頃の建立らしい。
塔の奥に幾つかの句碑が建っているが、湿気で風化して、文字が読めない状態。
その左側に、芭蕉の弟子の鳴海の俳人・下里知足の孫、 鐵叟 亀世 が 安永弐年(1773)に建立した、
「春雨塚」と呼ばれる芭蕉の句碑があった。
「 句碑の表には 「 此の御寺の縁起の人のかたるを聞侍りて 」 とあり
笠寺や もらぬ岩屋も 春乃雨 芭蕉翁桃青
たびねを起す 花の鐘撞 知足
かさ寺や 夕日こぼるる 晴しぐれ 素堂
大悲の この葉 鰭となる池 蝶羽
裏面 「 かさ寺や 浮世の雨を 峰の月 鐵叟 亀世 」
寺の境内には多くの常夜燈や延命地蔵尊を始め、多くのお堂があった。
また、参拝者も多く訪れていた。
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西門を出るとアーケードのある笠寺商店街だが、大力餅の看板があり、門前町のような通りだった。
商店街を抜けると笠寺西門交差点で、広い道の左側に「笠寺の由来」の石碑が建っていた。
交差点を越え、名鉄の踏み切りを渡ってすぐの交叉点で、東海道は永くお世話になった県道222号と別れ、
右側の狭い道に入る。
ここからしばらく車の少ない道が続く。
「これより呼続(よびつぎ)」 と書かれた旧東海道の道標は新しいが、
それはそのはず、宿場制度四百年を記念して造られたものである。
「 呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことからといわれるが、 江戸時代は四方を川と海に囲まれた陸の浮島のようなところだった。 巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれた。 」
江戸時代の公家・土御門泰邦は、陰陽家で宝暦の改暦の当事者であるが、 宝暦十年(1710)に江戸に下った際の紀行文 「東行話説」 で、東海道宮の渡しの 呼続の浜 を 「 松風や 夜寒の里に なれていた つるは千年を ゆびつぎの浜 」 と詠んでいる。
しばらく行くと、左に入る道があり、突き当った右側に、富部神社がある。
「 富部神社は慶長八年(1603)、津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社で、
尾張の領主・松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、
本殿、祭文殿、回廊が建てられた。
本殿は一間社造、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、
国の重要文化財に指定されている。
祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っている。
明治維新の神仏分離で神宮寺は潰され、神社もその目に遭いそうになったが、
素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、難を免れた、という。 」
街道に戻ると、道の右側に「桜神明社あり」の案内があるので、右の小道に入り、道なりに進む。
狭い道なのに両側の家には車が駐車している。 うまく入れるもんだと感心しながら歩いた。
目当ての桜神明社の社殿は、名鉄踏み切り手前の左側の木が茂る奥にあった。
社殿は五世紀に築かれたという直径三十六メートル、高さ四メートル五十センチの古墳の上に造られていた。
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街道に戻ると左側に大正時代に建てられた「名古屋十名所」と書かれた石柱と赤い鳥居があった。
中に入って行くと、羅漢様かどうかわからぬが、石仏が至る所に置かれていた。
清水稲荷神社は、豊川稲荷のように寺院系の稲荷で、
西隣の長楽寺の鎮守・清水叱尼真天 が安置されている。
「宿駅400年記念石碑」 があり、 「 江戸時代、東海道が通っていた呼続浜は潮騒が磯を洗い、
大磯の名を残す。
ここで作られた塩は、星崎あたりから北にのびて飯田街道に接続する塩付街道を通って、小牧や信州に運ばれた。 」
と書かれていた。
呼続小学校を過ぎ、県道56号を横断し進むと、左側にあった誓願寺は、民家と変わらない造りの家である。
その先右に少し入ると左側に秋葉神社がある。
その手前の質素な建物は、地蔵院で、その前にある石像は「湯あみ地蔵」といわれ、
湯をかけて拝むと願いがかなうという言い伝えが残る。
街道に戻ると、左側に北西に進む道があるので、
三百メートル弱行くと突き当たりに、白毫寺があった。
元亀弐年(1571)の創建と伝えられる寺院で、
建物はそれほど古いものではないが、門前の楠は名古屋市の保存木に指定されている。
ここは高台で 「年魚市潟勝景」 と刻まれた石碑が建っていた。
昔、このあたりは、 年魚市潟(あゆちがた) と呼ばれ、知多の浦を望む勝景の地であったという。
万葉集に 「 桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る 」
「 年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ 」
と歌われ、「あゆちがた」は歌の枕詞に使われる名勝だった。
愛知は、上記の歌の年魚市潟に由来するといわれ、「 あゆちがあいちに転じた 」 と愛知県史にある。
明治時代以降、この周辺は埋め立てられて、民家が立ち並び、海が遠くなってしまったので、
万葉の風景を想像することは難しかった。
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街道に戻り、少し行くと交叉点がある。
左右の道は鎌倉街道で、東海道が南北にこれと交差している。
交叉点を過ぎると少し先から坂道に変わった。
江戸時代には「山崎の急坂」と呼ばれたもっと急な坂である。
山崎の立場茶屋が建ち、かなりの賑わったといわれるところだが、今は住宅地帯である。
坂を下ると山崎川で、橋のたもとに「山崎橋」と刻まれた橋標が残っていた。
橋を渡ると名古屋市瑞穂区である。
道を左折して、信号交叉点を渡ると左側に名四国道事務所があり、
右側にブラザー工業瑞穂工場がある。
その先で、有松から続いた東海道は国道1号線に合流してしまった。
松田橋交差点は国道1号と都市高速道路とが交差して交通量が多いが、陸橋があったので安心して渡れた。
三百メートル程国道を歩くと内浜交叉点で、右側のトヨトミの大きな広告塔のところで国道は坂道になり、
陸橋である。
東海道はここで国道と別れ、左側の小道を下る。
東海道線の踏み切りがあり、東海道線を越えると左側に石仏を納めた小さな社がある。
その先に新堀川が流れているが、小高くなっている熱田橋を渡る。
橋を渡ると名古屋市熱田区伝馬三丁目だが、
江戸時代には「宮縄手」と呼ばれ、松並木になっていたという。
今は松並木はないが古そうな家が数軒あった。
名鉄の鉄橋の下を通り抜けると、右側の三角地(伝馬街園)に宮宿の案内板が建っている。
このあたりに「伝馬町一里塚」があったようである。
少し歩くと道の左側のコンクリート製の建物の前に「裁断橋」と書かれた橋状のものがあった。
江戸時代には建物の手前に精進川が流れ、裁断橋を渡ると左側に姥堂があり、
宮宿の東側の入口だったという。
「 精進川は暗渠になり今は川は見えない。
川が無くなってしばらくして復元されたのが裁断橋で、元の橋の三分の一の大きさとあった。 」
裁断橋とは変な名だが、熱田神宮の社人が罪を犯したときにこの場所で裁断されたことに由来する。
「
小田原合戦に出陣し病気で亡くなった十八歳の息子の供養として、母が菩提を亡うため、
老朽化していた裁断橋の修築を思い立ち、天正十八年(1590)に橋を架け替えた。
その際、橋の欄干の柱頭に付ける擬宝珠にかな文字の銘文が刻まれたが、
それが橋を渡る人々の心を打ち、有名になった。
その擬宝珠は、今は市の博物館に保管されている。 」
姥堂前の左側にある「裁断橋橋桁」と表示された石柱は、打ち棄てられていた橋石の一部である。
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安藤広重の東海道五十三次「宮宿」には、七里の渡しの風景が描かれている。
「
宮宿(みやしゅく) は、熱田社の門前町であることに加え、佐屋街道、美濃街道、木曽街道の追分であったことから、海道一の宿場といわれた。
江戸時代後半には二千九百軒を越える家があり、人口も一万人を越えた。
駿府宿は一万四千人だったが、家康の隠居城のあった城下町なので、宮宿が宿場としては一番といえよう。
宿内には本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠は実に二百四十八軒もあった。 」
道の左側の「姥堂」と刻まれた石柱の奥にあるコンクリート製の建物が姥堂である。
説明板「姥堂」
「
姥堂は延文三年(1358)、法明上人により創建されたといわれるので歴史は古い。
本尊の姥像は熱田神社より移したと伝えられる。
「オンバコさん」 と呼ばれる姥像は高さが八尺の大きな坐像で、
江戸時代の俚謡に 「 奈良の大仏を婿にとる! 」 と歌われ、東海道筋にあったことからお参りに寄る旅人が多かった、といわれる。
昭和二十年三月の名古屋大空襲で建物も仏像も燃失した。
現在の仏像は平成に入り作成されたもので、約四十センチと小さい。 」
右奥には「都々逸(どどいつ)の発祥の地」の碑があった。
その先の交差点を左折し、三つ目の交差点を右折すると、左側の白いブロック塀の上に、
「徳川家康幽閉地」と書かれた説明板があった。
説明板「徳川家康幽閉地」
「 天文十六年(1547)、徳川家康が六歳の時、織田信秀(信長の父)の許に人質に出され、
熱田の豪族・加藤順盛の屋敷に幽閉され、その後、那古屋城内にも幽閉された、といわれる。
天文十八年(1549)一月、竹千代八歳の時、岡崎城に戻されたが、再び、今川家の人質として駿府に送られた。 」
街道に戻ると、鈴之御前社という神社があった。
東海道の道筋を辿ると大きな道が現れ、その先に伝馬町商店街のアーケードが見えた。
大きな道は南西の内田橋に向う道路で、横断歩道がないので、右手の伝馬町交差点まで行く。
折角なので、熱田神宮へ寄り道をする。
交叉点を左折し、北に向うと熱田神宮の広大な社域が現れ、森の奥の方に熱田神宮の社殿がある。
「 日本武尊が、東国平定の帰路に尾張へ滞在した際、尾張国造の娘・宮簀媛命と結婚し、
草薙剣を妃の手許へ残した。
日本武尊が能褒野で亡くなった後、宮簀媛命は熱田に社地を定め、
その剣を奉斉鎮守したのが熱田神宮の始まりとされる。 」
熱田神宮は地元では熱田さんと呼ばれて信奉されているが、初詣は二百万人とすごい人出である。
宮宿の名はここから生じたが、今でも鬱蒼たる社叢や広大な神域を持ち、荘厳で風格が漂っている。
熱田神宮南にある蓬莱軒神宮南門店の近くには「林桐葉旧宅」という表示板がある。
説明板「林桐葉旧宅」
「 林桐葉は松尾芭蕉の弟子というか、スポンサーのような存在で、
鳴海で酒作りをしていた下里千足を芭蕉に紹介したのも彼であり、
貞享四年(1687)には熱田三歌仙を編纂している。
松尾芭蕉が貞享元年(1684)冬、野ざらし紀行の際に立ち寄り、句会が実施されたが、その後もしばしば訪れている。 」
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伝馬町交差点まで戻り、東海道の対面にあるアーケードのある伝馬町商店街を進む。
突き当たりの三叉路には小さなお堂があり、「ほうろく地蔵」が祀られている。
由来書
「 ほうろく地蔵は三河の国の重原村(現在の知立市)にあったが、
野原の中に倒れ、捨て石のようになっていた。
三河より焙烙(ほうろく)を売りに尾張に出てきた商人が、この石仏を荷物の片方の重しにして運んできたが、
焙烙が売り切れた後、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまった。
地元の人が捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしたが動かない。
その下の土中から台座が出てきたのである。 そこで、この地蔵を台座に乗せてここに祀ることにした。 」
三叉路の左側の民家の片隅には大変重要な道標が建っている。
道標の「北」と刻まれた下には 「 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁 道 」、
「東」の下には 「 北 さやつしま 同みのち 道 」 、「西」には 「 東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」 、「南」の下には 「 寛政2庚戌年 」 と刻まれている。
「
道標を南に行けば東海道で、七里の渡しへ、北に向えば熱田神宮、佐屋、津島、美濃路、名古屋、木曽道。
東に向えば江戸への東海道を示す追分道標で、寛政弐年(1790)に建てられた。
舟で京に向う旅人は東海道を、舟を利用しない人達は右折して、佐屋街道か美濃街道に向かったのである。 」
東海道は左折すると国道247号に突き当たる。
当時の道はここで斜めに国道を横断する形になっていた。
歩道橋を利用して国道を横断するが、歩道橋の上から、その先の道が見えた。
歩道橋を降りると古い建物の畳屋があったが、東海道はその先の「蓬莱陣屋」の脇を斜めに通る細い道である。
このあたりに、熱田奉行所(陣屋)があった。
蓬莱陣屋は、陣屋の名を借りたのだろうが、明治六年創業の老舗割烹である。
「 宮宿には本陣が二つあり、赤本陣と白本陣と呼ばれたが、赤本陣は陣屋の北にあり、
二百三十六坪の規模だったが、空襲で消滅してしまい、駐車場になっている。
白本陣は伝馬町に、脇本陣は渡しの前にあった。 」 と記録にあるが、
場所は確認できなかった。
どちらにしても蓬莱陣屋付近に陣屋と赤本陣があったことは間違いないだろう。 」
陣屋の角を曲がり、細い道を歩くと右側にモダンな宝勝院という寺があった。
「 名古屋市は戦後、空襲で破壊された市内の寺社の墓地を郊外の平和公園に集めるという政策を採ったので、 市内の寺には墓地がないのが普通である。 戦災にあった建物もビルやマンションのような建物も多い。 」
例外でない建物の前に 「 当寺は七里の渡しの常夜燈の燈明を承応三年(1654)頃から明治二十四年(1891)まで管理していた。 」 と書かれた説明板があったが、これだけが過去を語っているような気がした。
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程なく、掘川の岸にある宮の渡し公園に到着した。
ここは江戸時代の「七里の渡し」の跡地を整備したという公園で、時の鐘を鳴らす鐘堂があった。
「 時の鐘は延宝四年(1676)、尾張藩二代目、徳川光友の命により、熱田蔵福寺に設置された鐘で、
その正確な時刻は住民や七里の渡しを利用する旅人に重要な役割を果たした。
昭和二十年の空襲で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷もなく蔵福寺に今も保存されている。
鐘楼は昭和五十八年に、往時の宮宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設された。 」
時の鐘の先には「七里の渡し」の石柱と、常夜燈が建っていた。
「 常夜燈は寛永二年(1625)、熱田須賀浦太子堂に建立されたが、その後、承応三年(1654)に現位置に移り、
宝勝院に管理が委ねられた。
寛政三年(1791) 付近の民家からの出火で焼失し、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃し、
現在のものは昭和三十年に復元されたものである。 」
桑名に渡る七里の渡しの舟が出たところには、当時を再現した船着場がある。
「 桑名に渡る渡しは、慶長六年(1601)に東海道の宿駅制度が制定され、
「 桑名宿と宮宿間は海路七里の渡船 」 と定められたことにより誕生した。
潮の満ち引きや海流の変化に左右され、三時間から四時間かかった。
七里の渡しは往々にしてしけにあって欠航することがあり、また、海便を苦手にする人は陸路をとった。 」
伊勢湾台風以降、港湾の整備が進み、この辺りの景観が変ってしまい、
江戸時代の渡し場という雰囲気は感じられない。
公園前の道の反対側にある熱田荘とその右側の江戸時代に脇本陣格だったという旅籠の建物だけが、
宮宿があった街道の面影を伝えている。
これで、宮宿と七里の渡しは終わる。
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