江戸時代、西三河地方は水が不足した荒地だったが、明治用水の完成により緑の農地が生まれた。
それを祀るのが明治川神社である。
知立宿は池鯉鮒宿とも書かれ、古来より馬市や木綿市が開かれた土地である。
宿場のはずれにある無量寿寺や業平寺は八橋のかきつばたの故事とともに有名である。
(ご参考) 岡崎〜池鯉鮒 14.9キロ 徒歩約5時間40分
愛知環状鉄道の高架下の「八帖村」の道標を真っ直ぐ行くのが東海道で、八帖往還道である。
「八丁蔵通り」の表示があり、ここは赤だし味噌を造る八丁味噌の郷である。
「 完成までに三年の年月を要する八丁味噌は明暦元年(1655)に朝鮮通信使が岡崎に宿泊した時、使節より伝えられたといわれる。 」
右折をするとカクキュー八丁味噌(早川家、創業正保年間)があり、資料館と味噌蔵を見学することができる。
カクキューを見ながら直進すると、左側にまるや八丁味噌(大田家、創業永禄年間)がある。
道の両側には古い家並があり、香ばしい味噌のにおいを楽しみながら歩いた。
突き当たりの丁字路には昭和六十一年に建てられた 「左江戸 右西京」 と書かれたた道標が建っている。
東海道はここを右折すると、国道1号線に合流。 三叉路を左折して、国道に入ると、正面は矢作川。
矢作川には昭和二十六年に完成した全長二百七十六メートルの橋が架かっている。
「 岡崎の発展は水運によるところが大きく、この矢作川も、往時は奥三河との物資輸送の役割を担っていた。
徳川幕府は東海道の主要な川に橋を架けるのを禁じたが、
矢作川には慶長六年(1601)にここから百メートル程下流に、長さ七十五間(約136m)の土橋を架けた。
橋ができたことにより、矢作川の川岸にあった矢作宿は存在価値をなくして廃止になった。
慶長十二年八月に大水が出て橋が流されたが、
その際、八帖村の家屋が流されて、被害に遭った人々が伝馬町の北側に移り、
榎町(祐金町)の人は南側に住み替えて、現在の伝馬町になった。
伝馬町に旅籠が集中していたのはそうした理由による。
寛永十一年(1634)に、長さ二百八間(約378m)の板橋が完成した。 」
安藤広重の「岡崎宿」の浮世絵には、 左下から右奥へと弧を描く堂々とした橋を主役に、その上を城下に向って歩を進める一行が描かれて いる。
「 矢作橋はその後洪水などによる流失で、九回も架け替えが行われた。
幕末から、明治十一年(1878)に十回目の新橋が完成するまでの約二十三年間は、橋がなく渡船による通行で、
明治元年の明治天皇東征の際は舟橋を利用した。
幕末の尊王攘夷の動きを考え、江戸幕府は、橋を再建を遅らせたのだろうか? 」
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矢作橋を渡ろうとすると橋の架け替え工事中で、ガードマンの指図であわてて渡ったが、
かなり大掛かりな工事で、工事関係者の話では今年中には終わらないとのことだった。
(注)現在は十六代目の橋の工事は終了し、以下のような橋になっている。
「 老朽化や耐震化などの観点からの橋への掛け替え工事を平成十八年(2006)十月に着手、
平成二十三年(2011)三月に長さ三百メートルの橋が完成した。
車幅は3.25mから3.5mに、歩道の幅も1.75mから3mに広がった。 」
橋を渡り終えると橋の右側に槍を持つ武士と子供の像があるはずだった!!
日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と阿波蜂須賀小六とが、この河岸で運命の出会いをした姿を像にした「出会いの像」である。
ところがその像がない!! そこにあったお断りには 「 橋の工事で一時撤去、橋が完成したら、また、
この場所に置く 」 とあった。
(注)掛け替え工事のため、撤去されていた出合之像は工事終了後の2014年1月に元の場所に戻された。
なお、日吉丸(豊臣秀吉の幼名)が蜂須賀小六(正勝・蜂須賀家の始祖)に出逢った頃は橋はなかったはずで、
吉川英治の太閤記では 「 無一文の日吉丸が腹を痛め川に繋がれた小船で寝ていると、
たたき起こしたのが川を渡る船を捜していた小六だった。 」 とあり、橋は出てこない。
東海道はこの先を左折して細い道に入る。
このあたりは旧矢作村で、江戸時代に橋が架かる前は矢作宿があったところである。
右側に「親鸞聖人の旧跡」とある勝蓮寺、左側には「近江屋本舗)というお菓子屋さんがある。
古い家はほとんどないが、雰囲気のある家並みである。
その先の右側に、弥五騰神社があり、
鳥居手前の右側には 「 南無日蓮大菩薩・・ 」 と刻まれた大きな石柱が建っていた。
少し先の右奥に往生要集を著わした恵心僧都が長徳三年(997)に建立した、と伝えられる誓願寺(せいがんじ)がある。
街道に面して十王堂があった。
説明板
「 寿永三年(1135)三月、矢作の兼高長者の娘、浄瑠璃姫は、源義経を慕うあまり、
菅生(すごう)川に身を投げた。
長者は姫の遺体を当寺に埋葬し十王堂を再建し、義経と浄瑠璃姫を弔う木像を作り、
義経より姫に贈られた名笛薄墨と姫の鏡を安置した。
堂内には十王の極彩色の像と地獄と天国の姿が描かれている。
なお、浄瑠璃姫と義経の伝承から生まれたのが浄瑠璃節(義太夫節の別名)である。 」
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この細い道は長くは続かず、安城街道入口交差点で、再び国道1号線に合流してしまった。
ここから二キロ弱はこれといったものもないので、ただ黙々と国道を歩くことになる。
鹿乗橋を渡り、宇頭町を過ぎると安城市に入った。
尾崎東信号交差点で、道は二又に分かれるが、右側の松並木がある道に入った。
これが東海道で、国道の喧騒から逃れられて、ほっと一安心!!
しかし、道に区分された歩道はなく、線が引かれているだけ。 従って、溝の蓋を歩くのが楽で安全ということになる。
しばらく行くとうっそうとした森が見えてきた。
熊野神社バス停があり、右側に熊野神社があり、境内は大変広い 。
この辺りは、昭和十九年に土浦海軍航空隊分遣隊として創設された第一岡崎海軍航空隊の跡地である。
第一岡崎海軍航空隊は、劣勢挽回のため、搭乗員養成を目的として創設されたが、
翌年、終戦により解散した。
鳥居の脇に「予科練」の碑があった。
「 此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり
自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の
猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり
生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく
間もなく血涙をのんだ終戦
爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである 」
と、あった。
航空隊の跡地は戦後の食糧難時代に開墾されて、農地になっていた。
鳥居の前を通り過ぎたところに「一里塚跡」の小さな石碑と目明しの松があった。
その脇の案内板は一里塚の説明かと思ったが、鎌倉街道の説明だった。
「 鎌倉幕府は、建久三年(1192)、鎌倉と京都の間に鎌倉街道を定め、六十三ヶ所の宿場を設置した。
西三河の鎌倉街道は、この先の知立市八橋の根曲がりの松から安城市の里町森の不乗森(のらすのもり)神社を
出て、証文山の東を通り熊野神社に至り、ここで右折し南東の方向に下って行き、
西別所を通り山崎町を経て岡崎市新堀町に向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。
街道が神社の森を通り抜けたので、踏分け(ふみわけ)の森と呼ばれていた。 」
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少し歩くと宇頭茶屋交差点で、左右の道は県道76号である。
旧宇頭村は立場茶屋があったところで、交叉点とバス停の名前になっていた。
交叉点を越えると、道の左側に大きな松がある妙教寺、右奥に内外神明社がある。
その先に宇頭茶屋説教所バス停があり、右側に入ると寺のような建物はあった。
住職がいる様子はなく、説教所の意味が分からないまま終わった。
このあたりの地名は大浜屋敷、北屋敷、南屋敷である。
「 この一帯は江戸時代の大浜村で、ここにも茶屋があった。
天保十四年(1842)には宇頭茶屋と大浜茶屋で、宿争いが起きている。 」
その先右側に、永安寺がああり、大浜茶屋の庄屋・柴田助太夫の霊が祀られている。
「 柴田助太夫は、村民の窮乏を見かねて助郷の免除を願い出て、刑死された人である。 」
寺の境内の右側に枝を左右に大きく伸ばしている立派な松(雲龍の松)がある。
「 幹が上に伸びず、地をはうように伸びていて、
その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする龍を思わせることから、雲龍の松という。
樹高四メートル五十センチ、枝張り東西十七メートル、南北二十四メートル、樹齢は三百年以上の老木で、
愛知県の天然記念物である。 」
街道に戻り、浜屋バス停を過ぎると、右手に松の木が見えてきた。
明治川神社交差点を越えた右側に「明治用水」の記念碑が幾つかあった。
その中に、明治十三年(1880)四月の新用水成業式(竣工式)に出席した松方正義が揮毫した
「 疎通千里 利澤万世 」 と刻まれた石碑がある。
「 明治用水は、江戸時代の末期、碧海郡和泉村(安城市和泉町)の豪農・都築弥厚が、碧海(へきかい)台地に、
矢作川の水を引き、開墾を行うという計画で始まった。
幕府の許可は得られたが、弥厚が病死。
その後、岡崎の庄屋・伊豫田与八郎(いよだよはちろう)が計画したが、諸藩の了解が得られず、頓挫。
石井新田(安城市石井町)の開拓農民・岡本兵松(おかもとひょうまつ)の計画は、
幕末の混乱で進まず、明治を迎えた。
伊豫田と岡本の計画は愛知県の仲介により統合され、明治十二年(1879)に工事を始め、
明治十四年に西井筋が完成して、明治用水と名付けられた。
そうして造られた明治用水は現在は暗渠になっている。 」
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左側に明治川神社の石柱と鳥居があるので、神社の境内に入っていった。
「 明治川神社は用水完成後設立が企画され、明治十七年に創建された。 明治用水の開発に功績のあった都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎等を祀っている。 」
街道に戻り、また、歩き始める。
道の両側に松並木が現れ、やがて両側が工場地帯となったが、松並木は続いている。
大きなものは樹齢二百年〜二百五十年にもなり、市の天然記念物に指定されている。
しかし、あるところまで行くとなくなった。
ところがまた現れ、その後は現れたり消えたりを繰り返した。
松並木があるところには歩道もあり、松並木が途切れると、歩道も消えてしまう。
明治川神社交叉点から約二千五百メートル、石田橋を渡り、猿渡川に架かる猿渡川橋を渡ると知立市になる。
その先、三叉路の来迎寺町交差点の角の道とガードレールの間に、元禄九年(1698)に建てられた道標がある。
在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標である。
道標の正面に 「八橋業平作観音従是四丁半北 有」、脇に 「八橋無量寿寺 」 と刻まれている。
多くの歌人が素材にした在原業平とカキツバタなので、立ち寄ることにする。
ここを右折して約一キロを歩くと、突き当たりに、カキツバタで有名な無量寿寺がある。
「 無量寿寺は臨済宗妙心寺派に属する寺で、奈良時代の慶雲元年(704)の創立といわれ、
弘仁十二年(821)にこの地に移され、無量寿寺となった。
その後、荒廃したのを文化九年(1812)、方巌売茶(ほうがんばいさ)翁により再建され、
杜若庭園もこの時完成した。
寺の本尊は正観音像で、在原業平の作と伝えられる。 」
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本堂前の小高いところに寛保二年(1741)の建立の「亀甲碑」と呼ばれる八橋古碑が建っている。
説明板
「 亀の台座の上に碑柱が立つ「亀甲碑」で、
碑文は荻生徂徠の門人がこの地を訪れ、八橋と在原業平の故事について漢文でまとめたものである。 」
隣に松尾芭蕉の連句碑がある。
「 かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉 」
「 麦穂なみ よるうるおいの里 知足 」
と刻まれている。
「 下郷知足の子孫・下郷学海が、安永六年(1777)に建立したものである。
芭蕉は、貞享弐年(1684) 「のざらし紀行」 の旅を終えたが、
翌年四月、木曽路を経ての帰途、鳴海の俳人・下郷知足の家に泊り、歌会を開いた時の作といわれる。 」
寺の裏にまわると 「伝説羽田玄喜二児の墓」 と書かれた二つの並んだ墓があった。
説明板
「 二児の水死を悲しみ、当寺で尼になった母親が建てた墓で、村人の力で、
入り江に八つの橋を架けたことから、この村は八橋と名付けられた、と伝えられる。 」
無量寿寺はかきつばたで有名である。
「八橋(やつはし)を有名にしたのは伊勢物語の第八話の東下りである。
「 ある男(業平と想定されている)が都から道に迷いつつ、この地にたどり着いた。
川が幾筋も流れ、 水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つにわたせるによりてなむ 八橋といひける。
燕子花(かきつばた)が水辺に美しく咲いていたので、
連れの者と 「 かきつばた 」 という五文字を句の上において歌を詠もうということになり、
その男は次のような歌を詠んだ。
「 唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う 」
訪れた時期が悪く、花のかけらもない時期なので、八橋庭園は閑散としていた。
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在原業平が茶を飲んだという井戸が残っていた。
花崗岩で作られた宝しょう印塔の「杜若姫供養塔」があった。
「 杜若姫は小野中将篁(たかむら)の娘と伝えられ、 在原業平が東下りの時、在原業平を慕って来て、八橋の逢妻川で追いついたが、 業平の心を得ることができず、悲しんで池に身を投げて果てたという、悲しい話が伝えられている。 」
折角の機会なので、在原寺に向かう。
二百五十メートル弱道を戻ると右側に淨教寺がある。
入口の鐘楼門は宝暦(1757)の建立、延享元年(1744)に鋳造された鐘は第2次大戦時に供出したので、
新しいものである。
その先の交差点を右折すると道巾が狭い道になった。
この道は鎌倉街道といわれるが、車線は一台分強なので、車はすれ違いに難儀していた。
少し行くと左側の小高いところに在原寺が見える。
寺に入る坂の途中に、 「 萩刈って 松籟ばかり 在原寺 経四楼 」 と刻まれた常夜燈が建っていた。
「 在原寺は臨済宗妙心寺派の寺で在原業平立像が祀られている。
寛平年間(889〜897)、在原塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられ、一時途絶えたが、
文化六年(1809)に方巌売茶によって再建された。 」
本堂前の右側に「業平の竹」、左側に業平ゆかりの「ひとむらすヽき」が植えられている。
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本堂の手前にある、種田山頭火の句碑には昭和十四年(1939)、当地を訪れた時詠まれた句が刻まれている。
「 むかし男ありけりという松が青く
はこべ花さく旅のある日のすなほにも
枯草にかすかな風がある旅で
業平塚にて 山頭火 」
本堂の左側奥に、義玄句碑がある。
「 いつも聞く 家ははや寝て 遠砧(とうきぬた) 」 という句が刻まれていた。
説明板「 兼子義玄」
「 兼子義玄は尾張藩士の子として生まれたが、
嘉永五年(1822)、在原寺に入寺し、仏門に仕えるかたわら俳諧をたしなんだ。
義玄の俳風を慕って多くの門人が集まった。 」
在原寺には句碑が多くあるので、歌を詠む人が多く訪れるときいた。
本堂の奥に古い墓石がいくつかあったが、その中に無量寿寺で八橋の名前の由来に 登場した二児の母「師孝尼の供養塔」といわれる宝しょう印塔(室町時代のもの)があった。 、
在原寺を後にして西に向かうと、左の小山に「鎌倉街道の根上りの松」と呼ばれる黒松があった。
説明板「根上りの松」
「 安藤広重の東海道名所図会に描かれている松とも言われ、
根の部分にあった土が年月を経て流出し、根が上ったように見えることからその名が付いた。
鎌倉街道の松並木の一部という説もあるが、どれくらい古いのかは分からない。 」
名鉄三河線の踏み切りを渡った右側の小高い塚が、業平の菩堤を弔うため築かれた「業平塚」である。
在原寺縁起に 「 寛平年間(889〜897)、業平の骨を分骨し八橋川辺りの地に塚を築いた。 」 と伝えられる高さ十メートル程の塚だが、隣に工場があるため見晴らしはよくなかった。
塚の上に祀られている「業平供養塔」は鎌倉末期頃、業平をしのんで建立されたもので、
塔身に「金剛界四仏」と梵語で刻まれた関西式といわれる宝篋印塔だった。
傍らには数百年もの年月を経た松があったが、伊勢湾台風で枯死したので、今はない。
江戸時代、東海道を旅する人に在原業平の古跡は人気があったようで、わざわざ遠回りして、
無量寿寺や在原寺、根上りの松などのあるこの鎌倉街道を歩いたようである。
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塚の下に「八橋伝説地碑」があり、「 この先に流れる逢妻川が当時は蜘蛛の手のようになっていたので、 「くもで」が歌の枕詞になるくらい有名だった、と書かれていた。
謡曲の「杜若(かきつばた)」の東下りの段には
「 ささがにの蜘蛛手にかかる八橋や。 澤邊に匂う杜若。 在原の中将のはるばる来ぬと詠ぜしも。
今身の上に知られたり。 」 とある。
十六夜日記には「 ささがにの蜘蛛手あやふき八橋を夕ぐれかけてわたりぬるかな 」
とある。
今の風景では、蜘蛛手 にかかる川筋はぴんとこないが、狭間(はざま) のような土地だったのだろう。
この先に業平がかきつばたの歌を詠んだとされる、落田中の一本松があるが、
そこまでは行かないで引き返し、
淨教寺のある交差点で右折して、先程の無量寿寺道標で、東海道に戻った。
約二時間を要したが、伊勢物語の旧績に寄られることをお勧めする。
東海道を少し歩くと、道の左側に来迎寺の一里塚があった。
「 左側だけかと思ったが、右の駐車場に入ると民家の間にもう一つの一里塚があった。 」
七百五十メートル歩くと衣浦豊田道路が左右に通っているが、 その手前の右側に道標が建っていた。
「 片方に 「従是五丁北 八橋業平作・・・ 」 と刻まれ、もう片方には 「無量寿寺」 と書かれているもので、この道標は来迎寺町交差点で見たと同じ無量寿寺への道しるべで、無量寿寺へは東海道でなく左に入る整備された散歩道を行く。 」
散歩道に入ってみた。
「明治用水緑道」と称するこの道は、明治用水を暗渠にした際、その上に造られた道で、
ところどころに置かれた看板には明治用水の歴史が解説されている。
その先左手にある公園には「弘厚の夢」と書かれた石碑があった。
明治用水建設のきっかけを作った都築弥厚(つつぎやこう)の顕彰碑である。
なお、無量寿寺へはその先にある来迎寺小学校で、左折する。
説明板
「 江戸時代の西三河と知多半島は河川のない荒地で、農民は水の確保に苦労していた。
水不足を用水をつくることで解決しようとしたのが碧海郡和泉村の豪農の都築弥厚である。
碧海台地に矢作川の水を引き開墾を行うという計画を幕府に提出し許可を得たが病没してしまった。
明治用水は明治十二年(1879)に工事を始め、明治十四年に西井筋が完成したがその後も工事が続いた。
戦後に愛知用水が作られたのもこうした先人の努力によることが大きい。 」
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衣浦豊田道路の高架下の新田北交叉点を過ぎると、松並木が現れる。
ここから国道1号線が通る御林交叉点までの五百メートル程の間は松並木が続く。
「 江戸幕府の五街道の制定により、慶長九年(1604)、東海道に一里塚と松並木の整備が義務付けられた。 東海道の道巾六メートルに今でも百七十本ほどの松が残っていて、地元では、知立の松並木と、呼ばれている。 」
道の両側には工場が立ち並び、走る車が多いという環境の悪さなのに、松の保存状態は良いように思われた。
松の樹姿を眺めながら歩く。
松は歩道に向かって曲がっているものもあり、時代を感じさせる味わいがある。
道を歩いて行くと「馬市之跡碑」があった。
市教育委員会の資料に、「 この松並木の特徴は側道を持つことだが、
これは馬市の馬をつなぐためのものと推定される。
また、この付近には四百頭から五百頭の馬が繋がれ、馬の値段を決めるところを談合松といった。 」 とある。
安藤広重は、東海道の池鯉鮒宿を 「首夏馬市」 と題し、東野で行われた馬市の様子を描いている。
描かれたのはこの一帯のどこかで、
馬市ではおびただしい馬のいななきが聞こえたことだろうから、一帯のにぎやかだったことは想像できよう。
「 池鯉鮒(ちりゅう)は、現在は知立という地名を使用しているが、
江戸時代には池鯉鮒の方が多く使われた。
この地は古来より馬市や木綿市が開かれた地で、
中世は鎌倉街道の要衝として江戸期は宿場町として賑わいをみせた。
現在でも知立はこの地方の交通の要路として重要な位置を占めていることに変わりはない。 」
大宝弐年(702)、持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌の万葉歌碑があった。<
「 引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾 長忌寸 奥麻呂 」
(ひきまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびの しるしに ながのいみき おくまろ)
傍らの説明板には 「 松並木西の地名を引馬野と呼ぶが、 この歌から天皇が駿河の興津とともにここに立ち寄られたことは明らかである。 」 という趣旨が書かれていた。
俳人、麦人が和田英作を当地に訪れた際に詠んだ句が「馬市句碑」になっていた。
「 かきつばた 名に八ッ橋の なつかしく 蝶つばめ馬市 たてしあととめて 」
国道1号線の御林交叉点で松並木が終わるが、その手前の大きな松の木の下の祠に、
小さな石仏が祀られていた。
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東海道は、御林交叉点のその先にも続いているので、国道1号線を地下連絡道を歩いて反対側に出る。
出たところの左側の小さな祠に、石仏が祀られていた。
名鉄三河線を越えると右側に防災小屋(国土交通省)と書かれた倉庫があった。
その先の三叉路で右折すると、県道51号線の山町交叉点に出る。
交差点の先には幟がひらめいている。 その先にあるのは桜馬場にある慈眼寺である。
境内には 「 馬頭観世音菩薩及家畜市場 」 と書かれた、大きな石柱が建っていた。
説明板
「 知立は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係から馬市が栄えたといわれる。
馬市は四月二十五日に始まり五月五日に終わった。
当初、知立宿の東の入口にあたる東野で行われていたが、明治に入りこの寺の境内に移った。
昭和初期までに、馬が牛に代わったものの鯖市も兼ねて賑わったが、昭和十八年を最後に市場の幕を閉じた。 」
傍らの草むらにも 「 馬の碑 刈谷馬車合資会社 」 と刻まれた石碑があった。
「 馬の碑は街道で亡くなった馬の供養碑で、刈谷馬車合資会社は明治に入り各地に誕生した馬車を営業する会社の一つである。 しかし、馬車は車の登場により、やがて終わりを告げた。 」
先程松並木で見た馬市之跡碑といい、ここの家畜市場石柱も含めて、
知立が物流に関わる馬を扱っていたこととそれが輝いていた時代を知った。
街道に戻り西に向う。
古い家が数軒あったが、江戸時代といえるものではなさそう。
明治四十一年(1908)に建てられた常夜灯が古いという程度で、古いもの残っていない。
中町交差点は六差路なので分かりにくいが、やや右に入る細い道が東海道である。
右側の知立銀座タワービルの駐車場の前に「池鯉鮒宿問屋場之跡」の石碑があった。
国道155号を越えた
左側にホテルグランドパレス、右手はリリオコンサートホールがあり、宿場付近はすっかり開発の波に飲まれてしまった感じである。
本陣と脇本陣はどこか?
脇本陣があった場所は分からなかったが、本陣はこの通りではなく、
南側の国道419号の知立駅北口交差点の道の右側にあった。
道の脇に小高くなった貯水槽があり、その奥に常夜灯などと共に 「本陣跡」の石碑が建っていた。
本陣は旧街道に面していたのだが、土地の大部分が処分され、貯水槽のところだけがかろうじて残ったのだろう。
説明板「本陣跡」
「 池鯉鮒宿の本陣は峯家(杉屋本陣)だったが没落したので、寛文二年(1662)に永田家(永田本陣)に代わった。 敷地面積は三千坪、建坪三百坪と広大なものだったが、明治八年(1875)に取り壊された。 」
街道に戻るとその先の三叉路に、 「知立名物 大あんまき」の元祖・小松屋がある。
大あんまきはどらやきの生地に餡を巻き込んたものだが、大きいので一つ食べると満腹になる。
今は飽食の時代なので以前のように売れなく、カスタットクリーム入りを出すなど苦労しているようだった。
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東海道は、この先道は鉤型に曲がっている。
小松屋を右折すると左側に児童公園があるが、敷地の中に知立城の跡を示す石柱が建っていた。
説明板
「 池鯉鮒には代々知立神社の神官を務めた氷見氏が築いた城があった。
桶狭間の戦いで城が炎上した後も新たに御殿が建てられ、
元禄の地震で倒壊するまで将軍や藩主の休息所として使われた。
このため、城下町でない池鯉鮒の城址付近には急角度で屈曲する城下町特有の道路形態がみられる。 」
この付近が鉤型に曲がっている理由が分かった。
歩いて行くと、了運寺につきあたったので、ここを左折し西町に入った。
西町を抜けると右に入ったところに、知立神社がある。
街道の入口には常夜燈などが残っていた。/p>
知立神社社伝
「 景行天皇の御代(412) 、日本武尊東征のおり、当地において皇祖の神々に平定の祈願を行い、
無事その務めを果したことにより、当地に建国の祖神を祀ったのが初め。
創建当初は山町の北に鎮座していたが、戦国時代に上重原へ、天正元年(1573)に現在地に移った。
また、「 嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁が当地に来た時、蝮に咬まれたが、
当社に参拝し祈願したところ痛みも腫れもなくなったという故事から、
御札を携帯していればマムシや長虫避けになると信じられ、マムシ除けの神として全国的に有名だった。
また、境内の池に鯉や鮒が多くいたことから池鯉鮒と呼ばれるようになったともいわれる。 」
境内右側の多宝塔は、嘉祥三年(850)の創建と伝えられ、永正六年(1509)に再建されたものである。
塔の高さは十メートル、三間柿葺造り、国の重要文化財である。
江戸時代には愛染明王がまつられていたが、神仏分離の際これを総持寺に移し、
相輪も取り除き、知立文庫と名を改めて、取り壊しを免れたという歴史がある。
参道にかかる太鼓橋(石橋)は、享保十七年の建設である。
寛政五年に建立されたという「芭蕉句碑」は少し分かりづらいところにあった。
「 ふだんたつ 池鯉鮒の宿の 木綿市 芭蕉翁 」
江戸で有名になっていた知立木綿を題材に詠んだもので、
芭蕉没後百年忌に当地の有志が建立したものである。
「 五月二日〜三日に行われる知立まつりといわれる神社の例祭では、偶数年に絢爛豪華な五台の山車が繰り出す。 また、外苑にある花しょうぶは明治神宮からいただいた約六十品種の花しょうぶで、 六月には多くの人で賑わう。 」
東海道に戻ると、その先に総持寺があった。
「 元和弐年(1616)に創建された玉泉坊が前身で貞亨三年(1686)に総持寺に改称した。
明治五年(1572)、神仏混淆禁止令により廃寺となったが、大正十三年に天台寺門宗としてこの地に再興された。 」
廃寺前(明治五年(1572))の総持寺は、東海道の道筋、知立神社の手前の右側にあった。
寺の跡に行ってみると、樹齢二百年余の大銀杏が今でも元気に葉を茂らせている。
総持寺を出て少し行くと逢妻川があり、左に橋が見えてくる。
川の手前で左にカーブして逢妻橋に出る。
(注)逢妻川は、伊勢物語の八橋に登場する逢妻男川が逢妻女川に合流した後の名前である。
逢妻川を渡ると池鯉鮒宿は終わる。
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