赤坂宿と藤川宿の中間にある間の宿・本宿は法蔵寺の門前町として賑わっていたという。
藤川宿は広重の棒鼻の絵で有名であるが、僅か九町二十間の短い宿場だった。
藤川宿から岡崎宿への途中に大岡越前守の領地であった西大平藩陣屋跡がある。
岡崎宿は宿場と同時に城下町だったので二十七曲がりという迷路のような道になっていた。
(ご参考) 赤坂〜藤川 8.8キロ 徒歩約2時間45分
藤川〜岡崎 6.6キロ 徒歩約1時間45分
赤坂宿から藤川宿へは山あいの道を行く。
赤坂宿の京側入口の見付を出ると右側に鳥居があり、その前に「郷社八幡宮」と書かれた石柱が建っている。
石柱の横には 「 東京角力 錦戸春吉 」と刻まれていたが、力士が故郷に錦を飾る意味で寄進したものだろうか?
鳥居の先に杉の森八幡宮の社殿がある。
「 杉の森八幡宮は、大宝二年(702)、持統上皇が東国御巡幸の折勧請したと伝えられる古い神社で、 寛和弐年(986)の棟礼が現存するという。 」
境内の「夫婦楠」と呼ばれる大クスは、一つの根株から二本の幹が出ていることから名がついたもので、 推定樹齢千年を数える風格ある古木で、今も威勢よく枝を広げていた。
八幡宮を出ると小さな石仏が祀られていて、左側に常夜燈も建っていた。
県道374号を歩くと、その先から家並みも少なくなり、車もほとんど通らない静かな道になった。
右側の音羽中学校から先は旧長沢村(現豊川市長沢町)である。
右側の細い道の角に「開運毘沙門天王尊」の石柱が建っている。
道を直進、医院と薬局を過ぎると左側の道傍に「栄善寺」の石碑が建っていた。
崩れそうな石段の右側の二つの石室には石仏群、その右には燈籠と石柱が建っていて、
石段の左には小さな祠もあった。
「 栄善寺は西暦1272年、円空上人の創立で、「 弘法大師がこの地で大日仏を刻み、 盲目の男を治した 」 という伝説が残る寺である。 」
石段を上ると質素なお堂があった。
十分程歩くと道の左側に「八王子神社」の大きな石柱と反対側に寛政十二年建立の「秋葉山常夜燈」があった 。
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小川にかかる八王子橋の手前に 「一里山庚申道是ヨリ・・・ 」 と書かれた道標があった。
八王子橋を渡り、三河湾オレンジロードという有料道路の下をくぐる。
ここまで道の両脇には家が続いていたが、少し疎らになった。
左側の道の脇に「長沢一里塚跡」の道標が建っていた。
江戸時代の分間絵図には、両脇に一里塚が造られ、右の一里塚の手前には傍示杭が立っていることが描かれている。
このあたりは昭和五十年頃までは松並木があったようであるが、
右側の一里塚跡には最近建てられたと思える住宅が建ち並んでいた。
その先の右側の長沢小学校のグラント脇に「長沢城址」の説明板があった。
「 ここから北西一帯にあった城で、長沢松平氏の初代親則が長禄弐年(1548)頃より居城したといわれ、 寛永十一年(1634)の家光上洛の際にはグランド付近に長沢御殿が建てられ、休憩に利用された。 その御殿も延宝八年(1680)には廃止になった。 」
道の東側に「児子神社」の石柱が建っているが、
神社はここより三百メートル先の高速道路を越えた山麓にある。
少し先で道は右にカーブするが、カーブした右側に「誓林寺」がある。
「 親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵が始まりで、
応仁年間(1467〜1469)に信海が寺にしたと伝えられる寺である。 」
この道は国道1号線に合流するまでの間、古い建物が数多く残っている。
しばらくの間音羽川の流れを左に見ながら歩く。
道の右側に安政十年(1798)の「秋葉常夜燈」と「村社巓神社」の石柱が建っていた。
巓神社は北方四百メートルの山の中にある。
山口集落までくると右手の山はかなり接近し道幅もだいぶ狭くなった。
右側に漆喰壁に連子格子が沢山嵌った家があった。
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少し先の右側の石垣の上に「 磯丸 みほとけ 歌碑 」と書かれた石柱があり、
石段を上ると磯丸歌碑があった。
歌碑の正面には
「 あふげ人 衆生さひどに たち給ふ このみほとけの かかるみかげを 」
裏面には 「 一百萬遍供養塔 」 と、刻まれていた。
その脇には、「 観世音菩薩 」と刻まれた石碑と、三頭馬頭観音の石像が祀られていた。
「 磯丸とは糟谷磯丸のことで、彼は伊良湖村に生まれた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた人物である。
この歌碑は観音堂の庵主、妙香尼が弘化三年(1846)、落馬して亡くなった旅人の供養のために建てたものといわれる。 」
右にカーブするところに、秋葉常夜燈と、石仏が安置されている二つの祠があった。
千束川を大榎橋と千両橋で渡ると上り坂になる。
関屋の交差点で国道1号と合流して、国府から始まった東海道(県道374号)は終わった。
ここから二キロ程は車の多い国道の左側を歩かなければならない。
国道を1500m位歩いていくと、岡崎市に入る。
市の境の本宿町深田信号交叉点の手前に、「 自然と歴史を育む町 本宿(もとじゅく) 」 と書かれた石碑と説明板が立っている。
説明板
「 本宿は、東、西の三河が接するところで、古は駅家郷、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道の要地として、
中世以降は法蔵寺の門前町として発展したところである。
江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿(あいのしゅく)になっていた。 」
新箱根入口信号交差点の先にある本宿東町公民館の前で左に入ると、再び東海道で、古い家も残っている。
200m行くと左側に常夜燈があり、その奥に法蔵寺の山門が見えた。
東海道名所図絵に 「 本尊阿弥陀仏。 門前に大木の古松あり、稿掛松(そうしかけまつ)という。 」
とある寺で、松は今も門前にあったが、傍らの説明によると何代目かの松らしい。
法蔵寺だんごの説明もあり、「 江戸時代、茶屋の名物で、押しつぶした形状の団子を串刺しにしたみたらしのようなものだった。 」 とあった。
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法蔵寺に立ち寄る。
橋を渡り、かなり急な階段を上ると鐘楼の間から本堂が見えた。
「 法蔵寺は大宝元年(701)、行基上人が開き、
時の天皇から出生寺の寺号を賜って、勅願寺となったという古刹である。
松平氏の初代、松平親氏が嘉慶元年(1387)に堂宇を建立し寺号を法蔵寺と改めた。
初代の親氏以来、松平家の帰依を受け、家康も子供のころ、ここで勉強したという、徳川家と縁が深い寺である。
現在は浄土宗西山深草派で、二村山法蔵寺といい、本尊は阿弥陀如来である。 」
左側にある六角堂へ向かって歩くと、その先に、新選組隊長・近藤勇の首塚がある。
「 板橋で処刑された近藤の首級は京三条大橋の西にさらされていたが、
同志が三晩目に持ち出し、近藤が生前敬慕していたこの寺の住職・称空義天和尚に依頼し埋葬された。 」
(注)慶応四年(1868)四月二十五日、近藤勇は江戸板橋の平尾一里塚付近の刑場で、
官軍により斬首処刑され、首級は京都に送られたが、胴体は少し離れた板橋駅前に埋葬されている。
近藤勇の墓は彼の生家の近くの三鷹市の龍源寺にもある。
家康の祖先の松平家の墓が、その上の山腹にぐるーと輪になったように並んでいた。
中央の大きな法篋(きょう)印塔が松平親氏のものか?
更に上ると徳川家康を祭った東照宮があった。
東照宮は全国に五百ほどあるといわれるが、これもその一つで、家康の育ったところだから造られたのだろう。
その前に、伊奈備前守の常夜燈一対と大番(おおばん)組が奉納した沢山の燈籠があった。
燈籠は何時建立したか分からないが、天領であった時期を考えると元禄十年以前だろう。
「 燈籠に刻まれている大番は江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊である。
大番の職務は戦時にあっては本陣備において攻撃を任務とした騎馬隊として働き、
平時には江戸城下および要地の警護を担当した。 」
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急な石段を降りると徳川家の三つ葉葵が瓦や壁に刻まれた法蔵寺の本堂があった。
建物の彫刻は華やか図案で、江戸時代には幕府より知行地を戴く権勢を誇った寺院だった。
街道に戻ると、法蔵寺の左手前に 「右国道1号 左東海道 」 と刻まれた道標があった。
少し歩くと右側の集会所のような建物に「不動院」とあり、左側に石仏が祀られていた。
「 江戸時代の本宿は百軒程度の集落で、村内往還道は十九町(約2km)、 立場茶屋が長沢村との境の四谷と本宿の法蔵寺の二ヶ所にあったという。 また、本宿は古くから麻縄の産地として知られていたようで、 東海道中膝栗毛にも 「 ここは麻のあみ袋などあきなふれば、北八、みほとけの誓いとみえて、 宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物 」 という記述がある。 」
法蔵寺橋から約百五十メートル先の左側に冨田病院の看板があるところに、 「本宿陣屋跡」と「代官屋敷」の説明板があった。
説明板
「 元禄十一年(1698)、旗本・柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)の所領になり、
ここに陣屋が置かれ、柴田氏の子孫が明治まで治めた。
陣屋の代官職は富田家が世襲し、現在の居宅は文化十年(1827)の建築である。 」
道を入って行くと正面に近代的な病院があるが、右側の駐車場の一角の建物は古いが大変大きい。 これが代官屋敷なのだろうか?
百五十メートルほど歩くと、右側に 秋葉山常夜燈 が建っていた。
ここを右折すると国道1号線を越えた先に名鉄本宿駅がある。
「 本宿駅は八角屋根、銅板葺きの塔楼をのせた蒲郡ホテル(日本三大クラシックホテルの一つ)の建物を似せた建物だったが、
平成四年の国道1号拡張の際惜しまれながら壊された。 」
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その先の左側の建物前には「十王堂跡」の標示があった。
豊川信用金庫がある交差点の手前の右側に工事中の家があり「一里塚跡」の標柱があったが、
工事用の部材で見えなくなっていた。
一本松の枝ぶりの良いのを見ながら歩くと左側に屋敷門がある家があり、
「宇都野龍碩邸跡」とある。
「 宇都野龍碩はシーボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医で、 安政年間に植疱瘡(種痘)を施した人物である。 」
その先には松の木が何本か見えてきた。
この先の本宿町沢渡の信号交差点で本宿は終わるが、ここにも道標と本宿の説明板があった。
東海道は再び、国道1号と合流したので、国道の右側の歩道を歩いていく。
ここからは江戸時代、山綱村だったところで、東海中学を過ぎると旧舞木村に入る。
「 舞木の地名は、山中八幡神宮記の一節に 「 文武天皇(697〜707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる 」 とあり、このことから舞木となったといわれる。 」
本宿沢渡交叉点から一キロ近く歩き名鉄の線路沿いに出たところで、
右側の一段低くなった線路沿いの細い道に降りていく。
これが東海道で、名鉄の線路に沿って並ぶのが舞木集落で、右側に名鉄山中駅がある。
右手の愛宕社、興円寺、延命地蔵尊、永證寺を見ながら舞木橋を越えると、わずかながら松並木が残っている。
大雄山興円寺の石柱に「旧山中村」とあるが、興円寺は1710年に開創された寺である。
石柱に旧山中村とあるが、この先の舞木町の説明板には
「 舞木村は古くは山中郷に属していたが、江戸幕府の三河代官が市場村の一部を藤川宿に移転させた際、
残りの市場村と舞木村を合併し現在の舞木町になった。 」 とあるので、
山中村だったのは山中城があった戦国時代か?
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舞木西交差点で国道と合流するが、展望は良く四方八方が見渡せた。
国道の左手の田畑の中に大きな常夜燈がぽつんと建っているのを見つけたので、
畑の中の道を歩き、常夜燈に向かった。
常夜燈には 「山中御宮 常夜燈」 と刻まれている。
山中八幡宮の氏子達が天保四年(1833)に建立したものである。
階段が付いて火屋があるもので、想像していたより大きかった。
道の先には赤い鳥居が見えたので近づいて行くと、鳥居の右側に樹齢六百五十年の大クスノキがあった。
岡崎市天然記念物に指定されている楠で、幹が二股に分かれ、今なお元気な枝ぶりを空に向かって伸ばしていた。
その先は神社への石段で急なうえにかなり長かった。
上らない(のぼれない?)人のために階段の下に遥拝所があり、
お参りにきた御婦人はここで祈って立ち去って行った。
石段は湿って苔むしていて大変歩きづらい。 上らないで下で遥拝する気持が分かった。
塵取門をくぐると正面に山中八幡宮があった。
「 山中八幡宮の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、八幡大神だが、徳川家康と縁が深い神社である。
弘治四年(1558)、今川家から開放された家康が初陣の三河寺部城攻めに際し戦勝祈願をしたところである。
慶長弐年(1597)には石川数正等に命じ、衡門を建てて社殿を造営している。
また、三代将軍家光は寛永十一年(1634)、上洛の途中、当社に参拝し、
東照宮合祀、葵の紋の使用を許可されたとも伝えられる。 」
本社の左手前に 「 家康が戦勝のお礼に参拝した際残した 」 とされる出世竹がある。
本社に入る手前で左折し、両脇は藪のようになっている道を行くと、注連縄が張られている先に
、一人入れるかどうかという狭さの洞窟がある。
「 この洞窟は三河一向一揆で、門徒たちに追われた家康が身を隠してその難を逃れた、
と伝えられる「鳩ヶ窟」である。
三河一向一揆は、永禄六年(1563)、家康の家臣・菅沼定顕が、
上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した事件で、
一揆方の追っ手が家康がひそんでいた洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ち、
人のいる所に鳩がいるはずがないと
、追っ手は立ち去ったという逸話が残る。 」
街道に戻る途中、国道に近いところに「御開運御身隠山」と刻まれた石柱と、常夜燈一対、そして、鳥居が建っていた。
国道に戻ると右手上方に名鉄の列車基地があり、赤い電車が並んでいた。
やがて、道が右にカーブすると市場町交差点。
その先で国道と別れて左側に入る道(県道327号)が旧東海道で、藤川宿(ふじかわしゅく)はすぐである。
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藤川宿は安藤広重が描いた大名行列が棒鼻を通る風景で知られる。。
「 藤川宿は日本橋から三十七番目の宿場だが、赤坂宿より二里強(9km)キロしかなく、
家数は三百二軒、宿内人口は千二百十三人と少ない。
慶長六年(1601)に伝馬朱印状が発給されて宿場になったものの、村の規模が小さいためやっていけなくなり、
慶安元年(1648)、藤川宿の東側に五百メートル程道を伸ばし、隣村の市場村から六十八戸を移転させて
加宿市場村を作った。 」
市場町の交差点で道路の左側に移り、五十メートルほど先の細い道(県道327号)に入る。
「従是西藤川宿」と書かれた標柱があり、正面にモニュメントの棒鼻が見えてきた。。
「 棒鼻とは土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、そこに番人がいて宿場の出入りを監視していた。
ここは藤川宿の江戸方入口の「棒鼻」があった所で、東棒鼻と呼ばれるところである。
なお、現在の棒鼻は平成四年に復元された。 」
棒鼻に入ると曲がりくねった道になっていた。
当地では曲手(かねんて)<と呼んでいたが、一般的には枡形とか鉤型といわれるものである。
左側の細い道に入り、三叉路で右折すると、また丁字路になるのでここを左折する。
この角には 「 道中記に書かれて有名になった茶屋かどや佐七があった 」 と説明があった。
東海道中膝栗毛にも、
「 かくて藤川にいたる。 棒鼻の茶屋、軒毎に生肴をつるし、大平瓶、鉢、店先に並べたてて、
旅人の足をとどむ。 」 とあり、
弥次郎兵衛は 「 ゆで蛸で たこのむらさきいろは 軒毎に ぶらりと下がる 藤川の宿 」 と詠み、 「 これより宿をうちつぎ、出はなれのあやしげなる店で休みて ・・・ 」 と書かれているので、
江戸時代には両側に茶屋が並び、客引きが凄かったように思われる。
道はその先で突き当たるが、そこに寛政七年(1795)建立の 秋葉山常夜燈 が建っていた。
左右に道があるが、この道は棒鼻の右側を通る道で、東海道はここで左折していた。
なお、江戸時代には、棒鼻からここまでの右側の道はなかった筈である。
ここは前述した加宿の市場村である。
通りに古い連子格子の家が何軒か残っていた。
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その先の右側に一対の常夜燈と鳥居があり、傍らの石柱には「津島神社」と書かれていて、
奥の方に社殿が見えた。
道の左側から少し入ると「片目不動」と書かれた赤い幟がひるがえっている寺があった。
真言宗醍醐派の法弘山明星院で、建物も敷地も小さく、パッとしない寺に思えたが、
寺の本尊の不動明王が徳川家康の窮地を救ったということで有名なのである。
本尊の不動明王立像は秘仏なので、お目にかかれなかった。
言い伝え
「 徳川家康が戦で追い詰められた時見知らぬ武士に助けられたが、
武士は敵の矢で片目を潰され消えてしまった。
後日、家康が明星院に参拝した折、堂内の不動尊の目が潰れているのを見て、
あの時の武士は不動尊の化身だったのだと感謝した。 」 という話が残っている。
橋を渡ると江戸時代の藤川村である。
道の右側にある駐車場の一角に「高札場跡」の説明板があった。
「 高札場は高さ一丈、長さは二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が掲示されていたといい、 その内、三枚はこの先の資料館に掲示されている。 」
道の反対にある称名寺には代官だった烏山牛之助の位牌がある。
また、武田成信や雷電と争ったという力士の江戸崎の墓もある。
なお、武田成信は藤堂家の家臣で、武田信玄の弟、信実の八世にあたる。
その先の米屋が問屋場跡で、米屋の生垣前に「問屋場跡」の石柱と案内板があった。
その斜め前にある民家は、昔の商家の「銭屋」の跡である。
連子格子の建物が昔の賑わいや旅人姿を偲ばせる雰囲気があった。
銭屋のはす向かいが、本陣だった森川家で、現在は第二資料館になっていた。
「 江戸時代天保年間編纂の東海道宿村大概帳には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠三十六軒とあるが、
本陣は最初二軒あったようである。
藤川宿の本陣は二軒あったが、その後、退転(おちぶれること)を繰り返し、
江戸時代後期には森川久左衛門が本陣を勤め、建坪は百九十四坪だった、という。 」
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宇中町の右側に立派な門がある家は、脇本陣を務めた大西喜太夫の橘屋である。
門は当時のままで、庭には脇本陣跡の石碑もあり、館内には宿場街道の模型や古文書、古地図が展示されていて、江戸時代の藤川宿がどのようだったのか知ることができた。
「 脇本陣は現在の百三十坪ほどの敷地の四倍で、明治天皇御小休所の坐所があり、 昭和三十年の岡崎市との合併前には藤川村役場にもなっていた。 現在は藤川宿資料館(入館無料、9時〜17時、月曜休)になっている。 」
街道に戻ると、その先の右側には「関山神社」の燈籠が建っていた。
その先左側の伝誓寺を過ぎると麦が少し植えられていて、「むらさき麦」の表示がある。
説明板
「 藤川は根元から穂先まで紫色をしたむらさき麦が名物だったのだが長らく栽培されず幻の麦となっていた。 平成六年に栽培に成功し、現在では数箇所で栽培している。 」
右側の藤川小学校前に、「西の棒鼻跡」の表示がある。
その一角に、広重の師匠の浮世絵師・歌川豊広の歌碑がある。
「 藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のうるしと うで蛸のあし 」
交差点を挟んだはす向かいには十王堂が建っていた。
十王が座る台座の裏に 「 宝永七庚寅(1710)七月 」 と記されているので、
十王堂の創建はこの年と推定される。
その奥には成就院があり、境内の右側に芭蕉句碑がある。
「 爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた はせを 」
句碑の裏に 「 寛政五歳次発丑冬十月 」 とあるので、寛政五年(1793)に建てられたもので、
「 当国雷門月亭其雄弁連中 」 「 以高隆山川之石再建 」 とあることから、
西三河の俳人達が再建したものであることが分かった。
十王堂の交叉点を右折すると、名鉄名古屋本線の藤川駅がある。
西の棒鼻は藤川宿の京方(西)の出口なので、ここで藤川宿は終わるが、
僅か九町二十間(約1020m)の短い宿場町だった。
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藤川宿の西の棒鼻を出て三十メートル程行くと、左側の民家の一角に「藤川一里塚跡」の表示があった。
「
東海道の開設と同時に作られた一里塚だったが、天保年間には右側(南側)はすでになくなり、
北側の榎は昭和初期に枯れてなくなったという。
藤川宿は天領の三河代官所の管理だったのにこの始末なのは、この地が貧しかったことを示すような気がした。 」
道の右側に松の木が現われ、歩くに比例して増えていった。
少し先の三叉路は藤川村の西の端で、境松集落である。
左側の道は西に向かって、土呂、西尾、吉良方面に行く道で、
吉良道とか吉良街道と呼ばれている。
藤川宿内と通っていた県道327号は吉良街道だった。
東海道は県道と別れて、直進し、名鉄踏切を渡る。
「 吉良街道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還で、
藤川は東海道だけではなく吉良街道も通る交通の要衡だった。
藤川宿は二川宿、赤坂宿、御油宿と連名で荷車の使用を願い出て、東海道で最初に幕府の許可を得ている。
これらから見ても物資の運搬が激しかったことが分る。 」
東海道との分岐点には、 石造常夜燈 と文化十一年(1814)甲戌五月建立の「吉良道」の道標があった。
説明板
「 二百年前の道しるべが残る。 ここではお茶壺道中が通ると雨が降るというジンクスがあり、
お茶壺のなみだ雨という話が残っている。 」
藤川宿の西端から松並木が始まった。
名鉄踏切から約四百メートルほどの間は特に立派で、
一里山から宇北荒古にかけて長さ約一キロの間に樹囲約二メートル、
樹高約三十メートル程のものを含めて約九十本のクロマツが残っている。
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東海道は藤川町西交差点で、国道1号線と合流してしまう。
これから約二キロの区間は大型トラックを見ながら、国道を歩かなければならない。
200m程歩くと、旧岡崎市に入る。 藤川は町村合併前は藤川町だった。
岡町神馬崎交叉点を越え、見合新町北交差点の手前で、国道の左側の松並木が残る細い道に入る。
これが東海道で、その先、信号がない交差点の手前に「東海道」の説明板があるが、風化して見えなくなっていた。
坂下橋を渡り、見合新町交差点まで行くと松並木は途絶え、道幅が細くなった。
美合町南屋敷交差点を過ぎると、更に狭くなった。
県道48号を越えると、山綱川であるが、道の両脇にスクラップ工場の車がうず高く積まれていた。
山綱川に架かる橋の手前に 「 川を美しく、生田蛍保存会 」 の看板があったが、
源氏蛍は自生しているのだろうか?
橋を渡ると右側に「東海道」の道標があり、その先に車の修理工場(美川サービス)があった。
そのまま進むと道は乙川に突き当った。
「
江戸時代の東海道は左側の堤を降りて、川の中を歩いて、対岸に行ったようである。
対岸には平川水神社がある。 」
それは辞めて右折して、国道1号の大平橋を渡る。
江戸時代は大平村(現在は岡崎市大平町)に入った。
東海道は、その先の大平東交差点で右に入るので、交差点を横断して国道の右側を歩く。
美川交番交叉点を越え、大平東交差点で右の道に入る。
少し上り坂になっていたが、「東海道」の道標があった。
右側に薬師寺、その先の右側に 秋葉山常夜燈、その奥に火の見櫓が建っていた。
少し先の三叉路には、「つくて道」と「東海道」と刻まれた道標が建っていた。
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岡崎大平郵便局の前に「西大平藩陣屋跡」の説明板がある。
説明板「西大平藩陣屋跡」
「 西大平藩陣屋は大岡越前守忠相が領地を治めるために設けたものである。
忠相は旗本だったが、七十二歳の時、将軍吉宗の口添えもあり、
四千八十石の加増を受け一万石の大名になった。
藩主だったのはわずか三年で、その後、子孫が継ぎ七代に渡り藩主となり、明治維新を迎えた。
西大平藩陣屋がここに置かれたのは、藩の領地が三河国が主で、
西大平村が東海道筋にあり、江戸との連絡の便利なことからと思われる。
陣屋には、郡代一名、郡奉行一名、代官二名、手代三名、郷足軽四〜五名程度の少人数が詰めていた。
又、額田組十二村、宝飯組五村、加茂、碧海組七村が領地で、
それぞれの組に割元と呼ばれる陣屋役人が置かれ、年貢の徴収と村々の取締りを行っていた。
大岡忠相は大名といっても江戸常駐の定府大名だったので、参勤交代をしたことはなくここにきたことはない。 」
郵便局から奥へ百メートル程入ると、右側に復元された陣屋の門構えがあった。
門の中はなにもない空き地で、大岡稲荷が祀られていた。
道の反対には上野山專光寺があった。
街道に戻り、
郵便局から百五十メートルほど行った左側の大平西町バス停傍に、大平一里塚があった。
説明板「大平一里塚」
「 大平一里塚は高さ二メートル四十センチ、底部の縦七メートル三十センチ、
横八メートル五十センチの菱形で、
植えられていた榎は昭和二十八年の伊勢湾台風で倒れてしまったため、植え直したものである。
左側しか残っていないが、昭和十二年、国の史跡に指定された都会に残る数少ない一里塚である。 」
近くの公園(?)には小さな祠に三頭馬頭観音と子育地蔵などが祀られていて、
「町内安全」と書かれた大きな常夜燈は昭和八年の建立である。
秋葉山常夜燈は幕末から明治に建てられたものが多いが、昭和のものは始めてだった。
東海度は、左右は広い道の信号のない交差点を渡って進むと、道は左にカーブし、国道1号線と合流してしまう。
国道に出る手前を右手に少し入ったところに、「村社八幡社」の鳥居があり、 標板に「 転座は安永六年 」 とある。
大平八幡宮の社殿は川を渡って150mのところにある。
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東海道は、この先、高速道路の建設で変わっているが、
岡崎インターチェンジ入口の手前にあるアオヤマダイソー脇の細い道に入り、
インターチェンジ入口の下をくぐって向こう側に出る。
この先、左の道を行くと国道1号線に合流する。
岡崎インター西交叉点を越えると、右の道に入り、国道と平行に進み、
筋違橋東交差点の先、竹橋入口交叉点の手前で、国道と分かれて、右のカーブする道に入る。
その先右に法光寺がある。 江戸時代、ここが岡崎宿の入口だったようである。
法光寺の前にも常夜燈があった。
直進すると左にモニメントが現われてきた。
「岡崎二十七曲り」の石碑と木を組んで造られた冠木門である。
「
江戸時代、ここが岡崎宿の江戸方の入口で、番人が冠木門をくぐって入ってくる旅人を監視していた。
岡崎宿は二十七曲がりといわれるほど道が右折、左折を繰り返している。
宿場町であると同時に岡崎藩五万石の城下町だったので、複雑にしていたのだろう。 」
いよいよ二十七曲りのスタート。 道の正面のヤンマーディーゼルの看板の前で右に曲がる。
二つ目の若宮町交差点の角地に 「 欠町より投町角岡崎城入口 」 と、書かれた「二十七曲り碑」があるはずなのだが、
市民病院移転後の新施設工事が行われていて確認できなかった。
名勝志に 「 三州岡崎の駅口に茶屋あり 戸々招牌をあげて豆腐を売る其製潔清風味淡薄にして趣あり 」 とあるが、 江戸時代にはこのあたりが投町で、投町茶屋があり、淡雪豆腐が名物だった。 当時、あわ雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、 茶飯におしんことセットで十八文だったと天保十三年の記録にある。
若宮町交差点を左折して、若宮1丁目東の交差点を直進すると、 右側に「曹洞宗根石寺、根石観音堂」がある。
説明板
「 和銅元年(708)、天下に悪病が流行した。 元明天皇の命により行基が六体の観音像を彫り、
二体を根石の森に勧請し祈祷をしたところ悪病は治まった。
又、岡崎三郎信康が元正元年(1573)、初陣に際し観音像に祈願し軍功をあげて、
開運の守り本尊としてあがめられた。 」
左側に根石寺の本堂があり、右側の小さな社には二つの地蔵様が祀られていた。
このあたりは地面を掘ると投げるのに良い石が出てきたので、投町、根石町という名前がついたといわれる。
右手奥には真宗大谷派法円寺があった。
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両町3丁目交差点を過ぎると、 右側の極楽寺は永禄九年(1566)の開山といわれ、天正三年(1575)に現在の場所に移った。
両町2丁目交差点から百メートル程先の交差点を右折する。
角に 「 両町より伝馬町角 」 の標石が建っている。
右折し少し行くと右側に両町公民館があり、
左側に小さな社が置かれ、その中に常夜燈が保管されている。
寛政弐年(1790)に建てられた秋葉山常夜燈である。
昭和二十年の戦災で被害を受けたたため、その一部だけである。
ガソリンスタンドに突き当たったら左折する。
ここに到る道は曲手(かねんて)で、岡崎二十七曲の東海道は岡崎城を避けて通ったので、
江戸時代でも旅人は岡崎城を見ることはなかっただろう。
岡崎市のマンホールは五万石と岡崎城、そして船の絵である。
「 岡崎城は、松平清康が享禄三年(1530)に現在の場所に城を移したことにより誕生した城で、 孫の徳川家康は城内で生まれている。 ♪五万石でも 岡崎さまは…、と唄われたように、岡崎は徳川家康公の生誕地であるため特別な扱いを受け、 僅か五万石でもお城の下まで、船が着くほどだった。 」
ここから先が宿場の中心地である。
伝馬通5丁目の交差点で、太陽緑道を横切り直進する。
伝馬通4丁目の右奥にある「随念寺」は永禄六年(1592)に家康が創建した寺で、
松平七代清康とその妹久子の墓がある。
伝馬通4丁目西交差点を越えた三叉路の右奥に、唐風の門がある、円頓寺がある。
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岡崎宿は総家数、千五百六十五軒、宿内人口、六千四百九十四人と、
東海道の中でも三番目に大きい宿場であった。
、
本陣は三軒、脇本陣も三軒、旅籠は百十二軒あった。
「 江戸時代には伝馬町を中心に、本陣、脇本陣、旅籠があったとされ、 旅籠は、文化九年(1812)の伝馬町家順間口書を見ると、伝馬通五丁目から籠田総門まで軒を連ねている。 正保・慶安の頃(1644〜1651)からは飯盛り女を置く旅籠があらわれ、岡崎は岡崎女郎衆で有名になった。 」
道を一本左に入ると伝馬町公民館の前に、享保三年(1803)建立の「秋葉山常夜燈」が建っていた。
もとは東海道に面して立っていたが、ここに移されたものである。
伝馬交差点の右側の角にある、花一生花屋あたりに、東本陣があったという。
「 最初に本陣を勤めた浜嶋久右衛門が没落し、その後、磯貝久右衛門に代わったがこれもやめ、 その後は服部專左衛門が勤め、本陣の大きさは間口十三間、建坪二百九坪、畳二百四十五畳だった。 」
江戸時代の東海道は石橋が架かっていたようで、左に行く小道は專福寺に通じている。
手前のバス停の前には庄屋小七郎の営む旅籠があり、そこから右に三軒目が桔梗屋脇本陣であった。
伝馬交差点を越えた左側に「備前屋藤右衛門」と書かれた暖簾の菓子屋・備前屋がある。
「 天明二年(1782)の創業という老舗で、
八丁味噌煎餅のきさらぎは寛政十二年(1800)から作っているというから驚き!!
ふわーとして口に入れると溶ける淡雪という菓子は、この店を代表する菓子だが明治初めからという。
江戸時代の名物、淡雪豆腐が消えたのは寂しいと考案したのがこの菓子だったことを知った。 」
備前屋の江戸時代の店は、市川メガネの右側あたりにあり、間口五間の店構えだった。
昭和二十年の空襲後に、江戸時代(文化九年)の旅籠(木瓜屋吉三郎)があったという、
現在地に移転してきたという。
江戸時代(文化九年)には道の対面に、高札場と自身番があった、という。
備前屋の数軒先に、商家の「糸惣』の建物がある。
「 文化九年(1812)の伝馬町家順間口書に 「小間物屋、糸屋惣兵衛」 として、名を連ねている老舗である。 」
その隣の永田屋も、天保十四年(1843)から商っていたというから古い。
今は松坂牛を扱い、全国発送をしている。
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道の反対側にあるのが漢方薬の 大黒屋である。
「 元禄年間(1688〜1713)には居住し庄屋を勤めた家柄で、世襲名を小野権右衛門といった。
伝馬町家順間口書に 薬種・質商小野権右衛門 と書かれている。 」
家の前に置かれている石彫りには「作法触れ」とあり、土下座をしている姿が描かれていた。
作法触れとは勅使、朝鮮通信使や大名行列がきたとき、
町奉行が町民に対して出した街道や宿場での応対の仕方のことである。
店舗右側の駐車場の奥には「屋敷跡」の碑と大きく成長した一本の松の木があった。
備前屋、糸惣、永田屋、大黒屋は、江戸時代から今日まで営々としてこの地で商売を続けているのは凄いことと思った。
前述の伝馬町家順間口書では、一軒おいた隣に備前屋があったとある。
その隣が鍵屋定七が営んだ脇本陣で、現在市川メガネのところである。
江戸時代の東海道は、この先で突き当たりを左折し、そして右折していた。
伝馬通1丁目交差点の右側のコンビニのところが江戸時代の左折する右側にあたる。
コンビニ前の道脇に「西本陣跡」の石碑が建っていた。
ここは中根甚太郎が勤めた「西本陣」があった場所である。
交差点を左折して道を渡った角には二十七曲りの「西本陣前角」 の標石があり、説明板がある。
「 江戸時代、この角には旅籠があり、その手前に大津本陣があった。
大津本陣は文政五年(1822)に新たに本陣になったもので、以前は脇本陣だった。 」
東海道は五十メートル程南に歩き、次の交差点で右折する。
角の向こう側に指矢印付きの「道標」がある。
道標の四面に、 「 きらみち 」「 西京いせ道 」「 東京みち 」「 明治二巳巳年十二月建之 」 と刻まれていて、明治時代に入って建立されたものである。
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この通りは籠田総門通りで、その先の右側の赤いレンガ造り洋館は、岡崎信用金庫資料館である。
「
このルネッサンス様式の建物は、大正六年、旧岡崎銀行本店として建てられたもので、
赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を使用している。
岡崎宿の問屋(人馬会所)は伝馬町と材木町にあったが、
伝馬町の問屋は岡崎信用金庫資料館のあたりにあったようである。 」
左側の伝馬公設市場は江戸時代の御馳走屋敷跡である。
「 御馳走屋敷は間口十五間以上ある立派な建物で、公用の役人などをもてなす、いわば、岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。
(注)伝馬公設市場は現在廃業になっている。 」
江戸時代にはこの先に岡崎城の籠田総門があった。
左中写真は伝馬町にあった「籠田総門」のレリーフである。
「 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命令で家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主になり、
総堀を築き城下町を構築した。
東海道東側の城内出入口としてつくられたのが籠田総門で、承久三年(1654)に造られた。
江戸時代の東海道には、枡形が設けられたようである。
籠田総門は籠田公園前、西岸寺辺りにあったとされるが、場所が特定できないため、
これから先の二十七曲りの道は諸説あるようである。 」
(注)欠町の東入口にあった「二十七曲り碑」では、籠田公園の西側を北上するルートになっていて、 東海道さんさくマップでは公園を横切るルートである。
東海道さんさくマップと同じ、中央緑道(西岸寺とNTTの間の道)を北上すると、
中央緑道の真中に「籠田総門跡」の碑があった。
NTTは総持尼寺跡で、中央緑道を北上すると籠田公園になり、公園を通り抜ける。
公園の東側に、寛政十年(1798)造立の 石工七左衛門作の常夜燈 があった。
籠田総門の近くに建立されたが、数回移動し、公園完成後、現在地にきたという。
公園の北西角には 「 篭田町より連尺町角 」 の標石があった。
それにしても、宿場に入り、これだけじぐざくと道を変えるところは中山道でも東海道でも記憶にない。
尾張名古屋城下に東海道を通すのを避けたのと同じ理由があるような気がする。
これには、家康の意向があったのだろう(?)
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レリーフ |
標石で左折して連尺通りに入り、連尺町を進むと岡崎シビコなどがある本町1丁目交差点に出た。
江戸時代にはここを左折して行くと岡崎城の信濃門があった。
東海道は交差点を越えて岡崎シビコの右側中央あたりまで歩き、右折して道の反対側に出る。
右折できる小さな道の角に「岡崎城対面所前角 」の標石があった。
また、道を挟んだ反対側のシビコ側には「岡崎藩校充文 充立館跡」の石碑があった。
「 江戸時代には岡崎藩校充文 充立館跡碑のあたりに対面所があった。
対面所とは外来使節応対や領民の公事、評定を行った場所である。 」
東海道は対面所の標石の先の細い道を通って北へ向かう。
突き当たりの市川内科の前に 「 材木町口木戸前 」 の標石があった。
江戸時代にはこの角から次の 「 材木町角 」の標石のところまで、北西の方向に斜めに歩いたが、
道は失われている。
ここは左折して、材木町1丁目を右折する。
「材木町角 」の標石はファミリーマートの道の反対側の歩道の植え込みの中にある。
よく見ないと見つけられない標石である。
東海道はここを左折して交差点を越えるが、ちょっと寄り道をする。
ファミリーマートを越え、右側にマンションのある所を直進すると左側に御旗公園がある。
ここには、寛政十年(1798)建立の 「能見町」 と刻まれた常夜燈があった。
街道に戻り、材木町3丁目の交差点を越える。
江戸時代には材木町の問屋場が交差点を越えた右側にあり、
伝馬町と交代で五日毎に伝馬継立を行っていたという。
「 伝馬制により、岡崎宿で常時に用意する馬の数は始めは三十六匹だったが、 東海道の往来が盛んになる寛永十五年には馬百匹、人百人になった。 」
岡崎は三河木綿の特産地で、戦前には木綿の職人や商店が多くあった。
それを象徴するような家が柿田橋手前の右側にあった。
唐弓弦という道具を製造販売していた、森権治郎氏の家である。
「
唐弓弦とは綿を打って柔らかくする道具である。
以前は「唐弓弦」の看板を掲げていたのだが、今回訪れると看板はなかった。
掲示された紙を読むと、保存のため、修理中で外した、とあった。 」
尾張名古屋城下に東海道を通すのを避けたのと同じ理由があるような気がする。
これには、家康の意向があったのだろう(?)
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伊賀川に架かる柿田橋の手前で左折すると、川の縁に「二十七曲り」の標石があった。
川に沿って歩くと赤い幟がぱたぱた音を出していた。
左側の道を上っていくと、幟の間から天保四年(1833)に建てられた常夜燈が見えた。
常夜燈は、材木町から下肴町に入る角に建っていたのを、白山神社へ移設したものである。
白山神社の拝殿前の石灯籠には「大阪弦問屋」と刻まれていた。
白山神社を出ると右側に三清橋がある。
ガードレールで見づらいがここにも標石があり、「 下肴町から田町角 」 と書かれている。
橋を渡ったら信号を越えて二本目の道を左折し、最初の道を右へ。 突き当たったら左へ。
突き当たったら今度は右へ、次に突き当ったら左へ進む。 すると、国道1号線に出る。
東海道は道の向こう側にある対面の道を行くのだが、ここからは(残念ながら)渡れない。
右手にある八帖交差点の横断歩道橋を使い、反対側に出るしか方法はない。
横断歩道橋の上から岡崎城が見えた。 横断歩道橋を降りるると左折する。
最初の道の角に 「 板屋町角 」 の標石があるので、ここを右折して板屋町へ入る。
「 板屋町は文化年間(1804〜1818)頃、茶屋女と称する下女を置いたところ大繁盛し、 天保十三年(1842)には茶屋が三十四軒、百三十人を数える色街になった。 そのため、隣の藤川宿の茶屋が衰微したという。 」
少し歩くと道幅が狭くなる。
バーや飲食店などを営んでいた形跡は残るが、朽ちぬのにまかす建物もあった。
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東海道は次の三叉路で、右側に床屋があるところを右折する。
道の左側に「板屋町角」の標石が建っている。 江戸時代にはここに常夜燈があった。
「 板屋町の人達が寛政九年(1797)に建立した秋葉山常夜燈で、その常夜燈は道を直進し、
交叉点手前の右側にある板屋稲荷神社の境内に移されている。
石柱に火袋と屋根をのせている簡略なものである。 」
ここを左折すると、新田白山神社があり、その先に岡崎城がある。
「 新田白山神社は徳川家康の氏神で、永禄六年(1566)、
上野国(群馬県)の新田(現太田市)より勧請したもので、岡崎城内の白山曲輪に祀られていた。
白山神社の祭神は、新田義重(源義家の孫で、新田の祖)である。
家康はこの時期に源氏の棟梁、征夷大将軍になる野望を持っていたことになる。 」
「板屋町角」 の標石を右折して直進すると、中岡崎町交差点にでる。
国道248号を横断すると、交差点の左側に「松葉総(惣)門跡」の石碑がある。
「 松葉総門は岡崎城への西の出入口で、
東の籠田総門と一緒に承応三年(1654)に造られたものである。
東海道は松葉総門のところで右に曲がり、門をくぐって、左に曲がり、
松葉川に架かっていた松葉橋を渡っていた。
松葉川は埋め立てられ、松葉橋も今はない。 」
交差点を渡ると、愛知環状鉄道の高架下をくぐる。
高架下に、岡崎城下二十七曲り最後の標石 「 岡崎城下二十七曲り 八帖村 」 がある。
ここからは江戸時代の八帖村である。
八帖村は岡崎城から八丁(約1000m)の距離にあることから名が付けられた。
これで、岡崎宿の二十七曲りは全部歩いたことになり、ここで岡崎宿は終わる。
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