吉田宿は宿場町であると同時に城下町なので、出入りが厳重で曲尺手といわれる鉤型になっていた。
吉田宿は、「 吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が・・ 」 といった俗謡が良く唄われ、
飯盛女が多いことでも知られていた。
安藤広重による、東海道御油宿 の浮世絵は、太った招き女が小柄な男を強引に宿に引っ込もうとしている場面である。
隣の赤坂宿とも近く旅籠の数が多いので、旅籠の客引きが盛んだったようで、このような光景がよく見られたのであろう。
(ご参考) 二川〜吉田 6.1キロ 徒歩約2時間30分
吉田〜御油 10.2キロ 徒歩約3時間10分
御油〜赤坂 1.7キロ 徒歩約30分
二川宿の東海道(県道3号)は道が狭いし歩道もない上、
国道を避けた車が押し寄せてきるので危険な感じがしたが、
車の方は歩行者を気にせずビュービュー飛ばしていった。
二川駅から少し先の左側に大きな道標がある。
正面には 「 伊良湖阿志両神社 」、右側には 「 右東海道豊橋一里半 」 と書かれている。
伊良湖阿志両神社は、渥美半島の突端にある「伊良湖神社」と、田原市芦町柿ノ木にある式内社の「阿志神社」である。
カーブする道を行くと、火打坂交差点に出る。
東海道は直進し、火打坂を上っていく道で、左折する道は岩屋観音への道である。
「 岩屋観音は、江戸時代の旅行案内「東海道名所図絵」に、 「 亀見山窟堂(きけんざん、いわやどう)と号す。 ・・・ 大巌、堂後にあり、高さ八丈、幅廿丈余、岩形亀に似たり。 故に山号とす 」 と記されてところで、大きな岩山の上に観音像が立っているのが遠くからも見え、江戸時代の旅人も立ち寄った名所である。 」
折角の機会なので寄ることにした。
右側に見える高いところが岩屋緑地の展望台で、その下に豊橋市地下資源館の建物と緑地公園がある。
少し行くと岩屋緑地で、岩屋観音の入口になる。
右側に入るとすぐ石碑が建っているが、ここから上り坂になり、歩くに比例して傾斜が急になった。
こんなことを予想していなかったので、ややとまどいながら上って行くと、岩山が見えてきた。
駐車場を越えて上ると、赤い幟がひらめく先に、弘法大師を祀る「大師堂」があった。
その周りには数多くの石仏が祀られていた。
その手前の道標には 「 左よし田、右ふた川 」 と刻まれていた。
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目を左に移すと手前左の建物は朱印帳受付で、奥に観音堂があった。
「 岩屋観音堂は、僧行基が天平弐年(730)の諸国巡行の際、十一面千手観音像を刻んで、
岩穴に安置して開いたと伝えられ、亀見山観音堂とか岩屋堂とか呼ばれていた。
当堂は真言宗の寺院だったが、明治以降、二川宿にある大岩寺の境外仏堂になったので、
現在は曹洞宗の寺院ということになる。
また、三河三十三ヶ所巡礼の二番札所になっているので、大師堂の御参りの方が観音堂より多いようである。 」
観音堂の右側の窟(いわや)内に多くの石仏があったが、
行基が最初に祀ったのもこうした石仏の一つだったのではないかと思った。
また、窟の前の一対の常夜燈には「夜燈」、年号は「文化酉子秋八月」、「吉田連」と刻まれていた。
窟は直立五十メートルもある大岩である。
その岩の上に聖観音像が祀られていた。
言い伝え
江戸時代の「東海道名所図絵」に、 「 岩頭に銅像の正観音を安ず。 明和弐年(1765)、江戸谷中より寄進す。 遠境より鮮にみゆる 」 とある大観音で、
「 吉田大橋の架け替え工事を請け負った江戸下谷の大工の茂平と善右衛門が難工事で困り果て、
観音堂に参籠したところ、霊夢により難工事を完成させた。
そのお礼として、明和弐年(1765)、下谷講中が九尺六寸(約2.9m)の大きな観音像を寄進した。 」
という話が残っている。
釈光行は、その姿を 「 君が代は かずは知られぬ さざれ石の みな大岩んぽ 山となるまで 」 と 「富士紀行」の中で詠んでいる。
吉田の俳人・木朶(もくだ)は、 「 霞む日に 海道一の たち仏 」 と詠んだ。
しかし、第二次大戦での金属供出で観音像は失われてしまった。
現在あるのは昭和二十五年(1950)に地元の寄進により再建されたものである。
窟の先から上に登れる道が作られているので苦労しながら登っていくと、
大岩の頂(いただき)に聖観音像が祀られていた。
大変大きく、美しい姿だった。
また、豊橋市が一望できる展望台でもあった。
大岩観音を参拝する目的を果せたので満足したが、時計を見ると一時間くらい経っている。
これはまずいと東海道に戻った。
昔の「火打坂」は薄暗く人もあまり通らないので怖かったと聞くが、今は道も整備されそんな感じはしなかった。
道の右側に「東海道」と書かれた標識があった。
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坂を登りきりしばらく行くと、大きな園芸屋・ガーデンガーデンの角に信号があるのが大岩町北交差点である。
この三叉路を左に曲がると対向二車線で、歩道帯も付いている道である。
少し行くと左側にヤマハ音楽教室の看板の建物があり、松の木が見える。
高師口の旧東海道のクロマツといわれるもので、
樹齢は壱百年以上、高さは十一メートル五十センチ、幹周りは二メートル三十四センチである。
昔は沢山あったのだろうが、今や一本になってしまっている。
それにしても、これだけ素敵な枝振りの松はそうあるものではない。 本当に凄い!!
歩いていくと、左からくるやや大きな道に合流する。
高師口三叉路三叉路の左側に豊橋岩屋郵便局がある。
なお、左の道を反対に行くと国道1号に合流し、岩屋交差点に出る。
国道の取り付け部分に「旧東海道・岩屋堂道」という説明板がある。
「 火打坂からの東海道は坂の途中から園芸店の敷地を通っていたようで、 区画整理によりこの道はなくなった。 」
合流した道は国道1号線と平行して続いている。
最初は対向二車線だったが、右側の東京庵飯村店という蕎麦屋を過ぎると対向一車線に変わった。
しかも、歩道帯は片側にしかないのに道の左右から車が入ってきて、
また、出て行くという二川宿で見た光景が再現されていた。
飯村(いむれ)町東川の飯村南二丁目交差点を越えると、道は更に狭くなり、
車線区分もなくなり、道に白線を引って歩道帯にしている。
安心して歩けるのは側溝のブロックの上だけである。
右側に永禄十一年(1568)に始まったといわれる、日暁山清晨寺があった。
本堂は質素というか、民家の大きなものというような感じだった。
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その先に「二軒茶屋こども公園」と、素朴な字で書かれた空き地があった。
江戸時代には二川宿と吉田宿の中間に位置するので茶屋があったが、
ここがその茶屋のあったところかは説明がないので分からなかった。
やがて、飯村の古い家並みが散在するようになるが、古い門だけ残っている所がある。
ただ古いだけでなく、ボロボロの門であるが、「曹洞宗悟慶院別院」と書かれていた。
曹洞宗悟慶院は豊橋市新吉町にある寺院であるが、ここはお寺だったらしいが、
敷地内の家は普通の住宅だった。
そのまま進むと道は左にカーブし、左側に連子格子の家が現れると、柳生川に架かる殿田橋になる。
江戸時代には飯村一里塚があったところで、それを示す石柱が殿田橋を渡った先の交差点の一角にあるはずだった。
当日は右奥のマクドナルド前で、道の付け替え工事が行われていたこともあろうか、一里塚の石柱は見つけることはできなかった。
東海道はここで国道1号線に合流し、しばらくの間は単調な国道を歩かなければならない。
その後は東三の輪バス停、山中橋を渡り、三の輪町、伝馬町、そして円六橋交叉点を越えていく。
これまで歩いてきたところには古い建物は残っていなかった。
「 豊橋市は昭和二十年六月十九日の深夜から六月二十日の未明にかけての戦闘爆撃機B29九十機による空襲で、死者六百二十四名、燃失した家屋は一万六千八百六十六軒で、古い町並はほとんど焼失し消えてしまった。
豊橋市は戦後の都市計画によって復興した訳であるが、
国道を歩いて気が付くのは都心部に近くなるに比例して、戦後すぐ建てた、と思われる建物が残っていることである。
山中橋までは比較的最近の家が多いのに対し、
伝馬町から先は壊れかけたみすぼらしい家が残っているのである。 」
瓦町の交差点角に「寿泉禅寺」の大きな石門がそびえ立っていた。
門前には「延命地蔵」の石碑が建っていた。
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瓦町から先の右側に不動院幼稚園、そして、願成寺がある。
「 江戸時代、東海道は城下入口の東新町(当時の町名は元新町)で、鉤型になっていた。
東海道はここで左折し、一本目の道を右折し、突き当たったところを右折し、
西新町(当時の町名は新町)に出た。
その先が東八町で、この先に吉田城の東総門があり、門番が監視していたという。 」
現在の西新町交差点は四差路の信号交差点で、当時と地形が変り、その痕跡は残っていない。
それに近い歩きをしようとすると、西新町交差点を左折し、一つ目の道(対面に東海道の矢印がある)を目指して車道を横断する。
ここは横断歩道も信号もないので、強引に渡り、右折して東八町交差点に出る。
左に東総門のミニチュアが置かれているが、交差点を左折して国道に出て一本目の道を左折すると、
鍛治町である。
その先の東海道は地元の人に聞いても知らない人が多くうろうろしたが、
二本目の道を右折するのが江戸時代に近い歩き方のようである。
「
吉田宿(よしだしゅく)は二川宿から六キロ、御油宿へ十キロ強の距離に位置する東海道の中でも大きな宿場だった。
また、豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町でもあった。
吉田宿の宿内人口は五千二百七十七人、家数は千二百九十三軒で、本陣は二軒、脇本陣は一軒、旅籠は六十五軒であった。
この地は豊川に架けられた橋の名から今橋という名前だったが、天正十八年(1590)の家康の関東転出により、
豊臣秀吉配下の池田輝正が十五万二千石で入封した時、縁起のよい吉の文字を取り入れて、吉田という名に変えた。 」
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道はそのまま曲尺手(かねんて)町と続く。
曲尺手とはこのように曲がりくねった道のことをいうのである。
くすのき通りの交差点北側の道路分離帯に「曲尺手門跡」の石碑が建っている。
くすのき通りを渡ってそのまま道を直進し、そば屋のある四差路を左折する。
すると三叉路に出て、正面にある「ヴィジェアルスタジオマリエ」の建物に突き当たる。
東海道の右折する矢印の標識があり、ここを右折すると呉服町で、江戸時代の宿場の中心地に入っていく。
その先の右側にあるガソリンスタンドが「高札場」の跡で、そこには大手通り商店街の袖看板があり、
道の左側には「豊橋市道路元標」があった。
この左右の道が大手通り商店街なのだろう。
右側の「大手門跡」と書かれた小さな標柱が建っているところが、
吉田城の大手門のあったところである。
以前はその先に吉田城祉が垣間見られたようだが、豊橋市役所や豊橋公会堂に視野を奪われ、何も見えなかった。
豊橋公会堂は昭和六年の建設で、高さが十六メートルの鉄筋コンクリート造三階建。
ロマネスク様式を取り入れたデザインはなかなかよい感じがする建物である。
その先の札木(ふだぎ)交差点の手前にNTTのビルがあり、
道路の一角に「吉田宿問屋場跡」の標柱が建っている。
ここも石柱に問屋場の定義が書かれているだけで、誰がやっていたかなどの表示はなかった。
札木交差点の右側に豊橋鉄道の「札木駅」があり、路面電車から乗り降する姿が見られた。
交差点を渡ると右側に「喜の字」という蕎麦屋があり、
その先に創業百年余といわれる「丸よ」という鰻屋がある。
店の前には「本陣跡」の石碑と説明板があるが、道路の片隅にある「吉田宿本陣跡」の標柱よりも立派だった 。
説明板には 「 ここは江戸時代の清須屋与右衛門本陣の跡地で、
東隣には江戸屋新右衛門の本陣が二軒並んで建っていた。 」
とあった。
江戸屋本陣は隣の喜の字という蕎麦屋さんのところにあったのだろうか?
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丁度昼になったので、抵抗なくうなぎ屋に入ったが、値段は高い方だった。
しばし待たされて出てきたうなぎ丼は鰻が皮を上に向けて乗っていた。
身は薄く油は落とされて淡白。 あっさりした味付けのたれにつけられて、なかなか美味だったので、
この価額でも良いだろうと、思った。
吉田宿は 「 吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が・・ 」 とか、 「 御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い・・・ 」 といった俗謡が良く唄われ、 飯盛女の多かったことで知られる宿場で、旅籠はこの札木周辺に集中していたといわれる。
レジの脇にあった「鬼の凧」は二月十日と十一日に行われる「安久美神戸神明社の鬼祭」をイメージしたものである。
「 鬼祭は、国の重要無形民俗文化財に指定された天下の奇祭で、 平安朝から足利時代にかけて行われた田楽の一種が今日まで継承されたもの。 暴ぶる神(赤鬼)と武神(天狗)の戦いは寒中の勇壮な神事であり、 暴ぶる神の退散により一同が平和を喜んで舞う神楽が有名である。 」
その先五十メートル程行くと、道の左側の普通の民家の壁面に「脇本陣跡」のプレートがある。
「
豊橋名物として知られたのは「菜めし田楽」で、
この先の左側のなまこ壁の建物で営業している若松園や信号を越えた本町のきく宗で食べられる。
きく宗は文政年間の創業とある老舗で、菜めし田楽定食が1785円。
菜めし田楽を食べたことのない方は賞味あれ。 」
産婦人科の前に「馬の水飲み桶」のような物が置いてあった。
松葉公園前の交差点を右折し直進すると上伝馬交差点になる
交差点を越えた右側に「西総門」のミニチュアが置かれていた。
ここは吉田城の西総門があったところである。
西総門は吉田城の西門であると同時に吉田宿の京方の入口だったので、吉田宿はここで終わる。
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吉田城の表示をしばしば見てきたので、折角の機会なので立ち寄ることにした。
「 吉田城は今橋城とよばれ、今川方の牧野古白によって築城された。
今川義元が桶狭間で戦死すると、徳川家康が今橋城を取り、酒井忠次を城代として入れた。
豊川に橋が架けられたのは何時か分からないが、橋の名を今橋と呼び、
この土地は今橋と呼ばれるようになった。
天正十八年(1590)の家康の関東転出により、今橋城は徳川氏の手から離れ、
その代わりに豊臣秀吉配下の池田輝正が十五万二千石で入封した。
池田輝政は今橋を吉田と改めると共に城の拡張に乗り出したが、
慶長五年(1600)、姫路に移封となったため、工事は未完に終った。
江戸幕府の開始で、徳川家康は吉田藩の初代藩主に、一族の松平(竹谷)家清を任命したが、嗣子無く廃絶。
代わりに深溝松平(ふこうずまつだいら)忠利が入ったが、二代で代わる。
その後も藩主が代わり、松平(大河内・長沢)信復になって安定し、明治維新まで七代続いた。
吉田藩は大きな藩のように思えるが、実際は小藩で、三万石から多くて七万石だった。 」
上伝馬交差点から関屋交差点を過ぎ右側に入ったところに吉田神社があった。
「 吉田神社は元々は吉田城内にあった神社で、牛頭天王社、又は吉田天王社と呼ばれていたが、 明治二年に吉田神社となった。 祭神は素戔嗚尊で、その創建は定かでないが、源頼朝の家臣、安達九郎盛長が造営した。 」 と言い伝えられている。 」
神社が移転したとは書かれてないので、ここは城の敷地の一部だったのだろう。
この神社を有名にしたのは手筒花火である。
境内に 「 手筒花火発祥の地 」 の碑が建てられている。
手筒花火を実際見ると、凄い迫力で、驚く。
吉田神社略記には、
「 天王社の祭礼煙火ということで始まる。 」とあり、羽田吉田総録に、
「 花火の創始は 永禄元年(1558) 今川義元公吉田城代・大原備前守知尚が花火を始めた。 」 とある。
使用する火薬は戦国時代より武器として厳重に管理されてきたが、
この地域では怨霊退散の為に花火を放揚する(打揚げる)場合に限り、庶民に火薬の使用と製造を許可したことが始まりで、
江戸時代から今日に至るまで続けられてきた。
江戸時代、吉田神社の三河吉田祇園祭は吉田の花火として、常陸水戸、甲斐市川と共に、
日本の三大花火として知られていた。
吉田祇園祭は七月下旬に行われる吉田神社の例祭で、手筒花火の奉納が行われる。
手筒花火の奉納はこの地区男子の成人式のような行事で、一種の肝試しを兼ねたものである。 」
吉田神社の西方の湊町の民家の前に説明板が立っていて、 ここに吉田藩の船寄せ場があったことがわかった。
「 関屋は吉田城の西総堀の内にあって、豊川に面していたところで、
吉田藩の御船蔵が置かれ、藩主専用の波止場があった 」
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三州吉田記に 「 元亀元年関屋之渡口始めて土橋を架す 」 とあり、 「 天正十九年(1591)この土橋を船町へ移す 」 とある。
「 徳川家康の城代として今橋城に入った酒井忠次が初めて豊川に架橋した。
その後入った池田輝政は、今橋を吉田と改めると共に城の拡張に乗り出し、
豊川を背に、本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、
それらを掘が同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張した。
また、今橋が城の領域に入ることから、橋を南の船町に移し、木橋を架け、大橋と呼んだ。 」
吉田宿の浮世絵に、修復中の吉田城の左手に豊川に架かる大橋が描かれている。
池田輝政は工事途中で転封になったこともあるとおもうが、吉田城には天守閣はない。
深溝松平時代に建てられた本丸御殿のみだった。
「 本丸御殿は宝永の大地震で倒壊してしまった。
吉田城は明治六年(1873)の失火により、多くの建物が焼失した。
その後、陸軍の連隊が置かれてたが、現在は市役所と公園になっている。
吉田城の遺跡といえるのは城壁のみである。 」
現在城址にある鉄櫓は、昭和二十九年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して、再建されたものである。
左前のイスノキ(マンサク科)は樹齢三百年以上とあるので、吉田城の興亡を見守ってきた木である。
昭和三十四年、国道一号線の整備に伴い、吉田神社脇に新たな橋が架けられ、
昔を偲ぶ「吉田大橋」の名が付けられた。
橋の手前に吉田大橋誕生の石碑が建っている。
大政奉還の後、新政府は 「 吉田は伊予国(愛媛県)にもあるので、
今までの吉田を改称するので、新しい名前を提出するように 」 と命じられ、
その際、豊橋、関屋、今橋の三つの中から豊橋が選ばれた。
その背景には親藩大名であることと尊皇でなかったことがあげられる。 」
碑文を見ると明治政府の手で吉田から豊橋に変えられた地元の悔しさが読み取れた。
以上で吉田城の探訪を終わったので、上伝馬町交差点まで引き返して旅を続けた。
マンホールの蓋が手筒花火で「消火栓」とあるのは愉快であった。
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吉田宿の京側入口・上伝馬町交差点を北上するとゆるい下りになっている。
江戸時代には坂下町という名だった。
百メートル程行くと交叉点で、狭い道の正面には豊川の堤防が少し見えた。
右折すると吉田藩の舟寄せ場があった関屋へ、東海道は左折して田町に入る。
なお、坂下町と田町は明治十一年に湊町と改称されたので、現在の地名にはない。
少し行くと右側に、湊町神明社の鳥居があるので、中に入っていった。
「 湊町神明社は江戸時代には田町神明社とよばれた神社で、幕府より五石を拝領している。 白鳳元年の創建と伝えられ、祭神は天照皇大御神、相殿は豊受姫大神。 御衣祭りは伊勢神宮の神御衣祭りの御料として白絹や赤引糸を奉納したことに起源をもつといい、 伊勢神宮とも関係が深い神社である。 」
拝殿の左側に、国学者の平田篤胤に書いてもらった神代文字の ” カムナガラ ” を刻んだ額が掲げられている。
ここは湊町公園の一角で、右側に池があり、橋を渡ると「築島弁天社」の社殿がある。
社殿の前に「蓬莱島」の石碑があり、境内には、常夜燈と「芭蕉の句碑」があった。
芭蕉句碑は昭和七年に建立された「旅寝塚」と呼ばれるもので、
芳野紀行 で芭蕉と越人は貞享四年(1687)十一月十日、
渥美の保美に社国を訪れる途次、吉田宿の旅籠で一夜を過ごした際、詠まれた句である。
「 寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき 」
なお、この湊町公園の一角に、「豊橋大空襲殉死者」の碑があった。
「 池田輝政が城下町を整備拡張した際、四ツ家の地名を船町に改め、浅井長政の一族、 浅井与次右衛門を庄屋に任じたと伝えられている。 」
三百メートル弱歩くと水を湛えて濤々と流れている大きな川・豊川に出た。
この川に架かる橋は豊橋で、江戸時代には橋の右下あたりに吉田湊があり、
伊勢に向かう旅人を乗せた舟が出て行ったといわれる。
「 池田輝政が最初に架けた橋は、現在の橋より七十メートル程下流にあったとされ、
長さは百二十間(約220m)の大きな木橋で、吉田大橋と呼ばれていた。
東海道に架かる大きな橋は、武蔵の六郷、三河の吉田、矢矧、近江の勢多であるが、
矢矧橋に次ぐ長い橋だった。
橋の管理や修復は幕府が自ら行っていたが、
台風の被害などで明治弐年(1869)までに合計三十三回も修復が行われたという。
明治十一年(1878)、現在の位置に橋が架けられた際、
明治政府の手で豊橋(とよばし)と名を変えられた。
大正五年(1916)に木橋から鉄橋になったが、昭和六十年に上下四車線の新しい橋になった。 」
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豊橋を渡り終えたら、とよはし北交叉点を左折して、豊川沿いの堤防の道を歩く。
東海道は、ここから三河国府の手前まで、国道1号線とほぼ平行しながら、長い区間が残っている。
このあたりは下地地区で、
少し行くと堤防の下に石碑が見えたので、堤防を降りその場所に近づいた。
民家前の左の石碑は「豊川稲荷遥拝所」とあり、旅人がここで豊川稲荷に向って祈ったところである。
右側の碑は左面に「左御油道」、 正面に「維持安政二・・・・」 と年月が刻まれている。
ここからは堤防の下の県道387号を歩いた。
少し歩くと右側に「聖眼寺」があり、山門前に「親鸞聖人の御旧跡」の石柱が建っていた。
山門を入ると大きななぜかゆったりしたお堂が見えた。
寺内に 「 芭蕉塚有 宝暦四甲戌二月十二日 東都花傘宣来 」 という古い小さな標石がある。
宝暦四甲戌とは宝暦四年、西暦1754年のことである。
聖眼寺は、「松葉塚」という芭蕉の句碑があることから、俳句を詠む人々に人気がある。
境内の一角の松におおわれたところに、大小二つの句碑が並んで建っていた。
左側の石碑は尖頭型のぽちゃっとした小さな自然石に
「 松葉(ご)を焚いて 手ぬくひあふる 寒さ哉 」 という句が刻まれていた。
(注)、松葉は、ご、と読む。 あふるは、あぶるのことである。
「
松尾芭蕉が貞享四年(1687)の冬、愛弟子の杜国の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、
当寺を訪れて一句詠んだものを芭蕉没後五十年を記念して、句碑が建てられた。
戦災にあったとかで、文字がはっきり分からなかった。 」
右側の碑は、上部に 「 こを焼いて 手拭あふる 寒さ哉 」 と、
芭蕉翁の文字、下部の飾りは亀形でかなり大きなものである。
これは明和六年、植田古帆、大木巴牛が発起人となり、
芭蕉の墓のある義仲寺から墓の土を譲り受けて、塚を再建したものである。
芭蕉翁の文字は白隠禅師、また、句は尾張の横井世有の筆による。
二つの句碑には同じ句が刻まれているが、文字の並びが若干異なっていた。
街道に戻ると古い家が散在していた。
下地交差点の手前に江戸から七十四番目の「下地一里塚跡」の標柱があった。
車道側を正面にしているので歩道からは見えない。
東京からの距離が反対方向を向いているので、業者が建てるときに間違えたと思えた。
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このあたりの建物は、平行している豊川の堤防よりかなり低いところにある。
それでも道路から出来るだけ高くしてあるのは水害に備えてものだろう。
少し行いった三叉路で、直進する県道496号に入り、豊川とは別れた。
カーブの右側にある屋敷はみそ屋と思われ、
古い家と白い土蔵、そして川側に黒塗りの倉が並んでいた。
横須賀町交差点を過ぎるとうどん屋の前に、松並木の名残と思われる松が一本だけ立っている。
以前は二本だったようで根元の切り株は新しい。
残る一本はなんとか頑張って生きていって欲しいものである。
かっての瓜郷(うりごう)町(現在は豊橋市瓜郷町寄道)に入ると、 道の右側に「史跡境界」の標柱と案内板が立っていた。
「 史跡境界とは何かなあ? 」 と思ったら、どうやら、「国の指定史跡地」として指定した範囲を表示したもので、遺跡だったと推定される区域の二十分の一以下のようだった。 」
右に百メートル入ると、「瓜郷遺跡」という大きな石碑がある。
ここは公園になっていて、奥に復元された竪穴式住居が見えた。
説明板
「 瓜郷遺跡は弥生時代中期(今から二千年前)から後期にかけての住居跡である。
遺跡は豊川の沖積地の中でもやや高い自然堤防の上にあり、
当時は海岸に近く、遺跡の北には湿地が広がっていた、と推測される。
戦時中の食料増産のため、江川の改修工事の際、偶然みつけられ、昭和二十二年から二十七年にかけて、
五回、発掘調査が行われ、昭和二十八年十一月、国指定史跡になった。
出土したものは、瓜郷式細頸壺や瓜郷式土器、磨製石斧などで豊橋市美術博物館に保管されている。 」
街道に戻るとすぐ小さな江川に架かる鹿菅橋(しかすかはし)を渡る。
「 昔、渡しがあったところといわれ、橋の名を鹿菅橋という。
平安時代の東海道は豊川(当時は飽海川)を渡るため、志香須賀の渡しがあり、
清少納言の「枕草紙」に
「 渡しはしかすかの渡し こりずまの渡し みづはしの渡し 」 と 書かれるほど有名で、赤染衛門などの歌人が歌枕に詠んでいる。 」
その先の左側にかなり大規模な施設の豊橋魚市場があった。
ここが豊橋市のはずれで、少し歩くと標識は小坂井町になり、豊橋市とはおさらばである。
(注)小坂井町はその後の町村合併で、豊川市小坂井町になった。
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前方に堤防が見えてきたと思ったら歩道がなくなった。
橋へと続く道を上って行くが歩道帯がないので少しこわい。
その上にあるのは豊川放水路である。
「 豊川は古は飽海川(あくみがわ)、江戸時代に吉田川になり、明治以降は豊川になった。
上流からの距離が七十七キロと短いため、大雨が降ると洪水が起きやすかった。
江戸時代に川下の吉田宿を洪水から守るため、霞堤と呼ばれる不連続の堤防が造られたが、
その後も災害は起きた。
明治に入り、豊川放水路の計画が起案され、昭和四十年にやっと完成した。 」
豊川放水路に架かる橋は高橋、この橋も車道のみで歩道帯はない。
少し上流にある小坂井大橋を渡れば安全なのかもしれないが、東海道を歩こうと決意し、
車が続く橋の隅を車を避けるようにして歩いた。
車も対向車がなければゆとりのあるスペースを開けてくれた。
実際の時間は短かったのだろうがすごく長いように感じ、かなりの神経を使ってしまった。
橋を渡り終えると下り坂。
坂を下って行くと右側にニチレイ豊橋物流センターがある。
門の先に数本の松が植えられた場所があり、「子だが橋」と書かれた石碑が建っている。
説明板
「 今から千年前には神社の春の大祭の初日、
この街道を最初に通った若い女性を生贄として捧げるという人身御供の習慣があったという。
ある年の祭の初日、 贄(いけにえ)狩りの人が橋を見ていると最初の若い女性が通りかかった。
これで決まりと思ったが女性は祭りを楽しみに帰ってきたわが子だった。
こんな惨いことはないと、狩り人は苦しみ迷ったが、
最後には 子だが仕方なし と決心し、神への生贄にしてしまった。
それから後、この橋を「子だが橋」と呼ぶようになった、と、伝えられる。 」
工場前に川とは思えない小さな川があるが、以前はもっと大きな川だったようで、 そこに「子だが橋石碑」が建っていた、という。
才ノ木南交差点で国道247号(小坂井バイパス)を越えると、
右手に菟足神社が見える。
五十メートル程先の右側にある石の鳥居が菟足神社の入口である。
「 菟足神社(うたりじんじゃ)は延喜式神名帳に載っている式内社で、
祭神の菟上足尼命は大和朝廷に貢献した武勇に秀でた葛城襲津彦の四世孫にあたる人物である。
穂国(東三河の前名)の国造を務めた菟上足尼命は雄略天皇時代に平井の柏木浜に祀られたが、
天武天皇白鳳十五年にこの地に遷座された。
また、 秦の始皇帝が蓬莱島を求めて派遣した徐福一行は熊野に上陸し、
当地に移り住んだ という、徐福伝説も残る神社で、中世には菟足八幡社と呼ばれた。 」
この地は古くから開けたことは間違いないようで、境内の隣に貝塚があった。
また、贄を奉げる風習はあったようで、今昔物語や宇治拾遺物語に 「 三河の国守、大江定基が出家し、
寂照という名になり、三河の風まつりを見たところ、猪を生け捕り生きたままさばく様子をみて、
早くこの国を去りたいと思うようになった 」 と書かれている。
前述の「子だが橋」伝説の神社は、ここで、現在は十二羽の雀を生け贄として神に捧げているという。
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境内は広く社叢も繁っていて、これまで訪れた神社と違う神秘が残る神社だった。
街道に戻り東海道を歩く。
JR飯田線の踏切を渡るところで、左手を見ると小坂井駅があった。
踏切を過ると交叉点で、道が左にカーブするところに大きな松があり、常夜燈と祠が祀られていた。
その先の寺院前にも秋葉山や山王権現など、三つの常夜燈と祠が祀られていた。
民家の庭の中に「馬頭観音」が祀られているのを見つける。
文久三・・・・と、あるので、幕末(西暦1863年)のものである。
やがて、宿地区(江戸時代には宿村)に入った。
一キロ程歩くと、(豊川市)伊奈町茶屋で、
江戸時代には吉田宿と御油宿との中間にあたるので、茶屋があったところである。
道の左側に東部テニスコートの駐車場があり、
道の脇に「伊奈立場茶屋加藤家跡」と書かれた貧弱な標柱があった。
ここが「茶屋本陣、加藤家」の跡である。
加藤家は、「良香散」という腹薬を売っていることで有名だった。
駐車場の中の左側に金網に囲まれた一角があり、
説明板と当時の「井戸跡」と「芭蕉と烏巣」の句碑が建っていた。
「 かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し 」( 芭 蕉 )
芭蕉が加藤家に泊まった時詠んだ句である。
「 ももの花 さかひしまらぬ かきね哉 」( 烏 巣 )
烏巣は加藤家の生まれで、京都で医者を営んでいたが、芭蕉と親交があった。
今は地名に茶屋を残すのみである。
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その先、右側の迦具土神社は、建物も鳥居もあたらしい?
少し歩くと右側に全国でも数少ない太鼓を造る店があった。
店の前に江戸から七十五番目の伊奈一里塚があったことを示す「一里塚跡」の標柱が建っていた。
右手に速須佐之男神社があった。
その先、佐奈川の佐奈橋を渡ると、かって伊奈町から豊川市小田渕町になった。
交叉点を左折して行くと名鉄名古屋本線小田渕駅があり、この付近には古い民家が残る。
街道から右側に少し入ったところに、「冷泉為村」の歌碑があった。
「 散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 」
「
冷泉為村は、江戸時代の冷泉家の当主で冷泉家中興の祖といわれる。
一度だけ江戸に出向いた時、当地桜町で詠んだものである。 」
白川に架かる五六橋を渡り、更に小さな西古瀬川を西古瀬橋で渡ると、左右に工場が建ち並んでいた。
県道31号が交差する信号交差点を渡り、300m歩くと、白鳥5丁目西交叉点で、国道1号に合流した。
白鳥こ線橋東交差点で名鉄名古屋本線のガードをくぐると、国府町に入る。
(注)現在は町村合併で豊川市国府町になっている。
「
国府(こう)は、古くからひらけた所で、穂の国(ほのくに)の中心地で、
奈良時代には三河国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、総社も造られたところである。
(注)古代には東三河は穂国、西三河は三河国と分かれていたが、
大化の改新後の律令制の確立時に二つの国が統合されて三河国になった。 」
国府町藪下交差点の三叉路で、左側の道が東海道であるので、国道1号と別れて、県道374号に入っていく。
この道は藤川の先まで続いている。
これまでの国道の喧噪とうって変わり、静寂になり、古い家も多く残っていた。
少し行くと、道の傍らの「半増坊大権現」と書かれた石柱の上に、
注連縄を付けた小さな社が祀られていた。
半僧坊大権現は浜松市引佐にある奥山半僧坊のことだろう。
半僧坊は方広寺の守り神で、明治十四年の山火事で本堂などの建物が焼けたが、
半僧坊仮堂と開山円明大師の墓地が焼け残ったことから、火除けの神として全国に広がった、とあるので、
この石柱もその頃建てられたのではないか?
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その先には高さ二メートル五センチもする大きな秋葉常夜燈が建っていた。
こちらは江戸時代に火除けの神として信仰を集めた秋葉山の常夜燈で、
寛政十二庚申(1800)に国府村民達で建立したものである。
道はこの先、右へカーブし、新栄2丁目交叉点を越える。
江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があったようで、
今でも古い家がちらほら残っている。
その先に白い土塀と石垣、そして大きな樹木が見える。
近づくと境内も広く、大きな樹木が繁茂している、大社神社という立派な神社である。
大社神社の社伝には 「 天元、永観(978〜985)の頃、
三河国国司・大江定基が、出雲大社より大国主命を勧請し、社殿が造営されたが、
それ以前に何らか堂宇が存在したと思われる。
江戸時代には国府大明神といわれ、明治五年(1872) 国府村の総氏神となった。 」 とある。
百メートルに及ぶ石垣と白い土塀は、寛政六年(1794) 、
近くにあった田沼陣屋(老中 田沼意次の所領)の石垣を移したもので、
石垣は音羽川の上流から運んだ石で築いた、とされる。
夏には手筒花火の奉納が行われるようである。
この先が国府町と御油町の境である。
道の右側の蒲郡信用金庫の駐車場の一角に、「御油一里塚跡」の標柱が建っていた。
その先の交差点は「姫街道」の始点追分で、左右の道は県道368号、
この道の右手にある追分交叉点から先は県道5号で、通称、姫街道である。
「
姫街道は東海道の脇往還で、本阪道とも呼ばれ、ここ御油から豊川、本坂、三ケ日、気賀を経て、
天竜川の手前の萱場で、東海道に合流する遠州見附宿(磐田市)に至る、約六十キロの道路である。
手形改めが行われる新居関を避ける女性たちが通ったことから姫街道の異名がある。
また、万葉集で「高市黒人」が 「 妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる 」 とよんだ二見の道
がここだろう、といわれる。 」
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交差点を渡った先の右側に中日新聞販売所があり、隣に大きな常夜燈と二つの道標が建っている。
以前は道の反対の東側にあったものだが、右側の道標には 「 國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町 (明治十三年建立) 」 とある。
砥鹿神社とは三河国一の宮の砥鹿神社のことである。
左側の道標には 「 秋葉山三尺坊大権現道 」 と刻まれていて、遠州にある秋葉山への道標で、
明治十六年の建立である。
「 秋葉山三尺坊は三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀る秋葉社と、
観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある
神仏混淆(しんふつこんこう)の寺院である。
人々には秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山などと呼ばれた。 」
道標の脇にあるのは、御油の人達が建てた「秋葉山永代常夜燈」で、右○○、左ほうらいじと書かれている。
「 秋葉三尺坊は剣難、火難、水難に効くという信仰で、 江戸中期に大流行し、一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社 と言われ、 江戸中期から明治初期までに各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られた。 」
その先、音羽川に架かる小さな御油橋(旧五井橋)を渡ると、御油宿である。
御油宿に入ったところは茶屋町(現在は豊川市御油町木ノ下)で、
左側に「若宮八幡社」の石柱があるが、小さな社と一対の狛犬そして桜の木があるだけである。
古い家は少しあるが以前より少なくなっている感じで、この付近は現在建築ラッシュだった。
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その先の左側に古い家があり、その先は変則交叉点になっていたが、 その家の向かいの空き地に「ベルツ博士花夫人のゆかり地跡」とあった。
「 ベルツ博士は日本の医術の進歩に貢献したドイツ人で、
草津温泉の効能を理解し、草津の温泉療法を世に広めたことで有名である。
花夫人はベルツ博士と結婚し、日本とドイツに暮らした。
ここは花夫人の父、熊吉の生家で、江戸時代には戸田屋という旅籠を営んでいた。 」
交叉点を直進すると御油保育園があり、手前の広場に「高札場跡」の表示板があった。
変則交叉点は、江戸時代には宿場特有の鉤型(曲手)なっていたようである。
そこを右折すると、当時は横町で、右側の空地は「問屋」があったところである。
空地に、安藤広重の御油宿絵のレリーフがあった。
「 御油宿は、徳川幕府が慶長六年(1601)に開設した東海道と同時に誕生した宿場である。
天保十四年(1843)に編纂された「東海道宿村大概帳」によると、
御油宿は長さ九町三十二間(1298m)の間に、三百十六軒の家があり、
旅篭が六十二軒と、旅籠の占める割合が高い。
広重の浮世絵は太った招き女が小柄な男を強引に宿に引っ込もうとしている場面であるが、
旅籠が多かったので、旅籠の客引きが盛んで、このような光景がよく見られたのであろう。 」
突き当たったところは宿場の中心の仲町で、江戸時代には本陣が四軒と定飛脚所などがあった。
味噌屋の看板があるが今は営業をしていないようだった。
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その先の味噌・たまり醤油の製造会社「イチビキ」の駐車場の前に「本陣跡」の碑が建っていた。
道の右側の第1工場の漆喰壁の倉脇に「旅籠大津屋」の表示がある。
「 昔、大津屋という名で飯盛り女を多く抱え、右側の駐車場のあたりで旅籠を経営していた。
ある時、飯盛り女五人が集団自殺してしまったことがあり、主人はすっかり家業が嫌になり、
味噌屋さんに転業した、という話が伝えられている。
味噌屋の創業は安永元年(1772)とあるが、当時の味噌作りは原始的なものだったようで、
明治時代に子孫の東大出が技術的な改革をしたのが今日に生きている。 」 とあった。
その先は中上町(現在は豊川市御油町美世賜)。
左に入ったところにある東林寺には五人の遊女(飯盛り女)の墓が残っている。
明治維新で参勤交代が廃止、伝馬制や助郷制も明治五年(1872)に廃止されると、
御油宿は急速に寂れていった。
それに拍車をかけたのが東海道線の敷設に反対し、忌避したことである。
東海道の御油、赤坂、藤川、岡崎、知立の五宿がこぞって反対したため、
鉄道は海岸に沿って蒲郡を通る経路に変更された。
反対の理由は汽車が通ると客が素通りしてしまう、機関車から火の粉が飛んで火事になる、
鶏がおびえて卵を産まなくなる、等々と言われているが、
真の理由は、当時盛んになりつつあった養蚕の桑の葉が煙や灰でいたんでだめになると、いうことにあったようである。 」
鉄道(JR東海道線)から取り残されて後、宿場町は壊滅し、その結果、今日の古い家が残る街並みになった。
御油には連子格子のある家が多く残っていた。 写真はその一軒である。
これで御油宿は終わる。
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御油宿から隣の赤坂宿までは僅かに十六町、およそ千七百メートルの距離である。
「
慶長六年(1601)、徳川家康が駅制を定めるにあたり、東海道の宿駅に一宿一枚ずつの伝馬朱印状を下したが、
「 赤坂、五位(御油)」 と二宿が併記された朱印状だった。
朱印状には慶長五年伊奈備前守忠次が下した伝馬割当文書が添えられていて、
各宿場には馬五拾疋を常備することを命じているが、
「 赤坂ヘ廿五疋、五井へ廿五疋、両宿ヘ可申付 」 と合せて、五拾疋となっている。
また、慶長六年の伝馬継立之定には 「 くたり伝馬は藤川の馬を五井迄通し、
五井の馬にて吉田迄届可申候。
のほり伝馬は吉田の馬を赤坂迄通し、赤坂の馬にて藤川迄届可申候 」 とある。
これらのことから、当初は御油と赤坂両宿で一宿の機能を果たしていたが、
程なくそれぞれが独立した宿場になったと考えられる。 」
御油宿を出ると県道374号を歩く。
江戸時代には上五井で、松並木の手前の公民館前には馬頭観音などの石仏が並んで祀られていた。
その先の左側には「十王堂」が建っていた。
「 十王は冥界に合わせて死者の罪業を裁判する十人の王のことで、
彼等の裁判を受けて次に生まれてくる場所が決まる、とされる。
この考えは平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に全国に伝わった。
この建物は明治中期に火災に遭い再建されたものだが、
江戸時代の絵図に描かれているので、十王堂は古くからあったようである。 」
少し歩くと、県道の右側に御油松並木公園がある。
「 慶長九年(1604)、東海道の開設と共に整備された松並木である。
国の天然記念物に指定されるだけのこともあり、背が高く太くなった松が多い。
そうした松が生い茂る松並木が六百メートルも続く。 」
安藤広重の浮世絵・東海道御油宿には、松並木を歩く旅人が描かれている。
松並木の中間あたりの県道の左側に「弥次喜多茶屋食堂」があった。
十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」で、弥次さん、喜多さんが留め女に袖を引かれたり、
この先の松並木には悪い狐がいて旅人を化かすからここに泊また方がよい、と脅られる場面があるが、
そこから名前を付けたのだろう。
杉並木をあっという間に歩き終えると、天王川に架かる一ツ橋があり、橋を渡ると赤坂町関川である。
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御油の杉並木を過ぎたあたりに赤坂宿の「見附(みつけ)跡」の看板があった。
「 見附とは宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、旅人の出人を監視したところである。
赤坂宿の江戸方(東)見附は関川地内の東海道を挟む両側にあり、京方(西)見附は八幡社入口の片側にあった。
東見附は寛政八年(1796)、代官辻甚太郎のとき、ここから関川神社前に移されたようだが、その後また、ここに戻された。
見附は明治六年に一里塚などと共に廃止された。 」
少しいくと左側に関川神社があり、社殿脇の大クスは推定樹齢約八百年である。
「 関川神社は、三河国司・大江定基の命をうけた赤坂の長者・宮道弥太次郎長富が、
クスノキのそばに市杵島媛命を祭ったのが始めと、伝えられている神。
木の根元からえぐられている部分は慶長十四年の十王堂付近の火災の火の粉が飛びこげたものと、
伝えられてきた。 」
境内には 「 夏農月 御油よ季いてゝ 赤坂や 」 と刻まれた芭蕉の句碑がある。
夏の月 御油よりいでで 赤坂や
この句は夏の夜の短さをわずか十六丁で隣接する赤坂と御油間の距離の短さにかけて詠ったものである。
この句の通り、御油宿から赤阪宿までは松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまうほどの短さだった。
四百メートル程歩くと、赤坂紅里(あかさかべにさと)交差点に到着。
右折すると名電赤坂駅である。
紅里とはかっての色町を想像させる名前であるが、このあたりが赤坂宿の中心だったところである。
工事中の門の近くに「松平彦十郎本陣跡 」と表示された説明板があった。
「 当初、松平彦十郎が本陣と問屋を兼務していたが、
問屋は文化年間より弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれた。
本陣も初めは松平彦十郎本陣のみだったが、その後、伊藤本陣、弥一本陣などが加わり、四本陣となっている。
その中でも立派だったのが彦十郎本陣で、門構玄関付きで、間口十七間半、奥行二十八間、
部屋の畳数は四百二十二畳あった。 」
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交差点の右側に民芸品を売る古い建物の尾崎屋があった。
その先右側に郵便局があり、その先左に入った長福寺の山門の門額には「三頭山」と書かれていた。
「 長福寺は平安時代、三河の国司だった大江定基との別れを悲しんで自害した赤坂の長者の娘、
力寿姫の菩提を弔うために建てられた寺である。
本尊の聖観世音菩薩は大江定基が寄進したもので、恵心僧都の手によると伝えられる。 」
幕末の頃、赤坂代官所に勤めていた役人の手紙に 「 長福寺の桜も満開になったでしょう。 昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します。 」 と記されていた山桜は樹齢約三百年、幹の周り約三メートル三十センチで、旺盛に葉を茂らせていた。
街道に戻ると古い連子格子の家があった。
呉服屋の向かいの家に小さな表示板がぶら下げられていて 「問屋場(伝馬所)跡」 と表示されていた。
「 問屋場は間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)で人足三十人、馬十頭(疋)をつないで、 宿場間の公用の荷物や旅人を次の宿場まで運んでいた。 その運営には問屋、年寄、帳付、馬指といった宿役人があたっていた。 」
その先左側にある、旅館 大橋屋 は江戸時代の旅籠で、東海道で唯一今もなお営業を続けている。
「 大橋屋は江戸時代の慶安二年(1649)の創業の 旅籠 伊右衛門鯉屋 が前身である。
現在の建物は正徳六年(1716)頃の建築で、間口九間、
奥行二十三間ほどの大きさであるが、赤坂の旅籠では大きい方だったといわれる。 」
入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の様子を留めていた。
大橋屋の隣の境に「高札場」の木柱が立っていたが、気を付けないと分からないだろう。
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伊藤本陣跡の裏にあるのが浄泉寺で、本堂の脇のイチョウが黄色く色づいてきれいだった。
安藤広重の東海道五十三次のなかに 「 赤坂 旅舎招婦図 」と題された旅籠風景がある。
描かれているのは「旅籠 鯉屋」の庭の推定樹齢二百六十年といわれるソテツである。
その大きなソテツが本堂脇にあった。
明治二十年頃の道路拡張時に旅籠からここに移植したと説明があった。
赤坂薬師といわれる薬師堂には赤い幟が林立していた。
街道に戻り、少し行くと右側に「赤坂陣屋跡」の説明板があった。
「 陣屋は代官所ともいわれ、年貢の徴収や訴訟を取り扱ったところである。
赤坂陣屋は三河国の天領を管理するため幕府が設けたもので、
国領半兵衛が代官のときに豊川市の牛久保から移ってきた。
幕末から明治にかけては三河県の成立にともない三河県役所となり、明治二年六月、
伊那県に編入されると静岡藩赤坂郡代役所と改められたが、
明治四年の廃藩置県により、伊那県が額田県に合併されると、赤坂陣屋は廃止された。 」
道の反対側の奥に音羽町役場、手前に休憩施設「よらまいかん」がある。
(注)音羽町は町村合併で豊川市に吸収され、この地名は豊川市赤坂町○○である。
少し先には連子格子の古い家があり、左側の駐車場の一角に「十王堂跡」の標柱が建っていた。
対面の民家の駐車場に赤坂宿の京側入口を示す「見付跡」の標柱があった。
赤坂宿はここで終りになる。
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