新居宿は新居の関所が置かれたところで、「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しい関所だった。
今でも、当時の姿で関所は残っている。 また、紀州藩の御用宿だったという旅籠も残る。
江戸時代には西から旅してくると潮見坂で始めての富士が見られた、という。
白須賀宿は格子戸のある古い民家や間口の狭い家並みなど、今でも江戸時代の面影を残している。
二川宿には連子格子の家が多く残り、独特の雰囲気がある。 また、二川宿本陣や旅籠の清明屋も見られる。
(ご参考) 舞坂〜新居 5.9キロ 徒歩約2時間
新居〜白須賀 6.5キロ 徒歩約2時間30分
白須賀〜二川 5.7キロ 徒歩約2時間
安藤広重の浮世絵 「東海道新居宿」 は今切の渡しの様子がが描かれている。
「
浜名湖はかっては淡水湖だったが、室町時代の大地震と津波で陸が割れ、海とつながったという。
海水が流入するようになった切り口を「今切」といい、
舞坂宿の本雁木の今切の渡し場跡から、沖合に見える国道1号線のバイパス橋のあたりがそうである。
地震以降、東海道は陸づたいに行くことができなくなり、
舞阪から新居までは一里半(約6km)の距離を約二時間の舟便によった。
これを今切(いまぎり)の渡しという。 」
昭和七年に浜名橋が完成して、今切の渡しは廃止になったので、この区間は電車に乗るか、
弁天島経由で橋を渡るかの方法をとらなければならない。
歩く場合は、北雁木から北に向かうと弁天橋がある。
弁天橋を渡って国道301号と合流する角に弁天神社がある。
境内には天女伝説で知られる子宝の松がある。
その先右側にJR弁天島駅があり、弁天島温泉がある。
次に中浜名橋を渡る。 国道とは別の歩行者用の橋である。
ここは新弁天バス停があり、数軒の温泉旅館・民宿がある。
この先は西浜名橋で、歩行者・自転車専用の橋を渡る。
これまでの橋は200m程であったが、西浜名橋は400m程あった。
浜名湖の景観を期待していたが、残念ながら、この歩道からは浜名湖はほとんど見えない。
これで対岸の旧新居町、現在の湖西市新居町に到着した。
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国道を歩くと、JR新居町駅前に出る。
新居町駅前には 「 浜名街道 水まんなかの道が まっすぐ 山頭火 」 という句碑が建っている。
新居町駅から、新居関所までは約八百メートル、十分ほどの距離である。
浜名川に架かる浜名橋の左側には多くの小さな舟が係留されていた。
浜名橋には、「新居宿」の浮世絵がレリーフになって、幾つか描かれていた。
川の右側には小さな秋葉神社があったが、壊れかけていた。
道の両脇には御土産物屋や飲食店が並んでいた。
関所跡バス停を過ぎると、右側に特別史跡・新居関所があった。
(入館料は新居関所と資料館だけなら三百円だが、その先の旅籠・紀伊国屋を含めた入館料は四百円。
9時〜4時30分、月休)
江戸時代には、舞坂宿の渡船場で舟に乗ると、新居宿の入口は新居関所だった。
安藤広重は、浮世絵「東海道荒井(新居)宿」で、舟から下りた旅人が関所に向う様子を描いている。
説明板「新居関所」
「 新居関所が創設された当初は浜名湖の今切口に近い、現在、大元屋敷と呼ばれるところにあったが、
地震や津波などの災害で移転が強いられ、さらに移転し、その後、現在の場所に移った。
今切にあったので今切関所といい、今切の渡しという。
新居関所は正式には今切関所といい、慶長五年(1600)に設置され、幕府が管理したが、
元禄十五年(1702)、三河国吉田藩に管理が移された。
面番所、書院、下改勝手、足軽勝手の建物は嘉永七年(1854)の大地震で大破、翌安政弐年に建替えられた。 」
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入場料を払い門をくぐると、左側にある堀のようなものは江戸時代の渡舟場を再現したものである。
「
江戸時代には関所のすぐ東が浜名湖で、関所の構内に渡船場があって、対岸の舞阪宿と船で行き来していたが、 明治以降の埋め立てにより渡船場などが無くなった。
今あるのは、平成十四年に古絵図などに基いて、護岸石垣、渡船場、面番所への通路などを復元したものである。 」
これから推察すると、当時はこの近くまで水面があったということになる。
面番所は、三十年程前に修理された時、当時小学生の息子が見たいというので訪れたという記憶がある。
当時は外からのみの見学だった。
今回訪れると屋根などが古くなりかなり傷んだ、という感じがしたが、取り調べの様子を人形で再現していた。
「 通行手形を改める面番所では番頭を筆頭に、給人、下改などの役人が勤めていた。
新居の関は箱根の関所と同じように 入り鉄砲に出女 の取り締まりが厳しかった所で、女人はこの関所を通るのを嫌がった。
船囲い場跡内に女改長屋があり、関所勤務の足軽の母親が住み、関所を通る女性を調べていた。 」
資料館には、長崎勤番の大名の家来が長崎の女を秘かに郷里に連れ帰ろうとして、
関係者の多くに重罪が課せられた事件が紹介されていて、そんなに厳しかったのか、と思った。
関所手形に女、鉄砲の他、乱心、囚人、首、死骸というのもあり、船の出入りに出船手形、入船手形があることも知った。
関所を出て街道に戻る。
関所の手前を左に入った空き地に「船囲い場跡」の石柱が建っていた。
「
船囲い場は舞阪宿からの渡船用の船をつないだところで、常時百二十艘が配置されていた。
大名通行などで足りなくなると、寄せ船制度により、近郷から集められた。 」
船にも、助郷のような制度があったのである。
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面番所でお調べを受けた後、関所の大御門を出ると、新居宿が西に向かった並んでいた。
「 宿場の人口は三千四百七十四人、家数七百九十七軒で本陣は三軒あったが、脇本陣はなかった。
旅籠は時代により変動があるが、二十六軒である。 」
少し先。関所の反対(左)に、江戸時代の享保四年から元文四年までの二十一年間、無人島の鳥島に生き貫き、なんとか生還できた、新居出身の船乗りの石碑があった。
このあたりには番所を囲む竹やらいがあったというから、関所を出入りする大御門を出たあたりだろう。
道の左側に旅籠の一軒・紀伊国屋の建物が残っている。
「 紀伊国屋の創業時期ははっきりしないが、元禄十六年(1703)には徳川御三家の一つ、 紀州藩の御用宿になっていた。 紀伊国屋の屋号は正徳六年(1716)からであるが、昭和三十年頃に廃業するまで約二百五十年の長きにわたり、 旅館業を続けてきた。 」
主人が紀伊の出であったことから、紀州藩の御用を勤めるようになったと思うが、 敷地内に「紀州藩七里飛脚の役所」が置かれたこともあり、 また、帯刀、五人扶持を認められるなど、他の旅籠とは違うなあ、と思った。
説明板
「 建物は明治七年(1874)の大火で燃失、二階建てに建替えられ、一部増築もされたが、
江戸後期の旅籠建築様式が随所に残されている。
江戸時代にはこの家の前後左右に旅籠が林立していたが、その中でも大きかった。 」
建物内は確かに旅籠風な造りであったが、庭は広く手入れされていた。
その先で、泉町交差点のT字路に突き当たる。
正面の屋根の上に浜名湖競艇の道案内が乗る家は、 飯田武兵衛本陣の跡である。
「 小浜、桑名、岸和田など七十を数える大名が利用し、明治天皇も明治元年の巡幸、
還巡幸など合わせて四回利用している。
建物は当時のものではなく、家の前にそれを示す石碑と説明板があるだけだった。
東海道はT字路で左折するが、武兵衛本陣の左隣は伊勢屋という旅籠で、その隣に、 疋田八郎兵衛本陣があった。
「
疋田八郎兵衛は庄屋や年寄役を務め、本陣には吉田藩の他、御三家など、百二十の大名が利用した。
門構えと玄関のある建坪百九十三坪の屋敷だったが、この場所は空き地になり、それを示す石碑が建っていた。 」
幕末の絵図によると、隣に医者高須弥久が住んでいた。
もう一軒の疋田弥五郎本陣は道が突き当たる手前右側にある疋田医院の場所にあったという。
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その先には「寄馬跡」と書かれた石碑がある。
説明文
「 宿場には公用の荷物や公用の旅人のため、人馬を提供する義務があり、
東海道の場合、人足百人、馬百疋、と決められ、それだけの数の人馬を用意していた。
しかし、それで不足する場合は助郷制度により近隣の村々から集められたが、
とり寄せた人馬のたまり場が寄馬である。 」
その先の少し入ったところに諏訪神社があった。
説明板
「 諏訪神社は遠州新居の手筒花火として有名で、古くから東海道の奇祭として知られていた。
新居の花火は江戸時代の享保年間頃(今から約二百八十年前)、新居関所を管理していた三河の吉田藩から伝えられた、と言われ、
お囃子に合わせて、花火を抱えて踊るような奔放(ほんぽう)な手筒花火で、
毎年七月下旬の金、土曜日の二日間行われる。 」
照明の脇に「仲町発展会」と記され、この町で一番賑わうところと思えるが、人の姿はない。
昼飯を買おうと手作りパンの店に入たが、きつねずしなども売っていたので、パンとすしを買い
自動販売機でお茶を購入して昼の準備は完了。
再び歩き始めると左側に池田神社があった。
説明板
「 小牧長久手の戦いで戦死した池田信輝の首を、徳川方の武将、長田伝八郎が首実検ののち、
ここに首塚を築いたもので、享保二十年(1735)に池田神社となった。 」
右側の若宮八幡宮の先に西町公民館がある。
その向かいの民家の一角に「一里塚跡」の説明板があり、
「 左(ひがし)に榎(えのき)、右(西)に松の木が植えられていた 」 とあった。
東海道はその先の三叉路を右へ行く。
道は右にカーブし、その先で更に左にカーブする。
左カーブの手前に「棒鼻跡」の石標が建っている。
ここは新居宿の西(京方)の入口であった。
一度に多くの人が通行できないように土塁が突き出て、「枡形」を形成していたところである。
「 棒鼻は駕籠の棒先のこと。 大名行列が宿場に入るとき、先頭(棒先)を整えたのでそう呼ぶようになった、といわれる。
今は土塁は崩されて跡形もなく、また、道も増やされているので、枡形といわれてもピンとこなかった。 」
新居宿はここで終わる。
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棒鼻からまっすぐ進むと、県道417号(旧国道1号線)の橋本交差点にでる。
ここには 「 東海道夢舞台 橋本 ー 新居宿加宿 」 の道標が建っていた。
県道を地下道で横断すると対面に、諏訪上下神社がある。
橋本は古代の橋本駅があったところで、古い歴史があるところである。
左の消防署の近くの「女屋跡」とあるところは、鎌倉時代、橋本宿の長者が住んだ屋敷跡と言われる。
県道を左に進むと左側の民家の一角に、「風炉の井」という古い井戸が残っている。
言い伝えによると
「 建久元年(1190)、源頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊したとき、井戸の水を使って茶の湯を味わった、
とされる井戸である。 」
更に、奥に進むと浜名橋跡に出られる。
「 浜名湖は今は遠州灘につながる海水湖だが、かっては淡水湖だった。
奈良時代から平安にかけて多くの和歌が詠われたが、
京都に近い琵琶湖を淡海(近江)といい、浜名湖を遠い淡海ということで、遠江という名前が付けられた、といわれる。
当時の浜名湖は陸続きの淡水湖で、唯一浜名川だけが海(遠州灘)に通じていた。
平安時代の貞観四年(862)に、この川に架けられたのが浜名橋で、
清少納言の「枕草紙」にもあるが、この橋を使って舞阪から新居まで歩くことができた。
鎌倉時代には浜名川に架かる浜名橋のたもとに橋本駅舎(はしもとうまや)があり、
旅籠や女郎屋が軒を連ねて、橋本千軒というほど賑わったと、いわれる。
室町時代の明応七年(1498)に起きた大地震と津波により、海岸が流されて、
遠州灘と浜名湖がつながってしまった。
東海道は陸づたいに行くことができなくなり、今切りの渡しとなり、その後、新居関所ができたこともあり、
橋本宿は衰退していった。 」
この橋本集落には上記のような歴史があるが、今はその面影は少しも残っていなかった。
橋本西交差点の手前に、「教恩寺」という古い寺がある。
「 正安弐年(1300)の創建と伝えられる寺院で、江戸時代後期に建造された楼門が印象的である。 」
橋本西交差点の三叉路で、東海道は県道417号と別れ、右の道に入る。
ここから再び旧東海道(浜名旧街道)で、いつのものが分からないが古い家も残っていた。
その先の三叉路で東海道を直進する。
右折すると先ほどの棒鼻跡の石碑に戻ってしまう。
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この先はのどかな道に変わった。
歩いて行くと松の木がぽつりポツリと現れた。
道の右側に「紅葉寺跡」の案内を見つけたので入っていったが、今は石段だけでそれ以外には何も残っていなかった。
説明板
「 紅葉寺は紅葉山本学寺といい、建久元年(1190)、高野山より毘沙門天を勧請して建立された、といわれる。
室町幕府、足利義教(よしのり)が、永享四年(1432)、富士遊覧の折、立ち寄って紅葉を賞したので、
紅葉寺と呼ばれた。 」
右側の山沿いには家が続くが、左側は田畑で、家は一軒もなかった。
しばらくいくと本格的な松並木が現れた。
江戸時代のものと思ったが、マツクイ虫で松並木が全滅したため、昭和六十二年に植え直したと、説明にあったので、昭和の松並木である。
右側に別れていく道の脇に「検校ヶ谷」と書かれた石碑があった。
説明板「検校ヶ谷」
「 江戸時代、盲目の座頭が最高位の検校の地位を得るため、東国から京に上る途中、このあたりで道に迷い、
倒れてしまった。 その後、検校ヶ谷と呼ばれるようになった。 」
左側の松並木の下に、「藤原為家と阿仏尼の歌碑」がある。
「 風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣り舟 」(藤原為家)
「 わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで 」(阿仏尼)
「
藤原為家は藤原定家の二男で、続後選和歌集や続古今和歌集を編纂した人物である。
阿仏尼は為家の継室で、彼の没後出家し、鎌倉へ下向の折、十六夜日記を書いた。
この歌は鎌倉下向の時に詠ったものだろう。 」
道の左側は低くなっていて田畑が広がりビニールハウスが点在しているが、南方に県道417号(旧国道1号)が見渡せた。
松並木が終わると大倉戸集落に入った。
右手の東新寺の手前、木の繁みの下に、「立場跡」の説明板があり、
「 ここの立場茶屋は代々加藤家が務めていた 」 とあった。
新居宿と白須賀宿の中間地点なので、茶屋が置かれたのであろうが、
紅葉の名所の高師山も関係したのかも知れない。
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東海道は高師山の山裾を縫って行ったというが、この辺りには古い家が多く残っている。
東海道名所図会に、 「 高師山は高志或は高石と書す。 遠江記云白菅より續きて北山までの間をいふ。
あるいは高師山は今天神祠より白須賀の邊まで續きし山をいふ。 」 と紹介されている。
高師山の範囲ははっきりしないが、このあたり一帯の山を呼ぶのであろう。 」
高師の山は古来、歌や文学で名高い。
「 朝風に 湊をいづる 友船は 高師の山の もみじなりけり 」(西行法師)
「 高師山 はるかに見ゆる ふじの根を 行くなる人に 尋ねてぞしる 」(民部卿為家)
道の左側に「明治天皇御野立所趾」の石碑が建っていた。
明治天皇もそうした故事を知り休憩されたのだろうか??
山裾を縫った道は行くと、湖西市白須賀になった。
右側に火鎮(ほずめ)神社があった。
説明板
「 火鎮神社は三座を祀り、応永年間の高潮と安永年間の社家火災のため古文書が散失し、
由緒ははっきりしないが、徳川家康の崇敬厚く、除地壱町四方余、丸太船壱双の御墨付きを賜り、
地方一般の崇敬を集めて御隆盛を極む。 」
少し先の道の傍らに、静岡県が設置した「夢舞台東海道 白須賀宿」の道標があった。
「
白須賀宿はここに開設されたが、
宝永四年(1707)の地震と津波で大被害をうけたため、宿場は潮見坂の上に移転した。
そうしたことから元宿と呼ばれる(町名は元町)ところである。 」
道は上り坂になり、両脇の家は道より少し高くなっていた。
たばこ屋の先の四差路あたりが移転する前の白須賀宿の中心地だった。
「元町一里塚跡」の石柱が民家の前に建つだけで、寂れたところという風情である。
なお、このあたりでは「一里塚」のことを「一里山」と呼んでいた、とあった。
その先から人家が少なくなり、道も上ったり下ったりするが、傾斜はたいしたことはない。
浜名湖カントリークラブの風力発電のプロペラがやけに大きく見える。
両脇に家数が増え、古い家も多く立派である。 道は左右にふれながら続いていた。
やがて、右側に内宮神明神社の鳥居が現れる。
境内に入ると木が茂り、威厳がある雰囲気である。
神社の隣の家は屋敷門が付いたすごく立派な家だった。
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この先はまた、家が少なくなるが、左手遠く、潮見バイパスを走る車が見える。
一キロ程行くと左側に中丁公会堂のある交叉点にきた。
交叉点を右に入って行くと、蔵法寺がある。
「 奈良時代末から平安時代に始まった寺が起源とされる。
現在の寺は、慶長三年(1598)に曹洞宗の寺として開かれ、徳川家康より二十三石を賜ったという寺である。
この近くで戦死した今川氏親(義元の父)の墓がある。
境内には海底から引き上げたという潮見観音も祀られていた。 」
街道を進むと、その先は三叉路で、家の前に「右旧道、左新道」と書かれた小さな石柱があった。
いよいよ潮見坂である。
どちらの道も坂の上に達することはできるが、右折する細い道の方が古い道である。
どちらにするか迷ったが、古い道を行くことにした。
自動車が通れる道であるが、車がすれ違うにはかなり気を使う道幅しかない。
勾配がかなり急で、えっちら、えっちら、と上っていく。
道はカーブしているが、上っていくと右側に「潮見坂」の案内板があった。
その先で、左側から道が合流してきた。 これが、どうやら新道である。
新道の下の方角を見ると、海が見えた。
これが潮見坂のゆえんである。
さらに高く登ればよく海が見えるだろうと、よいしょ!よいしょ!と、登った。
頂上に着いたが、右側は畑で、家が遠くにぽつりぽつりあるだけで、眺望はなかった。
足利将軍の足利義教は、富士遊覧の旅で、ここから富士を眺めて、
「 いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹れし 富士を眺めて 」
という句を詠んでいる。
道の左側には、 おんやど白須賀 があった。
白須賀宿をパネルで紹介する歴史拠点施設(10時〜16時、月休)である.
当日は休館日だった。
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その右側にある中学校の道の反対には「潮見坂公園跡」という石碑が建っている。
「
ここは、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に戻る途中、
徳川家康がここに茶亭を新築してもてなした景勝地である。
また、明治天皇が御巡幸した時、ここで小休止されていて景色を愛でたところである。
明治天皇の御巡幸を記念して、大正時代に公園が造られたが、今は中学校になっている。 」
「潮見坂公園跡」の石碑の隣には明治天皇御巡幸記念碑が建っている。
ここには多くの石碑があり、潮見坂上の石碑群と呼ばれる場所である。
景観が、「 遠州灘より遥かに遠い太平洋のかなたから打ち寄せる浪と潮の流れを鳥瞰することが出来る 」 と、紹介されていたが、靄がかかり、距離が遠いこともあって、期待したような景観は得られなかった。
昔の旅人は三河国から遠江国に入り、最初の本格的な坂を上って潮見坂上に到着し、遠州灘を見ると、
東国が近づいた、と実感したのだろう。
小生は逆の京都を目指す。
ここで昼食をとり、出発。 道が緩い下り坂になり、下っていくと東町に入る。
ここは宿場のあったところではないが、連子格子の家が並び、昔の宿場の面影を残していた。
道を更に下ると枡形に曲がっているところに来た。
ここは元町から移転した白須賀宿の東の入口である。
枡形は、当地では曲尺手(かねんて)と呼ばれでいた。
「 曲尺手とは直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、
大名行列同士が道中かち合わないようにする役割も持っていた。
宿場には外部の侵入に備えたこのような施設が設けられ、一般的には鉤型又は枡形と呼ぶところ
が多いが、静岡県と愛知県では曲尺手と呼んでいたようである。 」
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曲尺手手前の右角に、「鷲津停車場往還」と刻まれた道標があり、駅までの距離が書いていた。
道を右折し、狭い道を進むと東海道線の鷲津駅へいける。
「 明治に入り、東海道の宿駅制度が廃止された後開通した東海道線は、 潮見坂を避け、北方の鷲津を通ったので、この地区はかなりの影響を受けた。 」
白須賀宿(しらすかしゅく)は、遠江(とうとうみ)国の最西端の宿場である。
「
最初は先程の元町のある潮見坂下にあったが、
宝永四年(1707)の地震と津波により大半の家が流失したため、翌年、潮見坂の上のここに移転をした。
天保十四年(1843)に編纂された東海道宿村大概帳によると、白須賀宿は、東西十四町十九間(約1.5km)で、
加宿である隣の境宿村を含めて、人口は約二千七百七十人、家数は六百十三軒で、
本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠は二十七軒だった。 」
宿場の中心は伝馬町で、それほど古い家はないが、新しい家にも江戸時代の屋号を書いた看板が掲げられている。
郵便局の先のJA(農協)のはす向かいの家の前に、「本陣跡」の表示板があった。
美容院と隣の立派な屋敷の間に「本陣」だったことを示す説明板があった。
「 本陣は木村庄左衛門が務め、元治元年(1864)、建坪百八十四坪、畳の間二百三十一畳、 板敷き五十一畳の屋敷だった 」
そのまた隣の公民館前のバス停のあたりに、問屋場があったというが、形跡や表示はなかった。
その先の交差点を越えた右側の家前に「夏目甕麿邸址、加納諸平の生誕地」の石碑があった。
説明板
「 ここは夏目甕麿(なつめみかまろ)居宅だったところで、加納諸平(かのうもろひら)はその子である。
詳しいことはわからないが、夏目甕麿は伊勢松阪の本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めたという人物。
加納諸平は甕麿の長男で、紀州和歌山の藩医の養子となり、晩年には紀州国学者の総裁となった。 」
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道を歩いていると「火防地」と書かれているところにきた。
説明板「火防地(ひよけち)」
「 宿場が高台に移り津波の心配はなくなったが、冬になると西風が強く、わらぶきの家が多かったので、
火災が起きると大火事になった。
その予防策として考えられたのが火防地で、宿場の三地点、六ヶ所に設けられた。
火防地は間口二間(約3.1m)、奥行四間半(約8.2m)の土地に常緑樹の槙(まき)を十本ほど植えた。 」
その先の右側に 庚申堂があり、お堂の前にお使いのサルの置物が並べられていた。
境内の常夜燈には文化十三年の銘があったので、庚申堂は古い歴史をもつのだろう。
その先の右側にも「火防地」があったようでそれを示す小さな石柱が建っていた。
その先の三叉路は左の道をいく。
このあたりは江戸時代は境村で、白須賀宿同様、旅籠を営むものがいて、白須賀宿の加宿になっていた。
白須賀宿と家並が繋がっていたので、宿場としては一体で運営されていたようである。
少し歩くと右側の古い家の前に、「夢舞台東海道 境宿」の道標と、近くに「谷川道」の石柱があった。
「 東海道四百年を記念して静岡県が建てた「夢舞台東海道 」の道標は、三島宿からここまで続き、 今回の旅で大変お世話になったが、これが最後の道標である。 」
このあたりにある家はかなり古く、しっとりとした雰囲気を感じさせる家が多い。
といっても、江戸末期から明治にかけて東海地震が起きているので、江戸時代の建物は皆無だろう。
先程訪れた家の奥さんの話では 「 格子のある家は昭和初期の作で、夏は涼しくていいが、間口が狭く奥行が長いので、暗いのが難点!! 」 とこぼしていた。
少し歩くと三叉路で、ブロック塀の下に「高札建場跡」と書いた小さな石柱があった。
最近造られた道標だが、ここに「高札場」と「立場茶屋」があったという意味だろう。
その先に「成林寺」という寺があり、境内に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑があった。
風化して哀れみを感じた。
道は上りになり、その先で国道41号(旧国道1号線)に合流した。
白須賀宿は笠子神社で終わりになる。
白須賀宿は格子戸のある古い民家や間口の狭い家並みなど江戸時代の面影を残していたので、
「 東海道では数少ない昔の宿場の雰囲気が感じられるところだなあ!! 」 と思いながら、
宿場を後にした。
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国道の対面の山に、笠子神社が祀られているが、「村社」とあるので、
境村住民の鎮守社だったのだろう。
東海道は、笠子神社の手前で、国道42号(旧国道1号線)に合流した。
国道の右側の民家の前に細い道があったので、これが旧東海道と思ったが、
左にカーブするとすぐに無くなってしまった。
信号交差点を渡ると、道は上りになり橋がみえてきたが、近づくと幅が二間(約3.6m)程の小さな川である。
川の名を境川といい、その上に架かる橋は境橋である。
橋の先には「愛知県」と「豊橋市」の標識があり、橋桁には静岡県県境の表示がある。
橋はたった四メートル程、橋よりガードレールの方が目立つが、ここが静岡県と愛知県の境である。
「
江戸時代以前は遠江(とうとうみ)と三河(みかわ)の国境で、
太古から境界線を巡って、何度となく戦いが繰り広げられた。
境川はたった四メートル弱の川であるが、国境は国の境を決めるものなので、たとえ一メートルであっても譲れぬものだろう。 」
それはともかく、静岡県は広かった。
「
明治の県設置までは三つの国、伊豆、駿河と遠江国からできていた。
東海道を旅する人は、伊豆の箱根宿から遠江の白須賀宿までの約四十五里(180キロ)を五日から八日、
川止めがあれば更に数日加わり、多くの日数を要して抜けていたのである。 」
橋を渡った左下の畑に一体ぽつんと立つ石仏がある。
社(やしろ)もなく、
畑の中にあるのは何か理由があるのだろうか?
その先の一里山東交差点は三叉路で、左右の道は国道1号線である。
「 これまで歩いてきた国道42号線はかっては国道1号線だったのであるが、 左に行く潮見バイパスが開通した後はその名前を奪われた。 ほぼ全ての車がその道に入っていったので、名前返上はやむをえないだろう。
東海道はここから三弥町交差点先の二川ガード南までの区間(四キロ程)は残っていないので、 国道1号を歩かなければならない。 」
その先一里山交差点の道の右側には、松の木が数本植樹されていて、「 平成の松並木にしたい 」 と書かれていた。
このあたりは、江戸時代に立場茶屋があったところだが、民家が見られない殺伐とした所に変っていた。
この先右側のこんもり盛り上がって塚は細谷の一里塚である。
「 江戸時代、一里塚も松並木も吉田藩の管理だったが、明治政府が一里塚を民間に払い下げた際、 反対側(南側)は宅地の一部になり、残っていた部分も大正末期には全てなくなった。 現在残る北側は、東西十一メートル、南北十四メートル、高さ三メートルの塚で、 東海道に残る数少ない一里塚である。 」
この辺りは一里塚のことを一里山と呼ぶので、それが地名になっている。
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「一里塚」 の看板の右側に小さな祠があり、壊れた祠から身体を現わしている石仏があった。
祠の中には「津島神社、秋葉神社」と書かれているが、三体の馬頭観音のようだった。
ここから四キロの間は国道をただ延々と歩き続けることになる。
歩いていて困るのは、対向するトラックで、粉塵を吹き付けて去っていく。
道の両側には畑がずーっと拡がっている。
畑の区画がすごーく大きく、土の色が異常なほど赤かった。
どの畑にもきゃべつだけが植えられているので、その迫力は凄かった。
弥栄下、三ツ板を通り、豊清町茶屋ノ下、籠田、三弥町交差点を過ぎると、 左側に神鋼電機(現在はシンフォニアテクノロジー豊橋)の大きな工場がある。
右側に新幹線が現れると二川ガード南交差点で、東海道はここで右折し、国道と別れる。
新幹線のガードをくぐり、梅田川に架かる筋違橋を渡る。
東海道線の踏み切りを越え、すぐ左に曲がると町並みが見えてきた。
そこが二川宿(ふたがわしゅく) の入口である。
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町に入ると交叉点の右側のたばこ屋の角に、小さな「一里塚跡」の石柱があった。
ここは二川の一里塚があった跡で、日本橋から七十二番目の一里塚である。
少し先を右折し、奥に入ると普通の家のような造りの曹洞宗の十王院があった。
「 天正十三年(1583)に私庵として始まり、十王堂とも念仏堂とも称せられようである。 」
境内には寛永十九年(1632)に建てられた「二川新町開山」の石碑がある。
「 後藤源右衛門は二川宿開宿当時の本陣と問屋を勤めた人物で、寺を開いた一翁善得はその祖である 」 と書かれていた。
歩いているのは、旧東海道の昔のままの狭い道なのに、思ったより多くの車が入ってきて、
又、出てゆく。
車が怖いという感じがするが、地元の人達はすごく普通のように生活しているのが不思議に思えた。
道の右側に 「南無妙法蓮華経」 と書かれた大きな石碑があったが、日蓮宗の妙泉寺である。
山門をくぐって入っていくと、芭蕉の「紫陽花塚」と呼ばれる句碑があった。
句碑には 「 阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷 」 という句が刻まれていた。
句碑は寛政十年(1798)に建立されたものである。
街道に戻ると、道の両脇には間口が狭く奥行の長い、古い建物がところどころに残り、
風情のある風景を演出している。
街道の右側に白壁に囲まれた「二川八幡神社」の鳥居があった。
「 二川八幡神社は永仁三年(1195)に鶴岡八幡宮より勧請し創建されたと伝えられる。 毎年八月十日に行われる湯立神事は幕府から薪が下付され、 幕府役人をはじめ多くの人々が集まり賑わったといわれる(最近は十月に実施している) 」
秋葉山常夜燈は、二川新橋の枡形南にあったものをここに移したもので、文化六年(1809)の建立である。
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小さな橋を越えて歩いて行くと二川宿の江戸側の入口である鉤型の右側に歴史を感じる古い建物が連なっていた。
江戸時代から味噌やたまり醤油を造ってきた商家で、現在でも赤味噌を製造販売している東駒屋である。
「 二川宿は慶長六年(1601)の東海道開設と同時に設けられた宿場だが、
問屋を二川村だけで負担するには小村なため、幕府は隣の大岩村と共同して行うように取り決めた。
宿場の二川村は小規模で、かつ、大岩村と一キロ強(1.3km)も離れていたため、
しばらくすると問屋(人馬継立業)の荷役業務を負担しきれなくなった。
幕府は、正保元年(1644)、二川村を西に大岩村を東に移動させて、両村を接近させ、大岩村を二川宿の加宿とし、大岩町に問屋を設けた。 」
その先のシキシマショップ(?)のところに東問屋があったようで、「東問屋跡」の小さな石柱が建っていた。
その先の民家の小さな庭の一角に、「脇本陣跡」の説明板があった。
「 脇本陣は松坂家が務めていたが、建物は間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)で、 畳数は九十三畳あった。 」
少し行くと左側に豊橋市二川宿本陣資料館があった。
豊橋市が、本陣の持ち主の馬場家から寄贈を受け、
現存部分の改修と明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を行い、江戸時代の姿に復活させたものである。
(400円、9時30分〜16時30分、月休)
「
江戸時代、公家、大名、幕府役人などが旅の途中宿泊休憩した専用施設を本陣というが、
ここは二川宿本陣だったところで、現存するものは少なく、東海道ではここと草津宿のみである。
宿場開設当初は、二川宿の本陣は幕末に脇本陣を務めた松坂家の場所にあった。
本陣の職は後藤五左衛門が務めていたが、再三の火災に遭った結果、寛政五年(1793)に没落してしまった。
跡を継いだ紅林権左衛門も、文化三年(1806)十二月の火災で再起することができず、役を辞した。
文化四年(1807)、本陣職が紅林から親戚の馬場家に代わった。
当主の馬場彦十郎は本陣経営は儲からないので乗り気でなかったが、
代官からの指示で引き受けることになった。
この時、本陣は馬場家の建物を増築する形で行うことになり、隣が松坂家が営む脇本陣だったため、
その土地を譲り受け、代わりに脇本陣は火災で焼けた本陣跡地に移転することになった。
従って、先程の「脇本陣跡」の説明板のところは元本陣跡ということにもなる。
本陣はその後、馬場彦十郎が文化四年(1807)から明治三年(1870)の本陣廃止まで、現在地で務めた。 」
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二川宿は、東の白須賀宿とは一里十七町(約5.8キロメートル)、
西の吉田宿とは一里二十町(約6.1キロメートル)ほど離れていた。
宿場の長さは加宿の大岩町を含めて十二町十六間(約1.3キロメートル)、
二川宿は六町三十六間(約700m)、加宿の大岩町は五町四十間(約600m)で、
この辺りが両者のほぼ中間に位置した。
「
建設時の文化年間の本陣の間取図では 門、玄関、上段の間を備えた堂々たる建物で、
敷地面積は五百二十五坪(約1733u)、間口十七間半(約32m)、建坪は百八十一坪余(約598u)である。
その後も増改築が行われ、安政弐年(1855)には総建坪数二百三十三坪半となり、最も整備された状態になった。
現在残っているのは文化四年、本陣開設時に建築した玄関棟と表門と享保年間建築の土蔵、宝暦三年(1753)建築の主屋である。
本陣内は家人が住む主屋と大名が泊まる書院棟に別れていた。
大名が泊まる際、本陣は部屋を貸すだけで何もしない。
料理やその他一切の雑事は、大名が連れてきた料理人などが行ったのである。 」
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、旅籠は三十八軒で、本陣の周りに多くあったようである。
本陣の隣には旅籠の清明屋があり、中に入ると右側の板の間の前で旅人が草鞋を脱ぐところを再現していた。
「 清明屋は寛文年間(1789〜1801)頃の開業、代々八郎兵衛と名乗っていた。 本陣の隣に建っていたことから大名行列の際、家老や上級武士が泊まったようである。 現存する建物は文化十四年(1817)に建てられたもので、主屋、繋ぎの間、奥座敷で構成されている。 」
街道に戻ると、左側の小さな社の前に 石灯籠、「二川町道路元標」と「高札場跡」の石碑があった。
「
江戸時代には高札場があり、また前述した二川八幡神社境内の常夜燈も道の両脇にあった。
この場所がへこんでいるのは鉤型(枡形)のなごりで、二川宿の西の入口になっていたところである。 」
ここから加宿の大岩町で、道を右折して奥に入ると大岩寺がある。
「 大岩寺は曹洞宗で千手観音がご本尊、元は岩屋山麓にあって岩屋観音に奉仕した六坊の一つだったが、
正保元年(1644)の二川移転とともに現在地に移転した。
高さ三十三センチの黄金燈籠一対、狩野派の手法で馬が描かれた絵馬四枚と岩屋堂観音経は市の指定文化財である。
これらは吉田城主、池田輝政の曾孫で、岡山藩主・池田網政が、元禄から宝永にかけて
郊外にある岩屋観音寺へ寄進奉納したものである。 」
境内の一角に「馬頭観音」などの石仏群が祀られていたが、
元からあったようには思えないので、道路工事で道が拡張された時、
旧東海道から集められたものと思うが間違いだろうか?
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街道に戻ると、右側の民家の前に「西問屋場跡」の石柱が建っていた。
連子格子の隣の家の方に目が行き、気がつかないで通り過ぎるところだった。
「 江戸時代の正保元年(1644)、幕府は大岩村を二川宿の加宿とし大岩町に問屋を設けた。 大岩町の問屋は西の問屋と呼ばれた。 」
その先、交叉点の左側の交番前に、「郷倉跡」の石碑があった。
右に入った突き当たりには「大岩神明宮」がある。
「 神明宮は、文武天皇弐年(698)に岩屋山南に勧請したのが始めといわれ、 保延元年(1135)、大岩村が本郷に移転したときに遷座し、その後も大岩村の移転とともに遷座し、 正保元年(1644)に現在地にきた。 」
境内には寛延四年(1751)の「燈籠」、文化四年(1807)の「秋葉山常夜燈」、
文政六年(1823)の「手水鉢」がある。
境内は広く樹木は大きく育っていて、社殿も歴史ある雰囲気のものだった。
街道に戻ると、左側のおざきという店の前に、「立場茶屋跡」の石碑があった。
本陣と七百メートルも離れていないところだが、加宿になったので、茶屋本陣が設けられたのだろうか?
少し先の左手にJR二川駅がある。
駅に入る手前に立派な連子格子の嵌った家があった。
「 明治維新後、東海道沿いに鉄道が敷設された際には二川駅はなかったのであるが、 鉄道の便利さを認識した地元住民が請願運動を行なった結果、 二川宿と加宿大岩町の中間地点のこの場所に設置されたのである。 」
駅が二川宿におかれず、大岩町側になったため、二川宿の古い町並が残ったのだろう。
これで二川宿は終わる。
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