見附宿から浜松宿は長かったので、中泉や長森に立場茶屋があった。
浜松宿は、城下町であると共に、駿河国と遠江国で一番大きな宿場町だった。
舞坂宿は新居関所のある新居宿への舟渡しのための宿場だった。
(ご参考) 見附〜浜松 16.4キロ 徒歩約7時間30分
浜松〜舞坂 10.8キロ 徒歩約4時間10分
(注)この区間は二回に分け、後半は浜松宿〜舞坂宿〜新居宿とするのもよいだろう。
県道44号を南下し、加茂川橋を渡ると加茂川信号交差点で、県道413号(旧国道1号)を越えると、
坂道になった。
「天平通り」という表示になっていたが、江戸時代の「分間絵図」では、この坂道は石畳だった。
坂を上って行くと、頂上付近の右側に磐田南高校、左に磐田郵便局がある。
信号交叉点を越えた右側に「特別史跡・遠江国分寺跡」の石柱が建っていた。
中に入ると広い土地(空地)に赤い案内板が一つだけ建っているだけの史跡公園になっていた。
「 国分寺は奈良時代、聖武天皇の命令で各地に造られたが、
遠江国分寺は中泉のこの地に建立され、国分尼寺は北側二百メートルに配置された。
国分寺は東西百八十メートル、南北二百五十メートルの広さで、
伽藍は金堂を中心に七重塔や講堂、中門などが配置され、
それらを築地塀などで囲んでいた。
発掘調査が行われた際、七重塔や金堂跡などが確認された。 」
中世に入り国分寺は衰退したが、その後、その一隅に薬師堂が建てられた。
「南無薬師瑠璃光如来」と書かれた赤い幟が立つお堂がそれで、
手洗石は、国分寺の礎石をくり抜いてつくられたものである。
街道に戻ると、道の反対に、「府八幡宮」と書かれた木造の大きな鳥居が建っている。
大鳥居をくぐり参道を歩くと、寛永十二年(1635) 建立の 楼門 があった。
入母屋造りで、建物全体が深みのある美しい随身門だった。
「 府八幡宮は、奈良時代の天平年間、天武天皇の曽孫・桜井王が遠江国司として赴任したとき、
国の安定を願い国府内に祭られたのが神社のはじめ、とあることから名付けられた。
その後、今川氏の羽鳥庄の地頭職となった秋鹿氏が神主を務め、
江戸時代には徳川幕府の代官に任じられ、二百五十石を給せられた。
神社の祭神は仲彦命(仲哀天皇)、誉田別命(応神天皇)、気長足姫命(神功皇后)であるが、
明治維新までは阿弥陀如来像を祀る神仏混合の神社だった。 」
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楼門をくぐると文化年間に再建されたという「中門」があり、その奥に「幣殿」と「本殿」がある。
幣殿は、拝殿付きで寛永十二年(1635)に建立され、正徳四年(1714)の再建されたものである。
本殿は、後水尾天皇の皇后、東福門院が寄進し、元和三年(1617)に建てられたものである。 」
右側奥の駐車場の一角に、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた「万葉歌碑」がある。
街道に戻り、市役所入口信号交差点を過ぎると、左に曲がる道は幾つかあるが、東海道はまっすぐである。
磐田中町バス停を過ぎたところのコンビニ前に、「旧救院跡」の石碑があった。
商店街は屋根付きで、歩道にはジュビロの選手の足型が刻まれていた。
磐田はサッカー日本一のジュビロの本拠地で、この通りはジュビロ通りという名で呼ばれている。
磐田東町バス停の先に、「中泉御殿裏門」と「西願寺」の案内板があった。
説明板
「 徳川家康が、天正十四年(1587)、初代代官を務めた秋鹿氏の屋敷跡に御殿を造ったのが中泉御殿で、
東海道の往来時の宿泊施設や鷹狩り時の休息所として利用された。
家康死後の寛文十年(1670)、御殿が廃止された際、建物は周りの寺院に払い下げられたが、
表門は見附の西光寺に、裏門は西願寺に払い下げられ表門になった。 」
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その先からはビルが建ち並び、そのまま進むと、正面にJR磐田駅がある。
「 磐田の名は郡名に由来し、昭和十五年に見附町と中泉町などが合併し磐田町に、
そして昭和二十五年に磐田市になった。
見附宿のはずれの加茂川橋からここまで二キロ強の距離であるが、この間に古い建物は残っていなかった。
旧中泉村は江戸時代には三百三軒の家があったといわれるが、見附宿と違い、農村だった。
明治に東海道線が開通したことで発展した町で、今や農村の面影はない。 」
東海道は磐田駅前信号交差点の手前の信号交叉点を右に入る細い道で、その角に木製の「東海道」の案内板があった。
右折し進むと右奥に「村社浅間神社」が見えた。
西町を過ぎると緩やかな上り坂になり、登っていくと道の両脇に古そうな家が僅かだがあった。
中泉交流センターもご多分にもれず立派な現代風の建物である。
道側に「夢舞台東海道 中泉」の道標があり、また、江戸時代と大正時代の「中泉の絵図」が掲示されていた。
その前を通り過ぎるとすぐに江戸時代には「立場」だった旧大乗院村に入る。
大正時代には軽便鉄道の「中泉軌道」がこのあたりを通っていたようである。
「 中泉軌道は磐田駅(当時は中泉駅)から田中神社の近くを通り北上し、現在の県道261号線に出て左折するルートだったようである。 」
小さな橋を渡ると右側に「大乗院坂」の石碑があったが、すぐに旧大乗院村のはずれの西新町交差点の三叉路に出た。
右からの道は市役所からの広い通りの県道261号線で、この後はこの道を行く。
すぐ先が旧豊田町(磐田市に編入合併)で、小さな川に架かる一言橋を渡るが、
左側の磐田化学工業の敷地内に「くろんぼ坊様」という「黒坊大権現」が祀られていた。
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万能橋を渡ると宮之一色に入る。 スズキの販売店の前から短い区間ながら松並木が残っていた。
松並木が終わってしばらく行くと左側に、透かし彫りの立派な、秋葉山常夜燈が建っている。
「 文政十一年(1828)に建立された木製の常夜燈で、祠の中には毎年可睡斎からいただくお札を祀っている、という。 」
宮之一色西バス停の先からは道の左側に松並木が残っている。
Aコープの前に森下の歩道橋がある。 <br>
その先はは三叉路の森下南信号交差点である。
「 県道261号は右にカーブしていくが、東海道は直進して、車が一台しか通れない狭い道に入っていく。 」
その先の交差点の右手に若宮八幡宮があるが、このあたりはひっそりとした町並である。
少し行くと森下羽田橋。 江戸時代には橋のたもとに、森下村の「高札場」があったようである。
更に行くと、右側の民家の垣根に「夢舞台東海道 長森立場長森かうやく」の道標があった。
看板には、「 長森立場はこれより数十メートル東にあった 」 とある。
説明板「長森立場」
「 立場は掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ねていた。
旅人はここでお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて、休憩したもので、馬にも湯や麦などを補給した。
長森かうやくは江戸時代万治年間に山田与左衛門が始めたあかぎれや切り傷に効果のある軟膏で、
参勤交代の一行や東海道の旅人の土産として人気があった。
現在は作られていないが、山田家には当時の大看板が残されている。 」
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道を進むとT字路で、木内建設の工場に突き当たてしまう。
「
江戸時代の東海道は、工場のところを直進し、天竜川の土手に登って北に進み、
天竜川橋より少し上流の河原から船渡しで、川を越えていったという。
天竜川は暴れ天竜と呼ばれ、徒歩渡りができないほどの急流だったため、
大井川の徒歩渡しと違い舟渡りだったが、それでも水が増えると川止めが頻繁に行われた。
渡船場が街道よりも上流にあったのは、川の流れが速いためであろう。 」
今は舟渡りはないので、突き当たった工場を右折する。
右側の源平新田公民館前に「天竜橋跡」の碑が建っていた。
説明板
「 明治七年(1874)に架けた天竜橋は、船をつなぎ、上に板を載せた舟橋で、
二年後に巾三メートル六十センチの木製の橋に架け替えられたが、橋銭を徴収する有料橋だった。
その後、流される度に架け替えられたが、昭和八年に現在の鉄製の橋になった。 」
途中から土手を歩き、その先国道261号に出るので、で左折し、天竜川橋を渡る。
「
現在の天竜川は水量が減り、川岸は公園になっている。
また、川の流れも穏やかで、河川敷の風景からは暴れ天竜と呼ばれた姿は想像できなかった。 」
天竜川橋は造られた当時は自動車という観念がなかったのだろう。
幅が七メートル四十センチの橋で、歩道がない上、歩道帯もなく、大変危険な橋なのである。
日曜日だったので、トラックの通行が少なかったので助かったが、
橋の長さが九百二十メートルと長いので、ひやひやしながらやっとの思いで渡り終えた。
川の途中から浜松市に変わり、天竜川西交叉点から、土手を三百メートルほど下流へ歩く。
右側に「明治大帝御聖蹟」の標柱と「玉座迹」の記念碑があった。
その先に「天竜川木橋跡」と「舟橋跡」の木標があった。
対岸は先程の公民館あたりなので、位置的にここに架けられていたということは納得できた。
土手を下ると右側に、六所神社があり、その前に「東海道」の標柱が立っていた。
このあたりは浜松市東区中野町である。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に
「 舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし 」 とあるが、京都と江戸のちょうど中間点にあることから付いた地名という。
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六所神社から横に延びる東海道は県道314号で、浜松宿までほぼ一直線で西へ続いている。
大きくうなぎと書いた中川屋のかぐわしい匂いがしたが、立ち寄らずに歩き続ける。
道の左端に「西町通り」の標柱があり、
その先の右側には「軽便鉄道軌道跡」の標柱があった。
六所神社から700m歩くと、右側に松林寺がある。
道の反対側の民家の駐車場に「かやんば高札場跡」の標柱があったが、
「かやんば」は、萱場のことで、旧安間村である。
その先の右側に、白壁に黒い板が張られた塀で囲まれた、大きな家が建っていた。
旧安間村の庄屋で、明治、大正期の実業家、金原明善の生家である。
「 金原氏は天竜川の治水に人生を賭けた人で、明治八年に天竜川の治水に着手したが、 政府からの補助金が少なかったため、全財産を売り払って資金を作り、 治水工事の費用に充てた、といわれる。 天竜川土手にあった玉座迹は明治天皇が金原明善と謁見した場所である。 生家の向かいにある金原明善記念館では彼の生涯を知ることができる。 」
二百五十メートル程行くと右からの広い道と合流するが、この道は先程天竜川橋を渡ったところで別れた道である。
金網の中に「安間一里塚跡」の木柱があるのだが、木が生え茂っていて気を付けないと見過ごしところだった。
右側の道の少し手前、安新町交差点には北へ向う道がある。 県道314号で、姫街道と呼ばれる道である。
「
江戸時代、このあたりは安間の萱場と呼ばれたところで、
この道は姫街道と呼ばれ、吟味の厳しい新居関所を避けた人達が利用した道、という。
姫街道の正式名は本坂越脇往還といい、見附宿の追分から池田に出て、池田から船渡りして市野にいたる道であるが、この道は市野で本坂越脇往還に合流していた。 」
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少し歩くと安間川に架かる安間橋を渡る。
その先の左側に背の高い松の木が現れた。
国道1号線の高架をくぐると道幅が狭くなったが、車が多く歩道もないので少し怖い道である。
ここからおよそ百メートルほど松並木が続いた。 このあたりは薬師町である。
松並木はなくなったと思ったら、薬師のバス停から五十メートルほどの間に松並木が残っていた。
その先もところどころに松が残っている。
天竜川駅への十字路がある、天竜川駅入口交叉点あたりが昔の橋場(はしば)で、 道の右側に永禄年間の創建で、慶安元年に再建された、という六所神社があった。
神社には 「 蒲村東方端和(はしわ)村六所大明神 」 と、書写された古文書が残り、 現在の社(やしろ)は大正弐年(1913)の造営である。
ここから1キロ位歩くと、右手に浜松アリーナの大きな建物が見えてきた。
道脇には「東海道浮世絵浜松宿」の看板があった。
少しいくと右側に六軒京という漬物店があったが、かっての六軒茶屋に由来するようだった。
更に進むと右側にエッソのスタンドがある、右から左へ斜めに交差する道がある、大きな子安交差点に出た。
東海道は直進する道で、表示が国道152号線に変った。
「 国道152号線は、浜松市を起点に長野県上田市に向かう道だが、 この交差点を右折して北上すると途中に青崩峠があり、この峠は国道であるのに自動車が通れないのである。 」
大きな交叉点のため、道の左側を歩いてくると地下道を使わなければならないが、右側なら横断歩道で向こう側に渡れる。
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その先で芳川に架かる琵琶橋を渡る。
西遠学園入口交差点の右側にある大きな木の鳥居は、蒲神明宮(かばしんめいぐう)の鳥居で、参道の入口である。
ここから蒲神明宮までは九百メートル位あるが寄ることにして、参道を少し歩くと車道に出た。
信号があるのは右側の交差点なのでそのまま道を横切り、向こう側に渡って道なりに進むと、
蒲小学校の脇に出た。
そのままを進むと右側の森の中に蒲神明宮があった。
鳥居をくぐり進むと、正面に神明造りの拝殿、その奥に天照皇大神を祭神とする内宮、
そして、西寄りに豊受皇大神を祀る外宮がある。
神社の由来書
「 蒲神明宮は古くは蒲大神ともいわれるが、平安時代初期の大同元年(806)に、伊勢皇太神宮に勧請され創建された古社で、鎌倉時代の三代実録 貞観十六年の条 に、「従五位下を授く」、と書かれている。
蒲氏の祖、越後国司・藤原静並は、蒲二十四郷を開発し皇太神宮に寄進し、伊勢神宮の御厨になった。
蒲(かば)の地名は藤原静並が住み着いた頃蒲が生いしげる荒地だったことに由来する。
藤原氏はその後蒲氏と改称し、蒲神明宮の神主になり、代々継承した。
また、ここの神主は源頼朝の弟・範頼の末裔であると言われている。
源範頼は源義朝の六男で、頼朝の平家討伐の戦いに加わり、弟義經とともに戦功を挙げたが、
義經が討たれて後、讒により伊豆修善寺に幽閉され、建久四年(1853)に殺された。 」
街道に戻ると、このあたり(植松町)には古い家が多少残っていた。
ここから浜松宿まではまだ二キロ弱ある。
国道152号を歩く。 道の右側に竜梅禅寺、左はNTTのマイクロウエブの塔、
その向こうに東海道本線が見えた。
右側のセブンイレブンの反対側の植え込みに「馬込(向宿)一里塚跡」の標柱を見つけた。
東鎧橋を渡ると相生町、木戸町と変わり、その先に馬込川に架かる馬込橋が見えてきた。
江戸時代にはこの橋を渡ると浜松宿だった。
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安藤広重の「東海道浜松宿」の浮世絵には、遠くに浜松城が見える姿が描かれている。
「
浜松は、浜松城のある城下町であると同時に、遠江国と駿河国の中で一番大きな宿場町だった。
天保十四年に編纂された「東海道宿村大概帳」には 「 人口五千九百六十四人、家数千六百二十二軒、旅籠が九十四軒 」 とある。 」
江戸時代、馬込橋を渡ると、浜松宿の江戸側入口は新町だった。
松江町交叉点の左側あたりに、浜松宿の「外木戸跡」の木柱や番所跡などがあったようであるが、
最近建った新しいビルに代わってしまっていて、過去の面影はなくなっている。
新町交差点右側の小さなお堂には、 夢告地蔵尊 が祀られている。
「 夢告地蔵尊は、江戸時代の末期にコレラで亡くなった人々を祀るために建立されたものである。 明治時代の廃仏毀釈により土中に深く埋められたが、町民の夢枕に出て助けを求めた。 町民はその話を皆に伝えたことから、町民達の手で掘り出され、新たなお堂に安置された。 」
浜松は江戸時代から綿織物の産地として栄え、昭和三十年代までは綿織物の生産地だった。
戦時中は軍需工場として稼働したため、大空襲に遭遇し、焼け野原になったため、古いものは残っていない。 」
板屋町交差点を左折するとJR浜松駅である。
円形広場と左側のアクトシティは現在の浜松を象徴する姿であり、バブル時代の名残でもある。
板屋町交差点を越えると、前方に遠州鉄道西鹿島線のガードが見えた。
高架の下に万年橋があるが、川は蓋をされて公園になっていた。
高架(ガード)をくぐると田町である。
「ゆりの木通り」の表示があり、商店街には違いないのだが、
両側に大きなビルが建っていてビジネス街のようである。
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田町交叉点の先は上り坂で、上りきったところに連尺交差点がある。
歩いてきた国道152号と左右の国道257号が接している。
直進は姫街道、東海道は左折である。
交叉点の北西方向に、徳川家康が築いた浜松城址があるので、寄ることにした。
交差点を右折し、市役所前信号交差点を左折すると、浜松城公園前に出た。
市役所前交差点の左側にある浜松市役所は浜松城の二之丸跡である。
「 浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)六月に入城し、
天正十四年(1586)十二月に駿河城に移るまで十七年間もこの城で過ごしている。
曳馬(引馬)という地名は、縁起が悪いと、荘園時代の浜松に変えたのも家康である。
江戸時代には譜代大名が次々に入った。
浜松城は出世城として名高かったが、その割りに石高が低く、浜松藩は五万〜七万石だった。
家康の城ということで権威があったのである。 」
市役所の左側を入ると、本丸で石垣が残っていた。
「 浜松城は、東西六百メートル、南北六百五十メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、
東から西に三之丸、二之丸、本丸と連なり、順次高くなっていたとされる。
天守は設けられなかったようで、本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。
本丸の石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、石は湖西から船で運ばれたとされる。
明治維新後に浜松城は廃城になり、破壊された。 」
現在は城址公園になっているが、復元された二重櫓の天守櫓があり、資料館になっていた。
また、本丸跡には徳川家康の銅像が建っている。
連尺交差点まで戻り、旅を再開。
江戸時代の東海道は連尺交差点で直角に左に曲がり、南に向かう。
浜松宿は宿場であり、また城下町だったが、曲がり角は少なく、ここ一ヶ所だけだった。
交差点を左に曲がった右側の谷島屋書店前に、「高札場跡」の説明板があった。
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連尺町からこの先の伝馬町までが浜松宿の中心で、本陣が六軒もあったが、脇本陣はなかった。
道の反対(左側)の彩画堂と緑屋美術研究所あたりが、佐藤本陣のあったところで、
道の脇に 「 佐藤本陣は二百二十五坪(約745u)の敷地だった 」 という説明板があった。
道の左奥に、五社神社 と 諏訪神社 があった。
「 五社神社は、遠江国主・久野越中守が、曳馬城内に奉斉し、
家康はその子・秀忠が城内で誕生したので、産土神として崇敬した。
天正八年、当地に転座され、社殿が建てた。
諏訪神社は徳川家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座した。
五社神社と諏訪神社の社殿は国宝に指定されていたが、
昭和二十年の空襲で燃失、両神社は合祀され、現在の建物は、昭和五十七年に再建したものである。 」
街道に戻ると、右側に浜松信金伝馬町支店があるが、ここが「杉浦本陣」の跡で、 歩道に「 杉浦本陣は二百七十二坪(約900u)の敷地だった 」 という説明板があり、敷地内に「本陣跡」と刻まれた標柱があった。
右側には三菱東京証券の赤い看板が見え、その先は伝馬町交差点である。
三菱東京証券のビルが「川口本陣」の跡で、
歩道に 「 川口本陣は百六十三坪(約540u)の敷地だった 」 という説明板があった.
伝馬町交差点の左に見える大きなビルは、ZAZACITY(ザザシテイ)西館で、
かっての西武百貨店である。
交差点の地下道を通って、対面の道路左側に出ると、ザザシテイの前に 「梅屋本陣跡」 の説明板があった。
「 梅屋本陣は百八十坪(600u)の敷地だった。
国学者、歌人として有名な賀茂真淵(本名、庄助)は梅屋の婿養子だった。 」
右に緩くカーブする国道257号線の 伝馬町 旅籠町交差点 を過ぎると、旅籠町になる。
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浜松宿には九十四軒の旅籠があったので、江戸時代の旅籠が並ぶ姿と客引きはさぞかし凄かったことだろう、と想像した。
塩町歩道橋のところにくるとそのような想像を打ち消すように、雨が突然強くなったきた。
「
木挽庵というそば屋に入り、千円なりの天もりそばを注文し、小休憩となった。
汁は少し塩からい感じがしたが、蕎麦は更科系の細麺でこしもあり、おいしかった。
四十分ほどいて、そば屋をでたが、雨はまだ残っていたので、コンビニで買った傘を広げて歩き始めた。 」
二百メートル程歩くと成子交差点で、
交差点には、右折は雄踏(県道62号線)、直進は豊橋、舞阪(国道257号線)と、表示されている。
交差点の左手前に 「夢舞台東海道 浜松宿」 の道標があり、 「舞阪宿まで10.9q 」 と書かれていた 。
東海道は交差点を右折し、国道257号を渡る。
病院の一角には「成子坂泣き子地蔵尊跡」の標柱があり、道を挟んだ先には浜納豆の店があった。
県道62号(雄踏街道)を二百メートル程行くと、菅原町交差点。
東海道は左折だが、東伊場に「賀茂神社」があるので、寄り道をする。
真っ直ぐ行くと五百メートルほど先に、京都上賀茂神社の流れをくむ、賀茂神社があった。
「 賀茂真淵は賀茂神社の神官の子として生まれ、京都で荷田春満(かだのあずままろ)に師事して国学を学び、浜松に帰郷して遠州国学の中心となり、神官、町人や地主層の支持を受けた。 その後、江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武(たやすむねたけ)に仕えた。 」
傍らの説明に、境内に県居翁の旧蹟があるとあったが、県居は賀茂真淵の号である。
少し先の丘の上には、天保十年(1839)に浜松藩主、水野忠邦によって創建された県居(あがたい)神社があるが、寄らなかった。
菅原町交差点に戻ると、子育地蔵があり、脇に石仏群が祀られていた。
その先の菅原町の家並みが終えると、浜松宿は終わる。
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菅原町交差点で左折して集落を行くと、道の左右に小道の公園があり、「堀込ポッポ道」と書かれていた。
中に入ると大正七年(1918)に国産された軽便機関車(ケ91タンク機関車)が展示されていた。
パチンコ屋を過ぎ、JRの高架橋をくぐると、成子交差点で別れた国道257号に合流した。
新幹線の高架をくぐると森田町交差点で、この通りには自動車販売店が多かった。
その先は東若松町(旧可美村)で、小川に架かる橋は鎧橋(よろいはし)である。
説明板「鎧橋」
「 平安時代の末期、浜松駅の西にある鴨江寺と比叡山延暦寺がいさかいをおこし、
比叡山の僧兵が東海道を攻め下って来た時、鴨江寺の軍兵はこのあたり一帯の水田に水を張り、
鎧を着てこの橋を守り固めて戦ったので、その後、鎧橋と称されるようになった。
橋の北に合戦で戦死した約千人を葬り、千塚(血塚)と呼んだと伝えられる。 」
左側の八丁畷バス停の先の民家の駐車場に「一里塚跡」の標柱があった。
説明板「八丁畷」
「 昔は八丁畷と呼ばれた土手の上に松並木が続き、一里塚の榎は街道を行く旅人の道標になっていた。 」
道が右に大きくカーブすると二又になる。
東海道は国道257号で右の道を行く。
交差点の右側には「村社八幡神社」の石柱があった。
右から順に「馬頭観音」、「高札場跡」、
「二の御堂」の標柱が並んで建っていて、その右側にお堂があった。
説明板「二の御堂」
「 このお堂は二の御堂といわれるもので、その脇には明治三年まで、高札場があった。
馬頭観音は旅人や馬の安全を祈願して祀られたものである。 」 との説明があった。
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松の木が大きく伸びて見づらいが、道の反対側にもお堂がある。
それで「二つ堂」と呼ばれるのだが、二つ堂は奥州平泉の藤原秀郷と彼の愛妾によって天治年間(1125頃)に創建されたと伝えられ、以下の伝承が残こる。
「 京に出向いている秀郷が大病であることを聞いた愛妾は京に上る途中、 ここで飛脚から秀郷死去の知らせをきき、 その菩提を弔うため街道の北側に御堂を建てて阿弥陀如来を祀った。 実は訃報は誤りだったのである。 京の秀郷は病気が回復し、帰国の途中この地に来てこの話を聞き、 愛妾への感謝の気持を込めて南の御堂を建て、薬師如来を祀った。 」
江戸時代の旅の案内書「東海道名所図絵」には 「若林二つ堂」 として紹介され、 「 むかし奥州伊達秀衡の室上京の時、ここに建立す。 本尊阿弥陀、薬師の二仏、長二尺五寸ばかりなり 」 と書かれている。
道の右側の細い道を入ると、その先に大きな木に囲まれた八幡神社があった。
ここから先は古い家もこれといった史跡もないので、国道257号の単調な道を延々歩くことになる。
少し歩くと若林バス停から松並木が現れてきた。
道路標識には 「豊橋37km、舞阪10km」 とあるので、浜松宿の京側入口から三キロ程歩いたことになる。
このあたりは若林町で、少し歩くと可美市民サービスセンターがあり、「可美小学校跡」の標柱があった。
数百メートル歩くと右側に紳士服の青山や晴山などのお店があり、町らしい感じであるが、
その先の松並木が現れたところからは人家はなくなっていく。
左手奥に可美公園が横に長く続いているが、道の両脇は店舗があるだけで、車は全て走り去っていく。
少し行くと大永四年(1524)に信濃国の上諏訪神社より勧請したという諏訪神社があった。
木造の秋葉山常夜燈が民家に一角に建っていた。
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諏訪神社の奥に可美小学校がある。 ここからは増楽町である。
その先の右側に熊野神社があり、境内の常夜燈の脇に「高札場跡」の標木があった。
数百メートル歩くと右側に、モンテカルロという名の自動車用品店がある。
駐車場の植栽の中に「従是東濱松領」 と書かれた領界石があった。
江戸時代、ここが浜松藩の松平家と堀江藩の大沢家の領地の境だったので、浜松藩が建てたものだろう。
(注)モンテカルロは撤退し、その跡はジ―ユーの店舗になっている。
少し先右側の民家の前に「堀江領境界石」の標木があったので、境界石を探したが見からなかった。
その先から高塚町になる。
道の右側、「おおこうち眼科」の看板が出している家の先の駐車場に、
「高札場跡」と「秋葉山常夜燈跡」の標柱があった。
その先の赤い鳥居は高塚熊野神社で、社殿は少し奥にある。
「 高塚熊野神社は後三条天皇の延久年間に創建されたと伝えられる神社で、熊野三社権現と称えられた。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、
村人と図って神社の裏山に土をもりあげたところ、
安政の大地震が起こり、津波の為多くの死者が出ましたが、
この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えられ、
高塚という地名になったと伝えられている。 」
高塚駅入口の交差点を過ぎると高塚西バス停の先で、国道は左にカーブするところで、道は二又に分かれる。
道路の表示は右が「舞阪駅、篠原」、左は「豊橋、国道1号線」とあるが、
東海道は右の狭い道に入る。
二つ堂から二キロ一寸歩いてきたが、ここから舞阪宿の入口の新町まで、まだ四キロある。
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この道(県道316号)は国道とは違うので、交通量はかなり減った。
ここで高塚町から篠原町に、浜松市南区から西区に変った。
少し歩くと「立場」というバス停があり、左側には数軒だが、古い家が残っていた。
江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があったのだろう。
今は普通の住宅地になっていた。
神明社を過ぎると家がたて込んできたが、右側の住宅の中に「篠原一里塚跡」の標札があった。
東海道宿村大概帳には 「 壱里塚木立 左松右榎 左右の塚共篠原村地 」 と記されている一里塚である。
道を進むに比例して車の通行が多くなったのは、国道257号が篠原ICで国道1号と交差し、 その道から分かれた県道301号が、この道と平行して走っている影響かもしれない。
札木バス停付近の民家は大きな家が多く、道路に面して蔵が建っている家もあった。
東海道本線が右から急接近してくると、右側に「秋葉山常夜燈」の祠があった。
その先にも秋葉山常夜燈は点々と続く。
左側の小学校の前に大きな松があり、小さな橋を渡ったところにも、松の木が残っていた。
篠原交番の隣の愛宕神社の境内に、秋葉山常夜燈が建っていた。
坪井町北交差点を過ぎると、右側に稲荷神社があった。
赤い鳥居の先にある石鳥居は文化十三年(1616)のものである。
「 永享十二年(1440)、伏見稲荷より勧請した、と伝えられる稲荷神社である。
拝殿は天正十六年(1588)に再建されたという記録はあるようだが、現在の建物は大正十一年の建立である。 」
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右側の奥に入ったところの空地に、「史跡引佐山大悲院観音堂聖跡」の石碑があった。
近くに木造の秋葉山常夜燈が建てられていた。
説明文
「 霊験新たかな観音像が祀られていたことは東海道名所図会にも記述がある。
観音像は現在如意寺(坪井町5815)に安置されている。 」
バス停は馬郡観音堂となり、馬郡町に入ると蔵を持った家が現れた。
東本徳寺を過ぎると、現在建て替え工事中の西本徳寺があらわれたが、両方とも日蓮宗の寺院である。
馬郡跨線橋南交差点を渡ると、街道の名は県道49号になった。
右側のこんもりした森には、応永弐年(1395)に奈良春日大社から勧請したという春日神社があった。
社殿前には狛犬ではなく、二頭の鹿が鎮座していた。
舞阪駅南入口交差点を越えると松並木が現れた。
道の両側に立派な松がずらりと並んだ姿は壮観である。
説明板
「 東海道の松並木は徳川家康の命令で、慶長九年(1604)に黒松が植えられたのが始めである。
正徳弐年(1712)には馬郡村の境から舞阪宿の東のはずれの見付石垣までの八町四十間(約920m)の間に、
千四百二十本植えられた。
それから四百年経過した今日でも、見付石垣までの七百メートル間に三百三十本が残っている。 」
道の右側には十二支の彫り物、左側には東海道の宿場のレリーフが置かれていた。
松並木を歩いて行くと新町交差点の手前にポケットパークがあり、
浪乗り小僧の像があった。
ようやく、舞阪宿の入口に着いた。
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新町交差点で、斜めに交差する国道1号線を横断する。
二百メートルほど先には道の両側に小さな石垣がある。
これは舞坂宿の入口を示す「見付石垣」で、江戸時代には六尺棒を持った番人がここに立って、
宿場に出入りする人達を見張っていた。
「舞坂宿(まいさかしゅく)は、弘化弐年(1845)の記録によると、
「 家数二百六十五軒、人口千二百六十四人、本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠が二十八軒 」
だった。
なお、、舞阪町は今回の町村合併で浜松市に吸収され、浜松市西区舞阪町になった。 」
二十メートル程先の左側にあるのは、江戸から六十七番目の「舞阪一里塚跡」の石碑と石灯籠である。
文化六年(1809)に舞阪宿の大半を焼く大火事があり、火防せの秋葉山信仰からこの常夜燈が設置されたもので、
秋葉山だけなら普通だが、その他に海の安全を願って伊勢神宮、そして、厄病退散の津島神社も加えているのは珍しい。
「
石灯籠は、正面に「秋葉大権現」、西面に「津島牛頭天王」、南面に「両皇大神宮」、
東面に「文化十二年乙亥正月吉日」 と刻まれている。
住民の安全と宿場を火災から守るという気持が、この地区に多い木造秋葉山常夜燈ではなく、
多くの神々に願う石製の燈籠になったのだろう。 」
両脇に建つ家は全て、切妻造りの二階建てである。
しらす干しとのりを売る店が数軒あり、その他に電気屋や八百屋、米屋など数軒あるが、
その他は商売をしている様子がない。
食堂を見つけたが、看板はカレー。 舞阪のうなぎは有名なのに、うなぎ屋はない(?)
更に行くと宝珠院の前にも「両皇太神宮常夜燈」があった。
左側の小道の入口に、岐佐神社に入る「矢印」があった。
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その先の右側の民家の駐車場の一角に「本陣跡」の石柱があった。
舞阪宿には宮崎伝左右衛門と源馬徳右衛門の二軒の本陣があったが、「源馬本陣」の跡のようである。
道の反対にある立派な建物は、舞阪宿脇本陣の「茗荷屋堀江清兵衛宅」である。
説明板
「 脇本陣は、大名や公家、公用の幕府役人らが使用したが、利用がない時は旅籠として営業した。
その時は主屋の二階が客室になったという。
清兵衛宅は主屋、繋ぎ棟と書院の三棟からなっていたが、
天保九年(1838)に建てられた書院部分のみが残っている。
書院の庭に面した一番奥に大名の上段の間がある(内部を無料公開) 」
脇本陣から五十メートル歩くと浜名湖が目の前に現れた。
手前の左側に「夢舞台東海道 舞阪宿」の道標があり、西町常夜燈が建っていた。
説明板「西町常夜燈」
「 文化十年(1807)二月に西町の住民が建立したもので、
正面に「両皇大神宮」、西面に「秋葉大権現」、東面に「津島牛頭天王」、南面に「文化十年二月吉日願主西町中」 と刻まれている。 」
道の反対側に 木製の 常夜燈 が建っている。
「 浜名湖は遠江と書かれたように淡水湖で、太古の東海道の時代は陸続きで歩けた。
明応七年(1498)の大地震と津波により、陸地部分が決壊した結果、浜名湖と遠州灘が水面でつながってしまった。
これを今切(いまぎり)と呼ぶ。
国道1号バイパスが通る橋の海面が、地震で決壊して海になった部分である。 」
江戸時代になり、東海道が開設されると、
江戸幕府は新居宿に関所を置き、舞坂宿と新居宿間を船渡しとした。
新居に向かう船は季節により変るが、
関所の関係から、朝一番は午前四時、夕方の最終は午後四時だったという。 」
舞阪側の渡船場は雁木(がんげ)とよばれた。
ここは今切の渡しの本雁木があったところである。
「 渡船場は三ヶ所あり、この船着場はまん中に位置し、旅人が一番利用する本雁木である。
本雁木は往還(街道)から海面まで東西十五間、南北二十間の石畳になっていて、
階段状の船着き場になっていた。 」
本雁木跡はスロープになり、海岸にはふぐ採りの漁船が係船されていて、その奥は魚市場になっていた。
少し北に行くと大名や幕府公用役人が利用した「北雁木」が現れた。/p>
説明板「北雁木」
「 北雁木は明暦三年(1657)から寛文元年(1661)にかけて造られたもので、
往還(街道)から巾十間(約8m)の石畳が水際まで敷き詰められていた。
また、船着場にある木製の常夜燈は、渡し口が夜でもわかるようにしたものである。 」
なお、南側には荷物を積みおろす渡荷場があった。
これで、舞阪宿は終わる。
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