掛川宿から袋井宿の間には、多くの松並木が残っている。
袋井宿は東海道創設から十五年後に出来た新宿である。
見附宿には徳家康と縁が深い御朱印船屋敷の冷酒清兵衛邸がある。
旧見付学校は、現存する日本最古の洋風木造小学校校舎で国の史跡に指定されている。
(ご参考) 掛川〜袋井 9.5キロ 徒歩約4時間30分
袋井〜見附 5.8キロ 徒歩約3時間10分
掛川宿の京側の入口である逆川橋を渡ると二瀬川交差点に出る。
東海道は交差点を左折する。
この道は県道415号(旧国道1号線)で、道脇に日本橋から二百三十キロの標識があり、二百キロを越えたことを知った。
道の右側に数軒の古い家があるが、その一軒に○○織物の看板があった。
「 江戸時代の掛川の名物は、鎌倉時代から作られ、江戸時代には袴などの生地に使われた、葛布(くずふ)だった。
今でも数軒の織元が残るが、反物の需要が少ないので、インテリア小物などに分野を広げて、
生き残りをかけている感がした。 」
風に乗ってお茶を煎る香りがしてきた。 隣は茶製造とあるので、そこから洩れてきているのだろうか?
そういえば、十九首でも同じ香りがしていたが、掛川には焙煎作業を行う茶製造業者が多いのである。
五百メートル程歩くと倉真川に架かる大池橋に着いた。
「
江戸時代には、この橋は長さ二十九間(約52m)、巾三間一尺(約5.7m)余りの土橋だったという。
橋を渡ると大池橋信号交差点で、道は四つに分かれている。
直進は県道415号(旧国道1号線)で、右前方にいく道は秋葉街道、左折して川沿いに行くのが東海道である。
江戸時代、ここは東海道と秋葉街道。塩街道との追分だった。
大池橋を渡ると正面に秋葉街道の入口であることを示す、秋葉神社の青銅製の鳥居、
と両側に常夜燈が建てられていた。
「
秋葉街道は、火伏せの神様の秋葉山に行く道である。
秋葉山は、ここから九里(約35km)余りにある、曹洞宗の大登山秋葉寺(しゅうようじ)である。
塩の道は、遠州相良などの塩を信濃国飯田や塩尻に運ぶのに秋葉街道を一部利用していた。
戦国の頃、武田信玄に秋葉寺が焼かれたとき、観音堂だけは棟の上から水が流れていて燃失を免れたことから
火伏せの神として庶民の信仰を集めるようになった。
これは秋葉天狗のおかげといわれて、境内に秋葉山権現の社が祀られ、
各地に秋葉講が結成され、秋葉山の縁日、例祭にはおびただしい数の信者が集まった。 」
現在の秋葉街道(県道)は先程通った二瀬川交差点を直進する道に代わっている。
大池橋交叉点の右前方の道は今も一部残っている秋葉街道の旧道で、
少し入った右側に赤い鳥居があり、その奥に瓦屋根の拝殿とその先に小さな社がある。
「 これは「秋葉山遥拝所」と呼ばれるもので、
江戸時代、東海道の旅人で秋葉山に参拝できない人が、ここで参拝できるように設けられた施設である。
常夜燈は明和六年(1769)、鳥居は安永九年(1780)に建てられたが、嘉永七年(1854)の大地震で倒壊、その後、鳥居も木造に建替えられた。
小屋には「正一位秋葉神社の神額」が保管されていたが、
脇に掲示された写真から判断すると、嘉永地震後建立された木造の鳥居に取り付けられていたものだろう? 」
鳥居の横には「秋葉神社道、明治二十二年一月」とある大きな道標と、
「右あきは道、大池村」とある小さな道標があった。
(注)四年後の平成二十三年九月、秋葉街道を歩いて再びに立ち寄ると、赤い鳥居は新しい鳥居に建て変えられ、常夜燈はなくなっていた。
社殿も建て変えられ、その前には 「正一位秋葉神社道」 と書かれた石標と鳥居脇に小さな道標があった。
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大池橋交差点に戻り、東海道の旅を再開する。
左折したすぐの所の川の脇に「夢舞台東海道」の道標があり、「 掛川宿の西境まで十三町、袋井宿まで一里三十五町 」 と距離が表示されていた。
左に倉真川があるこの道は旧東海道(県道253号)で、この先袋井までのほとんどの区間で残っている。
その先の左側には「芭蕉天神」の小さな石柱が建っていた。
鳥居町信号交差点の先には天竜浜名湖鉄道(旧JR二股線)のガードが見えた。
ガードをくぐると土手の左側に西掛川駅が見えたが、しばらく道なりに進む。
道の両脇には家が立ち並ぶが古い家は見当たらない。
白山神社と屋台置場を右に見て進むと、「宗心寺」というかなり大きな寺があった。
その先少し行ったところには「津島神社」があったが、川に取り囲まれた土地柄なので神社が多いのかも知れないと思った。
信号交叉点を越えた左側の「一乗山蓮祐寺」の前に、 「夢舞台東海道」の道標があり、「大池一里塚跡」とあった。
松並木が見えてきた。
左側の社宅のような建物のあたりから、道は右にカーブし、少し上りになり、
松並木が終わると歩道がなくなった。
歩道がないのに車は多く走るので怖い。
三叉路の左には和光橋が架かり、逆川が流れている。
川縁には菜の花が咲いていたので写していたら、二人の女の子が 「 こんにちわ !! 」 と言いながら通り過ぎていった。
最近は物騒なせいか、不審な顔をして無口なまま通るのが多いのだが、このような挨拶は大変うれしい!!
土手を降りて街道に戻り、再び歩きだした。
右側の細沢公会堂の先で、道は左にカーブしていく。
右側に高い煙突が見えたので、近づくと 「銘酒曽代鶴 醸造元柴田酒店 」 とあったが、
廃業してしまったのか、しーんと静まり返っていた。
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沢田IC南の信号交差点で、袋井バイパスの国道1号を高架でくぐり、沢田IC北の信号交差点を左折する。
歩道はあるが、右側は田畑が広がる道である。
少し行くと右に入る道があり、県道253号線の標識があった。
両側は民家になり右側に原川公会堂(公民館)があるところは領家集落である。
信号交差点を越えると、東名高速のガードをくぐる。
岡津集落で、家が少なくなった。
左側の白い建物には「掛川聖書バプテスト教会」と書いてあった。
松の木が数本あるところで、道は右にカーブし、垂木川に架かる、善光寺橋を渡る。
少し下ると右側に「善光寺如来」の石柱があり、石段を登ると善光寺があり、その奥には仲道寺があった。
左側のお堂に「善光寺如来」の石柱があったので、このお堂に祀られていると思い覗いたが、御簾の扉は閉じられていた。
説明板
「 ここには善光寺如来が祀られ、坂上田村麿の守り本尊と伝えられる阿弥陀如来が納められている 」
小さな橋を渡ると、原川の松並木が広がっていた。
「
松並木の両脇は畑で両側見通しがとてもよく、左側は遙かに国道1号、右彼方に東名高速が見えた。
松の下に座って持参したお弁当を食べたが、風が強く弁当を包んでいた紙が飛ばされていった。
しばし休憩の後また歩き始める。
松並木のはずれに「従是北和田岡村」と書かれた道標があった。
少し先の左側に「南泉山金西寺」という古い寺があり、境内には多くの石仏石碑があった (右端写真)
江戸時代、この辺りは旧原川村、掛川宿から一里十八町(約6km)、袋井宿から三十三町(約3.6km)の位置にあったので、
間(あい)の宿になっていた。
原川薬師と呼ばれた霊験あらたかな本尊の薬師瑠璃光如来に供える薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねていたといわれ、
文化文政頃の集落の戸数は四十六軒を数えたという。
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道が右にカーブすると、県道253号は同心橋東交叉点で、国道1号に合流した。
東海道は地下道をくぐって道路の反対側に出て右折して、原野谷川に架かる同心橋を渡る。
ここからは袋井市国本。 左に降りる道があるので下っていくと、
右側に「名栗花茣蓙公園」があり、中に入ると 「従是西 東海道 御本躰可垂三尺坊大権現」 と、
刻まれた大きな道標と常夜燈があった。
「秋葉常夜燈」は櫓の形をしている珍しいものである。
説明板
「 可垂三尺坊大権現とは、この北西にある、秋葉総本殿 萬松山可睡斎 のことである。 」
寺の趣意書には 「 可睡斎は応永年間(西暦1394年)頃、大路一遵が久野城主、久野宗隆の援助を受けて開いた、と伝えている曹洞宗の寺である。
明治六年に秋葉山から三尺坊大権現の御真躰を遷座し、
日本唯一の御真躰をお祀する火防霊場として、秋葉総本殿三尺坊大権現鎮座道場と呼ばれるようになった。 」 とある。
ここから袋井までの旧東海道はほとんど残っている。
少し行くと「名栗」のバス停があり、前方には松並木が見える。
江戸時代の「名栗」は、花茣蓙(はなござ)が名物だった。
十辺舎一九の 「東海道道中膝栗毛」 に
「 掛川城下を西に一里十丁 原川薬師は参拝し 軒を連ねた通りを過ぎ 瀬川を渡れば 早名栗
松並木を西に見て 立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 (一部省略) 名物の花ござを売る店が軒を連ね
上り下りの旅人が珍しいと買って行く 」 と書かれていて、花ござを売る風景が見られたようである。
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その先は県道253号であるが、松並木が本格的に始まった。
先程までの松並木と違い、土塁の上に立っていて、松の木が大変大きい。
歩道は右側だけにあるだけなので、左側から写真を撮る際は車道に出ないと駄目。
ここは工場地帯で、時々排水路の関係で、歩道が途切れるので、注意しながら歩く。
大和ハウスの工場を過ぎたところで、右側の道端に大きな赤鳥居が忽然と現れた。
北方にある富士浅間神社の鳥居である。
「
江戸時代には参道がここから真直ぐ本殿まで続いていたが、鳥居と本殿の間に国道や高速道路が建設され、
工場もできて、赤い鳥居だけが取り残されてしまった、という訳である。
延亨三年(1746)の「東海道巡覧記」 に 「 右浅間道有。 むかしは鳥居有。 今ハ松木有。 鳥居松と云 」 とあるので、
延亨三年当時にはこの鳥居はなかったので、その後、再建されたものと思われる。 」
「鳥居縄手 浅間神社本殿まで八百メートル 」 の表示板があったので、立ち寄ることにした。
歩いて行くと国道1号の不入斗交差点近くに、コンビニがあったので、飲み物を補充した。
その先の高速道路のガードをくぐり、神社の石段を登る。
「
富士浅間神社は、大同年間(806〜810)、坂上田村麻呂が富士浅間神社より、分霊を移したことに始まる。
本殿は天正十八年(1590)の棟札があり、桃山中期の三間(縦横とも4.1m)流造り檜皮葺きで、国の重要文化財に指定されている。 」
裏に回って本殿じっくり見た後、赤い鳥居まで戻り、再び街道を歩き始めた。
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松並木が続く道は狭く蛇行している。
七百メートルほど歩くと、左手奥に、妙日寺がある。
「
正慶元年(1332)に開山した日蓮宗の古刹で、日蓮の父の法名を寺名とし、
境内は一族の貫名氏の邸宅跡といわれる。
日蓮の両親を顕彰する、 妙日尊儀、妙連尊儀供養塔 は、柳生但馬守 の寄進と伝えられている。 」
その先の袋井東小学校の敷地内に、久津部(くつべ)一里塚 の復元ミニチュアがあった。
道の反対の民家の前に、「久津部一里塚跡」の石柱が建っていた。
久津部一里塚は江戸から丁度六十里にあたり、明治時代までは老松が生えていた、という。
その右側には大きな「秋葉山常夜燈」があった。
東海道や中山道の宿場で、火災で全焼という出来事が頻繁に起きていたので、
秋葉神社を分祀したり、秋葉山常夜燈を建てたりして、宿場を守ろうとしたのである。
そうした常夜燈が今でも各地に数多く残されていて、これもそれの一つである。
その先、右に行く道の脇に、小さな「八幡入口」道標があった。 この先国道を越えた400m先に八幡神社がある。
更に進むと、「あぶら山寺みち」と書かれた道標が、地面に埋まるような形で建っていた。
「 油山寺は、この北方(袋井市村松)にある寺で、重要文化財指定の山門と三重塔がある寺である。 」
信号交差点を渡ると、松並木が再び始まった。
その先右側に「和食めん処サガミ」があり、その先に、七ツ森神社がある。
「神社の言い伝え」
「 桓武天皇の頃、日坂に出没する怪鳥を退治するために派遣された七人の武士が返り討ちにあい、
この地の田圃の中に葬られた、といわれる。 昔は七つの塚があったが、塚はひとつも現存しないようである。 」
三叉路の右側に「松並木」の案内板があり、その近くに「従是油山道」の道標がある。
道標は文化十一年(1828)に再建されたものといい、この道を「油山道」という。
道の向かいの民家の花壇には「三尺坊大権現」の大きな道標があった。
松並木は途絶え、しばらく行くと「夢舞台東海道 西新屋」の道標があった。
東海道は、その先の新屋交叉点で、県道413号線に合流してしまう。
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新屋交差点を渡って、左折して県道253号と別れると、「夢舞台東海道 東新屋」の道標がある。
白畑ふとん店前の細い道に入ると三叉路に、新屋秋葉常夜燈が祀られていた。
「
袋井市には、石で造った「燈籠型」と「木造の屋形」の常夜燈が併せて十四基残っている。
新屋の常夜燈は木造屋形であるが、彫刻が施された立派なものだった。 」
道を斜めに進むと市役所の左側前に出た。
ここには「夢舞台東海道 市役所前」の道標があり、 「信号を右折(七十メートル)」 と書かれている。
これは袋井宿の入口を案内しているもので、袋井市役所南交叉点、
新屋橋の手前を右に曲がると、「袋井宿」の説明板と「これより袋井宿」の石柱、
そして 「天橋」の橋柱だったと思えるものが置かれていた。
説明板「袋井宿」
「 袋井という地名は、袋井が昔、袋で囲まれたような形をしていて、その中に田圃がひろがり、
それを潤すため、井戸を掘ったことから生まれた、という。
袋井宿の開設は東海道の他の宿場より十五年も遅かった。
また、宿場は大小の河川に囲まれていたので、周りに二メートル程の土塁を築いて防水対策をしていた。 」
袋井宿の東(江戸側)の入口は、土橋の 天橋(阿麻橋) だった。
「
現在の天橋は道が二つに分かれているが、江戸時代には右側の道はなく、一直線で渡って行き、
橋の先の土塁(土手)の向こうに、高札場があった。
現在の「東海道どまん中茶屋」があるあたりだろうか? 」
袋井宿は、江戸、京都のどちらから数えても二十七番目の宿場で、
ちょうど、五十三次のまん中に当たる。
そういうことで名付けられたどまん中茶屋は、
初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出茶屋ノ図」をモチーフにした建物で
最近作られたものである。
「 江戸時代の茶屋は、小屋かけにするのが普通だが、 常設茶屋がない所では「出茶屋」と呼ばれる茶屋が臨時開業していた。 」
広重が描いた袋井宿の浮世絵では、 「 榎の木の根元に木の杭で囲んだ土盛りを築き、
その上にむしろを敷き、その上をよしず張りの屋根が覆っている。
榎の枝に吊り下げたやかんを地面に置いたへっついに薪を入れて燃やして、湯を沸かす。 」
という風景が描かれている。
現代版の茶屋は土塁を模した上に木が植えられ、出茶屋の復元したものであるが、
使用しているのはその奥の立派な建物なので出茶屋とはいえない。
おばさんに 「 休んでらっしゃい!! 」 と声を掛けられ、
茶屋の中で地元の方々による湯茶のもてなしがあったので、二十分以上のんびりしてしまった。
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茶屋をでると、その先の道は右にカーブする。
「 江戸時代には宿場独特の「枡形」があったところで、その先右に曲がっていたのだが、 カーブになり、枡形があったという形跡は感じられなかった。 」
その先右側の小路を入ると、突き当たりに猿田彦神を祀る、白髭神社が祀られている。
街道を進むと、その先の右側が、袋井宿東本陣跡である。
更地なので、本陣跡といわれても、ピンとこなかった。
一応、東本陣公園となっているが ・・・
説明板
「 袋井宿の本陣は全て東海道の北側にあったといい、その場所から東、中、西本陣と呼ばれた。
東本陣は壱番御本陣と呼ばれ、田代八郎左衛門が営み、併せて問屋も勤めた。
本陣の敷地は千六十八坪、建坪は二百九十坪ほどだった、といわれる。
現在の公園は本陣の家族が住む居住部分にあたる。 」
袋井宿は、新町から西境の中川まで五町十五間(約570m)の長さしかなく、東海道の宿場では一番短い。
その中に百九十五軒の家が建ち、八百四十三人の人が住み、
本陣が三軒、脇本陣はなく、旅籠が五十軒あった。
その先の静橋北交差点の左右の道は、江戸時代は狭い小路だったという。
今は太い道路になっていて、メイン道路で、交叉点を左折すると静橋があり、橋を渡るとJR袋井駅にいける。
静橋の上には見事な彫刻があった。
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静橋北交差点を右折して、北に向うと、左側に観福寺がある。
寛永八年(1631)に可睡斎の等膳和尚を招き、活峰和尚が開山した寺で、
宿場の真中にあったことから「へそ寺」という愛称で呼ばれた、とあった。
交差点の左側にある、袋井宿場公園は 「東海道どまん中ふくろい」 を提唱する袋井市が創ったもので、昔ながらの宿場をイメージして作られている。
交差点を越えると江戸時代は本町で、右側に中本陣(大田本陣)があったところである。
その先の民家の駐車場に「問屋跡」の木柱が建っていた。
少し先の右側に「東海道」の案内板が建っていたが、このあたりに「西本陣」があった、という。
宿場公園からここまで二百メートル位の距離だった。
御幸橋の手前の右側に、袋井名物の丸凧を作っている店がある。
橋の手前左側に、本町宿場公園があった。
「
江戸時代、ここは袋井宿の京方(西)の入口で、「枡形」になっていたところという。
公園は当時を偲ばせる高札場や土塁、「従是袋井宿」と記した棒鼻などを再現していた。 」
秋葉常夜燈も複製と思っていたが、脇の案内板によると、東海道の北側にあったものを移設したものだった。
なお、南側約五十メートルにある、円信寺跡には、寛政十二年(1800)に建立された常夜燈が残っている。
御幸橋は、宇刈川(中之川)に架かる橋で、
常夜燈をイメージしたデザインの橋になっていた。
御幸橋は明治天皇が渡ったことからの命名だろう。
御幸橋を渡ると川原町のバス停があり、左側に袋井宿の浮世絵の看板があった。
ここが袋井宿の終わりの袋井宿の西入口である。
袋井宿は市が街道を意識して造った施設以外、宿場の面影を残すものはなかった。
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東海道は県道253号で、
道は右にカーブし、交叉点で、左に大きくカーブし、袋井中学校北信号交差点を越える。
手前の酒屋では「地酒・どまん中」を売っていた。
少し歩くと左側に澤野医院記念館がある。
「 この建物は旧澤野病院の木造の洋風建物である。
澤野家は享保十二年(1727)には内科医に携わっていたようで、居宅は幕末から明治期のものだが、東海道に面する病棟と洋館は昭和初期のものである。 」
その先に明治元年(1868)に建てた、と伝えられる、寺澤家屋敷門が残っている。
道の右側にある津島神社には「 江戸時代、このあたりには東海道の松並木があったが、
幕末になって御札が空から降った時があり、
それから祀られるようになった。 」 と、神社の由来があった。
その先の川井信号交差点で、東海道は県道413号(旧国道1号線)の広い道に合流した。
五百メートル程先には「松橋」という小さな橋があり、「夢舞台東海道 木原松橋」 の道標があった。
その先に右に入る狭い道があり、その脇に「袋井宿浮世絵」の案内板が建っていた。
細い道に入ると木原集落になる。 細い道は600m程続いている。
右側の民家の前に「木原一里塚跡」の石柱があり、その少し先に江戸から六十一番目の木原一里塚があったが、最近復元したものだった。
位置も 「 東に六十メートル 」 とあるから、先程の石柱あたりにあるのが正しいのではと思った。
両脇に家が建ち並んでいるが、古い家は残っていなかった。
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五十メートル程先の右側に許禰神社(こねじんじゃ)があり、いろいろな石碑が建っていた。
延喜式神名帳に「許祢神社(遠江国山名郡)」の記載があるが、この神社がそれにあたるのかははっきりしないようである。
御神木は樹齢五百年、目通り七メートルの巨木である。
神社の由来
「 許禰神社の主祭神は伊弉諾命、合祀されているのは速玉男命 、事解男命 。
大宝弐年に熊野権現を勧請したのが始めと伝えられ、永保弐年(1082)に社殿を造営、
今川氏真や徳川家康の崇敬を受け所領を安堵され、
江戸時代には木原権現、熊野権現と称していたが、慶応四年(1868)に現社名になった。 」
江戸時代には熊野社と呼ばれ、東海道分間延絵図には「熊野神主木原主水」と書かれている。 」
境内に、「木原畷(きはらなわて)の古戦場」の碑 と 徳川家康腰掛石があった。
「 元亀三年(1573)、武田信玄はここ木原西島に陣を張った。 これを知った家康の兵とこの付近で小競り合いを繰り返した。 信玄はやがて二俣城を攻略し、三方ヶ原を通過しようとしたので、徳川家康が一万の兵で立ち向かったが、 信玄の三万五千の大軍の前で一蹴され、浜松城に逃げ帰った。 世にいう、三方ヶ原合戦であるが、木原の戦いは、その前哨戦だった。 」
神社の先に 「夢舞台東海道 木原」 と書かれた道標があった。
その先で先程の県道と再合流した。
蟹田川に架かる西木橋を渡ると磐田市西島である。
西島信号交差点を越えると道の右左に家が建っているが、家の裏側は田畑である。
以前は田畑だけだったので、浜松や磐田の産業の好調がここまで住宅化を進めたことが窺える。
道がやや上りになり国道1号が右側からせまってくる。
国道1号と平行して太田川にかかる三ヶ野橋を渡る。
、
少し行くと信号交差点があり、道は三つに分かれる。
一番左の狭い道が東海道で、ここには「夢舞台東海道 三ヶ野」の道標と「松並木」の説明板が建っていた。
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板金屋と車屋の駐車場代わりに使われている道をいくと 「右 大正の道 左 明治の道」 の石碑がある三叉路に出た。
左側の明治の道を選択し、その道を行くと三ヶ野坂というかなりの急坂である。
「
三叉路には「明治」と「大正の道」しか表示はなく、明治の道を歩いたが、
明治の道に入ってから左に登っていく自然歩道が「江戸の道」だったようである。
江戸の道を上りきった高台は大日山と呼ばれ、
家康の腹心・本多平八郎が物見をしたといわれる「大日堂」がある。
更に、その左側には鎌倉街道もあるようで、複雑に交差する道になっている。
これから行かれる方はこの点に注意して歩かれるとよいだろう。 」
明治道は薄暗く、五百メートル程登ると四差路に出た。
左側の民家には「三ケ野公会堂」の表示があるが、この地方では公民館を公会堂と呼ぶようである。
公会堂の前には「明治の道」と「三箇野車井戸跡」の石碑、そして、「従是鎌田山薬師道」の道標が建っていた。
公会堂の交差点の先は、今から五年前には畑や茶畑で、袋井方面も見渡せたようであるが、
この高台は三ヶ野台という地名になり、急速に住宅地化が進んでいる。
三ケ野公会堂で右折し、少しいくと右側に「三ケ野立場跡」の標札が建っていた。
江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があったのだが、
今は空き地なので十年もしないうちにこの場所も住宅に変っているような気がした。
その先の両側には古い家が並び、その先の右側は茶畑だった。
そこを過ぎると一戸建ての新しい家とアパートが続き、かって農家が並んでいたとは想像しづらい。
その先は下り坂。 交差点を直進し更に下っていくと平坦な道になった。
上り阪になると松並木の道で、左側歩道に「見附の松並木」と書かれた小さな石碑が建っていた。
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道は右にカーブし、県道413号と合流すると、その先の歩道橋を渡って、県道の右側に出る。
右手の高台に「遠州 鈴ヶ森」の看板があるので、石段を登ると、看板の先に「南無阿弥陀仏」の石碑がある。
ここは、遠州鈴ヶ森刑場跡で「 大盗賊日本左衛門の首がここで晒された。」 と、伝えられる場所である。
「 日本左衛門は、歌舞伎狂言・白波五人男で日本駄右衛門として登場するが実在の人物である。 遠州金谷の生れで、美濃から相模の八か国で、五十人〜六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、といわれる大盗賊だったが、 江戸の火付け盗賊改め方に捕えられ、江戸で斬首されて、この地に運ばれ晒し首になった。 」
そんな過去を忘れたように、桜が咲き誇っていた。
県道に戻ると、富士見町東信号交差点の手前で、県道と別れて右の道に入る。
東海道を西から歩いてくると、この地で最初の富士山が見られることから、「見附」という名が付いたという説がある。
この地はそのものずばり富士見という地名である。
その先の交差点を渡ると、小さな橋の三本松橋があるが、江戸時代には「なみだ橋」と呼ばれた。
刑場のそばになみだ橋があるのは品川の場合と同じである。
その交差点を直進すると三叉路にでる。
道のまん中に、三本松の秋葉常夜燈があった。
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三本松の三叉路で、東海道は右側の道である。
百メートルほどの下り坂で、
見付宿の東側にあるから、「東坂」という名が付いている。
坂の途中で見附の景観が一部だが見られた。
坂を下りきったところの民家の前に、「見附宿木戸跡」 と記された木標があった。
県道413号側から入ってくる左側の道(東海道ではない)にどうしてなのか、「見附宿」の案内板があり、
道の両側に宿場の木戸をイメージしたモニュメントが建っていた。
「
見附宿は、江戸から六十里二十九町、京都より六十四里二十七町のところにあるので、
見附宿と浜松宿の間が東海道のまん中ということになる。
見附宿は東木戸から東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸までの約一キロ。
天保十四年の宿村大概帳には、宿内人口三千九百三十五人、家数千二十九軒、 旅籠五十六軒、とある。
天竜川は舟渡しだったので、島田の大井川と違い 通行は楽だったが、それでも川止めになると宿場は混雑した、といわれる。 」
歩いてきた東海道と県道413号の二つの道を挟むように愛宕山がある。
上に愛宕神社が祀られているので、訪れることにした。
石段の登り際の左角に江戸から六十二番目の「阿多古山一里塚跡」の説明があった。
石段を登って行くと山頂には屋根が壊れたのか、青いビニールで覆われた小さな社の愛宕神社があった 。
神社の奥を登った林の中に「一里塚跡」の石柱があったので、
江戸時代には両脇の一里塚の間を通って、見附宿に入っていった、ということになる。
降りる途中、磐田の町並が一望できたが、神社の石段や常夜燈が一部壊れていて痛々しかった。
下に降り、東海道を歩く。
道の両脇にある橋の形をしたものは当時の「愛宕橋」をイメージしたものである。
その先を右に入ると、矢奈比売(やなひめ)神社の石柱と、常夜燈が二基建っていた。
「
矢奈比売神社は、正式名称の矢奈比売神社より、見付天神の方が有名で、見付天神社とも言われる神社である 。
神社の創建時期は詳らかではないが、延喜式内社になっているのでかなり古く、
祭神は矢奈比売命と菅原道真である。
旧暦八月十日の直前の土、日曜日にかけて行われる祭礼の裸祭は
矢奈比売神社の神様が神輿に移されて遠江国の総社の淡海国玉神社へ渡御する際に行われる祭で、
国の指定重要無形民俗文化財に指定されている。 」
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見付宿場通りを歩くと、右側に「見付宿分間絵図」などを表示した大きな案内板があった。
案内板の少し先にある、東梅塚は復元されたものだと思うが、菅原天神にまつわる梅の木が植えられていた。
道の反対側に、飛行家、浮田幸吉の家があったことを示す説明板があった。
「 浮田幸吉は、空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを研究し、 グライダーを発明し、日本で最初に空を飛んだとされる人物であるが、その為、岡山を追われ、 晩年は磐田で送った、といわれる。 」
中川橋を渡るとすぐの右手奥に、「見附城跡」といわれる大見寺がある。
「 徳川家康は、今川領を武田信玄と分割した際、永禄十一年十二月、見附の問屋を安堵し、 翌年一月、見附城を廃して、その代わりに浜松城を築き、遠州経営の本拠とした。 その際、家康は見附城跡を大見寺に寄進し、寺の中に茶屋御殿を建てた。 墓地には純法親王や浮田幸吉の墓がある。 」
道の反対の路地は、江戸時代、清水小路と呼ばれた。
絵図面によると、その角に脇本陣があり、その対面に問屋場があったように描かれている。
大通り交差点の手前、右側の屋敷は 御朱印船屋敷の冷酒清兵衛邸 である。
「 冷酒清兵衛は家康が付けたあだ名で、本当の名は上村清兵衛。
徳川家康が見附を訪れた時、自慢の冷酒を勧めたところ、家康はたいそう気に入って、
冷酒清兵衛と呼ぶようになった。
また、巡視途中に武田軍に捕らえられそうになり、清兵衛宅に逃げ込んだ時、
清兵衛は見附の町に火を放ち、混乱の中で家康を浜松城に逃がした、などの逸話が残っている。 」
大通り信号交差点を越えた右側の宗教団体支部の建物が、北本陣跡である。
道を挟んだ反対側に、南本陣があったようである。
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その先に「夢舞台東海道 見附」の道標がある。
右に入ると、常夜燈と「高札場跡」の碑があった。
路地に入ると、右側に淡海国玉神社 、左側に 旧見付学校がある。
淡海国玉神社(おうみくにたまじんじゃ)は、平安時代に見附に国府があったときの遠江国総社である。
拝殿前の石像が狛犬でなく、兎というのもめずらしい。
「 創祀年代ははっきりしないが、延喜式の式内社で、もとは岩井原という地に鎮座していたが、 いつのころか現在地に遷座した。 拝殿は三棟入母屋造り向拝付、幣殿は三棟入母屋造りで、両方とも文久年間に再建されたもの。 本殿は明暦年間の再建で三間社流造である。 主祭神は大国主命だが、多くの神を相殿に祀っている。 」
旧見付学校は現存する日本最古の洋風木造小学校校舎である。
「 玄関はエンタシス様式に近似した飾柱を配した三階二層建ての建物である。
明治五年に小学校として開校したが、その後は小、中、女学校、病院として使用された。
現在は国史跡の旧見付学校の他、磐田文庫を一般公開している。
なお、磐田文庫は淡海国玉神社神官を務めた大久保忠尚が開いた私塾である。 」
少し先の右側の空地が工事中で、その傍に「脇本陣門復旧工事」とあった。
(注)平成二十一年六月、姫街道を歩くため、見附宿を再訪。 工事は終了し、
門の奥に「いこい茶屋」が建っていた(土、日、祝日のみ10時〜15時開館、無料)
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傍らにある「旧見附宿脇本陣大三河屋門」の説明板には、
「 大三河屋ははじめは旅籠だったが、文化二年(1805)に脇本陣になった。
この門は薬医門で、二本の本柱の上に冠木を渡して、その上に梁と切妻屋根をのせている。
中泉の中津川家に移築されていたが寄贈を受け、平成十九年に移築復元された。 」 とあった。
赤いタイルが敷かれた歩道にイラスト入りの道標があり、右の小路は「玄妙小路」で、
右側に「慈恩寺」、その先は「化粧坂」とある。
小路に入ると、玄妙寺があり、その奥に半僧坊慈恩寺があった。
手前の家の蔵は三層になっているので、
珍しいと思い眺めていると、通りかかった人の話では、以前は醤油製造業だった、といわれた。
そういわれて奥を見ると、広い敷地はアパートなどに変わっていた。
醤油を造るよりアパートの方がもうかるのだろう。
「 見附は平安時代には遠江国の国府が置かれ、江戸時代には東海道の宿場町として栄え、 交通の要衝として、多くの物資が集まったので、多くの蔵が建っていたというが、 この家以外には見なかったし、古い家も残っていなかった。 」
見付宿場通りを二百メートル〜三百メートルほど歩くと、県道44号線との交差点で、ここは姫街道との追分である。
正面の細い道は姫街道で、東海道はここで左折して横町に入る。
「 姫街道とは意味ありげな名前であるが、東海道の新居の関が幕府の出鉄砲、入り女の政策により 女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避けて、 ここから本坂越えの脇往還を通ったことから姫街道と呼ばれるようになった。 」
交叉点を左折して、県道44号を二百メートル程行くと、右側に「東福門院・日限地蔵尊」を奉安する西光寺がある。
「日限地蔵」とは日を限って御願い事をすると願いを叶えるという地蔵尊である。
その先には加茂川が流れ、川に架かる加茂川橋の両側には木戸をイメージしたモニュメントがあった。
江戸時代にはここに西木戸があり、旅人の通行の監視を行っていたのである。
ここで見附宿は終わる。
見附宿は古い建物など残っていなかったが、
明治に開通した東海道本線から離れでいることもあり、落ち着いた雰囲気の町だった。
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