島田宿から金谷宿へ向う途中の大井川には橋が架けられなかったので、川越人夫の手を借りて川を渡った。
金谷宿は大井川の川越えの宿場として大繁盛をした。
金谷宿と間の宿・菊川を結ぶ金谷坂と菊川坂は石畳の道である。
菊川から日坂は東海道一の難所といわれた小夜の中山を歩く。
日坂宿を出ると、左側に事任八幡宮がある。 延喜式にも載っている古社で、事任(ことのまま)ということから、
「 願い事が意のままに叶う 」 として、東海道を歩く旅人に人気があった。
掛川は宿場であると同時に城下町だった。
(ご参考) 島田〜金谷 3.9キロ 徒歩約4時間10分
金谷〜日坂 6.5キロ 徒歩約3時間30分
日坂〜掛川 7.0キロ 徒歩約3時間30分
金谷宿は島田宿からおよそ四キロの距離であるが、その半分近くが大井川越えに費やされた。
島田宿の京側の入口は大井神社あたりだったようである。
大井神社は島田宿の鎮守社で、安産祈願とかかわりを持つ帯祭が有名である。
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鳥居前を出発し、金谷に向う。
道の右側に大善寺という古い寺がある。
道を進むに比例し、もくもくと煙を吐く煙突が大きくなる。
この大きな煙突の主は東海パルプ製紙工場。
製紙工場は何故、もくもくと煙りを出さないと駄目なのだろうか??
以前に比べるとかなり少なくなったが、今も煙を吐き続けていた。
工場の前で三叉路になっているが、東海道は「川越遺跡」の表示がある左の細い道に入っていく。
道が狭くなると河原町で、古い町並みが現れると、川越遺跡に到着である。
遺跡といっても、建物の多くは人が住み、住居として使用されている。
その中の一部の建物が一般に公開されていて、自由に見学ができる。
「浮世絵島田宿大井川越」では大井川を渡る姿が描かれている。
「 島田宿のはずれを流れる大井川は、水の量が常に変動し、流れもしばしば変わったが、
江戸幕府は軍事上の理由から東海道の主要河川に橋を架けなかった。
大井川では舟渡しも認めず、すべて人足による渡しとした。
流水量が多くなると川止めといって、渡しを禁止したので、
旅人は何日も大井川の両岸の宿場に逗留をよぎなくされ、
ひどい時には島田や金谷の旅籠が満員で、その手前の藤枝、岡部、或は日坂、掛川で、
足止めをくったこともあった。
」
川止めの度に通行禁止になるので、それには逆られないため、
「 箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川 」 と謡われた。
道の右側に「海野晃弘版画記念館」、左側に「口取宿」 がある。
「 島田宿が最初に抱えていた川越人足の数は三百五十人、幕末には六百五十人もいたといい、
それらの人足は、十の組に分けられ、各組にひとつの番宿があり、ここで待機していた。
人足の定年は四十五歳だったが、その後も仕事を続けたい者は口取宿に詰めて、
人や荷物の各組への割り当てなどの仕事をした。 」
この先に ○番宿 と表示された家が並んで建っているが、これらは川越え人足の詰所で、
当時の番宿の多くは現在は民家として使用されている。
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右側の奥まったところにある建物は、安政三年(1856)に建てられた「川会所」である。
「 川会所は、川越しの料金を決めたり、川札を売っていたところで、 明治維新により宿場制度が廃止されると、学校になり、場所も移転したが、 元の場所に近いところに戻し、復元保存された。 」
境内には 「 馬方は しらじ時雨の 大井川 」 という芭蕉の句碑があった。
道の対面には、人足が客から受け取った川札を現金に換える札場があった。
その他に立会宿や荷縄屋などがあった。
「 立会宿は旅人を番宿まで案内する立会人の詰め所で、 荷縄屋は荷縄を売ったり、荷物を積み直したりしたところである。 」
川会所の隣にある堤は島田大堤といわれる堤である。
「 慶長の大洪水で島田宿が押し流され全滅になったのを受けて建設されたものである。
高さは二間(約3.6m)、向谷水門下から道悦島村境まであったという、長さ三千百五十間(約5.7km)の大堤で、
正保元年(1644)には完成していただろう、といわれる。 」
川会所と島田大堤を通り過ぎると石垣があり、「せぎ」と書かれた施設がある。
せぎは洪水が起きたときに板を挟んで、水をせきとめるものである。
江戸時代にはここから先が「川越し場」ということになる。
現在は右側に島田市博物館があり、一階常設展示場に「大井川越」に関するものが展示されている。
「 入館は有料であるが、渡し賃は水の量や渡し方によって違ったこと、 川越人夫は渡し賃以外に酒手ももらったので、日銭が入り景気はよかったことなどがわかった。 」
博物館の庭には、芭蕉の句碑が複数ある。
道の角に 「夢舞台東海道 島田宿」の道標があり、 「左宿境、右藤枝宿二里二十二町 」 と記されていた。
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博物館の反対側にある公園には「朝顔の松」がある。
「 これは盲目の美女、朝顔が、川止め間に目が見えるようになった、という芝居にちなんだものである。 」
家並みの中間あたりに、八重枠稲荷神社がある。
「 八重枠稲荷神社は、宝暦十年(176)に川越しの事故で亡くなった人々を供養するため建立され、 社殿は文化九年(1812)と明治三十四年に修繕されたが、 礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものである。 八重枠の名の由来は、昔ここに大井川の出し堤防があり、 増水時には蛇籠に石を詰めて杭で固定して幾重にも並べて、 激流から堤防を守ったことから来ている。 」
少し戻るが、左側の細い道を少しは入ったところに 「八百屋お七の恋人吉三郎の墓」 がある関川庵がある。
街道から路地を二百メートル入った右側に小さな建物があり、墓地が見えたのが関川庵だった。
建物の左側に「吉三郎の墓」と表示される墓や石仏があった。
お寺小姓だった吉三郎は、お七処刑後、お七を供養するため全国行脚に出たが、ここで亡くなったと、伝えられる。 」
一通り見学が終えたところで、旅を再開する。
博物館の坂を上り、堤防に出ると 「 越すに越されぬ 」 といわれた大河の大井川が、
やっと目の前に現れた。
川の流れははるかかなたで、下流にはJRの鉄橋が見えた。
上流には県道381号の橋が架かっている。 河川敷は公園になっているので、走っている人がいる。
江戸時代にはこの先の渡し場から対岸に渡っていった訳だが、ここから渡ることは今はできない。
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車が走る堤防の道を歩いて、約一キロも上流にある県道の大井川橋まで行く。
橋の手前の少し高い場所に「水神景迹」と刻まれた大きな石碑が建っていた。
その近くに「夢舞台東海道 島田宿」の道標があった。 いよいよ大井川を渡る。
といっても半端ではない。 橋の長さが約一キロあるのである。
左側に歩道橋がある。
車と分離した道になっているのはありがたいが、自転車が多いので気がぬけない。
彼等は自分の方が優先すると思っているから、始末が悪い。
自転車がくる度にこちらが小さくなって避けることになる。
川の水は少なかった。 のんびり歩いたこともあるが、橋を渡り終えるのに十五分ほどかかった。
「 越すに越されぬ 」 といわれた大井川の大きさが実感できた。
渡り終えた左側堤防に「大井川橋碑」があった。
碑には、「 昭和三年に完成したトラス橋で全長1026mなど土木工学として意義がある。 」
という趣旨のことが記されていた。
「 江戸時代、架橋が禁じられていた大井川に、明治九年(1876)、川の一部に全長二百三十四メートル、 幅二メートル七十センチの有料の木橋が架かけられた。 その後、明治十六年(1883)に千三百メートルの木橋が架かったが、明治二十九年(1896)の洪水で流され、 船渡しで対応していたが、昭和三年に三年以上の歳月を経て完成したのが現在の橋でである。 」
大井川橋は建てられて八十年にもなるのに現役なのはすばらしいことである。
大井川は駿河国と遠江国の国境なので、いよいよ江戸から四番の遠江国に入った。
橋を渡ったところに、東町交叉点がある。
堤防上の道を二百メートルほど下流に向かって進むと、右側に東海道を示す矢印があるので、
その反対側の河原が金谷側の渡し場の跡ということになるが、
それを示すものはなにも残っていないようだった。
道を右折すると下り坂になったが、道の両側の家は道よりかなり低いところにあるので、
川より低いところに建っていることになる。
道を下って行くと公園があり、「夢舞台東海道 金谷宿八軒家」の道標があった。
その先の小さな橋は「東橋」とあるが、八軒家橋ともいうようである。
橋のイラストは蓮台に乗った女性で、その間から川が見えたので、川の水を入れて写して見た。
東橋を渡ると金谷宿(かなやしゅく)である。
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金谷宿は東に大井川、西に小夜の中山峠と二つの難所に挟まれて栄えた宿場である。
「
天保十四年の調査では、宿内人口は四千二百四十一人、家数千四軒を抱える大きな宿場であり、
本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠は五十一軒だった。
金谷宿は大井川の金谷側の川会所のある川原町と一体経営になっていたようで、
川原町が川越業務、金谷宿が宿場を分担していた。
金谷の地名は長禄二年(1458)の足利義政御判御教書に「遠江国質侶庄金谷郷」とあるのが初見。
大田道灌は、平安紀行の中で「金谷駅」と題して 「 思うかな 八重山越えて 梓弓 はるかき旅の 行く末の夜 」 と詠んでいる。
(注)金谷町は人口2万の町であったが、2005年に島田市と合併し、現在は島田市金谷町である。 」
宿場の入口は大代橋を渡ったところからという説もあるが、とりあえず東橋ということにする。
新堀川に架かる東橋の手前の道脇に「福寿稲荷大明神」が祀られている。
左側は竜神公園で、その一角に「夢舞台東海道 金谷宿」の道標が建っていた。
新堀川を越えたところには古い家が残っていた。
秋葉神社の前あたりから左の細い道を入ると、慶応四年開創の「宅円庵」という寺がある。
寺というと立派な伽藍を想像するが、ここの建物は民家という程度のものである。
立ち寄った理由は、歌舞伎の十八番、白浪五人男に登場する「日本駄右衛門」のモデルになった男の墓があるからである。
「
白浪五人男の一人・日本駄右衛門は、実在の盗賊、浜島庄兵衛、別名、日本左衛門がモデルという。
この人物は義賊という説もあるが、詮議の目が厳しくなりもはや逃れられぬと覚悟して、京都で自首し、
江戸に送られて処刑され、その後、根城にした見付宿(現磐田市)でさらし首になったのを、
金谷宿のおまんという愛人がひそかに首を持ち帰り、この寺に葬ったものである。 」
踏切を渡ると左側に「大井川鉄道新金谷駅」がある。
新金谷駅は今は珍しいSLが走る大井川鉄道の起点で、SLフアンが多く集まるところである。
奥の操車場にはいろいろに列車があったので、大変楽しかった。
PLAZA LOGOは休憩所や売店になっているようだが、時間が早く開いていなかった。
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街道(県道228号)に戻り、大代橋を渡るとこのあたりはまだ古い家が残っていた。
清水橋の手前には小さな祠が祀られていた。
橋を渡ると商店街になったが、この先には昔い建物は残っていない。
交叉点を越えると県道473号に変わる。
金谷仲町バス停のダイヤを見ると一時間に一本か二本しかこないが、
バス停には五人の人がバスが来るのを待っていた。
どこにいくのだろうか?
江戸時代、金谷宿には山田屋、佐塚屋、柏屋の三軒の本陣があった。
少し歩るくと、道の右側にある佐塚書店(現在は佐塚文化堂)は、江戸時代は本陣であった家である。
佐塚佐次衛門が勤めた佐塚本陣は、建坪二百六十三坪の屋敷であった。
金谷本町バス停の先の右手にある金谷南地域交流センターやポケットパークや駐車場は、
柏屋本陣の跡である。
(注)小生が訪れた時は大井川金谷農協と島田市金谷地区センターだった。
「 柏屋本陣を務めた河村八郎左衛門は庄屋も兼ねていた。
本陣の敷地面積は二百六十四坪で間口九間半、奥行四十間の建物に門と玄関がついていた。 」
山田三右衛門が勤めた山田屋本陣や金原三郎右衛門の脇本陣の角屋があった場所は残念ながら確認できなかった。
旅籠が五十一軒もあったというのだから、それらしい家があってもよいのだが、そうした説明もなく、
金谷町からは江戸時代の金谷宿の歴史は抹殺されている感じがした。
ここから緩やかな登り坂となり、両脇にはお茶を商う店が多い。
「 大井川に橋が架かったことで失業した川越人足たちは、名物となっていた茶の栽培を行うようになったため、明治以降、大井川周辺での茶の生産は飛躍的に増えていった。 」
県道473号の坂を上って行くとJR金谷駅に着く。
駅のガードの入口に「夢舞台東海道 金谷宿一里塚」の道標があった。
金谷一里塚は江戸から五十三番目の一里塚である。
ガードをくぐり右に行くのが東海道だが、正面の小高いところにある日蓮宗長光寺に立ち寄ると、
境内に「芭蕉の句碑」があった。
「 道のへの 木槿は馬に 喰はれけり 」
寺の裏にまわると見えたのは牧之原大茶園で、広大な茶畑が広がっていた。
下に降り街道を歩くと、左側に「秋葉常夜塔」があり、奥まったところに社殿がある。
プロパンの入れ換えに来ていたご主人に神社の名を聞いたが、「 聞いたがわすれた!! 」、との答。
「 どこのいくの?? 」と、聴かれたので、「 掛川まで!!」と、答えると、「 それを聞いただけで足がすくむ 」、といわれた。
「 お大事に!! 」という声に送られて再び歩きだした。
橋の欄干をよく見ると「不動橋」と書いてあったので、不動尊のようだった。
不動橋は金谷宿の京側の入口であるので、金谷宿はここで終わる。
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金谷宿追分の不動橋を越えた両側には古い家があり、なだらかだった上り坂がやや急な坂に変った。
左側の家の一角に小さな祠が祀られていた。
坂を登りきると国道473号線に出たが、東海道は国道を横切り、「旧東海道石畳入口」と書かれた大きな看板がある道に入る。
道は急傾斜に変ったので歩くペースは落ちたが、百五十メートルほど歩くと右側に立派な建物が現れた。 石畳茶屋である。
「 この建物は旧金谷町が建てたもので、金谷宿に関するものが展示されていた。
半分のスペースに売店や畳の部屋があり、自由に休憩や食事ができる。
小生も一面に拡がった茶畑を見ながら、お菓子を食べ、お茶を飲み、一服した。 」
いよいよここから金谷坂の石畳が始まる。
説明板
「 江戸時代には金谷宿から日坂宿の金谷坂に石畳が敷かれていた。
近年は僅か三十メートルの石畳を残すのみでコンクリートの道になっていた。
平成四年に町民六百人の参加をえて行われた平成の道普請で、四百三十メートルの石畳が復元された。 」
歩き始めたところに「すべらず地蔵」があった。
その脇の小道を登ると、手前の左側に、鷄頭塚があり、その奥には庚申堂が建っていた。
鷄頭塚は、六々庵巴靜が詠んだ句、 「 曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華 」 から名付けられた句碑である。
「 六々庵巴靜は江戸時代の俳人で、薫風を広め寛保四年(1744)に亡くなったが、
彼を慕った金谷の門人たちが、金谷坂入口北側に自然石の句碑を建てたものである。 」
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その先には「河浦向延命地蔵尊」が祀られていて、その隣に三匹の猿を刻んだ「庚申塚三猿」の石碑があった 。
その奥の庚申堂には芝居の白浪五人男に出てくる日本駄右衛門が夜働きの際の着替え場所だった、という言い伝えが残る。
周りが薄暗いのでいかにも追いはぎがでてきそうな雰囲気なところだった。
石畳を登って行くと赤い幟が沢山現れ、右側の六角堂に祀られていたのは「滑らず地蔵」である。
石畳を復原した際に石畳を滑らないようにとの願いを込めて祀られたもの。
このような広範囲の石畳は東海道では箱根峠、中山道では落合の石畳だけとあったが、
落合の石畳の方が石が大きいので歩きやすかったような気がした。
坂を上りきると広い道に出た。
正面の建物はNTTの通信施設のようで、それを囲む土塁の上に、明治天皇駐輦阯碑があった。
左側にはまさに広大な茶畑が拡がっていた。
石畳を出たところまで戻り、道を反対にとると左側に芭蕉の句碑があった。
句碑には、 「 馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟 」 という句が刻まれていた。
これは野ざらし紀行の中で詠まれた句で、中国の詩人・杜牧の「早行」という詩を意識した作品といわれ、前文には
「 二十日ばかりの月微かに見えて、山の根際いと暗きに馬上に鞭垂れて数里未だ鶏鳴ならず、
杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽ち驚く 」 と記されている。
前文は 「 未明の空に二十日月がかすかに見えて、山の麓あたりがたいそう暗い中を、鞭を垂れたまま馬の足取りにまかせ、数里を旅してきたが、いまだ、鳥の鳴き声が聞こえてこない。
杜牧が 早行 の詩に詠んだあの夢見心地のまま、馬に揺られ、
小夜の中山まで来たところで、やにわに目が覚めた。 」 という意味である。
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この先は広々とした茶畑を左に見ながら歩く。
やがて、「諏訪原城跡」の看板が見えてくる。
そのまま直進し、アルムという喫茶店の手前の小道を右折すると、
鳥居があり、その隣に「諏訪原城阯」の石碑が建っている。
鳥居をくぐり、奥に入ると「諏訪神社」と書かれた案内と、諏訪原城全体の案内板があったが、
大変湿気が多く薄暗いところである。
奥にある諏訪神社は小屋のような貧弱なものだった。
その前をすすむといくらか明るくなってきて、諏訪原城の空堀跡に出た。
「 諏訪原城は、武田勝頼が天正元年(1573)に馬場氏勝に命じて築いた山城で、
浜松の徳川家康に対する前線基地だった。
複雑な地形を利用し、堀を幾重にも張り巡らせ、押し寄せる敵を防ぐ工夫が施された難攻不落の天然の要害だった。
城跡は現在、続日本100名城の一つに選定されている。 」
今ではそのほとんどが、畑や茶畑となってしまっている。
茶畑の中に、ここで戦死した武田方の城主の今福浄閑の墓塚があった。
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武家屋敷や馬場などがあったところは林に変り、二之丸や三之丸は茶畑になっていた。
近年、学術調査で掘り返された二之丸や三之丸にはその痕跡が残っていた。
説明板
「 二之丸は武将が集まって戦術を打ち合わせたところ、三之丸は火薬や武器を貯蔵していたところ。 」
と書かれていた。
「天守台跡」と書かれてところにきた。
といっても、天守台は天守閣のような建物ではなく物見櫓程度のものだったようで、
「 その前方は急斜面になっていて、攻めてくる敵には石や矢で見ながら攻撃できる位置にあった。 」
とある。
当時は下にいる敵の様子が一望できたようだが、木が繁茂しているので、一部しか見ることはできなかった。
城址の保存状態がよいこともあり、興味深く見学したため、二十分程時間を費やしてしまった。
東海道に戻り、先に進む。
県道234号線を横切った先に案内板と休憩所があり、眼下には菊川の里が見えた。
ここからは菊川坂を下る。
菊川坂は金谷坂と同じような石畳の道である。
説明板
「 菊川坂は、江戸時代後期、近隣十二ヶ村に割り当てられていた助郷により、
三百八十間(690m)の石畳が敷かれたが、
最近は百メートル程になっていた。
平成十三年、周囲の人達五百名余の協力により、ほぼ元の姿に復元された。 」
石畳が終わった道の先には「東海道、菊川坂」と書かれた道があった。
菊川坂を降りれば菊川の里のはずだが、
「宗行卿塚」の案内を見つけたので、右折して車道に入り歩いていく。
両脇は林になり眼下に茶畑が広がったが、しばらくいくと左側に「中納言宗行卿塚入口」の木柱を見付けた。
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ここで車道と別れて二百メートルほど下り、その先、右折した突き当たりに、宗行卿塚があり、右側に石碑が立っている。
石碑の文面
「 中納言、藤原宗行は、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱に敗れ、
幕府に捕らえられて、鎌倉へ護送の途中、菊川の駅に泊まり、宿の柱に漢詩を残した。
その数日後、藤原宗行は、 藍沢原(現御殿場) で処刑された。
宗行卿塚は、水戸藩士の渡辺源進が、文久三年(1863)に中世に築かれた墳墓の上に、
「宗行卿塚」と書かれた石碑を建てたものである。
この塚は西方二十メートルのところにあったが、昭和四十三年の国道1号金谷バイバスの工事で、
ここに移された。 」
元の道に戻らず、国道のガードをくぐり、法音寺の前まで下り、大通りに出ると、
先程別れた東海道に合流した。
右折してまっすぐ進むと、高麗橋に出た。
高麗橋の手前は、「菊川の辻」と呼ばれた、鎌倉時代の宿駅あったところである。
江戸時代には間の宿だった菊川の入口になっていた。
大名などが休息する茶屋本陣が、橋を渡った先の左側、路地手前にあったようである。
「
間の宿は宿場と宿場の間が三里から四里ある場合に置かれたが、
金谷宿と菊川は一里二十四町しかないのに、間の宿が置かれたのは、
小夜の中山や物見坂などの険しい坂があったから、といわれる。
間の宿には厳しい制限があり、川留めなどで周りの宿場が利用できない時しか宿泊は許されない他、
尾頭付きなどの贅沢な食事は認められなかったという。
菊川名物になったのが菜飯田楽で、特に下菊川おもだか屋宇兵衛茶屋が有名で、
尾張藩の殿様が賞味したと伝えられている。 」
その先の右側には。秋葉山の社があった。
江戸時代には秋葉山の隣に「脇本陣」があり、その前に庄屋を兼ねた鍵屋が務めた「問屋場」があったようである。
菊川のもう一つの名物は鏃(やじり)で、菊川には鏃鍛冶がいた。
「
元祖は京五條の鍛冶で、この村に下ってきて定住したが、小夜の中山に出た怪鳥を射た矢の根が有名になり、
徳川家康が大阪城を攻略する際献上されて、幸運の鏃としてここを通行する大名達が購入した、という。 」
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少し歩くと右側奥にこの鄙びた里には似つかわしくない立派な建物・菊川の里会館がある。
入口の看板に菊川に伝わる民話が書かれていたのは好感が持てた。
その隣にある二つの石碑は、 中御門中納言藤原宗行の詩碑 と 日野俊基の歌碑 である。
もとは、街道左手奥の菊川神社(旧若宮八幡神社)の境内にあったのだが、
平成三年に移転し建て替えられたものである。
詩碑は、中御門中納言藤原宗行が、この菊川の宿駅で、宿の柱に漢詩を書き残したものである。
「
中納言・藤原宗行が、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱に敗れ、
鎌倉に送られる途中、この宿駅で宿の柱に漢詩を書き残した。
石柱にはその辞世の詩が刻まれている。
昔南陽縣菊水 汲下流而延齢
今東海道菊河 宿西岸而失命
「 昔、中国の南陽県の菊水の水を飲むと、寿命が伸びるという話があったが、
今日東海道の同じ菊川の地に来て、命を失うとはどういう巡り会わせだろうか? 」 ということが、
漢詩で書かれている。 」
隣の歌碑は日野俊基のもので、彼は宗行の約百十年後、
後醍醐天皇が倒幕を企てた正中の変(1324)でとらえられ、鎌倉の葛原岡で処刑された。
歌碑には、「 いにしへも かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん 」 と刻まれているる。
鎌倉護送の途中、この地で宗行の故事を思い詠んだ歌である。
鄙びた集落なのに、古そうな家は数少なかったのは、残念な気がする。
集落を過ぎてしばらく行くと、小川にかかる四郡橋がある。
四郡とはなにかと思っていたが、橋を渡った左側に小さな石柱があり、
「 榛原郡、山名郡、城東郡、佐野郡 」 とあり、
四つの郡の境になっているのだ、ということを知った。
小夜の中山へはここを左折し、その先の細い道を歩くことになるが、菊川の里はこれで終わりである。
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四郡橋には「小夜の中山」への表示板がある。
ここを左折して車道を横断し、目の前の石段と石畳を登ると、いよいよ小夜の中山への道である。
樹木が茂ったところを過ぎると、正面に鉄塔がある明るいところにでたが、道の傾斜は半端ではない。
我慢して歩いて行くと平らなところに出た。 大井平というところだろうか?
しばらく尾根のような道を歩く。
下を見ると絶景で、下に向かって茶畑が果てしなく続いている。
向かいあう山の傾斜にも茶畑が展開し、茶畑にアクセントをつけているのは、点在する林や数本の樹木である。
持参したお茶をのみながら、しばしの間、これらの景色を眺めていた。
しばらく歩くとまた、上り坂になる。
右側に島田市と掛川市の境を示す道標があり、「菊川」と「日坂宿」の表示があった。
手前は島田市佐夜鹿、その先は掛川市佐夜鹿である。
茶畑の間の急激な坂道を登り続けると、十六夜日記を著した、阿仏尼の歌碑があった。
「 雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月 」
( 雲がかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。 ) という意。
この先も上り坂は続き、しばしの間、あえぎながら上る。
左側に最近建てられたと思える衣笠内大臣の歌碑があった。
「 旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり 」
(注) ここであらしとあるのは木枯らしのこと。
「 衣笠内大臣は、衣笠家良(きぬがさいえよし)で、父は 正二位大納言忠良、母は大納言藤原定能の娘である。
若くして藤原定家の門弟となり、後鳥羽院や順徳天皇の内裏歌壇に参加。
弘長二年(1262)には、続古今集の撰者の一人に加えられたが、完成以前に没した。
彼の京嵐山にあった別荘が後年、地蔵院となり、紅葉の名所になっている。 」
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両側に数軒の家があるところで、小夜の中山の上りは終わった。
その先にT字路があり、直進すると久延寺、右折すると「小夜の中山峠」とある。
右折すると左にぐるーと回りこんだみたいで、左側に久延寺に入る道があった。
久延寺は真言宗の寺院で、正式名称は佐夜中山久延寺である。
木が茂る草むらにある「茶亭址」の石柱が、山内一豊が家康をもてなした跡の痕跡を残していた。
「
本尊の聖観音像は、殺された子供を育てたということから、「子育て観音」と呼ばれている。
掛川城主・山内一豊が、関ヶ原に向かう家康をもてなした寺として知られ、
江戸時代、ここを通る大名は寺をおまいりするか、駕篭の戸を下ろして、会釈して通り過ぎた、と伝えられる。 」
久延寺で有名なのが夜泣き石で、それにまつわる話が残る。
「 小夜の中山に住むお石という女が菊川からの帰りに街道の丸石の横で腹が痛くなった。 通りがかりの轟業右衛門が介抱するが、お石が金を持っているのを知り、彼女を殺して金を奪ってしまう。 懐妊していたお石は子供を産み落とすと息絶えたが、お石の魂は丸石に乗り移り、夜毎に泣いたため、 里人はおそれ、誰いうともなく、夜泣き石と呼ぶようになった。 子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ、立派な若者になり、大和国の刃研師の弟子となった。 そこへ轟業右衛門が刃研にきたとき、刃こぼれがあったので聞いたところ、 「 去る十数年前、小夜の中山の丸石付近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ。 」 と言ったので、母の仇とわかり、名乗りをあげ、恨みをはらした。 その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し、石に仏号を刻み、立ち去った、という。 」
芭蕉が野ざらし紀行で、小夜の中山で詠んだ 「 馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 」 の句碑が庭の一角に建っていた。
扇屋では、和尚が子供を育てるときなめさせたという子育飴を売っている(土日曜日のみ営業?)
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その先左側にある「小夜の中山公園」の入口に、一般的な歌碑と違う大きな西行法師の歌碑があった。
「 年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山 」 という歌が刻まれていた。
「
西行法師が文治弐年(1186)、六十九歳の時、再び当地を通った。
出家して全国巡礼に出たときと違い、今度は死出の旅になるかもしれない旅で、
この険しい山道を差し掛かった感慨がよくあらわれている歌である。 」
ここから日坂宿までは坂道を下っていく。
左側の木立の中に江戸から五十四番目の「佐夜鹿一里塚跡」の石柱が建っている。
奥の土手には古くなったもう1つの石柱があった。
その先には蓮生法師の歌碑があった。
「 甲斐ヶ嶺に はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山 」
蓮生法師は源平の戦いで有名な熊谷次郎直実で、蓮生は法然のもとで出家した後の法名である。
少し行くと三叉路で、東海道は直進であるが、 道の左側に階段があり、薄暗い中に鎧(よろい)塚があった。
「 建武弐年(1333)、中先代の乱の際、北条時行の一族・名越邦時は、
京都へ上る途中、この地で今川頼国と戦って壮絶な討ち死にを遂げた。
敵将の今川頼国が名越邦時の武勇をたたえてここに葬ったのが鎧塚である。 」
中先代の乱とは、北条高時の遺児・北条時行を擁した諏訪頼重らの挙兵に始まる戦乱のこと。
先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に、北条氏が一時的に鎌倉を制圧したことから「中先代の乱」と呼ばれる。
茶畑に挟まれた坂道をどんどん下って行く。
その先にも 「藤原家隆朝臣」 や 「芭蕉」 の歌碑がある。
「 ふるさとに 聞きあらしの 声もにず 忘れ人を さやの中山 」 (藤原家隆朝臣)
「 道のべの 木槿(むくげ)は 馬に食はれけり 」 (芭蕉)
( むくげの花を馬の上から眺めていると、あれよという間に、その花を馬が食べてしまったよ。 )
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歌碑が並ぶ道を下っていくと右側に「白山神社」があった。
ここに「夢舞台東海道 小夜の中山 白山神社 」の道標があり、
「 日坂宿まで十四町(約1600m) 」 とあった。
道は尾根道のようになり、両側の茶畑の方には石垣が組まれて高くなっていた。
(注)小夜の中山は平安時代から多くの歌人の歌の題材となったらしく、この先にも歌碑がいくつかあったが、紹介は省略。
白山神社から三百五十メートルほど歩いた石垣の上に、丸い石に「馬頭観音」が刻まれて、祀られている。
さやの中山に現れる怪鳥を退治するため、京から下ってきた三位良政卿の馬を葬ったところという。
そこから二百メートル程歩くと、右側に「妊婦の墓」と呼ばれる墓があった。
良政卿の娘、小石姫が、嫌な結婚を前に松の根元で自殺した後、葬られた場所と伝えられるもので、
小石姫の霊がそばの松に留まり、松籟(松に吹く風音)となって、旅行く人々に哀切の情を誘った、といわれる。
その先の左側に「涼み松広場」という石柱があり、松の木の下に芭蕉句碑が建っていた。
「 命なり わずかの笠の 下涼み 」
芭蕉がこの松の下でこの句を詠んだため、この松を涼み松というとあった。
ここには芭蕉の 「 馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 」 の句碑もあった。
その先は少し下がり、また、平らな道という具合である。
その先の左側に「夜泣石跡」の標柱と説明石があった。
「 夜泣石は明治元年までこの場所の道の中央にあったが、明治天皇の東京行幸の際、道の脇に寄せられ、 その後、東京の博覧会に出品された後、国道一号線の小泉屋脇に置かれた。 一号線の石には、南無阿弥陀と刻まれている。 」
久延寺で見た石はなにか? 久延寺の石はここを掘り返したとき、現れたものらしい。
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その先の民家のところで、道はストーンと落ちる感じの急勾配になった。
車で下るのは怖いという感じなので、江戸時代、馬に乗った人は下を見てすくんだのではないだろうか?
このあたりは沓掛という地名だが、昔の旅人は草鞋をここで履き替え古いものを木に掛けたことが語源である。
下り続けると急勾配のまま曲がりくねった道になるが、二曲がりと呼ばれるところである。
左手に日乃坂神社があるが、寄らないでそのまま下った。
やがて目の前が開け、向こう側に国道1号の高架橋を走る車が見えてきた。
坂の終わりの石垣と石の水路があるところは、江戸時代、坂口町と呼ばれていたとあるが、
両側は茶畑で民家はなかった。
坂を下りきると日坂宿で、金谷から始まった長く厳しい坂道の旅は終わった。
安藤広重は「小夜の中山の道」が印象深かったようで、広重の浮世絵・日坂宿は、
宿場を描かないで「夜泣き石付近」を描いている。
「 日坂宿は小夜の中山峠の西の入口にあたるので、西坂、入坂などとも呼ばれたという。
日坂宿の宿場の長さは六町(約700m)で、
天保十四年(1843)の宿内人口は七百五十人、家数百六十八軒、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が三十三軒、と東海道の中では坂下宿、由比宿に次いて、三番目に小さな宿場だった。 」
苦しかった坂道が終わり、国道1号線のガードをくぐると広い道にでた。
バイパスができるまでは国道1号として交通量が多かったが、今はたまに走ってくるという程度の道に変わっていた。
道を越えると右側に入る道があり、下り坂になっている。
ここを下ると、日坂宿上町で、日坂宿の江戸側の入口に到着した。
この区間は坂道が多いので喉が渇く。
これから歩かれる方は途中に自動販売機もないので、飲み物だけはしっかり持たれることをお勧めしたい。
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道の右側に「秋葉山常夜燈」が祀られている。
安政三年(1856)に建立されたものが老朽化したので平成十年に復元したものである。
日坂宿は火災が多かったので、火防の神様を祀る常夜燈をここ以外にも相伝寺と古宮公会堂脇と合計三つ建てた。
日坂宿の大きな案内板の脇には、静岡県が建てた「夢舞台東海道・日坂宿本陣跡」の道標があった。
大きな案内板があるところをぐるーと行くと門があり、「日坂宿の本陣跡」と表示されている。
「 江戸時代には扇屋(片岡家)が本陣を営んでいたが、 明治三年の東海道制度の廃止に伴い廃業となった。 その建物は四つ辻小学校の校舎として利用されていたが、今は日坂幼稚園になっている。 」
本陣の先の道を挟んだところに問屋場があったようである。
かつての宿場町を意識してか、各家の前に宿場町時代の屋号の看板を出していた。
街道沿いの家並みは江戸時代の町割りがほぼ残っているので、江戸時代の屋号と現在の住居とがほぼ一致するというから驚きである。
その先で、道は逆くの字に曲がるが、両側に古い家が残っていた。
右側の家は江戸時代、池田屋という名で旅籠を営んでいた家で、現在は末広亭という名で旅館、割烹、仕出し屋をやっている。
その隣の雑貨屋・山本屋は脇本陣黒田屋の跡である。
脇本陣はしばしば代わったようで、大沢富三郎が営む黒田屋が最後の脇本陣だったようだが、
明治天皇は明治二年と明治十一年の二回、この宿で小休止をされている。
道は左にカーブするが、右側の古く立派な家は宿場で最後の問屋役を務めた伊藤又七郎邸である。
説明板
「 文久弐年(1862)の宿内軒並取調上帳によると、
伊藤家は文七の営む「藤文」と吉右衛門が営む「かえで屋」に分かれていたようで、
藤文の建物が江戸末期、かえで屋の建物が明治初期に建てられたものである。 」
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その先に法讃寺がある。
その先の右側には旅籠を営んでいた萬屋の建物がある。
説明板
「 嘉永十五年(1852)の日坂宿の大火で焼失後、安政年間(1854〜59)頃、再建された建物である。
間口四間半、奥行七間半の建物で、旅籠としては小さな部類に属する。 」
宿場の中は道が曲がりくねっているが、川坂屋の前からは下り坂になった。
奥の方に国道1号のバイパスが見えるが、左側の建物が川坂屋である。
説明板
「 大阪の陣で深手を負った武士が手当てを受けたこの宿に永住し、
その子孫の問屋役を務めた斎藤次右衛門が始めた、という旅籠である。
この建物は嘉永十五年(1852)の日坂宿の大火後再建されたものだが、
文久弐年(1862)の宿内軒並取調上帳によると間口六間、奥行拾三間で、敷地は三百坪ほどあり、
前述の萬屋よりかなり大きい。 精巧な木組み、細かな格子、床の間付きの部屋、
当時禁制だった檜材を用いていることは身分の高い武士や公家が宿泊した格式の高い旅籠だったことを意味する。
明治の要人の山岡鉄舟、巌谷一六、西郷従道などの書が残ることから、
明治に廃業後も要人には宿を提供していた、と思われる。
敷地は国道の工事の都度削られて、小さくなった。 」
その斜向かいの相伝寺には日坂宿の三つの秋葉常夜燈の一つが祀られている。
これは天保十年に建立されたものである。
境内には石仏群があるが、石仏は道路工事などで置けなくなったものをここに集めたように思えた。
寺の前に復元された「高札場」があった。
逆川橋があるが、江戸時代、ここが京方の宿場の入口だった。
説明板
「 宿場には外部から侵入を防ぐため、鉤型(枡形)を設けるか、大木戸を建てる場合が多いが、
日坂宿の場合は宿場が小さいこともあり、この小さな逆川の橋がそれだった。
当期の川はもっと狭かったようで、かけた木橋を外すことでその役を果たしていた。 」
日坂宿の下木戸は小さな橋だったわけで、日坂宿はここで終わる。
現在の日坂は掛川市日坂で、東海道本線は小夜の中山を敬遠して迂回し、
国道1号もバイパスが出来て、通る車もなくなり、陸の過疎化が進んでいるようである。
日坂宿への交通手段はJR東海道本線掛川駅より、掛川バスサービスのバスで約30分であるが、
朝夕を中心に一日8便しかない。
従って、この区間を歩くには体力と時間により、島田からか金谷からを決めて、掛川まで歩いた方がよいだろう。
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午後3時、日坂宿に別れを告げ、逆川に架かる古宮橋を渡り、掛川宿に向かった。
今日は島田から金谷宿、日坂宿を経て掛川まで歩く予定で朝早く出発したが、既に十五時を過ぎたなので、
少しペースを上げないといけないだろう。
左側の民家の前に「書家成瀬大域出生之地碑」があり、 「 成瀬大域は文政十年(1817)の生まれ、明治天皇に書を献上し、楠正成愛用と伝えられる硯を賜ったことから賜硯堂という号を持つ。 硯は掛川市二の丸美術館で保管されている。 」 と書かれていた。
右側に若宮神社の木の鳥居と秋庭山常夜燈があった。
草むらには、「夢舞台東海道 日坂宿宿場口」の道標があり、 「 掛川まで6.7q 」 とあった。
東海道はその先の事任八幡宮前交叉点で、県道415号(旧国道1号)に合流した。
東海道はここから掛川宿まで一部旧道の残るところがあるが、ほとんどは県道を歩かねばならない。
目の前に見える横断歩道橋の左側は小高くなっているが、そこには事任八幡宮がある。
事任八幡宮の「事任」は「ことのまま」と読む神社である。
事任八幡宮の社伝
「 神社の創建時期は定かではないが、延喜式神名帳には己等乃麻知神社として記載されるが、
現在の祭神の中の玉依姫命が己等乃麻知比売命と考えられる。
大同弐年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命により、
北側の本宮山から現在地へ遷座させた、と伝えられる。
康平五年(1062)、源頼義が、京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請したのちは、
日坂八幡宮や八幡神社と称された。
徳川幕府は朱印高百石余りを献上している。 」
横断歩道橋を使って境内に入り、大きな鳥居の先の石段を登ると、事任八幡宮の社殿があった。
清少納言の枕草子に、「 社はことのままの明神いとたのもし 」 とある。
鎌倉時代、ここを通った「阿仏尼」も、十六夜日記の中で、
「 ことのままとかやいふ社のほど、もみじいとおもしろし 」
と記しているので、事任八幡宮は京都まで知られる存在になっていたようである。
江戸時代に入ると、東海道の道筋にあり、難所の小夜の中山の西側の麓にあることと、
神社名が 「 願い事が意のままに叶う 」 という意味を持つことから、
旅の安全や願い事成就を祈るため、大名を始め多くの旅人が立ち寄り、かなり賑わった、といわれる。
境内は樹齢千年といわれる杉の大木など、鬱蒼した樹木に囲まれていた。
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街道に戻り、しばらく県道を歩くと、バイパスする国道1号が目の前に。
国道1号の向こうに見えるのは雌鯨山(めくじらやま)である。
古来、雄鯨山と雌鯨山が一対になって有名になっていたが、雄鯨山(おくじらやま)は農地事業で削られて、
今は畑になっていた。
国道1号を越えると、八坂橋バス停があり、道の左手には逆川が流れている。
その先には塩井神社の木の鳥居がある。
鳥居は道に面しているが、社殿は石段を下り川を渡った向こう側にあった。
横断歩道橋の先で道は二つに分かれる。
右側は県道415号、左側は県道250号で、旧東海道である。
道の左側に「夢舞台東海道 塩井川原」の道標が建っている。
道は右にカーブする。 このあたりは古い家が多く残っている。
右側の塀がある屋敷の前に、「俳人伊藤嵐牛翁出生地」の碑があった。
子孫の方が倉を改造して美術館にしているようだった。
説明板
「 伊藤嵐牛は、幕末、遠州で活躍した芭蕉の流れを汲む俳人で、
鶴田卓池に入門し浜松から静岡まで三百余人の門人を養成した俳人である。 」
その先の「東名高速道路菊川入口」の表示の下に「福天権現大○」とある古い石碑があった。
石碑は途中で折られたのか金具が嵌められていて、下の方がコンクリに埋まって○の部分が読めなかったが、
裏には、寛保二 日坂町連・・・、 とあった。
三十メートル程先に、江戸から五十五番目の「伊達方一里塚」がある。
これは明治三十三年に取り壊されたのを平成七年に復元したものである。
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三叉路は直進し、百五十メートルほど歩くと、県道415号(旧国道1号)に合流。
県道を歩き、さかがわ幼稚園と東山口小学校のところで、左に入る細い道に入る。
東海道は、諏訪神社という古い神社の前を通り、白子観音を通り過ぎると、旧国道1号に再合流した。
県道を黙々歩くと、左側に「夢舞台東海道 本所」と書かれた道標があり、 「 掛川宿まで一里三町(約4.4q)」 とあった。
まだ一里以上あるのだ!! ここからは、かなり必死に歩いた。
県道415号には車が我関せずとびゆうびゆうと通り過ぎていく。 古い家もなく史跡もない。
見るものもないと道路の硬さもあり、足に痛みが感じられた。
県道に入って約二十分程歩いたところで、本村橋交叉点がある。
ここで左の道に入る。
左側に「庚申塔」の祠があり、右側に「夢舞台東海道 成滝」の道標があり、 「 掛川までは二十町(2.2km) 」 とある。
あと一踏ん張りである。
西山口小学校を過ぎた掛川農協西山口支所前に、古い道標があった。
「 道標には、「大頭龍大権現 福天権現 従是川崎道行程六里、 従是大頭龍大権現 福天大権現 」 と書かれていた。
川崎道は、掛川宿から川崎湊(現在の静波町)へ行く道。
また、大頭龍権現は菊川町加茂にある大頭龍神社のことだろう。
福天権現は同町西方の龍雲寺境内にある。 」
その先の信号交叉点を直進して、逆川に架かる馬喰橋を渡る。
掛川市葛川になる。
ここは江戸から五十六番目の葛川一里塚があったところで、それを示す標柱がある。
そのまま歩いて行くと歩くに比例して、民家や商店が増えてきた。
その先の新町バス停付近は三方向に道は別れているが、ここが掛川宿の江戸側の入口である。
掛川宿に到着である。
今日の島田から掛川の旅は途中で迷ったこともあり、掛川はかなり暗くなっての到着である。
なんとか歩くことができた。
掛川宿の探訪は次回に廻すことにして、今日はここで終了である。
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前回、掛川宿の江戸側入口で終了したので、JR掛川駅から、前回終了した新町バス停まで行き、
度を再開させた。
掛川宿は城下町であったので、城の防備のため、ここ江戸側入口から七曲りの道になっていた。
岸井良衛著の新修五街道細見には、
「 掛川宿は太田攝津守五万石の城下町だが、宿場を兼ね備えていた。
掛川宿の入口には新町の七曲りがあるのは城下町と宿場を兼ね備えていたので防備のためだったのだろう。
また、交通の要所でもあり東の入口から東南五里に相良があり、塩の道ともいわれた。
西のふたせ橋(現大池橋)は秋葉山に通じる秋葉街道との追分だった。 」 と書かれている。
また、手許の資料では 「 当時、葛川村と新町の境に掘割があり、橋を渡ると掛川宿に入る門があった。
江戸側の入口には「新町七曲がり」と呼ばれる鉤型(曲手)が設けられた。 」 とある。
葛川から新町に入ったところ、即ち、県道が狭くなったあたりが入口の筈だが、それを示す表示板などは残っていない。
しかし、地図を見ると、新町バス停の左側は枡形に地域が区画されているので、かってはそれにそって道があったと思われる。
今は新たな道になっているので、正確に辿ることはできない。
とちあえず行ってみよう。
県道が狭くなった先から、七曲りが始まる。
三つの道の左の細い道に入ると右側に「東伝寺」があり、そのまま進むと正面にモダンな建物の進学予備校がある。
その手前を右折し百十五メートル進むと民家の前に建つ常夜燈に突き当たる。
秋葉山常夜燈で左折し、五十五メートル進むとL字形になり、突き当たりはかねも茶工場である。
かねも茶工場で右折して、百六十メートル歩くとまたL字路になる。
ここを右折すると正面に案内板がちらと見え、左折する道が見えてくる。
五十五メートルの先に案内板はあるが、この枡形が七曲がりの終点である。
ここには「夢舞台東海道 掛川宿東番所跡」と書かれた道標が建っていた。
手前の右側には「塩の道」の道標が建っていた。
「 江戸時代には「木戸」と「番所」が置かれ、宿場に出入りする人を監視していたところである。
塩の道の道標には 「右菊川町 左森町」 と書かれている。
塩の道は相良町を起点し、信州の諏訪地方まで通じていた。
また、大須賀町から御前崎町に至る横須賀街道(海の東海道と呼ばれる)とも接していた。 」
道を進むと七曲がり入口で別れた県道に再び出るので、ここで左折して、
少し先の左側にある山崎デイリーストア前の十字路を右折する。
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大通りに出たら左折するが、このあたりは江戸時代には「札の辻」と呼ばれたところである。
仁藤信号交差点を越えると県道37号で、連雀商店街である。
この商店街は白壁の建物で町並みを統一しようとしている様子で、右側の掛川信用金庫も例外ではなかった。
「
東海道宿村大概帳によると、掛川宿は家数九百六十軒、宿内人口三千三百四十三人で、
本陣二軒、旅籠は三十軒とある。
古地図では信用金庫のあたりにご馳走場があり、その先に本陣と脇本陣、中町に入ると左側に問屋があり、
その先に脇本陣があったとされる。 」
連雀パーキングの一角に 「本陣跡」 の説明板が立っていた。
説明板
「 沢野三左衛門が寛永の始めから幕末まで本陣を務めた。
屋敷は総坪数四百五十七坪余、表間口十六間三尺三寸(約31m) あった。
度々火災に遭ったがその度に建て替えられた。
掛川は市街地の整備と道路拡張により大きく変化しているので、その場所は定かでないがこのあたりだろう。 」
この本陣跡の説明板だけで、その先の脇本陣や中町の問屋や脇本陣などの表示も建物もなく、 宿場を感じさせるものは何一つも残っていなかった。
宿場探索はあきらめ、掛川城に向かうことにした。
信用金庫まで戻ると、「大手通り」と書いた幟があり、その奥に城門が見えた。
道を進むと掛川城大手門に到着。
門をくぐると正面に「掛川城大手門番所」と書かれた建物があった。
説明板
「 江戸時代、大手門を入ると番所があり、城に出入りする人を厳重に監視していた。
嘉永七年(安政元年、1854)十一月四日の安政東海地震で倒壊したが安政六年(1859)に再建した。
明治初年、静岡藩士、土谷庄右衛門が居住用に譲り受け別の場所に移されたが、
市が寄贈を受けた後元の場所に移転、併せて、大手門も復元した。 」
左側の赤い幟がはためくのが「三光稲荷」で、大手郭の構内に祀られていた、とある。
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広い道に出ると道の右側に逆川が流れている。
その先には城壁があり、掛川城の勇壮な城郭が遠望できた。
緑橋を渡り、四脚門をくぐると、満開の桜と掛川城がマッチして大変きれいだった。
「 掛川城は、室町時代中期、文明年間(1469〜1487)に、守護大名・今川義忠が、朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられる城である。
永禄十一年(1568)の今川氏と徳川家康の戦いで徳川氏のものになり、
城代として家康の重臣・石川家成、康通親子が入った。
武田信玄は掛川城に近い牧之原台地に諏訪原城を築き、
さらに掛川城の南方の高天神城では武田と徳川両氏間の激しい攻防戦の舞台となったが、
掛川城は武田氏の手には落ちず、徳川氏の領有であり続けた。
天正十八年(1590)、家康の関東移封に伴い、豊臣秀吉は家康への備えとして、
忠誠心の強い山内一豊を掛川城の城主にした。
山内一豊は城の大幅な拡張を実施し、石垣、瓦葺の建築物、天守など近世城郭としての体裁を整えた。
江戸幕府の誕生で、山内一豊は土佐国に加増移封されると、家康の異父弟、松平定勝が入った。
その後、安藤氏、松平など藩主の交代が激しかったが、二十六代の藩主の居城となった。
嘉永七年(1854)の安政東海地震により、天守閣を含め城は崩壊してしまう。
二の丸御殿は、文久元年(1861)までに再建されたが、天守閣はないままだった。 」
掛川城の姿と形は、千代と一豊のTVドラマではないが、山内一豊によって整ったのである。
文久元年(1861)に再建された二の丸御殿は、国の重要文化財に指定されている。
今ある天守は平成六年(1994)四月に再建したものである。
街道(県道34号)に戻ると、交差点角の清水銀行は民家のような造りで、袖看板も江戸風である。
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道の続きを進むと、右側にある円満寺の山門は、「掛川宿蕗の門」と言われるものである。
「 掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門で、大手門、仁藤門などと二の丸につながる道筋にあったので小さいが重要な門だった。
明治五年(1872)に円満寺に移された際、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にした、と伝えられる。 」
下俣町バス停前に、右に入る狭い道があるので、その道に入るのが東海道である。
入るとすぐ、奥の山門脇に、「秋葉常夜燈」と「成田山遥拝所」と刻まれた石碑が建っている。
山門をくぐって入って行くと、医王山東光寺があり、不動堂があった。
寺の由来
「 養老年間(720年代)に、僧の行基により開基された真言宗の草庵で、
天慶の乱(940)後、将門等の首級をこの地に葬った時、
将門の念仏仏である薬師如来を寺の本尊として草庵に祀り、平将寺を建立した。
天文年間(1530年代)に曹洞宗に改宗し、東光寺になった。
その後、兵火で燃失したが、慶応三年(1867)に一堂を建てたのが現在の建物である。
また、千葉県の成田山新勝寺が将門を祀る寺であることから、
明治十年、新勝寺より不動明王の霊を勧請、寺の東側に不動堂を建立し、遠州で唯一の遥拝所となった。 」
寺の墓地を抜けた先の広場に、十九首塚がある。
昔は十九基あったが、時代を経て減ってゆき、将門のものと思われる大きな一基だけが残された、とされる。
この地、十九首(じゅうくしょ)地区には平将門にまつわる伝説が残っている。
伝説
「 平将門の乱を平定した藤原秀郷は、将門ら十九人の首級をもって東海道を上るが、
朝廷の派遣した勅使がこの地で首実検を行い、「 賊徒の首を都に近づけてはならない 」 という、
朝廷の命令を伝えたので、
秀郷はその首をこの地に埋葬し、十九基の塚を作った。 」
街道に戻り、少し歩くと右側からきた県道37号に合流する。
右側に水前池公園があり、その先に逆川が流れ、橋が架かっている。
掛川宿の京側の入口で、掛川宿はここで終わりである。
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