藤枝宿は江戸から数えて二十二番目の宿場で、歴代の城主が江戸幕府の要職を勤めた田中藩の城下町として、また塩の産地であった 相良に至る追分でもあった。
島田宿は東海道一の難所、大井川の渡し場を擁する宿場である。
川が増水して渡れなくなった旅人は、幾晩もこの宿場で足止めされた。
有名な馬子唄(まごうた)は このことを謡っている。
「 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 」
(ご参考) 岡部〜藤枝 6.7キロ 徒歩約3時間40分
藤枝〜島田 8.6キロ 徒歩約5時間30分
岡部宿の京側入口を過ぎると藤枝バイパスともいわれる国道1号線と交わる、内谷新田交差点に出た。
藤枝バイパスの下をくぐると、右側に「東海道横内」という標示があるが、ここから藤枝市横内である。
指示に従って右斜めの道に入る。 この道は県道81号で、旧東海道である。
この集落は江戸時代には横内村だった。
「 文禄三年(1594)、豊臣家臣・池田孫次郎輝利は、村民を指導して河川改修を行い、 白髭神社を祀ったのが横内村の始まりで、 江戸初期は天領(岡部領)だったが、宝永年間に田中藩領になり、享保二十年(1735)には、岩村藩領に変った。 」
集落に入ると、道の右側に 「従是岩村領 横内」と書かれた傍示杭(ほうじくい)が建っている。
「
岩村藩は美濃国岩村城を居城として、松平能登守が三万石の領地を有したが、
五千石が駿河に数箇所ある飛び地だった。
傍示杭は岩村藩領時代のものを復元したものである。 」
左手にある慈眼寺は慶長四年(1600)の開創という。
横内集落は町興しの一環として、民家の前に当時の屋号を掲げている。
橋の手前に「横内地区」の説明板がある。
「 仲町の右に入ったところには年貢米を保管した郷倉があった。
また、その先の橋場町の右に入ったあたりに岩村藩の横内陣屋があった。
享保二十年(1735)、岩村藩の松平乗賢が幕府の老中に出世したため、駿河に五千石の領地を受け、
駿河領十五ヶ村を治める役所として陣屋を設けたものである。
百三十五年間、十四代の代官が支配したが、年貢率が他藩より低く、温情ある治世を行った。 」
説明板の脇には 「横内あげんだい」と表示された、かがり火入れのようなものがあった。
「
毎年八月十六日に横内朝比奈川で行われる「 あげんだい」は孟宗竹の上部を割って籠を作り
その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などを入れたもので、
それにたいまつを投げ入れ早く火がつくのを競うものである。 」
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朝比奈川に架かる横内橋は、江戸時代には長さ三十二間、幅三間の板橋で幕府が掛替えを行った、という。
橋を渡ると川除地蔵を祀った小さな祠があった。
その先の道は狭い道であるが県道81号線で、そのまま進むと松並木が見えてきた。
仮宿交差点で、国道1号線に合流すると、横断歩道橋を歩き、左斜め前方の道に入る。
左側の松の木の先にある、「従是西田中領」と刻まれた大きな石柱は、田中藩領の傍示石である。
「
江戸時代、ここが駿河田中藩と岩村藩領との境だったので、それを示すために建てられた石柱である。
駿河田中藩は、藤枝宿東方の田中城を居城にしていたが、
藩主は譜代大名で幕閣に近いため、幕府が出来た前半期は、大坂城代、駿府城代などが交代する度に、
頻繁に替わった。
上野国沼田から入った本多正矩が藩主になってからは、本多家のまま明治維新を迎えている。 」
この先は鬼島集落で、二、三分も歩くと国道1号線へ合流してしまった。
左側に中古車を展示している店があり、その前の道路標識には「藤枝市八幡」と表示されていた。
その先で国道を別れて左の県道208号へ入り、少し歩くと右側の民家の前に松並木が現れ、その先の左側の木立の下にはお地蔵様が祀られていた。
道はその先で右にカーブしていき、黄梨川にかかる八幡橋を渡る。
その後、右側の川沿いに行く道が東海道で、
真っ直ぐいく道は御成街道と呼ばれていた道である。
「
御成街道は、元和弐年(1616)、徳川家康が狩りの帰路、立ち寄って食べたてんぷらがもとで亡くなったという話が残る田中城への道である。
田中城があったのは、藤枝市田中1丁目周辺で、現在は西益津小学校や中学校などが建っている。」
川のほとりにお地蔵様が祀られていた。
岡部宿の京側入口から四十分が過ぎていた。
両側の家をきょろきょろ探しながらいくと、左手のアパートのような建物の脇に「一里塚跡」の標柱があった。
鬼島一里塚は江戸から四十九里目である。
左側の家の庭に「東海道鬼島の建場」と書かれた石碑が建っていたが、
鬼島は岡部宿と藤枝宿の中間にあたるので、立場茶屋があったのだろう。
その先の鳥居と常夜燈を横目で見ながら通り過ぎると、
前方の右側に鬱蒼とした森のようなものが見えてきた。
森のように見えたのは須賀神社の一本の楠の大木だった。
楠の根回りは15.2m、樹高は23.7mの堂々たる大木で、県の天然記念物に指定されている。
その先は区画整理をしているのか、少し地形が変わっていたが、
正面にはカーマホームセンターとしずてつストアが見えた。
右側に見えた松並木に向かうと、「蛇柳如意輪観世音菩薩」の石柱と「史跡鐙ヶ淵と観音堂」の説明板があった。
水守の交差点の左側の道を歩くと県道381号(旧国道1号)に合流。
東海道は反対側の道を行くが、
ここには横断歩道がないため車を警戒しながら、道路を渡ることになる。
水守西公園前の道で、ここから二百メートルほど歩くと右側に松並木が現れる。
もう少しで藤枝宿に到着である。
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右側に成田山新護寺があり、道には成田山前のバス停があう。。
このあたりに藤枝宿江戸側の入口である「東の木戸」があったようである。
「 藤枝宿は江戸から数えて二十二番目の宿場で、
歴代の城主が江戸幕府の要職を勤めた田中藩の城下町として、
また、多くの街道が分岐する交通の要衝として栄え、塩の産地であった 相良に至る追分でもあった。
藤枝宿の天保時代の家数は千六十一軒、宿内人口は四千四百人以上と、大きな町だった。 」
島田信金を過ぎると商店の数も飛躍的に増えてきた。
頭上には 「サッカーのまち ふじえだ」 と書かれ、サッカーボールの形をした街燈が並んで立っていた。
江戸時代の宿場は「さわやか通り」というネーミングをつけた商店街に姿を変えていた。
成田山から十分ほど歩くと、本町三丁目の信号交差点に到着した。
江戸時代には交差点の左側に「大手木戸」があり、その先に「田中城」があった。
「 田中城址に行くには交差点を左折し、国道を越えて行くと西益津小学校と西益津中学校があり、ここが田中城があった所で小学校の前に「本丸跡」の碑が建っている。 」
交差点を越えた右側に本町交番があり、隣に下伝馬会館がある。
境内には大きな藤枝市の観光案内板と江戸時代後期に造られた大きな「秋葉常夜塔」がある。
公民館の奥には大黒天が祀られている祠があった。
道の反対側には養命寺があり、延命地蔵菩薩が祀られている地蔵堂があった。
江戸時代の町名は伝馬町で、寺の付近に伝馬を扱う問屋場があったが、その跡は確認できなかった。
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次の商店街は、「 藤の里 ふじえだ 」 がキャッチフレーズの白子名店街である。
「 徳川家康ゆかりの町 天正十四年(1586)八月十六日 白子町誕生 」 と表示され、説明板がある。
傍らの説明板
「 伊勢国(三重県)白子出身の孫三という人が興した町ということで、白子町という名が付いているが、
町の誕生には本能寺の変が係わっている。
本能寺の変で、信長が暗殺されたとき、徳川家康も上方に行っていた。
信長が殺されたという情報を得た家康はただちにその地を離れて、
鈴鹿を越えて伊勢国白子の浜にたどり着いた。
舟を出し家康を知多に送り静岡まで送っていったのが孫三である。
孫三は白子に帰ることが出来ず、そのままこの地に土着したが、
家康は助けられた恩に応え、彼が住む町は宿場に課せられた荷役は免除する旨の朱印状を下賜した。 」
白子町は御朱印のおかげで荷役を負担しないで、明治を迎えたというから、家康の威光は凄かったのである。
店のシャーターに地元小学校生徒が描いたサッカーの絵があった。
信号交差点を越えると長楽寺商店街であるが、ここにある長楽寺が町名になった。
やがて、右側にある「熊谷山蓮生寺」の前に出る。
「
蓮生寺は、熊谷直実が出家した後の蓮生法師からの命名である。
出家後の直実がここにあった屋敷に立ち寄ったのが起源、という。
山門は、文化八年(1811)、田中藩主の本多正意が寄進したものである。 」
寺の脇には「火防安全」と書かれた階段付きの大きな「秋葉山常夜燈」が建っていた。
その前に「夢舞台東海道 長楽寺町」の道標があり、 「 島田宿境まで二里九町(8.8km) 」 とあった。
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その先は「ちとせ通り」と名が変わった。
民家の一角に「秋葉山常夜燈」が建っていたが、江戸時代の町名は吹屋町なので、吹屋町の常夜燈だろうか??
次は上伝馬町商店街である。
これまで色々なところを訪れたが、二キロほどの距離にこれだけ多くの名の商店街があったという記憶はない。
左手の路地に松が見え、右側の家の壁に、大慶寺・久遠の松とある。
「 「 大慶寺は田中藩藩主の祈願寺で、この寺の二十五メートルの松は久遠の松と呼ばれ、 今から七百年前、日蓮上人が自ら植えた、と伝えられるものである。 」
藤枝宿の浮世絵に問屋場が描かれているが、その絵が店のシャッターに再現されていた。
「
上伝馬町には隣の川原町との境に近いところに「下本陣」と「上本陣」と呼ばれる二つの本陣があった。
本陣の隣あたりに「下の問屋場」があったようである。
脇本陣はなくてすんだということは親藩の田中藩の城下町ということで、
参勤交代の大名達が藤枝宿に泊まることを敬遠した、ということだろうか??
それはともかく、本陣も問屋場も示す表示板などなかったので、どこにあったかは分らなかった。 」
正定寺は江戸時代の川原町にある(現在は藤枝二丁目)寺院である。
本堂の前のクロマツは「本願の松」と呼ばれ、享保十一年(1730)、
藩主の本多頼稔が大阪城代になったのを記念して寄進したものである。
樹高六メートル三十センチ、枝張り東西十一メートル五十センチ、南北十四メートルもあるもので、姿が美しい松である。
この先は藤枝宿の西の木戸があったところで、瀬戸川にかかる勝草橋を渡ると藤枝宿は終わりになる。
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藤枝宿の「西の木戸」は川原町の瀬戸川あたりにあったとされるが、その跡は残っていない。
ただ、弁天地蔵という名の石仏は、祀られていた。
瀬戸川にかかる勝草橋をのんびりと渡る。
車の往来は激しいが、橋の上を歩く人はなく、時々自転車が通り過ぎるだけだった。
瀬戸川は大きな川なのに中央部に水溜りがあるだけで、水が全く流れていなかった。
橋を渡ると右側の金網で出来た柵の中に、「秋葉神社の小さな社」と「秋葉山常夜燈」、そして、
「東海道一里塚蹟」の石柱があった。
江戸から五十番目の一里塚である。
ここは公園として整備したようで、左側を降りるとトイレやベンチなどがあったので、トイレを利用した。
少しいくと駐車場の一角に「為善館跡」の石柱と説明板があった。
説明板
「 このあたりは旧志太村で、為善館は明治六年に創設された学校で、
志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区になり、授業が進められたが、
明治二十三年に青島尋常小学校が創立され、閉館になった。
建物も明治四十三年の瀬戸川大水害で流失した。 」
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蒲焼直売店丸天本店があり、弁当のようなものがあれば買いたいと思ったが、
道の反対側を歩いていたのでわざわざ寄ることはせずにそのまま歩いた。
すると、松並木が現れてきた。
その先で小さな「いながわはし」を渡る。
その先の民家の前に「岡野繁蔵出生地」の碑があった。
碑には 「 この人物は、戦前、裸一貫でインドネシアで商売を始め、
南洋のデパート王と呼ばれるようになった。 」 と書かれていた。
歩き続けると、また、松並木があり、その先に交差点のようなものが見える。
歩いて行くとやはり交差点で、国道1号線と交錯する青木交差点である。
この交差点は五叉路となっており、左右は国道1号線、直進は藤枝駅、右から二番目の細い道が東海道である。
ここから藤枝駅までの家並みは比較的新しい感じがする。
JR藤枝駅前はちゃんとした商店街になっていて、
藤枝宿の商店街より活気に満ち溢れる感じがした。
青木交差点から藤枝駅は約一キロの距離である。
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青木交差点に話を戻すと、
青木交差点の右から二番目の細い道が東海道で、この先一里山交差点まで残っている。
歩き始めてすぐの歩道の一角に「水準点」のマンホールを見つけた。
その先の民家の前には津島神社があった。 このあたりは南新屋地区である。
歩いて行くと道は右にカーブ、その左側に西友がある。
その先の信号交差点で左右の大きな道を横切ると、そこからは瀬戸新屋地区に変り、松並木が現れた。
交差点を二つ越えたあたりの道の左側に「田中藩傍示石蹟」の石柱があった。
この石柱は傍示石があった跡を示すものである。
傍らの説明文
「
田中藩傍示石とは 「従是東田中領(これより東田中領)」 と彫られた石柱で、
田中藩と掛川藩との境を示すものである。
岡部宿から藤枝宿への途中の鬼島集落で見た傍示石は「従是西田中領」と刻まれた本物であるが、ここのはその跡を示す石柱である。
鬼島に残る傍示石を含め江戸時代に建てられた田中藩の傍示石は、田中藩主・本多正意が家臣の書の達人・
藪崎彦八郎に書かせたもので、その見事さは旅で訪れた文人達を驚かせた。 」 とあった。
松並木が残る道を進むと、県道上青島焼津線(県道222号)に合流する手前の左側に、鏡池堂(六地蔵堂)がある。
お堂には駿河国百地蔵の一つの六地蔵が祀られていて、軒下には「渡辺崋山の揮毫」と伝わる額が掲げられていた。
敷地は駐車場のように広いが、県道に合流する隅の道路を背にした一面に六地蔵が彫り出された石像が祀られ、
その背後には双像道祖神のようなものとすっかり風化した古い石像が立っていた。
五十メートルほど先の右側の小道に「古東海道跡」の石柱があった。
説明板
「 少し上りの畑の畦道くらいの狭い道が江戸時代以前の東海道である。
ここから瀬戸山の上を通り内瀬戸の集落を通っていた。
江戸時代に入り、松並木の東海道ができた頃も大井川の洪水が山裾に寄せたときは旅人は丘の上の道を通った。 」
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少しいくと左側の狭い道の入口に「東海道追分」の石柱を見つけた。
説明板
「 瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、
東海道が六地蔵の所を通るようになったのは開拓が進んでからである。
それまでの東海道はこの碑から東へ竜太寺をまわり、前島境で初倉からの道と合して、
南新屋(五叉路)へ通っていた。
東海道が瀬戸新屋を通るようになって、この古道と分かれる角を追分と呼ぶようになった。 」
石柱の先の家は、道に面し障子戸が嵌め込めれていて、車が通る道では数少ない古い家である。
そのまま歩くと青島小学校前に松並木は残っていたが、周りは最近建てられた家ばかりである。
松並木の写真を撮りながら歩いて行くと、右手奥にゴルフ練習場が見える。
練習場の外垣の一角を右に入るとお堂があり、お地蔵様が祀られていて、その右側には庚申塔があった。
街道に戻り、十メートル歩くと右側のスズキ販売店前に、 「染飯(そめいい)茶屋蹟」 と書かれた石柱が建っていた。
「
染飯は強飯(こわめし)をクチナシの汁で染め、すりつぶして薄く小判型にしたもの。
クチナシは疲労回復にも効くといわれ、旅の携帯食として重宝されていた。
弥次さん喜多さんも食べたといわれ、瀬戸の茶屋名物になっていたものである。 」
傍らの説明板には
「 瀬戸の染飯は、東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から、
尾根の茶店で売り始めたといわれ、天正十年(1582)の信長公記にその名が記されている。
東海道が瀬戸新屋を通るようになってもここの茶店で江戸時代の終り頃まで売られていた。 」 とあった。
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道の反対側には 「市指定文化財 瀬戸の染飯版木」 の木柱があり、 「 染飯を売る時の包み紙に押した版木が石野家に残っている 」 とあった。
小道を挟んだ反対側には「千貫堤」の説明板が立っていた。
説明板「千貫堤」
「 寛永十二年(1635)田中藩主となった水野忠善が、領内を大井川の洪水から守るため、
下青島の無縁寺の山裾から本宮山まで約三百六十メートルに亘り、高さ三メートル六十センチ、
幅二メートル九十センチの堤防を千貫もの労銀を投じて造成したもので、千貫堤と呼ばれた。
昭和の土地改良事業でほとんどが消えたが、今も石野家の南側に四十メートルほど残っている。 」
小道を入った左側の農家の生垣が千貫堤の名残りだろうか?
続いて、道の右側に 「明治の学制発布後最初の公立小学校、育生舎跡」 の石碑があった。
その先でまた、松並木が現れたが、枝ぶりが貧弱なので、日除けにはならない。
少しいくと左側に 「田中藩領傍示石蹟」 の石柱があった。
ここは旧上青島村だが、田中藩領は横須賀藩領の下青島村と複雑に接していたので、その境界を示した傍示石である。
「従是西田中領」 と書かれた高さ三メートル程の石柱だったようである。
上青島に入ると松並木が残る中を進むが、ここの松は枝ぶりもよく、
東海道に相応しい堂々としてものである。
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道のすぐ左に、東海道本線が見えた。
酒樽が積まれているなあ!と脇をみると、杉玉が吊るされている。
右奥を見ると「喜久酔」という銘柄が工場に表示されていた。
後日、調べて見ると、静岡の地酒では評判がよいもの一つ、 とあった。
立ち寄ればよかったなあ!!
この道は青島焼津街道(県道222号)で、三軒屋のバス停を過ぎると道は右にカーブする。
道は狭い上、歩道がないので、車が来ると怖い。
東光寺谷川に架かる瀬戸橋を渡る。
橋を渡った右側奥に立派な祠があるので、中を覗くと、秋葉山のお札と石製の秋葉山常夜燈が入っていた。
ここには明治天皇が休憩したことを示す「小休止跡」の石碑が建っていた。
ここから先も松並木が残っている。
二百メートル程歩くと左側の道路側溝の先に、 「夢舞台東海道 藤枝市上青島の一里塚」 の道標があった。
「 藤枝宿境から一里五町、島田宿境まで二十九町(3.2km) 」 と書かれていた。
江戸から五十一番目の一里塚なので、日本橋から二百四キロ来たことになる。
隣の駐車場との境に、もう一つの「東海道(上青島)一里塚趾」の石柱があった。
一里塚から三百メートルほど歩くと右側に紳士服のあおやまが見えてくる。
東海道は一里山信号交差点で、国道1号線と合流した。
国道に入ってすぐ右側のエネオスを越えると島田市になり、
国道の標示「206q」にも、「島田市」と書かれていた。
道説島東交差点を過ぎ、左側の島田信金を横目で見ながら通り過ぎる。
やがて、六合の交番が左側に見えてくる。
交番の先にコンビニが見えたので、道を反対側に渡りコンビニに入った。
コンビニの中は涼しく心地よいので、しばしの休憩をとる。
アイスを食べ、さらに、カプチーノを飲んだ。 予備にお茶とパンを一つ買って出発した。
旧東海道はJR六合駅前の横断歩道橋の手前、島田市道説交叉点で右側の狭い道に入る。
ここから北は阿知ヶ谷地区である。
少し歩くと島田工業高校前のバス停があるが、車は人もほとんど通らない静かな道である。
五百メートルほどで旧道は終わった。
道説島交差点の先で県道381号(旧国道1号線)と合流する。
左の道を行くと道の三角形になった緑地帯に、
「夢舞台東海道 島田市道悦島」の道標があった。
そのまま歩くと左側の「茶の一言商店」の前に「昭和天皇御巡察之處」という石柱が建っていた。
明治天皇の石柱は各地に多くあるが、昭和天皇のは少ないと思う。
大津谷川にかかる栃山橋を渡った先の左側の民家前に、「栃山土橋」の説明板があった。
江戸時代にはこの橋が道悦島村と島田宿の境だったという。
説明板「栃山土橋」
「 この川は島田川とも呼ばれていたが、享保三年(1803)の道説島田宿書上書によると、
江戸時代は長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)の土橋で、橋杭には三本立て七組で支えていた。
土橋とは板橋の上に柴(しば)を敷き、その上に土を盛ったものである。 」
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栃山川を渡って少し行くと横断歩道橋があり、下に小さな川・監物(けんもつ)川が流れていた。
説明板
「 寛永十二年(1635)、島田宿は田中藩の預り所となった。
田中藩主・水野監物忠善は、栃山川以東の水不足に対応するため、灌漑用水路を造ることを計画し、
島田宿南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、栃山川まで水路を開削して流すようにした。
この水路を感謝の気持を込め、農民は監物川と呼び、
東海道に架かる幅三間、長さ二間の土橋を監物橋と呼んだ。 」
三叉路の御仮屋信号交差点に出た。
東海道は左側の直進の道、右にカーブする県道381号(旧国道1号)とはここで別れる。
交叉点手前の左側の草むらの中に 「夢舞台東海道 島田市島田宿」の道標があり、
「 金谷宿境まで三十三町(3.6km) 」 と書かれていた。
「
天保十四年の宿村大概帳によると、島田宿の家数千四百六十一軒、宿内人口は六千七百二十七人、
男子三千四百人、女子三千三百二十七人で、本陣が三軒、脇本陣はなし、旅籠は四十八軒である。
三島宿より家数も人口も多かった。
島田宿が盛況を極めたのは大井川の渡しがあったためで、男子は川渡人足、女子は島田女郎で代表される稼業に従事していた。 」
島田宿に入った訳だが、島田市は区画整理や道路拡張が行われたため、古い建物はほとんど残っていない。
新しい住宅が建ち並ぶ道を歩いて行くと、右側奥に島田商業高校があった。
信号交差点を越えた左側の島田信金七丁目支店の前に、「夢舞台東海道 島田市島田宿」 の先程と同じ道標があった。
これには 「 藤枝宿 宿境まで一里三十四町、金谷宿 宿境まで二十四町 」 とあったので、
御仮屋交差点から一キロほど歩いたことになる。
ギネスに登録されている世界一長い有料木橋は、明治になって架けられた蓬莱橋である。
信金の角を左折すると八百メートル先にあるのだが、先日の大雨で一部が流されたと新聞で報道されていたので、寄らなかった。
本通七丁目交叉点から県道34号になる。
本通六丁目の右側歩道に、「島田宿一里塚趾」の石柱があり、
道路側に 「川会所まで2.4km 栃山土橋まで1.3km 」 と書かれていた。
傍らの説明板「島田宿一里塚」
「 慶長九年(1604)徳川家康は、東海道の一里(三六町)ごとに塚を築かせました。
塚は五間四方(直径約九米)、上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。
島田一里塚は、天和年間(1681〜1684)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から五十里と記され、
北側の塚しか描かれていません。 幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅五間二尺で北側のみ、
塚の上には榎が植えられていたことが記されています。
島田宿史跡保存会 」
本通五丁目の閉鎖したジャスコ前に、刀の刃先をイメージした「刀匠島田顕彰碑」があった。
ここは義助屋敷跡で、この一門は代々同じ名前を踏襲して、明治に至るまで高い評価を得ていた。
説明石「島田刀鍛冶の由来」
「 島田刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約四百年間の歴史をもち、繁栄期には、
この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。
その系譜は、義助・助宗・広助を主流とし、作風は、相州風、備前風などのみえる業物打ちであった。
江戸時代になると、貞助系・忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもいる。
彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に
珍重された。 とくに、義助の「お手杵の槍」や、武田信玄所蔵という助宗の「おそらく造りの短刀」など、
刀剣史上に今なお名をとどめる秀逸な作品も少なくない。
紀行文や文芸作品・芸能にも島田鍛冶は取り上げられ、往時の繁栄ぶりと名声のほどがうかがえる。
また、室町末期に活躍をした連歌師・宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。
島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている。
昭和六十一年三月吉日 島田市 」
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「刀匠島田顕彰碑」の近くに、「問屋場跡」を示す石碑があった。
説明板「問屋場」
「 問屋場とは、宿場の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、
継ぎ立てを行う施設でした。
島田宿の問屋場の敷地は、間口八間(一四・五米)、事務所は間口五間半(一〇米)、
奥行五間(九・一米)の建物でした。
ここには長である問屋、その補佐役の年寄、事務担当の帳付、
人足や馬方の指揮をする人指・馬指と呼ばれた宿役人が月交替で詰めていました。
また、常備人足は百三十六人、伝馬は一〇〇匹で、このうち、人足三〇人と馬二〇匹は特別の場合に備え、
さらに不足とときは周辺の助郷村から補いました。 飛脚(御継飛脚)は一〇人が常駐し、
昼夜交代で御状箱を継ぎ送っていた。
島田宿史跡保存会 」
本通五丁目の交差点を越えたお店の前の小さな庭に、 「日本最初の私設天文台のあったところ」
というモダンな形をした石碑が建っていた。
このあたりは都市整備事業ですっかり様相を変えているので、以前に訪れた方はびっくりするだろう。
本通四丁目では左右に遊歩道があり、右側に入ったところに、 帯祭りの奴が踊り出す 「からくり時計塔」 がある。
島田宿の本陣は三軒で、京側から上本陣の村松九郎治、中本陣の大久保新右衛門、そして、下本陣の置塩藤四郎家がここにあったのである。
遊歩道を進み、車道を横断すると、「御陣屋」の説明板があり、その先に、御陣屋稲生神社があった。
説明板「御陣屋」
「 島田宿は天領(幕府領)、一時期、田中藩の預かり地などになった時期もあったが、
大部分は幕府から派遣された代官により管理されていた。
府中城主・徳川頼宣の代官、長谷川藤兵衛長親が、元和弐年(1616)に建てた屋敷が始まりで、
その子、藤兵衛長勝が、寛永十九年(1642)に幕府の代官職に任命され屋敷が御陣屋となり、明治まで続いた。
陣屋の北西(いぬい)の堤上にあったのが御陣屋稲生神社で、
陣屋の屋敷神として祀られ、年一回の祭礼には宿民にも開放され賑わった。 」
街道まで戻り、西に向かって歩く。
信号交差点を越えた右側の天野屋の角に、「本陣跡」の石柱が立っている。
ここは「中本陣」の大久保新右衛門宅跡である。
道の左側の静岡銀行の前には、 「俳聖芭蕉翁遺跡、塚本如舟邸趾」 の碑が建っている。
塚本如舟は通称孫兵衛といい、文禄頃、島田で庄屋を務めた名家で、俳人でもあった。
松尾芭蕉は、元禄四年十月、如舟の家を初めて訪れ、次の句を詠んだ。
「 宿かりて 名を名のらする 時雨かな 」
「 馬方は しらじ時雨の 大井川 」
更に、元禄七年五月、彼が最後の旅になる旅の途中、如舟邸に立ち寄り、大井川の川止めで四日間逗留した。
この時は、
「 さみだれの 雲吹きおとせ 大井川 」
「 ちさはまだ 青葉ながらに なすび汁 」
などを詠んだ。 また、塚本如舟と芭蕉の合作の句もある。
「 やはらかに たけよ今年の 手作麦 (如舟)
「 田植とともに 旅の朝 起○○ (芭蕉) 」
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道の右側のホテル三布袋の前にある「本陣跡」の石柱は「上本陣」の村松九郎治邸跡である。
本通二丁目交差点の手前右側の島田信金の角に「芭蕉の句碑」が建っている。
島田信金と島田茶組合などが建てたものだが、藤枝から島田そして金谷には多くの茶屋(茶製造業)がある。
「 するがぢや はなたち花も ちゃのにほい 」
本通二丁目交差点を左折するとJR島田駅に行ける。
島田駅前の公衆トイレの前に「宗長庵趾碑」と三つの句碑があった。
「 元禄年間(1688〜1704)に島田宿の俳人、塚本如舟が宗長の昔を慕い宗長庵を営み、
雅人たちと諷詠を楽しんでいたところで、元禄七年に松尾芭蕉も訪れている。
連歌師宗長は、文安五年(1448)島田に生まれ、宗祇(全国に連歌を広めた室町時代後期の人)に師事し、
連歌を学び、宗祇没後は連歌界の第一人者として活躍した人である。 」
一番右にあるのは宗長句碑で、 「 遠江国 国の山 ちかき所の 千句に こゑ(声)やけふ はつ蔵山(初倉山)の ほととぎす 」
とある。
真中と左の石碑は芭蕉に関するもので、真中は芭蕉翁を慕う漢文碑である。
その左は「芭蕉さみだれ古碑」で、
「 (さみ−欠)たれの (雲ー欠)吹きおとせ 大井川 」 というように上の部分が欠落していた。
本通二丁目交差点を越えて進むと本通一丁目交差点に出る。
左側角の石柱の道標は風化していてよく読めない。
渡船場や島田駅が出てくるから、明治以降のものである。
「 東 六合村境まで十八町十六間 青島町に至る
西 大井川渡船場迄二十四町六間 川根に通ず 南 島田駅迄一町 第一街青年会 」 と書かれているようである。
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交差点を越えると右側に大井神社の鳥居と社叢が見えてきた。
江戸時代には大井神社が島田宿のはずれだった。
「 大井神社は、島田宿の氏神として尊崇された他、 大井川川越の公家、大名、一般人が大井川渡渉の安全を祈願する為に立ち寄り、敬虔な祈りを捧げたのである。 」
鳥居前の燈籠は飛脚たちが道中の無事を祈って奉納した「道中飛脚燈籠」である。
鳥居前から続く石垣は、川越人足たちが毎日仕事後に河原から一つずつ石を持ち帰って積み上げたものである。
大井神社の由来書
「 大井神社は貞観七年、授駿河国正六位上大井神と三代実録に記載の見える古社である。
昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく、
大井神社を創建した。
幾たびかの御遷座の後、島田宿が東海道五十三次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、
元禄八年より御しんこいの神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、
日本三奇祭、帯祭と、讃えられるようになった。
明治に入ると政府の命令で、この地区にあった全ての神社が大井神社に合祀された。 」
燈籠のともる回廊を歩くと、 「大井明神」 と大きく書かれた額がある拝殿に出た。
既に十八時過ぎ夕日が沈みかけていた。
拝殿の奥の「本殿」は、文久三年(1863)の造営で、
名彫物師といわれた立川昌敬の彫刻が各所に刻まれているとあったが、覗きこんでも見えなかった。
拝殿を後にすると「清水祓いの神井戸」があり、その左には「大奴像」があった。
境内には二百八十年前の正徳三年に神輿が渡るために造られた石の「太鼓橋」や使用した帯を供養して納める「帯塚」などがある。
その先には帯祭りの姿をした写真撮影用のボードがあった。
「 島田大祭の帯祭りは、元禄八年から始まった大井神社の神事で、三年に一度、十月中旬の三日間行われる。
島田へ嫁いだ女性が氏子になったという報告と安産祈願で大井神社に詣でる時に晴れ着で町内を披露して歩いたのが始まり。
やがて、男たちが代理で、嫁入り道具の帯を飾って練り歩くようになった。 」
境内の燈籠に明かりが点ると、周りを薄暗く照らして、幻想的だった。
これで島田宿は終わる。
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