府中宿から丸子宿に向かう途中にある安倍川には橋が架けられなかったので、川越人夫により川を越えていた。
丸子宿の名物はとろろ汁で、東海道中膝栗毛にも登場する。
丸子宿と岡部宿の間には宇津ノ谷峠があり、平安時代には、「蔦の細道」と呼ばれた道が作られた。
岡部宿は山に囲まれた集落で、江戸時代の大旅籠・柏屋は歴史資料館になっている。
(ご参考) 府中〜丸子 5.6キロ 徒歩約2時間30分
丸子〜岡部 7.8キロ 徒歩約3時間30分
(注) 岡部からJR静岡駅 バスで30分。 藤枝駅にもバスが出ている。
府中宿の京側の入口があった,、新通りの川越町を過ぎると、弥勒町に入る。
信号交差点を越えた右側に交番があるが、これは江戸時代の「安倍川川会所」の跡で、
それを示す説明板が脇の歩道に立っていた。
説明板
「 安倍川は、東海道で架橋が禁じられた橋の一つで、川越人夫により、川を越えていた。
川会所は安倍川の両岸にあり、町奉行所から川場係同心二人が出張して警備監督に当り、
川役人が勤務して、川越人夫を指示したり、川越賃銭の取り扱いをしていた。
川会所は間口六間、奥行四間半で、五人位の裃を着た役人が詰めていた。 」
交番の先に、みろくポケットパークがあり、交番の裏に「架橋記念碑」が建っていた。
安倍川橋の建設の顛末を記したもので、明治四十一年に建てられたものである。
顛末記の要約
「 安倍川に最初に橋が架かったのは明治七年(1874)、
宮崎総五が多額の私財を投じて架けた木橋の有料(賃取)橋で安永橋という名だった。 」
ポケットパークには「由井正雪公之墓趾」と書かれた大きな石碑があった。
「 由井正雪は三代将軍、家光の逝去に伴う混乱に乗じて幕府転覆を図ろうとしたという容疑で、
慶安四年(1651)七月二十六日、駿府の府中宿梅屋町年寄・梅屋太郎右衛門方に宿泊していたところを
駿府町奉行・落合小平治の部下に囲まれ、同志と共に自刃したという事件で、慶安の変と呼ばれる。
安倍川畔にさらし首になったが、誰かの手でその首を寺町の菩提樹院に埋めたといわれる。
正雪の首塚とされる石塔が菩提樹院にあるが、
菩提樹院はその後、沓谷霊園に移転した際、首塚も一緒に移転している。 」
その先、新通りに面して、東海道夢舞台の道標があった。
静岡県が建てた、東海道夢舞台の道標は静岡市内では見なかったので、久しぶりという感じだった。
道標の文面
「東海道夢舞台 静岡市弥勒 府中宿の境から二町(0.2km)、丸子宿境まで十六町(1.8km)」 とある。
また、
「 この辺りは江戸時代には河原だったところであるが、
弥勒町という町名は慶長年中に安倍川左岸に山伏が還俗し開いた弥勒院という寺に由来する。
山伏が河原で売った餅が安倍川餅の始まり。 」 と書かれていた。
夢舞台道標の右側に「明治天皇御小休止趾」の石碑が建っていた。
江戸時代にはここに立場があったので、明治天皇もそこで休憩されたのだろう。
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安倍川橋バス停の近くに、冠木(かぶき)門があり、説明板があった。
「 冠木門は静岡市制百十周年記念事業として開催された、 静岡葵博の会場に建てられたもので、 東海道宿駅制度四百年を記念して、府中宿の西の見附に近いこの場所に移築した。 」
東海道は右側からの本通りの道に合流する。
江戸時代には安倍川を臨んで、道の両側に茶屋が並んでいたといい、ここの名物が安倍川餅であった。
道の左側に石部(せきべ)屋という江戸時代から続く安倍川餅の店がある。
「
江戸時代初期、徳川家康が立ち寄った茶店で、
店主がきな粉を安倍川上流で取れた砂金に見立てて、つきたての餅にまぶし、献上したところ、
家康は大いに喜び、「安倍川もち」と名付けた、という伝承がある。
家康の話の真偽のほどは分らぬが、江戸時代中期にはすでに茶屋の名物として有名になっていたようである。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも、 「 ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり 」 と記されている。 」
石部屋の隣に安倍川川渡り人足にかかわる美談を記した「安倍川義夫の石碑」がある。
「
安倍川は、江戸時代、川渡り人足の手で渡るのが一般であったが、自分の足で渡る人もいたようである。
その美談は
「 紀州の漁夫が仲間とこつこつためた百五十両を懐に入れ、川を渡ろうとした途中で、
落としてしまう。 それを拾った川越人夫の喜兵衛は、財布をもって旅人を追いかけ、宇津ノ谷
峠でようやく追いつき、財布を返した。 漁夫は礼金を申し出たが、喜兵衛は当然のことを
しただけと受けとらなかったので、奉行所に預けて立ち去った。
奉行は礼金を喜兵衛に渡そうとしたが固辞したので、礼金は漁夫に返してその代わりにご褒美として代わりのお金を与えた。 」 というもの。
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その先にもあべ川もちやが二〜三軒あったが、すぐに安倍川橋に出た。
「 安倍川橋は大正十二年(1923)に英国の鋼材を使用して造られたもので、 今の橋は三代目で全長四百九十メートル、全幅は七メートルである。 」
歩道は左側にしかなく、歩いているのは私だけ。
すれ違う自転車は自分の方が優先する態度なのでこちらが避けなければならない。
橋の途中で安倍川を見ると、水が少なかったが、昨日降った雨のせいか濁っていた。
昔、川の上流で砂金がとれたとは思えない感じである。
けっこう長い橋だったが、歩道帯があったので安心して渡り終えることができた。
安倍川橋から鞠子宿までは1.8kmの距離である。
橋を渡ると安倍川橋西交叉点があり、その先は手越(てごし)集落である。
「 ここは「手越の里」と呼ばれ、平安から鎌倉時代にかけて、
旧東海道(鎌倉街道)の宿駅として栄えたところである。
また、平家物語の平重衡との悲恋の話に登場する「千手前(千寿の前)」は、手越の長者の娘と、
伝えられている。 」
千手前に関する史跡を見に寄り道をする。
交叉点から百メートルほど歩くと、右側に「心光院入口」と書いた看板がある。
右に入る狭い道を歩き、「心光院」への標示板がある分岐点で左側の小道に入ると、
奥の方に鳥居が見える。
そのまま入ると山に突き当たったところに、少将井神社があった。
「 少将井神社は、建久四年(1193)の建立と伝えられる古い神社で、素盞鳴尊が祭神である。
ここは手越長者の館跡とされ、 千手前の生誕の地 と伝えられている。 」
鳥居の脇には庚申塔があり、石段の上には「林葉山」 と刻まれた常夜燈がある。
自然石の上に金属製の社(やしろ)を載せたような珍しい燈籠である。
境内の左手奥には白拍子姿の「千手の前」の石像があり、謡曲史跡保存会が建てた説明板があった。
説明板「 謡曲 千手と少将井神社 」
「 源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、
源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
和歌、琴、書に秀でた千手の前の優しい世話に重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。
東大寺を焼いた重衝を奈良の僧は重い仏罰だとして引渡しを強要し、
再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。
嘆き悲しんだ千手の前は尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲・千手の生誕の地と伝えられています。 」
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境内には、覆いかぶさるように成長したクスの大木が多い。
これらの樹木に古い歴史を感じたが、
室町時代以後、東海道のルートが変り、宿駅が丸子(毬子)へ移ったことから、
手越宿は次第に衰えていったという。
街道(県道208号)に戻ると、道の左側に 「手越の灸」で知られる、臨済宗妙心寺派の高林寺がある。
寺史によると
「 手越の灸は、承応二年(1653)頃、人々の治療のため始められたものという。
寺紋は武田菱(たけだびし)で、武田信玄の家臣・一条信龍の三代目、松井正近による開基。 」 とあった。
その先右に入った先にも東林寺という「手越の灸の元祖」と名乗る寺院があった。
静岡手越郵便局の右側には、「君盃」という銘柄の造り酒屋・市川屋がある。
道を進むと国道1号線と合流する手前に、数本だけだが松並木が残っていた。
手越原信号交差点は五叉路になっている。
国道1号線に出たら、歩道橋を渡り、向こう側に出て、国道1号を岡部の方へ進む。
交差点から先は静岡市駿河区丸子1丁目である。
少し歩くと、佐渡<(さわたり)の信号交差点があり、東海道はここで左折する。
交差点の手前に横断歩道橋があり、道の反対側に行けるが、歩道橋を通り越し、
佐渡交差点まで行っても、左折することができる。
交差点を渡り、南に県道208号線に入って行くと、丸子宿に到着である。
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その先の右側、道路に突き出した「駿河国百地蔵第十番」の看板がある建物は、
子授地蔵尊を祀る地蔵堂である。
道の反対には 「夢舞台東海道 丸子宿」 の道標があり、その奥に佐渡公民館がある。
「夢舞台東海道 丸子宿」道標
「 府中宿境から二十一町(2.3km)、岡部宿境まで二里九町(9km) 」 と書かれていて、
「 丸子宿は鞠子とも麻利子とも書かれたようだが、宿場の始めは鎌倉時代である。
源頼朝が、文治五年(1189)、奥州平定で功があった、手越(てごし)平太家継に、
丸子一帯を与え、宿駅を設けたのが始めといわれる。
当時の宿駅はこの先の丸子川を越えたところにあったが、
江戸時代に入り、東海道のルート変更で丸子川の手前に変えられた。 」 とある。
佐渡公民館の左側には、万葉仮名で刻まれた 、さわたりの手児(てご)万葉歌碑 があった。
江戸時代佐渡村だった地区の人達が、地名が丸子一丁目に変ることを惜み、歌碑を建設したものである。
万葉歌碑の上部には、万葉集巻第十四あずま歌から佐渡にかかわる歌を万葉仮名で書き、
下部には 「 さわたりのてごに い行き逢い 赤駒が あがぎを速み こと問はず来ぬ 」 と記され、
「 佐渡の美しい少女と道で行きあったが、私が乗っていた赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさず来てしまった。 」
という解説があった。
県道を丸子の中心部に向ってしばらく歩くと、道は右にカーブしていく。
川を渡り、丸子三丁目のバス停がある三叉路を直進する。
左側に静岡銀行やバスの営業所と車庫があり、両側は商店街になっている。
商店街を過ぎると左側に長田西小学校があり、学校前に東海道の名残りと思える松があった。
その先の右側の道脇に小さな石柱があり、道路に向って 「いちりづかあと」 と刻まれていた。
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少し行くと左側の菓子屋徳栄堂の前で、道幅が半分になる。
「 丸子宿の江戸側見付は枡形になっていた、とあり、丸子宿の長さが東西七町(七百七十メートル)なので、 丸子宿のの入口はこのあたりにあったのではないだろうか? 」
その先の右側にはかなり古い家があり、対面の小高いところに、水神社があった。
水神社の隣の家の先は道に沿って石垣になっていて、上り口に馬頭観音が祀られていた。
このあたりには古い家も残っているのだが、道幅はせまいのに車が多いので、
のんびり見ていられないのが残念である。
道が右にカーブすると左側の民家の一角に 「明治天皇御小休止趾」の碑が建っていた。
明治天皇が明治元年の東京遷都の折りに立ち寄った脇本陣の跡である。
「
丸子宿は、日本橋から二十番目の宿場で、府中宿から一里十六町(約5.7km)、
西は宇津ノ谷(うつのや)峠を越えた岡部宿まで二里(約8km)のところに出来た宿場である。
丸子宿は江戸幕府の慶長六年(1601)の東海道開設の際、丸子川の東側に移されたのは、
元宿の地が狭いことや安倍川を渡ることを考えのことだろう。
東海道宿村大概帳には、宿内の家数二百十一軒、宿内人口は七百九十五名、とある。
山越えや川越えを控える場所なので、かなりの需要が望めそうに思えるのだが、旅籠は二十四軒と多くない。
府中が東海道屈指の大都会なため、そちらに泊まる人は多かったからである。 」
脇本陣から五十メートル程歩くと、右側の民家前に「史跡丸子宿本陣跡」の石碑が建っていた。
ここは、横田本陣の跡で、右隣の二軒の古い家のあたりに、問屋場があったようである。
五十メートル歩くと右側に「明治天皇御小休所阯」の碑があった。
藤波脇本陣の跡で、明治弐年、明治天皇が立ち寄られたところである。
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その先右側のお茶製造業の家前に「お七里役所」の石柱が建っていた。
由比宿にもあったが、紀州藩が設けた「お七里役所」という、紀州藩専用の飛脚が駐在した場所である。
少し歩くと、左側に茶屋松福園がある。右側には駐車場が設けられており、御土産屋がある。
店の左側の植栽の中に 「清酒 千寿白拍子」 の説明板があった。
「 白拍子だったといわれる千寿の前は重衡処刑後は尼となり、磐田に住んで重衡の菩提を弔った。
その故事にちなんで名付けられた酒の宣伝で、一生懸命読んだ後で、宣伝だと分った。 」
看板裏にある芭蕉句碑には、 「 梅わかな 丸子の宿の とろろ汁 」 と刻まれていた。
その先には駿府築城時に切り出された石の残りという「辰石」や「馬頭観音」がある。
その右側に「十返舎一九の碑」がある。
十返舎一九の東海道中膝栗毛では、弥次喜多がここに立ち寄り、夫婦喧嘩のどたばた騒ぎに巻き込まれ、
「 けんく(喧嘩)する 夫婦は口をとがらして 鳶(とんび)とろろに すべりこそすれ 」
という狂歌を詠んでいる。
となりの茅葺き屋根の家は、広重の東海道五十三次の浮世絵に 「 丸子、名物茶屋 」 として登場する 「とろろ汁の丁子屋」 である。
「
慶長元年(1596)の創業から四百年以上にわたりとろろ汁をだしてきた老舗で、現在の店主は十三代目という
( 営業時間 11時から19時ー木曜日は休み)
半自動の戸を開けると、土間で椅子席になっている。
畳の方がよいというと案内されたのは大広間で、鴨居には東海道五十三次の浮世絵が架けられていた。
メニューからマグロの角煮が付いたとろろ定食を頼んだ。
七月末の平日とあって、団体客もなく、思ったより早く出てきた。
とろろ汁は自家栽培された自然薯をすりつぶして出汁で薄めたものだが、
他と違うのは白味噌を隠し味にしていることという。
それを麦飯の上にたっぷりかけていただくのだが、
付いてきたあさつきのきざんだものをかけて食べたのが一番うまかった。
お櫃の飯と出されたとろろを平らげて終了した。 」
丁子屋の前の川のへりに 「夢舞台東海道 静岡市丸子宿」 の道標がある。
道は二又に分かれているが、ここは丸子宿の西のはずれである。
右側の道の十メートル先に松の木などが植えられているポケットパークがあり、細川幽斎の歌碑があった。
「 人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして 」
「 細川幽斎(藤孝)は戦国時代の武将で、肥後細川藩の始祖、細川忠興の父であるが、 古今伝授を授けられた有名な歌人でもあった。 天正十八年(1590)三月八日、豊臣秀吉の小田原攻略の先陣として、うつの山路を越えてここに差し掛かった時、 地元の人が 「 まりこ川 」 というのを聞いて詠んだ歌といわれる。 」
東海道は左側の丸子川を渡る道で、丸子橋を渡ると丸子宿は終わりである。
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丸子橋を渡り県道208号線を進むと右側に「丸子元宿高札場緑地」という標柱があり、 高札が沢山建っていた。
「
ここは、文治五年(1189)、地元の豪族・手越平太家継が、源頼朝から奥州平定で功があったとして
丸子一帯を与えられ、丸子宿を設けたところで、このことは吾妻鏡に記述がある。
室町時代の連歌師の宗長は、 「 丸子という里は家五、六十軒、京鎌倉旅宿なるべし 」 と書いているので
ここに宿場があったことは間違いない。
しかし、江戸時代の始めに東海道が変更され、川向こうに丸子宿が移ったことから「元宿」と呼ばれるようになった。 」
左側には段々になっている茶畑が拡がり、集落には古い家が多く残っている。
国道1号線の向こう側に見える山は丸子城跡のようである。
しかし、そうした光景も束の間。 川沿いには昭和の遺物のモーテルが並ぶ。
それを無視して歩いて行くと、左側に「元宿山大日如来登山口」と書れた狭い道がある。
その道には入らず、そのまま道を進むと、二軒屋公民館の隣に観音堂があり、境内には庚申塔が建っていた。
二軒屋交差点で国道1号線と合流。 丸子橋から1キロメートルくらいあっただろうか??
ここで少し寄り道をする。
交差点を右折し、国道を越えると右側に大きな看板があり、 「 ようこそ大鈩!! 」 と、書かれていた。
右側の小高いところが丸子城のあった山である。
橋を渡って五百メートルほど行ったところに「誓願禅寺」というお寺がある。
「
永禄十年(1567)、連歌師の里村紹巴(じょうは)が、柴屋寺への道を間違えて訪れた寺である。
、
境内には大阪落城直後に駿府で没し、この地に葬られた片桐且元夫妻の墓がある。 」
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街道に戻り、国道1号線を進み、舟川交差点の「長源寺入口」の矢印がある所で、左側の細い道に入った。
少し行くと道の左側に「長源寺」の案内と「起樹天満宮」の石柱があった。
中に入ると鳥居の奥に、源頼朝ゆかりの起木天神が祀られていた。
「 菅原道真を祭神とすることから、古来、神域に紅梅が多く、 「赤梅ヶ谷」といわれたのが赤目ヶ谷に変ったといわれるところである。 」
赤茶色の大きな石で造られた丸子赤目ヶ谷起木天神碑には
「 風は松声をとどめて静かに、山はそう馬を含んで渕(ふか)し 」
と漢文で書かれた詩が刻まれていた。
その隣に 「 日本近代茶業之先駆者 多田元吉翁碑 」 がある。
多田元吉の名前は初めて目にしたが日本の茶業の先駆者だったようで、
「 幕臣だった多田元吉は、明治維新後この地を開墾して茶を植え
、更に茶の研究のため中国やインドに渡り、紅茶の製造技術を習得し、
その時、インドから紅茶用の茶の木を持ち帰ったのが日本の紅茶の始まり。 」 とあった。
碑の前の茶の木には、静岡県知事、静岡市長、インドアッサム州の三本の木が植えられていた。
長源寺に出たところで、国道1号線に平行した道を進むと、一本の高い松の木が見えた。
近づくとその先にもう一本の松の木があり、そこにはドライブイン東海道があった。
(注)現在はコンビニになっているのかもしれない。
その先には赤目ヶ谷中交叉点の横断歩道橋があり、道路の右側へ渡る。
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金色の観音様の前の細い道に入り、その先にある橋は渡らずに川沿いの道を左に進む。
ここには家具を製造する工場兼物流センターがあった。
道はすぐに国道1号線に合流してしまった。
その先のガソリンスタンドで、また、国道と別れて右側の狭い道に入る。
少し歩くと国道の正面に横断歩道橋と、その先にトンネルが見えてくる。
道の駅・宇津ノ谷の売店などの施設は横断歩道橋の反対側にある。
また、蔦(つた)の細道を歩く場合も反対側に行かなければならない。
「 蔦の細道は、在原業平の伊勢物語に登場する古来から知られた有名な道である。
今でも多くのハイカーが訪れている。 」
蔦の細道を歩いても旧東海道を歩いても所要時間はほとんど変らないのだが、
今回は東海道を歩く旅なので、右側の駐車場の大型トラックを見ながら歩き、
トンネル手前で右側の県道208号線に入る。
ときどき大型トラックが通るが、国道1号よりずっと静かな道である。
右側に古い家が残っている集落を見ながら、左にカーブ。
やがて、道は二又になり、左側の細い道の右側に、周辺案内の地図があった。
左側の道が東海道で、この道に入って行くと道の左側に「夢舞台東海道 宇津ノ谷」の道標があり、
岡部宿まで3.2kmとあった。
村中橋を渡ると、どの家にも屋号があり、家の前には屋号を書いた表札が出ていた。
ゆるい坂道を登って行くと右側に明治天皇の旧蹟を示す石碑がある家があった。
「お羽織屋」という表札を掲げた家は、豊臣秀吉が、小田原攻めの時拝領した羽織を、
今日まで家宝として伝えてきた。
「 拝観料二百円で見学ができ、中に入ると右正面に羽織が掛けられ、 ウインドーケースには徳川家康や慶喜拝領の茶碗や諸大名が休憩した名簿が展示されていた。 」
なお、この先を右折すると「峠名物十団子」で有名な「慶雲寺」がある。
峠の地蔵堂の地蔵菩薩がこの寺に移されて祀られている。
東海道は直進するとかなりの勾配のある細い石段になった。
石段の両脇には古い家が建っていた。
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石段をのぼりきると右にカーブするタイル貼りの道で、少し歩くと、車が通れる道に出た。
そこには「夢舞台東海道 静岡市宇津ノ谷」の道標があり、岡部宿境まで二十六町(約3km)とあった。
東海道はここで道標の右側にある細い山道に入って行くが、ここからは完全な山道になる。
入ってすぐ左側にある馬頭観音は死んだ馬を供養したもので、大正五年と嘉永五年の建立である。
きちんと整枝された林の中を歩いて行くと、宇津ノ谷の集落を見下ろせるところに出た。
ここからは歩いてきた道や家が眼下に見えた。
説明板「宇津ノ谷集落
「 宇津ノ谷(うつのや)は、丸子宿と岡部宿の中間にある間(あい)の宿で、宇津ノ谷名物の十団子を求めたり、
無事峠を越えたたことでほっとしたところである。 」
先程より暗い道になり少しじめじめしてきた。 薄暗いため薄気味が悪い。
小さな石碑があり、「山口雁山の墓」とある。
説明板を読むと、生前に墓を撤去せず生き続けた山口雁山は大物と思った。
説明板
「 山口雁山は山口素堂に俳諧を学び甲府や駿河で活躍をした俳人だが、
享保十二年(1727)に旅に出た後音信不通になったため、
弟子たちは雁山が旅先で死んだと思い、墓を建てたのである。
ところが、彼は生きていて、三十七年経った明和四年(1767)に、八十一歳で亡くなった。
明治四十三年の大洪水で山崩れを起こし、墓はここに移動してきた。 」
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少し先右側の段々になった石垣は、地蔵菩薩を祀っていた延命地蔵堂を支えるために築かれたものである。
「
地蔵菩薩は慶雲寺に移転して祀られていることは既に述べた。
江戸時代後期編纂の東海道分間延絵図には 「 道幅が二間(約3.6m)の道がこの上を左から右に伸びていて、
旅人はこの上の道を歩いていた。 」
明治の山崩れで、この道は壊れ、上にあった山口雁山の墓も下に落ち、道も現在のように変った。 」
階段を上ると右側に少し入ったところに地蔵堂の跡があった。
江戸時代から残るものは、途中で折れた供養塔法界碑のみである。
「
歌舞伎の 「蔦紅葉宇都谷峠」という演目では、 按摩の文弥が重兵衛に殺されて百両を奪われ、
それを悪の仁三に現場を見られ、ゆすられる場面がある。
按摩の文弥が重兵衛に殺されたのは地蔵堂の前という設定になっている。
薄暗いこの場所で、人が飛び出してきたら腰を抜かすと思った。 」
地蔵堂跡を過ぎると、道の真ん中が削られたようなところに出た。
宇津ノ谷峠だった。
ここからは下り坂で、道なりに下っていくと舗装道路に出た。
このあたりは国道宇津ノ谷トンネルの管理道路の工事で、大きく変えられてしまったところである。
舗装道路を下りていくと三叉路で、右側の看板には 「右 坂下明治トンネル、左 旧東海道入口 」 と標示されていた。
明治建造のトンネルを覗くことにし、ここを右折し、坂を下る。
その先のT字路には 「左明治道 右明治トンネル 」 の標示板があるので、
指示通り行くとトンネルが見えてきた。
説明板
「 このトンネルは明治三十七年に造られたものである。
最初に造られたのは、明治九年に地元の有志が金を出し合って造った、
巾三間、高さ二間、長さ百二十三間(223m)のくの字形の有料トンネルである。
トンネルの通過料として人は五厘、荷馬は一銭二厘、人力車は一銭五厘を徴収した。
明治二十九年、照明用のカンテラの失火で、枠組が焼失し、その後、赤煉瓦のトンネルになった。
宇津ノ谷峠越えの東海道は、明治のトンネルの開通により、通る人もなくなった。
しかし、このトンネルも、昭和五年、旧国道のトンネルが開通すると、使命を終えた。 」
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先程の三叉路に戻り、左側の山道を行くと途中の左側に「髭題目碑」があった。
説明板
「 天保六年に備前国木綿屋門平他、清水や島田の人達が金を出して建てたものだが、
碑の正面に髭のように跳ねて書く書体で、「南無妙法蓮華経」のお題目が刻まれている。 」
曲がりくねった山道を下っていくと、右側の斜面に、「ら径記碑跡」の標石があった。
石碑はこの下の地蔵堂裏に移動されていてここにはなかった。
標石に「○径記碑跡」と刻まれているが、○は草冠の下に羅という字で、パソコンにはない文字である。 ○は、らと呼び、蔦という意味らしい。 そういうことから、ら径記碑跡の碑とした。
ら径記碑は、文政十三年(1830)、駿府代官・羽倉外記が、つたの細道が消滅するのを恐れて、
ここに石碑を建てた、といわれるものである。
眼下に駐車場が見えてくると、宇津ノ谷峠越えの山道もようやく終わった。
「夢舞台東海道 参勤交代の道」道標があり、 「岡部宿境まで十八町(2km)」 とあった。
峠を下った所が坂下で、駐車場の先に蔦の細道公園がある。
公園を先には、鎌倉時代に東海道の宇津ノ谷峠越えルートが開設されるまで使われていた、
蔦(つた)の細道が残っている。
この道は機会があれば訪れることにして、そのまま東海道の旅を続ける。
道を右折し坂道を下ると右側に地蔵堂があった。
境内には多くの石仏があり、墓も宝しょう印塔の形をしているので、室町時代以前と思われた。
説明板
「 地蔵堂の創建は定かではなく誰が始めたかも分らないようだが、
元禄十三年(1700)、岡部宿の住民達が地蔵堂を再建し鐘楼も建てた。
祀られている延命地蔵尊は霊験あらたかで、鼻取り地蔵と稲刈地蔵の言い伝えが残っている。 」
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「羽倉外記のつたの細道」の石碑は屋根の下に保管されていた。
地蔵堂の前で旧東海道は終わり、国道1号線に合流してしまった。
道が右にカーブするところに歩道橋があり、信号機には「廻沢口」とある。
歩道橋を上ると右側にこれまで歩いてきた宇津ノ谷山や国道トンネル、そして道の駅宇津ノ谷が望めた。
歩道橋を渡って国道の右側に出る。
国道から右に入る小さな道を進み、突き当たったら左へ行くと右の山側には茶畑が広がり、のどかな風景である。
道は左右に曲がりながら進む。
このあたりは横添集落と思うが左側に岡部川が現れて道と平行して流れ、
道の右側に住宅は続くが古い家は残っていない。
道なりに進むと、両側二車線の県道208号線に合流した。
県道をしばらく行くと道の左側に、岡部宿の説明板があった。
説明板
「 岡部宿(おかべしゅく)は、東海道の開設と同時に誕生した宿場で、
川原町、本町、横町の三町で構成されていたが、
往来の増加により寛永年間に内谷村が加わり、明治五年一月の伝馬所廃止により、
宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えた。
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳では、宿内人口、二千三百二十二人、家数、四百<六十七軒とある宿場町だった。 」
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県道を歩いて行くと右側の小高いところにお堂が見えた。
階段を上って行くと、十石坂観音堂で、多くの石仏が祀られていて、常夜燈もあった。
階段を下り、少し歩くと道端に小さな祠と磨耗した感じの常夜燈があった。
岡部宿の江戸川の入口は枡形になっていて、常夜燈があったというが、どのあたりにあったのかは確認できなかった。
岡部川に架かる岡部橋の手前で県道と別れて右の狭い道に入った。
このあたりが江戸時代の本町か?
その先の右側に「笠懸の松」という表示があったので、小道を入ると「笠懸の松」の説明板があった。
説明板「笠懸の松」
「 謡曲 「 西行西佳 」 にまつわるのが、横町の小高い山の上の松である。
西行法師が愛弟子の西佳を伴って東下りの旅をしたところ、川渡しの場で武士との揉めごとに巻き込まれ、
西行が暴力を振るわれたのに我慢ができず、西佳は相手の武士を杖で殴ってしまった。
西行は仏に仕える身として辱めに耐える大切さを説いた後、西佳を破門にしてしまう。
西佳は師を慕って後を追うが岡部まで来て病に倒れ、最後に身体を休めた松の木に
「 西に行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の 松に残して 」
という辞世を書き残した笠を架け、そのまま帰らぬ人になった。
東国からの帰途、この地で夜の宿を乞うた西行は、その庵の戸にかけられた古い檜笠に気付き、
庵主から彼が行き倒れになったことを知った。
西行は深い悲しみを受け、
「 笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな 」
という歌を残し、岡部を去っていった、といわれている。 」
街道に戻ると專称寺がある。
江戸時代に奉納された西行坐像と鎌倉時代の不動尊像が祀られている、という。
「旧東海道」の表示に従って左に進み、岡部橋を渡るとまた、県道208号線と合流した。
県道の反対側には昔の大旅籠・柏屋の建物があった。
「 柏屋山内家は旅籠屋と質屋を兼業し、代々問屋や年寄などの宿役人をつとめた家柄である。
この建物は、天保五年の岡部宿大火の後、天保七年に再建された建物で、
平成十年、国の登録有形文化財に指定された。
現在は岡部町の歴史資料館として公開されているものだが、訪れた日は休館日で、内部を見ることができなかったのは残念である。 」
建物の少し先の屋敷の角に、「岡部宿本陣址」の標柱があった。
ここが岡部宿の内野本陣の跡のようである。
岡部宿には本陣も脇本陣も二軒あったが、残りの施設は確認できなかった。
大旅籠柏屋の歴史資料館に寄れれ確認できたかもしれない。
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岡部宿に宿泊した様子を十辺舎一九は、東海道中膝栗毛で、次のように描いている。
「 雨の宇津ノ谷峠を滑ったり転んだりして、苦労して越えた弥次さん喜多さんは、
増水のため大井川が川留めと聞いて、岡部宿に投宿する際に、一首を詠んだ。
「 豆腐なる 岡部の宿に つきてけり 足にできたる 豆をつぶして 」 」
その先の右側に土蔵があり、杉玉が吊るされている家は、初亀醸造株式会社という造り酒屋である。
東海道はこの前で県道と別れて左側の細い道に入る。
カラータイルが敷き詰められおしゃれな道である。
入るとすぐに「夢舞台東海道」の道標があり、「藤枝宿まで5.5q」 の表示があった。
その先の小川に架かる橋は橋と思えない位小さな橋であるが、「姿見の橋」という名が付いていた。
「 美女の誉高い小野小町が、晩年になって東下りで岡部宿に泊まり、 水面に写った自分の姿を見て美貌の衰えを慨嘆した。 」 という話が残る橋である。
少し先で県道と合流しそうになるが、道があるのでそのまま歩くと突き当たる。
突き当たりで、右折すると県道に出た。
合流地点の対面には、合併さずに残った岡部町役場があった。
(注)岡部町は2009年に藤枝市と合併し、現在は藤枝市岡部町である。
県道を左折し、そのまま県道を歩くと少し先の右側にディリーストアがあり、
その隣に「五智如来」の幟がひらめいていた。
以前、ここに誓願寺という寺があったが廃寺になってしまい、五智如来石仏だけが残ったもので、
公民館の奥に五体の石仏が並んで立っていた。
その先の左側にカゴメの工場があり、道の右側に松並木の松がある。
その先にもわずかながら松並木が残っている。
松並木が途絶えたところに藤枝バイパスの高架橋があり、歩いてきた県道は国道1号と名前を変えた。
少し歩くと内谷新田交差点で常夜塔と「これより東海道 岡部宿」 の道標が建っていた。
ここが岡部宿の京側の入口で、岡部宿はここで終わる。
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