江尻宿は武田信玄が築いた江尻城の城下町に造られた宿場である。
江尻宿より有名なのは清水次郎長の住んだ清水港で、今でもその家が残っている。
府中宿に向かう途中に日本武尊が祀られている草薙神社がある。
府中宿は徳川家康が幼年時と晩年を過ごしたところで、
徳川家にとって由緒の深い所として重要視されてきた。
(ご参考) 興津〜江尻 4.1キロ 徒歩約3時間
江尻〜府中 10.5キロ 徒歩約4時間20分
JR東海道本線興津駅を西に向うと、右にカーブするところに清見寺交差点がある。
交差点を左折すると清水港興津埠頭である。
ここは清見潟あるいは清見ケ崎と呼ばれた海岸だったが
、美しかった砂浜は埋めたてられて、近代的な港湾施設に変ってしまった。
「
興津宿(おきつしゅく)は、古くから交通の要衝として知られ、
平安時代にはすでに清見ヶ関という関所が設けられ、
更級日記に 「 清見ヶ関は片つ方は海なるに・・・・ 」 と、関所の姿が描かれていたり、
十六夜日記や東関紀行などにも登場する。
清見関は、平安時代白鳳年間に築かれた関所だが、永禄年間に廃止されたため、
江戸時代の東海道名所記には、
「 清見が関、風景まことにたぐひなく、眺望ひとへにあまりあり (中略)
此関いにしへ眺望の所とて名を得たりけるが、今は関の戸も跡たへてなし 」
と、関所跡であることを記している。 」
その展望も磯が埋めたてられて、埠頭の先に海は遠のいていた。
交差点を直進すると、「夢舞台東海道 興津宿」の大きな案内板があり、
奥の小高いところに、「清見寺」という古刹があることが記されている。
慶安四年(1651)建立の山門前には「清見関旧跡」の碑が建っていた。
「
清見寺(せいけんじ)は清見関が設けられた際にその守護として仏堂が建てられたのが始まりという。
足利尊氏の帰依を受け、室町時代には七堂伽藍が造営されたが、戦国時代の兵火により燃失。
その後、徳川幕府により、再建されたものである。
」
山門をくぐり、鉄道線路でへだてられた参道を行くと、目の前をJR東海道本線の列車が通り過ぎたので、驚いた。
清見寺の玄関は元和二年(1618)、仏殿は天保十三年(1844)、大方丈は文化十一年(1862)など、江戸時代に建てられたものが多い。
文久三年(1862)に建立された鐘楼には、正和三年(1314)に鋳造され、
謡曲「三井寺」に登場する梵鐘が吊り下げられている。
「 豊臣秀吉が韮山城攻略の際、陣鐘として使用した。 」 という説明があった。
その近くに、高山樗牛の清見寺鐘声文塚などの文学に関するものもあった。
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境内左手の「利生塔旧跡」の碑は、足利尊氏が康永四年(1345)、戦没者の慰霊のため、
全国六十六ケ所に建立を発願した「利生塔」の跡、という。
五百羅漢の石仏が傾斜した場所に、いろいろな表情をして、並んでいた。
清見寺は家康が駿府に人質として移住していた時、学んだところといわれる。
家康が好んだ池泉庭園(国名勝)や家康が接ぎ木したという臥龍梅があり、
その他にも琉球王子の墓、咸臨丸記念碑など興味をそそられるものが多いので、
時間があればゆっくり見学したいところである。
街道を進むと左側に「座魚荘」と表示された建物がある。
「
座魚荘は、明治の元勲、西園寺公望が大正八年に建設し、晩年を暮らした別邸である。
本物は愛知県犬山市の明治村に移築して保存されているが、
平成四年、明治村の図面を基に、木造二階建ての京風数寄屋造りで、床面積約三百平米の建物を建て、
公開したものである。 」
座魚荘を後に国道1号線をひたすら進むと、正面に高速道路の陸橋みたいなものが見える。
これは国道1号線静清バイパスである。
高架の下に川が流れているが、川に沿って進むと少し上りになる。
続いて、東海道本線の上を渡ると、江戸時代には横砂村だった横砂東町に入る。
集落を行くと右側に延命地蔵があり、その前に常夜燈が建っている。
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横砂自治館前の交差点あたりが、横砂中町であろうか?
その先の民家の一角に「念仏供養塔」があり、
その横に「袖師ふるさとの道25」という番号つけられていた。
この番号は何を意味するのだろうか? この疑問は、かなり歩いてから、説明板を見て
解決したのだが ・・・・
その先の右側に医王山東光寺の山門がある。
「 この門は、
朝廷からの勅使が興津川の氾濫により東光寺に泊まることになり、急遽この門を造った、
と伝わるものである。
勅使が泊まる宿舎は、格式上、門構えでなければならなかったためである。
寺がここに移ったのは天文年間(1532〜1555)で、寺佛の薬師如来(秘仏)は行基の作と伝えられている。 」
その先の横砂交差点を急ぎ足で通り過ぎた。
このあたりは旧清水市の住宅地、ほとんどが比較的新しい家で見るべきものはなかった。
庵原川に架かる庵原川橋を渡ると横砂西町である。
すぐに袖師町に入る。
「 明治維新後の町村合併で、旧横砂村、旧嶺村、旧西久保村が合併して袖師村になり、
その後袖師町になった。 その後、昭和の大合併で清水市に併合された。
更に今回の静岡市との合併で、旧横砂村は清水区横砂○○町に、旧西久保村は清水区西久保に変り、
旧嶺村だけが清水区袖師町になったのだが、別の意味では江戸時代の区分けに戻ったとも言える。 」
道の左側に一本の松の木があったが、東海道の松並木の生き残りなのだろうか?
袖師東交差点を過ぎると、左右の道が広い交差点に出た。
横断歩道がないので、歩道橋を歩き、向こう側に渡った。
その先の右側に「馬頭観世音菩薩」を祀る祠があり、それには「袖師ふるさとの道1」 とある。
道の右側に「袖師ふるさとの道」と書いた大きな説明板があり、疑問だった番号のなぞが解けた。
「ふるさとの道」を一周する場合の順番が示されていたのである。
「夢舞台東海道 袖師ヶ浦」の道標には「江尻宿まで六町」とあったので、
江尻宿(えじりしゅく)までは七百七十メートルほどの距離である。
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正面に道が二又になっているのが見えた。
二又の中央は、「無縁さん」の碑と「夢舞台東海道 細井の松原」の道標が立っている。
説明文
「 元禄十六年(1703)には、ここから江尻宿の入口、現在の矢倉町通り交差点までの全長百九十九間二尺 (約360m) の間に二百六本の松の木が植えられていて、細井の松原と呼ばれ、
松原では松原せんべいを出す茶屋があった、という。
第二次世界大戦の時、飛行機の燃料にするための松根油をとるため伐採されて、一本もなくなってしまった。
現在ある一本の松の木は平成になって植えられたものである。 」
旧東海道は国道1号線と別れて、右側の道に入る。
このあたりは現在は辻町三丁目になっているが、
江戸時代は辻村で、百十戸の家があったとされる。
「 江戸幕府が慶長六年(1601)に東海道を開設した際、
江尻の町の中に、東海道を通して宿場町とした。
その後の慶長十二年(1607)、宿場の西端に近い巴川に、橋を架けたことで、
東の辻村の木戸から西の入江町の木戸までの二キロが江尻宿となった。
当時の辻村は、江尻宿の東の木戸があったところだが、古い家は一軒も残っていなく、
木戸跡の場所も確認できなかった。 」
矢倉町通り交差点を過ぎると数は少ないが、古い家が残っている。
その一軒の連子格子のすばらしい家の屋根からはSEIYUのネオンが見えた。
その先の信号交差点は江尻東交差点、東海道は直進する。
左折すると両側に大きなビルのある交差点があり、その先に清水駅がある。
このあたりは旧清水市の中心地である。
交差点を直進すると江尻東商店街で、江戸時代には傳馬町と呼ばれたところである。
道は広くないが旧東海道である。
江尻東商店街には古い家は一軒も残っていなかった。
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江尻東商店街から銀座商店街と変わり、前方に緑色の大正橋の鉄橋が見えてくる。
東海道はそ手前で曲がるが、そのまま行くと
右側に水神社があり、神社隣の公園には昔の稚児橋の親柱が残されている。
街道に戻る。
江尻宿も宿場特有の鉤型になっていた。
信号交差点手前の右側に高級英国生地テーラー雀荘(ジャクソウ)がある。
麻雀屋と勘違いするがれっきとしたオーダーメイドの洋服屋さんで、その角を右に曲がる。
「
江戸時代にはこの交叉点のあたりが鉤型になっていたようで、
その先に志茂町、仲町、魚町などの町があり、旅籠や商店が軒を並べていた。
江尻というとなじみが薄く、次郎長の住む清水港(しみずみなと)の方が有名だが、
江尻宿の家数は千二百四十軒、宿内人口六千四百九十八人、本陣が二軒、脇本陣が三軒、旅籠が五十軒と、
駿河国で、府中宿に次いで、大きな宿場だったのである。
江尻宿だったところは清水駅前の商店街になっていて、宿場時代の面影は見られなかった。 」
左側の洋菓子喫茶富士と駐車場の前に 「夢舞台東海道 江尻宿」の道標が建っている。
その先の交差点の左側あたりに、江戸時代には「羽根本陣」があったように思われる。
また、羽根本陣の先には「大竹屋脇本陣」があり、その反対の手前には「田中屋脇本陣」があったはずである。
寺尾本陣は五年ほど前には「銀座ガレージ寺尾」という駐車場になっていたが、
今回訪れるとその表示がなく、その場所は確認できなかった。
道の左側にあるおもちゃ屋、富岡屋の前に「江尻宿」の説明板が立っていた。
図面でみると手前の駐車場あたりに寺尾本陣があったように思えるのだが・・・
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左側の履き物屋、西村屋あたりが、江戸時代には鉤型になっていたところである。
ここを左折するのが東海道である。
そのまま直進すると、魚町公園の一角に「魚町稲荷神社」がある。
その奥にある清水江尻小学校は江尻城跡である。
「
江尻の歴史は今川が支配していた頃に始まり、最初は三日市場として栄えていたが、
永禄十二年(1569)、武田信玄が進出し、その翌年、現在の江尻小学校の敷地に、
江尻城を築いたことから、城下町が形成され、職人の町として発展して行った。
天正六年(1578)、当時の城将、穴山梅雪が城を大改築して本格的な城にしたが、
そのとき城内に祀ったのがこの神社である。 」
街道に戻り、東海道を歩くと巴川に架けられた稚児橋がある。
「
慶長十二年(1607)に架けられたときは江尻橋と言ったが、
渡り初めの日に人が川を渡ろうとすると、川の中から童子が現れて
橋脚を登ると、入江方向に消え去ったことから、稚児橋に変わった、と伝えられる。
この童子は巴川に住む河童だったといわれる。
橋は昭和六十一年に架け替えられた。 」
橋の親柱四隅に河童の像がのっているのは、童子が巴川に住む河童だったといわれることから。
橋の中間にあるレリーフは河童が蕗の葉を雨よけにして歩いている姿だが、大変愛嬌があった。
橋を渡ったところには、江戸時代には高札場があり、
船の難破や破損時などの取り決めごとなどを書いた船高札が立てられていた、という。
稚児橋を渡ると、江尻宿は終わる。
江尻宿は古いものが見事に消え去っていたため、簡単に見学が終わったので、
清水港に足を伸ばすことにした。
日の出埠頭は期待したような大きな港湾施設ではなく、
県警の船が係留される程度の小さなものだった。
近そうに思えたので歩いていったが、思ったより遠かった(駅前からバスで行った方が時間短縮できるし、
料金も百円と安いのでお得のようである)
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フェルケール博物館は、人と海の交流のステージともいえる港にスポットを当てたミュージアムである。
フェルケールはドイツ語で交通、交際を意味する言葉 (入場料400円、9時30分〜16時30分、月曜日は休館)
港橋の清水港船宿記念館は、
清水次郎長が明治十九年に営業を開始した船宿、末廣を再現した建物である。
室内では、次郎長が清水港の振興に尽力した晩年の姿を紹介していた(無料、10時〜18時、月休)
橋を渡り左側の通りに入ると、股旅姿のイラストの次郎長通り商店街がある。
左側に次郎長の生家があった。
「 清水次郎長の本名は山本長五郎といい、伯父の米問屋山本次郎八の養子になったが、
二十歳の頃から遊侠の世界に身を投じ、次郎八の長五郎から通称次郎長となり、
やがて東海道一の大親分となった。
明治維新後は山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を受け、明治政府から清水の治安を任されると共に
英語塾を開設したりして清水港の振興に尽力、また、三保の開発や富士山麓の開墾など人のためにささげ、
明治二十四年七十四歳で亡くなった。 」
少し歩いた梅陰禅寺には、子分や妻のお蝶らの墓に取り囲まれた次郎長の墓がある。
「 大政小政の墓には壊さないでくださいと注意書きがあったが、 賭け事にこの墓石や遠州森町の石松の墓石のかけらが幸運をもたらすと信じられているようである。 」
以上で、清水港の見学もは終わり、再び、東海道に戻った。
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巴川に架かる稚児橋を渡ったところから二つ目の変則十字路、竹翁堂菓子店前の信号交叉点を右折する道が東海道である。
東海道はこの先府中(現静岡市)の中心まで断続的だが、かなりの部分が残っている。
なお、直進する道は久能山への参詣道(久能道)で、清水港、三保の松原へも通じている。
入江2丁目交叉点を右折すると、江戸時代には入江町であった。
当時は桶屋、刀剣屋、畳屋、箒屋などが軒を連ねた職人の町だったがそうした店も少なくなってしまった。
入江3丁目交叉点を過ぎると、江戸時代は追分町であった。
少し歩くと、道の左側に「名物追分羊かん」と書かれた看板がある。
江戸時代元禄八年創業の「追分羊羹店」である。
店の左側に、「久能道」の追分道標が建っていた。
道標の一面には 「右より志ミづ道 」 、もう一面には「 南無妙法蓮華経 」 と刻まれていた。
「
この辺り(追分)は茶屋が建ち並び、東海道を行く人と久能山へと向かう人で賑わったところである。
「久能道」の追分道標は、久能山へいく道の分岐を示す道標である。
先程の入江交差点の久能道ができるまでは、旅人はここから久能山へ行った。 」
その先の民家の前にある五輪塔は「都田吉兵衛の供養塔」である。
「 清水の次郎長の子分の森の石松は、通称・都鳥の都田吉兵衛の家にやっかいになっていたが、
賭場の金の貸し借りがもとで、吉兵衛との仲がこじれ、だまし討ちにあって、殺されてしまう。
吉兵衛は東海一の大親分・次郎長の子分を殺したことで逐電し、追分の茶屋の一軒に潜んでいたが、
文久元年(1861)の正月十五日、次郎長一家に見つけられ、次郎長により討たれてしまい、
吉兵衛の死体は後難を恐れて野ざらしになっていたが、
それを哀れんだ里の人がここに埋葬し供養塔を建てた。 」 と伝えられている。
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その先には金谷橋があり、ここには「夢舞台東海道 元追分」の道標が建っていた。
「 江戸時代には、人は架けられていた土橋が渡ったが、 牛馬は橋の脇の土手を降りて川を渡り、また、土手を登って道に合流した、という。 」
その先、JR東海道本線などの鉄道線路を越える。
すると平川地、うばが原ともいったところになる。
東海道名所記で 「 うばが原、右の方の田中に、婆が池(うばがいけ)とて、ちいさきいけあり。 しるしに松二本あり ・・・・ 」 と、あるところである。
道は右に大きくカーブしながら穏やかに上る。
その先の交差点は左に向かう道は広く、右側の道の先には「静鉄狐ケ崎駅」があった。
交差点手前の左側には「久能寺観音道」道標があった。
「 安永七年(1778)に、妙音寺の若者の寄進により造立された道標である。
久能寺観音道は、平川地から有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺、久能寺に至る有度山麓を通る道である。
久能寺は久能山にあったのだが、武田信玄の駿河進出で城が久能山に築かれたため、
天正三年に現在地に移転したが、明治維新後廃寺となった。
明治十三年(1883)、山岡鉄舟が再建し、鉄泉寺になった。 」
また、地元の人達が建てた「東海道」の説明板がある。
「 東海道は今の北街道を通っていたが、慶長十二年(1607)、 徳川家康の命により、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)が架けられ、 追分、そしてここ大原から駿府横田に至る道に変えられた。 」
説明板によると、太古の東海道は別の道を通っていたことになる。
左側には「上原堤」という大きな池があり、池を避けるため道は湾曲していた。
これが東海道名所記の「婆が池」かどうか分らなかった。
昔はこのあたりに池沼多く、篠竹が繁っていたところのようで、駅のあたりにも別の池がある。
池に沿って歩いていくと左側に「上原子安地蔵堂」の大きな石標と説明板がある。
説明板
「 上原延命子安地蔵はいつの創建かは明らかではないが、
永禄十一年(1568)の武田信玄の駿河攻めの時、山県正景がここに陣を敷いた。
天正十年(1582)には徳川家康が江尻城主の穴山梅雪とここで会談し、梅雪は織田方に降り、
これが武田氏滅亡のきっかけとなった。 」
当時の建物や子安延命地蔵は焼失しているので、お堂や地蔵は最近のものである。
その先左側の百メートル上ったところに、白壁で大陸風の十七夜山千手寺という小さい寺がある。
入口に 「 柚子湯出て 慈母観音の 如く立つ 」 という上田千石の句碑があった。
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有度(うど)第一小学校前を通り、歩き続けると県道407号に合流した。
交差点には「夢舞台東海道 有度 」の道標が建っていた。
右側の静鉄御門台の駅を見下ろしながら進むと、右側に大きなタヌキの置物があり、
横に「東海道草薙一里塚跡」の石柱が建っていた。
江戸から四十三番目の一里塚跡で、昔は塚の横に高札場があったようである。
広い道を十分程進むと交差点がある。
右折するとJR草薙駅前になるところである。
道の左側に「大鳥居」と「此奥有草薙大明神」と刻まれた道標があるので、ここで左折し、道を上る。
かなりの急坂で、そこを上っていくと「草薙神社」の鳥居があった。
1.2kmとあったので、たいした距離でないと、上り坂を歩いたが、予想した以上に時間をくわれた。
草薙神社の社殿は立派で、境内は鬱蒼とした森に包まれていた。
説明板
「 草薙神社の祭神は日本武尊、景行天皇五十三年の創建と伝えられる神社で、
平安時代編纂の延喜式神名帳の延喜式巻第九に、有度郡三座のうちとして記されている。
江戸時代の東海道名所図会でも、 「 駿府より二里ばかり東、草薙村にあり。 海道より入る事五町余、鳥居海道に立つ。 延喜式内、有度郡三社のうちの一社なり 」 とあり、
中世以降には武士の尊崇を集め、特に徳川家康が社殿の造営をしたほか、五十石の朱印領を与え、
その後歴代の将軍の庇護を受けてきた。 」
境内には草薙の地名にもなった日本武尊の像が祀られている。
「 日本武尊が東征で、この地を通りかかると逆賊が起こり、武尊を殺そうとして火を放った。
武尊は佩いた剣を抜いて 「 遠かたや、しけきかもと、をやり鎌の 」 と鎌を打ち払う様に唱え、
剣を振り草をなぎ払い、火を逆賊の方へなびかせ、無事逃れることができた。
武尊の佩刀したあめのむらくもの剣は、草薙の剣と名称を替え、神社に奉られていたが、
天武十四年(686)、天武天皇の勅命によって熱田神宮に移された。 」
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街道に戻り、東海道を歩く。
バス停があるあたりで、車の少ない静かな通りに入るのが旧東海道である。
やがて前方に東名高速道路の高架が見えてくる。
このあたりが旧清水市(現静岡市清水区)と旧静岡市(現静岡市駿河区)の境界である。
東名高速道の高架橋の下をくぐる。
さらに進むと左側に草薙運動場が見えるところで、マンションに突き当たり、
旧道は終わっていた。
その先右折して、県道407号の交差点を渡って進むと、静岡鉄道の県総合運動場駅がある。
「 その先はJRの操車場で、東海道は鉄道線路で分断されているが、本来は線路の北側から国道1号線まで続いていた。 」
しかたがないので、駅の手前で左折し、右側に地下道があり、静岡鉄道とJRの高架をくぐって、
百メートル程進むと反対側に出る。
出たところで、右に入る道があるので、それを進むと国道1号の後久川交叉点に出る。
後久川橋を渡ると「夢舞台東海道 古庄」の道標があり、「府中宿まで3.3q」 と表示されていた。
国道1号を700m歩くと長沼交差点である。
ここで右側に渡って、県道74号に入ると
右側に「タツノ」と大きく書かれた看板のビルがある。
その対面に細い道があるので、それに入るのが旧東海道で、
この先五百メートル程残っている。
左の家の上にマイクロウエーブを乗せたNTTのビルが見えた。
その先右手にある久応院の寺前には「石仏」と「庚申塔」が祀られていた。
一里塚があるはずなので、その所在を求めて歩くと、左側の民家の前に「長沼一里塚跡」の石柱を見つけた。
プランターに偶然目が行ったことで見つけられたが、植物に溶け込んでいたので見つけづらい感じだった。
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静岡鉄道長沼駅の前を通り過ぎると、右側の線路越しにバンダイのビルが見え、
左側には静岡トヨペット本社ビルもあった。
道はその先カーブし、護国神社前交差点で、再び、国道1号線と合流する。
交差点の先を見ると、道は残っているが、残念ながらJR運転所の先の鉄道線路で終わっている。
国道を静岡方面に向かうと、右側に静岡鉄道柚木駅がある。
柚木交差点には横断歩道橋があるので、これを利用して反対側に渡る。
下に降りると小鹿通りで、JR線のガードをくぐり、小さな道路の立体交差が見えたら、
階段を上ると上の道路に出られる。
右折すると「夢舞台東海道 曲金」の道標があるが、昔は曲金村(まがりかねむら)だった。
その先の左手に西豊田小学校があり、その先に曲金軍神社がある。
その先の交差点手前に、戦死した梶原景時一族郎党の霊を弔う曲金観音堂がある。
江戸時代にはその前の東海道には石橋が架かっていた、という。
三叉路で、右の道を進み、JR線のガードをくぐると、五叉路の春日町一丁目交差点に出る。
東海道は国道1号線を横断して、正面の道を進めばよい。
道脇に「下横田町」の道標があり、府中宿(ふちゅうしゅく)の江戸側の入口に到着である。
説明文
「 下横田はかなり古い時代から交通の要衝だった。
江戸時代の元禄五年(1692)、東境に道の両側を挟んで石垣が築かれ、
枡形の府中宿の東入口の見附が設置された。
当時の下横田町の家数は四十七軒、二百十四人の人口だった。 」
駿河国府中は、徳川家康が足利氏の支族の今川氏の人質として幼少期を過ごしたところで、
また、晩年、秀忠に将軍職を譲り、駿府城に移り、大御所として権勢を振るった所でもあった。
徳川家にとって府中は単なる城下町とか宿場ということでなく、由緒の深い所として重要視されてきた場所である。
東海道は駿河城へ直接行くのを避けるように、ジクザクとした道が造られていた。
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横田東交差点の左右の通りを「きよみずさん通り」というのは、 右手に清水寺と熊野神社があることによる。
「 清水寺は、静鉄音羽駅の先、右手にある永禄弐年(1559)の創建の寺で、家康が建立した観音堂がある。 」
東海道は横田東交差点直進する。
交差点の先は江戸時代の猿屋町である。
左側の酒屋の二階にビールジョッキ片手の人形が下を見下ろしていたが、愛嬌がありおもしろかった。
その先は旧院内町になるが、右側の奥に西宮神社が祀られている。
「
府中は駿河国の国府であったことからその名がついた。
中世になると、海道のおさえとして、足利氏の支族、今川氏が支配した。
江戸時代の府中は宿場町であると同時に駿府城の城下町として、
駿河国で最大規模の賑わいを誇った。
天保十四年の宿場の人口は一万四千七十一人で、家数は三千六百七十三軒を数えている。 」
その先の交差点で、伝馬町通りになり、旧上横田町、旧鋳物師町と続く。
原田だるま店の店頭にはちいさなだるまや招き猫などが飾られていたが、慶事関係の問屋なのだろうか?
交差点を横断すると、ビル街になり、道脇に「鋳物師町」の道標があった。
「 旧鋳物師(いもじ)町は鋳物を扱う職人の町だったが、 今は横田1丁目、伝馬町、日の出町の3つの町に分割されている。 」
古い職業では、いぐさ屋があったのに驚いたが ・・・・
交差点を越えた先の左側に「久能山東照宮道」の標柱がある。
「 この道は久能山に通ずる道で、 江戸時代には参勤交代の大名たちが久能山詣でをした、という。 」
その先の道の右側に「華陽院門前町」の道標がある。
華陽院は右側の道を入ったところにあり、家康が今川氏の人質になっていた時代に勉学に通った寺である。
寺には源応尼墓の他、市姫(家康と側室との娘)や側室お久の方など、徳川家にゆかりの深い墓がある。
「 家康は三歳で母と生き別れ、祖母の源応尼が静岡まで付き添ってきて面倒をみた。
源応尼が亡くなると、家康はこの寺で法要を営み、源応尼の法名から、
寺の名をこれまでの智源院を玉桂山華陽院府中寺と改めた。 」
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街道に戻り、静岡銀行のある交叉点を過ぎると、右側に「伝馬小路」の表示があり、 道を挟んだ左側のまつ本ビル手前の歩道に、 「下伝馬町本陣脇本陣跡」 の石碑があった。
説明板
「
ここは「伝馬町本陣」と「脇本陣」の跡で、下本陣と呼ばれたのは小倉家で、脇本陣は平尾家である。 」
スルガ銀行がある交差点を渡ると左右は高いビルばかりで、
昔の面影を感じさせる建物は残っていなかった。
右側のビルあたりの歩道に、 上伝馬町の本陣・望月家、脇本陣・松崎家があったことを示す
「上伝馬町本陣脇本陣跡」 碑と 「貫目改所跡」 の石碑があるはずだが、見付けられなかった。
左側のFIVE−Jというビル(現在はSIZUOKA109)の奥には、
丸井、松坂屋などのデパートが並んでいる。
その先が静岡駅で、この一帯は静岡県を代表するメインストリートである。
歩道に 「上下伝馬町」 の碑があり、また、人形像の脇に 「伝馬町由来碑」 が建っていた。
道の右側に戻り、西に向かうと右にカーブする道の右側にホテルシティオ静岡があった。
ここは江戸時代の旅籠・安田屋太郎兵衛宅の跡である。
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ホテルの壁面に 「西郷と山岡の歴史会見」の説明板がある。
説明板「西郷と山岡の歴史会見」
「 慶応四年(1868)二月十二日、最後の将軍・徳川慶喜が江戸城を出て、
上野寛永寺で謹慎した直後に追討軍が江戸に到着。
官軍の江戸城総攻撃が目前に迫った。
幕府軍事取扱の勝海舟は、慶喜の処刑と江戸会戦を避けるため、
山岡鉄太郎(鉄舟)を静岡にいる官軍参謀西郷隆盛のところへと派遣した。
山岡は江戸から駿府にかけて居並ぶ官軍の中を
「 朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎。 大総督府へ参る。 」 と大声で叫びながら馬を駆り、
呆然と見送る兵士たちの間を走り抜けた。
駿府まで進出してきていた西郷は、定宿の松崎源兵衛方で、山岡と会見する。
両者は初対面だったが、山岡の人柄にすっかり惚れ込んだ西郷は、勝との話し合いに応じることを約し、
これにより、江戸無血開城への道が開けたのである。 」
西郷、山岡の両者が会見した松崎屋源兵衛宅は安田屋の三軒隣で、
現在はペガサートというビルになっている。
ビル前に「静岡市史跡」の石柱と二人の顔入りの「会見の碑」が建っていた。
道を進むと五叉路の江川町交差点に出た。
右手に駿府城がちらりと見えたので、地下道をくぐって、地上に出て歩いていく。
右手に静岡市役所ビルがあり、
二の丸の水堀には駿府城の二の丸石垣と巽櫓があった。
「 駿府城は今川館とも呼ばれたが、
永禄十一年の武田信玄の駿河侵攻と天正十年の徳川家康の侵攻により、灰燼と帰した。
徳川家康はその跡に駿河城を築き、天正十七年、居住地を浜松からここに移転した。
徳川家康が江戸への移転を秀吉より命令された後は秀吉の支配するところとなり、改造された。
家康が大御所になった後、再びこの城に入り、天守閣を設けるなど城の大修復を行い、慶長十三年に完成させた。
家康の没後、駿河(府中)藩となり、徳川頼宣と徳川忠長が藩主になったが、
その後は幕府直轄の天領になり、五千石格の旗本による駿府城代が置かれた。
天守閣焼失後は再建されなかった。
幕末、徳川慶喜が江戸城からここに監禁された後、徳川家達が藩主となり、版籍奉還となった。
その後、建物は全て壊され、堀と城壁の一部だけが残された。
現在、城の敷地の一部は市役所になっているが、大部分は駿府公園として保存されている。 」
復元された東御門から入ると、復元された巽櫓があった。
現在は、巽櫓に続く続多聞櫓が復元されている。
城跡には家康の銅像と本丸跡を示す水溜まりだけで、その他は紅葉山庭園しか見るものはなかった。
(注)最近は発掘調査が行われ、秀吉が立てた天守跡や家康の天守跡を状態が明らかになりつつある。
今後に注目である。
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江川町交差点に戻る。
この交差点には横断歩道が無いので地下道を通るのだが、地下道がけっこう複雑なので、
町名から出口を探して表に出る。
ワタベウエデングの前に出たので、南に向かい、呉服町交差点まで来たら右折する。
東海道はこのあたりは城下町特有の曲がりくねた道になっている。
呉服町商店街はレトロな雰囲気をだそうとしているようで、
鋳物製の街燈やモダンなデザインのベンチがあった。
そうした通りを自転車がすいすい通り過ぎていく。
静岡市は平らな土地からか自転車の利用者が多く、
町の中心まで平気で乗り入れてきていたのには驚いた。
駿河区役所に通じる緑道の脇に「ライオン像」があり、
子供が口に手をいれようとして、母親に叱られていた。
少し歩くと伊勢丹前の交差点に出た。
交差点の右側に「府中宿」の浮世絵タイルを大理石に嵌めこんだ時計付きのポールが建っていた。
少し離れたところには「里程元標址」の石碑があった。
また、道を渡った右側には「姉妹都市友好の碑」がある。
道の向こう側の伊勢丹前には「札の辻址」の碑が建っていた。
説明板
「 江戸時代にはここに高札場が設けられていたので札の辻と呼ばれ、
昭和二十年までは札の辻町という町名が残っていた。
初期の東海道は本通りを通り、この先の呉服町一丁目から四丁目(現在の呉服町一丁目)を経て、
ここに至り、呉服町五丁目から八丁目(現在の呉服町二丁目)を経て、伝馬町に至っていた。
その後、東海道が新通りを経由するようになるとここで左折し、七間町通りを進む道に変わった。 」
七間町にも商店街があった。
静岡市は周囲を山と海に囲まれていることから、
大型スーパーが郊外に立地する場所に制約があるのかも知れないが、
これだけの商店街が残る都市は珍しいなあ、と思った。
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そのまま歩くと右側に静岡東映とサークルKがあり、七間町交差点に出た。
国道362号線を横断するとオリオン座があり、その反対側にも映画館がある。
映画館が数軒並んでいる映画館街は、一昔前には全国各地で見られた風景だが、
シネマコンが登場し、一つの映画館で複数の映画が見られるようになってからは姿を消してしまった。
そういう意味でも静岡は不思議な町である。
東海道は道の左側にファミリーマートがあり、
交差点の向こうには最近造られたと思える赤茶色のビルがある交差点を右折する。
入った先は先程までの商店街と違い中心部を外れていく感じで、取り残された商店街に変る。
道脇にあった「府中宿人宿町」と刻まれた石碑には、静岡姉様人形や駿河竹千筋細工など江戸時代の名物が紹介されていて、東海道であったことが感じられた。
「 人宿町は縦七間通りと呼ばれていたこともあるようで、江戸時代には庶民が泊まる木賃宿が多く、 旅籠町として栄えたところのようである。 」
人通りが少なくなった道を歩くと、右側に梅屋町キリスト教会がある。
東海道はキリスト教会の次の交差点を左折して狭い道に入る。
これが新通りで、東海道はこの先安倍川の渡しまでまっすぐな道が続く。
そのまま歩くと左右の道が大きい信号交差点に出たが、
この道を横切ると新通1丁目に入った。
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右側に 「 駿河名物元祖わさび漬 宝暦三年創業 」 その上の壁には 「 田尻屋本店 八代目 」 と書かれた家があった。
購入したわさび漬には、 「 宝暦の頃、東海道の新通りで味噌屋を営んでいた田尻屋和助が山に出かけ立ち寄った農家で出されたお茶受けが山葵の茎と葉を糠味噌に漬けたものだった。 食べてみると捨て難い風味があったので、 茎と葉を持ち帰り色々と工夫をして加工している中に酒粕に漬けるのが一番よいことを発見した。 それがわさび漬の始まり。 」 とあった。
小生が新幹線の車内販売でよく買ったのは田丸屋である。
「 田丸屋は明治に入ってからの創業で、桶にわさび漬を詰め、開通した東海道の駅で売ったところ有名になり、わさび漬は全国に広がった。 」 という。 元祖は田尻屋で、普及させたのは田丸屋ということになろう。 」
新通1丁目を過ぎると信号交差点があり、左側には、秋葉神社が祀られている。
府中一里塚は江戸時代初期の道につくられたので、新通りではなく本通りにある。
その跡を訪れてみる。
右側の東海電工舎を右折すると、本通り8丁目の交差点に出た。
道の反対側に渡り、左折し道に沿って歩くと、「ラペック静岡」の案内標示の先に、
「府中一里塚址」の石碑が建っていた。
先程の交差点まで戻ると、あとは安倍川橋まで真っ直ぐで、その先には郵便局と静岡銀行がある。
信号交差点の先で、町名が川越町に変った。
江戸時代には川越町に府中宿の西見附があったので、その跡を探したが見つからなかった。
府中宿はここで終わりである。
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