蒲原宿と由比宿とは江戸時代にはつながっていたようで、
現在も古い家が一部ではあるが残っている。
由比は「さくらえび」と広重の浮世絵を前面に出して観光の目玉にしているが、江戸時代には鄙びた漁村だった。
由比宿を過ぎると東海道の難所と一つ、さった峠が待ち構えているが、
さった峠から見た富士山はすばらしかった。
興津宿はさった峠越えを控える宿場として栄えた。
明治時代に入ると、明治の元勲・西園寺公望の別邸が造られるなど、避暑地として賑わった。
(ご参考) 蒲原〜由比 3.9キロ 徒歩約1時間30分
由比〜興津 9.1キロ 徒歩約4時間10分
県道396号(旧国道1号)に入ったところが、江戸時代、蒲原宿の京側の入口である「西の木戸」があった。
ここには、江戸時代、浦高札場というのがあった。
「 蒲原は、蒲原の津(港)を経由する海上交通がさかんだったので、 浦高札場に海船や川舟など船舶一般の取締りのお触れ書きを掲示したのである。 」
道の反対側の「古屋敷跡」の石柱は、元禄以前の蒲原宿だったところを示している。
「西の木戸」の隣に和歌宮神社の鳥居がある。
奉納柱には「和歌宮神社」、燈籠には「若宮浅間御廣前」と刻まれていて、名前が皆違う。
それはともかく、西に向かって出発した。
蒲原から由比までは短い距離である。
蒲原宿と由比宿の間は江戸時代でも町続きだったといわれる。
しばらく歩くと向田川に架かる小さな橋を渡る。
橋のイラストはさくらえび、
また、歩道のタイルにも富士山と波に中のさくらえびが描かれている。
橋を渡ると左側に南国情緒を感じさせるやしの木(?)が見えた。
建物は静岡市蒲原支所・蒲原生涯学習交流館で、合併前は蒲原町役場だった。
蒲原には今でも古い家が多く残っている。
その中から蔀戸(しとみど)と立派な連子格子のある家を見つけた。
説明板
「 連子格子が一階だけでなく二階にもあり、特にきめが細かいようですばらしい。
蔀戸とは障子が入った二つの戸のことで、一見すると一枚の戸のように見えるが、
小さな戸を横向きにして入れ、その上に重ねて、次の戸を入れる。
従って、蔀戸は、上二枚が障子戸、下一枚が板戸で、構成されていることになる。
両脇に立てられた通柱(とおりはしら)には戸を通す溝が掘られていて、
戸を横にして上から入れるようになっている。
昼間は戸を入れず開け放しにして、店先にしたり障子戸を入れて明るくなるようにした。
夜はぶっそうだから、板戸に替えて使用する。
使用しない戸は天井に跳ね上げるなどの格納の工夫もあった。 」
街道は国道を避けて走る車が徐々に増えてきた。
左側に「大聖不動明王」の幟があるのは神原不動尊 一乗院である。
役行者より伝わる千三百年の歴史をもつ修験道の真言宗醍醐派のお寺である。
信号のある三叉路には「左へ0.9km 国道1号」 の標示があった。
少し先の左手に蒲原駅があり、ここから由比宿までは2.1qの距離である。
駅を過ぎると古い家は少しづつ減り、残っている家も蒲原宿やその周辺の方が手入れがよい。
その代わり、「蒲原名物」と書いた桜えびを売る店が多くなった。
しばらくの間、淡々と歩く。
道路には車が増え、ハイカーの数も徐々に増えてきた。
三十分ほど歩くと右側から東名高速道路が接近してきた。
高速道路をくぐって、神沢バイパス交叉点を過ぎる。
百メートル程歩くと、神沢交叉点の三叉路に出る。
道の真中に大きな道標があり、「由比本陣公園、広重美術館」 は、右と大きく標示されているが、
これは車両用で、その下によく見ないと分らない小さな字で、「由比宿」は左の矢印があるので、
旧東海道は県道396号(旧国道1号線)と別れて、左側の道に入る。
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百メートルほど歩くと、神沢川橋という小さな橋がある。
橋の手前が旧蒲原町(現在は静岡市清水区蒲原神沢)で、橋を渡ると由比町(現在は静岡市清水区由比)である。
橋の上から見えた大きな煙突には「清酒正雪神沢川酒造場」と書かれていたが、
富士山の伏流水を使った地酒であろう。
橋を渡ると左側に「夢舞台東海道・由比」の道標があり、由比宿まで三町とあったので、
あと三百三十メートル程で由比宿に到着である。
神沢川酒造場の先から、道は右へ曲がり、次いて左へ曲がる。
江戸時代の宿場に共通したもので、その先には枡形もあった。
曲がった道の左側に「水神」の石碑があった。
更に十メートル位先の右側には小さな社があり、小さな二体の石仏が祀られていた。
由比も蒲原と同様、天災が多かったのであろうか?
右側の民家の一角の目立たないところに 「由比一里塚跡」の石柱があり、
左側の民家の少し奥まったところに「由比一里塚」の説明板があった。
説明板
「 由比新町一里塚は、江戸から三十九番目の一里塚で、松が植えられていたが、
寛文年間(1661〜1671)に山側の松が枯れたので、清心という僧侶がここに十王堂を建てて、
延命寺の境外寺とした。
十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、祀られていた閻魔像は延命寺に移されてお堂に安置されている。
なお、延命寺は由比本陣公園の先を右側に入ってところにある。 」
五十メートルほど歩くと、右側の家と左側の家の並びがおかしく、道が左側にずれている。
「
江戸時代には参勤交代の大名などが泊まる宿場を外部からの侵入を防ぐため、
真っ直ぐ入れないように鉤型の通路を造ったところである。
この曲がった道を鉤型とか枡形と呼ぶが、遠州や尾張では曲尺手と呼んでいた。 」
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枡形を通り抜けると、由比宿の江戸側の出入口である「東木戸」があったところにでる。
「 由比宿(ゆいしゅく) は「油比宿)とも書かれたようである。
天保十二年(1841)の東海道宿村大概帳によると、家数百六十軒、人口は七百十三人、本陣一軒、
脇本陣一軒、旅籠が三十二軒、 と、東海道五十三次の中では規模の小さな宿場の一つだったが、
さった峠をひかえた宿場なので賑わっていた、という。 」
枡形の左側にある連子格子の家は、江戸時代には「こめや」という屋号で商売を営んでいた志田家である。
その先右側には大きな木造の真っ黒な倉庫があり、隣の白塀には「御七里役所之趾」という標札がある
。
静岡民俗の会が作成した「黒大理石の説明板」
「 江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に「七里飛脚」という直属の通信機関を
持つ大名があった。
此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。 同家では江戸・和歌山間−五八四キロ−に
約七里−二八キロ−毎の宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。
主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。
これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜・下り竜の模様の伊達半天を着て、
「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。
特急便は四日足らずで到着した。
幕末の古文書に、中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは、油比駅における紀州家お七里役所のことである。
この裏手に大正末年までお七里役衆の長屋があった。 」
少し行くと右手に由比本陣公園がある。
入口には本陣の門を復元したと思われる表門があり、その脇には「明治天皇由比御小休所」などの石碑や
「常夜燈」があった。
「 由比本陣公園は、昔の本陣の敷地千三百坪をそのまま利用していて、 右側に休憩施設、正面の芝生の先には東海道広重美術館と、 明治天皇が小休止した離れを忠実に復元した御幸亭が並び、左側の隅には物見櫓が建っていた。 」
幸亭への入場料は抹茶付きで五百円だったが、同料金の広重美術館に入った。
「
安藤広重が描いた東海道五十三次の全宿の絵が見られ、
更に貴重な隷書東海道と呼ばれる浮世絵も、数枚見ることができた。
隷書東海道は、丸清という版元から、嘉永年間(1848〜1853)に刊行された五十五枚の揃物で
外題の書体からその名があるとのことだった。
葉書位の小さなものだったが、画面がいきいきしていて今刷られたばかりという出来栄えだった。 」
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本陣公園の反対、道の左には正雪紺屋がある。
「
江戸時代初期から四百年近く続く染物屋で、帳場や藍瓶等が残っていた。
この家は由井正雪の生家といわれ、そのため「正雪紺屋」という名が付いた。
由井正雪は由比の紺屋に生まれ(駿府宮ヶ崎町という説もある)、江戸に出て楠木流の軍学を学び、
神田連雀町で、軍学塾を開き、多くの門下生を集めた。
慶安四年(1651)、三代将軍・家光没後の混乱につけこんで、叛乱を起こそうとしたが失敗し、
駿河城下で捕り物に囲まれて自害した。 」
紺屋の右隣の民家の塀に 「脇本陣 温飩屋(うんどんや)− 江戸後期から幕末まで脇本陣を務めた。
東海道宿村大概帳に、 「 脇本陣一軒、凡そ建坪九拾坪、門構え、玄関付き 」 とあるのは、ここだろう。 」
という説明板があった。
隣の黒塀に覆われた洋館の家は明治時代に建てられた郵便局舎で、現在は局長の子孫(平野氏)の自宅になっている。
「 小生が訪れたのはゴールデンウイーク中ということもあり、大変な混雑だった。
さった峠を越える人はもちろん、桜えびの季節でもありドライブ途中立ち寄る人を多く見た。 」
まだ十一時半だが、早いうちに食事をとった方がよいだろうと思い、 その先の「由比宿おもしろ宿場」の二階、「レストラン海の庭」で、昼食をとることにした。
「
この地でないと食べられないものをと 生さくらえび、さくらえびのかき揚げ、さくらえびの吸い物など、
さくらえびばかりの桜えび御膳(1680円)を注文した。
混んでいたこともあり、だいぶ待たされたが、まさにその名の通りさくらえびオンパレードで満足した。
また、駿河湾を一望できる展望になっていたので、これから向かうさった峠の地形も確認できた。
時計を見ると一時間近く経過していたが、結果的にはこの後への十分な休息となった。 」
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本陣公園を出て西に向かうと、右側の民家の塀に「脇本陣 羽根ノ屋」の表示があった。
「
由比の脇本陣は一軒だけだが、途中で代わっている。
最初営んでいた徳田屋が江戸後期寛政年間ごろ、この羽根ノ屋に代わった。
羽根ノ屋は江尻宿の羽根ノ屋の分家で、寛政五年(1793)に幕府に願い出たことが資料に残っている、という。
その後、前述の温飩屋に代わり、明治を迎えている。 」
その先のお店の脇に「加宿問屋場跡」の標札があった。
「 幕府は東海道の各宿場に問屋場を置き、駄馬壱百匹、人足壱百人の常備させたが、 由比宿は宿場の規模が小さいため負担しきれず、 周りの十一の村(北田、町屋原、今宿など)に加宿問屋を結成させて一月交代で負担させたのである。 」
本陣公園から二百メートルくらいで三叉路にでた。
江戸時代にはまっすぐな道はなく、枡形に曲がっていて、由比宿の西木戸があったとされる。
川の近くに西木戸があり、高札場があったとされるので、このあたりだろうか??
表示がないので、その位置は分らなかった。
左側の道を行くと、すぐに由比川に出た。
左側の入上地蔵堂には、多くの石仏が祀られていたが、水難者を祀った川手地蔵である。
また、矢箭(さき)八幡宮もあった。
「 江戸時代、由比宿の西木戸を出ると、川原に下り、仮の板橋を渡っていった。
本格的な橋が出来たのは明治八年で、仮橋のところに木橋が架かった。
その後、昭和八年に現在の場所にコンクリートの橋が架かり、木橋の使命を終えた。 」
最近建て替えられた橋の欄干には、広重の浮世絵イラストがあり、その時の様子が描かれていた。
橋で由比川を渡ると、全長五町半(約600m)と、短い由比宿は終わった。
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由比宿を出て、今日の旅の難関であるさった峠を目指す。
北田集落の道の両脇に「由比桜えび通り」と表示されていて、飲食店はどの店も桜えびのメニューを掲げている。
昼時とあってどの店もお客が列をつくって入るのを待っていた。
昼飯を早めにすませたのは正解だと思った。
左側の家は稲葉家で、「せがい造りと下り懸魚(げぎょ)の家」 の説明板がある。
「 せがい造りは、平軒桁へ腕木を足してたるきを置く「出し粱」という軒下の長い屋根を支える建築技法で、全国各地に内容は違うがこの工法は使用されている。
せがいとは、船の櫓(やぐら)を出す部分を「せがい」というが、それに似ていることが語源のようである。
下り懸魚は、彫刻などを施したものを平軒桁に貼り付けて風雨から守るものである。 」
きょうしんばしを渡ると町屋原集落、
ここを町屋原と称するのは古代において物々交換の市場が営まれたところだったからである。
右側の鳥居の奥には式内社の豊積(とよつみ)神社がある。
神社の由来書
「 延喜式神名帳に 駿河国廬原郡豊積社 として記名されていて、
第四十代天武天皇の白鳳年間、 ここに五穀の神・豊受姫を祀る豊積神社が創建された、と伝えている。
東海道名所図会に、 鳥居より社前まで桜多し、祭神は木花開耶姫命。
天武天皇御宇勧請、其後大同元年(806)坂上田村将軍東夷征伐の祈願として再興 と書かれているが、
今は社殿も小さく、境内も狭くなった。
坂上田村麻呂の戦勝を祝ったのが始めというお太鼓祭りは有名である。 」
少し行くと由比駅手前の左側に大きな案内板があり、
道上に大きな桜えびのイラストが入った商店街の看板があった。
由比駅を過ぎるとやがて道はゆるやかな上り坂になる。
道端にはさくらえびが干されている。
浜辺は東名高速道路が走るため狭くなり、遠望がきかないが、
昔は塩釜(海水を煮詰めて塩をとる釜)が多くあった所である。
やがて、道は右からきた県道396号線(旧国道1号線)と合流する。
右側の横断歩道橋を渡って、道の右側へでる。
歩道橋を降りると、その先の右に入る狭い道に入る。
「 ここは寺尾集落で、昔、南方寺という真言宗の寺があったことから地名になったといわれるところである。
東海道は海に沿って続いていたが、度々の津波に遭い、天和元年(1682)にこの高台に移ったという。 」
少し行くと寺尾澤橋、平成に造られたのに木目調の欄干なのはうれしいなあ!!
橋の先に背負い篭を背負ったお婆さんを見かけた。
鋤を片手に坂をゆっくり登っていく姿は時間がしばらく止まったという感じがした。
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その先で、中ノ沢川に架かる中の沢2号橋を渡る。
この辺りの道幅は東海道当時のままで、連子格子戸の古い家が多く残っている。
右側に海上山讃徳寺がある。
境内には谷口法悦が元禄四年に建立した大きな題目塔が建っている。
「 讃徳寺は、地元の長者・河西六郎右衛門が、寛文九年(1669)、 自邸を提供して開基した日蓮宗のお寺である。 」
少し行った右側の家は、国の有形文化財に指定されている旧小池邸である。
「
甲州武田家家臣が当地に移住し、寺尾村の名主になり、代々小池文左右衛門を名乗ったという家で、
この建物は明治期に建てられたものである。
町が買い取り休憩所として公開しているので、自由に入ることができた。 」
たたきの柱に、明治政府が慶応年間に出した太政官令が掲示されていた。
右側の一室に、伊豆で見かける吊るし雛のようなものが飾られていた。
樹木が手入れされた庭には水琴窟があり、見学者が耳をあてて聴き入っていた。
あまりゆっくり出来ないので、さっと見て出発する。
道の左側にあるなまこ壁の家は、「あかりの博物館」(有料)である。
その先の大沢川には先程と同じような新しい橋が架かり、秋葉山の石柱が建っていた。
右側の岩山と左側の海がかなり接近していて、その間の狭い道に、二階建ての古い家がひしめいていた。
「
東海道が開設された当時は現在の東海道本線あたりが街道だったが、
たびたびの津波により、今歩く道に変った。 」
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寺尾西バス停を過ぎると東倉沢の集落に入る。
坂は少し急になったが、そのまま歩くと三叉路にでた。
左の道は下って国道へ、右の道は更に急になって上っていく。
上っていく道が東海道で、高くなったことで少し展望がひらけてきた。
この辺りは海に接近しているので、左下に東海道本線と国道1号線、そして海を埋め立てて出来た東名高速道路が見える。
振り返ると木の間越しに富士山が見えたが、今日はじめての富士である。
狭い道の右側に何台もの車が駐車していたが、左に 「さった峠 2km」 という標識があった。
一台通るのがやっとという狭い道を行くと、左側に磯料理と桜えび料理を看板にしている「くらさわや」があり、駐車していた車はこの店のお客のものだった。
少し行くと右側の崖の上に「八坂神社」があり、まさに山裾の旧道である。
その先の権現橋には藤八天狗のタイルが貼られていて、近くに中峯神社の由緒書があった。
中峯神社の由緒書
「 中峯神社はその先の高台にある。
神社の創建が何時かは安政の津波で資料がなくなったので分らないが、昔は富士浅間大菩薩と呼ばれたので古い。
安政年間、藤八という村人が亡くなった後、天狗となって倉沢の火防守護神となったといわれ、
藤沢権現として祀られてきた。
明治維新後、社殿が東西の倉沢の中間にあるため現社名になった。 」
権現橋の名は藤沢権現によるのである。
権現橋から西倉沢集落で、古い町並みが残っている。
道の右側に鳥居があり、傾斜のある石段を登っていくと、崖の上に、鞍佐里(くらさり)神社があった。
境内からは駿河湾を前景にした富士山が一望でき、また、東海道を歩く旅人が見下ろせた。
「 日本武尊が東征の途中で焼き討ちの野火に遭い、
自らの鞍下(あんか)に居して神明に念ず、
其鞍敵の火矢により焼け破れ尽くしたことから、「鞍去」の名があり、後に「倉沢」に転訛したと伝えられる。
鞍佐里神社は、日本武尊が野火にあったさった峠の雲風か、山中あたりに、建てられていたものを、
後年に現在地に遍座したものである。 」
神社のある崖と狭い街道の海側にある家から先は傾斜になっているので、
大雨が降るとがけ崩れの心配があるし、海岸の方は高潮の危険もあったので、
江戸時代には神仏にすがるという気持は強かっただろう。
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拝殿の蟇股には、日本武尊の姿が見事に彫刻されていた。
寺澤橋を過ぎると西倉沢になる。
西倉沢はさった峠の東坂登り口に当る間(あい)の宿で、
江戸時代には十軒ばかりの休み茶屋があった。
左側の連子格子の家は、大名などが休憩する倉沢間宿本陣(茶屋本陣)だった川島家である。
「 川島家は、慶長年間から天保年間、凡そ二百三十年の間、代々、川島勘兵衛を名乗り、 間の宿の貫目改所の中心をなし、西倉沢村名主を務めたという家柄である。 」
小さな橋を越えた左側の蔵がある連子格子の家は、
明治天皇が休憩した 「脇本陣、柏屋」 だったところである。
少し歩くと三叉路に出る。
道の左側の角に「望嶽亭」と呼ばれた藤屋がある。
「
藤屋は、さった峠への東口の麓にあるが、富士の眺めが良いため、「望嶽亭」と呼ばれた。
江戸から明治時代にかけては脇本陣や茶亭として、多くの文人墨客で賑わった、といわれる。 」
案内していただいた女主人の話では、
「 一番奥の建物は二百年以上も前のもので、
幕末、官軍に追われた山岡鉄舟がこの部屋の床から下に抜ける道を利用し舟で清水に逃れた。 」
ということだった。
この後、鉄舟は清水次郎長の助けを得て、西郷隆盛と会見、江戸無血開城への道が開かれることになる。
まさに日本の歴史を変えた家である。
案内いただいた部屋には、関連の資料が展示されていたが、それより窓の形がよく、
そこからの景色が大変印象に残った。
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三叉路の右側の道は、車が一台なんとか通れる程の狭さで、急である。
車はほとんど通らないが、バイクにはかっこうのコースとあってどんどん登って行く。
道路標識には 「さった峠 1.3km」 とあり、ここからさった峠への本格的な登りが始まる。
標識の先に 「夢舞台東海道 倉沢」の道標があった。
道の右側には「西倉沢一里塚」の石柱と説明板があり、「 江戸より四十番目の一里塚で、榎が植えられていた。 」 とあった。
上りは先ほどの道とは違い、正にハイキングのコースである。
しかし、快晴で、空気が乾燥しているので、それ程苦にならない。
富士山を背にして登っているが、振り返る度に何故か大きくなっていくような気がする。
駿河湾は青々と光り、その先に霞で囲まれた伊豆半島が見えた。
少し歩いたところに 「ここから三百メートル先、一番の展望!! 」 という表示があったので、
道から少しはずれるが行ってみた。
眼下には自動車が走り、駿河湾と富士山のバランスがよい。
ザックをおろして何枚かの写真を撮った。
「 東海道は、街道が開設された江戸初期は海岸を歩くルートであった。
さった峠の崖下の海岸で、波の寄せ返す間合いを見て、岩伝いに駆け抜ける道であった。
危険なため、親知らず子知らずの難所といわれた。
その後、安政の大地震で、地面が隆起して現在の地形になった。
地震のお陰で、JRや国道1号線は隆起部分を通っている。
明暦元年(1655)、朝鮮使節を迎えるため、さった山の山腹を経て、外洞(そとぼら)へ至る道が、
東海道として新設され、大名行列が通るため、道幅は四メートルとした。 」
この東海道の道は、現在は農道として舗装され、両側は収穫用のモノレールが設置されるミカン畑やビワ畑に変った。
登り坂がようやく終わると、「夢舞台東海道 さった峠」の道標と、
昔の石の道標と新しいのが並んで建っていた。
「
小さな道標は、正面に 「さつたぢぞうミち(地蔵道)」、右側に 「これより四町」とあり、永享元年建立のものである。
大きい道標は、真中で折れていて、字が磨耗して判読しずらいが、
新しい道標と内容は同じのような気がした。
さった峠の「さった」とは「ぼさつさった」を意味し、それを省略したもので、
鎌倉時代に漁師の網に掛かって海中から引き上げられた「さった地蔵」を山上に祀ったことから、
これまでの岩城山から「さった山」になった、という。 」
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その先の三叉路で、左側の駐車場へ下り、そこのトイレを利用した。
展望台の眼下には、交通の大動脈が四つ、国道1号線、東名高速道路、東海道本線、
東海道新幹線が地表から舞い上がるように駿河湾から富士山に向かって伸びている。
少し休憩した後、東海自然歩道の案内にそって、左の小道に入る。
夏みかん百円の無人売店があったが、すでに売り切れていた。
下の売店は二百円だったから、ここのは安い。
この先はまさに山際の断崖にある細い道である。
百五十メートル程歩くと、右側の少し小高いところに展望台があった。
説明板
「 江戸時代、山塊が海に接するこのあたりからの眺望は、東に富士の高嶺、南に伊豆の岬、
西に三保の松原、眼下にはアワビを取る海女の姿が楽しめた。 」
展望台を降りた海側に「山の神」の石碑がある。
ここには蜀山人の逸話が残っていた。
「 享保元年(1801)、蜀山人こと大田南畝が東海道の旅で、
峠にあった茶屋で休息をしたとき、小さな祠が目に止まり、亭主に尋ねたところ、
山の神と返事をした。
蜀山人は、それを聞いて、即興で、 「 山の神 さった峠の風景は 三行半に かきもつくさじ 」
という狂歌を詠んだ。 」
ここから二百三十メートルほど歩くと、少し開けたところに出た。
由比町が建てた黒い大理石に茶色の石が張られた「東海道さった峠」の石碑があった。
ここには四阿(あずまや)もあり、小休止ができる。
その近くに「牛房坂」の道標があった。
そちらへ向う道は草に覆われていたが、古戦場へ向かう方角だった。
そちらに向わず、海沿いに約五分、三百二十メートル歩くと 「さった峠 清水市指定眺望地点」 と書かれた石碑があった。
旧清水市は 「夢舞台東海道 さった峠」という道標も建てていた。
「 現在は清水市も由比町も静岡市に編入されているが、道標を立てた頃は独立していた。
旧清水市興津と由比町の二つがさった峠の道標をそれぞれ建てて、
こちらが一番と自慢している感じは子供の喧嘩のようでおかしかった。 」
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「さった峠」の道標を過ぎると、道が二手に分かれる。
上へ登って行くとすぐに「立ち入り禁止」の表示があった。
「
ここは清水市指定眺望地点で、興津(おきつ)地区の建てた看板には
「 江戸時代の後期、峠を下るところより内洞へ抜ける道ができて、それを上道といったが、
現在は廃道になっている。 」 とあったが、方角的にはこの道が内洞道に該当する。 」
左の道を下って行くと、両側が木に覆われた暗い道になった。
自然が作りだした谷のような道で、これでよいのか?と一瞬不安にかられた。
それほど長い時間ではなかったが、突然明るいところに出た。
下を見ると墓地があるが、墓地を過ぎると左側にさった峠に上る人のための駐車場とトイレがあった。
道の角の「東海自然歩道」の案内板には、
「 さった峠ハイキングコース全長 0.94km、 興津駅2.5km 」 と表示されていた。
先を急ぐので、トイレにはよらず下り始めると、道の左に「往還道」という石柱があった。
道の正面には小高い丘があり、農地を造成したような道も出来ていたが、最初の四差路で右折し、
長山平に向かった。
舗装されていない道は最近造成された道にも思えたが、 道の左側に「秋葉山常夜燈」があり、「文政二年」とあった。
ここから先の東海道の道筋は判然としない。
左下に家並みがあったので、畑を突っ切り行ってみると行き止りで、慌てて引きかえした。
やっと舗装された道に出たので、ここを左折し、両脇が家が並ぶ道を歩く。
このあたりは興津東町で、少し歩くと左側に「瑞泉寺」の標柱と「常夜燈」が建っていた。
瑞泉寺に寄ってみたい気はしたが、江尻宿までいかなければならないので、
そのまま歩くと、右側の車道と合流した。
道の角にはJR興津駅とさった峠方面の矢印があった。
道を左折して川沿いの道を歩くと、左側に入る道に、さった峠の矢印があった。
この道は瑞泉寺の前に続いていて、この道の方が近道であることを後日知った。
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左側に東町公民館、右側の川に出ると緑地が広がり、興津東町公園になっている。
ここは江戸時代の渡し場の跡である。
説明板「川越遺跡」
「 興津川は徒歩渡しだったので、川会所で越し札を買って、蓮台や人足の肩車で川を渡った。 」
その様子は、安藤広重の興津宿の浮世絵で、確認することができる。
現在は川渡しはないので、先程の道に戻る。
道の左側に「牛頭観世音菩薩」の石碑を祀った小さな社がある。
JR東海道線のガードをくぐると、県道に合流した。
駐車場からここまで1.2q程の距離だった。
ここを右折すると、興津川に架かる橋があるので、歩道がない橋を渡る。
ここから興津中町で、少し歩くと国道1号線が左から接近してきて合流する。
中央に上っていく道は国道1号のバイパスである。
右側の国道1号を歩くと、興津中町交差点に出た。
ここで身延山に向う国道52号線は右へ分かれる。
交差点を渡ると、その先の右側に「宗像神社」の鳥居があるので、入って行く。
小学校の先に、宗像神社があった。
神社の由来
「 祭神は奥津島比命(おくつしまひめのみこと)、狭依姫命(さぎりひめのみこと)、
多岐津比売命(たきつひめのみこと)であることから、宗形弁才天、三女の宮など、と称していたが、
明治元年に現社名になった。
古(いにしえ)は沖に出た漁師の目印になったという「女体の森」と呼ばれる広大な森に覆われていたが、
清水興津小学校のグランドになるなど、社域はかなり縮小した。
興津という名は、祭神の奥津島比命から付いた。と伝えられる。 」
街道に戻り、少し行くと静岡信金の角を右に入る道がある。
道の角に、元禄六年(1693)建立の「身延道」と書かれた石碑が建っていた。
この道は、江戸時代の甲州往還(身延道の正式名)で、ここは身延道と東海道との追分である。
「
江戸時代には、宿場の人々が身延道を管理し、常夜燈に灯をともして、旅人の安全を守っていた、という。
ここは明治時代まであった石塔寺の跡で、その当時のものと同じか分らないが、
すこし変った常夜燈もあった。
また、「石塔寺無縁供養塔」や承応三年(1654)建立の「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑もあった。 」
三メートルある題目碑は、日蓮宗独特の髭題目と呼ばれる変った字体で、書かれていた。
興津駅前交差点手前の民家の一角に「一里塚跡」の石碑があった。
小さいので、注意しないと気が付かずに通り過ぎてしまう。
夕方の太陽になってきた。 車も少しづつ増えてきた。
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少し行くと右側の空地の一角に静岡県が建てた「夢舞台東海道 興津宿」の道標があった。
「
天保十四年の東海道宿村大概帳によると、 興津宿は本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が三十四軒、
宿場の家数が三百十六軒で、千六百六十八人の人が住んでいた。
西に至る旅人は峠を越えて一息つくのが興津宿であり、東に旅する人は峠の難所を控え、
由比宿に至るための旅装を整える場所だった。
興津からは身延、甲府に通じる甲州往還(身延街道)が分岐し、交通の要衝であり、
江戸時代の中、後期は興津川流域で生産される和紙の集散地だった。
そうしたことから、興津宿は隣の江尻宿より賑わいをみせていた。 」
しかし、
国道1号に沿って開発が進んだ結果、古い建物はほとんど残っていない。
この空地は公民館のあった跡で、江戸時代には問屋場があった。
少し歩いた右側の民家の前には、市川新左衛門が勤めた「興津宿東本陣跡」の石柱があった。
道の反対側に樹木が茂り、「ギャラリー水口屋」の看板が出ている一見料亭風の建物がある。
この屋敷は江戸時代、興津宿の脇本陣だった水口屋の跡である。
「
入口に「一碧楼水口屋跡」と「興津宿脇本陣跡」の石柱が建っている。
明治の東海道の廃止で、各地の本陣や脇本陣が廃業する中、水口屋は旅館に変わり、
興津が明治の元勲の避暑地になると、
西園寺公望、伊藤博文などの日本の政財界の大物が多く宿泊し、
また、作家も宿泊して作品を書いたという老舗であった。 」
廃業後の現在は、その一部をギャラリーとして開放し、
天皇陛下が宿泊された時使用された食器類などが展示されている(無料、10時〜16時、月休)
少し先の右側の駐車場の一角に「西本陣跡」の標柱が建っていた。
興津宿西本陣は、手塚十右衛門が勤めていた。
少し行くと右に入る細い道があり、入口に「波切り不動尊」と表示があり、
「JRの踏切を越えて五分」とあった。
「 波切不動尊は、今から約千二百年前、
坂上田村麻呂公が行基菩薩作の不動明王ご尊像を当地に安置し、東夷征伐の戦勝祈願をしたものである。
山の中腹にあり、三保や伊豆半島の眺望がよいとあり、おきつ公園もある。 」
小生は寄らなかった。
興津本町はその先の清見寺交差点あたりまでである。
これで興津宿は終わる。
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