右手に富士山を仰ぎ見ながら富士川河岸へすすむ。
江戸時代、川の瀬の速い富士川の川渡りは大変だった。
蒲原宿は今も昔の風情を色濃く残す町である。
また、安藤広重の東海道五十三次蒲原雪之図は記念切手になり有名になった。
(ご参考) 吉原〜蒲原 11.1キロ 徒歩約3時間15分
江戸時代、吉原宿の京側の入口だった吉原宿西木戸跡の道標を出発し、小川に架かる四軒橋を渡る。
錦町北交差点で国道139号線に合流し、右手に冨士市役所を見ながら国道を歩くと、錦町交差点にでる。
交叉点を渡ったところに 「間の宿 本市場への道標」が建っている。
東海道は交差点を反対側(右側)に渡り、中古車センターの車両置場とその先に見える吉田写真館との間の斜めの狭い道に入る。
この道をしばらく歩くと、右側に山神社の木立が見え、道の左側に青島八幡宮(磯八幡宮)があった。
「八幡宮の謂れ」
「 徳川五代将軍綱吉の時代の延宝九年(1681)に地方検地が行なわれた際、
毎年不作が続いただけでなく、前年に大津波の被害をうけ困窮していた。
青島村の名主・川口市郎兵衛は、そうしてことから、検地を拒んだ罪で江戸送りになり、磔になりました。
このとき、市郎兵衛はまだ二十九歳の若さだった。
村人は悲しい知らせに涙を流し、部落の八幡社に、市郎兵衛を神として祀った。 」
境内に 「道祖神」と刻まれた石碑があったが、東海道で「道祖神」と書かれた石碑に初めてではないか?
少し歩くと五叉路の高島交差点があり、交差点は歩いてきた道と県道396号と353号が交差している。
交叉点を渡って、県道396号を西に向かう。
右手にある愛宕神社を過ぎると潤井川橋が見えてくる。
東海道は橋の一つ手前の道を右折して細い道に入る。
市立中央病院の赤茶色の大きなビルが奥に見える交叉点には小さな「東海道」の標識がある。
ここで左折すると小さな橋に出る。
さっき見えた潤井川橋の隣に平行している橋で、以前は「三度橋」という名だったが、今は「富安橋」である。
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富安橋を渡ると、橋際の左側に「地蔵尊」と思われる白いよだれ懸けをした小さな石仏が祀られていた。
その先の左側には明治四十年の「南無妙法蓮華経御宝塔」が祀られていた。
そのまま右カーブ左カーブと続く道を行くと、カーブを曲がった右側の家の一角に、
笏を持った大きな石像が祀られている。
「袂の塞神」と呼ばれる蓼原の単体道祖神である。
その先の塔の木交差点を横断中に右手に見えた富士山は雲がかからず全貌が見えて美しかった。
そのまま直進し、右側の山神神社前を通り、総合庁舎北交差点を横断する。
左側に県冨士総合庁舎があり、その先のフィレンセの前に 「旧東海道 間宿 本市場」の石碑がある。
当時の地図によると、山の神はフィレンセの一角に祀られていたことになる。
石碑文面
「 本市場は吉原宿と蒲原宿の間宿として、東の柏原と共に茶屋が賑わっていた。
本市場の名物は白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどだった。 」
その先左側の民家の一角に「鶴芝碑」がある。
「 江戸時代の文化三年(1820)に鶴の茶屋に建てられたもので、
当時はここから眺めた冨士の中腹が一羽の鶴が舞うように見えたので、
京都の蘆州(ろしゅう)という画家が鶴を描き、
江戸の亀田鵬斉(ほうさい)という学者が詩文を添えて碑にしたものである。 」
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道は左にややカーブその先に太い道路の分離帯があり、渡れなくなっていた (左端写真)
通らないようにと注意があるので、横断歩道があるところに迂回し反対側にまわり、狭い道を進むと右手に法源寺が見えた。
そのまま進むと左右の大きな道に出るが、この信号交差点では右側の古い家の手前まで歩き、
その前の横断歩道を歩いて道の反対に出て、左側の狭い道に入る。
狭い道に入ったところに冨士市が建てた「間宿本市場」の道標があった。
江戸時代、本市場は東海道の間の宿だったところである。
安藤広重の吉原宿はここを描いていることは、吉原宿の章で述べた。
左右に「富士緑道」という小道があるが、そのまま直進すると王子製紙の赤白の巨大な煙突からの真白い煙が見える。
見慣れたせいか白い煙が気にならなくなった。
道が右にカーブするところの花壇の中に、「旧東海道本市場の一里塚跡」の小さな石碑があった。
富士第一小学校、富士西図書館、王子製紙の施設の前を通過すると、
アーケードのある富士本町銀座商店街に出た。
東海道は、アーケードを越えて直進だが、左折すると富士駅で、
商店街は富士駅までずーと続いている。
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東海道はアーケードを越えて直進する。
右側に栄立寺があり、道をはさんで金正寺があった。
寺の建物は新しかったが、山門前に「金正禅寺」という石柱や
左側の「 不許葷酒入山門寺 」と書かれた石碑には、天保十年の銘があったので、古い寺なのだろう。
その先の富士ホワイトホテルは真白、隣のNTTも白い建物である。
小川に架かる橋を渡ると左側の道脇に「札の辻跡」の標柱があった。
その左手には「猿田彦大神」の石塔が祀られていた。
「 ここから北西の方角にある実相寺は、かつては西の比叡山、東の実相寺とまでいわれた名刹で、 実相寺から三キロ以上あるこの高札場まで寺域だった、という。 」
その先の左側に小さな祠があり、その一角に「道祖神」が祀られていた。
道が右にカーブしたところの右側には「秋葉山常夜燈」が建っていた。
交差点を越えて進むと右手に県道が見え、右側にすき家があった。
まだ十時半前だったが、早朝に出たのとこの先、食事処がないかも知れないと思い、
ハンバーグを乗せたカレーを頼む。
十五分程で食事は終り、再び歩き始める。
東海道はすぐに県道に合流した。
この角には冨士市が建てた道標があり、合流した道の右側に天白神社があった。
境内には「馬頭観音」と「宝暦十二年」の銘がある石盤があった。
「神社の石碑の文面」
「 太古の柚木村は草深いところだったが、長さ一寸八分の米が三粒降ったので、
一社を設けて天白神社と名付けた。
天正十三年に本社を造営、慶長十八年、寛永十九年、寛文六年に修復した。 」
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鳥居の先にはJR身延線の高架が見え、柚の木駅は左側にある。
高架をくぐり終えた右側に富士山が見えた。
その先の静岡県富士自動車学校からは電線がない富士山が見られた。
六差路の橋下交差点はやや左にカーブする正面の道を行く。
次の信号交差点の右側にある狭い道に、常夜燈と「左東海道」と刻まれた道標と冨士市が建てた説明板があった。
説明板には「 秋葉山常夜燈は慶応元年(1865)の建立で、総高は一メートル四十三センチである、 」 とあった。
道標だ向いている方向の県道を歩いたが、ファミリーマートと夢庵を過ぎた四丁河原交差点で、
この道ではないような気がして、先程の道標まで戻り、右側の細い道に入った。
それにしても、「左東海道」の道標の立てられている方角がおかしい?
この道に入り、一時停止の交差点を越え、小川が流れている橋を渡った交差点では左の道を行く。
左手に県道を見ながら行くと、左手に夢庵があり、横断歩道橋のところで、先程の県道と合流した。
この後は県道を五百メートルほど歩くと左側に「明治天皇御小休所阯」の石柱が建っていた。
隣の小さな石碑は、その時の経緯を記したもののようであるが、残念ながら読み取れなかった。
右手にこんもりとした水神の森が見える。
「
江戸時代の富士川は船渡しで、両岸の岩淵村と岩本村を結んでいた。
水神の森は、「船場」と呼ばれていた富士川渡船場の下船居にある。 」
水神の森には、航海の安全を祈願して水神社が祀られた。
鳥居の右側に「富士山道」、「富士川渡船場跡」の石碑があり、参道には古い常夜燈が建っている。
参道を進むと、赤と白に塗られたコンクリート造りの社殿が現れた。
古い朽ちたような神社を想像していたので興ざめである。
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境内の左側には文政三年の「両舟場」と書かれた「馬頭観音」、 手前には「岩本村六番船方講中」と刻まれた常夜燈があり、多くの人の名が刻まれていた。
説明板
「 渡船業務は、最初は京都側の岩淵村が担当していたが、
交通量の増大に伴い、寛永十年(1633)以降は岩本村も三分の一を分担するようになった。
東岸の渡船場は、松岡地内の一番出しから川下二十町の間に、上船居、中船居、下船居の三ヶ所があり、
川瀬の状態で使い分け、そこから、上、中、下の往還が通じていた。 」
富士川に向って歩き始めると、冨士市が建てた「道標」の東方向に、「護所神社と雁堤」と記されている。
雁堤が気になって、神社手前まで戻り、土手に向った。
土手(堤)は散歩道になっていて、正面には箱根連山が一望できた。
この連なる堤を雁堤という。
「
地元民の話では、雁堤は「かりがねつつみ」と呼ぶのだそうで、
実相寺の上にある岩本山公園から見ると「雁が連なって飛んでいるように見える」とのこと。
実相寺まではかなりの距離があるので、確認に行くことはあきらめた。 」
街道に戻り、富士川を渡る。
今は富士川橋を渡るが、江戸時代は舟渡しだった。
「 舟渡しに用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり、通常の定渡船には人を三十人、 牛馬を四疋乗せ、船頭が五人ついた。 」 という。
富士川橋西交叉点を右折して上流に向うと、車道と遊歩道の間に 「常夜燈と富士川を開削した角倉了以の石碑」があり、 右手には富士川の向うに富士山が見えた。
説明板
「 東海道名所図会にも記されているが、
富士川は岩が多く、溶岩の露頭は地盤堅固で、舟が通るのに適さなかった。
江戸時代の豪商で土木事業家だった角倉了以は、困難な事業を克服し、
石を砕き川底をならして、高瀬舟が通れるようにした。 」
「常夜燈」の前の横断歩道を渡り、正面の坂道を登る。
右へ左へとうねりながら、少しずつ道は広くなっていき、富士川橋西交叉点の上部の交叉点に出た。
ここから歩いてきた富士川橋を見たが、堅固な鉄骨橋である。
交差点で右へ曲がり、少し登ると清源院があるが、ここは左へ行く。
その先の民家の塀前に「秋葉山常夜燈」が建っていた。
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道は右へ、左に曲がると右側に高さ十メートルの大きな槙が生え、黒塗りの塀のある屋敷が現れた。
門の下部に 「小休本陣常盤邸」 と書かれた教育委員会の説明板があった。
建物の脇に「秋葉山常夜燈」が建っていた。
「 東海道の間宿・岩淵には渡船準備のため、大名が一時休止できる施設として、
小休本陣と脇本陣が各一軒設けられた。
常盤家は、岩渕村富士川渡船の名主で、小休本陣を務めた家である。
現在の建物は安政の大地震後に建てられたものである。 」
用水の側溝の蓋には「東海道ルネサンス」の文字があった。
交差点を直進すると右側に赤いエプロンをした大きな「地蔵尊」があり、その先に新豊院の山門が見えた。
「 新豊院は鎌倉時代の創建で、山門は江戸時代の建築である。
右側にまた「秋葉山常夜燈」がある。 」
その先は突き当たり、右にカーブしている。
その角に、江戸から三十七番目の「岩淵の一里塚」が榎の大木とともに残っていた。
「 右側の榎(えのき)は今まで見たものよりも巨大である。
左側の榎は昭和四十二年に枯死したので、昭和四十五年に植えられたもの。 」
木の下に小さな石仏と「東海道夢舞台 富士川町岩淵」の道標があり、榎の奥には雄大な富士山が見えた。
説明板
「 ここが岩渕村と中之郷村の境で、岩淵名産の栗の粉餅を売る茶屋が並んでいた。 」
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道に沿って進むと右手に富士川町役場があり、隣は富士川第一小学校である。
小学校の先は左にカーブするが、その先は道なりに進むと、富士川駅前の十字路に出てしまう。
「 東海道線の富士川駅の旧名は岩渕駅、駅前の道は県道396号(旧国道1号線)で、 初期の東海道はこの道に沿って通っていたが、 度重なる水害のため山裾を迂回するように新たに道が造られ、 宝永四年(1707)十二月から三ヶ月かけて新ルートに移された、といわれる。 」
この東海道に入る入口が分りづらい。
小学校を過ぎたら、左側の「秋葉山常夜燈」の先の信号のない小さな交差点で、右折する。
赤い消火器がある家の先を目印にするが、気をつけないと駅前交差点まで行ってしまう。
東海道はその先で左にカーブし、中部電力の営業所の前を通り過ぎると、
新町本町防災倉庫の前に「秋葉常夜燈」がある。
その先の三叉路を右行けば東海道であるが、
江戸時代に旅人がお参りした延命福地地蔵のある宗済寺に寄るために左折した。
その先の交差点で右折すると等覚寺、道の反対はさくら台幼稚園があり、その先に宗済寺があった。
少し急な石段を上ると山門の脇に数体の石仏が祀られていた。
山門を入ると正面に本堂、その左の延命閣というお堂に「延命福地地蔵菩薩」という
一メートル五十五センチの大きな石造りの地蔵さんが祀られていた。
説明板「笠被り地蔵尊」
「 寛政九年(1797)、中之郷村の名主が夭折した愛児の追善供養のため、
信州の石工に由比川上流の石で造らせ、寄進したもので、
山門右側に安置され、前を通る東海道に向っていたので、
旅人達に評判になり、笠被り地蔵尊の名声は高まった。
昭和五十年頃、現在地に移され、覆堂で保護した。 」
訪れたのは富士山が見える二月。
梅林の矢印に従って墓地を上ると、頂上付近に梅林があり、梅越しに富士山が一望できた。
しばし眺めた後、下に降りたが、傾斜が急で年寄りの墓参りは難儀だろうと思った。
寺の先には東海道は残っていないようなので、先程の交差点まで引き返す。
右の道を上ると東名高速道路のガードがあり、
その手前の「夢舞台東海道」の道標には「中の郷 蒲原宿二十三町(2.5q)」とあった。
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東名高速道路をくぐると、正面に「野田山東京三田講」と「薬師如来」の石碑があり、ここで道が二又に分かれる。
東海道は、高速に沿った左の道を進む。
やがて道は右にカーブし、小さな川を渡る。
川を渡ったところで、また二又になるが、左の道を行く。
「ツル家」という和洋菓子屋があり、その先五十メートル程歩くと、
右側に安政三年の銘のある「秋葉常夜燈」が建っている。
その先の右側に「宇多利神社」の石柱と「常夜燈」があるが、右手には神社は見えなかった。
このあたりは(萬里」というところである。
少し歩くと左側から道が合流し、また、道が二つに分かれる。
左側の道に「蒲原」の表示があり、右側の道は「この先、行止り」の表示があるが、
東海道は右側の狭い道を進む。
車は新幹線のところで行けなくなるが、新幹線の下に大人がくぐれるトンネルがあり、歩行者はトンネルをくぐり、反対側に出られる。
トンネルをくぐり、二百メートル進むと左にややカーブし、左側の道が合流する。
この道はさっき左に分かれた道である。
左の道には大きな「秋葉常夜燈」があり、その横に 「聳岳雄飛」 と書かれた石碑がある。
石碑は昭和四十五年の区画事業の記念碑で、常夜燈もその時。ここに移されたのだろう。
この辺り小さな道が左右に分岐するが、東海道はそのまま直進する。
少し行くと右側の古い家の前に「明治天皇御駐輦之趾之石碑」が建っている。
「 明治天皇が、明治十一年、御巡幸の際、ここで休憩して、富士山を眺めたといわれる。
それを記念した石碑である。 」
道が左にカーブすると登り坂で、続いて右にカーブする。
右側の山裾の少し高く目立たないところに、三基の石仏が祀られている。
道は左にカーブして高速道の横に出た。
高速道路の東側を見ると、富士山が見えたが、
この先、由比までは山陰に入り、富士山は見られなくなる。
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高速道路に沿って百メートルほど行くと、高速道路の上を渡る橋があり、「静岡市」の標示板がある。
以前は「蒲原町」の表示だったが、合併で変ってしまった。
橋を渡って先に進むと、道はかなりの急な下り坂である。
道端に野生と思える水仙が群がっていた。
大きな石碑が林立する光蓮寺の前を過ぎる。
下りきったところで道を右折すると小川があり、橋を渡ると右側に「北条新三郎の墓」の案内板がある。
その表示に従い、山道を少し登ると小さな墓があった。
説明板「北条新三郎の墓」
「 北条新三郎は蒲原城主だったが、永禄十二年(1569)十二月、武田軍の攻撃に遭い、蒲原城は落城。
城主は城を抜け出し、常楽寺まで逃れたが、寺に火をつけて自害したと伝えられ、
その供養のため碑が作られた。
常楽寺はこのあたりにあったことは間違いないが、位置は定かでない。 」
東海道に戻り、少し行くと道の左側民家の一角に「一里塚」の石柱があり、その奥に祠があった。
「 江戸から三十八番目の蒲原一里塚は、元禄十二年の大津波で、蒲原宿が流失して山側に移転したのに伴い、 この場所に移されたのである。 」
坂を下りた所が諏訪町で、右側の小高いところに諏訪神社がある。
境内にある遷座三百年記念碑は、大正九年に建てられたものである。
諏訪神社の歴史
「 諏訪神社は、今から八百五十年前の保元年間に、
富士川の水害に苦しめられてきた住民達が、信州上諏訪大明神を勧請し、
六本松の池の畔に宮を建てたのが始まり、と伝えられる。
その後も富士川の水害が度々起きて、御宮の流失の危険に迫られたので、
元和六年の水害の後、現在地に遷座して、本殿、拝殿などを造営したが、
それらの社殿は元明六年の火災で焼失、
天保弐年に再建された社殿も、安政の大地震による山崩れで押し出され、現在の場所に転座した。 」
その先の右側の角地に、蒲原宿の江戸側の入口、「東の木戸跡」の小さな石柱と
「東海道夢舞台 蒲原宿東の木戸跡」の道標があった。
富士川越えを済ました旅人は、ほっとしたように宿場に入っていったことだろう。
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静岡県が建てた「夢舞台東海道 蒲原宿東木戸跡」の道標の近くに、大きな蒲原宿説明板があった。
説明板
「 江戸幕府により開設された蒲原宿は、東海道本線の南側の海側にあったが、
元禄十二年(1699)の大津波で大被害を蒙り、元禄十三年(1700)に山側の現在地に移された。
蒲原宿の天保十年1839)の宿内人口は二千四百三十九人、家数が四百八十八軒、本陣は一軒、脇本陣が三軒、旅籠は四十五軒あり、かなり活況を呈していた。
特に、富士川の川留めのときには渡しを待つ人で大変な混雑だった。 」
蒲原宿江戸口は宿場特有の枡形になっていた。
宿場に入るには枡形を右折すると東の木戸があり、そこから先が宿場だった。
現在の道は、直角に曲がっていないが、道が少しずれているあたりに、枡形の面影が残っている。
説明板脇の「常夜燈」は天保十三年(1831)に建立されたものである。
江戸時代、「宿内安全」と刻まれた常夜燈には夜になると明かりが点され、
東木戸に入る旅人を映し出していた、という。
右側の山に発電所への落水管が見え、川に沿ってパイプが続き、右側の日軽金の工場まで延びている。
工場で使用する電気を自家発電しているのである。
その先の左側に「木屋」と書かれた木標の白い家がある。
江戸末期に宿場の問屋職をつとめた渡辺家である。
説明板
「 渡辺家は材木を商ったことから、木屋という屋号で呼ばれた。
左の奥に見える三階建ての土蔵は、四隅の柱を上に行くほど狭める四方具(しほうよろい)という、
地震に強い技法で作られていて、安政の大地震にも耐えたという建物である。
棟札から天保九年(1838)の建築であることが分った。 」
木屋の筋向いに、脇本陣があったようだが、今は残っていなかった。
(注)現在は木屋江戸資料館として土蔵と資料を公開している(無料だが要予約ー土日休日の雨天でない日)
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宿場を歩いてみると、新しい家と古い家が共存していることが分る。
新しい家に混じって、なまこ壁の商家や連子格子、旅籠造りの民家が残っているのである。
また、古い郵便ポストも残り、昭和の良き時代を思わせる雰囲気もあった。
右側に「岩戸山、一国之廿六番」と刻まれた石柱があり、奥を見ると竜雲寺が見えた。
その先にも「南無妙法蓮華経」と刻まれた石柱があり、奥に東漸寺という日蓮宗のお寺があった。
右側の鳥居の手前に、なまこ壁の佐藤家がある。
「
かって「佐野屋」という商家だった家で、明治時代に建てられた建物という。
「ぬり壁」という技法で作られているが、
土蔵造りに比べれば壁の厚みは少ない割に防火効果が大きかったので、
お金はかかるが商家に多かったようである。
塗り壁と寄棟の屋根により重厚感があり、なまこ壁の白と黒のコントラストが美しかった。 」
その先の左側の「塗り壁造り」の家は吉田家である。
「 昭和まで 「僊菓堂」という和菓子屋を営んでいた、という。
玄関がなまこ壁の塗り壁造りで、中に入ると柱のない広々とした店の間造りになっている。 」
更に歩くと宿場の中央に出た。
そこには道と交差するように小川が流れている。
その手前の右角の家の前に「問屋場跡」の看板が立っていた。
川の縁に案内板があったので、小川に沿って左側へ行った。
七十メートルか、八十メートルほど歩くと、左側の少し入ったところに、
昭和三十五年当時の蒲原町長が建てた「蒲原夜之雪記念碑」があり、
その右側に安藤広重の「東海道五十三次 蒲原雪之図」のレリーフがあった。
「 この記念碑は、浮世絵が昭和三十五年の國際文通週間の記念切手になり、
世に広く知られるようになったことを記念して、蒲原町が建てたもの。
なお、蒲原町は、今回の町村合併で静岡市に編入された。
蒲原雪之図は、雪の夜、傘や蓑に雪を積もらせた人々が家路を急ぐ様が描かれている。
安藤広重は、天保三年(1832)四月、幕府の八朔馬献上の一行に加わって京都に行き、
九月には江戸に戻っているので、
当地で雪のシーンに出会った訳ではない。
蒲原は雪となじみのない温暖な地なのに、広重がこんな構図をどうして思いついたのか、不思議に思った。 」
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東海道に戻り、小川を渡ると本町である。
その右側の「御休処」になっている家は、昔の旅籠、和泉屋である。
説明板
「 天保年間(1830〜1844)に建てられたもので、安政の大地震でも倒壊を免れた。
現在は鈴木家の四間余とお休み処の二間に仕切られているが、
二階の櫛形の手すりや看板かけに、江戸時代の上旅籠の面影を見ることができる。 」
道の反対にある屋根付きの門と黒壁で囲まれた屋敷は、「西本陣」と呼ばれた平岡本陣だった家である。
住宅に使用されているので中を覗くことはできなかった。
説明板
「 蒲原宿には、ここから百メートル程東に、「東本陣」と呼ばれた多芸本陣があり、
西本陣と二軒で務めていたが、宝暦年間(1751〜1763)につぶれてしまった、という。
建物は大正時代のものだが、大名駕篭を置いた平石は今でも残っている。 」
信号交差点を越えて進むと、左側にあるのが磯部家である。
説明板
「 明治四十二年(1909)に建てられた建物は、総けやき造りという豪勢さで、
二階のガラスは手作りガラス、という。 」
国産のガラスは明治四十年に始まったというから、
この建物は当時一番お金がかかった建物だったのではないだろうか??
右側に郵便局があり、その先の鳥居の奥には若宮神社がある。
「
徳川家康が、織田信長を接待するため、御殿を建てた場所といわれるが、確証はないようである。
ただ、道の反対の狭い道は「御殿道」と呼ばれているようだった。
江戸時代には鳥居の脇に高札場があったようである。 」
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その先の右側の洋風の建物は、旧五十嵐歯科医院で、家の前に説明板が建っている。
説明板
「 この建物は、町家だったのを大正時代に五十嵐氏が歯科医院にするため、
洋風に増改築した「擬洋風建築」と呼ばれるもので、国の登録文化財に指定されている。
開館時間は、三月〜十一月 十時〜十六時、十二月〜二月 十時〜十五時、
休館日は月と火曜日、お盆(8/7〜8/16)、年末年始(12/18〜1/5)である。 」
本格的な洋館でなく、洋館風ということから、国の指定文化財になったのだろう。
その先の左側の二階屋に 「蔀(しとみ)戸のある家」 という説明板があった。
説明板
「 志田家住宅は安政の大地震後に再建されたものだが、
東側の二階建ての部分は通り十間一列型と呼ばれる町家の典型的な建物で、国の登録文化財である。
蔀戸は雨戸の一種であるが戸を横に入れたもので、昼間は金具で上から持ち上げ日除けとして使えるものである。 」
その先の右側に格子の美しい家がある。
この家は増田家であるが、蒲原にはこのような多種多彩の家があることに、正直驚いた。
東海道はこの先四百メートルほど行き、西町で南へ折れて行く。
「 長榮寺は直角に曲がった枡形の角にあり、その手前には 「南無妙法蓮華経法界」 と書かれた石碑があり、その奥に、妙隆寺という日蓮宗のお寺がある。 」
枡形を折れ、百メートル程歩くと、県道にぶつかる。
江戸時代、この付近には茄子屋という茶屋があり茄子屋の辻と呼ばれていたが、
槍の名人と薩摩藩の大名行列との喧嘩は有名である。
「 承応弐年(1653)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸に向かう途中興津川付近で、
薩摩藩の大名行列と出会い、
槍の穂先が相手の槍に触れたことから口論になり、辱めを受けた。
大久保はその場は我慢したが、蒲原宿の茄子屋(青木の茶屋)の辻で待ち伏せして、
薩摩藩士と乱闘を始め七十人近くを倒したが、最後に追っ手に見つかり、殺されてしまった。
当時の竜雲寺の住職が、墓地に葬り供養した。 」
道の右側に「夢舞台東海道 蒲原宿西木戸跡」の道標と「西木戸跡」の石柱があり、大きな蒲原宿案内板があった。
江戸時代にはこのあたりに西の木戸があり、蒲原宿の京方の入口として、番人が監視していたことだろう。
蒲原宿はここで終る。
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