『 mrmax 東海道を歩く  I 原 宿〜吉原宿  』


原宿から吉原宿にかけては雄大な富士山を見ながらののんびりした旅を想像していたが、
江戸時代の農民は富士山からの湧き水に悩まされていたこと、それを克服した先駆者のことを始めて知った。 
吉原宿に入る手前に東海道で冨士が左に見える数少ない「左冨士」という名所がある。 
吉原宿は冨士川の舟渡りと薩田峠を越える手前の宿場であったことで、賑わった。 

(ご参考)  原〜吉原  11.7キロ  徒歩約3時間10分    



原宿から吉原宿

一本松バス停の大きな木の下には「村社三社宮」と書かれた石柱と鳥居があり、 一本松の鎮守の浅間神社があった。 
江戸時代にはここに原宿の西の入口の見附があった。
その先の左側に大通禅寺があった。

「 駿河銀行の創設者・岡野喜太郎が、少年時にここで勉強したということや石碑などから、彼の寄進が多かったことが分る。 
本堂は最近建てられたと思うがなかなかのもので、境内には羅漢像を配置した庭を造ったりしていた。 
庭には宝暦、安永四九、享保十九の文字が読める石仏と供養塔五基が祀られていた。 」

延命地蔵縁起には、 「 今から三百五十年前には大通寺の門前は広々とした湿原で、 浮島沼には凛々とした水をたたえ、富士の霊峰は水面に映え、街道の松並木は一段と風情を添えていた。 」 とあるが、風情ある光景は残っていない。 

街道に戻り、少し歩くとカインズホームの先の右側に、浅間愛鷹神社(せんげんあしたかじんじゃ)が ある。

「  桃里集落の鎮守社で、神社の創建は延享弐年(1745)と古く、祭神は木花咲耶姫命と愛鷹大神だが、 建物は新しかった。 
なお、桃里集落は、神社より百三十年古い元和元年(1615)に、鈴木助兵衛父子により開拓を始めたのが 始まりである。 」

鳥居前の常夜塔の脇に古く形が崩れている石像があるが、 よく見ると笏のようなものを持っているので 前述の浅間神社と同様、塞(さい)の神だろう。

三社宮 x 石仏と供養塔 x 浅間愛鷹神社 x 塞の神
三社宮
石仏と供養塔
浅間愛鷹神社
塞の神


桃里中町の停留所の先の左側の狭い道に入り、千本松原へ向かった。 
車が通れない狭い踏切を渡り、旧国道1号線の千本街道を横断し千本松林に入る。 
千本松原は沼津の乗運寺の和尚が防潮林として植えたもので、 どこまでも続く松の林でとても千本という数ではない。 
松は一斉に山側に傾いているのは風が強いということか?

堤防に上ると左の伊豆半島からから右の御前崎まで海岸線が続いていて、駿河湾が一望できた。 
これから向かう吉原方面の数本の煙突から白い煙が上っているのは少し不気味であったが・・・・ 
お茶を飲みながらぼーけと海を見ていると、一隻の漁船が近づいてきた。 
何を獲っているのか分らないが、時期的には小女子漁と思えた。

二十分程休憩して、街道に戻った。 
一キロほど真っ直ぐな道を歩くと東海道本線の踏切を渡る。 
踏切を渡った左側の奥に 「大乗妙典石経塔 村中為安全 嘉永三 」 と刻まれた石塔と二基の石仏があり、そのうちの一基には「天保五年」の文字が見えた。

「 大乗妙典とは衆生(しゅじょう)を迷いから悟りの世界に導いてくれる経典のことで、 一般的には法華経、即ち、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)をさすといわれる。 
天災や飢饉にみまわれた幕末には、全国で 「大乗妙典一石一字経供養塔」や 「奉読誦大乗妙典一千部供養、妙法千部供養」などと刻まれた石塔が建てられた、といわれ、 その一部が各地に残っているようである。 」

植田三十郎の墓地があった。

「 遠州浪人の植田三十郎は、寛文年間(1660年頃)に、この地に堤防を築き干拓を計るも、 泥の浮動のため失敗に終わった。 
宝暦年間(1751〜1763)に、今井村の六郎左衛門の手で再び開発が進められた。 
この地は開拓の恩人の姓を取り「植田新田」と名付けられ、また、三十郎新田とも呼ばれた。 」 

道の奥には天神社、清正公社の建物があった。 

千本松原 x 一隻の漁船 x 大乗妙典石経塔 x 植田三十郎の墓
千本松原
一隻の漁船
大乗妙典石経塔
植田三十郎の墓


踏切越えると左側に林が見え、八幡宮があるが、その先からは富士市になる。
東海道は東柏原交差点で左側から来る県道380号線(旧国道1号線)と合流してしまった。 
今歩いてきた道と違い車の通行は多くなったが、左側の家の間から千本松林の一部が見えた。 

七百メートルほど歩くと東田子浦駅前に出た。 
買い物をしようと駅に向かったが、店も駐車場もない駅で、がっかり!! 
駅の手前にある六王子神社の祭神は、この先の浮島沼に身を投げてしまった六人の少女である。

「  昔、沼川、和田川と潤井川が合流する淵(三股)に龍が住んでいて、 毎年の祭りに少女を生贄(いけにえ)にするしきたりがあった。 
四百年前、関東の巫女が京に向かう途中、生贄の籤を一番若いおあじが引いてしまった。 
残りの六人は京からの帰途柏原あたりにきたとき、悲しみの余り世をはかなんで、 全員が浮島沼に身を投げてしまった。 
彼女達の霊を祀ったのがこの神社である。 」 

神社の近くには海抜九メートル六十センチの表示があったので、 東海地震で高浪が起きたら危ないなあ、と思ったのだが、地元の人はどう思っているのだろうか?? 
(注)田子浦駅の北方にある国道1号線を越えた先に浮島ヶ原自然公園がある。 2010年に開園したので、行っていないが・・

右側に柏屋などの商店があるが、道の反対の駐車場の一角に 「見て歩こう冨士市の東海道」と表示された標柱があり、
「間の宿柏原本陣跡」 と書かれている。

「  江戸時代、東田子の浦駅のあたりの柏原には立場茶屋があった。 
この地は鰻がとれ、蒲焼きが有名だったといわれ、十返舎一九は東海道中膝栗毛に
 「 新田といへる建場にいたる。  (中略)  ここはうなぎの名物にて、家ごとにあふぎたつる   かば焼きの匂いに  ふたりは鼻のさきをひこつかせて、 」   と書き、
「  蒲焼の  にほひを嗅ぐも  うとましや   こちらふたりは  うなんぎのたび   」 
という狂歌を載せている。

少し先の柏原交差点の手前右側に立派な門構えの立円寺がある。
門前の題目碑には常八、半蔵などの名前と金二朱など寄進額が書かれていた。 

八幡宮付近 x 六王子神社 x 柏原本陣跡 x 立円寺
八幡宮付近
六王子神社
柏原本陣跡
立円寺


山門をくぐると、真っ赤な錨が目に入ってくる。 

「  昭和五十四年十月十九日、清水港から救援米を載せて出港したゲラテック号は台風に遭遇し、 寺の南方にある柏原海岸に打ち上げられ、インドネシア人船員が二人亡くなった。 
彼らの霊を慰めるため慰霊碑が建てられ、その横にゲラテック号の錨を設置したものである。 」

隣の三角形の石碑は、尾張藩の侍医、柴田景浩が文化五年(1808)、 江戸に下る途中立円寺に滞在した時に冨士を賞して碑を建てたもので、望嶽碑と呼ばれるものである。
石碑の裏には 「 予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。
  山は冨士より奇なるはなし。 冨士の勝、この間に望むにしくはなし(以下略) 」 ということが漢文で書かれている。 

三百メートルほど先に昭和放水路にかかる広沼橋がある。
橋の下流には水門が見え、放水路の両脇にはツツジ、松、ツゲ、槙などが植えられていた。 
橋を渡った左側に「見て歩こう冨士市の東海道 」の標柱があり、「増田平四郎の像」とあるが、 保育園の駐車場の左に「増田平四郎像」と「開墾増田平四郎翁」と書かれた石碑があった。

「 増田平四郎は、幕末の飢饉や水害に苦しむ村民を見て救済を決意し、 東海道の北側に広がる浮島沼の干拓を計画したが、 幕府から干拓事業の許可がおりず、立案から二十七年目の慶応元年(1867)に工事に着工し、 二年後の明治弐年(1869)、計画から三十年を要してついに大排水路を完成させたが、 無情にもその年の八月の高波により全て破壊されてしまった。 
平四郎の努力は報われなかったが、彼の事業は後世に受け継がれ、大排水路の場所に昭和放水路が築かれ、 浮島沼も完全に干拓されて田畑化されたのである。 」 と彼の功績を讃えていた。 

この辺りの海が有名な田子の浦で、平安時代からここからの冨士を多くの歌人が詠んだ。
今は電線や民家が目に入るが、富士の姿は美しい。

ゲラテック号慰霊碑 x 望嶽碑 x 増田平四郎像 x 冨士山
ゲラテック号慰霊碑
望嶽碑
増田平四郎像
田子の浦の冨士山


道の右側の田中町公会堂の隣に、白い鳥居の米之宮神社がある。
手前の淡島神社の前にはしめ縄をかけられた石像が祀られていた。 
その先の横断歩道橋には、四百メートル先で、県道380号と県道170号に分かれる表示があった。 

その先の愛鷹神社の鳥居の前に、わらと板で作った小さな祠のようなものが祀られていたが、 これはどういうものだろうか? 
境内の一体の石像は、塞の神か石仏なのか、磨耗しているので分らなかった。
(注)東京、神奈川、静岡県三島までは、集落の境を守るため、道祖神が祀られているが、 沼津を過ぎると塞の神に変わった。 

東海道(県道170号線)は少し先の桧交差点で三叉路になる。
右へ行くのは県道380号線(旧国道1号線)で、大部分の車はそちらに入っていった。 
左側の道が旧東海道で、大野新田から吉原市街地を通り、柚木までの間の大部分が残っており、 車の通行量が少ないので、のんびり歩くことができる。 

道に入るとすぐの左側に冨士マリンプールに入る入口があり、その先の右側に庚申堂があった。
愛鷹神社から三百メートル程歩くと右側に「高橋勇吉と天文掘」と書いた大きな説明板があった。 
高橋勇吉は、この地区の大野新田、桧新田、田中新田の約八十ヘクタールの土地を水害から守るため掘割を作った人物である。 

説明板
「 高橋勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で、 天保七年(1836)の大飢饉で村民が困窮しているのに心を痛め、 約八十ヘクタールの三新田(大野、桧、田中)を水害から守るため、排水路の建設を計画し、 多くの反対や苦難を乗り越えて、十四年後の嘉永三年(1850)に完成させた。 
彼は自分の田畑や財産などを売り払って工事費にあてたといわれ、 また、彼の天文の知識や土木技術が優れていたことから この掘割を天文堀と呼んだ。 
今、三新田は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀はその跡を留めていない。 」  

こうした偉業に石碑が建ち、その功績が顕彰されているのはもちろん、地元の小学校でその功績を教え伝えていってもらいたいものである。 
正面に見える白い煙が出す赤と白の煙突は、近づくに比例して大きくなっていく。 
左側に元吉原小学校、左奥の小高いところには稲荷神社がある。 
このあたりは、天和弐年(1682)まで東海道の宿場だった元吉原町(現在は今井)である。
今井三丁目の道の右側には「秋葉常夜塔」が祀られている。
元吉原の名前は小学校と中学校の名に残るだけで、地名などすべて今井になっていた。

愛鷹神社鳥居 x 庚申堂 x 説明板 x 秋葉常夜塔
愛鷹神社鳥居
庚申堂
高橋勇吉説明板
秋葉常夜塔


その先の左側に「南無阿弥陀仏」の大きな石柱と「今井山妙法寺」の小さな石柱があるので、 石段を上って行くと、色々な形をした伽藍が並んで建っていた。

「 正式名は毘沙門天妙法寺で、千年以上も前に富士山の修験者の霊場として始まり、 戦国時代には武田氏、江戸時代には紀州藩徳川家の信仰をうけた。
本尊は毘沙門天で、聖徳太子の作ともいわれる、 元吉原宿は毘沙門天の門前町として栄えたようである。 
今も正月だるまで賑わう、という。 」

寺を出ると道が左右に軽いカーブを繰り返す。 
遠くで見た赤と白の煙突がついに右側の家のベランダの先に見える。
富士市は製紙業の盛んな町だが、これは豊富な富士の伏流水によるのだろう。 
家の隣に工場があるので、覆いかぶさるように大きく見えるのだが、 臭いが家に入ってくることはないのだろうか??  

東海道本線の踏切を渡ると正面に日本製紙冨士工場があり、さっきの煙突はここのものだった。 
東田子の浦駅前の六王子神社の説明にあった「いけにえになったおあじ」は、 踏切の反対の方角(南)に行った鈴川の阿字神社に祀られている。 

線路に沿って歩くと、吉原駅入口交差点の手前で道は大きく右にカーブし、 沼川に架かる河合橋を渡る。
橋を渡るとガソリンスタンドがあり、道が直進と左に分かれている。 

正面の道の先には国道1号や新幹線のガートが小さく見え、その先に山の裾野が広がっている。 
富士山が見えないといけないのだが、もやに覆われてまったく見えない。 

左の道を行くと、右側の山清倉庫の前に一本の松の木があり、「東海道」の標識があった。 
道は右からの国道139号線と合流するので、とりあえず139号線を横断し向こう側に出て、 139号を左に進む。 
ホンダの販売店の先を右に曲がり、その左二本目の細い道を入り、 国道1号線と新幹線のガードをくぐると県道171号線の標識があったので、この道を進む。

妙法寺 x 大きな煙突 x 河合橋 x 県道171号
妙法寺
大きな煙突
河合橋
県道171号


車の通行がほとんどない住宅地を歩くが、道が二度にわたって右にカーブしている。 
二つ目のカーブが終わる右側に、うっそうとした樹木に覆われたところがあるので近づくと、 左富士神社だった。

「 左富士は歩いていると左側に富士山が見えることから付いた名前である。 
東海道を京に向かて歩くと、北側にある富士山は右に見えるはずである。 
しかし、ここは道が右にカーブして北東に向きを変えたため、左側に富士山が見えるのである。
大名行列を始め、東海道を歩く旅人は珍風景として人気があり、 「吉原の左富士」と呼ばれた場所である。 」 

左富士神社から二百メートル程の信号交差点の先に一本の松の木があり、 その下に「左富士」の石碑と黒大理石に馬に乗った旅人の姿を描いた「名勝左富士」の碑が建っている。
江戸時代には 「 この辺りの松並木の左側に富士山が見られた 」 とあったが、 日清紡の工場が富士山を覆いかぶさるように建っているので、今は見ることは不可能と思えた。
ここには 静岡県が建てた 「夢舞台東海道 冨士市吉原宿左富士 」の道標もあった。 
「夢舞台東海道」の道標は、静岡県が終わるところまで、この後もしばしば現れる。 

この先すぐに道が左にカーブするため、富士山は再び右側に戻ってしまう。
依田橋郵便局とセブンイレブンが隣り合っているが、その前に「馬頭観音」の祠があった。
入口が車道に向いているため、内部を見るには車への注意が必要である。)
もともとこの向きに建てられていたようなので東海道は車道を歩いていたということになるだろう。 

少し行った三叉路の信号交差点の右側に「平家越え」の碑が建っている。

説明板
「 治承四年(1180)の十月二十日、冨士川を挟んで源氏と平家の両軍が対峙した。  その夜半、源氏の軍勢が動くと近くの沼に眠っていた水鳥達が一斉に飛び立ち、 その水音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み戦いもせずに西に逃げ去った。  源平の雌雄を決する富士川の合戦が行われたのはこの辺りと言われ、平家越しと呼ばれている。 」 

平安時代の富士川はいくつもの分流があったので、この辺りにも流れていたのであろう。 
また、冨士山からの伏流水もあったと思えるので、いたるところに葦などが生い茂っていて水鳥の棲家になっていたことも間違いないだろう。 

左富士神社 x 一本の松の木 x 馬頭観音の祠 x 平家越えの碑
左富士神社
一本松
馬頭観音の祠
平家越えの碑




吉原宿

平家越えの碑の先に、小さな和田川が流れ、そこには「平家越え」と書かれた橋が架かっている。
橋を渡ると少しの間は空地や畑が続いていたが、家が増えてきたところに「東木戸跡」の標柱が立っていた。
ここが吉原宿の江戸側の入口である。

「 吉原宿はJR吉原駅に近い元吉原の地にあったが、 寛永十六年(1639)の津波の被害で、壊滅的な被害を受け、 現在の富士市依田原付近(中吉原)に移った。 
しかし、延宝八年(1680)の津波により、再び、壊滅的な被害を受け、 天和二年(1682)、吉原本町に移転した。 
吉原宿がここに移ったことにより、これまで海沿いを通っていた東海道が、 海から離れて北側の内陸部に大きく湾曲することになった。  このことにより、富士山が左に見えるようになり、左富士と呼ばれる景勝地が誕生した。 
吉原宿は天保十四年の人口が二千八百三十二人、家数六百五十三軒で、 本陣が二軒、脇本陣が三軒と多く、旅籠が六十軒もあったのはこの先に冨士川の舟渡りとさった峠を越える手前の宿場だったからである。  」

道はその先で右にカーブするが、手前の左側に 「岳南鉄道、本吉原駅」がある。
岳南鉄道はJR吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ9.2qの短い路線である。 
岳南鉄道の存在を知らなかったので、一両編成の電車が走っているのに驚いた。 

踏切を渡り、交差点に出ると両側は立派なアーケード街が続いていた。
右手にある天満宮と唯称寺以外は全て商店という状態だった。 
昨今、この手の商店街に「シャッター通り」という異名が付けられているケースが多いが、 ここはまだ健在だった。
しかし、その反面、宿場時代のものは勿論、昭和初期の建物もないという感じで寂しい限りである。
調べてみると、次のような訳があったのである。 

「 今から四十年ほど前までは江戸時代の面影を色濃く残した町並みで、 個性的木造建築が軒を連ねていたという。 
ところが、富士市が、この商店街を防災街区に指定し、 全店が強制的に鉄筋コンクリートに建て替えさせられた。 
しかも、本陣を含め歴史的に価値ある建造物も全て取り壊され、移築さえされなかった。 
住民の一部は市のやりかたに反対したようだが、時代の流れには逆らえず、吉原の町は今のような姿に形を変えてしまったのである。 」

平家越え橋 x 吉原宿東木戸跡 x 吉原本町駅前 x 吉原本町商店街
平家越え橋
吉原宿東木戸跡
吉原本町駅前
吉原本町商店街


天和弐年(1682)創業の元旅籠・旅館、鯛屋與三郎もその一軒で、四十年前に現在のビルを建てて、 左側の狭い玄関が入口、二階が客室になっている。
アーケードの下を歩いていき、右側のお菓子処 「きよせ」で、  「宿場小まんじゅう(12個入り200円)」を買おうとしたら、すでに売り切れていたので残念だった。 

東海道はアーケードの道と別れて、左側の静岡駿河銀行手前を左折する。 
細い道をまっすぐ進むと、妙祥寺の「題目碑」がある。
題目碑の前には市が建てた道標があるがここを右に曲がると西仲町のバス停がある。 

道をしばらく歩くと、右側に冨士市が建てた「吉原宿西木戸跡」の道標がある。
その先に小川が流れていて、四軒橋を渡ると国道139号線に出た。 
これで吉原宿は終わるが、それにしても、行政の手で歴史的な建物が一方的に壊されたのは誠に残念である。 
なお、安藤広重の「東海道吉原宿」は吉原本町ではなく、 この先にある「間宿・元市場の茶屋と富士山」の風景を描いている。

旅館鯛屋與三郎 x 題目碑 x 西木戸跡 x 安藤広重の吉原宿
旅館鯛屋與三郎
題目碑
西木戸跡
安藤広重の吉原宿




(11)蒲原宿へ                                  旅の目次に戻る





かうんたぁ。