三島宿を出ると流れている川が境川で、ここが伊豆国と駿河国の国境である。
沼津宿は水野家の城下町でもあったが、戦災に遭い当時のものは残っていない。
原宿は「浮島原」の中にある宿駅ということから名付けられた。
当初は甲州道沿い(現在の県道380号沿い)にあったが、津波により慶長年間に移転した。
(ご参考) 三島〜沼津 5.8キロ 徒歩約2時間
沼津〜 原 5.9キロ 徒歩約1時間50分
三島宿の西の追分といわれる秋葉神社から三十メートルほどのところに境川橋がある。
橋の下に流れる小さな川が境川だが、その名が示す通り、江戸時代には伊豆国と駿河国の国境、
現在は三島市と駿東郡清水町との境になっている。
橋の中ほど迄歩くと、 「千貫樋」 の説明板があり、
川の上流を見ると、大きなコンクリート製の樋が、川を横切って架かっていた。
よく見ると「千貫」という文字が見える。
どうやらこれが千貫樋のようである。
説明板「千貫樋(せんがんとい)」
「 天文二十四年(1555)、今川・武田・北条三家の和睦が成立した時、
北条氏康の娘が今川氏真へ嫁ぐときの引出物として、
北条氏康が楽寿園の小浜池から長堤を築き、池の水を今川領だった駿河に引くために造った樋で、
清水町の耕地百五十町歩が恩恵を受けた。
関東大震災で木樋が壊れ、今はコンクリート製に改造されている。 」
二百メートル程先の右側、二本の松があるところに、 常夜燈と「夢舞台東海道 新宿 向かい宿」 と書かれた道標があり、 「沼津宿まで一里」とあった。
「 常夜燈は弘化三年(1846)の建立されたもので、最初は筋向いの東海道の十字路にあったが、
他に移されたのをここに移したものである。
常夜燈の正面には 「 常夜燈 中内村 」 両側には二つの火防の神様の 「 秋葉大権現 」と 「 富士浅間宮 」 が刻まれている。 」
一キロ程歩くと右側に築山のようなものが見えてきた。
近づくと、臨済宗のお寺・玉井寺と宝池寺が向かいあって建っていた。
先程見えたのは玉井寺側で、土盛りされたところに「一里塚」の標柱が建っていた。
「 この一里塚は江戸から二十九番目の「伏見一里塚」で、わりと原形が保たれていたが、 玉井寺の建物は新しく、駐車場など整備されていた。 」
反対側にある宝池寺の一里塚も、同じ時期に作られたのだが、形が崩れてしまったので、 昭和六十年(1985)に改修したものである。
「
江戸時代、宝池寺側に立場があり、人夫が駕篭などを停めて休憩できる場所だったという。 」
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玉井寺山門の近くに、「三界萬霊塔」と「白隠の遺墨」を刻んだ石碑がある。
石碑は雄渾にして気迫ある筆太の筆跡で書かれていた。
「
白隠は、臨済宗中興の祖と称される江戸時代中期の高僧で、
「 駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠 」 といわれた人物である。
寺には彼の遺墨が数点残されているという。 」
寺を出て少し歩くと八幡交差点にでる。
国道1号線と交差しているが、国道を越えて進むと法泉寺があり、
その先の民家の塀の花壇のようなところに「長沢学校跡」と書かれた木標があった。
その先の右側に「対面石」という大看板と鳥居があるところが八幡神社である。
「 長沢八幡宮ともいわれる神社で、
東海道名所図会に「 頼朝、義経初対顔地 ー 黄瀬川の東長沢村八幡宮の社地なり 」 と書かれている。
ここは、治承四年(1180)の富士川の戦いの前に、奥州からかけつけた義経と兄頼朝が初めて会ったところである。 」
桜並木の参道を進むと社殿があり、その左手奥に、向かい合った石が二つあった。
これが対面石である。
このあたりはお寺が多く、この近くに秀源寺、そして東光寺があった。
東海道を歩くと松並木が現れ、松の木の下に「夢舞台東海道 長沢松並木」 の道標があった。
少しだけ残っている松並木が長沢の松並木らしい。
緩やかな上り坂になり、黄瀬川に架かる橋が見えてきた。
橋の手前の小さな神社は智方神社である。
江戸時代の道中案内記に 「 明神あり 」 と記されている神社である。
「 建武弐年、侍女の宮入南の方(藤原保藤の娘)は、強いられた後醍醐天皇の皇子・護良親王の首を持って、都に報告しようとここまで来たが、黄瀬川を渡るのが困難となって、首をこの地に葬り、
祠を建てたのが智方神社の始まり。 」 といういわれがある。
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智方神社の先で、道は右にカーブし、そのまま黄瀬川にかかる橋を渡る。
橋から先はかなり急坂なので、向うから車が勢いをつけて向ってくるので怖い!!、と思った。
橋を渡ると沼津市に入り、一応二車線だが道巾が狭まり、歩道もなくなってしまった。
交通量が少なくないので、神経を使って歩いた。
しばらく行くと右側に臨済宗妙心寺派の東海山潮音寺がある。
境内入ってすぐ左、「亀鶴姫」の石碑があるところが、「亀鶴姫の墓」といわれるものである。
境内には「南無妙法蓮華経」の石碑の他、「馬頭観音」、「大日如来」などの古い石仏群があった。
「 本尊の聖観世音は恵心僧都の作といわれるが、
それよりも亀鶴山観音寺から移された亀鶴観音の方が有名である。
なお、亀鶴山観音寺は、明治に廃寺になった、黄瀬川近くにあった寺である。
亀鶴姫は白拍子で、大磯の虎御前と並び称された美女だった。
曽我兄弟が工藤祐経の寝所に討ち入ったとき、祐経と同衾していたといい、
東海道名所図会に、 「 白拍子亀鶴は 建久の頃の風流女にして、富士の牧狩の狩場の屋形に来り、
工藤祐経と同席に臥したる事、曽我物語に見えたり 」 という記述がある。 」
潮音寺を過ぎると、すぐ県道380号(旧国道1号線)に合流してくるので、ここを左折する。
きせがわ病院前に 「伏見一里塚への矢印の石柱」 があった。
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道幅が広くなるが、車の通行が多い道で、しばらくの間、この道を歩く。
下石田バス停の先には眼鏡市場があり、その先の道の反対には大岡南小、
その先には西友があり、左側にはルネサンストーアというスポーツクラブがある。
スポーツクラブの先の草むらに埋まりながら「歴史マップ沼津市大岡」という看板があった。
説明を読むと、「 潮音寺のあたりは木津川村、潮音寺より西に従是西沼津領という傍示杭を示す石柱が建てられた。
西の小さな川は久保川で、その両脇は久保の松並木があった。 」 とあるが、
この石柱は今でもあるのだろうか??
この看板あたりも松並木だったようだが、今はその片鱗すらなかった。
駿府への矢印のついた道標もあったが、この先のメガネパリミキ前で、
左側の細い道に入るのが東海道である。
道の左側は堤になっているので階段を上ってみると狩野川が流れていたが、かなり広い川巾である。
堤から下に降り、街道を歩くと、左側に小さな社(やしろ)があったが、
この小さな社は日本三大敵討ちの一つに数えられ浄瑠璃・伊賀越道中双六に出てくる平作ゆかりの地蔵尊である。
「 伊賀越道中双六とは、荒木又右衛門が義兄弟になった渡辺数馬のため、伊賀上野の鍵屋の辻で、 仇の河合又五郎一行に決闘に臨み、 見事本懐を遂げる話を戯曲化したもので、「平作地蔵」はそれに纏わるものである。 」
その先の右側の小公園に「夢舞台東海道 一里塚跡 」の道標が建っていた。
説明板
「 その奥にある形が崩れてしまい、かなり小さくなってしまった塚が、江戸から三十番目の一里塚で、
細い榎(えのき)は枯れた後に植えなおしたものである。
伏見一里塚からの距離が合わないが、沼津宿になるのでその手前につくられたのだろう。
もう1つの一里塚は狩野川縁にあったが現存しない。」
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江戸時代、平作地蔵尊のあたりが沼津宿の江戸方の入口だったようである。
一里塚の上に、古墳時代に玉石を磨いたとされる玉砥石が二つ置かれていた。
説明板
「 承平年間(931〜938)に編纂された和名類聚抄に 「 駿河国駿河郡に玉造郷 」 の名があり、
香貫地区(ここより南)一帯で玉が生産されたという説がある。
その説からすると、砥石が東海道の日枝神社参道脇にあるのは不思議で、何時からあるのかは分らない。
静岡県内では玉砥石はこの二つしか発見されていない貴重品である。 」
なお、日枝神社は小公園の先にある。
一里塚から街道に戻り、先を行くとまた県道380号線に合流した。
少し歩くと三枚橋東交差点で、
その先の国道414号線との三園交差点で三枚橋歩道橋を渡り、向こう側に出る。
右側の八木橋パーキングの脇に「三枚橋」のモニュメントがあった。
その先の歩道橋を渡って道の左側にでると、「東海道川郭通り」の石柱があった。
また、煉瓦色のタイルを敷き詰めた道があった。
道は川に突き当たり、右にカーブしていくと、右側に「川郭通り案内板」がある。
この上のあゆみ橋の先にある中央公園には「沼津城本丸址」の碑が建っている。
これが沼津城を示す唯一のものである。
「
江戸時代の川郭町は、川曲輪とも書き、志多(した)町と上土(かち)町との間に挟まれた狭い町で、
東側は狩野川に接し背後は沼津城の外郭に接していた。
医一雄斎国輝が描いた「末広五十三次沼津宿」には、富士山を背景に沼津城の三重櫓、
二重櫓や長州征伐のため上洛する幕府軍の姿が描かれている。
沼津藩の初代藩主は大久保治右衛門忠佐で、三枚橋城の跡地に沼津城を築いたが、
嫡子が死亡していた為、忠佐の死去により、わずか十二年で沼津大久保家は断絶。
その後、天領(幕府領)となり城も壊されたが、安永六年(1777)、
水野忠友に沼津藩二万石として城地を与えられ、
城跡にまた城が築づかれることになった。
それが浮世絵の沼津城で、狩野川に隣接し、天守に相当する三層の櫓の本丸、
その北西に二の丸三ノ丸が造られ、二の丸に御殿を置いた姿である。
なお、水野家はその後加増を受け、水野家五万石の大名として、幕末まで八代続いた。
沼津城は明治五年の廃城令により破壊され、沼津兵学校の敷地となった。
また、道路の拡張などで敷地は削られ、城跡は残っていない。 」
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「阿見屋」の横を上ると、狩野川の川岸に出たので、狩野川に沿って歩く。
御成橋に出たら右折して通横町の信号交差点で左に曲がる。
県道159号線を進むと左側は魚町である。
説明板
「 魚町には魚を商う商人たちが集まっていた。 江戸時代の終わりごろ、
魚町も仲町も食品雑貨品や船具を扱う商人が増え、魚商は宮町や下河原に移っていった。」
仲町に入り、左側に永代橋が見える信号交差点を右折すると県道160号線。
新町、下本町を過ぎると浅間町になり、浅間町交差点の右側には浅間神社があった。
「 丸子神社も合祀されているようで、鳥居に両社の名前が並んで刻まれている。 」
「千本浜海水浴場道、左沼津公園」と書かれた道標があった。
交差点を左折すると左側に東方寺、右側には千本山乗運寺の山門がある。
乗運寺は、浄土宗京都知恩院の末寺、増誉上人(長円)による開基で、
三枚橋城主松平康親や沼津城主水野忠友の菩提寺である。
寺の由緒
「 合戦によって荒れ果てたこの地に、旅の僧・長円がやって来て、
土地の人々が塩害に苦しんでいる姿を見て松苗を植え続けたという。
人々は天文六年(1537)、長円の行為と徳を称えるため草庵を建てた。
初めは成鳴寺といったが、その後、乗運寺と変わった。 」
この寺は有名にしたのは長円や沼津城主水野忠友等ではなく、
旅を愛した漂泊の詩人、若山牧水の墓である。
漂泊の歌人、若山牧水はいろいろなところを旅していたが、
終の棲家にしたのは温暖な気候の沼津でここで亡くなった。
街道を進んだ右側の歩道にある「出口町見附の説明板」は、 沼津宿の西の出口の見附があった所である。
「 沼津は、大正弐年(1913)の出口町から出た出火で三百町歩、千四百六十八戸の家を焼失させ、これを契機に道路改修に着手し、大正四年(1915)に完成させたが、昭和二十年に
、軍事都市化した沼津市は八度の空襲に遭い、町のほとんどが焼き尽くされた。
沼津宿は本陣3、脇本陣1、旅篭屋55、総戸数1234を数えたというが、
このような歴史を経験していては、江戸時代の古い建物が残っていないのは当然だろう。 」
これで沼津宿は終わる。
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沼津宿の西の見附から一キロほど進むと、右から御成橋通りが合流してくる西高入口交差点がある。
五差路の交差点だが、正面の道(県道163号線)が東海道なのでこのまままっすぐ進む。
東間門の交差点を越えて、左側の妙伝寺を見ながら進むと、間門橋(まかどばし)があり、
その先に横断歩道橋がある先は西間門交差点である。
右側からきた道(県道380号、旧国道1号線)と斜めに交差しているので、歩道橋を渡って対面の右側の道に入る。
この道(県道163号線)は、上下2車線あるがやや狭い感じがする道で、「旧東海道」の表示があり、
東海道はここから原を経て、富士市の東柏原(東田子の浦)まで残っている。
なお、左の道は、県道380号(旧国道1号線)で、千本道と呼ばれる。
少し行くと馬門八幡交差点の右側に八幡宮と呼ばれている神社がある。
「 村社 八幡神社 神明神社 金山彦神社 」 と連記された石柱が建っている。
境内には、文政と寛保の銘のある石仏や石塔があったが、かなり傷んでいた。
神社前の 「従是東」 と彫られた石碑は、沼津藩の西境を示す榜示石である。
説明板
「 安永六年(1777)、水野出羽守忠友は、大名として沼津に二万石の領地を与えられ、
翌安永七年、韮山代官、江川太郎左衛門から城地を引き継ぎ、
沼津藩を創立と同時に、領地の境界を示す榜示杭を設置した。
この榜示杭は当時沼津藩の西境にたてられたもので、「従是東 沼津 領」と判断できるが、
明治末期頃におられて下半分が失われている。
なお、下石田には 「 従是西沼津領 」 と刻まれた二メートル十センチの榜示杭があるが、
完全に現存していて、 石質、字体、寸法等すべて同一であるので、同時にたてられたものと考えられる。 」
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その先は小諏訪となって、沼津片浜郵便局の所の奥に、諏訪神社がある。
左手に千本松原があるはずなのだが全く見えないので、東海道を離れて千本松原に行ってみた。
海岸寄りの県道380号線(旧国道1号線)の向こう側に松林が広がっていて、これが千本松原である。
国道を横切って松林に入り、海岸に向って松林の中を歩くと海岸に出た。
早速堤防に上り振り返ると、松林の向こうに人家が並んでいるが、その先に愛鷹山がある。
その先に富士山があるなのだが、曇っているため、見えなかった。
海側に視点を移すと、海岸線が弓形に湾曲していて、
左側は若山牧水の墓のある乗運寺の方角で、その先の小高い山が箱根連山だろう。
正面には伊豆半島が入りこんできていて、右側に目を転ずると吉原まで松林が続いていた。
堤防を降りて松林に入ったが街道には戻らず、少しの間林を歩くことにした。
途中ですれちがった自転車の人に 「 千本松公園から吉原まで道は続いているよ!! 」と教えられた。
びっしり生えた松は一本として同じ形はなく、自己主張するようにいろいろな方向に曲がっていた。
街道に戻る。
沼津片浜郵便局から千三百メートルのあたりの民家の塀に、くぼみを作り、
松長一里塚跡碑が設置されたようだが、確認できなかった。
松長集落に入り、蓮窓寺を過ぎると、右側に松長集会所があり、「旧東海道」の表示板があった。
「 松長は最初は幕府領だったが、その後、相模国萩野山中藩大久保氏の飛び地になり、
陣屋が置かれたところである。
前方後円墳の神明塚古墳は、この隣の路地を入ったあたりにあったようだが、気付かずに通り過ぎた。 」
その先右手奥にJR東海道本線の片浜駅があるが、東海道線で初めての無人駅である。
その先の今沢集落には祥雲寺と三島神社があった。
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東三本松のバス停のあたりが江戸時代の今沢村との境で、その先は大塚本田といわれたところである。
東海道本線の原踏切を渡ると右側に神明社があり、右側の民家前に「東木戸跡」の石碑があった。
天保十四年編纂の東海道宿村大概帳に、「 原宿の東見附は今沢村境の大塚神明神社 」 とあるので、原宿に入ったということになる。
原宿の生い立ちについて触れると、
「 原宿は、浮島ヶ原の東の駿河湾砂丘の上に出来た宿場で、
江戸時代以前はここより南の甲州道或いは千本道といわれた現在の県道380線(旧国道1号線)沿いにあった。
鎌倉時代の十六夜日記に「原中宿」と書かれているが、「浮島原の中にある宿駅」という意味で、
これが「原」という地名の由来である。
江戸時代に入り、慶長年間に起きた高潮の被害により、宿場はここに移転した。
原宿は、大塚本田と隣の東町、西町の三つの町村で構成されていた。 」
大塚新田バス停の先に高木神社があり、
その先の左に入ったところには清梵寺、長興寺とお寺が続いていた。
長興寺の境内には、馬頭観音などの石仏が祀られていた。
小諏訪からここまでの距離は3kmもないのだが、その間幾つお寺があっただろう。
住民の数に比べお寺が多いのは江戸時代に天災が多かったからだろうか??
東町に入ると道の左側に「大本山松陰寺」と書かれた大きな石柱があった。
松の木と山門が見えたので入って行くと、山門の脇に「白隠禅師墓」という石碑があった。
「 松陰寺は臨済宗のお寺で、「 駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠 」 と、
言われた高僧・白隠が住職をつとめた寺である。
白隠禅師(1685〜1768)は原の生まれで、諸国で修行を積んで、京都の妙心寺の住職となるが、
その後、原に戻り、松陰寺に住み、ここで亡くなった。 」
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白隠の名前は全国的に有名だったようで、参勤交代の大名は競って松陰寺に立ち寄った、といわれる。
その一人が備前岡山藩三代目藩主、池田継政で、継政が寺に立ち寄った際、炊事番が大擂鉢(すりばち)を
壊してしまった。
継政は帰国後備前焼の大擂鉢を数個作らせて届けさせたが、
白隠はこれを台風で折れた松の傷口に雨よけに載せてやり、松はすり鉢を載せたまま大きくなった。
山門の左側に見える高い松の木がその擂鉢松である。
白隠の墓は、本堂の左側の建物脇から墓地に入ると石柵で囲まれた数基の一番左の墓である。
街道に戻り、少し歩くと左側に「白隠禅師生誕地」と書いた大きな石碑があった。
原交番東交差点の左右の道は「興国寺城通り」と命名されていた。
「
興国寺城は、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城である。
後北条氏の祖である北条早雲(伊勢新九郎長氏)が最初に城を与えられ、旗揚げした城として名高い。
城の南部には原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、
途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だったようである。
続日本100名城に選定されている。 」
交差点を越えると西町になり、交差点の先に「原浅間神社」があった。
その前には「原宿と浮島マップ」という絵看板があり、
それを見ると、愛鷹山の山麓に多くの寺院が集まり、原宿周辺には神社が多いことが分った。
原宿周辺は今は富士の湧き水が多い場所という感じは低いが、新田開拓が行われる前は水の中にある島というイメージであったようである。
「 太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、
これが地元民の生活に支障をきたしていた。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったということだろう。 」
ここには 「 夢舞台東海道 原宿 」の道標があり、「吉原宿まで二里三十二町(11.3q) 、
原宿の全長は二十四町四十二間(約2.7km) 」 とあり、原宿は東海道の中で長い宿場町だった。
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その先の門構えの家の前に「東海道原宿本陣跡」の標石があった。
説明文
「 本陣は、源頼朝の弟の阿野全成の末裔という渡辺家が代々平左衛門を名乗り、幕末まで務めた。
建物は間口が十五間〜十七間、建坪二百五十五坪で、
明治元年の明治天皇の東征の際にはここで小休止されている。
また、その後の巡幸の時も御昼をとられた、という記録も残っている。 」
原宿の問屋場はそれより東、数十メートルのキタムラ手芸店付近にあったようである。
「
原宿の天保十四年の宿内人口は千九百三十九人、家数三百九十八軒で、本陣一軒、旅籠二十五軒で、
東海道ではもっとも規模は小さく、沼津宿の1/3にもならなかった。
脇本陣はあったのだが、天保九年に焼失したので、上記時期にはなくなっている。
なお、原宿は幕府領(天領)で、伊豆韮山代官、江川太郎左衛門の管轄だった。 」
本陣跡を過ぎると六軒町で、左側に「沼津の地酒、白隠禅師の里、白隠正宗」の看板を掲げている
蔵元の高橋酒造(株)がある。
ガラス戸の先には白隠正宗の壜が並んでいた。 また、バイオの製品も手がけているようだった。
江戸時代には原から田子の浦にかけて富士の展望がよいことで知られ、
浮世絵にしばしば登場している。
東海道五十三次のなかで富士山が一番近く見えるところで、浮島ヶ原越しに見える富士山は絶景だったが、
現在は右側の家の屋根が邪魔で見ることができない。
右側の空地を見つけ望遠で写したものだが、富士山の手前には家があるので浮世絵のようなのは無理だった
今歩いている旧東海道の道は、
この先、東田子の浦(富士市の東柏原)までと元吉原(同市大野新田)から旧吉原市街地を通り柚木までの間が断続的であるが残っている。
このあたりには、古そうな家が残っていた。
左の民家の一角にある「東海道原宿 一里塚跡」 と書かれた石碑は、平成十六年に建てられたものである。
「 原宿一里塚は江戸から三十二里目の一里塚である。
慶長六年の東海道の開設時に築かれた一里塚は、ここから南三百メートルほどの千本街道沿いの松林(山神社付近)に築かれたが、
慶長十年(1611)の高潮により原宿が移転された時に、一里塚もここに移されたのだろう。
右側の塚跡には道祖神が祀られていた。 」
沼川放水路の右側には石川島輸送機工場が、その先にも沼津自動車検査登録場などがあり、
その先の道の沿線に図書印刷や小さな工場がある。
このあたりは原新田で、古い家の中に新しい家やアパートが混在している。
右側に大きな木が見えてきたので近づいていくと一本松バス停があり、
大きな木の下には「村社三社宮」と書かれた石柱と鳥居があり、一本松の鎮守の浅間神社があった。
「 浅間神社は三つの祭神を祀ることから三社宮と呼ばれてきたが、 創建は慶安三年(1650)と古く、鳥居前の石灯籠には文化十一申戌の銘がある。 」
ここは原宿の西の見附なので、原宿はここで終わりとなる。
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