小田原宿から箱根宿を経て、三島宿までは八里あり、箱根八里と呼ばれた。
東海道では一番険しい道のりで、天下の険と唄われた難所である。
小田原宿を出て箱根の坂道に差し掛かると北条早雲も訪れた箱根湯本温泉がある。
途中に間の宿として畑宿があった。
箱根宿は当初なかったが、箱根関所を通過するのに不便なため、大名の要請で設けられた宿場である。
(ご参考) 小田原〜箱根 16.5キロ 徒歩約7時間
板橋見附交差点の先、右側は大久寺、左側に光円寺がある。
大銀杏の光円寺の角が小田原宿の上方見附があったところだが、表示も説明板もなかった。
板橋見附交差点で国道と別れ、右の道に入り、赤褐色のビルの脇の新幹線のガードをくぐる。
ガードを越えたところに 「 旧東海道と板橋(上方)口 」 の説明板があり、
「 東海道は、光円寺で北に進み、直角に西に曲がっていた。 」 とある。
即ち、鉤型になっていた訳である。
道は対向二車線で両脇に白い線で、歩道を区分してるだけである。
ここは昔の板橋村で、古い家がちらほら残っていた。
すぐに左側の歩道帯はなくなり、右側にだけ歩道が現れた。
左側に手作り豆腐の看板をかけた下田とうふ屋がある。
その先には江戸時代には水抜石橋があり、番所があった、といわれる。
右に入る小道を行くと、突き当たりに香林寺、左に松永記念館がある。
「 松永記念館は、日本の電力王で、数寄茶人として高名な松永安左ヱ門(耳庵)が、
別邸内に設けた美術館である。
今は市の管理になっていて、見学はできる。 」
街道に戻る途中、左に入ったところに秋葉山量覚院がある。
寺の由来
「 天正十八年(1590)、徳川家康が小田原城主の大久保忠世に管理を命じ、
一月坊法印により、遠州秋葉山上から御本尊を小田原に奉還されて以来、
関東山伏の目付としての役割を任じた。 」
街道に戻り少し進むと、右側に立派な石作りの墓のような施設がある。
戊辰戦争後に建てられた、戦争で犠牲となった官軍の軍監・中井範五郎等十三名の姓名を刻んだ慰霊碑である。
その先の石段を上ると、銀杏が茂る先に堂々と建つのは、金麓山宗福院の本堂である。
本堂前に大きな大黒天、本堂には板橋地蔵尊が祀られている。
「
本堂は、正徳五年(1715)に建てられた慈眼寺の仏殿を移築したものである。
香林寺九世・文察和尚は、永禄十二年1569)、身の丈一丈(三メートル三十センチ)の大坐像を作った。
胎内に、箱根湯本の宿古堂に祀られていた弘法大師の自彫造の御真体を安置した、と伝えられる。
この仏像は「板橋地蔵尊」と呼ばれている。 」
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境内に、寛政七年(1795)建立の一刀流六代目横田常右衛門豊房と七代目石坂四郎治政宣の供養碑がある。
道がカーブするあたりは自動車がすれ違うのがやっとという狭さである。
箱根登山鉄道の高架をくぐったところで国道1号と合流した。
川側に移動すると 「小田原用水(早川上水)取入口」の看板があった。
このあたりから道はなだらかな登り坂になる。
右手に箱根登山鉄道の電車が走り、右側の国道には車が多く行き来していた。
しばらく、国道と左の早川に挟まれて進む。
西湘バイパス(小田原厚木道路)のガードを潜くぐったところで、
国道1号線とは分かれ、右側の箱根登山鉄道の踏み切りを渡る。
踏み切りを渡ると、二又で、すぐ右手に日蓮旧蹟の大きな岩、象ヶ鼻がある。
「 日蓮が身延山への往来の途中、この岩の上より故郷の安房を臨み、 亡き父母を偲んだといわれるものだが、どの岩なのか確認できなかった。 」
東海道は左の道で、すぐにある二又も左で、右手に妙覚寺が見える。
「
ここは旧風祭村で、天保年間の相模国風土記稿に、 「 風祭村は家数八十五軒、東西
六町、南北七町程、東海道村中を貫けり、道幅二間或は三間 当場は立場なり、西方湯本茶屋 へ一里 」 とある。
この道は東海道の道幅がそのまま残されているといわれる。 」
右手の国立箱根病院はかっては結核の医療施設だったが、今は老人看護施設になった感がある。
古い家の多い道を行くと、民家の一角に道祖神のようなものがあった。
ご丁寧に犬の置物も置かれているが、東海道分間絵図の風祭村の中央付近に道祖神
と書かれているが、そのものではないだろうか?
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風祭駅を通り過ぎたところの民家の一角に、小田原市指定文化財の「道祖神」の標柱と
「東海道の風祭一里塚」の説明板があった。
その下に、小さな石が幾つか積み重ねたものがあったが、これが道祖神なのである。
説明板「東海道の風祭一里塚」
「 相模国風土記稿に 「 東海道側に双こう有り、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、
東方小田原宿、 西方湯元茶屋の里こうに続けり 」 とあったが、
一里塚は明治十二年に取り壊されてしまった。 」
右側の小道を入ったところには宝泉寺がある。
入生田(いりゆうだ)駅の近くまで来ると「長興山紹太寺」の案内板があった。
右側の道は入ると広い参道の右側に「総門(大門)跡」の説明板がある。
説明板
「 江戸時代には、東海道に面したこの場所に石造りの門が建っていた。
元禄四年(1691)、ドイツ人博物学者・ケンペルが江戸に向う途中この総門を見て、
江戸参府紀行に、「 入生田村は小さな村であるが、
その左手の四角の石を敷き詰めたところに紹太寺という立派なお寺がある。
この寺の一方側には見事な噴水があり、もう一方側には金の文字で書いた額があり、
前方には金張りの文字を付けた石造りの門があった。 」 と書かれている。 」
少し進むと「長興山紹太寺」の石柱があり、山門をくぐると茅葺きのお堂があったが、 このお堂は清雲院だろう。
「
紹太寺は、春日の局とその子、小田原城主、稲葉正勝と稲葉氏一族の菩提寺である。
紹太寺の七堂伽藍は、弘化四年(1847)、安政年間(1854〜1859)、明治の火災で焼失してしまったが、
清雲院だけはかろうじて難を逃れ、寺の法燈を守り続けている。 」
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清雲院を出て、参道を進むと、上にのぼる石段があり、けっこうきつい。
紹太寺の伽藍が建ち並んでいたという場所にでたが、その奥に稲葉一族の墓があった。
「
稲葉氏は、寛永元年(1632)〜貞亨弐年(1685)まで、正勝、正則、正通の三代五十三年間、
小田原城主だった。
稲葉正勝は三代将軍家光の側近であり、寛永九年(1632)に小田原城主に任ぜられた。
正勝の母は家光の乳母を勤めた春日局である。
そうした縁から、正勝に対する家光の信頼は厚いものだった。
しかし、わずか二年後に正勝は三十八歳で急死。
家督を継いたのは若干十二歳の息子正則だった。
正則は寛永(1632)、父母の追福のため、菩提寺を城下の山角町に建てたが、
寛文九年(1669)に現在地に紹太寺を移転拡張し、父母と春日局の霊をとむらった。 」
墓から少し戻り、更に奥に向うと一吸亭跡や刻銘石百花叢がある。
杉林を抜けると枝垂れ桜の木があった。
桜の花が見たくて翌年(2008)の四月五日、再度訪れたが、見事な桜で満足した。
傍らの説明板
「 エドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝がたれさがるのが特徴。
稲葉氏が紹太寺を建立した頃に植えられたもので、樹齢三百二十年と推定される。
神奈川県の名木百選に選ばれている、高さ十四メートルの枝垂れ桜である。 」
街道に戻り、入生田駅を通り過ぎたところにある踏切を渡ると、歩道のない国道1号線に合流した。
右に細い道があるので、国道と別れて進むと、道脇に空地に「道祖神」と思われる小さな石仏が置かれていた。
箱根境道祖神かな?
先程の国道1号に合流したところが箱根境交差点なので、すでに箱根町に入っている。
この道は静かな佇まいを見せていて、国道1号線の渋滞振りと違い、車は殆ど通らなかった。
少し歩くと、再び、国道と合流したが、ここからは巾は狭いが、歩道があった。
横断歩道橋があったので、早川側に移動して歩くと、箱根三枚橋交差点に出る。
早川に架かる三枚橋から箱根登山鉄道の箱根湯本駅が見えた。
「 江戸時代には、直進する道は七湯道と呼ばれた。
湯本を始め、芦ノ湯、木賀(きが)湯、底倉(そこくら)湯、宮ノ下湯、
堂ヶ島湯、塔ノ沢湯を箱根七湯と言う。
その後、強羅温泉、小湧谷温泉等五つの温泉が加えられて、箱根十二湯と言われるようになった。 」
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東海道は三枚橋で早川を渡る。
相模国風土記稿には、 「 三枚橋は土橋、元は板橋なり、長二十二間、幅一丈余・・・ 」 、とある。
「 橋が一つなのに三枚橋とあるのは、かつては川幅が広く二つの中洲があり、
そこに三つの橋が架かっていたからである。
小田原から順に 地獄橋、極楽橋、そして三昧橋と、も呼ばれていたようである。
江戸時代、この先の早雲寺に逃げ込むと、どんな罪人でも罪を免れると言われ、
追手も地獄橋までは追うが、その後は追わなかった、という。
まさに地獄橋と極楽橋があった訳である。
なお、三昧橋(三枚橋)は、その先は仏三昧に生きよという意味らしい。 」
橋を渡り終えると、すぐ上り坂(箱根東坂)が始まった。
入ったところに「新明町自治会」の看板があり、その脇の小さな石の祠の中に道祖神が祀られている。
相模国風土記稿には、「 湯本村は東西二十六町、南北五町で、家数は七十六軒、
橋の辺りに茶店が軒を連ねていた。
橋を過れば道次第に険しい山道となり、往来困難なり 」 とある。
その言葉通り 下町バス停の先で右にカーブしながら道は上っていく。
左側に天山弘法の湯があった。
左側には鬱蒼とした林に囲まれた白山神社が、道の反対側には早雲寺の惣門(薬医門)が建っていた。
「 早雲寺は後北条氏の菩提寺で、本尊は室町時代の釈迦三尊仏である。
北条早雲が、大森氏を追放し三浦氏を滅ぼして相模国を手に入れたが、晩年に好んで訪れたところで、
その遺命により、嫡男の北条氏綱が大永元年(1521)、早雲寺を建立した。
しかし、小田原攻めの際に秀吉により焼かれて消失。 現在の早雲寺は寛永四年(1627)、
当山十七世、菊径宗存と北條河内狭山家と北條下総岩富家により再興された。 」
本堂は寛政年間に建てられたもので、昭和三十年代までは茅葺き寄棟造りだったという。
墓地には北条五代の墓や連歌師飯尾宗祇の墓などがある。
北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日、狭山北條家五代当主氏治によって竣工された。
「
その日は北條早雲(伊勢新九郎長氏)の命日に当り、後北條氏滅亡から八十二年後のことだった。 」
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茅葺き屋根の鐘楼に下がる梵鐘は、
秀吉が小田原攻めで石垣山一夜城の陣鐘に使用した、というものである。
本堂の脇の庭園は早雲の三男・幻庵作で、「枯山水香爐峯」という名前がついている。
境内は禅寺特有の閑静さで時が止まるようだった。
街道に戻り、三百五十メートル登ると、湯本温泉の共同湯の一つ、弥坂湯がある。
ここから先は温泉旅館が多い。
左側の少し高いところに 「臨済宗大徳寺派正眼禅寺 」 の石柱がある。
放光山正眼寺は、鎌倉時代にこの地にあった湯本地蔵堂を基にして、建立された寺院である。
「
慶応四年(1865)の火災で寺の建物は焼失したので、当時のものは石仏、石塔のみという。
曽我十郎、五郎の縁者たちが兄弟を弔うため供養地蔵を奉納した、という話が伝えられている。 」
本堂の左側のお堂前にある大きな地蔵は、火災でなくなった後、早雲寺から移されたものとあった。
裏山の墓地を上っていくと、曽我堂があった。
曽我堂には曽我十郎、五郎の姿を写したといわれる地蔵像が納められている。
案内板には、曽我兄弟の供養塔と曽我五郎の槍突石(鏃突石、やじりつきいし)があるというので、
槍突石を池の周りで探したが、どれなのか分らなかった。
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街道に戻ると、少し先の右側に、苔むした長方形のものがあった。
これはなんだ!! と、よく見ると双体の道祖神である。
これは湯本茶屋村の境の道祖神である。
相模国風土記稿には、「 湯本茶屋村は家数二十七軒、東西十町許、南北二十町程、
東海道の往還係れり、幅四間、当所立場にて下は風祭村立場、上は畑宿立場へ各一里、
休憩の茶舗あれば村名となれり 」 とある。
湯本茶屋村は立場で、旅人は原則としては宿泊できなかったが、
湯治にかこつけて泊まるものが多かった、という。
少し行くと右側に日本橋より二十二番目の一里塚跡がある。
靜観荘の脇にある石碑に 「旧箱根街道一里塚跡」の碑、「江戸から二十二里」と彫られている。
相模国風土記稿には、 「 海道の西辺、左右に並、榎樹あり 囲六尺五寸ほど、東方は風祭村、西方畑宿の一里塚に続けり 」 と書かれている。
坂の傾斜はかなりあるが、温泉施設が多くあるところで、
江戸時代も、この辺が箱根湯本の中心だったので、道の両側には茶屋が沢山建っていたように思われた。
「日帰り温泉 箱根の湯」の看板が出ているところで、上りは一旦終わる。
そこから、道が狭くなり、車の交差がようやくできる程度になる。
道を下ると、台の茶屋バス停の先で、東海道は県道より右に下る道である。
降り口の湯本茶屋公民館の前に、石造りの馬の水飲み桶があった。
昔はここで、馬子たちが休憩をとったのだろう。
「箱根旧街道入口」の看板文面
「 延宝八年(1680)に石畳を敷き、舗装をした。
この先から二百五十五メートルはその面影を残し、国の史跡に指定されている。 」
左側は崖で右側は谷、その間が石畳の道は「猿沢の石畳」といわれるものである。
長い間多くの人に踏まれたため表面の角は取れて丸くなっていたが、下り坂なので、歩きやすくはなかった。
少し歩くと猿沢に架かる猿橋があり、箱根湯本ホテルの本館と別館をつなぐ連絡通路の渡月橋の下をくぐる。
石畳の道は箱根観音福寿院の上で、再び県道と合流した。
観音坂は登りが続くきつい道だった。
このあたりで温泉施設もほとんどなくなったが、見晴らしの良い街道歩きとなる。
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その先の天山湯治郷の辺が、箱根湯本の一番奥で、「奥湯本」と呼ばれるところ。
上るに比例して赤や黄色の葉が増えていくが、紅葉には程遠い。
須雲坂を上ると右側に金ぴかの趣味の悪い寺がある。
「浄土金剛宗天聖院」とあるが、聞いたことがない宗派である。
五分位歩くとホテル初花がある。
少し先の道脇に石碑があるが、かろうじて「初花の滝の碑」と読める。
「 初花(はつはな)は、浄瑠璃、箱根権現霊験記に登場する飯沼勝五郎の妻である。
初花が対岸の湯坂山の中腹の滝で、水垢離(みずごり)をとったところが初花の滝である。
今は樹木に隠れて街道からは見ることが出来ないようである。 」
葛原坂を上り切ったところに須雲川ICが有り、その先には「須雲川」の道標があった。
相模国風土記稿には、「 須雲川村は、古(いにしえ)は、箕作と唱う、箕を造るを以て生産となせり、民戸二十三、東西十四町余、南北一里余 戸数三十・・ 」 とある。
東海道を開設した当時は民家がなかったので、強制的に他所から移住させ、村を誕生させたといわれる。
そこを過ぎると須雲川が良く見えるところに出た。
川の反対側には須雲山荘バンガローがある。
小さな集落を過ぎ、左手に駒形神社を見て、街道はゆるい上り坂となるところの左側に 「霊泉滝」がある。
その右側に「鎖雲禅寺」の小さな石碑があり、石段を登ると小さな鎖雲寺(さうんじ)がある。
「 もとは早雲寺の一庵だったが、寛永七年(1630)に須雲川村に移し寺として建立したもので、 普段は無住で管理は正眼寺で行っている。 」
本堂右手の墓地の一角に、小さな五輪塔が二基並んで建っているのは、勝五郎、初花の墓である。
比翼塚(ひよくづか)とも呼ばれるとあった。 近くに「初花堂」もあった。
「 このあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る・・・ 」
ご存知、歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花が夫勝五郎を恋うる名台詞である。
鎖雲寺を出ると、上り坂は大きく右にカーブし、須雲川に架かる須雲橋を渡る。
その手前の左手に、「自然遊歩道」の入口があり、
そこに建つ「女転し坂」の石碑には 「 女転がし坂登り一町余 」 と彫られている。
相模国風土記稿に、 「 海道中の西方にあり 登り一町余、昔婦人駅馬に乗り、
此にて落馬す故に 此名ありし 」 とある坂である。
関東大震災の時、崩落してしまい、今は通行できないようである。
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橋を渡ると道は急な傾斜の坂になった。
上って行くと右手に「箱根大天狗神社」があったが、
これも先程の金ぴかの寺と同じ宗教法人で由緒などははっきりしない。
カーブしながら坂は上るが、道脇の「女転がし坂」の説明板には、
「 江戸時代、馬に乗って通っていた御婦人が傾斜の
きつさで落馬し、死亡したことから、この名が付いたようである。 」 と書かれていた。
きちんと整枝された杉林の中に道は続くが、歩道はもちろん、
歩道帯を表示することもない道なので、危険である。
正一位稲荷大権現の稲荷像があり、発電所前バス停を過ぎると、右側に手すりと「割石坂」 の石碑があった。
相模国風土記稿に、 「 是も海道中にて畑宿の境にあり、登り一町、路傍に一巨石あり、長四尺、 横三 尺、厚さ五寸許、 相伝ふ、曾我五郎時致、富士野に参り向ふ時、 此坂にて帯刀の利鈍を試ん とて斬割れる石なり、 其半片は渓間に落しとなり 」 とある坂である。
石畳の道だが、薄暗い林の中なので苔がむし、枯葉も落ち滑りやすい。
明るくなったと思ったら、左下に県道が見えた。
説明板に 「 江戸時代のものに、明治、大正時代に須雲川小学校への通学路として整備した。 」 とあった。
前後の新しいものは最近設置したようである。
橋が見えてきたと思ったら、石畳は終わったので、県道を歩く。
しばらく歩くと「箱根旧街道」の木柱が左側に建っているので、下り坂になる石畳の道を歩く。
「
昔は立派に整備されていたのだろうが、
石が減って地面が見えるところがあったり、石がなくなり、ただの山道となっているところもある。
石は角がとれて丸くなり、苔が生え傾斜も急で、滑りやすい。 」
行き手に小さな川が現れ、川に一枚の板を渡した橋があった。
江戸時代の相模国風土記稿には 「 千鳥橋という橋が大沢川に架していて、長幅各二間、古は土橋なり、 寛政十年石橋となり欄干あり、領主の修理なり。 」 とあるので、川は今より大きかったのだろう? 」
橋を渡ると上りになる。
そこにあった説明板
「 幕末の下田奉行、小笠原長保の甲申日記に
「 大沢坂又は座頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし 」 と書かれていた、とあるところで、当時の石畳道が一番良く残っている。 苔むした石畳は往時をしのばせる。 」/p>
石畳の坂で、草鞋時代は歩きやすかったのだろうが、今の靴では歩きずらい。
道幅が広い石畳の左側に「大澤坂」の石碑が建っていた。
我慢して上っていくと県道に出て、江戸時代、間の宿だった畑宿の集落に入った。
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大澤坂の石畳を上り終えると県道に出て、畑宿集落に到着した。
江戸時代の畑宿は、小田原宿と箱根宿の間の箱根旧街道の「間の宿」として栄え、
たくさんの茶屋が並び名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工に人気があったという。
相模国風土記稿に、 「 畑宿村は、江戸より行程二十四里、此地は東海道中の立場にて湯本茶屋へ一里、 箱根宿へ一里八町、民戸連住し、宿駅の如し、家数四十三、東西二十三町、南北十八町余。 当所も 正月松に替へて樒(しきみ)を立り 名主畑右衛門、字号を茗荷屋と称す 湯本細工、挽物(ろくろ細工)、塗物類をひさぐ 」 、と記されている。 」
畑宿バス停脇の寄木細工の「浜松屋」の隣に、「畑宿本陣茗荷屋跡」の木柱が建っている。
説明板
「 畑宿は、間宿でも本陣があり、代々「茗荷屋畑右衛門」を名乗った。
明治天皇は京都から東京への遷都に際し、明治元年十月八日、同年十二月十日と翌年三月二十五日の三回、
ここで御小休を取られたが、それを記念して大きな石碑が建っている。
また、米国初代総領事のハリスが江戸入りの途中下田から駕篭で上京したが、
その際、ここで休息し、日本式庭園を観賞している。
大正元年の全村火災の折、建物は焼失したが、庭園は昔を偲ぶ形で残された。 」
その先の右側の細い道の奥にあるのが、「駒形宮」の鳥居がある箱根駒形神社である。
この神社は、畑宿の鎮守社で、箱根神社の社外の末社として、荒湯駒形権現とも言われている。
街道に戻り、少し行った右側の小道を入ったところに、畑宿寄木会館がある。
「 箱根細工ともいわれる寄せ木細工は、古くは木地挽きから起こった。
後北条氏の小田原の発展に伴い、畑宿は轆轤(ろくろ)を使った挽き物と
平面的な箱物などの指物(さしもの)が、製品として作られるようになった。
江戸時代の中期以降は、寄木(よせぎ)細工と象嵌(ぞうがん)細工が中心となり、
旅人の人気を博した。 」
こうした伝統工芸を紹介するのが畑宿寄木会館で、
寄せ木細工の販売とともに、製作の模様が見学できる。
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県道は畑の茶屋バス停で右にカーブして登り坂となるが、東海道はそのまま進むと「一里塚」の木柱があり、その先に畑の茶屋がある。
脇の参道を上ると守源寺がある。
「
箱根七福神の一つ、蓄財の神様である大黒天が、本堂の右側の大黒堂に祀られている。
箱根七福神巡りは、江戸時代初期より庶民の間に広まった信仰で、今でも人気がある。 」
街道に戻ると、畑の茶屋の先から石畳が始まる。
その先には木々に囲まれた大きな広場と小山が二つある。
江戸から二十三番目の「畑宿一里塚」を整備、復元したもので、なかなか美しい一里塚である。
「 右の塚には樅(もみ)、左の塚には欅(けやき)の木が植えられている。
相模国風土記稿に 「 西海子坂の下、海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、
西は箱根宿の一里塚に続けり 」 とあるものである。 」
「一里塚跡碑」を出ると、道は再び石畳となり急な坂道になった。
相模国風土記稿に、 「 宿外西の方にあり、登り二町許り・・・ 」 とある「西海子坂」だろう。
先程までの石畳と違い、石が地面から浮いていたりするので、歩きずらい。
説明板
「 雨水を排水するため、斜めの排水路を作っていた。
上流側に小さな石、下流側に大きな石を積み、斜めに段差を付けることで
街道脇に流し込むもので、快適に歩くための江戸時代の工夫である。 」
道に沿って茂る杉林は、雨風や夏のひざしから旅人を守り続けてきただろう。
前方に階段が見えてくると 「西海子坂」の石碑があり、
「 石畳の前の東海道は雨や雪の後は泥道になるため竹を敷いていたが、調達に苦労した。 」 とあった。
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階段を上ると舗装した県道に出た。
幾重にも曲がりくねった道なので、「七曲がりと呼ばれる道である。
道は右にカーブし、左にカーブするが、歩行者は途中で上れる石段があるので、それを上った。
続いて左にカーブするところで箱根新道の下をくぐる。 この坂はかなり厳しい坂である。
それでも、左側に石畳風に石をあしらった歩道が設けられているのは助かる。
車もスピードは出ないようだが、スローペースの歩みで上って行くと、橿木坂バス停があった。
説明板「橿木坂」
「 相模国風土記稿に 「 峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得
此坂 山中第一の険しさにして、壁立するが如く、岩角をよじ登るべし、
一歩も謹(つつしま)ざれば千尋の岩底 におとしいれり 」 とある。
東海道名所日記には 「 けわしきこと道中一番の難所なり、おとこかくぞよみける、かしの
木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼれる 」 と書かれていた。 」
江戸時代の箱根路で、一番の難所だったのだろうと思った。
「橿木坂」の石碑の脇の石段を上る。
石段の一段一段が高かったので、非常につらい石段だったが、上りきると県道に出た。
県道の右にカーブするところで、また、石段があったので、上っていく。
その先には「旧街道心晴橋」という道標が建っていた。
左に入ると、「 箱根旧街道(新設歩道) 甘酒茶屋1300米 元箱根3000米 」 と書かれた道標が建っていた。
この道は最近作られたもののようであるが、この道を歩くと山根橋に出た。
橋の脇の 「旧街道 山根橋」 の道標には、元箱根まで三キロの表示があった。
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石畳の道を歩くと階段があるので、それを上ると甘酒橋があった。
山根橋からここまでの距離は三百メートル。
その先も石畳の厳しい坂が続く。
階段が見えてきたところに 「猿滑り坂」 の石碑が建っていた。
説明板「猿滑り坂」
「 猿滑り坂は相模国風土記稿に 「 猿、猴といえどもたやすく登り得ず よりて名とす 」 が坂の名の由来である。
県道の横断歩道橋が架かるあたりが当時の坂でした。 」
階段を上っても横断歩道橋はなく、代わりに、横断歩道と対面の山際に、
斜めに階段があった。
横断歩道を渡り、階段を上ると県道を下に見て歩く形になる。
高度も高くなり、対面の山と肩を並べつつあるなあ、という感じがした。
石畳を進むと階段があったので、階段を降りて、県道脇の歩道を進むと平らな所に出た。
ここは二子山と文庫山の鞍部、笈ノ平で、 「笈の平」の碑があった。
その近くにはさつきに囲まれた「笈親鸞上人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建っていた。
東国の教化を終えての帰路、親鸞上人と四人の弟子は、険しい箱根路を登って、
この地に来たとき、
上人は弟子の性信坊と蓮位坊に向い 「 立ち戻って東国布教をしてもらいたい!! 」 と頼み、
悲しい別れをした、
という話が伝えられている。
東海道は碑の裏側のなだらかな階段を歩く。
県道に沿って続く未舗装の細い道である。
入口に 「追込坂 登二町半余 」 の石碑と説明板が立っている。
「 追込坂は新編相模国風土記稿のふりがな(万葉仮名)をみると、
ふっこみ坂といったのかもしれない。
甘酒茶屋までのゆるい坂道の名である。 」
未舗装の細い道を行くと左側に昔の旅道具などが展示されている箱根旧街道資料館(入場料70円)がある。
隣の家前に 「甘酒茶屋之石碑』が建っている。
「
甘酒茶屋は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎弥五郎の詫び証文で有名になった茶屋である。
茶屋は畑宿と箱根宿の中間に位置し、旅人が一休みするのに絶好の場所で名物の甘酒を出していた。
こうした甘酒茶屋は箱根八里全体では十三軒あった、といわれる。 」
以前は小さな小屋だったのだが、箱根観光の目玉になったため、 観光バスできた団体やマイカー客にハイカーも混じり、かなり繁盛している様子である。
今は立派な建物になっていて、甘酒以外にも、色々なものを商っている。
小生も名物の甘酒を頼んだが、小さな頃飲んだ甘酒を思い出す素朴な味だった。
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十五分程滞在し、街道を歩き始めると標高七百十五メートルの地点表示があった。
左側が杉林、右が雑木の道を歩くと 「於玉坂」の石碑が建っていて、北東にお玉ケ池がある。
お玉ケ池の由来
「 元禄十五年(1702)二月十日夜、南伊豆町(伊豆大瀬村)の百姓の娘、お玉が主人に叱られたか故郷が恋しくなってなのか、
江戸の奉公先から抜け出して、箱根の関所を迂回する屏風山の抜け道の木柵を越えようとして捕縛され、
池のほとりで獄門にかけられた。 」 という実話による。 」
於玉坂もそれにちなむ名であろう。
この坂は二町余で終り、県道に出た。
対面に石畳の道が続いていて、 「 甘酒茶屋まで0.4km、元箱根まで1.2km 」 の道標があった。
その先の石畳道に 「史跡箱根旧街道」の石碑が建っている。
説明板
「 現在残っている石畳道は、文久三年(1863)の皇女和宮の御降嫁の際、
幕府は代官に命じ前年の文久二年に改修工事をさせたもので、
平均三メートル六十センチの道巾の中央に約一メートル八十センチ巾に石を敷きつめられていた。
ここから元箱根に至る約一キロメートル残っている。 」
道脇に 「 白水坂 登十二間余 」 の石碑があった。
また、少し先には、「天ヶ石坂」 の石碑があった。
相模国風土記稿に 「 天ヶ石坂は登り七間余、坂側に 一巨石あり、方八尺余、 天ヶ石と云う天蓋石の訛なり 其形、天蓋に似なればなり、 此所 箱根宿の界にて山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり 」 とある坂である。
下り坂はあまり整備されていないのか、石畳とは思えぬ、石がゴロゴロあったりして、
歩きにくかった。
坂の途中に、「箱根八里馬子唄」の石碑があった。
馬子唄は、「 箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川 」 と唄われた有名な歌である。
更に下ると右側に 「箱根旧街道元箱根まで十五分」 と書かれた看板がある。
その先で舗装した道と交差するが、交差する道は鎌倉時代の東海道・湯坂道である。
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石畳の道を下るが、この坂が権現坂、八町坂とも呼ばれていた坂である。
坂道の長さは約八町、八百六十四メートルである。
正面には樹間を通して、芦ノ湖が見えるが、かなりの急坂である。
小走りに坂を下る感じで、芦の湖に向って樹間を一気に駆け下ると、舗装した車道に出た。
石畳の道はここで終わっていた。
坂を下ると成川美術館の脇で、芦ノ湖畔に出た。
ここは箱根宿の入口である。
箱根湯本から始まったアップダウンの続く坂道の旅はここで終了した。
成川美術館の反対側にある大鳥居は箱根神社の一の鳥居である。
「
箱根神社は天平宝字元年(757)、万巻(まんがん)上人がここに丈六薬師如来を祀ったのが始まりで、
後に頼朝の保護を受け、伊豆山、三島と並ぶ関東第一級の神社となった。
一の鳥居のある湖畔が賽(さい)の河原で、東海道名所図会では「西の河原」と紹介されている。
江戸時代には百三十基の石仏や石塔があったが、今は五十四基しか残っていない。 」
このあたりは元箱根で、定期バスのターミナルがあり、芦ノ湖遊覧船が常時発着している。
成川美術館の隣の吾妻山日輪寺の参道入口には髭題目が建っていた。
その先左側の岩屋に、身替わり地蔵が祀られている。
地蔵と呼ばれているが、実際は阿弥陀如来像。
良く見ると右肩から左脇腹にかけて、刀傷が残されている。
「
宇治川の先陣争いで名高い梶原景李(かげすえ)が、箱根を通りかかった時、背後から何者かに襲われた。
父の梶原景時と間違えられたらしい。
しかし、かたわらにあった地蔵が身代わりなってかろうじて命が助かったと
伝えられ、それ以来、この地蔵は「景李の身代わり地蔵」と呼ばれるようになった。
梶原景時は源頼朝の側近だったが、弁舌巧みでたびたび人を陥れたといわれ、
源義経を始め、次々にライバルを追い落としたため
相当嫌われていたらしく、頼朝の死後は失脚して、鎌倉を落ちる途中で殺されてしまった。 」
車道の右側に逆さ富士駐車場があり、逆さ富士が見られる場所である。
「
逆さ富士は、富士山が見えるだけでなく、湖面が平らであることが条件になる。
当日は富士山は雲の中で何も見えなかった。 」
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杉並木が残るので、それを見ながら関所方面に向かおうとすると、 杉並木に入って直ぐのところに「一里塚跡」の石碑があった。
「
巨大な杉が二本生えている下にあったのは、江戸から二十四番目の葭原久保一里塚である。
かつては、盛り土をして、ここでは珍しい檀(まゆみ)が植えられていた、という。
檀はニシキギ科の落葉小高木で真弓とも書かれた。 」
この先、国道の左の狭い道に入ると、昔ながらの東海道が残っている。
見事な杉並木の中をしばらく歩くことができる。
杉は元和元年(1618)に植えられた平均樹齢が三百七十年を越える立派なもので、
四百二十本残っている、という。
杉並木の中は薄暗く、少し明るくなったところに出ても霧が出ているのか、
少しミルキータッチに写っていた。
杉並木は江戸時代の旅人の歩きを見守ってきたと思うと幾百もの年輪を感じさせるぬくもりを感じた。
杉が吐くオゾンを吸いながら歩くと、東海道は国道と合流した。
道の反対側に「箱根恩賜公園」があり、
公園の横を左に入ると湖畔に「箱根関所資料館」がある。
館内には、通行手形、古代道中絵図など関所に関する資料や関所破りを防ぐための武具などが展示されていた。
資料館を出て歩いて行くと、冠木門のようなものが見えてきた。
これは江戸時代に箱根関所があった場所に、箱根関所の江戸口御門を復元したものである。
「
元和五年(1619)、江戸幕府は、全国に五十三ヶ所の関所を設置したが、
箱根関所は、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、
山の中腹から湖の中まで、柵で厳重に区分し、
江戸口、京口両御門を備え、大番所と足軽番所が向き合う形になっていた。 」
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旅人は中の建物の前で吟味を受けた。
吟味風景が人形により、再現されていた。
「
箱根関所は士分十名、足軽十七名、人見女、二名が一組だった。
担当したのは小田原藩で、十一組編成されていて、毎月交替で関所役を勤めた。
非常時は小田原藩から非番のものが駆けつけた。
箱根関所は、通常の往来手形の他に、箱根関所宛の関所手形を持たないと、通行出来ない程厳重だったが、
御三家と旗本は関所手形は必要なかった。
「 入り鉄砲に出女 」 、という言葉があるが、
箱根関は大名の妻女が、江戸から抜け出すことを防止することが主眼だったので、
鉄砲改めは行われなかった。
その取締りにあたったのが人見女(俗称、関所婆)である。
そういうことから、箱根関を通るのに、江戸に入る(下り)場合は手形がいらなかったが、
江戸を出る(上り)ときは、手形が必要であった。
なお、女子と囚人以外ならば、手形をもっていなくとも、吟味の上で通していた、という。 」
足軽番所の裏の高台に遠見番所があり、湖上監視のため、関所破りを見張っていた。
「
箱根全山の監視は、此処だけでは出来ないため、
根府川、仙石原、矢倉沢、谷蛾、川村にも裏関所が設けられていた。
関所破りは死罪に処せられたが、記録に残る関所破りは以外と少なく五件六名しかない。
これは関所破りを見つかってもほとんどの場合は藪入りと言って、
道に迷っただけとみなして、関所の役人が叱責して追い返していたからである。 」
関所を出て、芦ノ湖を見ながら歩いていくと、
江戸時代には、関所の御門の手前は「千人溜まり」と言われ、関所の順番待ちの人たちが大勢いて、
それを目当ての茶屋などが立ち並んでいた。
京方御門をでると、オルゴール館、蕎麦屋、箱根寄木細工の店や御土産店が建ち並んでいた。
関所を出て、芦ノ湖を見ながら歩いていくと、国道の右側に箱根ホテルがある。
箱根ホテルの前身は、箱根宿の本陣「はふや」である。
「 東海道が開設され、箱根関所が出来た時は箱根に宿場がなかった。
関所の門は暮六つには閉じられてしまう。
それと同時に裏道はすべて封鎖され、抜け道はまったくないので、
関所の通過には旅人はすごく神経を使った。
大名行列も例外ではなかったので、西国大名の要請により、
元和四年(1618)、箱根に宿場が新設されたのである。
箱根は相模と伊豆の国境にあることから、
小田原宿と三島宿より、五十軒づつの宿を移住させて宿場を作った。
本陣の数は六軒と東海道最大で、脇本陣も一軒あった。
旅籠は当初は三十六軒だったが、大名が多く泊まることや関所が近いことから、
民衆は敬遠し、旅人の多くは三島か小田原に泊まったため、宿場創設時より減少していった。 」
江戸時代の箱根宿の中心は、その先の遊覧船とバスの発着所になっているところだった。
しかし、江戸時代の面影は全く残っていない。
時代の移り変わりを反映して、雲助だんご本舗の奥には、
箱根駅伝に関連する石碑が幾つか建っていた。
「
毎年正月に行なわれる東京から箱根往復の大学駅伝は、東海道の沿線を走る冬の風物詩である。
ここには箱根栄光の碑や駅伝をたたえての歌詞が書かれた碑などが建っている。
その先の右側には箱根駅伝ミュージアムがある。
交差点の左側にあるコーナーにも、箱根駅伝の歴史を語る出来事が書かれていて、
ここが箱根宿であったことは一言も書かかれていなかった。 」
今の箱根は、江戸時代の東海道の箱根宿より、テレビで放映される箱根駅伝なのだ、と思った。
これで箱根宿は終わる。
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