大磯宿の隣の旧東小磯村は明治以降、伊藤博文、西園寺公望、
吉田茂などの元勲や有名人の別荘地や避暑地として、
大磯の名を世に知らしめた。
小田原までは距離があったので、二宮には間の宿があった。
小田原宿は東海道の江戸防衛の要としての城下町であるとともに
箱根越えと箱根関所を控えた宿場町で賑わった。
(ご参考) 大磯〜小田原 15.6キロ 徒歩約5時間
大磯宿の上方見附を出発すると、旧東小磯村で、江戸時代には大磯宿の加宿になっていたところである。
大磯中学校のあたりから松並木になるが、
ここには「東海道の松並木とこゆるぎ海岸」 という案内板があった。
左側の大きな松の下の小高い歩道を歩いて行くと、古河の保養所などがあるが、
その中の一つが旧西園寺公望邸である。
宇賀神社のあたりが東小磯村との境で、大磯宿はここで終る。
そこからは旧西小磯村になるが、大磯宿から次の小田原宿までは約十六キロと比較的長い距離である。
滄浪閣前交差点の左側にあるのが明治の元勲・伊藤博文の旧邸だった滄浪閣(そうろうかく)である。
「 西武鉄道の所有になっていたが、西武グループの整理に伴い、大磯町が買い取る交渉 をしたがまとまらず、個人企業に売却されたので、今後の行方が心配である。 」
江戸時代の東海道は大磯宿を過ぎるとおおむね三間(約5.4m)の道幅だった。
滄浪閣から五百メートル程歩くと、左側に八坂神社がある。
その先の交差点の右側に「右大磯」と書かれた道標を兼ねた「西国三十三所順社講供養碑」があり、
傍らに小さな道祖神が祀られていた。
更に行くと、「血洗川」という少し物騒な名の川に架かる切り通し橋を渡る。
右側の小高い山は「城山」と呼ばれる城跡である。
切り通しの先に城山公園前交差点があるが、その左側にあるのが旧吉田茂邸である。
「 明治以降、大磯には伊藤博文をはじめ多くの要人たちが別荘と構えた。
吉田茂もその一人で、この別荘に貴賓客をよく招いていた。
その後、西武鉄道に売却され、大磯プリンスホテル別邸として使用されていたが、
西武グループの資産整理に伴い、売却の方針が示され、現在は閉鎖されている。 」
(追記)旧吉田茂邸は平成21年(2009)3月22日に全焼して今はない。
庭に吉田茂の胸像があったが、どうなったのかなあ!!
東海道は国道一号と分かれ、右側に大きく折れ曲がって行く。
交差点を右折するとあるのが神奈川県立城山公園。
この公園は三井財閥の別荘・城山荘の跡で、日本庭園と茶室がある。
茶室・城山庵は、三井家の草庵式茶室であった国宝の如庵にちなんで建てられたものという。
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城山公園は西小磯と国府本郷との境。 その一角に大磯町郷土資料館があった。
このあたりは太古から人が住んでいたようで、横穴古墳群があった。
街道に戻ると、すぐに三差路になり、東海道は狭い道を直進するが、「六所神社」の道標も立っていた。
右折する道の一キロ先には五社の神が集まって祭事を行なう神揃山がある。
東海道を進み、橋を渡ると国府山宝前寺がある中丸の集落に入った。
宝前寺は江戸時代の東海道分間絵地図に記載されている古い寺である。
手前の橋は板橋だったようだが、最近建てられたと思える橋が架かっていた。
「 大磯宿より一里(約4km)離れたところに位置する中丸は、 江戸時代には立場茶屋があり、荷馬の休息所だった。 」
中丸ふれあい館を過ぎると、左側の民家の前に「道祖神碑」の両脇に石仏が祀られていた。
「 かっては大磯城山公園からこのあたりの道の左右に道祖神が多くあったようだが、 今回歩いたところではこの場所だけだった。 」
その先で左側から国道が接近してくるが、
東海道と国道の間にある土塁の中に、江戸から十七里の「国府本郷の一里塚跡」の説明板があり、
「 江戸時代の一里塚は、手前二百メートルの両側にあり、塚の上には榎が植えられていた。 」 とある。
その先の国道の左手に大磯警察署があり、その先に国府新宿交差点がある。
「
大磯は相模国の国府が置かれた時期があり、その国府はこの北部にあったようである。
(注)大化改新の前には、相模国は相武と師長の二国に分かれていた。
相武は今の海老名、大和のあたり、師長は平塚、大磯のあたりとされるが、
この二つの国が合併して相模国となった。
相模国の国府は海老名におかれたが、元慶弐年(878)に大住郡に移り、平安時代末に
この地(国府本郷)に移ってきたものと考えられている。 」
国府新宿交差点から再び国道1号線に合流し、三百メートルほど歩く。
二つ目の信号交差点の右側に、六所神社の石柱と鳥居があった。
「 六所神社は、崇神天皇の時代の創建と伝えられる古社で、相模国の総社だった。
稲田姫命、須佐之男命、大己貴命を祀る神社で、
この地は柳田郷であったことから柳田大明神と称した時期もあったが、
養老弐年(718)、この地を相模国八郡の神祗の中心とする旨の宣下が下されたことから、
一之宮から四之宮、平塚八幡宮、それに柳田大明神の六社を合祀し、国府六所宮と称されるようになった。 」
参道を三百メートル程歩き、東海道線のガードをくぐった先に六所神社があった。
本殿は小田原北条氏四代目の北条氏政が修復寄進したものといわれる。
「
五月五日が例大祭で、この祭りを国府祭という。
祭には、近郷五社(宮本村一ノ宮、山西村二ノ宮、三の宮村三ノ宮、四の宮村四ノ宮、
平塚新宿八幡)の御輿が
国府本郷村にある神揃山、通称、高天原というところで、神事を行う。
祭事は、養老年間に始まったとされ、治承4年(1180)には頼朝の参詣もあった、と伝えられる。 」
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少し歩いた右側に、国府福祉館があり、お稲荷様が祀られていて、道祖神碑があった。
その先に、こよるぎハイツ入口の交差点があり、その先の右手に蓮花院がある。
寄らずに歩いて行くと、右側に高い松の木があり、その下に、二宮町の標識があった。
神社から六百メートルほどだった。
二宮町に入り七百メートル歩くと、塩海橋交差点があり、その先の小さな橋が塩海橋である。
橋の手前に「塩海の名残り」と書いた木柱があった。
相模国風土記では、「 塩海は古此所にて塩を製造す。 」 とある。
橋を渡ると、二宮交差点で左側には西湖二宮ICがあり、その先は西湘バイパスである。
横断歩道橋を渡り、向こう側にでた。
「二宮名物落花生」の看板を出した店を見ながら通りぬけ、秦野道バス停を過ぎると、
二宮駅入口交差点にでた。
この間、五百メートル位。
二宮駅前を過ぎて、五百メートル程いくと、江戸時代の山西村に入る。
内原交差点付近に、数は少ないが、松並木が残っている。
藤田電機を過ぎると、梅沢交差点があった。
「
二宮は江戸時代、大磯宿と小田原宿の距離が比較的長いことから作られた間の宿である。
梅沢の立場とも呼ばれた小規模な宿で、江戸から進むと急な下り坂、押切坂を手前に控え、
籠や馬を止め、一息入れたといわれる。 」
といっても、梅沢交差点のあたりに古い家は一軒もなかった。
吾妻神社入口交差点の手前の国道の標識には、「 日本橋まで74km、二宮町山西 」 とあった。
その先にも、また、吾妻神社入口交差点があった。 二つとも同じ名の交差点である。
この交差点には右へ行く狭い道があり、これが旧東海道である。
三差路の角に、「旧東海道の名残り」という道標が建っている。
ここで国道1号線と別れ、斜め右の旧道に入るとすぐ右に
吾妻神社の鳥居と「県下名勝四十五佳選記念碑」がある。
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吾妻神社は日本武尊のゆかりがあるので、立ち寄る。
吾妻神社はJR東海道線を越えた吾妻山にある神社である。
東海道線を陸橋で越えると、道の向こうに鳥居があり、石段を上ると、コンクリートの道、
また、石段があり、その先は、七曲がりのような参道が続いていた。
距離はそれほどではないが、傾斜がある道なので、けっこう厳しく、樹木に覆われているので、
相模湾は一部でちらと見えるだけだった。
石段を上ると、鳥居が現れ、その奥に社殿が見えた。
説明板
「 吾妻神社は梅沢の大神で、第十二代景行天皇時代に始まり、
主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀とする。
源頼朝は鎌倉幕府を創設すると吾妻山と山麓の田畑と塩田を寄進した。
弟橘媛命のご神体は木彫りの千手観音で、現在は藤巻寺に安置されている。 」
弟橘媛命は穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘で、 日本武尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)をもうけた、と伝えられる神様である。
古事記には、「 日本武尊の東征に同行し、
走水(はしりみず)の海(浦賀水道)に至ったところで、
海は荒れ狂い先に進むことが不可能になったが、弟橘媛が海に身を投じると波が穏やかになり、
船を進めることができた。
彼女が付けていた櫛は、七日後にこの海岸に流れ着いた。 」 と書かれている。
境内には、三猿が彫られた庚申塔と首のない二体の石仏も祀られていた。
頂上に向うと、神社の静寂とは打って変わり、多くの花見客がいて、子供は走り周っていた。
南には満開の黄色のレンギョウと桜が咲き乱れ、その先に相模湾の青さが目に染みた。
富士山は見られなかったが、箱根連山から伊豆半島など、三百六十度の展望が見られた。
東海道に戻る。
道は右にカーブしながら下って行くと、右側に手造り醤油のヤマニ醤油株式会社がある。
左にカーブするところに小さな梅沢橋があるが、橋の下の川は暗渠になっていた。
右に入ると「相模三番観音堂」の小さなお堂があり、
「 いくたびも まいりておがむ 観世音 心のあかを すすぐ梅川 」 と、書かれていた。
お堂の脇に 「石仏(碑)群」があった。
双体道祖神もあったが、道の整備でここに集められたような気がした。
橋を渡ると上り坂となり右にカーブする。
坂の途中の右側に等覚院があった。
別名藤巻寺といわれるのは、元和八年(1622)徳川家光が上洛の際ここに立ち寄って藤の花を見たという故事による。
境内の藤棚には、それほど大きな藤ではないが、樹齢四百年の藤とあった。
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その先の山西交差点で再び、国道に合流する。
火見櫓の下に「道祖神」と「天社神」の石碑と双体道祖神と石仏群があった。
ここから国道を歩く。
その先、押切坂上バス停の先で、三差路になり、左側の狭い道が東海道である。
国道に架かる川匂歩道橋には川匂神社入口の交差点があった。
「
川匂神社は、垂任天皇の頃、この地を支配した磯長(しなが)国造が創建したと伝えられる相模国二の宮で、
延喜式内社である。
神社はここから一キロ程上った山側にあるようなので、パスした。 」
国道と東海道との間に江戸から十八番目の「二宮一里塚跡」の石碑と四角形の説明石がある。
国道の傾斜は緩いが、左側の旧東海道は上りで、押切坂という坂が実感できた。
押切坂の頂上付近の左側の民家の一角に 「松屋本陣跡」の標柱と説明板がある。
説明板
「 二宮は間の宿として大友屋、蔦屋、釜成屋など、多くの茶屋や商店が軒を並べ、
梅沢立場と呼ばれて、大変賑わっていたが、
その中で中心的な存在だったのが和田氏が営む松屋茶屋本陣で、諸大名、官家、幕府役人が利用した。 」
その先の下り坂になる右側の草むらに、「双体道祖神」が祀られていた。
坂の頂上からの下りは急坂で、かっては左手に相模湾の広がる快適な道であったようだが、
今は家が建ち並んで視野を妨げていた。
そのまま坂を下ると国道1号線と合流し、その先に中村川(地図では押切川)に架かる押切橋がある。
橋の上から眺めると、左手に相模湾があるのだが、西湘バイパスの橋に視界がさえぎられてしまうのは残念である。
橋を越えたところの押切橋交差点は二宮町山西だが、その先は江戸時代の羽根尾村で、小田原市である。
ところが次の川匂は江戸時代の川匂村で、二宮町に所属する。
次の前川は江戸時代の前川村で、ここから先は小田原市である。
このように、行政区画が複雑な地区である。
橋を渡るとゆるやかだが、長い上り坂・車坂になる。
車坂から相模湾がほとんど見えない。
浅間神社入口の信号の先に町屋バス停があり、それを越すと坂の頂上である。
下り坂となるとほんの一時であるが、左手に相模湾が開けた。
昔は今のように住宅が無かったので、常に海を眺めながら歩けたのだろう。
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坂をほぼ下り終える右側に歌碑があった。
鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆう立の空 大田 道潅
浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今の 暮れにけるかも 源 実朝
浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 阿仏尼
相模国風土記によると、「 前川村は東西十四町余、民戸百六十三、東海道が村の南を貫いていた。 」 とある。
その先の右側の果物屋の角に右に入る小路があり、天保五年建立の「大山道標」が建っていた。
風土記に記載のある、「 海道中小名向原にて北に入、一路あり、大山道なり、幅六尺 」
とあるのが、これだろう。
その奥に秋葉山常夜燈と石祠があった。
坂を下りると道は右にカーブ。
小さな川の手前の民家の塀の前に「坂下道祖神碑」と「双体道祖神像」が祀られていた。
その先の右側に「今戸神社」の石標が建っていた。
その先の中宿公民館の前には「道祖神」と思えるものが祀られていた。
昔の家と思える建物もあった。
常念寺入口の信号を越えると左側には民家はなく海岸になった。
右側が崖のようになっていて、松の木が聳えているところまで来ると、坂は終り、JR国府津駅前に出た。
国府津駅は小高いところにあり、御殿場線も発着する駅である。
横浜銀行の先に、「親鸞聖人七ヶ年御旧蹟 真楽寺」の石柱があるので入っていった。)
真楽寺は、相模国風土記に、 「 聖徳太子の開にして天台宗の古刹なり、安貞のころ
親鸞、当国化盆ありし時、現在性順、師資の約をなし、一堂を建て是に移り親鸞をして
当寺住せしむる事七年、
夫より親鸞、寺務を上足顕知に譲りて帰治ありし 」 とある浄土真宗の寺である。
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境内には、親鸞が指先で名号を書いたといわれる、
二メートル程の石が安置された「帰命堂」と呼ばれるお堂があった。
説明板があり、脇には、市天然記念物の菩提樹があった。
説明板
「 山門の国道を挟んだ南側の袖ヶ浦の海岸に、勧堂がある。
親鸞は七年間このお堂に住まい民衆を教化されたと伝えられる。 」
真楽寺を出て、さがみ信用金庫の岡入口信号交差点を右に入る。
JRのガードを越えたところに「道祖神」があった。
その先の三差路に地元の菅原道真を祀った天神社の菅原神社がある。
境内には 「 わらべ歌 とうりゃ んせ の発祥の地 」 の石碑がある。
また、「曽我兄弟の隠れ石」の石碑があった。
「 曽我兄弟が父の敵(かたき)の工藤祐経が鎌倉に向う行列を見つけるも、
多勢に無勢のため、石の陰に隠れて見送った、という言い伝えのあるところである。 」
隣には安楽院があった。
街道に戻り、少し歩くと親木橋で、左側に横断歩道橋が見えた。
近づくと右側は交差点をそのまま渡れた。
このあたりから、左側に松並木が見られる。
「 ここから先は江戸時代の小八幡村で、相模国風土記には、「 家数九十六軒、 東海道が村の東南を貫いていた。 山西村梅沢の立場から一里の距離で、路の左右に松の並木があり、ここも立場になっていた。 」 とある。 」
少し行くと一里塚バス停がある。
この先あたりに江戸から十九番目の小八幡一里塚があったようである。
相模国風土記には、 「 一里塚は東海道の東にあり、左右相対せり、
高二間、舗(つらなり)六七間塚上に松樹あり 」 、とある。
宮前のバス停の先の「八幡神社」の石柱を過ぎると、「弘法大師利剣名号安置」の碑があり、
その奥に見えるのは東海道分間絵図にある三宝寺と思われる。
小八幡境のバス停があるところで、旧小八幡村も終わった。
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漁場前のバス停を過ぎると江戸時代の酒匂村である。
両側の松並木は太く高くたくましいのが続いていた。
少し行くと 「おだわら観光 いかの塩辛冨士」 の看板があり、観光土産物店のようである。
その先の右側に「大見寺」の石柱があり、
「小田原市指定文化財 小島家宝しょう印塔と五輪塔」の標柱があった。
隣の黒塀の立派な門構えの旧家は 社会福祉法人ゆりかご園(児童養護施設)だが、
江戸時代は茶屋本陣の川辺本陣だった。
東海道分間絵図では、東海道の左側に描かれていて、そこには酒匂不動尊が祀られている。
道の角に「道祖神」が祀られていた。
「法善寺」の石柱があったその先の小路にも「道祖神碑」があった。
右側の大きな白いビルの手前が連歌橋交差点で、その先の小さな橋が連歌橋である。
小さな橋を渡ると酒匂橋東側交差点で、その先には酒匂川が流れている。
江戸時代は、酒匂川を渡るのに季節により、橋又は徒歩渡しであった。
「 東海道分間絵図には、傳ヶ橋の手前に「川高札場」があり、
高札場の向いに、間口七間、奥行四間の川会所があったように描かれている。
相模国風土記には、「 菊川が村の西方を流れ、村南にて海に入、幅四五間、十間余に至る 」 とあり、
「 東海道の通ずる所に土橋を架す 長さ十二間、幅二間半余、傳ヶ橋と呼ぶ 」 とある。
ここにある傳ヶ橋は上述の連歌橋のことだろう。 」
酒匂川は、街道開設当初は船渡しだったが、後に徒歩(かち)渡しとなり、 冬(十月五日から明年三月五日)の間は土橋の仮橋がかけられた。
「
相模国風土記に 「川渡場」の記載があり、 「 酒匂村、網一色村、
山王村の三村にて歩行人夫を出し、其役を勤む、人夫は三十九 人を定額とし 」 とある。
渡し場は酒匂橋の袂にあり、仮橋は酒匂橋より百メートル上流の中州にかけられたという。 」
現在は、国道1号線に三百八十一メートルの酒匂橋が架けられている。
橋を渡っていくと、正面に箱根から伊豆半島の峰々が、川の下流には西湘バイパスの橋が見えた。
渡った先は江戸時代は網一色村、当時の民家は五十三戸で漁業を生業にしていた。
「 江戸時代の渡し場は、酒匂橋の百メートル上流の八幡神社のあたりにあり、 川を渡った旅人は八幡神社の前を通り国道1号線を横断し、 城東高校の先の道を右折し 再び、国道1号線と合流するルートだった。 」
小生が訪れたのは春で、橋を渡った城東高校の辺りの桜が満開だった。
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城東高校の付近に新田義貞の首塚があるので、分りずらいところにあるので、探しながら訪れた。
城東高校前交差点を左折、二つ目の道を右折、突き当った丁字路を右折するとその奥の金網に
「新田義貞の首塚」の説明板があり、民家の奥に入るとあった。
説明板「新田義貞の首塚」
「 福井県藤島にて討死した新田義貞の首は、
足利尊氏によって晒(さらし)首となっていたのを、
家臣・宇都宮泰藤(後の小田原城主大久保氏の祖先)が奪い返して、
義貞の本国(群馬県)に埋葬するため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとりの網一色村で病に倒れ、止む無くこの地に首を埋葬し、自らも亡くなった。 」
国道の手前の道が東海道で、常剱寺入口交差点で、国道に合流した。
その先の左右には 呑海寺、弘経寺、昌福禅院、心光寺など、寺院が多い。
山王橋交差点を渡ると山王川があり、短い橋を渡ると右側に山王神社があった。
境内の井戸は最近つくられたもののようで、星月夜詩碑があった。
神社の由緒
「 明応四年(1495)、北条早雲が当時の小田原城主・大森藤頼を破り、
城を手中に納めた頃はこの神社は海辺にあった。
しかし、高波で崩壊したため、慶長十八年(1613)に、ここに移された。
神社が海辺にあったとき、星月夜ノ井戸があり、星月夜の社と呼ばれていた。
その後、井戸もここに移された。
江戸時代の朱子学者、林羅山は、寛永元年(1624)、神社の境内で星月夜の詩を詠んだ。 」
山王橋バス停を越えると、歩道にある行灯風のもの下に「東海道小田原宿」と書いた道標があった。
歩道橋の右手に「小田原城址江戸口見附跡」の標柱と「小田原城などの案内板」があり、
中には石組みに松の木が植えられている。
相模国風土記には、「 江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、
塚上榎樹ありしが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双こうなりしに、 今隻こうとなれり。 」
とある。
ここ浜町は江戸時代、小田原城の総構えの最東端に位置し、
小田原の城下町入口であると同時に宿場町の入口である江戸口見附があったのである。
また、江戸より二十里の「小田原山王原一里塚」もあったようであるが、今はない。
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浜町交差点を越えると「新宿町」の道標が歩道にあり、
「 江戸時代の前期、城の大手口の変更によって、東海道が北寄りに付け替えられた時に出来た町で、
藩主が帰城のときの出迎場であった他、郷宿や茶屋があり、小田原提灯づくりの家などもあった。 」 とある。
東海道はその先の新宿交差点で、左折し、国道1号と分かれる。
東海道はここは鉤型(曲手)になっていたのでその名残である。
蹴上(けあげ)坂は坂といえない程の坂で、百メートル程上り右折すると 「万町」の石標がある。
江戸時代には紀州藩の飛脚継立所があったところで、町には旅籠が五軒あったという。
この通りには蒲鉾屋が多かった。
万町とその先の高梨町の間の右側の小路を北に行くと、 江戸時代には唐人町(とうしんまち)があった。
「 後北条氏が、難破して小田原に漂着した中国人をこの地に住まわせ、
対明貿易を行っていたといわれ、最初は「唐人村」と呼ばれていたらしい。
現在は唐人町交差点とバス停と唐人町の道標にのみにその名が残る。 」
街道に戻ると左側に「高梨町」の石標があるが、ここは甲州街道の起点であり、問屋場でもあった。
その先に青物町交差点がある。
江戸時代には青物を扱っていた商人の町がこの北側にあった。
青物町交差点を越えると、左側に古清水旅館があるが、江戸時代には「小清水」という名で旅籠を営んでいた。
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「宮前町」の石標には 「 町の中央に、藩主専用の入口・浜手門口が設けられていた。
本陣が一軒、脇本陣一軒、旅籠が二十三軒あり、高札場もあった。
本町と共に、宿場の中心だった。 」 とある。
「 小田原は、後北条氏時代、関東を掌握する大大名として君臨して、
居城のある小田原は城下町として発展した。
江戸時代に入っても、東海道の江戸防衛の要として、大久保氏が配置され十一万三千石の城下町となった。
また、箱根越えと箱根関所を控えていたため、参勤交代の大名も宿泊を強いられ、
本陣が四軒、脇本陣も四軒と、東海道の宿場で一番多かった。 」
古清水旅館の先に「明治天皇聖趾」の石柱がある。
ここは清水金左衛門本陣があったところで、入った右側には「明治天皇行在所」の碑が建っていた。
傍らの説明板
「 明治天皇宮ノ前行在所跡 - 清水金左衛門本陣は四軒あった本陣のうちの筆頭で、
町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行なっていた。 本陣の規模はおよそ二百四十坪で、
明治天皇の宿泊は明治元年(1868)十月八日の御東行の際を初め、五回を数える。 」
その先、右の小路を入って行くと、突き当たりに松原神社がある。
「 北条氏の庇護が厚かった神社である。
北条氏綱の時、海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされる。
四月に行われる祭礼は小田原市内で最も盛大のものである。 」
街道に戻り、道を直進すると、国道が直角に右折してくる左側に 「なりわい交流館」という建物がある。
「 江戸時代の旅籠・住吉屋吉衛門の家で、
大正時代にはブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。
この建物は、大正十二年の関東大震災で被害を受けた建物を昭和七年に再建したもので、
小田原の典型的な商家の造りである出桁(だしげた)造りで建てられている。
二階正面は出格子窓で、昔の旅籠の雰囲気を醸し出している。 」
路地を進むと、「市場横町」の石標があり、 「 本町と宮前町と千度小路の境を抜けられる横町で、 魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、魚市場が開かれていた。 」 と説明にある。
交差点を越えた右側に徳常院という寺がある。
右側のお堂には総身五メートルの青銅製の地蔵尊が祀られている。
「 もとは、元箱根の賽の河原に安置されていたもので、
明治の廃仏稀釈で東京の古物商に売り渡され運搬途中、
この地の有志がその商人から買取り、当寺に安置したものである。 」
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街道にもどると、「東海道小田原宿本町」の石標がある。
江戸時代はここが小田原宿の中心地で、本陣が二軒、脇本陣が二軒、旅籠が二十六軒あった、とされる。
かっては古い家が軒を並べていたのだが、店もビルになり、マンションも建って、昔の面影はなかった。
左側のレーアージュ小田原本町というマンションの駐車場の脇に、
「明治天皇本町行在所跡」の説明板があり、大きな石碑が建っている。
片岡本陣があった場所で、以前は映画館だったが、いつの間にかマンションに変り、
道路に「本陣跡」の表示がないので、見つけるのに苦労した。
説明板
「 明治天皇が、明治十一年十一月七日、東海北陸御巡幸の際、宿泊された。 」 とあった。
御幸の浜交差点のあたりに 「久保田本陣」があったはずだが、その跡は確認できなかった。
その先の小西薬局の前に、「中宿町」の石標があった。
「調剤薬舗」の看板を掲げた小西薬局は寛永十年の創業だが、
建物は関東大震災後に建てたものである。
「 中宿町には脇本陣と西の問屋、旅籠が十一軒あった。
小西家は藩の御用商人だった。、」
道の向かい側にお城のような建物があるのは、 五百年の歴史を誇る日本最古の薬屋、ういろう本舗である。
「 歌舞伎の外郎(ういろう)売りで、有名な外郎を売る店だが、
元から亡命した陳廷祐の中国での官名が、礼部員外郎だったことから、
「ういろう」と名乗り、薬を製造販売したのが始まりという。
建物は大永三年(1523)に建設されたが、
現在の建物は平成十年に復元されたもの。 」
箱根口交差点あたりが、江戸時代の欄干橋町で、
「欄干橋」の石標には、「 本陣が一軒、旅籠が十軒あった。 」 とある。
清水彦十郎本陣はういろう本舗の道を隔てた反対にあったというが、その跡は確認できなかった。
その先に「筋違橋町」の石標があったが、この辺から板橋見附までは八百メートル程である。
このあたりには古そうな家がぽつりぽつりと残っていた。
諸白小路交差点の左側の小路を入ると、ヨハネ玩具商会の前に 「三好達治旧居跡」の標柱があった。
この先に「山角町」の石標があり、「 山角町は小田原北條氏の家臣、山角定吉の屋敷があったところから
名付けられた、といわれる。 江戸時代にはかわら職人が多かった。 」 とあった。
その先、 信号交差点を右折すると、菅原道真を祭神とする地域の鎮守社の「山角天神社」がある。
「
御神体は高さ三十二センチの木像である。
江戸時代、再興した三光寺を別当寺としていたが、明治に廃寺になった。
別当寺の什宝だった菅原道真画像は北条氏康の奉納によるもので、現在は神社が保管している。 」
境内の芭蕉句碑は文政三年(1820)に建立されたものである。
「 有米家可耳(うめがかに) 乃都登(のっと) 日能伝(ひので)る
山路閑難(やまじかな) 」 という、梅の花を詠んだ句である。
その他、とおりゃんせの歌碑と紀軽人の狂歌碑があった。
紀軽人は地元の筋違橋の呉服商の主人で、江戸に出て太田蜀山人などと親交して、一流の狂歌師になった人である。
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街道に戻ると、早川口バス停の先の左側に「御厩小路」とあるが、覗きこんでも普通の路地だった。
JR、箱根登山鉄道のガードの手前にある早川口交差点を左折する。
二百メートル程行くと小田原城早川口の遺構がある。
説明板
「 早川口遺構は北条氏が秀吉の小田原攻めに備えて城下町すべてを取り囲んで
構築した小田原城大外郭の西側平地の代表的な遺構である。
土塁が二条平行しその間の堀を道とする独特の虎口で、昭和五十三年に国の史跡に指定され、
現在は史跡公園として整備されている。 」
街道に戻り、ガードをくぐると、直ぐ左側にあるのが大久寺である。
「 徳川家康軍の猛将だった大久保忠世が、小田原藩主になり建てた寺で、 彼を初め大久保氏の代々の墓がある。 」
大久寺を出ると、昔の赤い郵便ポストの前に、「御組長屋(おくみながや)」の石標があった。
道を挟んで反対側にあるのが居神(いがみ)神社である。
居神神社は、伊勢長氏(後の北条早雲)に討たれた三浦道寸の嫡子・義意(よしおき)の霊と木花咲耶姫命、火之加真土神を祀る神社である。
旧山角町と板橋村の鎮守で、神輿の巡業は大永元年(1521)から始まり、
その行列は十万石の格式であった、と伝えられている。
境内には鎌倉末期の念仏供養碑の古碑群や庚申塔などが祀られている。
神社の縁起
「 三浦義意は七十五人力といわれた豪傑であったが、戦国初期の永正十三年(1516)、
伊勢長氏(後の北条早雲)に討たれた。
このとき、樫に鋲を打ち込んだ棍棒を振り回して奮戦し、
多くの将兵を殺傷した後、自ら腹を切り、首を刎ねて死んだ。
その首は恨みを含んで、伊勢氏の本拠地である小田原まで飛んできて松の枝にかかり、
三年間、目を見開いて通行人を睨み殺した。
そこで、久野総世寺の忠室和尚がやって来て、これに諭したところ、
義意の首は枝から落ち、瞬く間に白骨と化したという。
和尚がこれを弔い、祠を建てて、義意を祀ったのがこの神社の始まりである。
」
石段を下り、街道に戻ると左隣に大きな銀杏の木が生えている光円寺がある。
寺の角が小田原宿の上方見附があったところで、そこには東海道の案内板や「上方見附跡」の表示があった。
ここで小田原宿は終わる。
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