藤沢宿から間の宿・茅ヶ崎に向かう途中、大山道の道標を兼ねた不動明王が祀られている。
茅ヶ崎駅に入る通りの角に江戸から十四番目の茅ヶ崎一里塚がある。
平塚宿は藤沢宿と大磯宿にはさまれ、宿場の経営は苦しかったようで、公役負担を軽減するため、
八幡村の一部を加宿とし、平塚新宿とした。
大磯宿は、江戸時代には宿場町として栄えたが、明治以降は別荘地や避暑地として、多くの有名人を集めた。
(ご参考) 藤沢〜平塚 13.7キロ 徒歩約4時間30分
平塚〜大磯 2.9キロ 徒歩約2時間
小田急江の島線藤沢本町駅が右に見える陸橋を越えたあたりが藤沢宿の京側の入口だった。
右手に緑豊富な小高い山が見えるが、この山は伊勢山でその一部が伊勢山公園になっている。
湘南高校交差点を過ぎると鵠沼(つげぬま)神明である。
伊勢山が終りになるところに引地川が流れているので、 川に架かる引地橋を渡る。
橋を渡ると羽島地区で、スーパーのそうてつローゼンを越えると、「引地坂」と呼ばれる上り坂になる。
上って行くと、道はカーブし、右側に大きなタンク群が見えてきた。 メルシャンワインの工場である。
坂の途中の左側の道端に、「おしゃれ地蔵」と地元で呼んでいる小さな祠があった。
説明板「おしゃれ地蔵」
「 女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を
塗ってお礼をする と、伝えられているものだが、実際は地蔵ではなく、道祖神(双体道祖神)だろう。 」
メルシャンの工場正門前には石仏が祀られていた。
坂もここで終り、平坦になった。
羽島交差点では左の道を行く。
その先の三叉路は、右折は県道43号で厚木、用田方面へ、
旧東海道は44号で、そこから少し歩くと四ッ谷信号交差点にでる。
左右の道は国道1号線で、右折して行くと新湘南バイパス藤沢ICの入口。
広い国道を横切り、向こう側に渡ると新聞販売店の左側に狭い道がある。
これが江戸時代の大山道(おおやまみち)で、国道との間の狭い土地に石の道標と祠が建っている。
「 江戸時代に入ると、江戸の町人達の間に大山詣が盛んになり、
落語にも登場するほどの人気となった。
ここ四谷辻には多くの茶屋が立ち並び、参詣客を誘い込んでいたという。 」
祠の中には「大山道」の道標を兼ねた不動明王が祀られている。
「
石の道標は、延宝四年(1676)、江戸横山町の講中が東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられたもの。
大山不動尊の下の正面に、 「大山道」 、両側面には、 「これより大山みち」 と、刻まれている。
片足をぶらんと下げ、眼をひん剥いてこっちを睨んで座っている不動明王は、「四谷不動」と呼ばれて、
ここを旅する人々に足を止めさせてきた。
祠の外にある道標が初代で、万冶四年(1661)、江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものである。 」
狭い大山道の入口に天狗のお面が付いた大山への鳥居が建っている。
国道1号を進み、羽鳥交番前交差点にでる。
交差点を左折するとJR辻堂駅であるが、東海道は直進。
すると小さいながら、松並木が現われた。
松の木の下を通る歩道は、松を保護するため、凸凹している。
右側に「一里塚跡」の木柱があり、 「 江戸から十四里目の一里塚で、左に榎、右には松が植えられていた。 」 とある。
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その先の二ッ家稲荷神社の境内には、寛文十年(1670)建立の庚申供養塔があった。
現在の地名は二ツ谷だが、二つ家だったのが変化したといい、
江戸時代には、二軒茶屋の立場があったところである。
大山口交差点の両脇に道標があった。
道より小高いところにある道標の一つは、寛保二?の年号と下が土に埋まっているが、
常光明…の字と読めたが・・・
「
東海道分間延絵図に、二ツ谷木橋を渡るとすぐ左側に「寛保二壬戌之三月の供養塔」の記述があるので、それだろう。
道標の常光明…は、鎌倉街道の別名、常光明真言道が刻まれているようである。 」
道の右側の石塔は 「奉巡礼西国坂東秩父供養塔」である。
「是より大山道」と書かれた道標で、享和三年(1803)に建てられたもの。 」
茅ヶ崎市に入ると、道の北側は小和田で、その先の北西は菱沼である。
このあたりの松並木は、背が高く立派である。
東小和田交差点の手前二十メートル右側の民家の前に明治天皇の小休止碑があった。
道は南西に向って続いている。
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上正寺交差点の南側は代官町、本宿町と付いているが、本宿町は鎌倉に向う道脇にあったので、
江戸時代には鎌倉街道の宿場になっていたのだろうか?
小和田バス停近くで、左の路地を入ると右にカーブする突き当たりに地蔵堂があった。
その対面に、馬頭観音が祀られているが、この狭い道は旧東海道かもしれない。
その先の信号交差点の左手前に千手院があり、右側には広徳寺がある。
このあたりから道は右にカーブしやや上り道になる。
北側の地名は小和田から松林に変った。
松林小学校入口交叉点を過ぎたところに菱沼バス停がある。
「
藤沢宿と平塚宿との距離は十三キロ強と長かったので、間(あい)の宿として、
三つの立場があった。
茅ヶ崎、菱沼(牡丹餅)と南湖(南郷)である。
菱沼の立場には牡丹餅(ぼたんもち)を名物とした茶屋があったので、
いつしか牡丹餅茶屋が立場の呼び名となった。
茅ヶ崎高校のバス停付近にあったという説もあるが、
菱沼との名から松林地区にあったとするのが無難だろう。 」
松林中学校交差点を越えると地名は本村に変わる。
その先から道は左にカーブし、このあたりから再び松並木が現れた。
茅ヶ崎高校前に、東海道の松並木の説明板がある。
「 国道1号線の黒松の中には二メートル二十センチの高さのものがあり、 四百年を経てる。 」
更に行くと本村交差点の手前の右奥に海前寺がある。
山門の両脇に、仁王立ちした石仏があり、「海前禅寺」と書かれた石柱と大きな灯篭が建っていた。
灯篭は徳川二代将軍秀忠の菩提のため、
慶安四年(1651)に久留米藩二十一万石の二代目藩主・有馬忠頼が奉納したものである。
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山門から境内に入ると、本堂の左右に供養燈篭が建っていた。
左側のずんぐり太い燈篭は、信濃国須坂藩一万石藩主・
堀長門守が宝暦十一年(1761)に第九代将軍家重の供養のため建立したものである。
右側の燈籠は、播磨国安志藩第二代目小笠原長逵が同じ年に建立したもの。
「
安志藩は、豊前中津藩主・小笠原長邑が六歳で没したため、無嗣改易となるところを名家ということで、
当時五歳だった弟・長興に播磨安志一万石の名跡が許されたことから、誕生した藩である。
長逵はその子であるが、家名が維持できた将軍に感謝し、供養燈籠を建てたのだろう。 」
旧東海道は高台にあり、北側は低いため、右側を見ながら歩くと、尾根沿いの道のようである。
右下の八王子神社を見下ろすと、まさにその感を強くした。
右側のサティがあるあたりから道はなだらかになる。
車の往来は激しいが、歩道を覆うように松並木が続いているので、夏の暑さはしのぎやすいだろう。
元町に差し掛るとゆるい下り坂になった。
その先の一里塚交差点の左側には、石垣が築かれ、何本かの木が植えられている。
これは江戸から十四番目の茅ヶ崎一里塚を復元したものである。
ここからJR茅ヶ崎駅へ通じる道には「一里塚通り」という名称が付けられている。
駅に近いから、一里塚あたりからは人が急に多くなった。
駅交差点を過ぎた右側に樹木が茂った一画があり、その中に三基の燈篭があった。
説明板
「 徳川家菩提寺の上野寛永寺は戦災に遭い、
復興を援助した人達に、全国の大名が歴代将軍へ奉納した供養燈篭を贈った。 」
説明板から、ここにある燈篭も先程訪れた海前寺の燈篭も、上野寛永寺にあったものであることが分かった。
その先にひときわ目立つ高い松の木があるが、周囲のビルと比較すると十五メートルはありそう。
その先左側に郵便局があり、そのあたりから緩い坂道になる。
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茅ヶ崎郵便局の反対側には、背の高い松が見下ろすような姿で立っている。
また、びっくりドンキーの前にも松の木があった。
国道1号線の右側の歩道を歩く。
十間坂交差点を過ぎると、少し上り坂になったが、これが十間坂である。
十間坂2交差点を越えた右側に第六天神社がある。
「 祭神は於母陀琉神(おもだたがみ)と妹阿夜詞志泥神(いもあやかしこねのかみ)である。
元弘三年の新田義貞の鎌倉攻めで兵火にあった、と伝えられるかなり古い神社で、
この神様は天地創造の神で、天神七代の第六代目の神である。 」
道は下りになり、南湖入口交差点を過ぎると、茶屋町郵便局がある。
道の左側に古い家が一軒あり、その先で道が左にカーブして行く。
「 南湖地区は藤沢宿から平塚宿の間に三つあった「間の宿」の一つで、 南湖の立場は茶屋町と称せられた程の大きな立場だったのであるが、 それを感じさせるものは残っていない。 」
カーブを曲がりきると少し上りとなり、その上に千川が流れ、鳥井戸橋が架かっている。
橋を渡ると、橋のたもとの左側に「南湖の左富士之碑」が建っていた。
このあたりは北西に道が続くので、左側に富士山が見えたからである。
富士山がある方向には民家があるので、たまたま通りかかったご婦人に、
「 ここから富士山は見えるのでしょうか? 」 と聞くと、
「 二、三日前の朝には見えましたが、今日は雲が多く、生憎見えませんね!! 」 と、言われた。
富士山は残念ながら見えなかったが、街道正面には大山(おおやま)が見えた。
道の反対側の赤い鳥居は鶴嶺八幡宮の鳥居である。
鳥居をくぐると、右側の民家の中庭に弁慶塚がある、という案内板があった。
「 弁慶塚は、武蔵国稲毛の領主・稲毛三郎重成が、亡妻の供養のため、相模川に橋を架け、
文久九年十二月、落成供養を行なった際、参列した源頼朝が、その帰途、鶴嶺八幡宮付近に差し掛かったとき、義経、行家等の亡霊が現れ、頼朝は落馬し、重傷を負い、翌、正治元年に亡くなった。
後年、里人は義経一族の霊を慰めるため、塚を築いた。 」 と伝えられるものである。 」
民家の入口に、「 ご自由にどうぞ 」 と書かれているので、入って行くと、
想像したよりひっそりとした塚だった。
鶴嶺八幡宮はここから約一キロメートル北方にあるが、時間の都合からパスし、街道に戻る。
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松並木が残っている道を歩く。
橋から三百メートル程歩くと 「新湘南バイパス 茅ヶ崎西 300m 」 という標識がある。
そこから道は大きく左にカーブする。
その先の左側にある神明神社の本堂は龍の彫刻が施されていた。
境内の左側に「厄神大権現」とある大きな石碑と祠の中に道祖神など三体の石仏があった。
道はこの先、左に大きくカーブし、傾斜のある上り坂になった。
上って行くと、左側に 「東海道の名物まんじゅう でかまん」 という看板を掲げたお菓子屋があった。
このあたりに旧相模川橋脚が残された小公園があるようだが、案内がないので分らなかった。
新湘南バイパスの下に流れる川は小出(こいで)川で、それ程大きな川ではない。
川に架かる下町谷橋を渡ると、左側に松の木があった。
更に歩くと、今宿バス停の道の右側に日蓮宗の上国寺があり、
その先の下の川入口交差点の先には、信隆寺がある。
産業道路を越えると、新田交差点の手前右側に「道祖神碑」と「道祖神像」が小さな祠の中に祀られていた。
気を付けないと、通り過ぎるところにあった。
坂を上って行くと、相模川に出た。
江戸時代は船渡しだったが、現在は「馬入橋」という大きな橋が架かっている。
説明板
「 江戸時代には相模川に橋を架けることは禁止されていたので、
馬入の渡しにより相模川を渡った。
舟着場は旧中島村と対岸の旧馬入村にあったが、川会所と川高札場は馬入村にあった。
川会所には、川名主三人、川年寄三人が勤務し、船頭は昼夜を問わず十六人が待機していた。
寛永十一年(1634)、三代将軍家光が上洛した時と慶応元年、十四代将軍家茂が長州征伐に際しては、
舟橋を架けられた。 」
橋を渡ると陸軍架橋記念碑があり、大正時代に陸軍の手で橋が架けられたことが分かる。
二百メートル程先の馬入交差点で、国道1号線は右折して分かれていくが、旧東海道はそのまま直進する。
ここと国道129号線と交差する次の交差点との間に一里塚があったようだが、それを示すものはなかった。
国道129号線を渡った蔵屋敷バス停あたりが馬入村の西の外れである。
江戸時代には、このあたりから新宿まで松並木が続いた。
平塚は戦時中軍の工場があったので戦災に遭い、ほとんどの所が焼かれてしまったので、
現在ある並木は最近のものだろう。
それでも松原バス停など、松並木があったことを示す地名が残っていた。
もうすぐ、平塚宿である。
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松原バス停を過ぎると、宮の前地区に入る。
「 平塚は北条氏の城下町として発展し、相模川水運による物資の集散地であり、
東海道の他、中原往還(中原街道)、八王子道が通るため、交通の要衝として早くから栄えたところである。
相模国風土記には、 「 平塚宿が困窮し、公役の負担に耐えられないため、慶安四年、
八幡村の一部を加宿とし平塚新宿とした。 」 という記述がある。 」
その先は平塚駅前交差点で、右折すると平塚八幡宮のある八幡山公園がある。
このあたりとその先の明石町が旧平塚新宿だと思うが、ビル街になっていた。
長崎屋の裏あたりの紅谷町公園に、番町皿屋敷のお菊の墓とさせる「お菊塚」がある。
平塚市観光協会の「説明板」
「 戦災復興の区画整理移転により、立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。 」
街道に戻り、再び歩き始める。
市民プラザ前交差点を横切ると、見附町に入る。
右側に 「旧東海道平塚宿史跡絵地図」 という看板があり、
その先に平成十三年(2001)に復元された江戸方見附があった。
「 宿場の入口の街道の両側に石垣を築いて塚をつくり、その上に矢来を組み、
宿場に入る旅人を監視したのが見附である。
平塚宿は、東西十四町六間(約1.5km)の宿場で、家数は四百四十三軒、人口は二千百十四人だった。
前述したように途中から平塚新宿が加わったが、それ以前の平塚宿はここから始まり、
西へ向かって、十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町と続き、上方見附まで続いていた。 」
市民プラザの中庭に、平塚里歌碑があり、説明板がある。
「 文明十二年(1480)、平安紀行の作者が京に上る途中、
ここで隠遁して亡くなった三浦遠江入道定可を思い出し、
里人に墓などを尋ねたが、誰も知らなかったので、
「 哀れてふ 世のしるし朽ちはてて かたみもみえめ 平塚の里 」 と、吟じた。
なお、平安紀行の作者は、大田道灌とする説と異説がある。 」
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見附跡から四百メートル程行くと、旧二十四軒町で、右側の茅沼酒屋前に「脇本陣蹟」の石柱があった 。
説明板
「 脇本陣は、当初は西問屋場の西にあったが、天保年間に現在地に移転し、
山本安平衛が営んでいた。 」
平塚本陣郵便局を過ぎると旧東仲町で、右側の山口屋茶舗前に「平塚宿高札場の蹟」の石碑があった。
「 平塚宿高札場は長さ二間半(約五メートル)、横一間(一.八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)で、土台は石垣で、その上を柵で囲み、高札が掲げた部分には風雨を避けるための屋根が作られていた、といい、 隣の宿場までの公定運賃などの高札が掲げられていた。 」
道の反対側には 「東組問屋場蹟碑」が建っていた。
平塚宿には古い建物や往時の面影は残っていないが、この通りに五十四軒の旅籠が軒を並べていたのである。
本陣は更に百メートル先の右側の神奈川銀行平塚支店のところにあったようで、
その前に「平塚宿本陣旧跡」という標柱が建っていた。
「 加藤七郎兵衛が務めた本陣の建物は、間口約三十メートル、 奥行は約六十三メートルの総ケヤキづくりだった、と伝えられている。 」
神奈川銀行の先の交差点を左折した先にある宝善院が、平塚宿本陣の菩提寺になっていた。
また、この交叉点を右折する道は新豊田道で、その先で中原街道と交差する。
「
余談になるが、徳川家康は東海道ではなく、中原街道を好んで使ったという。
鷹狩のために造営した中原御殿(雲雀御殿ともいわれた)があったので、鷹狩りで訪れただけではなく、
江戸と駿河の往来にも利用した。
中原街道は、この先で田村の渡しを越え、寒川、用田、丸子
渡し、洗足、虎の門と行くが、道が平坦だったことが家康が利用した理由のようである。 」
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東海道を直進すると旧西仲町で、少し歩くと右側に分かれて行く狭い道がある。
右側のなまこ壁の消防小屋が、西組問屋場跡である。
「 問屋場は、二十四軒町に東組問屋場、西仲町に西組問屋場があり、 東西の問屋場が十日毎に問屋一名、年寄1名、帳付三名、馬指二名の構成で、交替で勤めた。 」
建物を右折した突当りには松雲山要法寺がある。
。
山門前に「七面大明神」と書かれた大きな石柱があり、松雲山要法寺縁起(説明板)があった。
「松雲山要法寺縁起」
「 鎌倉幕府の執権、北条泰時の次男・泰知が、この地の地頭をしていた時、
日蓮上人が平塚にご来臨されるという七面天女のお告げを受けた。
日蓮上人はこの地に宿泊され、法華経のご説法したところ、
邸内の平真砂子塚にそびえ立つ老松に紫雲たなびくという端相が現れた。
それを見た人々は法華経の信者になり、北条泰知は、弘安五年(1282)、自らの館を献上して、
当寺を開山した。 」
少し行くと、右側に西仲町公園があり、公園の一角に「平塚」と呼ばれる塚があった。
「
天安元年(857)、桓武天皇の曾孫で坂東平氏の始祖といわれる平真砂子が、
一族とともに東国へ向かう途中ここで没したため、遺骸を埋めこの塚を築いた、という。
これが平塚の地名の由来である。 」
隣には、春日神社があった。
東海道に戻り進むと、右からきた国道1号線と合流した。
国道に入り、百メートル程歩くと、西組問屋場跡のところで分れた道と合流する、
三差路の古花水橋交差点があった。
江戸時代には旧柳町のこのあたりに、上方見附があったといわれ、
交差点の左側には復元された上方見附があった。
これで、平塚宿は終わりである。
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平塚宿から大磯宿は三キロと短い。
花水橋東交差点は三叉路で、右折すると秦野に行く県道、
直進すると右手にこんもりと丸い高麗山の姿が見えてきた。
安藤広重の 「東海道五十三次・平塚宿」 の絵に、古花水付近を描いたものがある。
「
平塚宿西端の古花水から東海道の畷道がつづら折りに続き、
道の右側の大きな松の下には榜示杭と関札が見え、その脇を旅人などが通り過ぎていく姿が描かれている。
道の先に高麗山が見え望み、富士山も一部姿を現わしている。
榜示杭は大住郡と淘綾>(ゆるぎ)郡の境を示すためのもので、
関札は平塚宿を利用する大名が宿場の入口に掲げたものである。
高麗山は高麗の王族が移り住んだとか、虎御前の庵があったなどと伝えられる山である。 」
花水橋まで行くと、山の姿が大きくなり、その右側に大山のある丹沢連峰がよく見えたが、
浮世絵にあった富士山はなかった。
橋を渡ると大磯町である。
花水橋交差点を越えると左側に善福寺がある。
山門を入ると左側に「親鸞聖人旧跡碑」がある。
「 善福寺は親鸞聖人の高弟の一人、了源上人の創建である。
伊東祐光は、伊豆の押領使・伊東祐親の孫にあたり、仇討ちで有名な曽我兄弟とは従兄弟の関係にあり、
平塚に住んでいたが、一族の菩提を弔うため、武士を捨てて出家し、親鸞の弟子になったという人物である。
この寺には鎌倉時代の木造了源坐像(国重文)と阿弥陀如来立像(県重文)がある。 」
このあたりは、江戸時代の寛政年間に、大磯宿高麗寺領(百石)が高麗寺村になったところである。
高麗(こま)寺には家康を祭った権現社があったことから、
村内には下車の制札が掲げられ、大名は駕篭を降りて頭を下げて神社前を通った、といわれる。
その先の道の右側に茅葺きの古い家が残っていたが、維持が大変なので、
自治体が援助しないと、早晩なくなるのでは、と思った。
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高来神社入口交差点の右側に、高来神社(たかくじんじゃ)の石柱と鳥居が建っている。
鳥居をくぐって歩いていくと、右側に慶覚院という寺があった。
「
慶覚院は、慶長十八年(1613)に大磯宿南下町に創建された寺だが、
明治十五年の大磯の大火で、高麗寺地蔵堂があったところに移転。
最近建て替えられたので建物は新しいが、建治四年(1278)造立の「木造地蔵菩薩坐像(県重文)」や
当寺本尊の「木造千手観音立像」が祀られている。 」
大きな神燈が建つ参道を歩くと左側に力石が置かれていた。
その先の左側にある神社らしくない建物が高来神社の社殿である。
建物が神社らしくないのも当然で、江戸時代まで「高麗寺」という寺の観音堂だったのである。
「 高来神社は神功皇后の三韓征伐から帰国後、武内宿祢の奏請により高麗大神、和光を勧請したのがはじめという説や 高句麗が滅び、その王族、若光の一行が日本に逃れて来て、この地に上陸し、 その一族を祀ったのが始めという説もあり、神社の創建の時期や起源ははっきりしないようである。 」
右隣の建物は元々神輿殿だったようだが、これもまた、寺院風の建築である。
「高来神社の由緒」
「 漁民が海から引き揚げた千手観音を本尊とした寺を行基上人が高麗寺と認めたことから、
山頂の高麗大権現を上社、山麓の高麗寺を下社とし、山頂の左右の峰に白山と毘沙門を勧請して、
高麗三社権現と称した。
江戸時代までは神仏混淆で、高麗寺と高麗大権現は一体とされていた。
明治の神仏分離の嵐により、高麗寺が廃寺となった時、山頂の高麗権現社を観音堂に移し、
高麗神社と名を変えて、観音堂は残った。
高麗寺は徳川幕府の庇護下にあったため、明治政府により、観音堂と神輿殿を除き、
すべての建物が破壊された。
明治三十年に現在の名前の高来神社に改称した。 」
上記理由により、神社の社殿がおかしい理由が分った。
それにしても、京都御所と公家達の徳川憎しの怨念が漂う話である。
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街道に戻り、歩き始めると、道の右側に虚空蔵尊の石標があり、小さな祠が建っていた。
説明板
「 江戸時代には青木宮という熊野権現と虚空蔵侍を祀ったお堂があり、
隣に下馬標、反対の左側に村の境を示す三メートル程の寺領傍示杭が立っていて、
村の境に字駒留橋が架かっていた。 」
道は右にカーブし、更に進むと道の右側に松の木があり、その先に三叉路の化粧坂交差点があった。
高来神社入口交差点から三百メートルほどの距離である。
東海道は右の狭い道に入る。
緩い上り坂で化糀坂(けはいさか)という名が付けられている。
「 平安時代から鎌倉時代にかけては、化粧坂近辺が大磯の中心地だったようで、 化粧坂には遊女屋も多かった、という。 」
旧街道に入ってすぐの右側に車屋という水車がある手打ち蕎麦屋があった。
百五十メートル程歩くと左側に黄色い壁の家があり、「化粧井戸」があった。
「 大磯一の美女といわれた虎御前は、このあたりに住んでいて、 この井戸で朝夕化粧をしていたと伝えられる井戸である。 」
車は殆ど通らず、旧東海道のたたずまいを感じさせる道の両側に巨木があるので、
何の木かと、近くの住民に問うと樹齢百二十年〜百三十年の榎(えのき)という。
どれも巨木揃いで、歴史の深さを感じさせた。
坂を上りきった右側に、「 王城 釜口古墳 0.3km 」 の木柱があるが、
王城山には横穴古墳が多くあり、釜口古墳は高麗王若光の墓だという説もある、という。
街道を進むと 「東海道五十三次 大磯宿 虎ヶ雨 」 という標題の浮世絵看板が現れ、
「 右手は高麗山の麓、虎御前と曽我兄弟の悲恋伝説も雨にぬれそぼってわびしい。 」
と書かれていた。
その先の左側に「三界万霊供養塔」と「馬頭観音」が祀られていた。
坂の頂上と思えるところで、東海道はJR東海道本線により寸断されているが、
右側の随道(徒歩と自転車のみ)をくぐり、反対側に出ると、ここから下り坂となり、松並木が出現した。
松の木はかなり大きいので、東海道の生き残りのように思えた。
その先に「見附」の表示板があったので、大磯宿に到着である。
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道の右側にあった「江戸方見附」の表示坂には、さっき通り抜けてきた随道の手前あたりに、
大磯一里塚があったように表示されていた。
このあたりには大きな松の木は残っているのだが、両脇に住宅が建ち並んでいるので、
現世を感じさせる風景になっていたのは残念である。
一軒の魚屋の前には海から揚げられた魚が干されていて、その魚を買おうと多くの人々が群がっていた。
坂を下っていくと、「大磯宿」と書かれた宿場行燈があった。
「 大磯宿は天保十四年に発行の東海道宿村大概帳によると、 宿内人口は三千五十六人、家数は六百七十六軒で、本陣が三軒、脇本陣はなく、旅籠が六十六軒 、とある。 」
東海道はその先の三沢橋東側交差点で、国道1号線と合流。
ここからしばらくは国道を歩くことになる。
三沢橋交差点を過ぎると神明神社があり、境内には松の木が多く茂っていた。
江戸中期に神明台より遷座した神社で、神明町はこれに由来する。
大磯駅入口交差点の右手に大運寺がある。
そのまま直進すると、穐葉(あきば)神社入口交差点手前の左側に、鳥居と虎御石の説明板があった。
説明板
「 鳥居の先の秋葉神社は、宝暦十二年(1761)一月十九日の大磯宿の大火により、
宿場の殆どが焼けたため、翌年、遠州秋葉山より勧請し、大運寺内に建立された神社である。
しかし、明治の神仏分離令により、寺から他に移され、大正七年(1918)に現在地に遷座した。
虎御石は曽我十郎の剣難を救った身代わり石、
また、虎御前の成長につれて大きくなったといわれる生石である。
江戸時代の東海道名所記に、 「 虎が石とて、丸き石あり、よき男のあぐればあがり、
あしき男の持つにはあがらず、という色好みの石なり。 」 とある。
江戸時代には東海道のこの場所に、虎御石が置かれていたが、現在はここにはない。 」
路地を少し入ったところにあるのが延台寺である。
慶長四年(1599)に、身延山十九世・法雲院日道上人により、建立された日蓮宗のお寺である。
「
虎御前は大磯一の美女で、舞の名手だったといわれ、曽我十郎佑成の愛人で、
曽我兄弟の仇討ちのため助力した、と伝えられる女性である。
虎御前が恋人の曽我十郎とその弟の五郎の菩提を供養するため、
結んだという庵の跡に建てられた、と伝えられるのが、延台寺である。 」
境内には、日道上人が虎御前を供養するために建てたといわれる 「虎御前供養塔」がある。
また、小さな丸い墓碑の大磯遊女の墓もあった。
「
大磯の遊女は人知れず無縁坂に葬られるものが多かったが、その中で当寺信徒はこの寺に葬られた、とある。
前述の虎御石は最近建てられた法虎庵曽我堂の中に収められてしまったので、
入館料二百円を納めないと拝見できない。 」
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江戸時代、ここあたりは北本町で、虎御石の道の反対に北組問屋場があった。
中南信用金庫駐車場の金網前に、その標示板があった。
少し歩くと道の右側の蕎麦屋の前に「小嶋本陣跡」の標示板があった。
「
享和三年(1803)には大磯宿に小嶋、尾上、石井の三本陣があり、
その建坪は夫々、二百四十六坪、二百三十八坪、二百三十五坪だった、という。
ここにあった小嶋本陣は裏口で地福寺に出られるようになっていたようである。 」
本陣跡のすぐ先に消防署前交差点があるが、江戸時代にはここに境橋があり、
ここから先は南本町だった。
ここを右折すると、承和四年(837)の創建と伝えられる地福寺がある。
山門の前には「真言宗地蔵堂」の石柱が建っていた。
本堂の前庭に梅の木が植えられているので、春になるときれいだろう。
墓地には大磯で亡くなった島崎藤村の墓がある。
その先の中南信用金庫の前に「大磯小学校発祥之地」という大きな石柱が建っている。
その右側面には「尾上本陣跡」と書かれているので、ここが尾上本陣跡である。
もう一軒の石井本陣は幕末になる前に廃業になったので、標示板や石柱はないが、
尾上本陣の筋向いの大内館(旅館)の所にあったようである。
道の右側に古い家を改築したような商店があり、多くの客で賑わっていた。
大磯プール入口交差点にある 「大磯名物 虎子まんじゅう西行まんじゅう」 という看板を揚げた杵新は、
明治二十四年の創業で、建物もかなり古そうに思えた。
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交差点を左に入ると、突き当たりに松本順謝恩碑がある。
「 大磯は日本で最初に海水浴が始められたと伝えられるところである。
初代軍医総監松本順の尽力により、明治十八年に日本最初の海水浴場が大磯に開設された。
街道に戻ると、左側の民家に「南組問屋場」の標示板があった。
少し歩くと照ヶ崎海岸入口交差点に出た。
東海道はここで大きく右にカーブしていくが、角の三角形をしたところに
「照ヶ崎海水浴場」と「鴫立庵」の道標が建っていた。
植え込みの中に「同志社大学の創始者新島襄先生終焉の地」という大きな石碑があった。
「 新島襄は米国から帰国後、学校教育の必要性を感じて、大学創設に尽力中に病に冒され、
大磯の百足屋旅館で療養していたが、明治二十三年(1890)、四十七歳の若さで亡くなった。
この場所は、百足屋があったところのようである。 」
江戸時代はここを過ぎると南茶屋町であった。
少し歩くと「さざれ石」というバス停がある。
地名の由来に興味を持ちながら通り過ぎると、鴫立沢(しぎたつざわ)交差点に出た。
江戸時代には手前の右側に「高札場」があったようで、民家の前に標示板があった。
また、南茶屋町との境には江戸時代には「鴫立石橋」が架かっていた。
信号を越えた左手の鬱蒼とした森と鴫立沢に囲まれて、 鴫立庵(9時〜16時、100円)がある。
「
鴫立沢は、西行法師が「 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ 」
を詠んだところといわれ、
江戸時代の寛文四年(1664)に小田原の崇雪が五智如来を運び、
西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始めである。
元禄八年(1695)、俳人の大淀三千風が入庵して、ここを俳諧道場にしたことから有名になり、
京都の落柿舎、近江の無名庵とともに、俳諧三大道場と呼ばれたところである。 」
境内には、五智如来石像や歴代の庵主の供養碑が祀られていた。
また、芭蕉などの句碑や佐々木信綱筆の西行上人歌碑などが所狭しと並んでいた。
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鴫立庵の対面には虎御前を祀る法虎堂がある。
上った正面には西行の旅姿の立膝坐像が祀られている円位堂が建っている。
崇雪が建てた「鴫立澤」と書かれた石碑の前には「湘南発祥の碑」という看板があった。
「 確認しなったが、この碑のどこかに「著盡湘南清絶地」と書かれているようで、 中国洞庭湖のほとりの湘江の南側がこの地に似ていることから、「湘南」という地名が生まれたとある。
江戸時代の浮世絵に、鴫立庵の下に砂浜と海が広がる風景が描かれているのがあるが、
今は家とその先の西湘バイバスで視界が妨げられる。
鴫立庵の脇の道を下り、バイバスの下をくぐって海岸に出ると、広い海が横たわっていた。
街道に戻る。
このあたりは江戸時代の加宿東小磯村で、現在は南台町である。
その先の右の狭い道に入り、次に左折していくと、右側に島崎藤村の居宅だった家がある。
島崎藤村は晩年の二年をこの家で過ごし、七十二歳で亡くなり、前述の地福寺に葬られた。
街道に戻ると、左側のレストランガストの先の松の下に「上方見附」の説明板があった。
「 上方見附は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の統監道バス停付近にあった。
街道を挟んで高さ一メートル六十センチの台形の石垣の上に竹矢来が組まれ、御料傍示杭が立っていた。
」
ここで大磯宿は終わりである。
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