保土ヶ谷宿から戸塚宿に向かう途中に、江戸を出て、最初の難関といわれた権太坂がある。
境木地蔵はその名が示す通り、武蔵国と相模国との国境に祀られている。
戸塚宿は保土ヶ谷宿と藤沢宿間が四里九町(16.6km)もあったことから、
慶長九年(1604)に設けられた宿場である。
藤沢は遊行寺の門前町として発展し、東海道の開設と同時に宿場町になった。
(ご参考) 保土ヶ谷〜戸塚 8.8キロ 徒歩約4時間10分
戸塚〜藤沢 7.8キロ 徒歩約3時間20分
保土ヶ谷宿の西の見附のあった外川神社を出発し、戸塚宿を経て、藤沢宿へ。
外川神社のある信号交差点の左側には細い松が数本植えられていて、
一里塚のミニチュアみたいなものもあった。
説明板
「 一里塚を模したもので、当時と同じ、榎(えのき)を植えた。
江戸時代には、ここから境木地蔵まで松並木が続き、昭和初期まで残っていたが、
今は権太坂付近に一部残るだけなので、復元事業として植えた。 」
江戸時代の後期に創られた東海道分間延絵図では、外川神社の先に西の木戸があり、 茶屋町橋と西の木戸の間に一里塚が左側だけ描かれている。
少し歩くと「岩崎ガード」と書かれた横断歩道橋があり、
歩道橋の左側に「湯殿山」の供養塔と石仏が祀られている。
供養塔には 「 保土ヶ谷宿 文化七庚午年 三月吉祥日再建 」 と刻まれていた。
「
江戸時代には、街道に「茶屋町橋」という小さな木橋が架かっていたが、
このあたりに本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋本陣があった。
茶屋本陣は、参勤交代の大名が休憩するところで、宿場の入口にあたるので、大名の出迎えもしていた。
文化七年(1824)、保土ヶ谷宿には茶屋が三十三軒もあったのは、
江の島、鎌倉や大山詣での遊山客が多かったからである。 」
保土ヶ谷二丁目交差点で、右側の線路沿いの道に入り、ようやく国道1号線とも別れる。
いよいよ権太坂にむかう。
車の量も極端に減り、安心して歩けるようになったが、古い建物は無く、昔の面影は全く残っていない。
右側の石段の先に樹源寺の山門が見えるが、そのまま進むと道は平坦で、ほぼ真直ぐである。
右手の小高い所を東海道線が通っている。
東海道に入って七百メートル歩くと、三叉路の元町ガードの交差点にでた。
ここを左折すると、今井川に架かる元町橋があった。
橋の脇に、「元町」のいわれが書かれていた。
「 東海道が開設された当時の保土ヶ谷宿は、このあたりから始まり、
相鉄天王駅の北側にある古町橋を渡っていた。
東海道は、慶安元年(1648)に現在のルートに変更になり、宿場はそちらに移されたので、
この町を「元町」と呼ばれるようになった。 」
橋を渡ると、右側の元町橋ストアー前に、庚申塔と堅牢地神塔が建っていた。
「
脇にあって見づらいが、庚申塔は「明和二酉年」、堅牢地神塔は「文政十・・」、とあり、
「元町講中」 とあった。
堅牢地神(けんろうじしん又は、じじん)塔は、農民が豊作を祈願するために地神講を結成し、
造立したものが多い。
堅牢地神は、もともとはバラモン教の神で、
仏教に取り込まれた十二天の一神、大地を司る地天(じてん)のことである。 」
少し上り、国道1号線の元町交番前交差点の手前の右側の道に入る。
ここからは、本格的な上り坂で、この坂道が東海道最初の難所・権太坂である。
この角に、「歴史の道 旧東海道」 の案内板があり、境木地蔵尊まで1.5qとあった。
上っていくと、左側に赤い鳥居と社があり、その間に、「権太坂改修」の碑があった。
江戸時代には、行き倒れが出るほどの急坂だったらしいが、改修により現在の坂になった。
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坂は横浜横須賀道路の上を権太坂陸橋で越えて、更に続いていた。
振り返ると、遠くに横浜ランドマークタワーが見えた。
更に上って行くと、右側の光陵高校の敷地の下に、「権太坂」の石柱があった。
新辺武蔵風土記稿によると、「 旅人が道端の老夫に坂の名を聞いたところ、
耳の遠い老人は、自分の名を聞かれたと思い、
「権太!!」 と答えたことが名の由来・・・ 」、とある。
江戸時代には、坂の上から目の下に見える神奈川の海が大変美しかったというが、
今は高層マンションが建ち並び、海は埋め立てられて、その姿を想像するのは難しかった。 」
坂の途中に権太坂小学校があった。
小学校を越えると、やっとフラットになったが、今度はだらだらと上り坂は続く。
中学校を過ぎるとその先は坂の頂上。 その先にはバス停とコンビニがあった。
その先は三叉路になっていて、突き当たりは境木小学校だった。
これで権太坂は上り終えた。
三叉路を左折して、百六十メートル下ると、左側に「投込塚之跡」の碑が建っている。
「
権太坂は、箱根につぐ難所で行き倒れも多く、二番坂を上りきった横に死人を投げ込む井戸があった、と伝えられてきた。
昭和三十六年(1961)、井戸があったところが地区開発で発掘されると、多数の人骨が発見された。
権太坂で行き倒れになった人々を葬った投込塚である。
行き倒れた旅人の霊を慰めようと建てられたのが、大理石で作られた「投込塚之跡」の碑で、両脇には石仏、石碑が祀られていた。 」
街道に戻り、境木小学校を越えて、道なりに百七十メートル進んだ右側の黒塀に囲まれ、 旧家の立派な門がある御屋敷は、境木立場茶屋を営んでいた若林家である。
「
若林家は、明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、
参勤交代の大名までが利用したと、伝えられている。
宿場から宿場の間に馬子や人足の休憩のため設けられたのが立場で、
ここ境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と、難所が続く中で、見晴しの良い高台にあり、
西に冨士、東に江戸が望める景観にあったので、旅人は必ず足を止めた景観だった。
茶店で出す牡丹餅は境木立場の名物として、旅人の間で広く知られていた。 」
数十m先の右側には 「一心良翁院境木延命地蔵尊」と刻まれた石柱があり、赤い屋根のお堂が見えた 。
石段を登っていくと、地蔵堂があり、万治弐年(1659)に建立されたという、石のお地蔵様が祀られている。
「 境木地蔵の境内には大きなケヤキの木があり、堂前に「武蔵国」と「相模国」の境の杭が建てられていたことから、「境木」という地名が生まれた。 」 という。 」
石段を降りると、道の脇の広場に、その復元と思える柱が建っていた。
これまで歩いてきた保土ヶ谷宿までが武蔵の国で、これから先は相模の国である。
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境木地蔵前交差点は三叉路になっている。
正面の褐色のマンション側に渡り、左側にある道を下って行くのが東海道である。
マンションの植込みに、「右環状2号線、左旧東海道」 と書かれた大きな石標があった。
その傍には、小さな「焼餅坂」の石碑があり、この坂が焼餅坂であることが確認できた。
「
焼餅坂は、別名、牡丹餅坂とも呼ばれたが、東海道五十三次「戸塚宿焼餅坂」の絵は、
ここから見えた富士山を描いたもので、当時の雰囲気を伝えている。
このあたりは急速に住宅化が進んでいて、林の中を切り通しして造ったこの道も、
早晩マンションで埋まる気がした。
そのまま下ると、交差点があったが、左右の道も直進する道も狭くなる。
小さな橋を渡り直進すると、左は山のままだが、右側は開発が進んだところに出る。
このあたりはまだ自然が残っていたが、その先の車が一台しか通れない道では完全に都市化が進み、
集合住宅が建っていた。
少し上り坂になると鬱蒼とした森に出た。
右側には、「←戸塚宿 旧東海道 保土ヶ谷宿→ 」 と書かれた道標がある。
隣に一里塚の説明板があり、道の両脇は、江戸から九番目の品濃の一里塚である。
説明板「品濃一里塚」
「 東海道をはさんで、ほぼ東西に二つあり、地元では一里山と呼ばれていた。
東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に置かれ、西の塚には榎(えのき)が植えられていた。
木が生い茂ってはいるが、盛り土は江戸時代のままである。
神奈川県内で、一里塚が両方残っているのは,ここだけである。 」
左側の塚は私有地のため立ち入る事も出来ないが、右側の塚は、右に回ると公園になつていて、 一里塚の形が確認できた。
街道に戻り、少し歩くと、交差点に出る。
左右の道は二車線で、右に行くと、環2品濃交差点である。
旧東海道である対面の道は、歩いてきた道と同じ幅である。
アップダウンはあまりないが、これが品濃坂だろう。
一車線しかない道の両脇には、住宅が並んで建っていた。
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右手に、環2東戸塚交差点が見える道角に、福寿観音が祀られている。
「東戸塚駅誘致に貢献した顕彰」の旨が書かれた碑がある。
住宅が切れると、交差点の左側に、観光果樹園があった。
果樹園の脇をそのまま進むと、民家に入ってしまうような狭い道だが、そのまま行くと広い道にでた。
広い道を直進すると、三叉路になる。
左側に旧東海道の標識があったので安心して指示通りに坂を下っていくと、交差点がある。
左に行くと平戸小学校なので、右の道をカープしながら下ると、
環状2号線を渡る横断歩道橋が見えてきた。
車道から歩道橋に降りる手前に、旧東海道の地図が描かれた銅板があり、
それを見ると、品濃坂は環状2号で切断されているが、当時はその先も続いていた。
石段を下りると、「品濃坂」の標柱があった。
環状2号線を越える品濃坂歩道橋を渡って、反対側の道路を下ったが、途中で分らなくなり、環状2号が見える品濃公園に出た。
公園前のご夫婦にお聞きして、公園の左手に通る道に出て、そこを右折して、坂道を下り、
東戸塚陸橋の下をくぐる。
少し歩くと、左側に「東海道」の標識があり、小さな橋を渡ると、道の右側に川上川が流れている。
川上川を見ながら、少し歩くと、東戸塚駅入口交差点で、国道1号線に出る。
この辺は江戸時代には前山田村で、戸数十三戸の小さな村だった。
東海道はそのまま国道を横断し直進する。
トヨペットの先で小さな橋を渡ると、左側に永谷川が流れ、川では白鴫と鴨が餌を探していた。
少し歩くと、再び、国道1号に合流。
その先に赤座橋交差点があり、永谷川に架かる赤座橋があった。
「永谷川赤座橋」と表示され、「旅人」をデザインした橋柱があった。
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橋を渡ると、左側の道に入るのが、東海道である。
「 ここからは旧上柏尾村で、東西四町十間、村の中程を貫く三間巾の東海道が通り、 字桃灯立場があったところだが、当時の面影をしのばせるものはなかった。 」
再び、ヤマザキパン工場の少し手前で、国道1号線と合流。
ポーラ化粧品の前を過ぎると、道路の左側の駐車場の奥に白い蔵が見える。
さらに歩くと、国道のすぐ左脇に大きな木があり、近づくと「益田家のモチの木」、という看板があった。
蔵からすぐの国道の左側の二メートル程上にあるのが、神奈川県の名木百選に選ばれたモチの木である。
東海道はこの先で国道1号線と別れ、左の道に入っていく。
道の幅は、昔の東海道のままの道幅といわれる。
国道の不動坂交差点の右手に大山跨線橋があるが、江戸時代の「大山道」にちなむものである。
このあたりは柏尾、江戸時代は下柏尾村であった。
不動坂を下って行くと、右側に赤レンガの倉庫が残っていた。
その先には黄色い塗り壁に立派な土蔵と門構えの屋敷があった。
そのまま進むと三叉路となり、川に架かる橋は架け替え工事中だった。
この信号交差点を右折し、舞岡川沿いに歩き、舞岡交差点で、再び、国道1号線に合流。
舞岡川に架かる五太夫橋を渡る。
橋の手前の左側が旧舞岡村で、橋を渡ると旧吉田町である。
道の右側はブリジストンの工場が続く。
左側に、天文十六年(1547)中興、寛永九年(1632)建立の不動尊を祀る宝蔵院があった。
それを過ぎた道端に、「東海道 吉田町」 と書かれた標識があった。
ダイエーの先の江戸見附前交差点にステーキレストランがあり、
植え込みの中に「江戸方見附跡」 の石碑が建っていた。
ここが戸塚宿の江戸側の入口だった。
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戸塚宿は保土ヶ谷宿と藤沢宿間が四里九町(16.6km)もあったことから、 慶長九年(1604)に設けられた宿場である。
「 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
宿場の長さは二十町十九間(2.2km)で、
宿内に二千九百六人が住み、家の数は六百十三軒だった。
戸塚宿は、東に権太坂、西に大坂と、二つの難所に挟まれていることや
江戸から十里半(42km)であることから、日本橋を七つ時(午前4時)に出発した旅人は、
ここで最初の夜を迎えるのが一般的だった、という。
江戸時代の人は健脚だったのですねえ!! 」
江戸見付前交差点を過ぎたスズキのあたりには、比較的古い家も二、三軒あった。
元町交差点を過ぎ、左側の狭い道を左折し、少し行くと、左側に妙秀寺がある。
山門を入って左側の水屋の先に「かまくら道」の道標がある。
「
妙秀寺は、鎌倉の小町にある日蓮宗の本覚寺の末寺に当たる寺で、
延文元年(1356)の創建とされる古い寺である。
しかし、明治時代に建物が全焼し、建物は最近のものである。
境内には、「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑と「かまくら道」の道標がある。
この道標は、安藤広重の 「東海道五十三次、戸塚」 の浮世絵に描かれているものとされる。
道標は途中で折れたものをコンクリートで修復したもので、
刻まれた文字はほとんど読めなくなっていた。 」
街道に戻り、歩き始めると、吉田橋の手前五十メートルのところに、「一里塚跡」の看板がある。
その先の吉田橋交差点は、前後左右の車で一杯だった。
柏尾川には吉田大橋が架かる。
江戸時代には吉田橋あるいは高島橋とも呼ばれて、長さ八間(約十四メートル)の大きな木橋だった。
東海道は吉田橋を渡って直進だが、橋の手前を左折する道が鎌倉街道である。
安藤広重の東海道五拾三次の「戸塚宿」には、橋の手前の左側に、
「こめや」という看板を掲げた茶屋があり、
その先の常夜燈の右側に、「 左りかまくら道 」 と記された道標が描かれている。
「 先程、妙秀寺で見た、「かまくら道」の道標は、ここに建っていたのである。
五街道細見に、 「 やべ町と云う里を越えて、左の田中のあぜ道を鎌倉へ行く道あり 」 と書かれている道で、ここから鎌倉へは三里の行程である。 」
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橋手前の右側の赤い鳥居と小さな社は、戸塚宿の吉田元町の住民により、
江戸中期に創建されたとする木之間稲荷である。
橋を渡ると、右側に江戸時代の八王子道が残っていた。
川沿いに続く狭い道を二十メートルほど行くと、道祖神碑と道標が建っていた。
大きな道標の正面には 「上矢部 淡島大明神道十丁」 とあり、
左面には、「 ふしのや 八王子道 」 と刻まれ宝暦十二年の建立である。
このあたりは旧矢部町で、手前の吉田町とこの先の戸塚町と共同で、戸塚宿を構成していた。
ここは東海道と鎌倉道・八王子道との追分だったので、多くの人々で賑わっていた。
戸塚宿には本陣が二軒、脇本陣は三軒、旅籠が七十五軒あり、競争も激しかったようである。
十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」では、弥次喜多は旅の一日目に戸塚宿に投宿したが、
保土ヶ谷や戸塚宿で、有名な客引きの留女(とめおんな)に振り回され、その様子を
弥次は 「 おとまりは よい程ヶ谷と とめ女 戸塚前では はなさざりけり 」
と 狂歌を一句詠んでいる。
この句で隣の保土ヶ谷宿との客の奪い合いでの留女の活躍振りと戸塚宿の賑わいを感じとることができる。
矢部団地入口交差点を過ぎると、右手に善了寺がある。
道は右にカーブし、その先の信号交差点の左手はラピス戸塚、その先はJR戸塚駅。
東海道は直進して、JR東海道本線の踏切を渡る。
踏切をこえた左側は商店街だったと思うが、区画整理工事で、塀で囲まれていた。
清源院入口交差点の手前右手奥に清源院がある。
「 正式名は南向山長林寺。
京都知恩院の末寺で、家康の側室・お万の方が家康他界の後、尼になり、
本尊に歯吹阿弥陀如来像を祀って開基した寺で、清源院はお万の方の法号(尼名)である。 」
短いが急な階段を上っていくと、本堂があり、戸に三葉葵の紋が付いていた。
本堂右側の石段を上ると、薄暗い墓地の左側の奥に、「当山開基清源院殿尊骸火葬霊迹也」と書かれた、
安政十五年(1858)建立の「お万の方火葬の地之碑」があった。
本堂の石段脇には、芭蕉の「 世の人の 見つけぬ花や 軒のくり 」 という句碑がある。
また、石段の左側に、心中句碑、朝日堂石碑と庚申塔が並んで建っている
心中句碑には、「 井にうかふ 番(つが)ひの果(はて)や 秋の蝶 」
という句が刻み込まれている。
寺の井戸で、心中した戸塚の薬屋の息子(十八歳)と戸塚の伊勢屋の飯盛女(十六歳)を慰霊するため、
当院の住職が建てたものである。
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街道に戻ると、清源院前交差点の右側も区画整理中だった。
このあたりが戸塚宿の中心地だったところで、
白塀で囲まれた左側には最近まで古い家も一部あったのだが、
すべて壊されてしまっている。
その先のバスセンター前交差点は三叉路。
東海道は直進するが、右折する道は長後街道、その先に横浜新道があるので、
車の大部分はそちらに向うので、東海道を走る車はかなり少なくなった。
四百メートル歩くと、左側に戸塚消防署がある。
その手前の一メートル程高くなった所に
「明治天皇行在所阯」の石碑と 「東海道戸塚宿澤邊本陣跡」の木柱が建っている。
「 澤邊本陣初代の澤邊宗三は、幕府と掛け合って、戸塚宿を開設させた人物で、 門柱に「澤邊」とあったので、子孫の方がおられるようである。 」
その先の海蔵院は臨済宗の寺院で、
山門の横には「遍照金剛」と刻まれた文政四年(1821)の「木食観正碑」がある。
山門の上部に、左甚五郎の作と伝えられる龍の彫刻がある。
郵便局の少し先に八坂神社がある。
「 八坂神社では毎年七月十四日、無病息災を祈念して行なわれるお札まきは、 町内十名が女装して渋団扇を打ちながら、原始的な踊りをおどって、五色のお札を撒くものである。 」
境内には 「明治天皇東幸史蹟」と書かれた石碑と庚申塔があった。
八坂神社前交差点は三叉路で、東海道は直進、左折すると鎌倉へ通じる鎌倉道である。
百五十メートル程歩くと、右側に富塚(とつか)八幡宮の鳥居がある。
「
富塚八幡宮は、平安時代、源頼義、義家親子が前九年の役の平定を感謝して、
延文四年(1072)に社殿を造り、
誉田別命(交神天皇)と富属彦命(相模国造二世孫)を祀ったのが始まり。
富塚(戸塚)一族が、この地に住み、当神社を氏神として崇敬していたという。 」
石段の脇には松尾芭蕉が元禄五年(1692)に、
初鰹を詠んだ 「 鎌倉を生きて 出でけむ 初松魚(初鰹) 」
という句碑があった。
「 江戸っ子に珍重された初鰹は鎌倉で水揚げされ、戸塚を経て江戸まで運ばれたようで、 句碑は、嘉永弐年(1849)、戸塚宿の俳人たちによって建てられたもの。 」
石段を登ると拝殿があったが、樹木に覆われているので大変暗い。
拝殿は昭和九年だが、社殿は天保十二年の建立である。
左手にかわいらしい赤い社と狐が祀られているのは玉守稲荷で、
その先には庚申塔などの石碑群があった。
その先の小高い丘は富属彦命(とつきひこのみこと)墳堂(墓)と伝えられる古墳である。
「 これを富塚と称したことにより戸塚の地名の発祥となった。 」と伝えられる。
街道に戻り、二百メートル行くと、大阪下バス停前のファミリーレストランサイデリヤがあるが、
そこが戸塚宿の西の入口で戸塚宿はここで終わる。
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大阪下バス停のファミリーレストラン前には、 「東海道戸塚宿見附跡ー上方見附」 の標柱があり、
石積の上に小さな松の木が植えられていた。
また、安藤広重の東海道五十三次の戸塚宿の浮世絵の模写絵があり、
松並木の下を旅人がこの坂を上って行く姿と富士山が描かれている。
道路の反対側の民家の塀にも同じような石積が見られた。
富塚八幡をすぎたあたりから登り坂になったが、
大阪下交差点を過ぎると道は左にカーブし、傾斜が増す。
右側に「第六天宮」という名の神社があった。
「
いざなぎ命が黄泉の国から生還する時、身に付けたものを投捨てながら逃げ帰ったが、
捨てた六番目の冠から生まれたという神を祀っている神社である。
古事記には、黄泉の坂を塞いた石を道反之(ちがへしの)大神と名付けたとあり、
これが各地の結界を守る道祖神になった、と考えられる。 」
少し歩くと右側の道端に庚申塔が数基並んで建っていた。
「
三猿を描いた石仏と石塔が大きものと小さなものを併せて七基あり、それが全て庚申塔である。
中には、元禄四年(1691)八月に建てられたものや庚申塔を建てるに到った発願主の願文などが書かれたものもあった。
これだけ多くの庚申塔が並んでいるのは、珍しい。 」
坂を登って行くと、左側にファミリーレストランがあり、道の両側にはマンションが建ち並んでいる。
その先には「大阪」の峠といえる大阪上交差点があった。
大阪上交差点から二百五十メートル程先で、国道1号線は横浜新道と合流し、両側四車線になった。
道の中央に並木があるが、その両側は車がひしめいていて、
ここは交通情報でしばしば登場する渋滞区間である。
車道の真ん中に区分帯のような形で、松並木の一部が残っているが、
新しく植えられた松がほとんどで、以前はそこを歩行できたようだが、現在は歩くことは出来ない。
しばらく歩くと、汲沢町第二歩道橋の先の左側の橙色の建物の脇に、 「東海道お軽勘平戸塚山中道行」の碑があった。
「
歌舞伎十八番仮名手本忠臣蔵に登場するお軽は、大石内蔵助の山科での愛妾で、
お軽と勘平の話は創作された話であるが、芝居の話が有名になり、こんな碑までできてしまったのである 。 」
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原宿町第一歩道橋の手前で、道は右にカーブする。
下り坂になり、吹上交差点で、左右に分かれていた国道は一本になった。
このあたりは、左側に丘があったと思われ、国道はそれを切り通した形になっていた。
道路左側のそうした一角に、「原宿一里塚跡」の標識があった。
道の脇を見ながら歩かないと、気が付かずに通り過ぎるようなところである。
説明板「原宿一里塚跡」
「 原宿の一里塚は、江戸から十一番目で、塚の付近に茶屋などがあったので、
原宿と呼ばれるようになったという。
明治の初期の道路工事の際に取り壊したが、ここは、その後も一里山と呼ばれていたところである。 」
道の右側の浅間神社の境内には巨大な椎の木が何本かあり、また、庚申塔が三基祀られていた。
ここから五百メートル程歩くと、歩道橋の下に、庚申塔や馬頭観音などの石仏があった。
金網の中に無造作に置かれているところを見ると、道路工事で出てきたものを集めて置いた、
という感じである。
この辺りは台地になっていて、道は平坦で南西に真っ直ぐ続いている。
原宿交差点から国道は若干南に向きを変え、西南南の方向へ真っ直ぐに延びていく。
少し歩くと道の中央に並木が現れた。
更に歩くと、影取歩道橋の付近にはコンビニがあり、道の左側に馬頭観音が祀られていた。
影取の地名の由来について、相模国風土記稿に、
「 影取には僅(わずか)の清水が流れているが、昔は池があり、池中に怪魚がすみ、
夕陽に旅客の影が池中に投ずるのを食べたことから、影取という名前が残ったという伝承が残る。 」
四、五百メートル歩くと、影取第二歩道橋で、その先の左側に諏訪神社があり、
市の名木古木に指定された大きな楠があった。
このあたりは江戸時代の東俣野村で、東海道とは村の東境で接していた。
藤沢バイパス出口の信号交差点で、国道1号と分かれて国道30号に入る。
道路標示に惑わされず、道の左側を歩くと、東俣野歩道橋のところに出た。
国道30号は車道と歩道を分ける松並木(松は少なかった)が続く。
道は下り坂になり、歩道も良く整備されている。
鉄砲宿を過ぎ、藤沢市の表示があるところで、道の右側に移動。
その先では車道より一メートル程高い所を歩くところもあったが、
自然と共生するためにはやむをえない。
緑ヶ丘に入ると、右側の歩道に 「旧東海道松並木跡」の石碑が建っていた。
説明板
「 昭和三十五年頃から松喰虫の被害を受け、大半が枯れてしまい、今は若干の松が残るのみ、とあった。 」
このあたりは住宅地になっていて、コンビニやその他の施設もあった。
遊行寺坂上のバス停から道の左側に移動して、坂を下る。
遊行寺坂は、「道場坂」とも呼ばれたようであるが、
遊行寺坂の標識のあるあたりからは両側には一軒も家がない。
正月の大学駅伝には遊行寺を下っていく姿が必ず登場する。
坂を下っていき、左側の諏訪神社の鳥居の石段を上ると、 又、鳥居があって、その奥に社殿があった。
「
諏訪神社は、藤沢宿の大鋸町と大久保町の鎮守である。
遊行四代呑海上人が、信濃でお札配りの道中に現れた諏訪明神を勧請したもので、
以来、藤沢山の守護神として、
元旦には遊行上人(遊行寺の住職)が神社に参拝し、参詣者にお札を配っている、という。 」
道の反対の遊行寺入口に「見附跡」の標柱があったので、これで藤沢宿へ到着である。
戸塚宿の上方見附から一時間半の行程だった。
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江戸時代には遊行寺入口付近に江戸見附があり、ここから南が藤沢宿だったのである。
今は道の右側にそれを示す標柱が建っている。
「 藤沢は、鎌倉時代の正中弐年(1325)に遊行四代呑海上人が、遊行寺を開いて以来、
その門前町として栄えた。
慶長五年(1600)、街道整備を目的とした伝馬掟朱印状が発せられ、藤沢宿が誕生。
藤沢御殿と呼ばれる将軍専用の宿泊所がつくられ、
これまでの遊行寺の門前町に大久保町、坂戸町を加えて、宿場を形成した。
江戸時代の資料によると、藤沢宿は家数九百二十軒、宿内人口四千百三人で、
東海道では神奈川宿、小田原宿に次いで大きい宿場だった。 」
遊行寺の中に入って行く。
「 遊行寺は藤沢宿の江戸側の入口に寺門を構えた時宗の総本山で、藤沢山清浄光寺 (とうたくさんしょうじょうこうじ)というのが正式名である。 」
東門横の左側に「国指定名勝・敵御(味)方供養塔」の説明板があり、 その奥に古く小さな石塔があった。
説明板
「 応永二十三年(1416)、上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対し反乱を起こしたが、
幕府が持氏を援助したため、氏憲は敗れさった。
このとき藤沢周辺も激戦地となったが、
遊行十五世尊恵(そんね)上人は負傷者を敵味方の区別無く治療し、死者を葬り、
その翌年、死者を弔うための供養塔を建てた。 」
遊行寺の名を全国的に有名にしたのは、平等の精神で建てられたこの供養塔と言ってよい。
振り向くと、正面に巨大なイチョウの木があった。
「
樹齢六百六十年といわれる古木である。
幹周り六メートル八十三センチ、樹高は三十一メートルあったが、昭和五十七年の台風で上部が折損し、
半分になり、横に広がった樹形となった。
現在は十六メートルの高さとなったが、堂々たるものであった。 」
遊行寺は通称で、清浄光寺が寺名である。
時宗の総本山であるが、高野山や延暦寺、東西本願寺に比べると、建物の数も少なく、
質素であるが、本堂は大きく立派だった。
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遊行寺の境内に、照手姫の創建と伝えられる寺・長生院がある。
東門を入った右側に 「小栗判官墓所」と書かれた標柱があるので、入っていく。
寺の裏に回ると、照手姫建立厄除地蔵尊と照手姫の墓があった。
「
小栗判官は常陸国の人だが、敵にあざむかれて毒殺されたのを救ったのが照手姫という説話があり、
その中に遊行寺が登場する。
これは説経浄瑠璃に発した古い説話であるが、説経浄瑠璃は室町後期に始まり、
江戸時代には浄瑠璃などに分化していく。
小栗判官と照手姫の話は各地に残るが、その内容は微妙に違う
( 長生院に残る小栗判官・照手姫の伝説は巻末参照のこと )
これらの話は時宗比丘尼や熊野比丘尼が各地を回り、信仰を教化宣伝し拡がっていったものであるが、
時宗開祖の一遍上人が熊野本宮で悟りを開いたことと関係があるのだろう。 」
判官の愛馬・鬼鹿毛の墓もある。
案内板に従って進み、石段を上ると左側に長生院小栗堂があった。
右側には、(伝)小栗十四代城主小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓についてという説明板があり、
小栗判官と家臣達の墓があった。
説明板
「 桓武天皇の曽孫高望王から七代目の子孫・平重家が、
常陸国真壁郡の小栗(茨城県真壁郡協和町)に館を構え、その地名から小栗氏を称し、
その十四代目が小栗孫五郎平満重である。
応永十三年(1423)関東公方との戦いに敗れ、小栗城は落城し、満重はその子助重と十名の家臣と共に、
一族がいる愛知県に落ちのびる途中、相模国藤沢辺の横山大膳の館で毒をもられ、
家臣十名は上野ヶ原(藤沢市)に捨てられたのを遊行寺の上人により境内に埋葬された。
小栗助重は照手姫の看護で回復し、
父の死後、十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦で、幕府軍の将として活躍し、
小栗の旧領を回復することができた。 」
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いろは道を下ると、右に時宗真浄院、左に赤門真徳寺があり、その先には黒門がある。
安藤広重の東海道五十三次・藤沢の浮世絵は、境川に架かる遊行寺橋のあたりを描いている。
後ろに遊行寺、その下の家々。
手前の鳥居は江の島弁財天の鳥居と思われる。
「黒門近くの説明板」
「 ここは江ノ島弁財天への道の追分(分岐点)で、橋の手前には鎌倉への道があった。
江戸時代はこの一帯は広小路になっていて、上野広小路、名古屋広小路と共に、
藤沢広小路は日本の三大広小路といわれた。
藤沢宿は、この先で大山、伊勢原街道が分かれていたので、
東海道を江戸と京都、大阪、伊勢と往来する人々の他に、江ノ島、鎌倉や大山参りの人で賑わっていた。
その先に遊行寺橋があるが、橋の手前を左に行く県道302号が説明板にある鎌倉道なのだろう。
遊行寺橋は浮世絵に書かれた頃は「大鋸板橋といわれた板橋だった」という、
橋を渡ると十字路で国道467号線に入る。
道はかなり広く、古い建物は何も残っていないが、道筋としては昔の街道そのままである。
ここを左折して藤沢橋交差点を越えて行く道が江の島道。
江戸時代、江の島道は江の島弁財天の信仰と遊興のため大変な賑わいを見せた。
江の島方面に四百メートル〜五百メートル行くと三叉路があるが、
その三角点に「江の島道」の道印石が建っていた。
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江戸時代、この先は旅籠町、仲久保町、栄町と続き、その先は東坂戸町、西坂戸町となっていた。
旅籠町は宿場創設前から遊行寺の門前町だったと推定されるが、
仲久保町から坂戸町にかけては宿場誕生により生まれた町だろう。
右側にあった「紙屋」と書かれた家は、古い蔵作りの建物だった。
街道の左側に問屋場があったようだが、その跡は確認できなかった。
本町郵便局の先の信号交差点を右に入ると、藤沢公民館がある。
「
江戸時代の始め、藤沢宿には本陣が無く、慶長元年頃、
藤沢公民館と藤沢市民病院の間の約六千坪の土地に藤沢御殿が建てられた。
家康、秀忠、家光と三代にわたり三十回近く利用されたが、
本陣の設置により、元和弐年(1682)に廃止された。
藤沢御殿廃止後は、藤沢宿を治める藤沢代官の陣屋になっていたようである。
藤沢宿の本陣は、延享弐年(1745)まで、大久保町堀内家が勤めたが、数次にわたる宿場の火災で、
再建を諦め、その後は、坂戸町の蒔田源右衛門家が勤めた、とされる。 」
蒔田本陣跡は藤沢公民館入口交差点のあたりとされるが、それを示す木柱は見つからなかった。
その先の右側の「南無阿弥陀仏」の石柱を入ると、日蓮宗長藤山妙善寺があった。
「 蒔田家は、明治維新後、当地を去ったが、この寺に蒔田家の墓が残っている。 」
その先の左側にあるJAの脇を入って行くと、浄土宗常光寺があり、
山門を入ると左側に万治弐年(1659)と寛文九年(1668)建立の庚申供養塔があった。
山門の前には、藤沢警察創設100年碑があり、墓地には、洋文学者野口米次郎の墓があった。
「 藤沢宿に旅籠が四十五軒あったが、飯盛旅籠が多かったので、享楽地としても賑わったのだが、 それを支えたのは、飯盛女の存在である。 」
旧道から左の路地に少し入ると、本町四丁目に永勝寺がある。
山門を入ったすぐ左側に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があり、
その前に源蔵が建てた四十数基の飯盛女の墓がある。
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街道に戻ると、その先の右側に交番があるが、その手前に「義経首洗い井戸」の標柱がある。
マンション脇の路地を入っていくと、本町公園の一角に首洗い井戸があった。
「 湘南海岸に捨てられた義経の首が境川をさかのぼってこの地まで流れ着き、 人々がこの井戸で洗い清めた、と伝えられる井戸である。 」
街道に戻り、西に歩いて行くと白旗交差点がある。
交差点を右折して少し行くと、白旗神社が見えてくる。
「 白旗神社の創立年代は不詳だが、
古くは相模の国一の宮の寒川神社の寒川比古命を分祀し、寒川神社と呼ばれていた。
宝治三年(1249)九月、義経を祭神として祀り、白旗明神、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。 」
鳥居の脇の大御神燈は、慶応元年(1865)に建立されたものである。
その先に石段の左側に「三笠山大神、御嶽大神、八海山大神」などの石碑群があり、
寛文五年の庚申供養塔がある他、「江の島弁財天」の道標があった。
「 江の島弁財天道標は、杉山検校が参拝者が道に迷わぬように建てたもので、 最初は四十八基あったと伝えられるが、現在は十基残っていて、三面には 「 一切衆生 」 、 「 ゑのしま道 」 「 二世安楽 」 と刻まれている。 」
石段を上ると、文政十一年(1828)から天保六年(1835)まで、七年の歳月をかけて造営 された社殿がある。
「 本殿、幣殿、拝殿が連なった典型的な流権現造りで、昭和の大修理をえているが、 江戸時代のみごとな彫刻が残っている。 」
社殿前の御神燈は、天保十年(1839)に建立されたもので、社殿の左側に、弁慶の力石があった。
伝承によると、
「 弁慶の首も、義経の首と同時に鎌倉におくられ、首実検が行なわれ、
夜の間に二つの首は此の神社に飛んできた。
義経はこの神社の祭神となったが、弁慶の首は八王子社として祀られた。
弁慶塚の石碑は常楽寺の裏側にある。 」 という。
街道を戻り、白旗交差点を西に向かう。
ゆるやかな上り坂となり、坂を登りきると小田急をまたぐ伊勢山橋がある。
橋を渡った伊勢山橋交差点を右折すると、小田急江の島線藤沢本町駅である。
伊勢山橋の先は下り坂となるが、その途中に京方見附のあったようで、ここで藤沢宿は終わる。
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「 昔、常陸国(現在の茨城県)真壁郡の小栗に、小栗満重という大名が住んでいた。
応永の頃、関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられ、
鎌倉より討手を向けられついに攻め落とされた。
満重はわずかに十人の家来を連れ、三河国(現愛知県)へ落ちのびていった。
その途中で相模国の郷士横山大膳の家人に誘われ、しばらく大膳の館にとどまった。
とどまるうちに、満重は妓女の照手姫と親しくなり、夫婦になる約束を交わした。
照手姫の父は、北面の武士であったが、姫は早くから父母に死に別れて、大膳に仕えていた。
大膳は実は旅人を殺し金品を奪う盗賊だった。
満重たちが何も知らずに立ち寄ったので、いい獲物がかかったと喜んだが、
十人の強そうな家来が一緒では手が出せなかった。
その頃、横山の家には人から盗んだ人食い馬と言われる荒馬の鬼鹿毛(おにかげ)>が飼われていた。
大膳は満重をこの馬に乗せ噛み殺させようとたくらんだ。
しかし、満重は馬術の達人だったので、この荒馬をなんなく乗りこなし、難しい馬術をやってのけた。
この計画に失敗した大膳は酒盛りを開き、毒入りの酒を勧めた。
これを知らずに飲んだ満重主従は悪だくみにかかり、命を落とした。
大膳は満重の財宝を奪い取り、手下に言いつけて十一人の屍を上野原に捨てさせた。
その夜、藤沢の遊行寺では、大空(たいくう)上人の夢枕に閻魔大王が現われ、
「 上野原に十一人の屍が捨てられていて、満重のみ蘇生させられるので、
熊野の湯に入れてもとの体に治すように力を貸せ 」 というふしぎな夢を見た。
夢のお告げに従って上人が上野原に行ってみると、十一人の屍があった。
お告げのとおり十人の家来は息たえていたが、満重だけはかすかに息があつた。
上人は、家来達を葬り、満重を寺に連れ帰った。
上人は、夢のお告げに従い、満重を熊野に送り温泉で体を治させることにした。
上人は満重を車に乗せると胸に 「 この者は、熊野の湯に送る病人である。
一歩でも車を引いてやるものは、
千僧供養に勝る功徳を得よう 」 と書いた札を下げた。
藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたお蔭で、満重は熊野に着き、
熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の体にもどった。
照手姫は満重が毒を盛られた後、世をはかなんで密かに横山の屋敷を抜け出したが、追手につかまり川に投げ込まれた。
しかし、日頃信心している観音菩薩のご利益でおぼれることなく金沢六浦の漁師に救われた。
漁師の女房は照手姫が美しいのをねたみ、松の木にしばりつけて松葉でいぶしていじめ、最後は人買いに売りとばした。
体が元に戻った満重は一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えた。
満重が生死の境からよみがえったのは稀有の仏徳であるとして、常陸の領地を与えられ、判官の位をさずけられた。
常陸に帰った満重は兵をひきいて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り上人にお礼するとともに亡くなった家来達の菩提を
とむらった。
照手姫は、美濃の青墓で下女として働いている時、
満重に救い出され、二人はようやく夫婦になれた。
満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に着た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てた。
照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営んだが、永享元年(1429)長生院を建てた。 」