昔の東海道は海に沿って延びていて、神奈川宿も東海道有数の景勝地である袖ヶ浦のそばを通っていた。
安政五年(1858)の日米修好通商条約締結後、神奈川宿は横浜に近いため、
多くの寺院が各国の宿舎として強制的に割当られたようである。
保土ヶ谷宿は、慶長六年の東海道開道と同時に出来た宿場である。
江戸を出て最初の難所といわれた、急坂の権太坂を控えていたので、大変賑わった。
(ご参考) 川崎〜神奈川 9.7キロ 徒歩約4時間30分
神奈川〜保土ヶ谷 4.9キロ 徒歩約2時間40分
京急八丁畷駅から前回終了した小川町停留所の前の馬嶋病院まで戻る。
「 東海道はこの先、平坦で真直ぐ続く一本道の八丁畷(はっちょうなわて)となる。
畷とは、田圃や畑の中をまっすぐに続く道のことである。
川崎宿を出ると人家がなくなり、道の両側に麦畑が拡がっていて、川崎宿から隣の市場村まで、
八町(約870m)続いたことから、この名前が付いた。 」
一キロ程先の右側の少し小高くなったところに、芭蕉の句碑がある。
芭蕉の死後、百三十年ほど経った文化十三年(1830)に、俳人の一種が建立した句碑で、
最初は上手土居にあったが、現在はここに移転されている。
「
芭蕉は、元禄七年(1694)五月十一日(現在の六月下旬)、江戸深川の庵をたち、故郷の伊賀への帰途、
送ってくれた門人達と、八丁畷にあったよしず張りの腰掛茶屋で休憩した。
その時、別れを惜しみ、「 翁の旅を見送りて 」 と題し、各人が俳句を詠みあった。
「 刈りこみし 麦の匂いや 宿の内 利牛 」
「 麦畑や 出ぬけても猶 麦の中 野坡 」
「 浦風や むらがる蝿の はなれぎは 岱水 」
芭蕉は弟子達に
「 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな 芭蕉 」
という句を返し、旅立ったが、
その年の十月に大阪で亡くなったので、弟子達との別れの句になった。 」
二十メートル程歩くと、京浜急行の八丁畷駅がある。
その右側の踏切を渡ると、左側に、昭和九年に建てられた慰霊塔などがあった。
「 江戸時代には、大火、洪水、飢饉や疫病の発生により、頻繁に大量の死者がでた。 川崎宿ではそれをまとめて宿はずれのこの地に埋葬した。 それが昭和になって発見され、慰霊するために、建立されたようである。 」
市場上町の交差点を過ぎると、横浜市鶴見区になる。
少し歩くと、右側に熊野神社がある。
「 弘仁年間に、紀州熊野神社から勧請したと伝えられ、 徳川家康が入国に際し、武運を祈ったされる神社で、最初は旧市場村八本松にあったが、 天保年間に東海道沿いに移され、明治五年に現在地に移った。 」
神社前の交差点を左に入り、京急鶴見市場駅前に行くと、
手前の右側を少し行ったところに、専念寺という寺院がある。
ここには、紫式部の持念仏と伝えられる市場観音と富士山から飛んできた夜光石やイボ地蔵が
祀られている。
街道に戻り、三百メートル程歩くと、市場橋バス停のそばの左側に、社が祀られていて、 その前に「市場村一里塚」と刻まれた石碑がある。
説明板「一里塚」
「 江戸時代には、京急鶴見市場駅付近は海が間近にあったので、
漁業や製塩業で生計を立てる人が多く、
天文年間(1532〜1554)には、海産物の市場が開かれるようになったため、市場村という地名になった。
江戸から五番目の一里塚で、道の両側にあったのだが、
今は左側の土盛りされているところに、中町稲荷が祀られているが、一里塚の名残である。 」
右側は床屋になっていた。
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その先の民家の一角には、双体道祖神が祀られていた。
更に、馬頭観音を祀った小さな祠の脇には小さな地蔵さんが鎮座していた。
また、下町稲荷の社もあった。 これらは皆、民家の一角を削ったようにして祀られているので、
信仰心の強い土地柄なのだろう。
右側の光明山金剛寺を横目に見ながら通り過ぎると、少し上りになり、鶴見川橋が見えてきた。
鶴見川に架かる鶴見川橋は、アーチ形の立派な橋で、歩道の巾もきちんと取られていた。
橋を渡ると、少し下り坂になるが、左側の植栽の中に、「旧東海道鶴見橋」の木柱に、
「武州橘樹郡鶴見村三家」と書かれていた。
その脇には、「鶴見橋関門旧跡」 の石碑があった。
「 江戸幕府は、万延元年(1860年)四月、横浜の外国人保護する目的で、 横浜に入る者を取締るため、この橋に関門を設けた。 さらに、文久弐年(1862)八月に起きた生麦事件後には、外国人保護を強化するため、 この橋に川崎から五番目の関門番所を設けた。 」
五十メートル程歩くと、鶴見上町交差点で、道を越えた右側の鶴見図書館の前に、 「馬上安全 寺尾稲荷道」の大きな道標があり、「従是廿五丁」とある。
「
江戸時代、ここは寺尾稲荷(現馬場稲荷)へ向う道の分岐点で、
寛永二年(1705)にこのように大きな道標が建てられた。
その後、壊されても、二度建て替えられた。
寺尾稲荷は、馬術上達や馬上安全に非常にご利益があるとして祈願をかける者が絶えることなく、
江戸からの参詣者も多かった。
また、この道は馬場を通り菊名に抜ける寺尾道や末吉橋を渡り川崎へ向う小杉道に繋がる重要な道だった。 」
駅東口入口交差点まで行くと、自動車が増え、両脇にはマンションのビルが連なっていた。
交差点を越えて、少し歩くと、右側に鶴見神社の参道入口の鳥居がある。
「鶴見神社の由緒書」
「 往古から杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社であった。
その創建は、約千四百年前の推古天皇の御代と伝えられ、
続日本後記承和五年(約千百八十年前)二月の項に、
「 武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以って官幣を之に預らしむ。 」 とあり、
武州で一番古い神社である。
明治の一村一社合祀令により、周囲の神社が統合された際、現在の名前になった。 」
社殿は明治四十四年(1911)の火事で全焼したが、大正四年(1915)に再建された。
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境内には「寺尾稲荷道道標」が保存されていた。
先程見たのは複製で、ここにある道標が本物だ、と傍らの説明板にあり、
更に 「 江戸時代、道標は東海道筋の三家稲荷に設置されていたが、
神社合祀を行なったとき、三家稲荷も神社の境内に移され、道標も移ってきた。
この道標は、三度目のもので、文化十一年(1828)に建立された。 」、という説明もあった。
東海道は鶴見神社の参道入口で、くの字に曲がっているので、そこを左折する。
右側にJR鶴見駅、そして京浜急行鶴見駅に突き当たる。
このあたりが、旧鶴見村の中心地である。
川崎宿から神奈川宿までは二里十八町(9.7km)の距離である。
中間にあたる鶴見に立場があり、旅人相手の茶屋が並んでいた。
江戸名所図会には、鶴見村最大の「志からき茶屋」の絵が描かれていて、
「 生麦は河崎と神奈川の間の宿にて立場なり。 此地しがらき屋といへる水茶屋は、
享保年間廊を開きしより梅干をひさぎ梅漬の生姜を商う。
往来の人ここに休はざるものなく今時の繁昌な々めならず。 」 と記述されている。
竹の皮に包んだ梅干しが名物だった、というが、茶屋の跡がどこだったのか、
分らない程、変ってしまっている。
京急鶴見駅では、道に沿って左側に進み、線路の高架をくぐると駅の左側に出たが、
この道は車もほとんどなく、人影もまばらである。
「鶴見銀座」と表示されていて、飲食店や商店もあるが、その間にアパートなども出来て、
このままでは、早晩商店街はなくなるだろうと、思えた。
両側を見ながらそのまま進むと、その先の交差点で、第一京浜(国道15号線)に出た。
東海道は国道を横切り、向かいの細い道に入る。
前方にJR鶴見線のガードが見えてきた。
それをくぐると生麦五丁目で、右手には国道駅がある。
このあたりから道の匂いが変わってくる。
両側に天婦羅屋があると思ったら、その先には魚屋が並んで商っていたので、
このにおいだったのだなあ?!と思った。
やがて道の両脇が全て魚屋になってしまう。
まだ早いので、買い物客はまばらだったが、「魚河岸通り」と呼ばれるところである。
江戸時代、左側の海から揚がったばかりの蛤、蛸、イカばどを売っていたところである。
今でも、三百メートルほどの間に、八十軒もの魚屋が並んでいる。
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二百メートル程歩くと、道の右奥に慶岸寺があり、その手前に子育て地蔵堂があった。
生麦四丁目に入り、五百メートル程歩くと、右側に「道念稲荷」の石碑があり、
その先の鳥居の前には、左右にお地蔵様が祀られていた。
鳥居をくぐって進むと、道念稲荷神社の社殿があった。
この神社で、毎年六月第一日曜日に行われる、 蛇も蚊も祭り は、数百年前から伝わるもので、
横浜市の無形民俗文化財に指定されている。
神社から街道は大きく、右にカーブすると、魚屋は見られなくなり、住宅街になった。
その先、三百メートル程行くと、右側の住宅前のフェンスに、「生麦事件の現場」というパネルがあった 。
今まで、生麦事件は、生麦事件碑のある所で起きた、と思っていたので、新発見である。
生麦三丁目に入り、県道六号と交差する交差点まできた。
県道を横断し少し先を右に入ったところに神明社がある。
先程の道念稲荷と同様、「蛇も蚊も」に由来するお祭りが残っている。
説明板
「蛇も蚊も」は、生麦が農漁村だった三百年前に始まった悪疫祓い豊漁祈願の行事で、
氏神祭神のすさのうの尊(みこと)にちなみ、大蛇によってこの疫病を退散させようと考え、
萱(かや)で長さ八間胴回り二尺の大蛇をつくり、これを担ぎ、
「 蛇も蚊も出たけ 日和(ひより)>の雨け 出たけ 出たけ 」 と大声に唱えながら、
町内を練り歩き、最後にこの蛇体を海に流す行事である。
本宮(道念稲荷)が雄蛇、原(神明社)が雌蛇で、
両蛇が絡み合った後、海にながしていたようだが、現在は個別に実施している。
江戸時代の分間延絵図には、「字原町立場」と書かれて、その右側に神明社が描かれている。
川崎宿から一里六町、神奈川宿から一里十二町にあった立場であるが、
このあたりに「茶屋の跡」の表示はないようで、今は原西自治会の名前に原の地名が残るだけである。
道の右側は住宅地だが、左側は横浜に向って麒麟麦酒の工場が続いている。
工場がきれるとキリンビアビレッジがあった。
レストランもあり、ビールも飲める、また、事前に申し込めば工場見学も出来る。
第一京浜に合流すると、すぐ左側にあるのは生麦事件の石碑で、
明治十六年に、鶴見の住人、黒川荘三が建てたものである。
「
殺されたリチャードソンは事件の起きたところから逃れてきて、ここで亡くなった、といわれる。
幕末の文久弐年(1862)、薩摩藩主、島津久光の行列の前を横切ったイギリス人三人に薩摩藩士が斬りつけ、
二人はけがを負いながらも逃げ帰ったが、一人はその場で切り殺されたという事件。
これがきっかけとなり、翌年の薩英戦争へと発展した、といわれるが、
日本と欧米の文化の違いから起きた悲劇である。 」
ここから神奈川宿までは第一京浜(国道15号線)を歩き続けなければならない。
滝坂のバス停を過ぎると、子安地区。
江戸時代には、街道の左側は海だったと思うのだが、かなり沖まで埋め立てられて、
その面影を追うのは不可能である。
ここまで来ると、神奈川宿はもうすぐである。
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東海道分間延絵図には、東子安村に一里塚と遍照院の表示がある。
武蔵国風土記にも、「 子安一里塚は左右とも東子安村地内にあり、右は榎、左は松を植ゆ、 江戸より六里 」
とあるのだが、その場所は確認できなかった。
もう一つの遍照院は、子安通り交差点の先を右に入り、京浜急行の踏み切りを渡ったところにあった。
入口から本堂にかけて、工事が進められていたが、境内には庚申塔が残されている。
「
中央の石碑には、「奉納庚申供養」と刻まれていて、右側の庚申塔は、左側に「安永三年・・・」とあり、
正面には、帝釈天が天邪鬼を踏んでいる図があり、その下には三猿が描かれていた。
左側の庚申塔にも、三猿が描かれている。 」
入江橋を渡り、京急子安駅を過ぎると、浦島町である。
浦島町交差点の右側に京急神奈川新町駅がある。
その手前の路地を入って行くと、神奈川通東公園がある。
「 江戸時代には、土居があり、神奈川宿の江戸見附があったところである。
また、長延寺があり、開港時にはオランダ領事館になった。 」
公園の中央付近にそれを示す石柱が建っていた。
ここから神奈川宿であるが、旧東海道の足取りを辿ることは出来ないので、第一京浜に戻ると
、創業百三十年の表示された石屋があった。
その先の右側に良泉寺というお寺があった。
「 江戸時代には新町といわれたところだが、開港当時、外国の領事館に充てられることを快しとしない、 この寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるという理由を口実にして、幕府の命令を断った、と伝えられる寺である。 」
良泉寺の角に、笠脱稲荷神社の標柱が建っている。
「
良泉寺の奥にある稲荷で、天慶年間(938〜947年)に創祀、
元寇の際には北条時宗より神宝を奉納されたという由緒ある神社である。
社前を通行する人の笠が自然に脱げ落ちたことから、笠脱稲荷大明神と称された、とある。
当時は稲荷山の麓にあった。 」
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信号交差点を越えて次の路地に入る。
このあたりは、江戸時代の荒宿町であるが、
その先に神明宮、そして、能満寺がある。
「
海運山能満寺という寺で、正安元年(1299)に、この地の漁師が海中より霊像を拾い上げ祀ったのがこの寺の始まりで、本尊は高さ五寸の木造虚空蔵菩薩坐像である。
案内板に描かれた絵には、薬師堂、不動堂、
その奥に本堂、左側に神明宮があり、この寺は神明宮の別当寺であった、と書かれていた。 」
前述の笠脱稲荷は、その奥の京浜急行のガードをくぐった右手にある。
神明宮の角を右折すると、神奈川小学校の脇にでた。
この場所は小学校の校庭の端で、壁面の一部に、タイルで、東海道分間延絵図が描かれていた。
この絵図によると、現在の第一京浜は勿論、京急の駅も大部分が海の中で、
東海道は京急の線路より北にあったという感じである。
校庭脇の道を歩いて行くと、大田道灌の守護仏を平尾内膳が賜り、この寺を草創した、といわれる東光寺があった。
第一京浜まで戻り、神奈川二丁目交差点を渡り、東神奈川郵便局の角を右折すると、金蔵院がある。
「 平安末期に勝覚僧主により創られた古刹で、
徳川家康より、十石の朱印地を許された、という寺である。
立派な山門があり、境内には、徳川家康の御手折梅があるはずであるが、
閉じられていて、中には入れなかった。 」
道の反対側にある熊野神社は、神仏分離令で金蔵院から分離された神社であるが、
江戸時代には祭礼で大いに賑わった、という。
境内の感情が豊かな大きな石の獅子(狛犬)は、嘉永年間(1848〜1854)に、
鶴見村の飯島吉六という石工が造ったものである。
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京急仲木戸駅からの道は、歴史散歩道となっている。
その道を進むと、左側に神奈川地区センター、その前に、復元された高札場がある。
「 江戸時代の高札場は、現神奈川警察署の西側にあり、間口五メートル、 高さ三メートル七十センチ、奥行1メートル五十センチの大きなものだった、という。 」
成仏寺の門前の左側には、「史跡外国人宣教師宿舎跡」の標柱がある。
説明石
「 成仏寺は、鎌倉時代の創建の古刹で、三代将軍徳川家光の上洛に際し、
宿泊所となる神奈川御殿を造営するため、現在地に移った。
安政六年(1859)の開港当初、アメリカ宣教師の宿舎に使われ、ヘボン式ローマ字で知られ、
和英辞典を最初に作った、ヘボンは本堂に、讃美歌の翻訳を手がけたブラウンは庫裏に住んだ。 」、
成仏寺から西に向かうと、滝の川に突き当たる。
そこを右折し、京急のガードをくぐると、「慶運寺」の白い看板がある。
亀の上の石柱に「浦島観世音浦島寺」と刻まれている。
江戸の名所図会に「浦島寺」とあるので、その頃には浦島伝説のある寺になっていたのだろう。
「
慶運寺は、室町時代に芝増上寺の音誉聖観によって創建された寺だが、
幕末の開港時にはフランス領事館が置かれた。
浦島伝説にまつわる遺物を多数伝えているので、「浦島寺」と呼ばれるようになった。
「 浦島太郎は、兵庫県の日本海側に戻ってきたが、当時の面影がないので、
故郷の神奈川に戻り、ここで亡くなった。 」 、とあり、
境内には、「浦島父子墓」と書かれた石碑があった。
川に沿って下ると、第一京浜の滝の橋交差点にでる。
滝の川に橋が架かっているが、上には高速道路が通り景観を壊している。
「 江戸後期の金川砂子には、滝の橋という小さな橋が架かっていて、
その手前に高札場と神奈川本陣が描かれている。
橋の手前の右側の茶色と白い家がそれにあたるのだろう。
このあたりが神奈川宿の中心で、橋の東は神奈川町、西は青木町と呼ばれ、橋の東側に神奈川本陣、
西に青木本陣が置れた。 」
橋を渡ったところに青木本陣があったはずだが、場所は確認できなかった。
橋の右側の川に沿って道に入り、その先で左折すると、曹洞宗の宗興禅寺があった。
最近建て替えられたと思える寺らしくない建物だが、幕末の開港時にローマ字
の創設者・ヘボン博士が診療所を開いた寺である。
ヘボン博士がキリスト教の宣教師として来日したことは既に述べたが、実は医者だったのである。
寺に診療所を開いたとは妙な話であるが、境内にはヘボン博士の碑があった。
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川沿いの道を上って行くと土橋に出る。
そのまま、直進すると、浄滝寺(じょうりゅうじ)に出る。
門前には、「史跡イギリス領事館跡」の石柱が建っている。
「 文応元年(1260)、日蓮聖人に出会った妙湖尼が、自らの庵を法華経の道場 としたことに始まるという寺で、東海道沿いにあったが、徳川家康の江戸入府の際し、現在地に移った。 」
第一京浜国道に戻り、旅を再開する。
左側に神奈川公園が続く。
「 神奈川宿の旅籠は五十八軒と多くはなかったが、家数は千三百四十一軒、 人口も五千七百九十三人と大きな町だったことが分る。 」
橋を渡った右側が、権現山から流れる滝に因んで、滝之町。
道の左側は久保町、そして宮之町と呼ばれた。
第一京浜を百メートル程歩き、宮前商店街の看板があるところで、
東海道は神奈川駅に通じる狭い道に入る。
宮前商店街の中央右手に、源頼朝が勧請したと伝えられる州崎大神がある。
説明板
「 建久弐年(1191)、安房国一之宮の安房神社の霊を移して祀った。
江戸名所図会にも 「州崎明神」として紹介されている。
神社前から現在の第一京浜への参道(現在の宮前商店街)の先に船着場があり、
横浜が開港してからは横浜と神奈川宿を結ぶ渡船場として賑わった所である。 」
その先の普門寺は、州崎大神の別当寺だった。
「 江戸後期には、本堂、客殿、不動堂を持ち、 開港時にはイギリス士官の宿舎に充てられた。 」
甚行寺の門前には、史跡フランス公使館跡の石柱が建っていた。
甚行寺を過ぎると、宮前商店街も終わり、京急神奈川駅に出る。
東海道は、京浜急行とJRの線路に阻まれるので、
その上にかかる陸橋の青木橋を渡らなければならない。
橋を渡った右側の高台に本覚寺がある。
「 臨済宗の開祖・栄西によって、鎌倉時代に開創された寺だが、
戦国時代の権現山の合戦により荒廃。
天文元年(1532)に陽広和尚が再興し、曹洞宗に改められた。
開港当時、ハリスがこの高台は渡船場に近く、横浜が眼下に望めたので、アメリカ領事館に決めたという。
山門はこの地区に唯一残る江戸時代の建築である。 」
坂道を下り、青木橋交差点まで戻り、国道1号を少し進み、やまざき歯科の角を右折、
これが東海道である。
少し歩くと、右側の空地の先にトンネルがみえるが、これは東急線の名残で、今は地下をくぐっている。
その先の右側に「大綱大神、金刀比羅宮鎮座」と刻まれた石柱と赤い鳥居があった。
神社前の道の両側に、江戸から七番目の一里塚があったのだが、すでにない。
「
神社は、平安時代の創建で、もとは飯綱社といわれたが、その後、琴平社と合祀され、
大綱金刀比羅神社となった。
幟がはためく石段を上って行くと、こじんまりした社殿があった。
右脇に天狗の石碑があり、
説明板には 「 かって、眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、
大天狗の伝説もある。 」、とあった。
その右側にはお稲荷さまが祀られていた。 」
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このあたりは金川砂子という地名で、
江戸後期には、金刀比羅神社の右側に三宝寺が描かれている。
最近まであったはずなのにその場所にないので、地元の人に訊ねると高いビルの上部を指差した。
上部は寺院と思える形にはなっていたが、敷地の大部分は貸しビルに充てられて、
三宝寺は母屋を取られてしまった形だった。
このあたりから上り坂の道になった。
「 ここ台町のあたりは、以前は神奈川の台と呼ばれ、
神奈川湊を見下ろす袖ヶ浦と呼ばれる景勝地だった。
江戸時代には海に面した左側には茶屋が並び、海を見ながら休憩ができた、という。 」
高度成長の時代までは、茶屋だったところが料亭などになり、繁昌していたようだが、 今は数軒の料亭が残っているだけで、その内の一軒が田中屋である。
十返舎一九は、東海道膝栗毛にその当時の姿を、 「 この片側に茶屋軒を並べ、いずれも座敷二階建、欄干付きの廊下、 桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし 」 と、書き、 弥次、喜多の二人は、 「 おやすみなさいやァせ 」 という茶屋女の声に引かれ、 ぶらりと立ち寄り、鯵(あじ)をさかなに一杯引っ掛けている。 」
このように、色香ただようところだったが、バブルがはじけてからは住宅化が一気に進み、 道の両側にマンションが並んで建てられて、残った料亭が何時まであるかは予想しずらい。
坂を登っていくと右側に 「神奈川台場関門跡、袖ヶ浦見晴所」と刻まれた石碑があった。
「
幕末の横浜開港後、攘夷過激派による外国人の殺傷事件が相次いたので、幕府が警備のために、
各所に関門を設けた一つである。
関門は明治四年に廃止された。 」
道は右にカーブすると、坂の頂上だった。
そこからは短いけど、坂を一気に下る。
下ったところに道路にかかる陸橋があった。
「上台橋」と名付けられた陸橋を渡ると、神奈川宿の京側の入口で、
ここで、神奈川宿は終わりとなる。
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神奈川宿から保土ヶ谷宿までは約五キロと、東海道の宿場間では最短の距離である。
神奈川宿の京側の入口にあたる上台橋ができたのは、開発が進んだ昭和五年、
切り通しの道路ができるとともに、その上に架けられた橋である。
道は下るに比例して、マンションは減り、専門学校などがあるビルに変り、道も平坦になった。
平行して広いみちがあるが、狭い道をそのまま進むと、高速道路神奈川2号三ッ沢線の高架が見えてきた。
高架の下を道なりに進むと、その先の右側には広場があり、
その奥に法華宗学陽山勧行寺(かんぎょうじ)があった。
「 三ツ沢豊顕寺三世日養をもって開山とする寺であるが、
天然理心流開祖の近藤内蔵之助長裕の墓がある。
天然理心流は近藤長裕が寛政年間に創始した剣術、居合術、柔術、棒術、気合術等を取り入れた総合武術で、幕末期には天然理心流四代目宗家の近藤勇と門弟の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが、
京都において新選組を結成したことでも知られている。 」
勧行寺を出ると、道の左側に「軽井沢自治会館」という看板があり、
このあたりは「軽井沢」という地名であることを知った。
完全な住宅地で、建物は最近建てられたと思えるものが多かった。
やがて、環状1号の太い道にぶつかる。
宮谷小学校入口交差点があり、横断歩道を渡ると浅間下交差点に向かって少し左に進み、
途中の右にある細い道に入る。
その道を進むと、右側に浅間神社参道の入口がある。
石段上って行くと、神社の由来があり、古社である。
浅間神社はこれまでに何回も火災に遭ったので、古いものは残っていない。
鳥居の先の赤い建物は、昭和五十八年以降に再建されたもので、二階建て浅間造りである。
赤い祠の両脇に木っ端天狗が鎮座していたのか、どういう訳が、気になった。
「神社の由来」
「 承暦四年(1080)の創建で、源頼朝が平家の討伐と戦勝奉泰のため、
武蔵国橘樹郡芝生村に、富士山の形状をした山地を卜として、社殿を修築した。
江戸時代には富士講が盛んで、江戸の各地に土を盛り富士山を造って祀ったが、
この神社は富士山まで続く穴があるので有名だった。 」
境内の説明に、「横穴古墳群」とあるのが、上述の「富士山まで続く穴」の正体である。
考古学では、古墳には丘を築くのと横穴を掘るのと二種類があり、
この地区は横穴古墳が多くあった。
街道に戻り、歩き始める。
浅間町三丁目自治会館を過ぎると、左に浅間町三丁目山車の格納所があった。
右側の坂に見えるのは、立正寺で、更に進むと、保土ヶ谷区に入った。
商店街のアーケードが遠く見える交差点の右角に、追分の道標が建っていた。
最近建てられたと思えるものだが、「追分の右側に」「八王子道」、左に「旧東海道」と、書かれていた。
「 八王子道は、帷子川に沿って伸び、町田、八王子と続く道で、安政六年(1859)の横浜開港後、 八王子方面から絹が運ばれるようになり、「絹の道」と呼ばれた。 」
交差点をそのまま進むと、洪福寺松原商店街に出た。
ビニールの天幕があったり、脇にトラックを止めていたりして、ごちゃごちゃした雰囲気である。
商店街は安さが売り物、休日には人でごったがえすというが、
平日の午後だったが買物客がけっこう多かった。
国道16号線を越えると普通の商店街になった。
ここは
保土ヶ谷宿の江戸側の入口である。
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商店街を進むと、左側の駐車場の一角に、「歴史の道 江戸方見附跡」 と、書かれた説明板があった。
説明板
「 東海道分間延絵図によれば、芝生の追分から国道16号線を越え、天王町にいたるところに、
江戸側の見附があったされる。
土盛りされた土塁の上に、竹木で矢来を組んだ構造の土居が築かれて、旅人の監視にあたっていた。
保土ヶ谷宿は、ここから外川神社付近の上方見附までの十九町(約2km)が宿内で、
本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠が六十七軒、家数は五百五十八軒、二千九百八十二人の人が暮らしていた。 」
信号交差点の右側にある橘樹神社はかっては牛頭天王社といわれた神社である。
境内に力石三個と延宝六年霜月、江戸より寄進された石盥(たらい)盤が置かれている。
更に奥に県内最古といわれる、寛文九年(1669)の青面金剛を祀った祠がある。
街道に戻り、先に進むと、帷子(かたびら)川に出た。
川に架かる橋を渡ると、相鉄線天王町駅の高架が見えてきた。
そのまま商店街を進み、その先の相鉄線天王町駅の下をくぐる。
駅前に帷子公園があり、
道路の車止はちょんまげと裃(かみしも)をデザインしたものが並んでいるが、
これは旧東海道を示すものらしい。
天王町駅から公園を歩いて道路に出られるよう、歩道が付けられていた。
歩道の一角に、妙なものがあった。 宿場行燈らしきものと橋桁をイメージしたものを四つ並べたモニュメントである。
説明板
「 江戸時代にはこのあたりに帷子川が流れ、東海道は川に架かる帷子橋(新町橋)を渡って、
宿場に入った。
当時の帷子川は天王駅の西方で北から南に向きを変え、駅前に向って流れ、
駅前の東で、北に向きを変えて、そこから東に流れていた。
逆コの字のように曲がって流れている上、今井川の水も合流するため、度々大水に遭った。
その対策のため、昭和三十一年(1956)、川の流れを天王駅の南側から北側に付けかえ、
直線になるように変えた。 」
そういわれれば、安藤広重の東海道五十三次の保土ヶ谷宿には、橋を渡る姿が描かれている。
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天王町駅からJR保土ヶ谷駅までは、約一キロで、二車線の道がほぼ真直ぐ続いている。
左に市民プラザ、右に岩間郵便局、その先は大門交差点で、
その先の右側には香衆院や天徳禅院などの寺院がある。
その先に交差点の右奥には、遍照寺と右にカーブしていく道が見えた。
街路樹も植えられ、小きれいな町並みで、比較的古い家が何軒かあったが、
東海道の面影はまったくなかった。
昔の相州街道への分岐点はどれなのか確認できなかった。
帷子会館を過ぎると、JR保土ヶ谷駅が近くなる。
正面にごちゃごちゃした商店街が見えてきたが、この商店街を通る道が、実は東海道なのである。
東海道だったこの道はここから急に狭くなり、路上駐車も多くなるので、平常でも歩きにくいところである。
その先の左側には、高札場や助郷役所などを説明した看板がある。
右側の蕎麦屋だった家の前に、「高札場跡」の木柱があった。
道の反対の保土ヶ谷税務署入口の案内や郵便公社の赤い看板などあって、気をつけないと見落す。
更に歩くと交差点があったが、左右の道は車が一台通れる程の狭い道である。
この四つ角は、金沢、浦賀往還への追分で、「金沢横町」とよばれていたところである。
「 金沢・浦賀往還は、金沢文庫、鎌倉方面に行く街道で、 円海山、杉田、富岡などの信仰や鎌倉や江の島といった観光地があった。 」
交差点の左側には、四つの石製道標が建っていた。
「
一番右の石柱には 「円海山之道 天明三年(1783)建立 」、左面に 「かなさわかまくら通りぬけ 」 、と刻まれている。
円海山は峯のお灸が有名だった。
右から二つ目の道標には、 「かなざわ かまくら道 天和弐年(1682)建立 」、左面に、「ぐめうし道 」 とある。
左から二つ目の道標には、「杉田道 文化十一年(1814)建立 」 正面に 「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花 其爪 」 と、刻まれている。
最後の左側の石柱には 「冨岡山芋大明神社の道 弘仁弐年(1845)建立 」 と刻まれた道標である。
芋大明神とは、富岡の長谷寺のことで、ほうそうの守り神として信仰された、という。 」
少し歩くと、東海道線の踏切があり、目の前を電車が通り過ぎた。
踏切を渡ると、すぐ国道1号線に合流、旧東海道は、その角を右折して国道を進む。
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保土ヶ谷宿は慶長六年の東海道開道と同時に出来た宿場で、
江戸を出て最初の難所といわれた、急坂の権太坂を控えていたので、大変賑わった、といわれる。
T字交差点の正面にあるのが保土ヶ谷宿本陣だった軽部家である。
「 小田原北条氏の家臣・苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部氏が、
保土ヶ谷宿の宿場の問屋、本陣、名主を代々勤めた。
明治以降、「軽部」と姓を改めたが、今も子孫が住んでおられる。 」
近くの説明板には、「 建物は建て替えられているが、宿場時代の通用門は残されている。 」 とあったが、門は閉まっているので、内部がどのようになっているのか、分らない。
国道をそのまま進むと、道の左側に赤いトタン屋根で、外側は赤ちゃけてしまっている家があり、 その前に、「脇本陣藤屋跡」と書かれた案内柱があった。
保土ヶ谷橋のバス停を過ぎると、右側の保土ヶ谷消防署本陣出張所の隅に、 「脇本陣水屋跡」の標柱があった。
「標柱の説明文」
「 天保年間の水屋(与右衛門)の建坪は、百二十八坪(約423u)、間口八間(14.5m)、奥行十六間(約29m)、
部屋数十四で、玄関門構付きだった。 」
文面から、かなり立派のものだったのだろう、と想像した。
その脇の説明板には、 「 宿場に、本陣は一軒、脇本陣は三軒あったが、経営は苦しかった。 」 とある。
もう一軒の脇本陣の大金子屋は、脇本陣藤屋の道の反対側にあったようである。
すこし歩くと、連子格子の古い建物があった。
「旅籠本金子屋跡」とあり、建坪や部屋数では、先程の脇本陣の水屋よりは、一回り小さい。
現在の建物は明治二年に建てられたもので、旅籠として使われたのかは分らないが、大変立派である。
「 保土ヶ谷宿の旅籠は寛政十二年(1800)は三十七軒だったが、 天保十三年(1842)には六十九軒に増えているところを見ると、 幕末には旅人の往来が増えたことが分る。 」
この付近、マンションの林立する中で、このように古い建物が残っているのは、 東海道を歩いているものにとってうれしく、また、貴重に感じられた。
左手に高台が迫り、今井川が見えてきた。
交差点の左側に今井川を渡る橋があり、橋の左側に外川神社が見えた。
「
東海道は、慶安元年(1648)にルートの変更が行なわれ、変更後、外川神社の前あたりに、
京方の見附の土居が造られた。
東海道分間延絵図には、見附の手前に道祖神が祀られているが、
現在は外川神社の境内に移動して祀られている。 」
京方の見附で保土ヶ谷宿は終わる。
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