品川宿と神奈川宿の間が長いため、両宿場の負担が大きいことから誕生したのが、川崎宿で、
元和九年(1623)のことである。
川崎宿は、元和九年(162)に設けられた新宿であるが、
六郷の渡しを控えていることや厄除けで知られる川崎大師があることから、
旅人だけでなく多くの参拝客で賑わいを見せた。
「 天保十四年の東海道宿村大概帳によると、 宿内人口、二千四百三十三人、家数、五百四十一軒、本陣二軒、旅籠七十二軒である。 本陣が二軒のみで脇本陣がないのは、川留めなどの緊急事態がなければ、大名は江戸に入ってしまうので、 需要がなかったのからだろう。 また、男子千八十人に対し、女子が千三百五十三人だったことは、 この宿が遊楽の比重が高かったことを示している。 」
品川〜川崎 9.8キロ 徒歩約3時間30分
京浜急行青物横丁駅で下車し、東海道の青物横丁交差点から東海道の旅を始める。
品川宿から川崎宿までは約十キロの距離である。
「 青物横丁は、近郊の農家が、青物(野菜類)を運んで来て、市場が開かれたので、
その名が付いた。
この交差点は池上街道の分岐点で、ここから現在の大井町駅付近を経て、
八景坂から新井宿、そして、池上に至る、池上本門寺への参詣道だった。 」
その先街道の右側にある山門前の常夜燈は、下から亀が支えているデザインで、 門前の提灯には、品川寺(ほんせんじ)と、書かれていた。
「 大同年間(806〜810)に弘法大師空海により開山されたと伝わる寺で、 長禄年間(1457〜1459)に太田道灌が創建し、承応年間(1652〜1654)、弘尊上人の中興により、 品川観音として信仰を集めるようになっといわれる寺である。 」
山門を入った左側にある大きな地蔵菩薩は、
江戸に出入りする六街道に安置された江戸六地蔵の一つである。
中山道では巣鴨、日光街道では千住、東海道ではここなど、六ケ所におかれた。
境内には樹齢六百年、幹回りが5.35mで、樹高は25mという古木の大イチョウがある。
その下に、「道しるべ、道祖神」 と刻まれた石柱があり、
その右に小さなものと大きな庚申塔が建っていた。
道の右側に、平蔵地蔵が祀られている海雲寺がある。
言い伝えでは、「 昔、鈴ヶ森刑場の番人をしていた乞食(非人)が三人いたが、
そのひとりの平蔵が財布を拾い、持ち主を探してこれを返したが、礼金を受け取らなかった。
これを知った残りの二人の乞食は、これを怒り、平蔵を小屋から追い出して、凍死させてしまった。
財布を返してもらった仙台藩士は、これを知り、平蔵の遺体を引き取り、供養するために地蔵を造った。 」
と、いうものである。
平蔵地蔵は、右側にある石仏で、以前は街道にあったが、道路の拡張で取り除かれるのを、
この寺の住職が、この話を後世に伝えたいと、この寺に移したという。
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常夜燈の前に、力石と刻まれた石がある。
説明板
「 当時は、この門前近くに、漁師や親船から積荷を小舟に移す沖取りという沖仲止がいて、
この石を何回持ち上げられるかなどを競っていた。
力尽きて放りだし、大地に落ちたときのドスンという鈍い音は、
騒音のなかった当時、静かさを破る心地よい響きだった。 」
百メートル先の横町には、海晏寺(かいあんじ)への道標が建っている。
ここを右折すると、国道を渡った駅の反対側に海晏寺がある。
「 海晏寺は、鎌倉時代に北条時頼が創建した寺で、昔は街道のあたり一帯までが境内だった、 という大きな寺だった。 ご本尊は、門前の海でとれた大きなサメの腹から出た、と伝えられる聖観音。 」
寺の右側奥には、幕末に活躍した松平春嶽の墓がある。
境内には、岩倉具視、由利公正など、明治の元勲の墓があり、
北条時頼、北条時宗などの供養塔も残っている。
「 松平春嶽は、文政十一年(1828)に、田安斉匡(なりまさ)の八男として、江戸に生まれ、 越前松平家の養子になり、福井藩第十六代目の藩主になった。 幕末の動乱期の中で、積極的に開国の必要性を説き、岩倉具視らと計り、 薩摩、長州と維新を進めた人物である。 」
街道に戻ると、その先の古い家に、「日本橋講、和合講」と書かれた石柱があり、
格子の前のコンクリートの上に、貼り付けられていた。
東大井一丁目に入る。
「
昔の大井村、御林町(おはやしまち)で、俗に、鮫頭(サメヅ)と呼ばれていた所である。
江戸時代には、猟師(漁師)町で、将軍家に新鮮な魚介類を献上する御菜肴八ヶ浦のひとつになっていた。
」
商店街も鮫頭商店街に変った。
交差点の左手に鮫洲公園があるが、交差点を右折し、京急鮫洲駅方面に向かい、
ミニストップで左折して進むと、右側に、八幡神社がある。
「
昔は、御林八幡宮と称せられていた神社で、品川沖でとれた鮫の腹から正観音像が出て、
これを本尊にしたのが前述の海晏寺で、その鮫の頭を祀ったのが、この神社だと、伝えられている。
祭神は誉田別尊、気長足姫尊祀などで、創祀の時期ははっきりしないが、
寛文年間(1661〜1672)の御林町誕生のころと思われ、村の鎮守社として祀られてきた。 」
社殿は、昭和四十七年(1972)に建直されているが、
その前の狛犬は、町内猟師中と彫られた漁師の寄進によるもので、
嘉永弐年(1849)に造立、常夜燈は、安政三年(1856)に造られている。
左側の池の中には、弁天社(厳島神社)と水神社(漁呉玉神社)があり、
池のほとりに出世稲荷神社と浅間大神が祀られていた。
街道に戻り、進むと、S字にカーブする道のアーチ中央に、SAMEZUと表示されていて、
その先の右手に嶺雲寺があった。
少し歩くと、「花海道入口」の石柱が立っていた。
勝島運河、花海道とあるが、路地の先を見ると、集合住宅が建っているのが見えた。
右にカーブすると、仲町稲荷神社があり、その先に、たけのこせんべいという店があった。
暖簾には「立会川」とあったので、町名が変わったことを知った。
鮫洲から800mほどの距離だった。
その先の浜川橋のたもとに「浜川橋」の説明板があった。
橋が架けられたのは、家康が江戸入府の慶長五年(1600)頃と思われ、
現在の橋は、昭和九年(1934)に架け替えられたものである。
説明板「浜川橋」
「 立会川が海に注ぐこのあたりの地名から名付けられた橋で、またの名を涙橋という。
この先に、慶安四年(1651)、仕置き場(鈴ヶ森刑場)が設けられ、
処刑される罪人は裸馬に乗せられて、江戸から護送されてきた。
その時、親族らはひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら、別れたことから、
涙橋とも呼ばれた。 」
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立会川を渡ると、右奥に、天祖(諏訪)神社がある。
そこから、500m程歩くと、
右側に幼稚園を営んでいる浜川神社のモダンなビルが現れる。
少し歩くと、これも寺とは思えない建物の大経寺がある。
「
江戸時代には大経寺から第一京浜に合流するあたり一帯が、仕置き場として設置された鈴ヶ森刑場だった。
刑場の敷地面積は、間口四十間(74m)、奥行九間(16.2m)で、明治三年(1870)に廃止されるまでに、
丸橋忠弥や八百屋お七、白井権八、ねずみ小僧、天一坊などが処刑された場所で、
みせしめのために人通りの多い街道沿いに置かれた、という。 」
第一京浜に合流する三角形の土地には、火焙りや磔に使用した台石、首洗い井戸などがある。
また、いくつもの供養塔が建ち、
その中で、特に大きい供養塔は、京都の谷口法悦という日蓮宗徒が、
京都から江戸北方の千住にかけての刑場に、受刑者供養のため建てた供養塔の1つで、
「髭題目碑」といわれるものである。
江戸時代の鈴ヶ森は刑場があったため、追剥がでる程の淋しいところだったが、 その先の第一京浜が合流してきているところに出ると、道路には自動車が列をなし、 首都高はコンクリートの塊を剥き出しにして、立っていて、そうした過去はとても想像できない。
国道の左手には、南北にしながわ区民公園が続く。
国道に合流し少し進むと、鈴ヶ森入口交差点の左側に、品川水族館に入って行く入口がある。
ここも、区民公園の一角で、水を引き入れた日本庭園になっている。
右手に京急大森海岸駅がある。
大森海岸は海苔の産地だったが、埋め立てですっかり姿を消したが、
江戸湾で取れるキスなどの魚を出す江戸前天ぷらの店が残っていた。
ここから二つ目の信号、平和島口交差点を越えると、左に入る一方通行の細い道がある。
これが旧東海道である。
左に大森スポーツセンター、その先の右側に美原不動尊。
美原は、昔の地名が南原、中原、北原だったことから、三原と呼ばれていたが、
その後、美原になったようである。
環七を越えると、美原通り交差点があり、商店街になっている。
橋を渡ると大森警察署前交差点に出て、第一京浜と、また、合流した。
この間の東海道は、九百メートルほどである。
ここから川崎宿までは第一京浜をたんたんと歩くことになる。
八百メートル程歩いた梅屋敷駅入口交差点の先右側に「梅屋敷公園」と書かれた門があり、
その前に、「明治天皇行在所梅屋敷」の石柱が建っていた。
梅屋敷は、第二次世界大戦までは残っていたようであるが、
梅屋敷と思えるものは一つもなくなったが、里程標が復元されていて、
「 距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋 」 と、書かれていた。
「
ここは、江戸時代の道中常備薬であった和中散を販売していた久三郎が、庭園に梅の名木を集め、
休み茶屋を開いたところ、蒲田の梅屋敷として有名になり、
広重の浮世絵にも描かれたという梅の名所だったところである。
和中散は、近江国栗太郡六地蔵村の梅木が草創の地で、梅木の和中散として、
全国に流布したが、江戸の大森と蒲田に三軒の店があったので、競争が激しかったようである。 」
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道の反対側にある大田区体育館は、少し変ったデザインの建物。
少し歩くと、東蒲田二丁目交差点で、その先で夫婦橋を渡る。
その先にある京急蒲田駅は、高架化工事で、この付近の交通が変則的になっていた。
その先に国道を横切る形の踏切があり、電車が国道を横切っていった。
京急蒲田駅から羽田飛行場まで行く羽田空港線で、正月の箱根駅伝のテレビ中継でしばしば登場する踏切である。
工事が終わると、羽田空港線も高架化されるので、この踏切もなくなり、正月の風物詩の一つが消える。
踏切を越えると、環状八号線であるが、ここも工事で、右側の道は閉鎖されていたので、
反対側に渡り、第一京浜を黙々歩き続ける。
(現在は工事も終了し、国道と羽田空港線とは立体交差になっている。
蒲田消防署を過ぎると、仲六郷、そして、東六郷で、カーデーラーがいくつかある。
やがて、京急雑色駅の前にきた。 この間、二キロ程。
道の左側に、雑色アーケードがあり、ジャンボサガンという大きなビルがある。
東六郷三丁目交差点を過ぎると、左に入ったところに六郷神社がある。
「
六郷神社は、八幡塚村を初め、六郷各村の総鎮守で、祭神は応神天皇(誉田別命)。
天喜五年(1057)、源頼義、義家親子が石清水八幡の分霊を勧請し創建、
鎌倉幕府を開いた源頼朝が梶原景時に命じて、建久弐年(1191)に社殿を造営したと伝えられる。
天正十九年(1591)に徳川家康が十八石を寄進するなど、江戸幕府との関わりも深く、
葵紋の使用も許されている。
江戸時代までは六郷八幡宮だったが、明治九年(1876)に六郷神社と改称した。 」
現在の本殿は、享保四年(1719)の造営で三間社流れ造り、
拝殿と幣殿は昭和六十二年の造営で総檜権現造である。
社殿を造営した梶原景時は、鳥居前の太鼓橋を寄進と伝えられ、
頼朝が寄進したという大きな手水石は境内にあった。
説明板
「 当初の東海道は神社の正面にあり、松並木が続いていた。
元和九年(1623)に神社の西方に付け替えられ、神社との間に脇街道ができた。
江戸名所図会には、付け替えられた道の両側に八幡塚村の家があり、
鳥居の先に高札場と一里塚が描かれている。 」
境内には、六郷橋の標柱が保存されていた。
境内にある一対の狛犬は独特な風貌がおもしろい。
六郷中町が寄進したもので、貞享弐年(1685)に作られたもので大田区内で一番古い狛犬である。
正面の鳥居の外を左に回り、先程入った国道の鳥居のところに戻る。
江戸名所図会では鳥居の先あたりに高札場と一里塚があるが、その形跡はなかった。
国道に戻り歩くと六郷北詰交差点で、車道は上り坂になる。
歩道をそのまま進むと、六郷土手交差点に出た。
東海道は左右の道路を横切り、その先で行き止まりになってしまう。
見えている階段を昇ると多摩川には新六郷橋が架かっていた。
「 現在は新六郷橋で多摩川を渡るが、江戸時代の旅人は六郷の渡しで十三文を払い、
橋から三十メートル下流から渡し舟に乗った。
渡しは、当初、江戸の町人が請け負ったが、宝永六年(1709)三月から川崎宿が請け負うことになり、
これによる収入が宿場の財政を大きく支えた。 」
最初から渡し舟だったのではない。
「 徳川家康は、慶長五年(1600)、東海道の多摩川を越える六郷に橋を架けさせた。
その後、何度か橋は架け直されたが、貞享元年の橋が貞享五年/元禄元年(1688)に洪水で流失以後、
橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられたのである。
明治七年(1874)、鈴木左内が有料の木橋を架けたが、四年後に流失、
明治十六年(1883)に架橋組合を作って、有料橋を架け、六郷橋と名付けたが、明治四十三年(1883)に流失した。
六郷神社にあった橋の標柱はその時架けられた仮橋で、これもまた大正弐年(1913)に流されている。
大正十四年(1925)に、二連アーチ式の近代的な橋が架けられたが、
昭和五十四年に現在の端の工事に着手、完成したのは平成九年(1997)だった。 」
橋を渡り終えると、川崎宿である。
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六郷橋を渡り終えると、道から左に少し入った多摩川のほとりに、「厄除 川崎大師」と書かれた
朱色の献灯が建っていた。
近くに明治天皇東征記念碑があり、
石碑に埋め込まれた 「 武州六郷船渡図 」 のレリーフには、
二十三艘でつくられた舟橋の上を官軍が威風堂々と歩いて渡っていく姿が描かれていた。
「 明治元年(1868)十月十二日、明治天皇が東征の折は、多摩川に舟を並べて、
その上を行く船橋渡御で行われた。
本来、多摩川は六郷の渡しで行われたので、異例のことで、その時の記念碑である。」
この碑の下手の土手下に当時の渡しがあったと推定されるが、その痕跡は見当たらなかった。
説明板「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」
「 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、
東海道の交通をさいぎる障害でもありました。
そこで、慶長五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。
以来、修復や架け直しが行われたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、
架橋をやめ、明治に入るまで船渡しとなりました。
渡船は、当初江戸の町民らが請け負いましたが、宝永六年(1709)三月、川崎宿が請け負うことになり、
これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
川崎市 」
多摩川土手の左側には京急大師線があり、赤い電車が川崎大師に向って走っていた。
江戸時代、多摩川の船着場から土手をあがった旅人は、現在の国道を横切って、宿場内へ入った。
第一京浜(国道15号)の下をくぐり、国道の右手の道に入ると、道の左側に「旧東海道」の石柱があった。
道は心持ち下っていく感じだが、右側に見える褐色のビル手前の緑灰色のビルの前に、
「六郷の渡しと旅籠街」 の説明板があり、万年屋の絵がある。
ここは奈良茶飯で有名な万年屋の跡である。
説明板「六郷の渡しと旅籠街」
「 六郷の渡しと旅籠街
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続く。
舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街。
幕末のはやり唄に、 「 川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・ 」 。 なかでも、万年屋とその奈良茶飯は有名だった。
川崎宿の家並
旅籠六十二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、
道具屋、鋳掛屋、米屋など合計、三百六十六軒。 ― 文久三年の宿図から 」
奈良茶飯とは、大豆、小豆、粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、
これに多摩川でとれたシジミの味噌汁がついていた。
旅の疲れを回復する滋養のある食べものとして、全国に名を馳せた奈良茶飯だが、渡しの消滅と共に、
万年屋は消滅し、奈良茶飯を食べさせる店は現在一軒も残っていない。
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その先には「川崎歴史ガイド 旧東海道」の白いプレートの道標を中心に手前に「稲荷横丁」の石柱、
奥に「旧東海道」の石柱がある。
「旧東海道」の石柱の奥には「新宿という街」という説明板があった。
説明板「新宿という街」
「 東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿は、いわば新宿。 後に中心部だけをこう呼んだのか。 あるいは、宿を設ける際、新たにできた町並みをこう呼んだものなのか。 このあたりが新宿だった。 」
この先は本町交差点で、国道409号(大師通り)と交差するところだが、
ここはその右手前に位置し、右に入る道が稲荷横丁である。
稲荷横丁に入る道の左側に、「史跡東海道川崎宿 川崎稲荷社」の説明板がある。
説明板
「 戦災で社殿や古文書が焼失したため、創建など不明。
現在の社殿、鳥居は昭和二十六年(1851)頃再建された。
東海道川崎宿、新宿にあった「馬の水飲み場」からここ稲荷社の前を通る道は「稲荷横丁」と呼ばれ、
この稲荷横丁の少し先に大師用水に架かる石橋がありこれを渡ると府中道に合流し、
一方、反対に東海道を横切ると真福寺の参道となり、大師道へとつづいていた。
八代将軍・徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際、この稲荷社地せ休憩したと伝えられている。
川崎市 」
説明板の奥に昭和に再建された川崎稲荷社の鳥居と社殿があった。
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川崎大師にはこの道からも行けるが、江戸からの参拝者は、六郷神社から左手に向い、そこから川崎大師への渡し船に乗っていたようである。
川崎大師には後日御参りにいったが、仲見世には多くのお土産屋があった。
「 川崎大師の正式名称は金剛山金乗院平間寺(へいけんじ) 、真言宗智山派の大本山の一つで、高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに、関東三本山のひとつである。
平安時代、平間兼豊・兼乗という武士の親子が、無実の罪により、生国尾張を追われ、諸国流浪した末、
川崎の地に住みつき、漁師になった。
四十二歳の厄年に、夢に見た海で網を打ち、一体の木像を引き上げ、草庵を結び、供養していた。
高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中に立ち寄り、大治三年(1128)一寺を建立、兼ね乗の姓から平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称した。 これが大本山川崎大師平間寺の由来である。 」
大山門は、昭和五十二年(1977)の再建である。
明治三十四年(1901)に建てられた総檜造りの豪華な山門は、関東第一の結構を誇ったものだったが、
昭和二十年(1945)四月の戦災で焼失した。
本堂も戦災で焼失したため、戦後のものである。
境内を歩くと、「寺内由緒 道標」という説明板があり、江戸時代には稲荷道入口に置かれた
大きな道標が安置されている。
道標の正面右側には 「大師河原」、中央には 「従是弘法大師江之道」 、
左側に「 災厄消除」 と、雄勁な書体で書かれている。
説明板「寺内由緒 道標」
「 道標(どうひょう)
寛文三年(1663)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、大師へ至る道の入口に建てられたもので、
この碑には「こうぼう大し江のみち」 と刻まれている。
この碑は、第二次大戦後、六郷橋付近の道路工事にともない、当山境内に行かんされたものである。
大本山 川崎大師 平間寺 」
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本町交差点を越えて、直進する。
本町一丁目交差点を越えた右側にも、「旧東海道」の標柱があった。
その先の右側にある深瀬小児科医院が、二軒あった本陣の一軒、田中本陣があったところである。
説明板「東海道川崎宿 田中本陣(下の本陣)と 田中休愚」
「 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、
寛永五年(1628)に設置されている。 田中本陣はその場所が最も東、すなわち、江戸に近いため、
下の本陣ともいわれた。
(中略)
安政四年(1857)、アメリカ駐日領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、
宿を牢屋に変えたことは有名である。
明治元年(1868)、明治天皇が東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したという記録がある。
明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に、各地で種痘を行ったが、田中本陣で行う旨の布達が出されている。
宝永元年(1704)、四十二歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、
幕府に働きかけ、六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、
渡船賃の収益を宿場の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。
。
さらに、商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」を著した。 これによって、享保改革を進める八代将軍吉宗にも認められ、
幕府に登用されて、その一翼を担い、晩年には代官となったのである。 」
その先に、「宝暦十一年の大火」の説明板がある。
説明板「宝暦十一年の大火」
「 川崎宿二百年で、最大の火事。
小土名から六郷渡しまで、町並みはほぼ全焼。 宗三寺、一行寺も焼けた。
再三の火事から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。 」
説明板にあった一行寺の前にきたが、門は閉まっていた。
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右手奥の宗三寺に入った。
説明板「史跡東海道川崎宿 宗三寺」
「 中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、
その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、
五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。
勝福寺はその後退転したようであるが、
宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を再興している。
江戸名所図会に、「 本尊釈迦如来は一尺ばかりの唐仏なり 」 とあるように、
本尊はひくい肉鬢、玉状の耳たぶ、面長な顔、腹前に下着紐を結び、
大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。
今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、
川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
川崎市 」
墓地の一番奥に、川崎宿貸座敷組合が建てた遊女の供養塔が建っていた。
街道に戻ると、すぐに砂子一丁目の交差点にでる。
手前右側に、「旧東海道」 の石柱と川崎宿の大きな説明板があった。
この場所は、幕末以前に廃業になった「中の本陣」と呼ばれた惣兵衛本陣の跡である。
本陣の前には、高札場があり、道路の反対側にあるセブンイレブンあたりに問屋場があった、とされる。
説明板には一柳斎広重「東海道五十三駅名所・川崎大師河原真景」の浮世絵があり、
その下に宿場紹介があった。
「 旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、
近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、
旅籠や商家など、三百五十軒程の建物が約千四百メートルの長さにわたって軒を並べ、
賑わいを見せていた。
古文書や絵図から、宿の町並を探ってみると、旅籠は約七十軒を数え、油屋、煙草屋、小間物屋、
酒屋などが店を広げる。 一方、大工、鍛冶屋、桶屋ほか、多くの職人や農民も居住しており、
活気にみちた都市的景観を認めることができる。
もともと、川崎宿のあたりは、砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。 そのため、旧東海道は、砂州の微高地上を通るよう配慮がなされ、さらに、
川崎宿の設置に当っては宿域に盛土が施されたという。
現在でも、砂子(いさご)から小土呂(こどろ)あたりを歩いて見ると、旧街道筋が周囲よりも随分高いことが
良くわかる。
川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)年の大火など、度重なる災害に見舞われ、
明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、
川咲宿のおもかげを見ることができる。 」
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その先の砂子交差点は、左右に道幅が広い市役所通りが通り、
右折するとJR川崎駅である。
道を横断した先には、大きなビルが並んでいた。
左側の川崎信金本店の一角には、「 詩人、佐藤惣之助 」 の石碑がある。
「 佐藤惣之助(そうのすけ)は、江戸時代に上の本陣といわれた佐藤本陣の後裔である。 」
本陣があった場所は、道の向かい側の三菱UFJ信託銀行が入っているビル辺りだろう。
その先の広い通りは、「新川通り」で、そこを横断すると、道の右手に、小土呂橋の
擬宝珠(ぎぼうし)があった。
「 小土呂橋は、東海道と幅五メートル程の新川掘が交差する地点にあった石橋である。
川が暗渠となったため、橋が撤去され、残った二基の擬宝珠を地元の自治会が記念にとここに設置したものである。 」
新川通りを越えると、小川町に入る。
キングスホテルの先の交差点を右折すると、教安寺(きょうあんじ)がある。
説明板「史跡東海道川崎宿 教安寺」
「 江戸時代後期、幕藩体制の動揺にともなう社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、
人々の将来に対する危機感をつのられた。
そのような状況下に富士山に弥勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である「富士講」は、
関東一円で爆発的な流行をみた。
さらに当時「生き仏」と崇められた浄土宗の高僧、徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、
浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、
「六字名号講」の建立が行われた。
教安寺に残る燈籠は、富士講の有力な先達であった堀の内出身の西川満翁が組織した
「タテカワ講」によって建立されたものであり、
境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。 」
街道に戻り、二百メートル歩くと、市電通りと交わる交差点を渡って、進むと川崎小学校交叉点があり、奥に校門が見えた。
その先に「芭蕉ポケットパーク」と書かれた白い板があった。
書かれていた文面
「 旧東海道を八丁畷の駅に向って歩いていくと、右手に松尾芭蕉の句「麦の穂を便りにつかむ別れかな」 をしるした石碑(1830年建立)があります。
これは1694年、芭蕉の旅立ちに際し詠まれたもので、芭蕉が関東で詠んだ最後の句となりました。
当広場には、当時芭蕉との別れを惜しんだ、江戸の門人達の餞別の句を紹介しました。
芭蕉と門人の心の交流に触れてください。 」
右側に老人ホームがあり、その先には馬嶋病院がある。
このあたりが、川崎宿のはずれで、
京側の入口である上手土居が築かれていたところと思われる。
「 土居とは切石を積んでもので、宿場を入る旅人を監視していた。 」
なお、芭蕉の門人達の句は円筒形に列挙されていた。
川崎宿には江戸時代のものがほとんど残っていなかったので残念だったが、
川崎市の説明板が当時の様子をくわしく説明していたので、よかった。
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