『 mrmax 東海道を歩く (1) 日本橋から品川宿  』


東海道は日本橋から京三條大橋までで、百二十六里六町一間(492.1km)の距離である。
 (国道1号線は少し長く503qである。 )
日本橋は東海道の起点である。 
さあ!! 旅にでかけよう!!

(  日本橋〜品川宿 7.8キロ 徒歩約4時間   )




日本橋〜品川宿

日本橋は、慶長八年(1603)、徳川家康が町割りを行なった際、 ここに架けられた橋の名前を日本の中心の橋ということで、日本橋にしたことに始まる。  五街道の基点として里程はすべてここからと定められた。 

「  日本橋は、当初は木橋だったが、これまでに何度も架け替えられ、 現在の橋は明治四十四年(1911)に造られたルネッサンス調の 花崗岩の二連アーチ式石橋で、橋銘は十五代将軍だった徳川慶喜の筆である。
明治政府が国道が開設された時も、ここが起点になり、ポール状の東京市道路元標が橋の上に建てられた。 
その元標は都電が廃止された時撤去され、橋の中央にある元標公園で保存されている。 
代わりの道路元標は橋の中央に埋め込まれているが、元標の文字は、当時の総理大臣佐藤栄作氏の揮毫である。」

江戸時代の日本橋周辺は百二十万の江戸市民の食を支える魚市場だった。 
それを示す「日本橋魚河岸発祥地」の碑がある。 

安藤広重は東海道五十三次に、日本橋の出発する風景を描いている。
江戸時代の旅人は、「 お江戸日本橋七つ立ち!! 」 という歌があるように、 七つという時刻(早朝の四時頃)に、日本橋を出発して、東海道を西に向かった。 
七つ時は、夏でも夜が明けきれない時間であるが、江戸時代は野外照明がないので、 夜は歩けないし、宿場の木戸も閉められて、中に入れないという時代だったので、 早発(はやだち)し、夕方の早い時間に宿に入るのが旅の常識だった。 

日本橋
x 道路元標 x 日本橋魚河岸発祥碑 x 安藤広重の浮世絵
日本橋
現在の道路元標
魚河岸発祥碑
安藤広重の浮世絵


いよいよ、京都に向って出発である。 
国道1号線を南に向かうと、最初の交差点の日本橋交差点で、国道1号は右折していく。
旧東海道は、直進する道で、現在の国道15号線(第一京浜)で、品川宿までは自動車が多いこの道を歩いていく。 
日本橋は手前から一丁目、二丁目の順に並んでいるが、金融街なので、銀行や証券会社が多い。 
左に高島屋デパート、右側に丸善を見て歩くと、八重洲通りと交わる交差点に出る。 
ここを横断すると京橋一丁目で、左側に ブリヂストン美術館がある。 

日本橋二丁目を過ぎると、鍛冶橋通りと交差する京橋交差点がある。 
ガードの手前の左側の少し奥まったところに警察博物館があるが、 ガード下の建物前の植え込みに、京橋の擬宝珠(ぎぼし)と記念碑がある。  なお、ガードをくぐった右側の交番の先にも擬宝珠がある。 

「 江戸は、掘割や運河が縦横にある町で、多くの橋が架かっていたが、 擬宝珠があったのは、日本橋、新橋と京橋だけである。  京橋は、日本橋と同時期に架けられた橋だが、昭和三十四年に京橋川が埋め立てられて、 暗渠になった時、なくなった。 」

道路の反対側(右側)の小公園の一角に、「江戸歌舞伎発祥の地碑」がある。 
寛永元年、中村勘三郎が、猿若中村座の芝居櫓を上げた場所である。 
その近くに、「京橋大根河岸青物市場蹟」の石碑がある。

碑文
「 江戸時代の初期には数寄屋橋(現在はない)のあたりに青物市場があったが、 火災に遭い京橋に移り、昭和十年まで続いたが、法律による中央市場の開設により、 築地木場に移り、三百年の歴史を閉じた。 」

街道に戻り、少し行くと、ガード下の建物の道路側に、「煉瓦銀座之碑」がある。

説明板
「 明治五年二月、銀座一帯は全焼し、築地方面まで延焼し、燃失戸数が四千戸を越えた。  時の東京市長が、不燃住宅の建設を計画し、煉瓦造り2階アーケード式洋風建築を建てた。  これが銀座発展に礎になった。 」

ガードの上には首都高速道路があり、ガードをくぐると、テアトル銀座跡だが、 いよいよ花の銀座である。 道の名は中央通りと変り、新橋まで続く。 

「 銀座は、慶長十七年(1612)に、銀貨の鋳造所を駿河から移したのが始まりで、 当時は、新両替町と呼ばれた。 
銀座と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからである。 」

交差点を越えた銀座二丁目左側にあるティファニーの前には、 「銀座発祥之地の碑」があるが、 江戸時代には、ここに銀座役所があった。 

その先は、銀座の中心地で、松屋や三越などの大きな百貨店が並んでいる。
三越の向かいに、ミキモト宝飾店があり、店の前に、「真珠王御木本幸吉の石碑」があった。 
「 御木本幸吉は、世界で最初に真珠の養殖に成功した人物で、 宝石商として大成功をおさめ、現在のミキモト宝飾の基を築いた。 」

その先は銀座4丁目交差点。 
交差点を渡ると、五丁目〜七丁目と続き、松坂屋や日本初めてのビアホールのライオン、 かね松などの老舗有名店が軒を連ねていた。 
その先に、首都高速道路の高架が見えてきた。 
銀座八丁目の終りに博品館があり、 新橋出入口交差点では、銀座御門通りと交差する。 

首都高速のガードをくぐると、道の左側に「銀座柳之碑」がある。  現在の柳は二世らしい。 

「 碑には、西条八十作、中山晋平曲、「 植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 ・・・ 」 の歌詞と楽譜が刻まれている。  戦前一世を風靡した東京音頭である。 」

京橋の擬宝珠
x 歌舞伎発祥の地碑 x 銀座発祥之地の碑 x 銀座柳之碑
京橋の擬宝珠
歌舞伎発祥の地碑
銀座発祥之地の碑
銀座柳之碑


新橋交差点を越えた左側に展開する汐留再開発地区の入口に、 「旧新橋停車場」の駅舎を再現した建物がある。 

新橋の地名は、慶長九年に橋が架けられたことに由来する。 
後に、芝口橋と改名され、明治に再び、新橋に戻ったが、 川は埋め立てられ、橋はなくなってしまった。 
明治五年(1872)十月十四日、新橋〜横浜間で開業したのが、鉄道の始まりで、 開業した新橋停車場の駅舎を当時と同じ場所に開業当時の外観で再現した。 

歩いている国道15号線は、新橋交差点から第一京浜と名前を変える。 
新橋駅を越え、JRのガードをくぐり、浜松町一丁目交差点で、左にややカーブする道を歩く。 
少し歩くと、地下鉄大門駅のある大門交差点にきた。 
交差点の手前左側の小道を入ると、平安時代の創建という古社、芝大神宮がある。 
石段を上ると、「め組」と刻まれた水桶があり、左の隅に五十貫の「力石」が奉納されていた。 

「  江戸時代には、芝神明と呼ばれ、大産土神として将軍家にも崇敬され、 社殿の改築なども幕府の手で行なわれた神社で、歌舞伎の「め組の喧嘩」で有名である。 
九月十一日から二十一日まで続く祭礼は「だらだら祭」という名で呼ばれている。 
江戸後期の文化文政時代頃から、職業とした力士の力比べが余興として人気を博したといい、 港区内十四点残る力石の一点である。」

神社の奥を左折すると、交差点の右側に増上寺の山門がある。

「  増上寺は、明徳四年(1393)、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町)で、開基された寺だが、 室町〜戦国時代に、浄土宗の東国の要として、発展して行き、 徳川家康の関東移封に伴い、 天正十八年(1590)、徳川家の菩提寺となった。  二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の将軍の墓所がある。 」

大門交差点まで戻り、浜松町駅の東側に行くと、旧芝離宮恩賜庭園がある。

「  この地は芝浜と呼ばれた眺望豊かな海浜だったが、延宝六年(1678)、時の老中、大久保忠朝の邸地となり、 上屋敷を建てる際、約八年をかけて作庭し、楽寿園と名付けられた。  明治九年(1876)、皇室の離宮・芝離宮となったが、大正十二年(1923)の関東大震災により、 建物や樹木のほとんどが焼失した。  翌年、昭和天皇御成婚記念として、東京都に下賜され、庭園の復旧と整備が行なわれ、 一般に公開されている。 」

古川に架かる金杉橋の下には、屋形船や釣り船が停泊していた。 
芝四丁目交差点で、道は右へ大きくカーブする。 左折すると旧海岸通り、日の出桟橋で、 右は三田であるが、ここは交差点を直進し、道の左側を歩く。 
日比谷通りと交叉する芝五丁目交差点を越えると、三菱ケミカルビルと第2田町ビルの間の緑地に、 「江戸開城西郷南州勝海舟会見之地・西郷吉之助筆」と書かれた石碑がある。

「  薩摩藩田町屋敷があった場所で、慶応四年三月十四日、幕府陸軍総裁・勝海舟が西郷隆盛と会見し、 江戸無血開城を取り決めたところである。  薩摩屋敷の海側はJR田町駅になっているが、蔵屋敷の裏は、当時、海に面した砂浜で、 薩摩から送られてくる米などをここで水揚げしていた。 」

両ビルの間を入ると、左手に鹿島神社があり、境内に寄席文字の橘右近書、「芝浜囃子」の碑がある。 
その先の小さな本芝公園から数十メートル間が、落語の「芝浜」で財布を拾う場面の芝浜である。 
江戸時代はこのあたりまで海で、つい最近まで船着き場があり、舟宿もあったようであるが、 線路とビルに囲まれた狭い公園になってしまった。 

五十貫の力石
x 増上寺の山門 x 旧芝離宮恩賜庭園 x 勝海舟会見之地碑
五十貫の力石
増上寺の山門
旧芝離宮恩賜庭園
勝海舟会見之地碑


街道に戻ると、札の辻交差点で少し左にカーブする。 
右側に御田神社、左に笹川記念館を見ながら進み、右側奥の成覚寺を通り過ぎると、大木戸跡交差点にでた。 
地下鉄泉岳寺駅手前の左側歩道に、こんもりした数本の木の下に石垣が出現したので、ちょっと驚いたが、 これが高輪の大木戸跡である。

「 大木戸は江戸の治安維持のため、宝永七年(1710)に芝口門に建てられたのが最初だが、 享保九年(1724)に現在地に移された。  明治初年に西側の石垣は取り払われ、現在は、東側の石垣だけが残されている。 」

江戸時代、ここから品川宿までは左に海が続き、景色が良く月見の名所で、茶屋もたくさんあった。
今は、左側は線路、その先にも建物が続き、海は見えない。 右奥には高級マンション群が続いていた。

泉岳寺交差点を右折し、泉岳寺に立ち寄る。 
右にカーブする坂は伊皿子坂と呼ばれ、その先の坂は、魚籃(ぎょらん)坂。  坂を上っると、正面に泉岳寺の中門がある。

「 泉岳寺は、徳川家康が桶狭間の戦いで討ち死にした今川義元の菩提を弔うため、 慶長十七年(1612)、門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して、外桜田に創立した曹洞宗の寺である。 
寛永十八年(1641)の大火で焼失した後、 三代将軍家光は、毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じ、泉岳寺を現在地に再建させた。 
徳川家の庇護のもと、創建時から七堂伽藍を完備し、曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして、 名を馳せた。 
寺の名を有名にしたのは赤穂義士である。 
山門は天保年間(1830〜1843)に建てられた重層八脚の門。 」

門をくぐると左側に連判状を手にした大石内蔵助良雄の銅像がある。 
その先の「史蹟赤穂義士墓所」の石柱を入って行く。 
吉良上野介の首を洗ったという「首洗いの井戸」が参道の右側にあった。 
石段を上り、墓所門をくぐると売店があり、線香などを売っている。 
その先右角に、「長短公夫人之墓」の石柱があり、浅野内匠頭の妻、阿久利の墓がある。 
奥の右側には、赤穂藩浅野家代々の墓、一番奥に、刃傷事件を起こした赤穂藩三代目藩主、浅野内匠頭長短の墓がある。

「 大石内蔵助らは、吉良上野介の首級を墓前に供え、仇討ちの成功を報告後、 大石内蔵助は出頭して、処分を幕府の裁定に委せた。  幕府は、浪士たちを四大名家へお預けとしたが、翌年二月、幕府の幕閣が協議の上、 全員切腹という沙汰を行い、預けられた大名家で、全員が切腹。  その亡骸は、浅野長短の墓の脇に、預けられた家別に葬られたのである。 」

大石内蔵助の墓は、主君の墓に一番近い、正面奥の右端にあった。
四十七士の墓は、柵で囲われた中に、づらーと並び壮観であるが、 屋根がついているのは大石親子の墓のみで、質素である。 
また、寺坂吉右衛門(信行)は、泉岳寺到着前後に立ち退いたので、墓ではなく、慰霊碑である。 

大木戸石垣
x 泉岳寺中門 x 浅野長短の墓 x 大石内蔵助の墓
大木戸石垣
泉岳寺中門
浅野長短の墓
大石内蔵助の墓


街道に戻り、また歩き始めると、右側の小高いところに高輪神社がある。 
江戸時代には、高縄手とよばれた崖下の海沿いの道だったようである。
高輪二丁目交差点を右折し、東禅寺(とうぜんじ)に立ち寄る。 
桂坂を上って行くと、左側に東芝山口記念会館があり、 脇の自動車通行不可とある細い道に入る。 
この道には、「洞坂」という名が付けられていたが、 道なりに下っていくと、右側に鬱蒼とした林があり、右側に山門がある東禅寺があった。

「  東禅寺は、臨済宗妙心寺派の別格本山で、 正式には、海上禅林佛日山東禅興聖禅寺である。 
幕末にイギリス公使館として使われ、文久元年(1861)、水戸藩の浪士によって襲撃され、 初代英国大使、ラザフォード・オールコックは無事だったものの、通訳など数人の犠牲者を出した。 
文久弐年にも、 護衛役の信濃松本藩藩士によって再び襲撃されるという事件が起きている。 
玄関の柱に当時に傷が残っているとあるが、どれなのか、確認できなかった。」

東禅寺を出ると、右側に高輪公園があり、東海道(第一京浜)に出た。 
交通量が多くなったが、江戸時代には、左側の線路から先は海で、眺望もよく、 品川駅周辺は、茶屋が賑わったところである。 
駅前の「品川駅創業記念碑」は、 新橋〜品川間の工事が遅れた為、品川〜横浜間が明治五年五月七日、仮開通を記念したもので、 品川駅はこの日を創業記念日としている。

「  明治維新により、京都から移ってきた宮家はこのあたりに邸宅を建てたが、 敗戦後の宮家廃止により、広大な敷地は民間に売却され、跡地の大部分がホテルになった。 」

駅を過ぎたところで、第一京浜国道と別れ、左手のJRの上を通る八ッ山橋を渡ると、 京浜急行の踏み切りが見えてくる。 
踏み切りの手前には、八ツ山コミュニティー道路があり、京橋や新橋の親柱、 東海道五十三次をなぞらえた標石が並んでいる。 
京浜急行の踏み切りを越えると、左側に「品川宿八ッ山口」と刻まれた石柱を見つけた。 
東海道最初の宿・品川宿に到着。 

「  品川宿は、慶長六年(1601)、東海道の開設と同時につくられた宿場町である。
当初は、北品川宿と南品川宿の二つの町で宿場業務を分担していたが、 享保七年(1722)、北品川宿の北側に茶屋町として発達した地域を歩行新宿として加え、三つの町で宿場を構成した。 」

ここは江戸時代、歩行新宿であったが、今は北品川商店街に代わっていた。 
宿場町を意識した町作りを行っていて、品川宿を題材にした浮世絵を店のシャッターに描いている店もあった。 
京急北品川駅を過ぎた左側の菊すし総本店の角に、「問答河岸跡」と刻まれた石碑が建っている。

「  三代将軍、徳川家光が、品川の東海寺を訪れた帰路、海辺の船着場のそばまで来たとき、 住職の沢庵和尚に、 「 海近くして、如何が是れ東(遠)海寺 」 と、戯れを言った。 
沢庵和尚は、 「 大軍を指揮しても将軍(小軍)というが如し 」 と、答えた、と伝えられるところである。 」

少し歩いた左側の ROYALGARDEN SHINAGAWA というマンションの前に、 「歩行新宿 土蔵相模跡」 と、書かれた石柱が建っている。

説明板
「 このあたりは、江戸時代、歩行(かち)新宿と呼ばれていたところで、 ここには相模屋という旅籠があった。 
相模屋は海鼠壁の土蔵のような家だったようで、土蔵相模と呼ばれた。 
文久弐年(1862)十二月十二日、高杉晋作や久坂玄瑞らは品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちしたが、その計画を密議したのがここである。 」

江戸時代、日本橋を早立ち(四時〜六時)すると、昼飯時は川崎あたりである。 
また、江戸に入る者も寄らずに江戸に向かってしまうので、品川宿に宿泊する客は少なかったので、 宿場として成り立たないように思われるのだが、天保十四年に編纂された東海道宿村大概帳には、 「 宿内家数は千五百六十一軒、人口は六千八百九十人、本陣が一軒、脇本陣二軒、そして旅篭が九十三軒 」とあり、殷賑を極めた。 

「  繁栄のもとは、宿場の旅籠に置かれた飯盛り女の存在。 
特に、歩行新宿は、茶屋から発展したこともあり、凄かったようである。 
江戸には、吉原などの幕府公認の遊郭があったが、 各街道の旅籠に置かれた飯盛り女の存在を黙認していたので、 江戸から大山詣でや伊勢参拝の友を送りにきたなどの名目で、 ここに来て遊ぶものが多かったようである。 
その後も、昭和の売春禁止法施行時まで続いていた、という。 」

東禅寺山門
x 品川駅創業記念碑 x 問答河岸跡の碑 x 土蔵相模跡
東禅寺山門
品川駅創業碑
問答河岸跡の碑
土蔵相模跡


右側の小路角に、大横町という標板があった。 
道の反対側の店のシャーターに御殿山の桜が描かれていた。
その先この小路を進むと、国道の先に御殿山がある。 

「 御殿山の地名は、家康の御殿が建てられたことから名付けられた。  その後、八代将軍徳川吉宗により、桜が植えられ、飛鳥山などと共に江戸の花見の名所になったが、 現在は国道建設などで見る影もない姿に変ってしまっている。 」

道の右側の善福寺の山門をくぐると、本堂があった。
今にも朽ち果てそうな本堂を見ると、江戸時代には門前町もあったという寺と想像できないが、 本堂正面上部に描かれている龍は、幕末から明治初期に活躍した名左官・伊豆長八による 漆喰壁に施された鏝絵であることを考えると、納得できた。 
色彩は褪せていてもみごとな鏝絵だが 、 このまま朽ちていくと思うと残念な気がする。 

道の反対側に、北品川本通り商店会の建物がある。 
江戸時代にはこのあたりに脇本陣があったのだが、場所は確認できなかった。 
この先の四差路を左折し、海側に向かうと、左側の交番の先に 利田(かがた)神社の社が見える。 
車道を横断して利田神社に到着。

「  利田神社は、沢庵和尚が寛永三年(1626)に旧目黒川の河口の洲崎に弁才天を祀ったことに始まる、 と伝えられる神社で、洲崎弁天ともいわれ、浮世絵師安藤広重の名所江戸百景にも描かれている。 
  明治の神社統合により、社名が利田神社となり、祭神も弁才天から市杆島姫命にかわった。 
寛政十年(1798)五月一日、品川沖に迷い込んだ大鯨を捕らえたという噂が江戸中に拡がり、 将軍家斉までが上覧するほどの騒ぎになったという。 」

この鯨の骨を埋めたのが「鯨塚」で、富士山のような形をした自然石の碑が建っていた。
当時の俳人、谷素外が鯨捕獲の経過と自らが詠んだ句が篆書で書かれ、刻まれている。
      「   江戸に鳴る   冥加やたかし   なつ鯨   」   

御殿山の桜
x 善福寺 x 利田神社 x 鯨塚
御殿山の桜
善福寺
利田神社
鯨塚


街道に戻り、今度は品川神社へ寄り道する。 
北品川商店街を川崎に向って歩き、国道367号と交差する交差点手前の交差点で右折する。
その先の第一京浜国道を渡ると、品川神社の石鳥居があった。 
鳥居は堀田正盛が慶安元年(1648)に寄進したもので、昇り竜が彫刻されている。

「 品川神社は、後鳥羽天皇の御世の文治三年(1187)、 源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、 安房国の洲崎明神の天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して創建した神社で、 鎌倉時代から品川の鎮守として知られた由緒ある神社である。 
江戸時代には、北品川宿の守り神(産土社)とされ、品川大明神と称したが、 明治時代に入り、品川神社と名を改めた。  」

鳥居の左側に大黒天が祀られているが、東海七福神の一つである。 
鳥居は二つあり、右側の鳥居をくぐった先の坂は緩やかな坂で女坂と呼ばれ、 左側の鳥居は急な石段である。 

石段を上って行くと、途中の左側に鳥居があるが、これは冨士講のものである。
ここから何合目と表示があり、頂上を富士山と見立てている。 
冨士講の道を上って行くと、冨士浅間神社の社殿があり、江戸時代にはここから冨士山が拝めた。
品川神社の社殿はその先にあった。
境内には網袋をかぶせた備前焼狛犬と子連れの狛犬が祀られていた。 

神社の裏に、明治時代自由民権運動に活躍した板垣退助の墓があった。

「 右の石灯籠の隣が板垣退助、奥は夫人の墓である。
ここには、久留米二十一万石の四代藩主・有馬頼元が開基で、 京都の大徳寺法主を退いた越前浅井氏の子孫を招いて開祖とした高源院があった。
明治二十一年、無住となり、高源院は、昭和十一年に世田谷区烏山寺町に移転している。 」

墓の奥の大きな自然石に、 「 板垣死すとも、自由は死せず 」 と、刻まれた石碑があるが、
「自由民主党総裁 佐藤栄作 書」 とあるので、昭和四十年代に建立されたものだろう。

品川神社石鳥居
x 品川神社 x 板垣退助夫婦の墓 x 自由民権の碑
品川神社石鳥居
品川神社社殿
板垣退助夫婦の墓
自由民権の碑


品川神社に戻り、石段を下りたところで右折し、第一京浜国道を少し歩く。 
道の左側に、京急新馬場駅が見えるが、その先の北品川2丁目交差点で、右折して、 沢庵和尚ゆかりの地に寄り道する。 
山手通り(環状6号)を歩いて行くと、左側に「東海禅寺」の石柱が建っている。 

「  東海禅寺(東海寺)は、臨済宗京都紫野大徳寺の末寺で、寛永十四年(1637)、三代将軍家光の命により、 沢庵和尚のために創建された寺である。 
家光が、沢庵和尚を江戸に定住するために 与えた土地で、広さが四万七千六百坪余りもあり、生前は沢庵屋敷になっていたが、 沢庵没後の正保弐年(1645)に東海寺になった。 
幕府の手で、塔頭や山門や本堂など大伽藍が建てられ、寺領五百石が与えられ、 上野寛永寺、芝増上寺と並ぶ大寺だったが、明治維新で、 寺領と将軍家や大名家の支援で維持されてきた寺の財政基盤を失い、またたく間に衰退し、 現在は仏堂、鐘楼と方丈などの建物を残すのみである。 
現在の東海寺は、旧塔頭の玄性院が寺号を引継いだもので、境内も旧玄性院の境内のみである。 」

仏殿は昭和五年(1930)に造られたものである。

東海寺を出て、左折し、右に小中学校を見て、カーブを下る。
JRのガードをくぐったところで、線路沿いに右折し、二百メートル程行くと、東海寺大山墓地がある。

「 江戸時代には、品川神社の南方一帯が全て東海寺の敷地で、 東海寺からこの墓地へ直接の地続きだった。
しかし、大山墓地は、東海道線と山手線との分岐点の三角状にかろうじて残っている、という状態である。 」

墓地の入口の細い道を上って行くと、自然石を重ねただけの質素な沢庵和尚の墓がある。
鉄道線路に沿って品川駅方面に歩くと、鳥居があり、 その先に江戸時代の著名な国学者、加茂真淵の墓がある。

山手通りを戻り、北品川二丁目交差点の先で新馬場駅の高架をくぐると、品川図書館がある。
その手前の右側の路地を入ると、稼穡(かしょく)稲荷社がある。 
ご神木のイチョウは、幹周り4.1m、高さ23mの巨木で、五百年〜六百年の樹齢である。 
目黒川沿いに歩いて行くと、樹木が茂るところに出る。 
ぐるーと周り、正面に出ると、荏原神社の石柱と鳥居があり、その奥に社殿がある。

「 ここは北品川二丁目だが、荏原神社は南品川宿の鎮守(産土社)なのである。 
神社は、大正以前には目黒川の南にあったのだが、昭和の目黒川河川改修により、 南品川の鎮守である荏原神社が、川の北側になってしまった、という訳である。 」

東海寺仏殿
x 沢庵和尚の墓 x 加茂真淵の墓 x 
荏原神社
東海寺仏殿
沢庵和尚の墓
加茂真淵の墓
荏原神社


神社から街道に出て右折し少し行くと、街道は国道357号線(環六)と交差する。 
このあたりは、北品川商店街というか、江戸時代の北品川宿の南端である。
交差点を左折して、東品川方面に向うと、左側に聖蹟公園がある。
江戸時代の本陣跡なのだが、明治元年(1868)、明治天皇が行幸の際休憩されたことから、 公園の名前になった。 

「  本陣と脇本陣は北品川と南品川に一軒づつあったが、南の本陣はかなり早い時期に経営不振で無くなり、 その後はここだけになった。 
江戸時代の絵図には、本陣の斜め前方に問屋場が置かれ、 また、目黒川の手前の右側には高札場があったように描かれているが、それらがどの場所か、確認できなかった。 
脇本陣は歩行新宿の善福寺付近と、この先、目黒川を越えた左側に百足屋があったが、 これらも残っていない。 」

公園を出て、海側に向う。 
交差点を越え、右側二つ目の細道を入り、百メートル程歩くと「寄木神社」という小さな社があった。

「 日本武尊と弟橘媛(おとたちばなひめ)の乗っていた船がこの沖で難破した時、 その船材と媛(ひめ)の持物の一部がここに流れ着いたので、 弟橘媛を祀って建てたのが創め、と伝わえられる神社である。 」

本殿正面奥の二枚扉の内面にある絵は、幕末から明治にかけて活躍した左官の名工、 伊豆の長八(本名入江長八)の手による天孫降臨をテーマにした漆喰こて絵で、 向って左扉の上方に天照大神、下方に天鈿女命を描いている。 
なお、右扉は猿田彦命である。  境内が薄暗く、内部には入れないので、ガラス戸越しに見たわけだが、 乱反射して、良く見えなかったのは残念だった。 
正徳元年(1711)に海難防止に出された添浦高札も保存されている。 」

街道に戻り、目黒川に架かる品川橋に到着。 
江戸時代には、板橋が架けられていて、南品川宿との境だった。 
品川橋を渡ると、南品川商店街の街路灯が連なり、品川宿の文字も見える。 

東海道名所図会には、 「 品川の駅は東都の喉口(のどぐち)にして、常に賑わしく、 旅舎軒端をつらね、酒旗(さかや)、肉肆(さかなや)、海荘(はまざしき)をしつらえ、客を止め、 賓を迎えて、糸竹(しちく)の音、今様の歌、艶(なまめか)しく、渚には漁家多く、肴わかつ声々、 沖にはあごと唱うる海士の呼び声おとずれて、風景足らずということなし。  ここは東海道五十三次の館駅の首たるところなるべし。 」 と、ある。 
しかし、東京大空襲では、十万人の罹災者を出した品川にそうした風情を求めるのは酷であろう。 

南品川郵便局の先にある信号交差点を左折し、京急のガードをくぐったところの右側に 丸橋忠弥の墓があるという、妙蓮寺の山門を見つけた。 

「  丸橋忠弥は、慶安事件と呼ばれる由井正雪が幕府転覆を図ったという事件の片棒を担いた人物で、 河竹黙阿弥の歌舞伎慶安太平記には、長宗我部盛親の側室の子として登場するが、出自ははっきりしない。 
鈴ヶ森刑場で処刑された丸橋忠弥の首が、妙蓮寺の門前に転がっていたので、 憐れんで供養塔を建てたという話が残る。 」」

山門を入ると、コンクリートのモダンな本堂があり、 区が建てた案内板には、寺所有の古文書の説明はあったが、 丸橋忠弥に関するものは一切なく、墓地らしいものもなかったので、探すのをやめ、山門を出た。 

寺を出て右折し、南品川四丁目の交差点で、第一京浜国道を越えると、 入口左側に、「時宗海蔵寺」の石柱、反対側には「江戸時代無縁塚首塚、関東大震災横死供養塔」と書かれた石碑が建っている。
この寺は海蔵寺である。

「  品川宿で亡くなった娼妓の死体が投げ入れられたので、「投込寺」とも呼ばれたようである。 
品川溜牢(牢屋)で亡くなった人の遺骨を集めて、宝永五年(1708)に築かれた塚に、 天保の大飢饉の死者塚、品川宿娼妓の大位牌や鈴が森刑場処刑者の首が葬られ、首塚と名付けられた。 
明治以降も関東大震災などで亡くなった無縁者を葬ってきた。 」

しばり地蔵の願行寺や心海寺を横目に見て、街道に戻ると右側に常行寺がある。
江戸時代にはその手前の左側に南品川宿の問屋があったようだが、確認できなかった。 
その先の右側にあるのが長徳寺で、江戸時代には門前に御料所傍示杭が建っていたといい、 ここが南品川宿の境だったようである。

「  江戸時代には、その先にある天妙国寺からは品川宿門前町だった。 
天妙国寺には江戸初期の剣客で、一刀流の開祖・伊藤一刀斎の墓がある。 」

このあたりから青物横丁商店街。 
右手に諏方(諏訪)神社があるのを見ながら歩くと、信号交差点に出る。 
東海道は直進であるが、右折すると京浜急行青物横丁駅なので、今回の旅はここで終える。 

聖蹟公園
x 寄木神社 x 銀座発祥之地の碑 x 長徳寺
聖蹟公園
寄木神社
海蔵寺
長徳寺



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かうんたぁ。