◎ 那須温泉神社
温泉神社は、源平合戦屋島の戦で、扇の的を射ぬいた、那須与一宗隆が崇敬した神社である。
「 那須温泉神社は、第三十四代 舒明天皇の御代(630年)、
狩野三郎行広が、矢傷の白鹿を追って、山中に迷い込み、
谷に湧く温泉を発見し、神社を創建、温泉の神を祀り、崇敬の誠を尽くした。
奈良時代の正倉院文書・ 延喜式神名帳記載(927)によると、温泉名を冠する神社は十社を数える。
上代より当社の霊験は国内に名高く、聖武天皇の天平十年(738)には、
都より貴人が那須に湯治に下ったことが記されている。
神位が次第に高まり、貞観十一年(864)には、従四位勲五等が贈られている。
文治元年(1185)、那須与一宗隆は、源平合戦屋島の戦に、温泉神社を祈願し、
見事扇の的を射、名声を轟かせ、その後、那須一門を挙げて厚く崇敬した。
那須与一が那須郡の総領となるや、領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、
貞享三年(1686)には正一位に叙せられた。
現在、那須郡内に、約八十社の温泉神社があり、
この地方のどれだけの信仰を集めていたかが推察される。 」
那須温泉バス停で降り、北に進み、大鳥居をくぐると右側にあるのは、見立神社である。
温泉を発見した狩野三郎行広が那須温泉の開発の祖として、祭神として祀られている。
その先の左手にあるのは、松尾芭蕉の句碑である。
「 湯をむすぶ 誓も同じ石清水 」
「 元禄二年(1689)、俳人・松尾芭蕉は奥の細道をたどる途中、
温泉神社に参詣、那須与一奉納の鏑矢等宝物の拝観、
殺生石見物等を行ったことが曽良日記に載せられている。
那須温泉神社には、京都の石清水八幡宮が合祀されているので、
参詣し、社殿の湯を手ですくうと、両神社にお参りしたことになる。
これは湯が結ぶ縁である、という意。
句碑の書は、徳川氏の 奥八城太郎弘賢 とある。
書は、将軍のそばに仕える、奥右筆の屋代弘賢と思われる。
」
温泉神社の本殿は、慶長十二年(1607)、那須資晴の建立である。
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◎ 殺生石
本殿の右横下は谷間になっていて、九尾の狐伝説で知られる殺生石は一番奥にある。
「 昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が、
今から八百年程前に日本に渡来し、玉藻前 と名乗り、宮廷に仕え、
鳥羽上皇の寵愛を受け、日本を滅ぼそうとしていた。
陰陽師・阿部泰成により、正体を見破られると、九尾の狐は那須の原に逃れてきた。
ここでも悪さをくりかえしたので、
朝廷は、 三浦介と上総介 の両名に命じて、遂に九尾の狐を退治した。
すると、九尾の狐の姿は毒石となり、毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けた。
これを伝え聞いた泉渓寺の源翁和尚が、毒石に向って大乗教をあげ続けると、
一筋の白煙とともに、 玉藻前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り
、一つがここに残った。
それ以来、人々はこの石を殺生石(せっしょうせき)と呼ぶようになり、
今に伝えられる。 」
殺生石は、 「殺生石」 の石碑奥に、 注連縄に囲まれた岩である。
この付近一帯は、硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山ガスがたえず噴出しており、
「 鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石 」 として、古くから知られていた。
この上にある茶臼岳の噴火と連動していると思われるが、
ガスの排出量が多い場合は立ち入りが規制される。
「 松尾芭蕉も、元禄二年(1689)に訪れていて、
「おくのほそ道」 にその様子が記されている。
「 殺生石は温泉の出づゆ山陰にあり、石の毒気いまだ滅びず。
蜂、蝶のたぐひ真砂の色見えぬほど重なり死す。 」 とあるので、
当時は相当の火山性ガスが発生していたように思われる。 」
松尾芭蕉は、 「 石の香や 夏草赤く 露暑つし 」 と詠んでいる。
( 石は硫黄の香りがして、緑したたるはずの夏草が赤く枯れ、涼しい筈の露は熱く沸騰している。 )
途中に、「教伝地獄」 の石碑があり、教伝地蔵と千本地蔵が祀られている。
言い伝え
「 第九十六代・後醍醐天皇(1318年)の頃、
奥州白川在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり、 教傅(伝)という住職がいた。
教傅は、生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとして、
この寺に預かってもらいました。
教傅は二十八歳になり、前住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになったが、
行いは少しも直りませんでした。 亨元元年(1336年)のことである。
教傅は二三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになり、その日のことである。
教傅は、母が朝食を用意し進めると、まだ旅路支度も出来ていないのかと、悪口を言いながら、
腹をけとばし、そのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傅達は、ある日、殺生石を見学しようと賽の河原付近まで行くと、
今まで晴れわたっていた空が俄かにかきくもり、
雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出したので、
連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、
教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。
友人達がふり向いて見ると、 教傅は
「 おれは寺を出るとき、母の用意したお膳を足げりにして来た天罰を受け、
火の海の地獄に堕ちて行く 」 と大声をあげて、苦しみもがいている。
友人がかけ寄り、助けようと引き出したが、教傅の腰から下が炭のように焼けただれていて、
息を引き取ってしまった。
それからも、教傅の引き込まれたところには、泥流がブツブツと沸いていたが、
いつしか山津波に埋まってしまった。
享保五年、那須湯元の有志が、教傅地蔵を建立して供養を行い、
親不孝のいましめとして参拝する者が後を断たなかった、ということである。 」
「湯の花場」 という看板があり、湯の花縁起には
「 この一帯は殺生石賽の河原と呼ばれ、地温は地表下で八十度〜九十度、
地下三十メートルは百度以上となり、烈しい噴気が上がっていた。
この地表からの噴気を活用し、湯畑を作り、昇華させたのが湯の花である。
約百日で結晶体の湯の花が出来る。 昭和十八年までは採集されていたが、
今は参考として一部行われている。 」 とあった。
少し離れたところにある、 盲蛇石 の前には、助けた蛇から湯の花の採取法を教えられたとある。
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那須温泉神社前駐車場または殺生石駐車場から徒歩5分。
所在地:栃木県那須郡那須町湯本182
JR黒磯駅から那須湯本行きのバスで35分