唐沢山城は、むかで退治の伝説や天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の創建といわれ、
その跡地にその子孫を称する佐野氏により、築城された山城である。
続日本100名城の第114番に選定されている。
足利から、一般道で、唐沢山城に向う。
「 唐沢山城は、別名は栃本城・根古屋城・牛ヶ城という戦国時代の山城である。
佐野市の北約五キロメートルの標高二百四十七メートルの唐沢山全体を城として、
往時の広さは五百五十町歩といわれ、周囲を急崖で囲まれ、関東平野を一望し、
遠く北より日光連山、 西に群馬連山・秩父・南アルプス・霊峰富士、
東に筑波の山が遠望できる、まさに自然の要塞であった。
平安時代、従五位下、下野国押領使として下向した藤原秀郷が、天慶三年(940)、
平将門が起した天慶の乱を鎮圧し、その功により従四位、武蔵下野国鎮守府将軍を拝領し、
天慶五年(942)に唐沢山城を築城したといわれる。
その後、七百年の変遷があったが、秀郷の子孫・佐野氏の代々の居城として、
城の修築を行われ、関東の七名城の一つに数えられた。
現在は栃木県立自然公園の一部となっている。 」
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歩行の場合は田沼駅から約一時間かかるが、
今回の訪問は車なので、麓にある唐沢山神社の鳥居から車道で上がっていくと、
左側に縦に細長い駐車場があり、「国指定史跡 唐沢山城跡」 の石碑が建っていた。
駐車場入口の反対側(北西)に、飛び出したようにあるのは、 土矢蔵 と呼ばれるところである。
山頂の西端にあたり、周囲に本丸よりも古い石垣等が残るが、かっては櫓があったとされる。
駐車場を南に向うと、公衆トイレとレストハウスがあり、
レストハウスに、城に関する資料が置かれていた。
レストハウス周辺は蔵屋敷と呼ばれ、旧来は南向ってなだらかに傾斜していたようである。
駐車場の端には、左右がちぐはぐになった石垣があり、「くい違い虎口」 の説明板がある。
説明板 「くい違い虎口」
「 くい違枡形 とする記録もあり、
北の避来矢山、南の天狗岩の間にある防備を固めた出入口で、
土塁をくい違いにして、直線的に進入できないようにするなどの工夫がされている。 」
そこを過ぎると、東側は枡形で、 西側の小高い岩山の下には 「天狗岩」 の標示板がある。
「 天狗岩は、大険山と例えられる岩山で、
山頂から南方や東方への視界は良好で、眺望の良さを活かし、
周囲を見張る役割を果たしたと考えられる。
かっては物見櫓があったとも、大筒が掛けられていたともされる。 」
枡形を過ぎると、右側に唐沢山荘がある。
ここには 「武者詰と大井の間の虎口」 の説明板が建っている。
説明板 「武者詰と大井の間の虎口」
「 かっては武者詰があったとされる枡形の奥側に築かれた虎口(出入口)で、
この内側には城内の重要な水源である大井が位置する他、
さらに東方の本丸方向まで続く大手道への通行を遮断していた。 」
その先の右側の石段の上は西城で、 天徳寺丸 ともいい、 現在は、涼しい音色が楽しめる水琴窟があるが、南方には堀切等が続く。
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左側の一段下がったところに、大炊井がある。
「 避来矢山と西城の間にある口径九メートル、深さ八メートル以上の大きな井戸である。
築城の際に厳島大明神に祈願したとされ、山上では水の確保は重要だが、
今も涸れることなく豊かな水を蓄えている。 」
その先には空堀があり、石の橋が架かっている。
「 空堀は、西城方面と帯曲輪以東を分断する、四つ目掘と呼ばれた大きな堀切で、
古地図では、堀口五間、深さ二メートルとある。
現在は神橋が架かっているが、当時は曳橋で、敵が攻めてきたら、
橋を引き上げ、通行を遮断することが出来た。 」
神橋の左手の四つ目掘の上(西方)に、帯曲輪がある。
「 古地図や古記録では三の丸を含めて帯曲輪としているが、
現在は、細長い平坦地を指している。
高く急な切岸と土塁を有しているが、
四つ目掘を隔てた本丸側における最前線の防御施設だったと考えられている。 」
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参道の石段を上った先に、「大手道」 の説明板がある。
「 くり違い虎口(出入口)から続く神社の参道が、
かっての大手道にあたると考える。
この道筋は、右手前下の三つ目掘(堀切)を過ぎて、
奥右下の二つ目掘(堀切)の直前で、
左手に鋭角に折れて、急な坂道となり、二の丸に至る。 」
その先の左側のすこしへこんだ場所に、「桜の馬場」 の標示板が建っている。
案内板にある右側の二つ目掘(堀切)の左手は堀切になっていて、
大手道はこのあたりから鋭角に左折し、二の丸に向うようになっていた。
今は道が無くなっているので、道を直進する。
道を上りきると車道に出っる。
正面に南城、左に行くと二の丸に至る。
石段を上ると 「唐沢山神社 」の由来を示す説明板がある。
説明板「唐沢山神社」
「 唐沢城は、江戸時代中期に山城禁止令で廃城になった。
藤原秀郷は、むかで退治の伝説や天慶の乱の鎮定し、唐沢山城を築いた。
唐沢山一帯は、佐野家が改易後、彦根藩の御林山になり、
江戸時代を通じて厳しく管理されていたが、
明治になると新政府の管理下におかれた。
佐野家は、幕末には三千五百石の旗本として存続していたが、
明治の初めに旧臣とともに故郷に帰った。
佐野家を中心に神社創建の動きが出て、
広大な官有林の払い下げを得て、明治十六年に神社の創建が実現した。
明治十六年に誕生した唐沢山神社は、藤原秀郷を祭神とする神社で、
本丸跡に建てられた。 」
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案内板の奥に見える石段の上にあったのが南城である。
石段を上がった先に、現在は唐沢山社務所がある。 ここが南城跡である。
「 南城は、蔵屋敷、武家詰等ともいわれた曲輪で、 天候に恵まれたときには富士山や東京スカイツリーも望める眺望が良い場所に築かれ、 周囲は石垣が築かれ、南東の石垣の下には、一つ目掘(堀切)がある。 」
社務所の奥には 「京路戸峠」 への道標がある。
「 この道はその先の車井戸を経由し、
長門丸に出て、金の丸・杉曲輪・北城、
二重の堀切と進む首都圏自然歩道 松風の道 である。
また、社務所の左手にある車道は、 三の丸を経由して、
本丸の北方の引局(武者詰)、長門丸で、
Uターンして左に進み、先程の駐車場入口に出るが、
この車道は関係者しか使用できない。
また、正面の高い石段は、 唐沢山神社の本殿にお参りするために造られたものである。 」
石段を上ると鳥居があり、その先の左側に「南局跡」の説明板がある。
説明板 「南局跡」
「 古地図によっては二の丸と記されている場所で、かっては奥女中の詰所であったという。 」
石段を上り、唐沢山神社の神門をくぐると、拝殿と本殿がある。
ここが本丸跡で、大手となる道は西側で、搦手口は北東にあった。
「 秀郷の築城から七百年の間にはいろいろなこともあった。
室町時代に入ると、藤原秀郷の末裔と称し、佐野氏を名乗った佐野盛綱が、
延徳三年(1491)、城の修築を行う。
このあたりは、関東に侵攻を企てる上杉氏と、北条氏との戦いの最前線で、
北条氏の配下になった佐野氏は、大平山に陣を構えた上杉謙信に攻められたが、
この城で耐えた。
しかし、永禄七年(1564)の戦いで降伏し、城は謙信の管理下に置かれた。
謙信の死後の永禄十年(1567)からは、北条氏の攻撃を受けたので、
佐野氏は、北条氏康の六男・氏忠を養子に迎え、北条氏の支配下に組み込まれた。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐で、
佐野昌綱の弟・天徳寺了伯が、豊臣方に付き、城内の北条勢を一掃し、
名を佐野房綱と改めて城主となり、城を大改修した。 」
現在見られる城の遺構はそのときのものである。
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本丸は南局を含め、逆三角形のような形をしていて、周囲は石塁のようなもので囲まれている。
本丸南西の高石垣は、約四十メートル延び、南局下の西側に伸びている。
「 高さ八メートルを超える高石垣は、小田原合戦以降、
佐野氏が、豊臣氏と深い関係にあったため、
西日本を中心とする技術の導入によって築かれたものとされる。
土塁中心の城の多い関東では珍しい。 」
本丸を下ると二の丸で、 追手出丸 と記述する古地図もある。
周囲には石塁のような石垣が巡り、奥御殿直番の詰所があったとされる。
二の丸の北東隅にあったのは、
三の丸や引局や長門丸から二の丸へ入る虎口(出入口) である。
「 長門丸は、弓削長門が直番したとされるが、お花畑ともいい、
引局(武者詰)の建物があった。
南を除き土塁が巡り、東側に堀切が認められる。 」
その先の金の丸は平城ともいい、お宝蔵 があったとされ、土塁等が残っている。
その先の杉曲輪には、 唐沢青年自然の家が建っていたが、
今は整地され、北側に一部土塁が残っている。
虎口の脇に、 「二の丸から見上げた本丸」という説明板がある。
説明板「二の丸から見上げた本丸」
「 右手の虎口(出入口)から二の丸に入ると、頭上には本丸の櫓と城門が聳える。
二の丸から本丸に上がる通路は、かっては、鉤の手に折れていた様子が絵図に残る。
また、本丸の虎口には見る者を圧倒する鏡石が据えられている。 」
虎口を出て、三の丸に下る。 現在は帯曲輪と二の丸の間を 三の丸 としている。
「 唐沢山城では大きな曲輪で、賓客の応接間があったとされる。
周囲は高く急な切岸が巡るが、部分的な石垣等が複数箇所で認められる。 」
以上で唐沢山城の探索は終了。
帯曲輪、大炊の井を経由して駐車場に戻った。
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唐沢山城へは東武佐野線田沼駅からタクシーで約20分、佐野駅からタクシーで30分
訪問日 平成三十年(2018)九月七日