足利学校は。鑁阿寺の南方にあり、その遺跡は大正十年に国の史跡に指定されている。
「 足利学校の創建については、
奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあるが、
歴史が明らかになるのは、室町時代の永享十一年(1439)、
関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が国宝に指定されている書籍を寄進し、
鎌倉円覚寺から僧の快元(かいげん)を招いて庠主(学長)として、
学校を再興したころからである。
鎌倉建長寺住持の玉隠永輿は、長享元年(1487)の詩文で、
「 足利の学校には諸国から学徒が集まり、学問に励み、それに感化されて、
野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、
足利はまことに風雅の一都会である。 」 と讃美している。
また、天文十八年(1549)には、宣教師のフランシスコ ザビエルにより、
「 日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学 」 と世界に紹介され、
「学徒三千」といわれるほどになった。
江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治五年に幕をおろした。 」
入口にある入徳門の額は天保十一年(1840)に掲げられたもので、
現在の門は裏門を移築したようである。
その先の左側に孔子像と稲荷社があり、
正面に 「学校」 と書かれた扁額がある門は寛文八年(1668)の創建である。
「 学校という言葉は儒教の教科書の一つである孟子の中にある言葉で、 扁額の 「学校」 は明の書家、将竜渓の書を江戸国史館助教授の狛高康が縮小したものという。 」
門をくぐると右手に南庭園があり、その左奥隅に字降松がある。 読めない字や意味の解らない言葉を紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、 翌日にはふりがなや注釈がついていたことから、 「かなふり松」 と呼ばれるようになったと伝えられる。
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正面の門は杏壇門で、寛文八年(1668)の創建である。
「 明治二十五年(1892)の足利の大火の飛び火により屋根門扉が焼け、
明治三十年代に再建されたものである。
なお、杏壇とは孔子が弟子達を教えたところに、 杏の木が植えられていたことに由来する。 」
杏壇門を入ると左手にあるのは、 不断梅である。
実が熟さないため、青い実が黒くなり冬まで枝に残っている。
「 常に実が断えないことから、その呼び名がある。 」
その奥にあるのは、 孔子廟(聖廟)である。
「 寛文八年(1668)、徳川幕府四代将軍・家綱の時に造営されたもので、 中国明時代の聖廟を模したものと伝えられる。 」
孔子廟の右手に並んで建っている建物は、方丈と庫裏・書院である。
「 方丈は、学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として、
使用されていたところである。
その北側には北庭園がある。
庫裏は台所で、食事など日常生活が行われてきたところである。
その奥にある書院は、庠主(学長)の書斎、庠主の接客や学生に個人授業が行われたところである。 」
方丈と庫裏、書院は平成二年(1990)に復元されたものである。
足利学校の右半分はその時整備されたもので、北庭園と南庭園の他、
裏門、衆寮(学生が勉強したり、
生活をしたところ)、木小屋、土蔵も復元された。
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訪問日 平成三十年(2018)九月七日